沼を知る金魚
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 小さな子供がボールを抱くように、少女は丸いガラスの金魚鉢を膝に抱えて居間の窓辺に座っていた。

 水の底、無心にたゆたう赤い金魚をぼんやり眺めていると、ぽろりと涙の粒が落っこちて、さざ波のように水を震わす。

 赤い金魚がぷかりと浮かんで、くりくりとした眼で少女を見上げる。

 何を泣いているの、と問いかけているように、少女には思えた。

「何もかもが哀しいの」

 胸の中にあるもやもやとしたわだかまりを、少女は拙い言葉で金魚に伝えた。たぶん誰にもわかってもらえない。お父さんにもお母さんにも先生にもわかってもらえない。

 でも金魚になら話していい気がした。

 だって金魚だもの。何も出来ない小さな金魚だもの。わかってもらえても、もらえなくても、何もしてもらえなくても、哀しくない。ただ聞いて欲しいだけ。

 これは焦燥というのだろうか。学校の友達の誰の顔を見ても、幸せそうに見える。屈託なく、未来の輝きを信じて、笑っているように見える。

 自分だって頑張って笑っているのだと、少女は悲しい気持ちで思う。同じように笑おうとしているのだけれど、心の中はもやもやと、やり場の無い哀しみと焦りと……自分だけが皆のいる明るい場所にたどり着けないという孤独感で一杯なのだ。

 先生の言葉も両親の言葉も、少女を悩ませる。未来のことを言われるけど、大人になった自分を上手く想像できない。言いたいことは沢山あるけれど、どう言えばいいのかわからない。ただ膨らんでいく、鬱々とした哀しい気持ち。

 友達はあんなに、楽しんでいるのに。真っ直ぐに、明るい道の上を歩いているのに。自分ばっかり……。

 少女がひとしきり呟くと、金魚は白と黄色の混じった尾鰭をふわりと揺らし、鉢の底に沈んだ。

 

 その夜、少女は夢を見た。

 ベッドで寝ている少女の上に、闇を掻くように鰭を動かし丸い体を揺らしながら、金魚が泳ぎ出てきた。

 私は昔、沼に棲んでいました、と。ささやくようなかすれ声が聞こえた。

――その沼は森の奥の茂みの中に、小さくひっそりとありました。

 枕に頭を載せたまま、少女はぼんやりと口を開ける。

「あなたは縁日で買ってきた金魚でしょう?」

 問いかけに、かすれ声が返事をくれる。

――縁日の金魚になる前には私は、沼に棲む別の生き物だったのです。その小さな沼の中で、私は苦しみもがきながら、鬱々とすごしていました。まるであなたのように……。けれどある日、清らかな気持ちで沼を出ることが出来たのです。

「一体どうして? 足で歩いて出てきたの?」

 ぷかりと、金魚は口から泡を吹き出した。

――あなたも沼に行ってみたら解ります。沼へ行き、その淀んだ水面に手を浸して御覧なさい。かつての私がそうであったように、あなたは今と違うあなたに生まれ代わることができます。沼は不思議な水で出来ているのです。

 少女は首を傾げた。

 小さな金魚。縁日で買ってきた赤い金魚。なんて不思議な夢。

 少女が体を起こすと、金魚はひらりと体を返す。その尾鰭は優雅な動きで誘っていた。

 今からその沼へ行くのだ。少女はきゅっと、パジャマの胸元を握った。

 心の中にあるわだかまり。もやもやとした、哀しみ。それが全部なくなって、皆のように明るい場所で笑うことができるのならば……。

 少女は金魚の尾鰭について歩き出した。

 暗い部屋の真っ黒い壁の中に、金魚の体が吸い込まれる。そっと伸ばす少女の手も、ぷくりと、黒い壁を通り抜けた。

 少女は暗い森にやってきた。

 風が頬にゆるく当たり、木々がざわめく。黒い空には小さな星が転々と瞬いていた。

 裸足が土を踏む感触。木の根の棘が足の裏を、ちくりちくりと虐める。

 その痛みはとても、夢とは思えない。けれど、目の前を小さな金魚が泳いでいるのだから……水の中でなく夜の森の中を泳いでいるのだから、夢でないはずはない。そう、少女は思う。

 茂みの中に沼があった。

 あれが沼だよと金魚の眼が教えてくれなかったら気がつかないような、闇と同じ色の小さな沼だった。

 金魚ははらりと舞い、姿を消す。

 少女は沼の前に跪いた。

 指先に触れた沼は、温かった。淀んだそれは、どろりとしていた。

 何かがひたりと、少女の指の中に這ってきた。

 少女の薄いピンク色の爪と、皮膚の間に滑り込むように、温いそれが這い上がってくる。

 少女は這い上がるそれが腕に、肩に、そして首筋から心臓に満ちていくのを、感じた。

 身動きが取れない。

 むんずと、何かが少女を掴んだ。少女の体ではなく、体の中にある、形はないけれど大事な少女そのものを掴んだ。

 掴んだまま、その何かは沼に落ちていく。少女の体は岸に置いたまま、少女そのものだけを連れて。

 少女は沼に落ちた。自分の形がなくなって、けれど沼に溶け込むわけでもない。ただ自分そのものが沈んでいくのが、わかった。

 淀んだ沼。どんよりした泥水。

 少女が沼の底に沈みこんで見上げると、少女を沼底に引き込んだ、やはり形のないそれが、水面へと浮かんでいくのが見えた。

 そのままそれは、沼に手を浸している少女の体に入り込み、少女の体を動かして、どこかへ連れて去っていった。

 小さな沼の底で、少女は泣いた。

 ここは暗くて汚くて、陰気だ。

 どうして金魚に付いてきたりしたんだろう。前よりもっと苦しい、もっとしんどい。清らかな心になんてなれない。

 汚れた泥には苦しみが沢山混じっていた。色も形もないけれど、少女は沢山の、苦しみの気配を感じた。

 ここは夢の中だと思ったのに。まるで夢ではないみたいに、いつまでもいつまでも覚めない。

 自分の苦しみと、泥に混じった苦しみに苛まれながら、少女は沢山の時間を過ごした。

 終わりの無い苦しみの中で思い出すのは、友達の笑顔。屈託のない、あの輝かしい笑顔。あんな風になりたかったのに……。

 長い時間を泣き続け、泣くこともできない程に疲れた頃。少女はぼんやりと思った。

 ああ、だけど。どうしてこんなに沢山の苦しみが、ここに溜まっているんだろう。

 少女は水面を見上げた。

 もしかしたら、だけど。この泥の中の苦しみは、自分と同じように泥の中に落ちた生き物達の残していった苦しみではないだろうか。

 もしかしたら、だけど。自分以外にもこんなに沢山、苦しみを抱いて泥に沈んだ者がいるならば。世界中の人も、笑ってすごしているようでいて、自分と同じように苦しんだり焦燥したり、してるんじゃないだろうか。

 自分は友達に合わせて笑っていたけれど、実は友達も、こちらに合わせて笑っていたんじゃないだろうか。

 沢山の苦しみに溺れる中で、少女はそんなことを考えた。

 長い時間を経て。時間なんてものもわからないくらい長く長く悩んでいたら。水面から見える月明かりの下に、小さな顔が現れた。

 濁った泥を隔て、少女には影しか見えないはずなのに、その顔が辛そうで苦しそうで、今にも泣きそうなのだと、わかった。

 泥に、小さな足が浸された。

 少女は泥の中でふわりと浮かび、足先にまとわりついた。そしてその、爪と肉の間に這って行った。

 さあ、今度はあなた自身が沼の中に入ればいい。そして自分の苦しみと、それ以外の沢山の苦しみを味わって、今まで知らなかった底の底まで落ちればいい。そうすればいつか、月明かりが希望をくれて、暗い森の出口まで誘い出してくれるから。

 少女はその体の中にある、形はないけれど一番大切なそれ自身を沼の中へと引っ張り落とした。そして、小さな体の中に入り込む。

 ふっと息を吸うと、体の中に空気が入る。久しぶりに息をして、清らかな、良い気分になった。 自分は取り残されてなんかいなかった。苦しみを抱えているのは自分だけじゃなかった。一人じゃ、なかった。ただそれがわかっただけで、鬱々とした気持ちは、泥を洗い流したように清清しい。

 沼の向こう側に人影があった。

 背の高い大人の女性。その面には、かつての少女の名残があった。ふわりと口元に笑みを浮かべ、大人の女性は風にとけるように消える。

 新しい形を持った少女は森から出て、目を瞑る。

 ふうと深く息をして再び目を開けると、そこはベッドの中だった。

 見知らぬ部屋の中。カーテンを開けると、雨戸のきっちりと閉じたガラス戸に、少女の新しい形が映る。

 ベッドの中から呼ぶ声がする。

 少女は振り返って窓際の棚から飛び降りる。そして、にゃあ、と返事をした。

 

おわり

 

説明
金魚に悩みを打ち明けた少女のお話。推敲しなおして再投稿しました。
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