空しいほどに青すぎる空 |
1
夏休みが終わっても、景色はそうすぐには変化を見せない。残暑はあるし、秋と呼ぶにはまだ早い。セミの声も残響のように、僅かながらも辺りに響いている。
そんな中途半端で、境目の時期。佐口麻衣(さぐち まい)は憂鬱な気分を引きずりながら、徒歩数十分の学校への道を歩いていた。今年の夏休みは随分と味気のないものだったなぁ……。受験勉強と塾、宿題に追われ、遊ぶ暇もなくただただ流れ去っていくような中身の薄い日々を、私は思い返していた。しかも辛いことに、いつも一緒にいた大切な友達が私の隣にはいなかったのだ。
水谷望(みずたに のぞみ)が入院してからすでに一ヶ月以上経っていた。心臓に重い病気を患い、今も病院で苦しみ、辛い日々を送っている……。夏休み中、私はずっと重い気持ちにのしかかられていた。大切な友達に毎日のように会うことができない。会うことができるのは、お見舞い時の隔絶された病室の中だけ。どんなに時間があろうと、どんなに会いたい気持ちがあふれていようと、面会時間には限度があるし、さらに今年は高校受験という忌々しいものまで存在していたため、塾の都合でお見舞いにいけないということも一度や二度ではなかった。そういうわけで、今年の夏休みは常にストレスにつきまとわれていたのだった。
そう、今年は高校受験。毎日のように塾に通い、参考書を睨みつけながら勉強に明け暮れなければならない。一年前までは考えられなかった多忙な日々についていけないのも当然だった。
しかし、今はただひたすら目の前に課せられた試練を乗り越えていくしかない。誰もが未来に夢を抱き、自分の将来に淡い希望を寄せ集める。楽しさが満ち溢れた高校生活。部活に、恋愛に、友情。そんな一握りの青春を求めて、今の辛い受験を乗り越えていくのだ。
だけど……、と私は考えた。望があんなにも死にそうなほど辛い毎日を送っているというのに、私はこんなに五体満足で、のうのうと受験勉強に励んでいていいのだろうか……。
何が幸せで、何が不幸なんだろう。受験勉強ができるということは幸せなの?こんなに大変な、頭からつま先まで勉強漬けの毎日でも、それが幸せと呼べるの?むしろ私には、望のほうが……。
いや、やめよう。望だって望なりに頑張っているんだもの。私も無事に第一志望の高校に合格して、そして望も退院して、一緒にその喜びと幸せを分かち合おう。それが、私の受験に対する目標で、その試練を乗り越えた先にある淡き希望なのだった。
まだ熱気がもうもうと立ち昇っている、太陽に焦がされたアスファルトを見下ろしながら歩いていく。そうして無心になると、何もかもが憂鬱の渦に飲み込まれていくみたいだった。
自分のすぐ脇をトラックが走り抜ける。暑さが残滓のように溜まり、淀んだ空気に一瞬の冷気を吹き込む。はあ、とため息をつき、視線を上に向け、まだ夏の気配を残している青空を見上げた。
私の心とは裏腹に、空は空しいほどに青すぎて、雲は呆れるほどに白すぎた。
二学期になると、受験を意識した対策的な授業が始まるだろう。そして受験期間に入るまでは、惰性的で、流されていくような日々が続いていくのだ。しかし、それもあと数ヶ月もすれば緊張と不安にのしかかられる、どこ かやり場のない苛立ちに包まれ、そしてじりじりと未来への不安が肌を焦がす日々に変わっていくのだろう。それは想像もつかないだけに、もう全てを放棄して先へ進むことをやめてしまいたい気分だった。
そんな暗い気分に浸っていると、ふと誰かが走ってくる足音が聞こえた。二学期初日から元気だなぁ。
「おはよーっ! 麻衣、何だか浮かない顔してるねぇ。楽しい夏休みも終わって今日から新学期。クールな麻衣でもさすがに憂鬱なわけだ」
いきなり後ろから背中をどつかれ、私は前へつんのめりそうになった。後ろを振り向くと、受験に対する不安と憂鬱を一かけらも見せない瀬戸茜(せと あかね)の笑顔がそこにあった。朝から既にハイテンションなようだ。
「誰だって憂鬱でしょうが。毎日のように塾に行って勉強勉強。そんな夏休みなんて、全っ然楽しくなかったんだから」
「はいはい、受験ね。あたしだってそれなりに勉強してるつもりなんだけど」
「うそ。その顔を見ると、夏休みは遊びに遊びまくったって感じだね」
「まあ、それは、あれだよ」
茜は苦笑いをしながらもごもごと言った。
まだ夏のような太陽の日差しがじりじりと路面を焼く。どこかでセミがか弱い声で鳴く。私と茜のすぐ横を通り過ぎる車、車、車。噴き出す排気ガスとその熱。なんだか、ふっと気が遠くなったような気がした。
「高校っていってもねぇ。あたしは麻衣みたいに有名な私立進学校じゃなくたっていいんだよねー。とりあえず高校には行ければいいし、大学いくとか専門いくとかは入った後から決めるよ」
「うーん……。みんなそんなものなのかなあ」
私は少し不安になった。というのも、茜の言うとおり、私はそこそこ偏差値の高い有名な私立進学校を第一志望として狙っていたからだ。公立の高校でも構わないのだが、将来のことを考えると……、ということになってくる。つまり「今」を重視するか、「未来」を重視するか、ということなのだ。
「まあ、あたしはなるたけ近い公立受けるよ。せめて自転車でいけるところね。電車使って何十分もかけてまで学校いくなんてあたしには苦痛だし、絶対無理」
「私の志望校は全部電車で何十分もかかるところにあるんだけど・・・。それに私、そこを受けようかどうか未だに悩んでるのよね。公立や他の私立もいいような気はするし、何よりも失敗したくないし……」
「あはは。でも麻衣はさ、勉強できるし、将来見据えて偏差値高いとこに行くべきじゃないかな。通学時間なんて気にしない気にしない。麻衣ならできるよ。望にもそう言われてるんでしょ?」
そう、今も寝たきりの望は、自分の分も勉強してほしいと私に言ったのだ。いつ治るともわからない病気を抱えていては、学校へ行くことはできないのだから。
「そうだけどさー……。ああーもう、何でこんなに悩まなくちゃいけないんだろ」
「はっはっは。それが受験というやつなのだ」
受験勉強なんてどこ吹く風、茜はしたり顔でそう言うと、弾んだ足取りで校舎に入っていった。
新学期の全校集会での空気はどこか淀んでいて、夏休みへの名残惜しさとこれからの毎日への憂鬱が体育館に座る生徒たちの隙間に澱のように沈殿していた。
「はぁ……」
どこからともなくため息は絶えず耳の中に飛び込んでくる。それもそのはず、雑音のように響いていく退屈な話の中では端々に勉強だの受験だの将来だのと、聞くだけでやる気を失くさせる言葉ばかりなのである。
今日はこの集会が終わった後、自分たちの教室へいって担任の先生からしょうもない話を聞き、提出日が今日となっている夏休みの宿題を出すだけの、気の抜けた一日だ。
受験かあ……。いよいよ、四ヵ月後なんだなあと考えてもいまいち実感は湧いてこない。とにかく今は勉強勉強。自分から進んでやろうと思わなくても、塾へ行けば否応なしにそれが強要される。毎日のように過去問を解かされ、小テストも毎時間あり、宿題もどっさり。正直塾をやめたいと思ったことは一度や二度ではなかった。
それでも、私は高校に受かりたい。自分の将来のために、一番行きたい高校に合格して、望と喜びを分かちあい、自分の選んだ道を歩んでいきたい。
しかしその反面、やっぱり勉強は嫌だった。やらなければと思っても遊んでしまうし、時間がないと言いつつも、暇な時間をもてあそんでしまう……。
後悔したときには既に遅い。親や教師の期待に応えるため、あるいは自分の将来設計のために、毎日机に向かってペンを持つ。渦巻く負の思念は留まるところを知らず、溢れ出し、私の体から放出されそうだった。
ふと気づくと、ざわざわと他愛のない雑談が当たり一面に漂っていた。どうやら、またしても暗い考えに没頭しているうちに、全校集会は終わっていたらしい。
「麻衣〜。また何か鬱ってたでしょ。暗いよ? 鬱オーラが滲み出してる感じする。まったく、何か悩みがあるとすぐそうなんだから。望がいないと何もできないの?」
茜に指摘されて、私は少したじろいだ。そうなのだろうか? 親友である望がいなければ、私は何もできないのだろうか。茜も大事な親友であるはずなのに? いや、茜は茜なりに私のことを心配してくれているのだ。
「そんな言い方ないでしょー。私だって人並みに悩みはするもの。憂鬱という言葉が似合わなすぎる茜のほうが不思議だよ」
「あたしは常にプラス思考で生きているのだ、はっはっは。高校受験なんてなせばなる! 怖いものなんてないっ!」
「ある意味では、その精神は尊敬に値するよ……」
私は皮肉めいた突っ込みを入れた。
「なにー? プラス思考のどこが悪いの? うじうじ過去や未来についてあれこれ悩むよりも最高じゃない。今が楽しければそれでいい! 素晴らしいね」
「どこが? ……まあ、今が楽しいって思うことは、何においても大事なことかもしれないね」
「でしょー。それでね……」
なぜ茜はこんなに楽観的でいられるのだろうか。全く不思議でならなかった。
次々と口をついて出る楽しそうな茜の言葉に、私は空しくも相槌を打ち続けていた。
2
「行方不明……? 一体誰が?」
「三組だったよね。……えーと、名前何ていったっけ?」
「確か結城(ゆうき)っていう子だよ。ちょっと暗い感じのする奴。夏休みが終わると同時にいなくなったんだってさ。家出か事件かはまだわかってないらしいけど」
「ふーん、初めて聞いた。受験を苦に家出ってやつかな」
「さあ、わからないけど、そうじゃない? 私、あんまりその人のこと知らないんだよね」
秋も半ばに差し掛かった頃、外は秋の長雨が大地を叩きつけるように降りしきっている。そんな気だるい日常に、一筋の亀裂が走った。私は偶然、教室の後ろで三人のクラスメートが話していることを聞いてしまった。
行方不明。そんなことが、この受験勉強に浸たりきった日常生活で発生するなんて。私の中では、想像だにしない大きな不安が一途に膨らみ始めている。ましてや、その行方不明の子というのが……。
「麻衣、聞いた? 美晴(みはる)が行方不明だって!」
早速噂を聞きつけたであろう茜が、私の目の前の席に腰を下ろした。不安と心配をごちゃ混ぜにしたような顔をしている。
「うん、さっき知ったよ……。まさか美晴が……。大丈夫かな……」
「うん……。最近学校来てないなと思ったら、まさか、行方不明だなんて……」
二人で黙りこくる。その行方不明となっている結城美晴は、私と望と茜の中学三年生になってからの友人である。その友人が受験を苦に家出……。確かに、美晴には暗くて脆い部分はあったかもしれない。でも、私たちに悩みを打ち明けてくれれば、いつでも相談に乗ったのに……。
独りで悩み、苦しみ、打ち出した解答が家出だというのか。それはどこか取り返しのつかない、裏切られたような結果だった。私は非常に絶望的な気分になった。
また一人、友達が私の側からいなくなってしまうのだろうか……。
私と茜はどちらからともなく外を見た。絶え間なく降り続ける雨、雨、雨。恵みの雨とは言うけれど、ここまで度が過ぎると迷惑極まりない。この雨の中、どこかの建物の下で、独りうずくまっているであろう美晴の姿が嫌でも目に浮かんでくる。
「美晴……」
今ここで受験に対する悩みと戦っている私たちが、たとえどんなに祈っても、信じても、何をしても、もうそれに挫折し、諦めてしまった美晴には決して届かない……。
キーン、コーンという昼休みの終了を告げるチャイムの音で、私と茜はハッと我に返った。それぞれの席に戻り、何度も何度も繰り返す、受験を意識した授業の準備を始める。
美晴も、望も、茜も、私の大切な友達。この三人がいたからこそ、幸せとはいかないまでも、楽しい日々を送ってくることができた。美晴と一緒に過ごした時間は、他の二人に比べて少ないけれども、そんなものは一切気になるものではない。大切で、絶対的な存在である三人の友達。そのうち二人、望と美晴が、私の側から消えてしまった。視界の外のどこか、遠くて手の届かない世界に行ってしまったのだ。そしてもしかすると、もう二度と会えないことになるかもしれない。
目から滲み出てきた液体を、眠気覚ましに目をこするふりをして拭った。
四方八方から襲い掛かる雨粒という名の弾丸。水溜りから飛び掛る雨の雫。私を薙ぎ払うかのように吹きつける横風。右手に手にした傘を守りの盾に、左手に握ったハンドルを唯一の武器に。土砂降りの雨で満たされた世界で、必死に自転車を漕ぐ。靴が濡れ、靴下が濡れ、足に雨粒が飛散する。そう、私はあたかも戦場にいるかのようだった。
「雨なんて大っ嫌いっ! ああもう、憂鬱憂鬱〜っ!」
雨に対する嫌悪感が時が進むにつれて、比例しながらむくむくと増大していく。びちゃびちゃと降りかかる、停止することのない雨。私は梅雨と、この秋雨が大嫌いだった。厚い雲の下の薄暗い世界では、ひどく陰鬱な気分になってしまうのだった。
望の病気。美晴の家出。茜の楽観。私の憂鬱。
全てが事前から当たり前に起こるようにプログラミングされていたかのような、あるいは嵌まるはずのジグソーパズルの一ピースであるかのようだった。
そして、この大雨と高校受験。何から何まで神の意図的な嫌がらせであるように思えてならない。日に日に憂鬱とストレスは、もうずっしりと重いはずのスポンジにじわじわと染みこんでいく。
ごちゃごちゃと考えているうちに家に着いた。私は傘をたたみ、家のドアを開けた。
「ただいま〜……」
学校が終わっても、今度は家で勉強しなければならない。宿題もあるし、テストもある。どこか割り切れない、もやもやとした思いが、何かの弾みに堰を切ったように溢れてしまいそうだった。
「美晴も、この憂鬱と圧迫に耐えられなかったのかなぁ……」
私はそうひとりごちた。たぶん、きっとそうだろう。大人でもなく子供でもない、ある種の中間的位置の入り口に存在する私たち。ふとしたきっかけで、あっという間に自分の中の何かが崩壊する、そんな脆弱(ぜいじゃく)で不安定な私たち。
私は部屋のドアを閉めたと同時にベットに倒れこんで、目を閉じた。ため息をつき、寝返りを打ち、時計を何気なく見やる。
幸い、今日は塾のない日だった。このまま寝てしまうのもいいかもしれない。だけれど、そろそろ十月も終わり間近、受験勉強もしなくちゃ……。
何だか泣きたくなってきた。佐口麻衣は勉強ができるから、レベルの高い塾に通ってるからという理由で、周りからの視線が他のみんなとは違っているという感覚がある。それは羨望なのか憎悪なのか、わからないけれど。
勉強ができるということはいいことなの? それとも、勉強ができるから目障りなの? 塾で学校よりも先のことをやっているから、問題を多く解かされているから、他のみんなよりもちょっとだけ進んでいるというだけで……。何もかも、私自身に初めから備わっている能力なわけではないのに……。どこの高校へ行こうと、どこの塾に通おうと、テストでどんな点数をとって順位がどうであろうと、全部私自身のことで他人には全然関係ないというのに。
受験勉強。それは、別に誰かが強制したわけでもない。絶対的にやらなければならないものというわけでもない。もともとは私が望んだことなのだ。やめようとその気になれば、いつだってやめることはできる。だけど、私は受験勉強をする。それによって開かれる、私の未来という曖昧なものに、希望を抱いているのだから。そして私はそれに向かって、ひたすら努力していくのだ。
そう、全ては自分自身だけが決定権を持っていることであり、放棄するも努力するも自分が決めること。勉強がしたくないならしなくてもいいし、受験勉強によって辛くなったのなら家出だってしていいだろう。
そう思い、私は望のことを考えた。望は選ぶことはできない。死ぬか生きるか。そのどちらかが運命的に決まってくる。自分で何かを選択しないというのは、どんなに楽なことだろうか。でも、望にも美晴にも、逃げてほしくなかった。望は生きることから逃げてほしくないし、美晴は受験から逃げてほしくない。私が言うのもおかしな話だけど、前を向いてほしいのだ。
いつだったか、望にそうメールで送ったこともあったっけ……。
「そうだ!」
私は思いついた。美晴にもそういったメールを送ろう。少しでも心の負担を取り除ければ、またもとの生活に戻れるかもしれない。
麻衣はベットから降り、カバンから携帯電話を取り出して開くと、メールのボタンを押した。
こうしてあっという間に秋は去りつつあり、冬へと徐々に変わっていく。乾燥しきってどこか薄くて中身のないような、そんな空しい空が頭上に広がっていた。街路樹の葉もきれいに黄色く、赤く、褐色に染まり、淡い色のグラデーションを作り上げる。
……結局、私には何もできなかった。美晴を救うことも、美晴の受け皿になることも。そんな弱さに溺れる自分が、悲しくてたまらなかった。
送ったメールは返ってきたものの、たった一言、「ごめん」という言葉だけだった。その一言は何万字よりも重く、あまりにも絶望的すぎた。誰よりも受験という憂鬱に飲み込まれていた美晴。誰よりも将来への希望を見出せなかった美晴。そして、苦痛を感じる生活から脱却した美晴。そんな美晴もまた、私の羨望の対象へとなり変っていたのだった。望も、美晴も、茜も。みんなが羨ましい……。最近になって、私は世界から一人だけはみ出されて、切り取られてしまったかのような疎外感を感じていた。望のように病気になって、この受験勉強から逃れたい。美晴のように家出をして、肩にのしかかる誰かの期待の荷を降ろしたい。茜のように楽観的になって、将来への不安感を取り除きたい。
そして私は、どうするというのだろう。
行きたい高校はもちろんある。今はその高校に合格したいという思いだけが、私を突き動かしている。内申も関係してくるし、面接もあるから外見にも気を遣わなくてはならない。
そして私は、何を得られるというのだろう。
楽しい高校生活? 気の許せる友達? 青春に部活に、甘い恋愛?
未来なんて誰にもわからないし、わかるはずがない。だけれど、誰しもその未来が明るくなるように望んでいる。だが、その望みが叶うと誰に言い切れるというのだろう?
さらに悪いことに、先日、望が東京の大学病院へ転院してしまった。それも私にとって、非常にショックなことだった。だけれども、私はもちろん、望ですらどうしようもできないことなのだ。
それでもやっぱり、どこか受け入れられない、割り切れないものがあるのだった。
人生なんて思い通りにいかないことは重々承知の上だし、現にそうだ。だけれど、どうしてそれが、望でなければならないのだろう? どうして美晴でなければならないのか? そして、どうして私でなければならなかったのだろう。
もう、お見舞いには行くことはできなくなってしまった。その大学病院は、かなり遠いところにあったからだ。もちろん今までだって、それほど頻繁にお見舞いに行くことができなかったけれど、今度は受験が終わるまで、あるいは望が退院するまで、会うことができなくなってしまったのだ。
でもそれは、病気が治ったらの話であって、可能性としてはもう二度と会うことができないのかもしれないのだ。望も美晴も、そういう一歩間違えば奈落の底へと転落する、脆弱的で、不安定な位置に立たされていた。
そして、私も茜も。
「おっはよー、麻衣! ねぇねぇ見た? 今日のニュース!」
朝、学校の廊下を歩いていると、茜が後ろから話しかけてきた。そしていつかのように背中をどつかれた私は今度こそ本当に前へつんのめり、冷たい廊下の床に手をついて倒れてしまった。
「あはははー。また夜遅くまで勉強していたな? 鬱オーラが体からあふれ出してるよっ。そんなんじゃ受験どころじゃないよ、麻衣〜!」
そう言うと茜はさっさと教室に入ってしまった。
「いたた……。今のはやりすぎっ! それに、もう受験まであと二ヶ月だよ? 勉強しないほうがどうかしてるって」
「あたしだって人並みにはやってるつもりだよ」
「そうは見えないけどなぁ……。で、ニュースって何?」
「はっはっは。聞いて驚け! ……なんとっ!美晴が無事に保護されたようであります! じゃじゃ〜ん!」
少し間が空き、私は腰が抜けたようにその場にへたり込みそうになった。クラスのみんなも茜の言葉を聞きつけ、こちらを注目していた。
茜が私を支えてくれ、席につかせてくれた。私はため息をつくと大きく安堵した。
「そっ、それ、本当なの? 間違いじゃないよね?」
「もっちろん! テレビのニュースで見たし、職員室前で聞き耳を立てていたから間違いなし!」
茜の情報は正確らしく、再び私はため息をついた。本当にあの「ごめん」というたった一言のメールには、とんでもなく心が圧迫されていたのだ。それが徐々に消え去っていき、安堵感が体を駆け巡っていく。
「よかった……、本当に……!」
私は大きくため息をついた。心なしか、クラスのみんなも私と同じ気分のようだった。が、それも当然だった。ただでさえストレスにまみれ、誰もが憂鬱な気分を抱えている。そんな中に行方不明なんて、余計に気が重くなって当たり前なのだ。
「うん。それでね、あさってから学校に復帰するって。今日と明日は様子見だってさー」
相変わらず茜は誰よりも情報通であり、それがある意味では役に立っていた。
美晴が戻ってくる。それだけで、何だかこの憂鬱感が緩和されたような気分になり、また前へと進むことができそうだった。受験、勉強、テストと名のつく全てのものは、誰にだって嫌なことに他ならない。だけれども、楽しくて気の合う友達がいればそれを乗り越えていける、そんな気がするのだった。
教室の窓は冬の訪れを告げるかのように、風が吹くたびガタガタと寒そうに震えていた。
3
朝の通勤電車。
何とも言えない不安が私を取り巻いている。パンフレットで何度も確認した経路を頭の中で反芻する。大丈夫、大丈夫。そう何度も言い聞かせながら、私は試験を受けるために高校へと向かっている最中だった。
なんだかんだいって、美晴は結構普通にクラスに溶け込んでいた。家出をするということで、その意志の強さ、覚悟の強さが知れ渡ったかのようだった。大抵こういうときは野次られたりするもんだけどなぁ……、とも思ったが、あながちそうでもないようだったので、私も茜も、そして美晴も、安心して受験に挑むことができるのだった。
望が私を信じてくれているなら、私もそれに応えなくちゃいけない。絶対に、合格通知を受け取ってみせる……!
茜と美晴は公立の高校を受けることにしたが、私の場合は私立の進学校。茜は、「なるようになるって。気楽にいこうよ〜」と悠長なことを言っていたが、私の場合はそんな簡単な気持ちでどうなるものでもない。偏差値、内申、面接の際の外見的アドバンテージ。それらも合格への道具として、たった一回の勝負に今まで積み上げた努力の全てを賭けるのだ。
プシューッとどこか気の抜けた音がして電車のドアが開いた。私の受ける学校は駅から徒歩で行くことができた。頭の中では、数式と漢字と英単語がぐるぐると渦を巻いている。
大丈夫、大丈夫。こういうときは緊張するとかえって結果が悪くなる。リラックスして、落ち着くことが何よりの秘訣だと頭の中ではわかっているつもりだが、どうにも気持ちが理性に追いつかない。
道を歩く人、人、人。誰もがそれぞれの思いを胸に、これから通うかもしれない学校へと向かっている。第一志望の人もいれば、滑り止めの人もいるだろう。それぞれの視線は様々だが、合格したいという意志は、私を含め全員が同じであるはずだ。
校門を抜ける。緩やかな坂を上る。昇降口で上履きに履き替える。階段を昇る。教室に入り受験番号を確認して席に着く。時間がゆっくりと進んでいるかのように、一つ一つの動作がコマ送りのように浮き彫りになっていく。周りの浮き足立ったようなざわめきや、単語や公式などの暗唱。今までの努力の再確認と、これから始まる試験への未確認な不安。一秒一秒が普段よりも数倍の重みをもってのしかかってくる……。
キーン、コーンというチャイムの音が響いた。さあ、開戦だ!
受験期間が終わると、クラスの中には終結した空気が流れ始める。ようやく終わったのだ、これでもう、あんなに辛い受験勉強を続けなくていいんだという開放感。それがどこか心地よかった。
「麻衣〜! あたし受かったよ〜!」
朝一番で茜が話しかけてきた。それほど偏差値も低くない公立高校を受けた茜は、無事に合格したようだった。あれほど勉強が嫌いだった茜でも、試験はなんとか乗り越えられたようだった。
「私も何とか受かったよ」
美晴も公立を受けたが無事に合格したようだ。
「ということで、三人とも第一志望に合格したのであった〜。いやーよかったよかった。一時はどうなることかと思ったよ」
「その一時って私のこと?」
茜の言葉に美晴がすかさず突っ込んだ。
そう、私も無事に合格できた。発表時に自分の受験番号を見つけたときには何とも嬉しく、そしてこそばゆい気持ちだった。三人とも第一志望に合格できた。自分の行きたいと思う学校に行けるのである。今までの努力はこうして報われたのだった。
「卒業したらなかなか会えなくなるねぇ、あたしたち」
「寂しいこと言わないでよ。たまに休みの日とか、どっか遊びいこうよ」
二人はのんきな会話を続けていた。この三人は友達どうしであるが、私には絶対的な親友がいた。彼女とは会えるかどうか、まだわからないのである。
と、携帯が鳴った。マナーモードにしていなかった私は、慌ててポケットから携帯を取り出した。
「こら〜っ! 学校に携帯持ってきていいのか〜?」
茜に咎められたが、気にせず携帯を開いた。見ると、望からメールが届いていた。
そこには一行、「一ヵ月後に退院することになったよ」と書かれていた。
「お、やったじゃん。ということは手術が成功したんだね〜。何だか全部が全部ハッピーエンドだね」
「だね。バンザーイ!」
茜と美晴がはしゃぎだした。私はただただ嬉しさに言葉を失くしていた。
卒業。それは何かの終わりで、また何かの始まりである。
中学三年間を終えた私は、高校へと進学していく。少しずつではあるが、人生は先へと進んでいく。出会いもあれば別れもあるし、成長もすれば過去を振り返ることもある。先へ進むということは何よりも大切なことだ。過去に縛られたままでは、何もかもが絶望的に見えてしまうのだから。
こうして、望は無事に退院し、私は第一志望校に合格できた。望と一緒に写真も撮った。今までのことも、たくさん、たくさん話した。
望と近所の土手を散歩しながら、私はいろいろなことを考えていた。
この春休みは望といろんなところへ遊びに行こう。面白おかしく会話して、たくさん楽しいことをしよう。
ああ、なんて幸せなのだろうか、と私は感じた。悪しきものは全てどこかへ消え去ってしまったようだ。私たち二人、いや、私たちはみんな、茜も美晴も望もみんな、幸せだと実感しているのではないだろうか。
「空が綺麗だねー」
「うん」
私と望は、一緒に空を見上げた。さんさんと降り注ぐ春の光。眩しすぎるほどに輝いて、あまりにも幸福すぎる光。
そう、この気分でこそあの青い空は初めて意味を成すのだ。
今日もまた、空は空しいほどに青すぎて、雲は呆れるほどに白すぎた。
説明 | ||
高校生のころ書いた小説その2。 「私の心とは裏腹に、空は空しいほどに青すぎて、雲は呆れるほどに白すぎた」 中学三年の秋。高校受験に向けての準備が始まる中、一人の少女が行方不明になった。 親友が重病を抱える中で、受験とその事件が佐口麻衣の心を大きく揺らめかせていく……。 |
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