スフィーと聖なる花の都の工房 〜王立アカデミーのはぐれ綴導術士〜<1>【2章-3】
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「うん……」

「左端側を見てるんですの? その辺りは主に<サークル>活動関連中心のクエストですわ。そのお隣が主に学院内で発行された生産系クエストで、上が生徒、下が教職員などからのクエスト。まあ他にもランクによる配置傾向などもありますが。

 ……中央ブロックはランクに寄らない新着情報=B新鮮ですから納期猶予に安心して獲得にゆける利点があって、競争率が高くなりますの。あと右方は大雑把に言うと学院外からの委託クエストですわね。…………というかあなた、よく見えますわね……」

「ほへ〜〜。あ、うん。あたし目はいいんだ。50メートル先の本読めるよっ」

 アリーゼルの「野生児……」という声は、クエストという真新しい情報の奔流に心奪われた彼女には届かなかった。

 言われた通りのことを意識して視線を巡らせてゆくと、たしかにクエストはある一定の法則を持って振り分けられているようだった。

 これだけ膨大な量だと、そういったさまざまな分け方≠把握して、自分の目的に沿った検索の仕方というのも身に着けなければならない。

「クエストランクなども見ておいた方がいいですわ。自分の分を超えたランクを受注しようとしても窓口で却下されます。張り出しの最初に大きく印字されているのがそれですわね。下はF≠ゥら上はSSS≠ワで。わたくしたち入学したての一般生≠ヘ原則として、まだ最下限のF≠ワでしか受けられませんの」

「えっ。なんでそんなにケチなの」

「わたしたちで受けられるお仕事は、ほとんど……なさそうだね」

 疲れたように吐息を漏らして、フィリアルディが双眼鏡をアリーゼルに返却した。

 実際、F≠ニ表記されている張り紙はほとんど存在しないのだった。

 いや、かなりの量があったのだが、それらは中央新着ボードが掲示されるたび、ものの数秒から数分で、あっという間に剥がされていってしまっているのだった。

 最前列にいる新入生たちが、張り出しを見るや先を争うように窓口へ受注駆け込みをしているのだろう。

「ぬぅ〜う。出遅れたのか……!」

「そういう判断は軽率というものですわ。ここにいる新入生全員がランクFクラスを求めてきていると思ったら大間違いです」

「? どゆこと?」

 きょとんとしたスフィールリアを見返すアリーゼルの笑みは、どこか挑戦的だ。

 それはこの場に満ちた聞き取るのも難しい喧騒たちの、裏に秘められた真意に対するものだったかもしれない。

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「それはあくまでここに掲示されたお仕事を窓口で受注する際の規則にすぎないということです。もしも生徒自身にクエストを充分に完遂できるスキルと実績があったのなら、生徒自身のランクがクエストランクとよほど乖離していない限りは、発注者との直接のやり取りで取引を完了できるんですわ。発注者が『任せられる』と判断するならそれまでですしね。……事実、今も飛ぶように剥がされているのはランクFのみ。ほかの掲示には、まだ、ほとんど手がついていませんでしょ?」

「あ……ほんとだ。Eとかはまだ全然残ってるや」

 でしょう? と面白げにアリーゼル。

「ですからまずはここでEランク以上のクエストの概要と発注者を確認して、その足でご本人の下へ提案に向かう。そうすれば、今無理をして窓口で揉みくちゃになるよりも確実にお仕事にかかれるというわけですわ」

<総合クエスト掲示板>に掲示されるクエストには『クエスト掲示期間』と『依頼期間』、二種類の期間情報が記載されることになっている。

 クエスト掲示期間というのは張り出されてから取り下げられるまでの基本期間のこと。

 依頼期間というのは、クエスト依頼者本人が希望する『納期』の始点から終点まで。この始点は、かならず掲示期間スタート日から一定の間隔が空けられることになっている。

 この猶予期間中であれば、すでに窓口が受注希望者を受けつけていても、依頼者は掲示を取り下げることができる。

 つまり重要なのは、現時点での自分の実力の上限をどこまで具体的に把握できているか、ということらしい。

 道具や素材作成依頼を受けるにしても、その発注されたアイテムの名称や正体、それを作成するための素材や手順が分かっているかどうか。材料を手に入れるための流通経路を知っているかどうか。いつまでに用意でき、元手がいくらになる見込みか……。

 それらさえ道筋立てて見通すことができたのならば、受けない理由はないことになる。すぐに取りかかれるのだから、あとは競争だ。

 たとえランクFでも、簡単そうだからと言って無条件に引き受ければ痛い目を見る。達成ができなかった場合は違約金を支払わなければならくなるし、相手の求めるレベルでの仕事ができなければ報酬に関わり、信用も落ちてしまう。

 逆に、『できる』という保障がありさえすれば、相手もランクにはさほどこだわらないのである。多忙であったり自分で都合できない理由があるからこうしてわざわざ手続きをしてまで掲示板に出張ってきているわけで、目的が最優先というのは、大半の依頼者にとっての共通事情なのだった。

「まあそいうことですので、その視点で改めて眺めてみなさったらどうです、おふたりさん?」

 再び双眼鏡を差し出してくる手を、フィリアルディはやんわりと断った。

「ありがとう。でもそういうことなら、わたし、よさそうだなって思ったお仕事の情報はもう覚えたから。あとでお話にいってみようと思う」

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「あら、やりますわね。……それじゃ、あなたは? ずいぶん余裕ですのね」

 ついでという感じで双眼鏡を向けられたスフィールリアだが、こちらも頭に後ろ手をやって辞退の意を示した。

「あー、うん、あたしもいいや。考えてみたらあたししばらくほかの依頼やってる暇なさそう。大口の先約があるの」

 へえ? と意外そうに首を傾げるアリーゼルの表情は、なぜだかうれしそうだった。

「大変けっこう。そうこなくては。なら今日のところは、ここにももう用はございませんわね。耳煩わしいだけのこんな場所からはおさらばいたしまして、明日以降の勉学に備えるべきですわ」

「そうだね。じゃ、アリーゼルも一緒にいこうっ」

「はい?」

「あたしたち学院見物してるんだ。アリーゼルも一緒にいこう?」

「なんでわたくしがあなたなんかと」

「いいじゃーん一緒にいこうよ〜いろいろ教えてよ〜」

「ふぁ……だから肩揉むのやめ……だからなにこれぇ……っ、……! は、離しなさいっ!」

 未知への扉が開きそうになる直前でバシンと猛烈に手を弾いたアリーゼル。

 助けを求めるようにフィリアルディへ目を向け、

「よかったら一緒に、いきませんか?」

 困ったような、それでいて花のようにたおやかな笑顔に、アリーゼルはため息とともにうなづいた。

「……分かりましたわ」

 

「それで。なにを見にゆくんですの」

「じゃあ……<アカデミー・マーケット>は? 前は教材買出ししかしてなかったから、一度しっかり見ておきたくて」

「<アカデミー・マーケット>はまだほとんど休業状態ですわよ? まだ慌しい時期ですからね」

「うん。でもあそこなら大食堂もあるから。休憩にちょうどいいかなって」

 そういうこになって<アカデミー・マーケット>に足を向けようとしたところで、スフィールリアがまったく検討外れな方角を指差して珍妙なことを言い出すので、ふたりは首を傾げた。

「え? おーい、どこいくのー? お店≠ネらこっちだよー?」

「……なに言ってるんですの?」

「そっちは<大図書館>と<聖堂>だったと思うけど」

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 アリーゼルもうなづいた。その方向には店なぞなく、フィリアルディの記憶が正しい。

「え。でもこっちだし。あたしここきて、最初にそこでお買い物したんだよ?」

『……?』

 ふたりは顔を見合わせ、とりあえず、彼女の言う方に向かってみることにした。興味がないこともなかったのだ。

 しかし……。

「ここ、ここ。ここだよ」

「……」

「……」

 なんとも言えない顔をしてその場所を見上げるふたり。

 そこは大図書館と大聖堂の間にある、隙間の空間だった。

 と言っても建物自体が巨大なので、隙間のスケールも五メートル幅くらいはあるのだが……。

 それでもスフィールリアが無邪気に指差す空間は数十メートル高の壁に日光を遮られて薄暗く、雑貨販売よりは、どちらかというと個人同士の裏取引でも行なわれていそうな空気感がありありとしている……。

 当然、販売店と思わしきものは姿形もないのだが。

「……なんですの。お店なんてないでは、ありませんの」

「えー。でも、お買い物したもん」

「あ、あの。あのね、スフィールリア? それは、いつ……?」

「うんっとねぇ、夜だよ。十二時くらいかな? フォルシイラに買い直しいってこいって言われちゃって、でもお店なんて開いてないよねって思ってたんだけど、ここで明かりが見えたから入っていったらお店があったの。静かな感じのおじいちゃんがやってた。助かっちゃった」

 

 そう、それは桜の庭の小屋に入って初日の深夜のこと。

 フォルシイラにもう何度目か分からない買出しを命じられて城下町へ降りたスフィールリアだったが、開いている雑貨店などどこにもなかった。酒場にゆけば少量のミルクは置いていたもののまとまった量の注文はできなかった。

 戻ってきた学院敷地内を途方に暮れながらブラついているところに、この場所からぼんやりと漏れる灯りを見つけたのだった。

 今にして思えばそれは店というよりは屋台車の類だったのかもしれない。

 吊るし紐で吊り下げられたさまざまな乾物。カウンター状になった陳列場にはいかにも<アカデミー>らしく綴導術に用いるらしい見たこともない薬草や宝石にも似た石類が並び、奥の棚には薬品だの正体不明の骨だのが収まっている。

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 ほかにも本やアンティークじみた筆記具、鍋やら布やら、ハサミから包丁まで……思いついたもの詰め込めるだけ詰め込みました! とでも言うような猥雑とした店≠セった。

 そんな店の中央。奇跡のように開いていたその隙間に座布団を置き、あぐらをかいている店主がいるのだった。

「あのぅ……ごめんくださ〜い……」

 かなり齢経た翁だったと思う。トーガ……というよりも、袈裟懸けする作業用エプロンと私服の中間といった印象を受けるゆったりとした布をシャツの上に纏っていた。

 枯れ木のように痩せ細った腕の先に、妙に細長い変わったパイプを持ち、吸うでもなく小さい煙をくゆらせ続けている。

 ……眠っちゃってるかな? と心配し始めたところで眉毛で完全に隠れたまぶたを持ち上げ、店主は「いらっしゃい」と愛想もないが敵意もない声を返してきたのだった。

「今日の目玉は<赫皇竜(レッド・エンペラードラゴン)>の灼紅玉だよ」

「へっ? ああいいえ――そのぅ、あたし今、ミルクを探してて……」

 ミルク? と白犬の尾のような眉で半分が隠れた目を見開き、店主の翁。くぐもった声を出しながら肩を揺らし始めた。笑っているらしい。

「あー……なんかごめんなさい。あるわけないですよね、えへへ」

「あるよ」

「あるのっ?」

「ヤギ? ウシ?」

「あー、そ、それじゃ、ウシ!」

「昨日の朝絞りと、今日の朝絞り」

 黙考。昨日のにしてやろうかと考えかけたが、自分もこっそり飲もうかと思ったので、今日の分を選ぶことにした。

 待ってな。と言って身をひねり店の反対側へと潜っていった店主。次に出てきた時は一抱えのミルク瓶が一緒だった。

「あいよ」

 瓶は、まるで氷の蔵から出してきたばかりみたいにひんやり冷えていた。これなら鮮度の心配はまったくいらないかもしれない。

 お代を差し出すと、また交換で、一枚の見開きタイプのカードを渡された。

「なんです、これ?」

「カード。ポイントカード」

「はぁ」

「買い物一回で赤いスタンプ一個。100アルン(金貨)で青いスタンプ一個」

「んん……?」

「一定ごとに景品。マークついてるところね」

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「おお……!」

 スフィールリアは驚愕した。そんな商売もあるのか。

「わぁー、面白ーい。すごいなぁ、楽しみ。えへへっ」

「……普通に入ってきたね」

「ああ、はいっ。灯りが見えたから」

「ウチ£Tしてたんでなくて」

「? はい。ていうかあたしここきたばっかでなんにも知らないし。どこいってもミルクなくてすごく困ってて。……助かっちゃいましたっ」

 翁はもう一度肩を揺らして、笑ったようだった。

「新入生」

「あっはいそうです。って言っても、一回退学になりかけちゃったけど」

「特監生」

「そうそう、それですっ」

 そしてスフィールリアは無事にミルクを手に入れ、難を逃れることができたのだった。何度も店主に礼を言い、「またおいで」という声を背に、その場をあとにした。

 

「――というわけだったの」

 店があったという路地≠フ突き当たり。

 再びアリーゼルとフィリアルディは顔を見合わせた。

 場所柄だけあって喧騒とは無縁な静けさに包まれた薄暗い芝の敷地は、ふたりの感じた空恐ろしさを否応なく増幅させてくれた。

「……ちなみに言っておきますけど<アカデミー・ショップ>関係者にご老人なんていらっしゃいませんことよ」

「……えと。それに、そんな深夜のお店の営業って、普通は認められないはず……よね」

「でも、お買い物したもん」

 フィリアルディとアリーゼルはもう一度顔を見合わせた。なにかを承知したように互いと瞑目して、ゆっくりかぶりを振った。

 そもそもこんな場所で店を開く利点や理由なんぞ、ちょっと考えればこれっぽっちもないわけで。こんな突拍子もない場所に開いている店があれば学院情報に明るいアリーゼルの耳に入っていないわけがないわけで……。

 そして――。

 その場所の地面には、そんなゴテゴテに物を詰め込んだ重量級の屋台車が停留していた痕跡なんか、少しも見当たらないのだった。

 ふたりはスフィールリアの肩を持ち、歩き出した。

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「さぁ、<アカデミー・マーケット>はこちらですわ。どこへでもご案内しますわよ」

「ねぇ、スフィールリア。もう、夜にここに近づいたらダメだからね」

「え、あれ? なんで? どうしたのふたりとも」

「いいから、早く。いきますわよ」

「わたしたち、あなたのことが心配なだけなの。分かって」

「えーーっ? なな、なんでなんでーーーっ?」

 

「でもみんな、なんであんな必死にお仕事情報探してたんだろ?」

「<総合クエスト掲示板>については、二時間目の講義でも触れられましたわよね?」

<アカデミー・マーケット>は学院正門から広がる前庭≠フ、右手側に存在している。

 白い石造りで幅広の<アカデミー・ショップ>建物を中心に広がる学内市場¢S体のことを指す。

<アカデミー・ショップ>は学院が運営する公式の販売店で、綴導術の基礎材料となる素材や道具、参考書や教本に各種辞典、ほか寮の生活に必要な基本生活品など、学院生活に必要とされる基本的な商品がひとそろえされている(ちなみに学院生には2割引きの特典がある)。

 ショップ建物の周辺は<マーケット>用に用意された敷地が広がっており、学院側が設置した無数の貸し店舗としての幌屋台が並んでいる。生徒は期間ごと一律の金額を納めることでこれらをレンタルして自分の店を持つことができる。

 普段であればここは生徒たちが自分の作成したり収集したアイテムを並べて、賑わいに賑わっている。学院外部からも常に客が流れ込み、彼らや生徒を目当てにした出張飲食店までもが参入してごった返すのだ。

 毎日欠かさずチェックに回れば、自分では取りにいけないような貴重な素材や、街では手に入らない加工品を見つけることもあるだろう。

 しかし、アリーゼルの情報通り、今はそのほとんどが休業状態だった。

 これは<クエスト広場>の事情と同じく、<アカデミー>側からの活動自粛要請がゆき渡っているためだ。

 入学式が続くこの時期は、国内有力者や、諸外国王侯貴族も多くが訪れる。

 そんな彼らが入ってくる正門付近である。彼らの目に入っては少々困る取引というのも、ここではそう珍しいものではなく、困るからには見られたくないのである。

 なにしろここは王都であり<アカデミー>。――余人には作り出せない特殊なマテリアルや宝具を取り扱い、世界中の需要を集める綴導術。その術師たちの総本山である。

 各国の権力者や裏社会の住人が喉から手が出るほどに欲しがる機密クラスの物品や情報も当たり前のようにゴロゴロと転がっているし、彼らはそれらの品や情報を、自分たち以外の外部勢力が獲得することをひどく恐れる。目をつけられれば果てしなく面倒なことになる。

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 学院側の要請と生徒の利害があるていど一致した形で、この時期の<マーケット>は静かになるわけである。

 とはいえそれでもふてぶてしく茣蓙を敷いて商品を並べている生徒(黒のローブをすっぽりかぶって顔を隠していたりしてアヤしいことこの上ないが、きっと生徒だ)の姿はちらほらと見られるし、全体が大人しくしているように見えるのも表向き≠セけの話である。店を出していないだけで、学院内各棟や寮の裏地では、今も極めて怪しい個人間取引が繰り広げられている。

 人気のない場所でなにかを探すようなフリをしてみればいい。きっと十分も立たない内に、どこかの物陰から「入用かい? くくく……」という声がかけられることであろう……。

<ショップ>の向かいには、<マーケット>敷地を<ショップ>と挟む形で、紺色の瓦屋根の立派な<大食堂>がある。

 食堂とは言っても時期によっては十万人近くまで生徒数を膨れ上がらせることもある<アカデミー>のこと。内部は二千人ていどが座れる分の長机と椅子がずらっと並んでいるだけのシンプルな構造であり、食事を提供する厨房は存在しない。生徒は<マーケット>の露店などで手に入れた食事を持ち込み、各々好きに座ってすごせばよいという空間だった。

 こういった場所の存在理由というのは、要するに、ゴミ問題≠セった。

 全生徒が学院敷地全域で好き好きに食事をしていれば自然と転がるゴミの量も範囲も膨大になる。なので要所要所、用途に合わせて自然と足が向くような施設を設けて生徒を誘導しているということだった。

 というわけでそんな<大食堂>沿い、外にまではみ出して置かれたテーブル群の一角を拝借して、購入したカフェラテを囲んでいるのだった。

「うん。みんなすごい一生懸命にノート取ってたよねー」

 アリーゼルは呆れた表情をスフィールリアに向けた。

「あなた一年未満で学院を去る気なんですの?」

「へぇ? どういうこと?」

「はぁ〜。どうものほほんとしてらっしゃると思えば、やっぱり分かってなかったんですのね……」

「あ、あのね、スフィールリア? わたしたち、学院に借金≠しているみたいな状態なの。だから一年ごとに学費を払えなければ、借金を背負ったまま学院を出ていかなくちゃいけなくなるんだよ」

「えええっ!? どゆことぉ!?」

 いきなり聞かされた驚愕の事実にスフィールリアは椅子ごとずり下がった。

 ものすごく理不尽な話を聞かされたと思ったのだが、ふたりの方はしごく当たり前に受け止めているようだった。

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「これは三時間目の講義で説明されましたわよね? というか少し考えれば分かることでしょうに……よろしいですこと?

 ここは<アカデミー>。綴導術を専門に扱う機関なんですのよ。

 当然機密クラスの情報だってほいほい出てきますし、普通の人生を送っていたら手を触れることも叶わないような高級な機材や素材だってありますの。

 わたくしたち学院生は、学院にいるというただそれだけでそれらの情報や、機材に、授業を受けることで触れることが許される。そんな絶大なる恩寵に対する対価が高額な学費≠ニいう形で存在していることの、どこに疑問を差し挟む余地がありまして? 入学金なんぞというものは始まりにすぎないんですのよ」

「えー、でも、学費って入学金とセットじゃなかったの? えー……」

「それだと、支払える人がいなくなっちゃうくらいの額になるんだよ。お金持ちの貴族様なら違うかもしれないけれど……この学院は身分に関係なく、優れた情熱と能力を持つ人間にこそ才能を伸ばすチャンスを与える、ていうことを基本理念に置いてるから」

「おっしゃる通り、すばらしい思想ですわ。ですから入学までの数々の困難を乗り越えれば、あとは再び本人次第というわけですの。

 世界中の需要を集める秘術が綴導術ですわよ。たゆまず学び能力を伸ばすことができたのなら、たとえそのための学費が莫大になろうとも、自分の力で稼ぎ出すことはできますわ。

 むしろそのための環境作りがすでになされてすらいるのですから、これはもう、至れり尽くせりと言うべきなのではなくって?」

「でも、それでも全員がついていかれるわけではないんだよ。三年が経つころには、新入生だった生徒の数はだいたい半分になっちゃうんだって。それで、その半分の中のもう半分以上は、一年生が終わるころには……」

「入学式の挨拶の折、学院長先生もおっしゃっていたでしょう? ――前年度の卒業率は一割を割ったと」

「あのぅ。そ、それで……その学費っていうのはいったい、おいくらくらい……?」

 スフィールリアが恐る恐る尋ねると、フィリアルディは、あまり考えたくないことを思い出させられたように目元へ影を落とした。

 肩をすくめてアリーゼルが、紙ナプキンに書きつけた数字は……。

「……」

 スフィールリアもさすがに閉口して、次の句が出せなかった。

 とてもではないが一般の身分に属する人間にひねり出せる金額ではなかった。

 世間に疎い彼女の知る数少ない一般家庭の収入を、食べることもせずにすべて注ぎ込み続けて――だいたい、10年分くらいだろうか。

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「ちなみに初年度に学ぶことは基礎的なものが多いですから、まだまだ安価な方なんですの。二年、三年……と続くにつれ、各学年の最低見込み学費は、」

 10年分が20年分、40年分へと跳ね上がった。

 それが<アカデミー>に入学するということの、ひとつの側面だった。

 綴導術師というのは扱う分野にもよるが、たいていは元手に膨大な費用がかかる職業だ。機材も特殊で高価だし、作り出すアイテムも特殊なら、扱う素材も特殊なものになる。

 そういった機材や素材を生産する場にも特殊な人材や莫大な環境管理費が投入されているわけで、基本的に二次生産者である綴導術師が扱う金額というのは、それら特殊で高価な∴齊汾カ産市場の相場へ上乗せしたものになる。その分、リターンも飛び抜けて高くなるのだが。

 ともかくそんな特殊中の特殊な人材を育成する機関が<アカデミー>である。

 学ぶべき内容の膨大さ、多様性の以前に、必然として恐ろしいまでの費用が要される。

 もちろん問題は機材や素材の安定供給のための費用に留まらない。

 講師として契約・招致された多くの優秀な綴導術師の確保。それらの人材をひとつところに集めるに当たり各国が抱く危惧。時には国防問題にも関わる重大な秘術や理論をも扱うにあたっての対外的問題。それらを片付ける(あるいは目を瞑ってもらう)ためのさまざまな条約締結、さらにそのためのさまざまな根回し……。

 学院は大陸を統括する<聖ディングレイズ王国>と代々から深い協力関係を結び、各国の貴族や権力者にも優遇を配した。加えて学院内の流通を利用し、王都や各国への破格な値段でのリターンとして提供することで、学院経営を磐石のものにしようと勤めている。

 その上で、なお必要とされて生徒各個人に請求されるのが、この金額なのである。

 逆を言えば、そんな事情を抱えながらも学院生であれば<アカデミー・ショップ>の割引制度を利用でき、学院外部の発注業務を優先して閲覧できるなど、多くの優遇・支援制度が用意されているのは<アカデミー>が高いレベルでその理念を実行し続けている証でもあるだろう。

「で、でもさぁ。それでも三年も経たない内に人が半分になっちゃうんじゃ、意味ないんじゃないのっ? そりゃあこんなベラボウなお金請求されるんだったらついていけない人がほとんどだって!」

 食い下がる彼女に、アリーゼルはやれやれというポーズを作った。

「たしかに一般的な市民の感覚からしてみれば途方もない金額でしょうけどね。

 ですけど勘違いしない方がよろしいことですが、それは貴族からしても同じですわ。我が家からたったひとりの綴導術師を輩出するために<アカデミー>六年間分もの学費を用意するというのは、おいそれとできる投資ではありませんのよ。貴族といっても動かせる資産はピンからキリですしね……。

 そして、学院を去る者が多い理由は、学費だけではありませんの。言いませんでした? 昨年度の卒業率は一割未満――減る生徒が半分では、まだ五割ではありませんの」

「あ……ほ、ほんとだね」

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 そう。学費というのは、まだ理由の半分≠ナしかないのだ。

 残った五割の内のほとんどが卒業すらできない。

 それは、よくよく考えてみればとんでもない事実だった。

 だけどスフィールリアにはどうすればそんなことが起こるのか考えつくことができない。真剣に耳を傾けるフィリアルディも同じようだった。

「その理由というのが――単位ですわ」

「単位?」

 うなづくアリーゼルは、またしても平然とした顔で、恐ろしいことを言ってきた。

「当学院は学位取得に単位制≠採っていますわ。……でもあるひとつの事実がある。この学院では、六年間毎日、許される限界まで平常の講義をスケジュールに詰め込んでも、卒業に必要な単位数に届きませんの」

「!?」

 ふたりはただただ驚くしかない。紙カップの中身が冷めてしまうことも、もう意識にはなかった。

「なにそれ……じゃあどれだけ頑張って授業受けても卒業できないってこと!?」

「有体に言えばそうなりますわ」

「本当だわ……一番単位の大きな講義を毎日最大まで受けても、卒業ができる範囲にも届かないみたい。……それに、その講義が毎日毎時間あるわけがないから」

 取り出した手帳をめくりながら、恐ろしげな声音でフィリアルディ。実現性を無視して最短となる計算を早くも試みたらしい。

 結果は、アリーゼルの言葉の通り。

 それは、優秀な者もそうでない者にも、差異なく下される学院生活への死刑宣告だ。

 卒業までの単位が明確に定められているのに、そこに到達できないシステム。

 絶対に卒業できない学校。

 そんなことって、あるのだろうか?

「なによそれ……横暴だわ。詐欺じゃない! ……今からいってタウセン先生の髪の毛全部むしってきてやる!」

「ですからお待ちに――って、タウセン・マックヴェル教師ですの? なんでそうなるんですかお止めなさいなとんでもないとばっちりですわよっ!」

 

「どうかしましたか、ミスター・タウセン?」

「いえ、なんか頭痛が」

「あら、まあ。最近は式の連続でしたからね。少し休みますか。隣の部屋使っていっていいですよ」

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「いえ……まあ、大丈夫ですよ」

 

「だってさぁ」

 テーブルに乗り出して慌ててスフィールリアの服の裾をつかんでいたアリーゼル。彼女が席に座り直したのを見て、心底呆れた息をついた。

「話を最後までお聞きになりなさいな……。まさか本当にどうあがいても卒業が不可能なら<アカデミー>は教育機関として成立しませんわよ」

「む。……それじゃあ、卒業、できるの?」

「ええ、もちろんですわ。我々個人の努力次第ですけれどもね。

 この話の重要な点というのはつまり、綴導術師という人種を育てるために必要最低限な知識や実践という要素を授業として微分化した場合、六年間という日々をびっしり埋め尽くしても到底足りない事実がある、というだけのことなんですのよ。

 ここまではよろしいですの?」

「ええ……そう、よね」

「うん……まあ、分からなくもない」

「けっこう。ですから、ここからが我々にとっての実情≠ノなるんですの。

 先ほどのクエスト受注の話と同じですわ。――要は、それら膨大な授業と同等同価値の知識・技術を身につけていることを学院に証明できればいいんですわ。

 そのための認定試験という門戸が、常にわたくしたちには開かれているんですの。それに合格すれば、必要となる単位取得を大幅にショートカットできるんですのよ」

「あっ。それってひょっとして……<宝級昇格試験>のことかな」

 はっとした表情のフィリアルディに、アリーゼルは満点の笑顔を送った。

「ですわ。そのほかにも、付属下位の認定査察項目としての認定試技や研究録査収などでも、そこで成果が認められればその分だけの単位が免除されてゆきますし、<宝級昇格試験>そのものの内容にも部分免除が加えられますわ」

<アカデミー>生には、全員に綴導術師見習いとしての学内階級≠ニいうものが与えられている。

 すなわち、スフィールリアたち<原石>から始まって<銅><青銅><白磁><銀><白金><金>の七段階だ。

 これは綴導術師の階級ごとの<称号>分けにちなんで模倣された制度で、もちろん一人前の綴導術師の位を取得すれば、今度は正式にそちらの階級制度に当てはめられることになる。正式な綴導術師の階級には<原石>から<白磁>までが存在せず、<銀>から<煌金>までの六階級となる。

 だからこれはあくまで学内≠フみで適用される階級にすぎない。

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 アリーゼルが<クエスト広場>で言及した『生徒が受けられるクエストランク』にも影響を与えてくるものである。

<宝級昇格試験>というのは、この階級を上げるための認定試験だ。

「これに合格して学内階級を上げることができれば、単位が大幅に免除されるのはお話した通りですし、学院内で受けられるさまざまな支援制度の恩寵もランクアップしますわ。

 まあ能力に応じた正当な支援制度というところですわね。試験を受ける人の大半は、そちらこそが目的だと思いますけれど。単位などは日ごろからの試技や査収で貪欲に取得してゆけるわけですから」

 試技・査収というのは簡単に言えば、会場を持たず常に行なわれる小試験のようなもののことである。

 これを行なうのは各生徒を受け持つ教師たちだ。

 現在の段階の新入生たちはまだ一緒の教室にひとまとまりで同じ授業を受ける身だが、その内、最基礎項目からも開放され、すべての受講組み立てを自分で行なうようになる。

 どういった分野のどの講師の講義を受けるのか。一日の中でいくつ受けるのか。あるいは受けずにほかのことに打ち込むか――すべてである。

 たとえひとつの講義にも出てこなかったとて、咎める者はだれもいない。

 しかしだからこそ学院生たちは自分がだれ≠ノなに≠、どれくらい学ぶのかということをはっきり見定めなくてはならず、どの生徒であっても自然と専属に近い師となる教師を選ぶことになる。

 教師たちは、そうして自分の下に集った生徒の理解度や技量を、日ごろの授業や自分の研究の助手を任せたりする中で見極めて、判定を下してゆくのだ。また、教師は生徒の作成した研究レポートの提出を基本的にいつでも受けつけている。このような提出レポートの内容も公式な判定材料となる。

 代わりに、この学院には定期的に強制される『試験』というものが存在しない。

 成績の良し悪しを計って生徒を篩(ふる)いにかけるチェックポイントがないから、一年の間ならばどこかの段階で警告を受けたり退学勧告を押しつけられることもないのだ。

 それなりの覚悟か保障がありさえすれば、一年中遊んですごしてもよいのである。

「つまり、どんどん先生にアピールしてけ――ってこと?」

「ぶっちゃけますのね。まあ、そういうことで合っていますわ。

 もちろん事前に先生へ対して、査定を望むかということの希望を伝えておくのが前提ですけどもね。やる気のない人間にまでお目こぼしを与えるほど甘い教師は、まあひとりもいらっしゃらないということですわね。

 ……で、そういった査定をお願いする先生を、生徒の側ではそのまんま『専属の先生』だとか『専属の教室』と言ったりします。

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 教室というのはつまり、先生の行なう講義そのもののことですわね。先ほどなぜかお名前の挙がったタウセン・マックヴェル教師殿なら『マックヴェル教室』……となります」

 フレームを持ち上げる無機質な表情が目に浮かぶ。

(とりあえず、タウセン先生だけは絶対に止めておこう。無意味にお小言言われ続けたり査定厳しめにされるに違いない)

 スフィールリアは内心で決意を固めた。

「査定をお願いするということは自分自身の見極めをお任せするということであり、『あなたの専属の生徒になります』という宣言にも近いことですから。人間としての相性というものもありますしね。冷静に、慎重に、お決めになることですわね」

「うんうん、そうだね。全面的に同意だよっ」

 むろんだが『専属の先生』に一度でもついたなら、二度と変えることができないなどということはない。むしろ、学年が上がるごとに、教室を変えたことのない生徒の率は減ってくる。一度決めたら体面や関係などへの配慮から一年はついてゆくのが慣例となっているが、それも生徒側がなんとなしに実行している暗黙的な処置にすぎない。

 スフィールリアが考えたようなことはどの生徒でも一度は抱える心配事であった。当たり前だが人間のことなので、厳しい教師もいれば優しい印象を与える教師もいる。

 結果として、人気のある教室や不人気な教室、または気骨のある教室だとか、マニアックな趣向受けをする教室など……さまざまな特色≠持った多彩な教室が存在することになる。

 さらに教師が扱う本来の分野≠ニいうものも加われば、生徒の目の前に広がる選択肢は、まさしく膨大多岐へと渡るだろう。

「それらのすべてを自分ひとりの目と足で体験して回るのは非常に困難……と言いますか、もはやナンセンスですわ。申しました通り、わたくしたちは自分の学費も同時に稼ぎ出してゆかなくてはならないんですからね。

 ですから生徒同士の情報交換も重要ですわね。講義で同室になった同級生なり、先輩なり、加入したサークルで聞くなり……方法はいくらでもありますけれど。

 とにかく大切なのは、ご自分が目指したい将来の具体的なヴィジョンを持つことと、その目標に合致した教室をどれだけ見つけられるか、ですわね。

 それができずにどちらつかずの宙ぶらりんになっていますと、あっという間にドン詰まりになって、学院内で首が回らなくなってしまうでしょうね」

『……』

 つまりは、そういうことだった。

 学院は生徒の努力の成果を常に受けつけて、評価をする準備を持っている。

 しかしなにもせずなにを言わずとも常に見守ってくれるような類の、甘い機関ではない、ということなのだ。

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 この仕組み≠ニそれにかかる有形無形あらゆる必要経費≠フ膨大さを、いち早く看破できた者から、真の学院生活の準備へと取りかかってゆけるのだ。

 それをできなかった者、出遅れた者から、脱落してゆく。

「学院のからくり=c…ご理解できましたかしら」

 簡単な種明かしを終えたように手のひらを出し、アリーゼルは紙カップに口をつける。顔をしかめたのは、中身が冷めていたからではなく、風味が気に入らないためだった。

「しかも、お金を稼ぎながらソレやんなくちゃいけないんだ……」

「そうね……ぼぅっとしている暇なんか、わたしたちには、ないんだね」

 彼女たちの胸の内にあった夢や決意の上に、重く冷たい巨石が静かに重なる。

 それは決して浮き立たぬ重石となり、綴導術師を目指す果て無き道の始まりに、彼女たちの足を降ろす楔となった。

 新しい生活への期待の温みも、活力溢れる華やかな王都の熱気も、もはや彼女たちを誘い惑わす力にはならなかった。

 アリーゼルはそんな彼女らの顔を見つめ、そこで初めて満足そうな笑みを浮かべた。

「ですがまあ、それを言うならそもそも卒業なんてする必要もないのですわ。わたくしたちの目標はなんでして?」

「んーー?」

 スフィールリアはひたすら「?」マークを浮かべて首を倒していたが、フィリアルディは「あっ」と小さく気づきの声を上げた。

「まったく……。そう。一人前の綴導術師になること=Aではなくって? あくまでここは綴導術師を育てるための専門教育機関にすぎませんのよ。綴導術師の資格を得るために『学院の卒業』は必須項目じゃないということですわ」

「あっ、そっか。綴導術師にはちゃんとした資格≠ェあって、テスト受けなくちゃいけないんだね」

 アリーゼルは一転して明るい調子になり、両の手のひらを広げた。これが最後の種明かしだった。

「ですわ。昨年の卒業率が一割未満――というのも、実のところそこに真のからくりがありますの。

 実力次第で受講科目をコレクションする必要がないということは、かならずしも学院で六年間をすごし切らなければならない『わけではない』ということまで意味するんですわよ。

 ですから実際には、そこまで生き残った学院生たちは、六年間が終わる前に綴導術師の資格と自分の工房を持って独立したり、あるいはやはり一個の術師として師の下について工房運営の一員となったりしているのですわ」

「あっ……それじゃあさ、卒業そっちのけで仕事だけしてすごしてる人もいる、っていうのは」

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「妙なところで耳ざとくてらっしゃるんですのね。よくご存知なことで――そうですわ。そういった方たちも、実際にはすでに充分な学費を貯蓄済みで、さらなる財を蓄えるためだけに学院に留まっているのですわ。

 彼らにとって学院にいるということと、学院の内部に存在する数々の特典というのが、非常に好都合で居心地がよいということなんでしょう。姉や兄から聞いた話では、もう四十年は学院に潜み続けている猛者の方もいらっしゃるようですわね……。

 ……いずれにせよ、この学院でそれなりに生き延びてきた方たちですからね。綴導術師以外≠ノも道はありますし、皆さんそれぞれなりの身の振り方を見つけた結果が、そういうことになっているというだけなのですわ」

「ほへぇ〜……」

 目の前に広がる世界の果てしなさ、したたかさに、スフィールリアは素直な感動の息を押し出していた。

 タウセン教師の言っていたことは、本当の本当だったのだ。この学院にいる人間は、生徒も教師もだれもかも、ただ者なんかじゃない。

 ここにいるだれもがライバルであり、ライバルではない。

 ここで実力をつけてゆけるかの如何はすべて自分の力次第だ。だが、そのためには、そんな彼ら≠ニ関わり、渡り合い――時には協力することが不可避なのだ。

(やってやろうって気になるじゃない)

「やってやろうって気になってきた、というお顔をしてらっしゃいますわね」

 知らず口の端を吊り上げていたスフィールリアに返すアリーゼルの表情も、同じく非常に挑戦的なものに切り替わっていた。

「大変けっこうですわ。そういうおつもりですのなら、ここは早速おひとつ、並み居るライバルたちを出し抜いて差し上げるというのはいかがです?」

「……うん?」

「<宝級昇格試験>ですわ。明日、講義日程を終えたら受けにゆきましょう」

「えっ。できるの!? あたしたち、まだ授業始まって一日目だよっ?」

 隣でフィリアルディも目を見開いている。

「言ったじゃないですの。門戸はどのような生徒に対しても、常に開かれているのですわ。すべての学院生はその能力に相応しい場所に立つ権利を持っています。

 第一、<銅>の位なんて基礎中な基礎項目にチェックを入れられるにすぎないんですのよ。半年も経つころには皆さん<銅>階級……わたくしとしては連続で昇格試験を受けてもいいくらいなんですけども。ああそれとも――自信がおありでないとか?」

 くすりとした笑みに、スフィールリアはむっとして立ち上がった。

「そんなことないよっ。これでも田舎じゃ実技で稼いでたんだもん。なめてもらっちゃあ困ります」

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「決まりですわ。わたくしに期待をさせたお方がただの石コロでは困りますわよ」

 アリーゼルも席を立ち、胸を張ったスフィールリアに手のひらを差し出した。

 ふたりの手が握られる。

「上等。やってやろうじゃないのっ」

「明日からわたくしたちは新入生最速の<銅>階級者。集まる注目に見合うご活躍を期待しますわ」

「が、頑張って、ふたりともっ!」

 そして――

 

 

「どういうことですの……!」

 教室一角の机の前で、アリーゼルは握り締めた拳をプルプルと震わせていた。

 机には、突っ伏したスフィールリアの頭が転がっている。

「どういうことなんですの……!」

 もう何度繰り返したか分からないつぶやきをまた繰り返す。言いたいことは決まっているのだが、憤懣やるかたなさすぎて、どうも上手に出てこない。

 スフィールリアの隣では、彼女の肩へフィリアルディが気遣わしげに手を添えている。

「あの……どうかスフィールリアを責めないで……」

 アリーゼルはかぶりを振った。

「いいえ、言わせてもらいますわっ――いったい昨日の約束はなんだったというのか。実技で稼いでいただなんて大口を叩いていた方が、どうして……いったいどうして、こんな」

 それまで無気力に転がっているだけだったスフィールリアの肩が、ビクリと震えた。

「言わないでよぅ……」

「い、言わないであげて?」

 アリーゼルはブンブンブン! と激しく首を振って拒否した。握り締めていた一枚の通知書を突きつける!

「――どうしてたかだか筆記項目で『1点』だなんて叩き出せますのーーっ!!」

「うわあああああああああああフィリアルディーーーーーーーーーー!!」

「ち、調子が悪かったんだよ。それだけだよっ。ねっ?」

 抱きつかれたフィリアルディが懸命となだめにかかるが、アリーゼルは追撃の手を緩めなかった。

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「調子が悪いとかそんな次元の問題じゃありませんわ! 最基礎中の基礎項目ばかりだと言ったでしょう。正味の話この筆記試験の項目だけでしたら学院に入る時点の大半の生徒だってカヴァーできてるんですのよっ。ただ地元に実技を学べる機材などがなかったりしたという事情があるだけでっ!

 それなのにあなたは実践術師としての階梯を学べる恵まれた環境にありながら――ああもう――どうやってこんな数字を叩き出せたのかが謎ですわ。いったいどんな魔法をお使いになったんですの。この、くぬ、くぬっ」

 アリーゼルは彼女の顔に書面をぐりぐりと押しつけている。通知は、『筆記項目:1点 結果:不合格』と書かれたスフィールリアの試験結果通知だった。

「うぇあぅうおぇおあうぅ〜〜……!」

「そ、それくらいに……人が見てるし……」

 はぁ〜〜〜…………。

 どっと力を抜かして、どんより頭を落とすアリーゼル。

 フィリアルディの言葉の通り、教室内のかなりの人数に見られている。

 実際に見られているのはアリーゼルだ。

「なんなんですの……あなたは。本当ならこの日、この視線の半分を集めるのはあなたのはず……だと、思っていましたのに。わたくしの期待は、わたくしの計画は。はぁ〜……」

 アリーゼルは胸元から取り出した簡素なネックレスをもてあそぶ。先端に揺れる小さな飾りの色は、銅――試験に合格して学院から支給された<銅>の階級を示すネックレスである。

 ネックレスは、スフィールリアたちも持っている。入学の際に礼服等と一緒に渡される最初の支給品のひとつ。つけられている飾りは、艶のない白い石。<原石>だ。

 日は移り、<宝級昇格試験>から翌日の朝を迎えていた。

 まさかの始業二日目にして位を上げた怒涛の新人がいる。という噂は、朝になるまでにはほとんどの同級生の間で周知のニュースとなっているのだった。

「だって考えてみたらあたし、師匠からそんな基礎のお勉強≠ネんてしてもらったことないんだもん……」

「どんなお師匠様ですのそれ……」

 ということなのだった。

 幼いころから伝説の綴導術師と暮らしてその秘術の数々を手伝ってきていたスフィールリアだったが……秀でているのは『実践だけ』だったのである。

 ヴィルグマインは表≠フ綴導術師が重んじるような基礎の理念や理論に関する座学なんぞを、彼女には施さなかった。――教科書通りの知識や設問に太刀打ちできなかったのである。

 もちろん彼女とて曲がりなりにも綴導術で日々の糧を得ていた実践的綴導術師。たとえば水晶水作成に用いられる一般的素材の名称だとか最低限の機材の名称などは分かる。分からなければ、やってなどいかれない。

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 だがしかし、いくら基礎項目とは言え、そんな小等部向けの名前当てクイズのような問題作りをしてくれるほど甘い学校でもなかったのだ。

 たとえば『アストラ草の薬煎液∞水(真水とする)≠用いた一般的祖回術の手法にて水晶水(青)の作成を行なう。この時(※)術者の投射するタペストリに対する界面崩綻輻射オルムス値が2,000/Mo(f)を上回った場合、状態回復のために取るべき最も一般的かつ最善とされる対応策はなにか。

 ※この設問の場合、置換可幅情報値(エントロピー・キー)による置換対流段階であると厳密に定める。』

 といった具合である。

 これに対してスフィールリアは、

『面倒くさいのでタペストリ密度を5,000/Ma(b)以上に切り替えて強引に練成を完了します』

 と書いたら、当然のようにペケを食らった。

 ついでに、採点後に担当教師から説教を食らった。

 教科書通りというのは、つまりそういうことだった。

 教科書に載せられるこういった対処法だとかいうものは、要するに万人に対して最も安全でありかつ無難なものなのである。万難を廃し、同時に、その分野に携わる者ならだれでも実行できるような最大公約数的解でなければならない。

 過半数が取るメソッドを統一し共通認識とすることで、事故の抑止や、業界全体におけるカリキュラム構成の均一化・安定化にもつながる(綴導術の教室は<アカデミー>のみに存在するわけではないからだ)というわけである。

 まあほかにも、今まで実践はしてきたが名称までは知らなかった(と思われる)専門用語の数々、定義、公式などなど……。

「綴導術師の教科書なんて読んだことないし、分かんないよ〜」

「だからそんなことで、今までどうして教わってきましたの……」

「だって……今まで、失敗したり失敗しそうになったらゲンコツで『見せてやるから二発以内に覚えろ』って。一回で覚えたらアメちゃん、三回ダメだったら苦いアメちゃん、って感じだったんだもん……」

「ええと……そう! そうだよ。スフィールリアはきっと、楽譜の読み方は知らないけど楽器の演奏はとても上手な人なんだよ。だから気を落とさないで。ね?」

「ああ……いますわよね、そういうお方…………言いえて妙ですわね……」

 もう一度、アリーゼルはため息を吐き出した。

「それにしたって、あんまりじゃありませんの……わたくしの見通しが甘かったということもあるかもしれませんが。あなたが落ちて、わたくしだけが昇級を果たしたというならまだマシだったのに。よりにもよって……」

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 その時。

 彼女を見つめる教室内のざわめきが分散されて、視線の圧力が波のように引いてゆく。

 今しがた入室してきた者の姿によって、注目の半分ほどが、そちらに引っ張られていったのだ。

「……ほかの合格者の方まで出てしまうだなんて」

 アリーゼルもそちらを見ていた。

「……?」

 教壇側の扉から入室した少女は、生徒の注目を集めて、視線を右往左往させていた。

 ケープつきの、ゆったりとしたローブの色は黒と紺の縁取り。

 眠たそうな目つき。腰まで届く長い髪は、まるで深い闇のように純粋で、綻びがなかった。

 とても美しい少女だとアリーゼルは思った。

 しかし全身にまとった闇色の黒から、染み出すように輝く白磁色の肌が持たせるその美貌は、神秘的というよりは――

魔%Iであると評する方がふさわしそうであった。

 あれで妖艶に微笑みでもすれば魂を囚われない男はいないようなものであるだろうが、幸いなのかどうなのか、そんな彼女の魔的≠ネ部分は、彼女自身の気だるげで眠たげな表情があるていどは緩和させているようだった。どこか抜けている印象があった。

 きょろきょろとしているのも、なぜ自分が注目されているのか分からないせいらしい。

「……」

 しかししばらく視線を泳がせて……やがてこちらへと焦点を定めた黒髪の彼女。

「? こっちくるよ?」

 段々構造の教室を、生徒たちの視線を引っ張りながら上がってくる。

 そして、スフィールリアの前に、立った。

 教室内の注目は、再びこの場に合流して釘づけになった。

「え〜っと……こ、こんちは!」

「……」

 ビッと片手を上げたスフィールリアに、少女は無言でうなづいた。

「……」

「……」

 そしてなんの用事を告げてくるでもなく、じぃ……と、眠たそうな眼で彼女を見つめ続ける。

「…………え〜〜っと」

 瞬きもせず本当にひたすら食い入るみたいに(眠そうなままではあるのだが)じいぃ〜〜〜っと見つめられるのでスフィールリアもさすがに気恥ずかしくなってきた。

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 とりあえず好きな食べ物でも聞いてみるかと謎の思考エンジンを働かせて口を開きかけたところで、少女の方が、先に口を開いた。

 風鈴のように、涼やかで、儚げな、声だった。

「昨日」

「うんっ?」

「試験会場」

「うん」

「いた」

「ああ、うんっ。いたいた! 一緒だったもんねっ」

「……」

 少女はまた無言でうなづく。

 そしてそのことがいったいなんだったのというのか。次に、スフィールリアの両手を取り……ゆったりと上下に揺すってきた。

 握手らしい。

 手を離し、もう一度なにかを確認したようにうなづいた少女。

 ゆらりと体をひるがえして、教室の前方へと戻っていこうと歩き出した。

「ご挨拶なさるんなら、自己紹介くらいなすっていったらいかがなんでしょうか、<銅>の合格者、ミルフィスィーリアさん?」

「あ、アリーゼル。そんな言い方だと……」

 強い口調でアリーゼルが呼び止める。フィリアルディが気弱な声でいさめてくるが、アリーゼルは決然とした態度を崩さなかった。完全に無視されて、気に入らなかったのだ。

 しかし振り向いた黒髪の少女――ミルフィスィーリアは、分かっているのかいないのか彼女の瞳を見返し、肯定のうなづきを返すだけだった。

「……それ」

「……はい?」

「では……」

 また歩き出す黒の少女。

 アリーゼルが唖然としていると、黒ローブの襟口からピョコンと一匹のリスが出てきて肩の上から少女の髪を引っ張った。

 それでなにかに気がついたというようにその場でもう一度、振り返ってきて、

「今後とも、よろしく……」

 ぺこりとお辞儀をして、歩き去ってゆくのだった。

 自己紹介と、挨拶のつもりだったらしい。

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 少女は自分が百人近い注目の中にいるのにも構わなかった。教室の最前列、扉側の端の席に着くと、そこに置いていたバッグからマイ枕を取り出し、速やかと眠りに就いた。見ていた全員が驚いた。

(眠るのはっや!)

 座る動作と枕を取り出す動作、セッティングから「スヤァァ……」と寝息を立て始めるまで、まるで流れるような見事に完成されたフォーミングだった。

 これで朝の騒動は終了と判断され、教室内に喧騒が戻ってくる。

「……なんなんですの。失礼な人ですわね」

「ま、まあまあ。挨拶はちゃんとしてくれたんだし。悪い人じゃないよ。ね?」

「うん、そだね……」

 スフィールリアもあいまいとフィリアルディに同意しつつ、しかし黒髪の少女から目を離せずにいた。

(なんか……不思議な感じ)

「あの……あの人も<銅>の合格者さんなんだよね」

「ですわ。先日の合格者はわたくしを含めて三人。もうひとりは別の教室の、わたくしたちよりは年配の方ですわ。なんでも元は医者業を営んでいたところ、さらなる薬学の研鑽にとこちらの道に半身を移していらっしゃったとか。まあ合格も順当というところでしょう。

 ……ですけどミルフィスィーリアさんの場合は、最初からスフィールリアさんを気になさっていたようですけどね?」

「……。へっ? あたし?」

 ぼぅっとしながら黒髪の後姿を眺めていたスフィールリアは、びっくりして顔を上げた。

「うん……わたしも見てたけど、会場に向かう途中で、スフィールリアのことを見つけて、声をかけようとして……て、感じだった」

「で、ふらふら〜っとついてきた場所が試験会場で、受付の方に書類記述を求められてなんだか分かってないのに応じたら、そのまんま試験を受けていた……という印象でしたわ」

「わたしも会場の外で待ってたけど、試験が終わって出てきたあともあなたのこと探してたみたい。でも、スフィールリア、なかなか出てこなかったから。でも知り合いって風でもなさそうだったから、教えて引き合わせるのもどうかなって……」

「右に同じですわ。というかあなた、なにしてらしたんですの?」

「あー、うん……先生に捕まっちゃってて。お説教されちゃった」

 もう何度目か分からない呆れのため息をアリーゼルはついた。

「特・訓っ・ですわね」

「ええ〜……」

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「ええじゃありませんわよ。先日この学院の実態をご自覚なさったばかりなのではなくて? ――基礎知識が新入生未満だなんて問、題、外ですっ! 今日から特訓。基礎授業期間の今の講義はすべて予習復習。あとで<アカデミー・ショップ>へも基礎教本の買出しにゆきますわよ」

「頑張ろう、スフィールリア! わたしもお勉強手伝うよ。それで、今度はわたしと一緒に試験受けにいきましょう。ねっ?」

「うん。……ありがと、ふたりとも!」

 当面の目標は決まったものの、前途は多難そうだった。

 

「それにしても、あの人。何者なんでしょう」

 講義の合間の休み時間、アリーゼルがふとつぶやきを漏らした。

「あの人って……ミルフィスィーリアさん?」

 うなづくアリーゼル。

 話題の主は、思わぬ<銅>階級最速突破者だった。

 授業中にもスフィールリアがぼぅっとしながらいつまでも眺め続けるので、アリーゼルの中でも少しだけ興味が復活したのだった。

「<銅>の試験内容が基礎中心とはいえ、実技能テストだってある。それをあの方は受けるつもりでもなかったぶつけ本番で満点を叩き出していたんですの。つまり、実質として<銅>を上回る実力は完璧に身につけているということですわ。入学時点でそこまでの力をつけている人は、まあ絶無とは言いませんが、そうはいませんわ」

 アリーゼルも筆記・実技ともに満点を取りはしたが、一応の予習くらいはしてあったのである。最初の関門とはいえ設問内容は固定ではない。むしろ基礎だからこそ範囲は広大になる。

 そして、ミスというものはそんな簡単な場所に生じる隙間なのだ。

 その失点を当たり前のようにゼロにできるのは、おびただしい研鑽の積み重ねによりそこ≠謔閧烽ヘるかな高みにあるという証明だ。

「それに、あのリスさん」

 ああ、とフィリアルディもうなづいた。

「昨日も受付の人に『会場にリスの持ち込みは禁止』って言われてて、わたしの隣の席に置いていかれてたなぁ。……一緒に待ってたけど、すごく大人しくて。ちゃんと分かっていて彼女を待っているみたいだった。なんていうか、そう、知性≠ェあるみたいな」

 実際、この教室でも休み時間ごとに眠りこける彼女を、教師が到着する前に起こしているのがあのリスだ。足音でも聞きつけるのか、服の中からぴょんと出てきて、髪の毛を引いて教えるのだ。

 だから今もああして、彼女は安心してマイ枕に頭をうずめていられるというわけだ。

「やはり、ですわね。相当に高度な使い魔ですわ。普通の術師ではないのかも」

 というどこか畏怖のこもるアリーゼルの言葉に、ぼぅっと黒の少女を眺めていたスフィールリアが初めて口を開いた。

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「あれ使い魔じゃなくて妖精だよー……」

 顔を見合わせる、アリーゼルとフィリアルディ。

「妖精、ですの?」

「本当に?」

「うんー。なんとなく感じ≠ェフォルシイラと一緒だったから。しゃべるかどうかまでは分からないけど……」

「すごい、初めて見た。すごい……」

「わたくしもですわ。でもだとするとやはり、普段から妖精を使役するほどの高度な術に触れているということですわ」

 アリーゼルはちらりと隣席のスフィールリアを見た。彼女は、会話のことは忘れて、再び例の少女の頭を眺める作業に没頭していた。

 ため息。

「本当、どれだけの術師なんでしょうね……」

 その答えは、意外にもすぐに得られることになった。

 

 なにかが破裂したような音。

 悲鳴。

 次に、一拍遅れて驚いたような、ざわめきが届いてくる。

 六時限目の講義が終わって放課後に入り、教室内の人の数も落ち着きを持ち始めたころ。

 早速アリーゼルに捕まって、本日講義のまとめと復習を余儀なくされていたスフィールリアたちの下へ、そんな騒動の音が舞い込んできたのだった。

「廊下ですわね」

「なにが起きたんだろう」

 興味を惹かれた生徒たちと一緒になって廊下に出てみれば、同じくほかの教室からも多くの野次馬が顔を覗かせてきていた。

「すみません、すみません!」

「ああ、ああ、いいからいいから。拾うの手伝って」

 人の輪の中心には、ひたすら頭を下げ続ける女子生徒と、廊下にしゃがみ込んでなにかを拾い集める教師の姿があった。

 ふたりの周りでは、窓ガラスが割れ、壁や天井、床に高速で硬質のものを引きずり回したような跡が刻まれている。

「教材用の使い魔ですわね。プローブ・タイプの。持ち運びを手伝おうとして、うっかり暴走させてしまったんでしょうね」

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 それはスフィールリアたちも同一のカリキュラムで見た、ごく簡易タイプの使い魔のモデルのことだった。機能の指向性を持たず、初心者の理解を容易にするために構造を極めて単純化された、簡単に言えば『ただ浮いているだけが仕事』の使い魔である。

 事態の全容はアリーゼルの言葉の通りで、講義自体はつつがなく終了した。その後、教師がわざわざ生徒から持ち運びの希望者を募ったのは単純に人柄の問題だった。いち早くいろいろなことを見て学びたいという生徒にはチャンスがあるべきだと考えたのだ。

 女子生徒はほかの生徒よりも多くの時間、間近で使い魔に触れられることによろこんで、歩きながら撫でくり回してじっくり観察した。

 そしてついうっかり、むしろ無意識に、綴導術師としての力≠フ片鱗を注ぎ込んでしまった。

「機体構造としては仮組み¥態と言ってもよいものですからね。内部の仮想精霊構造がパーツと一緒に分離解体して、あのお方の感情でも反映して好き好きに飛び回ったんですのね」

「だ、大丈夫かしら……怪我している人がいなければいいんだけど」

「見る限り大丈夫そうですわ。そもそも簡易タイプと言っても基幹が精霊理論ですから。人間を傷つけることはまずありませんわ」

 ほっと息をつくフィリアルディだったが、表情は晴れていなかった。

「……でも、使い魔が壊れてしまって、どうなるのかしら。あの人のランクだと、まだとても弁償なんてできないだろうし」

「備品の管理責任者は教師殿ですし、大丈夫なんじゃないですの? 見たところお手伝いさせる判断をしたのもあの先生のようですし」

 実際、「あのっ、おいくらくらいかかるものなんでしょうかっ」と泣きそうな勢いの生徒に教師は「あー、いや。君はそういうのいいから」と困り顔で頭をかいている。その表情は苦く、自分が負うこととなった思わぬ出費と責任問題に想像を馳せているようだった。

「……あたしアレ直せるかも」

 ぽつりと、スフィールリアはつぶやいた。

「できるんですの?」

「うん……。媒体から離散した精霊は、まだしばらくは拡散しないでその辺りに留まってるはずだから。空間中の精霊を把握して元の情報の形に再構築してあげれば」

「あ、ちょっとっ。お待ちなさい」

 言葉のまま歩き出そうとした彼女の手をアリーゼルが引き止める。

「え? なに?」

「それは分かりますわ。ですがそういう作業は、本来ならば工房結界を用いて行なうものです」

「うん。でもそれはあたし自身のタペストリ展開領域で補完すればいいだけだし」

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「ですから、それも分かりますわよ。一人前の術師でも普通に実行できることではありませんが……不本意ながら初日のあの術≠見ていますからね……。ですけど、そういうことではなくて」

「?」

 微妙に焦れたように首を傾げる彼女へ、アリーゼルは半眼になって、しごく単純なことを教えた。

「あなた、また目立ち≠ワすわよ」

「あぅ」

 ギシ、とスフィールリアが硬直した。アリーゼルもため息をついた。

「言ったでしょう、普通は工房結界で安全を確保して行なうのだと。ええあなたならあれくらいの精霊構造なら直せるのでしょうよ、物理破損したでもないですしね。あなたは軽い気持ちで彼らを助けて満足かもしれないですが。……ですが、それを見た皆さんはどうでしょうね?」

「うう」

「もう少し賢く生きてみようと思いませんの? ご自分の技能を安く見ていませんこと? だれもお金なんて払ってくださいませんのよ。そして、それ≠ェこの学院内でのあなたのお仕事の相場≠ノなってしまうんですの。

 教師の収入はわたくしたちなどより桁が違いますわ。望んだ出費ではないでしょうけど、なんともありませんわよ。これで丸く納まるんですの」

 呆れ切ったアリーゼルの声にスフィールリアは心底反省しているような落ち込み顔を見せた。実際、軽はずみな綴導術の行使により一度は退学処分になりかけたのだから。

 しかし「うーんうーん」と数十秒悩んで、スフィールリアは顔を上げた。

「ありがとアリーゼル。でもやっぱりあたしアレ直してくるよ。アリーゼルが言ってることも、あたしのこと心配してくれてるのも分かる。……でもやっぱり、綴導術って、困ってる人を助けてあげるためのものだと思うから」

「……」

 アリーゼルはため息を吐いた。喉をすぎる息が妙にしっくり感じるのは、これが彼女の隣に身を置くことの、早くも定番と化しつつある証明なのかもしれない。

「……ではせっかくですし。後学のために≠たくしもおそばにご一緒させていただこうかしら」

「うんっ。見てて!」

 そしてふたりが並んで歩き出し、

 ざわ……

 到着するよりはるかに早く、ざわめきが起こった。

「君、どうしたね」

 パーツに破損がないかを確かめていた教師が顔を上げる。

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 そこに、闇色の長衣をまとった寝ぼけ眼の少女――

 ミルフィスィーリアが立っていた。

「君?」

「……」

 相も変わらずなにを(なにかを)考えているのかも分からない無表情で佇み、じぃっと教師の手元にある簡易使い魔の破片たちを眺めている。

 そして、教師が再度なにかを呼びかけようとしたところで、

「あー、君。使い魔が見たいのならまた次の講義でチャンスが――」

「……かわいそ、う」

「うん?」

「治す……」

 次に彼女が行なった動作は、そう複雑なものではなかった。

 しかしその場の全員が――正規の綴導術師である教師すらもが言葉を失い、彼女の起こした一連の行動に釘づけになっていた。

「ん」

 ごそごそと腰元を探り、ローブの内側から、棒状の物体を取り出した。

 物体は、長さでは警棒サイズだが、持ち手から先端に向かうほど幅広になってゆくコーン型。つや消しの石のような黒の材質でできており、枝葉や女神をかたどった精緻な装飾が施されている。

 彼女がそれを胸の高さまで掲げると、装飾品は、心得ているとばかりに自らのサイズを上下に伸ばし始めた。

 植物の成長を思わせる動きでするすると伸びて。

 数秒後には、長大な、翼ある漆黒の杖≠フ姿になっていた。

 ヴヴ――!

(うぅっ)

杖≠ェ現れた時、スフィールリアは正体不明のめまいを覚えて頭を押さえた。

 と、言うより……彼女から一瞬だけなにかの波動が漏れ出たように感じた。その振幅の圧力に、彼女の姿がぶれ≠スように見えたのだ。いや、

 彼女の周囲の光が消えて、真っ黒になったような――

 だが周囲の生徒たちは自分と違って異変を覚えてはいないようだった。

 そして、ミルフィスィーリアが杖の下端をコツリと床に当て、光が広がって――

「――――」

 全員が目を開いた時には、彼女の前に、元の機能を取り戻した簡易使い魔が浮揚していた。

「いえいえ……大したことはしていませんので……よかった、ね……」

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 使い魔がなにかを言ったということはないが(むしろこのタイプに人格は付与されていないが)、彼女は球型の使い魔に向かって、ゆらりゆらりと両手を振って謙遜の意を示している。

 手の中の杖≠ヘ、すでに元の警棒サイズに戻っている。

「き、君……」

 静まり返る中、教師がかろうじて起こったことを把握して声をかけるが、ミルフィスィーリアはやはり自覚なく眠たげな眼差しを送るだけだった。

「君は……生徒、か……?」

「……?」

 小首を傾げる彼女の胸元からリスが顔を出し、<銅>のネックレスの飾りを差し出す。

 ミルフィスィーリアはうなずいてそれを受け取ると、教師に向けて持ち上げて見せた。

「したらば、これで……」

杖≠ローブの内側にしまい、ぺこりと頭を下げて、ミルフィスィーリアは当たり前のように廊下の向こうへと去っていった。

『………………』

 どうしたものか考えあぐねた教師が、頭をかく。

 野次馬の生徒たちも、騒動の中心にいた女子生徒も、どうすればよいのか分からず……戸惑うまま喧騒が戻ってくる。その場を去ろうとする者、なんとなく残ろうとする者と、解散ムードになり切らないあいまいな空気が横たわっていた。

「……綴導術師の<縫律杖>ですわ。間違いない。やはり、ただ者ではなかったんですのね」

「あの杖≠フ、こと?」

 ざわめきの中。尋ねるフィリアルディに、アリーゼルが緊張した面持ちでうなづいた。

「結論から言いますと、あれは一人前の綴導術師の証≠ニも言える宝具ですわ――小さな工房≠ニも言われる」

<縫律杖>――小さな工房=B

 それはその名の示す通り、綴導術師が秘術を扱う工房≠ニしての機能の大半、あるいはすべてを搭載した小型・超細密の建造物――最上級法術具である。綴導術師は、これを所持さえしていれば、いつでも工房の中にいるのと同じ環境にあると言っても過言ではない。

 絵本などの中で伝説≠ニ謳われる数々の綴導術師が、かならずと言ってよいほど杖≠持つ姿で描かれるのは、子供向けのロマンでも伊達のことでもないのだった。

「えっ? じゃあ、あの人」

「ええ。しかも<縫律杖>は術者個人個人による完全なオーダーメイド。術者自身のすべての知識、すべての経験、すべての研鑽を注ぎ込んだ、この世にふたつと同じものはない完全規格外品。――ゆえによほど高名な術者自身が創るか、そういった身分にある師≠ノ認められて贈呈される以外に手に入れる方法がなく、ただ綴導術師であるからという理由で所持することは叶わない。そういった物品ですのよ。わたくしの家でも所持しているのは祖父ただおひとりですわ」

-29ページ-

「綴導術師……わたしたちと変わらないような、あの子が」

「そんなお方がいったいどうして、<アカデミー>などに一般生として入り込んだのだか……」

 フィリアルディとともに、少女が去っていった廊下を見つめたアリーゼル。

 次にいたずらじみた笑みで隣のスフィールリアに水を差そうと考えて――

「要するにあなたなんかが気にかけても、しようがないような高みにいらっしゃる人ということですわ――って、ど、どうしたんですのっ?」

「大丈夫っ? 顔色が真っ青だよ!?」

 胸に手を押し当てたスフィールリアは、深く静かに息を乱していた。

「うん……大丈夫…………」

 言いつつ、ふたりに肩を支えられて、その場に膝を着いた。

「まさか先ほどの術に術波汚染が? そんな様子はなかったのに……」

「どうしよう、先生呼ばなくちゃ。救護室の場所は」

「あぁ、ううん、違うの――すごいもの見ちゃったから、興奮しちゃって……ほんとに」

 さらに慌てるふたりの声を、スフィールリアはひときわ大きく吸って吐いた息の音で遮った。

「大丈夫だってば……ほら」

 顔を上げた時には、多少は血色がよくなったと自分でも分かるていどには平常になっていた。

「よ、よかった」

「もう……びっくりしましたわよ」

「さ! あたしたちも負けてらんないわよね。帰って仕事の続きだー!」

 立ち上がって伸びをするスフィールリアに、ジト目になったアリーゼルが釘を刺した。

「なに当たり前みたいに逃げようとなさってるんですの。このあとは教科書の買出し。まだ今日の復習も終わってませんのよ」

「え、え〜〜っ」

「さ、参りますわよ。負けていられないんですわよねぇ〜? では当然次の試験は満点中の満点ですわよね〜〜ええそうでしょうとも」

「えええ……フィリアルディ〜……」

「うん、わたしも一緒にいくね」

「ええええええ……」

 結局この日は、午後の八時まではみっちりと基礎知識漬けにされたスフィールリアだった。

 

 

説明
◆既存投稿ページを再利用したまとめ投稿です。最新投稿分からの続編になります。長らく放置しており、申し訳ございませんでした><(2015/05月)
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スフィーと聖なる花の都の工房 〜王立アカデミーのはぐれ綴導術士〜 ファンタジー オリジナル 長編 ラノベ 

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