機械仕掛けのバベル |
『あの塔の中には何があるんだろう』
『それは母さんにも分からないわね。でも、あの中に入ろうなんて思っちゃ駄目よ。バベルの中には入っていけないの』
なんでもない昔の会話。それを僕は忘れられなかった。
明日の学校への準備を済ませ、家の窓から外を眺める。外は嫌というほど明るかった。電気が、光が溢れているのは何の変哲もない普通の光景だ。昼とほとんど変わらないこの明るさが、遠い昔は普通ではなかったらしい。昔はこんなにも機械が多様化するとは思われていなかったようだし、この時代とでは差異がありすぎるのだろう。
この窓から見える街の中でも目に付くのは雲を破るほど高い塔。この街と同じように、機械で出来ていた。あんなに高い建物なのに、母も父も、祖母も祖父も、誰もあの塔については知らない。本を見ても何も分からなかった。皆があの塔に持っている認識は『入ってはならないもの』だということ。でも、僕はあの塔が気になって堪らなかった。
――機械仕掛けのバベル。
神への挑戦として作られたバベルの塔から付けられた名前。あれがいつ作られたのか、誰が作ったのかも記されたものはなく、入ってはいけないものとしてだけ伝承されている。僕が自分で調べて分かったのはこれぐらい。これ以上のことを知るためには、あの中に入るしかないのだろうか。そうは思っても実行しないまま一日が終わっていく。これを何度繰り返したかはもう覚えていない。
窓を閉めるためのスイッチを押してから、ベッドに横たわる。相変わらず硬いベッドだった。リモコンで冬の設定をベッドに送ってから、部屋の電源を落として瞼を閉じた。
「おはよう」
居間には、母しかいなかった。父は早い内に仕事に行き、祖父もその付き添いだろう。祖母はきっと部屋で何かをしているに違いない。いつものことだから気にせずに母に今日の朝食が何かを聞くことにする。
「今日はトースト? ご飯?」
「トーストね。ご飯にしようと思ったんだけど、設定をするのを忘れちゃってねえ」
母は笑いながらそう言った。そう、とだけ返事をし、テレビを眺める。テレビでは気象情報のニュースがやっていた。どうやら今日は昼から雨が降るらしい。バベル周辺が十四時四十五分に降るらしいので、学校では体育の時に雨が降るのだろう。どうせ体育館でやるのだから関係はない。
「そういえば、もう学校の準備は済ませてあるの?」
「あるよ。昨日寝る前にやっておいたから」
「今日は体育の日だったっけ? 体操着も入れた?」
「うん。大丈夫」
それも踏まえて準備を済ませたといったつもりだったのだけど。確認を何度も取るのは母の癖だった。少々鬱陶しく思う時もあるが、たまに忘れる時があるのでそう思っていることを口にしたりはしない。
「はい、トーストと目玉焼き」
いつも通りのトースト、いつも通りの目玉焼き。テーブルに置いてあるケチャップを塗ってから食べだす。二日に一回ぐらいのペースで食べているものとはいえ、なかなか美味しい。
「あ、サラダはどうする?」
「食べるよ。野菜はとらないとね」
素っ気無い会話は味がない。自分の食べているものまで無味に思えてきてしまう。それは間違いだ、と声を揃えて皆は僕に答えることだろう。
食べ終わったあとに残るのは真っ白いお皿だけ。それを流し台に運んでから居間を出る。二階にある自分の部屋から鞄を掴み、玄関へと向かう。玄関のスイッチを押すと、ドアが開く。僕が出たあとに自動で締まり、そのまま鍵を掛ける。いってきますと言うのを忘れてしまったが、いいだろう。学校へと向かうことにした。
肌を刺すような冷たい空気の中をゆっくりと歩いて行く。
相変わらず綺麗な街だった。煤けることもない保護フィルムが建物に貼られているからだ。汚れというものが、昔はもっと多かったらしい。汚いものは好きではないけれど、変わらないのはあまり好きではなかった。このことを友達や、家族に話しても白い目を向けられるだけだったので、あまり言わないようにしている。
学校へと続く坂を登っていく。道に作られた街路樹は今日も綺麗だ。これがあると、命があるように思えてくる。そんなのは嘘だ。模造品でしかない。この世界は模造品ばかりだ。ゼロから物が作れるのは、物が消え失せたからだろうか。物が消え失せたから、ゼロから物が作れるようになったからだろうか。
この世界はひどくあやふやだ。僕はそう思うのに、皆はそう思っていない。なぜなのだろう。
「おはよう、エイ」
後ろから声を掛けられたので、振り向くと友人のユウがいた。ホットドックを片手に持っているから、さっき過ぎたホットドック屋で買ったのだろう。ちょうど入れ違いになったのかもしれない。
「おはよう。それはあそこで買ったの?」
ホットドック屋を指で指しながら聞く。
「そうそう。名前はアールドック屋だったっけか。うまいっちゃーうまいけど、二回買うほどではないって感じだなあ」
ユウは半分ほどになったホットドックを齧りながらそう言った。
「しかし、なんでまた朝からそんなものを買ってるんだい」
「いやね。母さんが寝坊しちまったんだよ。時計のアラームが鳴ってるっていうのになあ。そのアラームで俺が起きたぐらいだってのに」
会話をしながら歩みを進めていく。学校はもう近くにまで来ていた。
「やっばいな。半分食ってくれよ。校門に先生が立ってたら面倒だし」
半分に割った大きさは一口で食べられそうだった。
「あんまり腹減ってないけど、貰うよ」
貰ったホットドックは美味しかったけれど、ユウの言うとおり二度食べたいと思うものではなかった。
「これは確かに二度食べたくなるものではないね」
「だろー。まあ良いけどさ。経験は未来をより良い物にする必需品って言うし」
……未来ね。ユウのその言葉に僕は適当な相槌を返すだけだった。
白に塗装された綺麗な学校の敷地内に入っていく。校舎までは結構な距離があった。グラウンドには土があるけれど、これも作り物らしい。元の土がどんなものか分からないので、作り物であることなど気にしないほうが普通なのだろうか。
「そういえばあの土とかって作り物なんだよな」
ユウに不意に尋ねてみた。どんな答えが返ってくるのか予想は付いているけれど。
「ん? ああ、そうなんじゃないの。でもそんなこといったら大体のものが作り物だろ? わざわざ名前のあとに、(模造)とか(偽)とか考えるのは面倒くさいし、気にしてたら疲れるだけじゃなんじゃね?」
「……それもそうか」
実際それで良いと思ってはないけれど、そう答えておくのがベストなのは分かっていた。けれど、それで終わろうという気にはなれなかった。
「でもさ。この世界ってひどく曖昧じゃないか。どうしてそんな偽物が蔓延っているのは知っているのに、オリジナルがないことを疑問に思わないんだろう」
ユウは困ったような表情をしてから喋り出す。
「大昔がどうだったかは知らないけどさ。本物が消え去った原因は不明らしいし……それが不明ってのは確かに気がかりだけどさ」
ユウは言葉を続ける。
「――偽物しかないなら、それが本物ってことだろ」
それは違う。贋作が本物より優れていたとしても、それが同一視されることは絶対に違うはずだ。そう思っていることを僕は主張できなかった。言っても無駄だろうし、仲違いをすることになりかねない。
「まあ行こうぜ。邪魔になってるみたいだ」
いつの間にか足を止めていたらしい。校舎への入り口附近に突っ立っている僕達を避けながら、同じ制服をきた生徒が通って行く。その中の一人の女生徒がこちらを振り返ったので、目が合ってしまった。離れていても分かる整った顔立ち。明らかにこちらを見るために振り向いたらしく、なんだか気まずい。それは向こうも同じだったのか、バツが悪そうな表情をした後、逃げるように長い髪を翻して校舎へと入っていった。
また立ち止まったまま白い眼差しを受けるのは嫌だったので、ユウと一緒に教室へ向かうことにした。校舎は僕達が来るのを察知すると、勝手に口を開ける。餌が運ばれてきたとでも思っていないかと、白い校舎を睨んでも反応があるわけもなかった。
午前中の授業が終わり、昼食の時間だ。学食はいつものように賑々しい。食券をユウと一緒に自販機で購入したのちに、カウンターの機械に入れる。しばらくしてトレイに乗って出てくるので、それを運んで適当な場所に座った。注文したものは、醤油ラーメンと申し訳程度のサラダ。ユウはラーメンだけだった。
「またサラダか。野菜とかなくても生きていけるって」
「食物繊維取らないと胃の調子が悪いんだって。言ってなかったっけ」
「あー……聞いたような聞いてないような。野菜とか食わずとも全く問題ないと思うんだけどなあ。これまでの人生で風邪とは無縁だからなあ俺。特に意識して野菜とか取ってるわけでもないのに」
「ユウはそうなんだろう、ユウはな。そういえば、今日雨が降るらしいけど、折り畳み傘とか持ってきた?」
「そうなのか!? 今日雨降るとか聞いてねえよー。予報外れたりしないのかねえ」
「天気予報は外れないものだって前に豪語してただろ。外れないだろうさ。俺も忘れてしまったから、帰るときはどっかで買っていきますかね」
「その案でいくしかなさそうだなー。精確な予測ってのは便利だけどがっかりするもんだなあ……」
「ほどほどが一番だったのさ。結構あたってたまに外れるぐらいが。野球で超一流の選手が十割バッターだったら逆に白けるのと一緒だと思うね」
「野球は三割打てれば一流バッターらしいからな。あれ? ピッチャーはどの程度で優秀なんだっけ?」
ラーメンを啜りながら問われた。サラダを先に食べてしまってから答える。一品食いの癖は治らない。
「覚えてないよ。野球はあまり見ないもの。防御率だかが小さいほうがいいんじゃなかった?」
「ほー。打率のほうは分かるんだけど、防御率はどうやって計算してるのかいまいち分かんねえよなあ」
「そうだね」
とりとめのない会話を続けているうちに、ラーメンを食べ終わっていた。学食は食べ終わった人が去っていき、そこまで人は多くない。このまま駄弁っていても誰にも文句は言われそうになかった。
「さて、どうするかね。教室に戻るか?」
「このままここに居てもいいんじゃない。人もあんまりいないみたいだし」
「それもそうか。じゃあちょっと俺は餡饅買ってくるわ。エイはどうする?」
ユウが立ち上がりながら僕に聞く。少し迷ったが食べることにしよう。
「それじゃ、俺も同じ餡饅をお願いするかな。中華のあとには中華で締めたいしね」
「場違いなサラダを食ってたやつがよく言うぜ。じゃ、ちょっと行ってくる」
ユウはそのまま食券売り場のほうへ歩いていった。窓から外の景色を眺めてみるが、ここからではバベルは見えなかった。携帯で、ニュースでも眺めることにしよう。携帯を取り出し、ネットニュースを開いた。
「ちょっと」
携帯を持つ手が少し荒ぶった。横から声を掛けられたことに驚きつつ、そちらを見る。茶色がかった長髪に、少し見覚えのある顔。朝の目があった女生徒だった。
「なに?」
要件が予想もつかなかったので、そう答えるしかなかった。朝立ち止まっていたことについての難癖をつけられるのだろうか。
「あなたって朝っぱらから世界が曖昧だとか、そんなことを話してた人だよね?」
それは予想外の返答だった。そんな妄言を吐いているんじゃないと叱咤されるのか? 僕には彼女の意図が分からない。
「あ、ああ。そうだけど……それが?」
落ち着いた声で応じようとしたけれど、さすがに動揺が声に表れてしまった。
「話したいことがあるから、今日の放課後。時間ある?」
彼女に対する疑心は拭えないけれど、無視する訳にはいかないようだ。
「あるけど……場所はどこに?」
「図書館で落ち合うってことで。それじゃまた放課後ね、よろしくー」
それだけを言い残して彼女は去っていった。入れ替わるようにしてユウがやってくる。ユウのいない時を狙って話しかけてきたのだろうか。……名前を聞く暇もなかった。慌ただしい人……というのは何か違うけど、なんなんだろう。
「ほい、餡饅一つ。百円な」
手渡された餡饅を受け取って、財布から百円を渡す。彼女のことについて聞かれると思ったが、どうやら見られなかったらしい。
いつもより味気がないように感じた餡饅を頬張りながら、雑談をしていると予鈴が鳴り響いた。ユウと一緒に学食を後にして教室へと戻る。
午後の授業は眠いものが多い。内容もさることながら時間も時間だ。昼食後なんて眠くなるのが当然だろう。教室を見渡すと結構な人がうつらうつらとしている。机に突っ伏して寝ている人も何人か見て取れた。僕は眠さに耐えながらも、窓からバベルを見ていた。あの巨大な塔はこの街のどこからでも見ることができる。高くそびえ立つバベルは、どのぐらいの高さなのか分からない。僕が見て測ることは当然の如く不可能だけれど、機械を使っての観測の結果がないのだ。あれだけ高い塔なのに、存在が忘れられたかのようにバベルについては触れないのが当たり前となっている。
臭いものには蓋をするように、皆があれを嫌がっているようには感じない。でも、自分には関係のないものだと、心の端のほうに追いやっている気がするのだ。理由は分からないし、彼ら自身も知らないような気がする。無意識のうちにバベルを退けたいような……。
無意識。集合的無意識という言葉を大昔に誰かが提唱していた気がする。個人の域を超えた集団における人の心の奥深くに存在する意識。そうなのだろうか。もし、本当にこの通りだったとしたら、僕は何なのだろう。
僕の思考の旅はチャイムの音によって終わることになった。教室がざわざわと会話で満たされていく。次は体育の時間だった。
「エイ、行こうぜ」
ユウに声を掛けられたので、体操着の入った鞄を掴み教室の外へと歩いて行く。廊下を通っている間、さっきの彼女はどこのクラスなのだろうと探しながら進んでいったけれど、結局見かけることはなかった。
体育館で授業を受けていると、やはり雨が降ってきた。冬場に雨というあまり多くないことでも予報はきっちりと外さない。バドミントンをやっている時にあまり外を見る余裕はないので、授業に意識を向け直した。なんだかんだ、今日も一対一では負けることがなかったので体育は良い成績を貰えそうだ。
今日の授業が終わり部活にも所属していないので、いつもはそのまま帰るのだけれど、急用がある。
「悪い、今日はちょっと用が出来ちゃったから、先に帰ってくれ」
いつものように帰ろうと近寄ってきたユウにそう告げた。
「おう、そうなのか」
「悪いね。急用でさ」
「なら仕方ないかー。急用ってなんなん?」
詳しく話すと面倒なことに成りかねない。適当に濁すことにしよう。
「まあ学校でやっておきたいことがあってさ」
「ふーん。そっか。まあ雨が強くなる前には帰ったほうがいいぜ。じゃあなー」
じゃあ、と手で合図をしてユウを見送る。一体どんな話が待っているというのだろう。僕の第六感が色恋めいたものではないと言っているから、きっとそうではなく別のことだろう。どちらかと言えば、警鐘を鳴らしているので用心をしながら向かうとしよう。
図書館は生徒証を提示しないと入れないから、あまり立ち寄ったことがない。財布の中に入っている生徒証を出して、機械に読み込ませると扉が開く。辺りを見回すと、簡単に彼女は見つかった。図書館に置かれた机に座り、本を読んでいる。他の生徒もいるようだったが、雑談している人も少なくはない。彼女と向かい合うように、対面の椅子に腰を掛ける。彼女はチラリとこちらを見ると、本を閉じた。
「それで、話って?」
「話って一括りにすると難しいのよね。……とりあえず、あなたって社会不適合者?」
僕の鼻あたりを指さしながらそう言った。いきなりひどいことを聞くものだ。普通の人なら怒り出すところだろう。それは彼女も分かっているようで、どこか緊張した表情をしていた。指先が震えている。
「そうだね」
自覚はあったから、肯定をする。僕みたいな考えを持っている人間はきっといないと思っているからだ。
「そう、よかった。なら私も社会不適合者だから」
彼女は嬉しそうに笑った。
「その口上だと、社会不適合者と思ったから用があると」
「そうそう。あのバベルに入る仲間になれないかと思ってね」
機械仕掛けのバベル。あの中に入ろうと思っているのか、彼女は。
「それは別に構わないよ。即決さ。大体、あんな不可思議なものに興味を抱かない人間のほうがおかしいってものだろう」
「本当にそこなのよね。偽物ばかりの世界であることが当然っておかしいじゃない」
彼女は腕を組んで頷く。
「それには同意するよ。それで名前は?」
「私? 私は『ワタシ』よ。これで分かるでしょ」
「なるほどね。アイってことか」
「そういうこと。そっちは?」
僕が言い当てたことをさも当然のように流しながら、アイは僕に尋ねる。
「エイ。あんまり好きな名前じゃないけどね」
「そう? 私は似合ってると思うよ。それにエイとアイって結構似てるから、私は好きだよ」
やけに簡単に物を言う人だ。そうも素直に評価されると少し恥ずかしい。視線を逸らしてガラス窓のほうを眺めた。雨は一向に止みそうにない。
「それじゃ、メールアドレス。交換しましょ」
アイは携帯電話を取り出してそう言った。嬉しそうにこちらが携帯を出すのを待っている彼女の姿は、図書館の風景とも相まって一つの絵のように見えた。
図書館は本当にただの確認の場所に使われただけだった。中でしたことは、顔合わせとメールアドレスの交換だけ。適当に落ち合うのにはここが一番だったのだろう。裏庭だと人が少なすぎるし、変なところを指示されても行くのが面倒なだけでなく、誰かに見つかっては怪しまれる。木を隠すなら森の中……というやつか。もうそのままの意味として使われることが叶わなくなってしまった言葉だ。木は成長しない模造品だけ。校庭の隅に植えられている楠の木も、生命は宿っていない。
「ごめんごめん。生徒証ようやく見つかったよ。待たせちゃってごめんね」
アイは生徒証が見つからず、しばらく図書館の出口に阻まれていた。それがようやく見つかったらしい。思ったよりもどこかで抜けているところがあるのだろうか。朝だって僕に一応見つかっていたわけだし。
「いいよ。このあとはどうするの?」
「どっかで作戦会議でもしましょうよ。どこにするかは決めてないんだけど」
「喫茶店とかでいいんじゃない」
「それが妥当なところかあ……でもなんか作戦会議に似つかわしくないじゃない?」
どういった判断基準なのだろう。僕には分からないので、他の案を出すのを渋る。その間に、アイは思いついたように手のひらを叩き、思いがけないことを言い出した。
「よし、私の家に来てもらおう」
そのままの流れで下駄箱がある玄関まで来てしまったけれど、雨が降っているのを思い出す。さすがに傘を盗みをしたくはないとはいえ、雨脚は強い。アイよりも先に坂を下りきったところにあるコンビニで傘を買ってしまおうか。
「なに、ぼさっとしてるの?」
アイは玄関前で、傘を広げつつこちらを見ていた。
「傘がないからどうしようかと思ってたところ」
「予報でちゃんとやってたのに?」
「雨が降るのは分かってたのに持ってくるのを忘れたパターンなんだよ」
「ああ、そういうこと。なら私の傘、使う?」
アイはそう言いながら広げていた傘をたたんで、こちらに見せる。
「二本持ってるなら有難く借りるけど」
「一本しかないね。いいじゃない、相合傘で。どうせ坂を下ればコンビニがあるんだし、それまででしょ。その代わり傘を持つのは任せたからね」
そう言われては、頷くしかなかった。
雨のこともあってか、外での運動部の活動も少なく下校する生徒の数はいつもより多い。野球部が使うバッグや、サッカーシューズを持って下校している生徒の姿が目に映る。そういった彼らの視線がこちらに向けられては、すぐに元に戻る。やはり相合傘は目に付くらしい。恥ずかしくないと言えば嘘になるけれど、隣にいる人にそれを悟られると面倒だったので隠すように努めよう。
「お、思ったよりもひと目に付くのね」
しかし、僕よりもアイ自身のほうが驚いているようだった。僕の中でアイのイメージが定着しつつあった。彼女の鷹揚さはまさしく鷹だ。そしてどことなく抜けているのは鳶のようでもある。おっちょこちょいの鷹。我ながら褒めているのか貶しているのかよく分からない例えになってしまった。
「まあ仕方ないでしょ。それで、アイの家で本当にいいのか?」
校門を過ぎてから、改めて確認を取る。
「ん? いいっていいって。見られて困るものもないし、質素も質素。つまんない家だから」
彼女はまた確認を取られるとは思わなかったのと、今の状況に少し困惑してるようだった。
「……そういうなら、いいけどさ。それで、一体どんな作戦を練るんだい」
「まあまあ、作戦についてはうちでってことで。気ままに雑談でもして向かいましょうよ。会話を弾ませでもしなきゃやってられないわ」
自分から言い出した状況だろ、と口にしてしまいそうになったが抑えこむ。
「雑談って言われてもな。ならそれとちょっと似通った話になるけど、どっちの方角なんだ。アイの家って」
「んー。あっちね」
指で示された方角は僕の家とそこまで離れていなさそうだった。
「エイのほうはどうなのよ」
「大体同じ方角。この延長線」
同じように指差しで自分の家がある方を示した。
「へー。そういえば、エイって何年生なの? なんとなくタメ口だけど」
「俺は二年だけど。そっちは?」
「私も二年ね。一組所属」
「こっちは七組だな」
「それだけ離れてるから見たことなかったのかなあ。ま、同級生って知って気が楽ね」
「同級生?」
「あ、同学年同学年。年上だったら失礼だし、年下だったら年下だったらで、年上としての威厳がないし。同い年って最高ね」
「気楽といえば気楽だな。そういえば他に仲間とかいないの?」
「いないよ。なんか一人だと辛いから誰かスカウトするかあって思いだした日に、良さ気な人がいたから招待してみただけ。いやー思ったより簡単に見つかるものね」
アイは嘘偽りないような声でそう言った。
「俺みたいな人は他にいないと思うけどね。これまでそういうこと……朝言ってたこととかを他の人に話しても大抵白い目を向かれるだけだった」
「やっぱり? なんか私もそんな気がしてたのよね。私みたいな考え方の人っていないんだろうなあって」
雨が強さを増してきた。冬なのに雨が強い。このおかしさ。自分の中にある常識をあざ笑うかのように、雨は強い。
「それで他にメンバーを増やしたりする予定はあるの?」
彼女は考え込むように、口元に手をあてて、うーんと声をあげたあと喋り出す。
「ないわね。実際あそこに入るのって自殺同然でしょ。私はあのバベルに入る道連れ且つ相棒が欲しいだけだったんだから」
あのバベルに入ると戻ってこれないという逸話はある。この街中に広まっている話だ。事実無根だけれど、入った人物がいないのだから分からない。それなのに入ってはならない建物。
「なるほど。それについてはさっきも言ったように良いさ。そのつもりで答えたからね」
「でも、私はできるだけ死にたくないわね。あの塔から帰還した唯一の人物ってかっこよさそうじゃない」
「その後ろに俺もいてくれることを願うよ」
「なら唯一のチームってことね。中のものとか、中で起こったことを話せばきっと何かが変わるはず」
「変わる?」
彼女はこっちを見上げてアクセントを付けて発した。
「世界」
僕を見る視線に濁りは無く、それを信じて疑っていない。きっと本当に世界を変えるのはこういう人達なのだろうと思った。アイと僕とではあまり身長差がない。同じ傘の中でアイのほうを見ていては自然と距離が近くなる。気恥ずかしいので、視線を前に向けてから喋り出す。
「そうだな。きっと変えられると思うよ」
僕は本心を口にしていた。それが彼女には嬉しかったらしい。
「やっぱりエイって変な人ね! 同類が見つかるのって思ったより嬉しいわ」
自分のことも変人と認識しつつ、彼女はそう言っているのだろう。いつの間にかコンビニの近くまで来ているので、この相合傘も終わりだ。
「それじゃコンビニで買ってくるよ。はい、傘」
持っていた傘を手渡して、コンビニの中に入っていこうとする。
「ちょっと待って、私もコンビニで買っていくものがあるんだから」
「何を買うんだい」
アイが来るのを少し待ってから二人でコンビニの中へと入っていく。
「ベーコンとアイスかな」
「この寒いのにアイス……?」
「前来た時に半額で売ってたのよ。スーパーよりも半額のこっちのほうが安いし、ベーコンはチェーン店のスーパーもコンビニもあんまり値段が変わらないからね」
冬にアイスを食べることに関して答えて貰っていないが、季節はお構いなしという考えなのだろうか。
「お使いでも頼まれてたの?」
「ああ、言ってなかったね。私って一人暮らしだから。食材管理とか色々と面倒なのよ」
「そうだったのか」
入ってすぐのところにあるビニール傘を掴む。
「先にレジ済ませといてー。ベーコンとアイスの品定めでもしてるから」
首で返事をしながらレジへと並ぶ。前に並んでいる人は、ホットフードの餡饅を買って外に出ていった。ホットフードが入っている保温器には、『当店だけの自慢の味付け!』と記されたポップ広告が飾られている。味は調味料の配分で変わるのだろう。しかし、元となっているものが何か分からない。もしかしたら食材は全て万能物質とでも呼ぶような、物質から生み出されていたとしたら、全て同じではないのか。
「……五百円になります」
店員からの声を聞いてハッと我に返る。財布から五百円硬貨を取り出し、支払った。会計を済ませたビニール傘を持って、アイの元へと歩いて行く。どうやらアイスの品定めのまっただ中らしい。
「こっちは終わったよ」
アイはガラスケースに向けていた視線をこちらに返し、僕に問う。
「量を取るか、質を取るかどっちがいいと思う?」
手には二つのアイスが握られていた。片方はアイスキャンディの箱、もう片方は一つのカップアイスだ。
「長期間食べ続けるんだったら、アイスキャンディのほうがいいんじゃない」
「それもそっか。ならそうしよう」
僕の助言をあっさりと聞き入れて、アイは箱を持ってレジのほうへと向かっていく。ベーコンはもう選んでいたらしい。会計を終えると、二人で外に出る。雨はまだ止んでいなかった。買ったばかりの新品のビニール傘を広げて持った。
「そういえば、アイの家までここからどのぐらい掛かるんだい」
「十分ぐらいかな」
「まあ近すぎても面倒だろうし、大体そのぐらいかあ」
コンビニまでの坂を終えて、まっ平らな道を歩いて行く。相合傘を脱却したので、少し声を貼らないと雨で届かない。何を話そうかと思っていたところで、アイから声がかかった。
「エイって何か趣味とかないの?」
「趣味らしい趣味は特にないけど。そういうアイは?」
「私は……音楽鑑賞ぐらい?」
アイは制服のポケットから携帯型の音楽プレイヤーを取り出していた。
「んーと、こういうクラシックとかしか聞かないけど」
画面に表示されるのは、あまり知識のない自分でも分かるぐらい有名な曲だった。
「ああ、これなら知ってるよ」
「これは有名だからねえ。でも私もそこまで詳しいわけじゃないんだ。部活でやってるわけでもないし」
「部活は何かやってるんだっけ?」
「何も。授業が終わって家に帰る日々を繰り返すだけだよ」
「俺もそうだな。さっさと返って本を読むか、ネットサーフィンするぐらいだ」
「なら読書とパソコンが趣味ってことじゃないの?」
アイは笑いながらそう言った。
「そうか? まあそうなるのかな」
「エイは面白いねえ、アハハ」
「そんなに笑うほどのことかね……」
自動車が頻繁に行き交っている交差点で赤信号に引っかかってしまった。会話は続いているけれど、どこか意識がここから離れていくように感じる。前を横切っていく自動車をなんとなく眺めていても、楽しくはないけれどボーッと見つめ続けてしまう。
この街が機械のように、車も機械だ。なぜ、それを運転する僕達だけが機械じゃないのだろう。人間が機械に囲まれながら生活する。普通なら逆じゃないのか。人間の生活の中にちょっと生活を便利にするために機械があって、他の生命への補助じゃなかったのか。
――もしかしたら、僕達だって機械なんじゃないか。
「エイ、信号変わってるよ」
「え、ああ」
アイに声を掛けられるまで気づかなかった。会話も続いていたのか覚えていない。
「急に黙っちゃうから驚いたよ」
どうやら会話を断ち切ってしまったらしい。
「ごめん。ちょっと考え事をしてて」
「考え事?」
「朝に話してたことについてだよ。ああいうことを急に考え込む癖があるんだ」
アイは口元に手をあてて、しばらく黙っていた。少々わざとらしくも見えたが、それについては指摘したほうがいいのだろうか。
「今度はそっちが考え込む番なのか」
「ん? いやね。私なりに盗み聞きした内容について考えてみてたの。まあ明確な答えなんて分からないし、神のみぞ知るって感じでしょうけど」
「答えのないものは無意味っていうクチ?」
そういうと、ムスッとした表情でこちらを見上げてきた。
「それこそ答えなくても答えは出てるでしょ」
「ごめんごめん。今朝話してた奴から聞いた回答がさっき俺が言ったような感じだったからさ」
「そういうことね。でもそれが普通よ。私だって何人かに聞いたけど、皆が皆同じような答えを返すばかりだった」
アイの声色が少し暗くなった。僕のような異端者に出会うまでに彼女なりの努力をしてきたのだろう。それがうまくいかなかったことは、僕が今ここにいることから理解している。
「同じクラスのケイに聞いた時はひどかったなあ。他の人からも誹謗中傷を受けるわ、交友関係が消滅するわで大変なことになったわ……」
コメントし辛い内容で、なんと反応しようか悩んでしまった。それを察してかアイは明るく喋り出す。
「ちょっとちょっと、私がそんな程度でへこたれたとでも思ってるの? 私の性格からしてそんなことはないってそろそろ分かってきたんじゃない」
言われて確かにそうだと思い直す。彼女はそんなにやわくない。
「そうだな。凹むぐらいだったら、跳ね返すぐらいの力がありそうだ」
「そうそう、私はそんなネガティブ思考じゃないってこと。ポジティブ過ぎてもダメだと思うけどさ」
そう語る彼女が少し眩しく思えた。
「あ、ほら。私の住んでるのはあそこ」
指を指す先には、コンクリート造りの大きい建物があった。
「結構大きいね」
「そう見えるでしょー。でも、そんなことないんだよね。部屋数は結構多いから一つ一つの部屋は大きくないのよ。まあ安いからいいんだけどね」
やれやれと言った様子で、彼女は息を吐いた。一人暮らしなどしたことないから分からないけれど、どのぐらい大きさがあれば不便じゃないのだろう。
「部屋はどの階にあるの?」
「三階の一番奥のところ。端の部屋だと窓が一つ多いんだよね」
「それはお得だね」
「そう思うでしょー? でも違うのよね。光が入ってくるのは六階より上の階だけらしくて、私の部屋はそこまで意味ないのよ」
そう言われて建物のほうを見てみると、近くに陽光を遮りそうな大型のビルが建っていた。それも、アイの住んでいる建物よりも新しく見える。当初はちゃんと光が入るように建てられていたのだろう。
そんなことを思いながら歩みを進め、アイのマンションの玄関へ来ていた。玄関でナンバーを入力して中に入るタイプのようだ。彼女の入力を待っている間に、傘を閉じて水を落としておいた。入力が終わったアイに付いて、中に入っていく。
「ほら、結構ガタがきてるでしょ。こことかさ」
アイの指差す先には、床に走っている大きな亀裂の痕があった。その他にも、ところどころには浅い亀裂が入っているので建物の老朽化を表している。
エレベーターに乗り込んで三階へと移動をし、通路の突き当たりの扉の前へ行く。グレーの色合いの扉が少し重苦しく思う。
「ここね。まあエイのことだから緊張なんてしてないでしょうけど、どうぞ」
そんなことを言われても女性の家に単身で乗り込むのに緊張をしないわけがない。しかし、それを表に出すのは情けないし、格好もつかない。傘を通路に立てかけ、冷静さを取り繕ってアイの家の中へと入っていく。
全体的に部屋は質素な印象を受けた。よくあるワンルームタイプの家。嗜好品らしい嗜好品は音楽プレイヤーだけで、必要最低限のもの以外は置いていない。
「なんかシンプルな部屋だね」
「んー……まあそれは私でも分かってるよ。でもねえ、趣味らしい趣味もないって言わなかったっけ? だからこんな部屋になるんだよね。エイも無趣味なんだから、こんな感じじゃないの?」
そう言われて自分の部屋を思い浮かべながら比較してみると、違いらしい違いは無いように思えた。非難しているつもりではなかったけれど、他人のことばかり言ってられないな。
「そうだね。今考えてみると、自分の部屋もこれと大差ないような気がするよ。やっぱり部屋は人の趣味が反映されるものなんだなあ」
アイは「そうね」と返答しつつ、鞄を机の上に置いてコンビニで買ったものを冷蔵庫にしまってから、部屋の中央にある炬燵に入った。ベッドと炬燵が両立しているのが、日本らしいと言えば日本らしい。僕もそれに倣って炬燵に入ることにした。
「やっぱり炬燵は落ち着くわね」
「そうだね。炬燵と蜜柑は冬の風物詩ってイメージだ」
「あ、蜜柑か。昨日買ったからちょうどあるかな」
アイはそう言って炬燵から出ると、冷蔵庫の横の棚からビニール袋を取り出し、炬燵の上に置いた。中には色の良い、全てが同じ大きさの蜜柑が入っている。炬燵に入りながら一個を手にとってこちらに投げてきたので、それを受け止めた。
「適当に思いついたから言っただけなのに、あるとは思わなかったよ」
アイはビニール袋に入っていた蜜柑を炬燵の上に全て出してから、座った。
「そうなの? なんか要求された気分だったけど。ま、私も食べたかったから関係ないといえば関係ないけどね」
皮を剥いて蜜柑を食べていく。生の食材は常に同一だ。グラム単位で全てが等しい。色も味も作り出されたものだからだ。そのことを気にせずに生活をするのは、やはり僕には無理なようだった。
「ありがたく頂くけど、結局何について話せばいいんだい。バベルについて思ってることでも述べればいいのか?」
「うーん。そんな感じでいいんじゃないかな。具体的なことはなんにも分かってないんだけどさ。ほら、団結力アップは大事じゃない。仲間内の」
どんな考えだろうと思いつつも、それについては深く突っ込まない。
「じゃあ、ざっとでいいから思っていることを話していくよ。まず、アレは明らかに普通じゃない。あんなに高い建造物なのに、倒れることもないし、何より人の関心が異常にないっていうか、無視でもしてるのかって感じだ」
「そうね。なんか視界に入っているのに、映ってないって感じ? あれだけ目立つのに透明なのかしらってぐらいには無関心よね」
どうやらこの辺りの考えは一致しているらしい。それに気づいている僕達が異常なのか、大多数の人間が異常なのかはよく分からない。正常、異常の基準など一瞬で反転し得ることだからだ。
「だからあのバベルの中には、『解答』があると思うんだ」
「へえ……答えか。まあ私と似たような感じだよ。あそこには、この世界の真実っていうか、秘密が隠されていると私は思っていたから」
「俺は外れていたら嫌だからぼかしたけど、言いたいことはそんな感じだよ。あそこ以外に謎を解くものはないと思ってる」
「まあ確認してからこそ言えるって言葉だけど、意見が同じなのは当然の帰結よね。あのバベルに違和感を抱いているのが共通点なんだから。それで、エイはあのバベルの近くに行ったことはあるの?」
「それがないんだよね。踏ん切りがつかなかったってのもあるけど、なによりバベルの近くって『工場』ばかりだろ。どうやって近くに行けばいいのか分からないしなあ」
バベルの周辺には『工場』が密集している。贋作を量産するための工場だ。あの工場もどんなものなのかよく分かっていない。どうやってモノを作っているのか、公開されていないし、どの会社が作っているのかも分からない。ただないと困るし、それで間に合っているから人は気にせずにその作られた製品を利用して、生きている。
「車が使えれば良かったけど、無理だろうし、徒歩で向かうしかないんじゃない」
「あそこ行きのバスとかはないんだっけ」
「ないわね。調べたことがあるから、断言できるわ」
剥いた蜜柑の欠片を口に放り込みながらアイはそう言った。
「なら移動手段は徒歩と。じゃあバベルにたどり着いたとして、何が必要になるかな」
「それがネックなのよね。中に何があるのか分からない異形の塔。だから特別な用意が必要……と普通ならなるんでしょうね。でも私達に特別なものを用意する力なんてないだろうし、食料を用意しておくぐらいが関の山じゃないかしら」
「そう言われると、自分たちが如何に無謀なことをしようとしてるかって実感できるね。止めるつもりはさらさらないんだけど」
「さっき言ったように自殺志願者とほぼ同等なんだから、無謀なのは百も承知よ。食料がいるって言ったけれど、具体的には携帯食料と水って感じかしらね」
「登山をするみたいな感じだな」
そう僕が答えるとアイは少し笑った。
「塔に登るのに登山の準備と同じってなんかおかしくって面白いね」
「そう? 笑わせるつもりはなかったんだけど」
「無意識でそういうことを言うからこそ面白みがあるんじゃない。狙っていたら逆に冷めるってものだと思うよ」
アイの判断基準を聞かされてもなんだか釈然としなかったが、そこまで言及することでもないので放っておく。馬鹿にされている訳でもないし、悪い気分ではなかった。準備についてのことはもういいだろう。気になったことを尋ねることにする。
「そういえば、アイはバベルに入って……こう、具体的にどうしたいの」
アイはすでに一個の蜜柑を食べ終わったようで、二つ目の蜜柑へと手を伸ばしていた。
「ん? それはまあ探検みたいな感じよ。何かしら見つけて無事に帰還したいって感じ? あはは、なんか具体的じゃないね」
「質問の仕方が悪かったね。謎の塔に具体性を求めちゃ駄目だった。その後に、世界を変える、か」
「そうそう。世界を変えるって革命家よりも格好いいじゃない。『俺はついにあの未踏の地を開拓したのだ』って感じで。エイは違うの?」
「俺は……」
世界を変えたいわけではない。この世界に疑問があるだけで。その疑問を解く鍵だと思われるあのバベルの塔がなんなのか気になって堪らない。あの塔に入って、謎を解明して知りたいだけだ。他にやりたいことなど何もない。自分はもし目的を成し遂げたら、どうするのだろう。
――もし、命と引き換えに謎を知れるとしたら、僕は命を投げ出すだろうか。
きっと投げ出すことだろう。死にたがりではないけれど、目標を達成するのが何よりも重要で、それが自分の使命であって生きがいそのものだ。
アイのほうを向きながら答える。
「あの塔の謎の答えを得ることが第一で、そのあと無事に戻れたら理想的かな」
命を捨ててもいいと思っているのを隠すつもりはなかったが、自分の心の内をそのまま伝達しようとは思わなかった。アイは無事に脱出することが前提らしいし、僕の思っていることを知られたら狂人に認定されるか、説教でもされることだろう。もともと、パートナーとの信頼感を高めるために放課後から今まで行動しているのだ。わざわざ仲違いしかねない言動をする必要はない。
「……へえ、普通なら逆じゃないの。それ」
「死にたいわけじゃないよ」
生きたいわけでもないけれど。裏に隠す言葉はきっと伝わらない。僕はズレているからだ。
「ならエイは生きたいの?」
――まさかの質問だった。ズレているのは彼女も同じ。嘘を吐くのは嫌だけど、どう答えればいいのだろう。胸中にあるものを全て吐露していいのか。
「……分からないね」
「生きたくも死にたくもないから、あの塔を目指すの?」
間を置かない質問でも、的確に僕の心を侵食する槍そのものだった。
「否定はしないよ」
僕はそれだけ答えて、黙った。アイも黙ったままで、僕はこたつの真ん中に転がっている蜜柑の一つをじっと見つめていた。橙色の艶のある蜜柑だった。外の雨音が無機質な部屋の中に響きわたっていた。その無機質な空間は、少しして破られた。
「いいんじゃない。それでも。別にエイの考えを異常だとは思わないよ。私もある意味異常者だから、一般的な考えとは違うとは思うけどさ。保証人は無理だけど、同意者にはなれるよ」
下を向いていた顔を上げると、アイは真っ直ぐに僕を見つめていた。目があったのがなんとなく恥ずかしく、炬燵の布団に目を逸らしてしまった。すぐに視線をアイに合わせ、話しだす。
「驚いたよ。てっきり叱責されると思ったからね」
「叱責? なんでそんなことするのよ。エイの保護者でもあるまいし。それに他人に自分の考えを矯正しようとするほど、私は外れた人間じゃないって」
「外れた人間?」
「なんて言うかな。人間はひとりひとりに考えがある訳だしさ、その考えを捻じ曲げるってことは洗脳みたいなものでしょ?」
「……なるほど」
洗脳みたいなものか。しかし、洗脳は数多くすでに存在しているものだ。
「ま、私達はすでに洗脳を受けているといっても過言ではないのだけどね」
「分かってるよ。こういう言葉、法律、道徳がそうなんでしょ」
常識や言葉を使っている時点で、誰かからの教えを利用しているということ。それはつまり一種の洗脳とも捉えられるのだ。自分一人で見出したもの以外は全て洗脳。極論だが成り立ちはする。
「そうそう。だからさっきの私の考えもある意味、洗脳から来たものかもね。そんなこと言い出したらキリがないけど」
「意図的に作り出された思想か。今の世界はそんなものばかりかもね。あのバベルの塔には入ってはならない、みたいに」
「……そうなのかもね」
アイは少し目を伏せながらそう言った。なにか思うところがあるのか気になったが、それについては深く追求しない。
「そういえば重要なことを聞いてなかったや。バベルに入るのはいつにするんだい」
「私は明後日でいいと思ってるんだけど、どう?」
「構わないよ。それでいこう」
人生を変える選択だというのに、あっさりと了承をしていた。
「……あと一日ぐらいの猶予だけど……大丈夫なの?」
アイもさすがに驚いたようで、慎重に尋ねてくる。
「別に。さっきも言ったように、いつかは入るんだから期間は関係ないだろうって感じだよ」
「……そうね。明日は明後日のための準備をして、明後日に乗り込むってことで」
「オーケー。そうしよう」
結局、あの後から具体的なことは話さないまま時間が経ってしまっていた。門限はないので時間は気にしなくて良いが、さすがに女性の家に長居するのはあまり良くないだろう。「そろそろ帰ることにするよ」
話の流れを切ってそう告げる。アイは「ならマンションの玄関まで送って行くわ」と言うと、炬燵から立ち上がった。僕も同じように立ち上がり、アイに付いて外に出た。ドアの前に置いてあった傘を持って歩いて行く。
「充実した時間だったよ」
アイに向かってそういった。
「私もだよ。楽しかったし、なにより面白かったなあ」
「面白い?」
ビニール傘は乾ききっておらず、通路にポタポタと水滴を垂らす。コンクリートの濡れた部分が色を変えて、灰色の中に濃い灰色を作っていた。
「うん、なんかね。楽しかったよ、新鮮でさ」
僕はその答えに軽く頷くことしか出来なかった。雨音は大きく、会話をするのが億劫になるほどだった。
「……なんだかエイとは馬が合う気がしたのよね」
「え?」
急にそんなことを言われたものだから、間の抜けた声を漏らしてしまった。
「なんか第六感っていうのかなあ。ああ、この人は私と同類なんだなあって思ったっていうかさ」
「こっちの顔を見て気まずそうにしてなかったっけ」
今朝の光景を思い返しながらそう言った。
「アハハ、やっぱり覚えられちゃったか。なんか目が合ったって分かったら気恥ずかしくってさ。仕方なくない?」
「……分からなくもないけど」
僕が訝しげな目線を向けていたのを察したのか、アイはそれを振り払うように喋り出した。
「まあまあ、気にしないでよ。今は俗にいう運命共同体ってやつでしょー」
「……それもそうか」
運命共同体という言葉に、悪い気はしなかった。
マンションの玄関へと出て、外の天気を確認してみるも、やはり雨は強い。雨脚も暗さも、ここに来た時よりも三割増しになっている気がする。
「あちゃー。だいぶ強くなってきてるね」
「風はそこまで強くないし、ビニール傘だけでも充分乗り切れそうだよ」
「そう? 何にせよ気をつけてね」
「ああ、気をつけて帰るよ」
傘を持って、頭の上に広げた。
「それじゃ」
傘を持ってないほうの腕で軽く手を振ると、アイも手を振り返していた。
長い一日だったように思う。雨は止まない。僕の人生にとって転機となった日に大雨というのはお似合いだと思う。雨はどちらかと言えば好きだった。恵みの雨とか言うけれど、何が恵みなのかはよく分からない。雨によって育つ果物も、野菜もない。飾りとして用意された模造品がただ濡れるだけだ。それでも、雨だけは偽物ではない気がしていた。
自分が飲む飲料水も工場で作られている。それはきっと偽物だ。雨水を使っているのか、一から作られているのかは分からないけれど、きっと雨の水とは違う。雨は神様が僕達にまだ残してくれている遺産ではないか、と考えたことがあった。
偽物だらけで、偽物ばかりが蔓延するこの世界で、数少ない本物。確証はないし、模造品の水がただ雲になって雨を降らせているだけかもしれない。考えたらキリがないことだった。
傘が水を弾く音、等しく降り注ぐ水滴。傘を伝って振動する手。雨の雰囲気が好きなのかもしれない。ただ晴天の空の下を歩くのとは違う。
学校の坂のところまで来ていた。もうこの坂を登ることはないのかもしれないな。明後日で、なにか変化があるはずなのだ。僕は明後日には、学校に通わない意味を見つけているのかもしれない。
家について、作られていたご飯を食べる。家族は思い思いに会話しているけれど、それにわざわざ自分から加わることはしなかった。話しかけたら答えるだけ。
「ごちそうさま」
そう言って自分の部屋へと戻っていく。
硬いベッドの上に寝転がった。意味もなく天井を見上げて、脱力する。胃の中に入ったものを体が消化しているのが分かる。なんだか気持ちが悪かった。自分の意思とは関係なく、勝手に体が動いているのが分かるのは奇妙だと思う。心臓の音だって普段は分からないけど、それが動悸になって聞こえてきたら、気持ちが悪いように。
ポケットから携帯を取り出して、操作する。連絡先に増えた、アイという文字。ボーっとそれを眺めていた。不意に、携帯が震えてメールが来たことを教えて来た。
『明日も会わない? 帰りに言えばよかったけど』
アイからだった。
『いいよ。明後日の準備?』
入力をして送信を押す。食料でも買うんだろうか。メールが返ってくるまでの間、ベッドでだらだらとしていた。また携帯が震える。
『うん。学校の坂の下に集合ってことで。お昼もどうせなら外で済ませたいし、十二時ぐらいでいい?』
『わかった。じゃ、また明日』
そう送ると、携帯をベッドに置いた。明日もすることは決まったし、もういいだろう。風呂に入って眠ることにした。
朝のアラームによって目が覚める。目をこすりながら、下へと降りていく。母がまた一人で朝食の準備をしていた。
「今日はご飯?」
「ええ、昨日は忘れちゃったからね。ちゃんと炊けてるわよ」
用意されていたのは、ご飯と魚の塩焼き、味噌汁、漬物だった。
「いただきます」
また今日も母しか朝はいなかった。夕食の時ぐらいしか家族が全員揃うときはない。僕がまず家族とそこまで話そうとしないからというのもあるだろうけれど。
「今日はどこかに出かけるの?」
「うん。昼前には」
「じゃあお昼ごはんはいらない?」
「うん」
「帰りはいつ頃?」
「わかんないや。そんなに遅くはならないと思うけど、また連絡するよ」
「そう、わかった」
ご飯を食べ終わって、時計を見ると八時を指していた。まだ時間はあるけれど、家でなにもせずに過ごしているのもつまらない。散歩しつつ、向かうことにしよう。自室へと戻り、着替えると、母に伝える。
「昼前って言ったけど、暇だからもう出ることにする。いってきます」
「いってらっしゃい」
急な予定変更にも母は対して動じなかった。
今日の天気は、昨日とは打って変わって晴れていた。昨日の雨の影響か、乾燥はそこまでしておらず、肌を刺すような寒さではないのが幸いだろう。道行く人の表情もどこか緩やかな気がする。今日が休日ということもあるだろうか。家族連れの姿がちらほらと目に映った。
今日も街は綺麗だった。綺麗すぎて、見飽きるほどに。生まれた時から、変化することがない町並み。すでに完成された背景。成長をしない命。気味が悪いと思わないのだろうか。思わないから普通に生活しているのは明白なのに、疑問を感じずにはいられなかった。
通学路近くの公園に来ていた。ベンチに座りながら、遊具やそれで遊ぶ子供達を眺めていた。純真無垢な子供の姿を見ると、自分も昔はああだったのか、と感慨に浸る。
いや、きっとあの子供達と自分は違っていた。昔から、好奇心や興味はあの塔に対して向けられていた。それは今も。バベルはこの街のどこからでも眺めることが出来る。あれは……本当になんなのだろう。
「あれ、エイじゃん。なにやってんだ」
「ん…… ユウじゃないか。どうしたんだよ、そっちこそ」
いつの間にか、目の前にはユウが立っていた。
「俺はおつかいを頼まれてな。鶏肉を買ってこいだってさ」
「鶏肉か……」
動いた鶏を見たことがない。人間以外の生命が生きている姿を見たことがなかった。
「最初の質問にもどっけど、一体なにやってんだよこんなところでさ」
「ふらふらと散歩して、ベンチに座ってぼーっとしてただけだよ」
「そうなのか。これから暇なのか? なら今日遊ぼうぜ」
それは出来ない。昼にはアイと会わないとならない。
「いや、予定があってね。ユウと遊ぶことは出来ないかな」
「そっか。んじゃ、明日はどうだい?」
明日こそ駄目だった。バベルの中に入るのだ。
「明日も駄目だね。明日が一番大事なんだ」
そう答えると、ユウは少し考えこむように黙っていた。
「どうかしたのか?」
ユウにそう尋ねると、彼はゆっくりと口を開く。
「エイ、なにかするつもりなのか?」
ユウが真面目な口調でそんなことを言うものだから、面食らってしまう。
「……そんな風に見えたか?」
「ああ、昔っからそんな気配はあったけどさ、ここ一段で強いっていうか、なにか悟ったような雰囲気をしてるよ」
ユウには言っておいていいかもしれない。アイと僕とは違う回答をするとは思うけれど、それが当たり前なのだから。
「実はさ、あのバベルの塔に入ろうと思うんだ」
「……やめとけよ」
「やめるつもりはないよ」
「入ったら何があるか、分からないんだぞ?」
「だからこそだよ。分からないから知りたいんだ」
「死ぬかもしれないじゃないか」
「それも承知の上だよ。バベルの中に入って何も分からないまま死んだとしても、俺に後悔はないよ」
「……そんなのおかしいぞ、エイ」
「おかしいのは分かってるよ。自殺してもいいって思ってる人間は普通じゃない。でも、バベルの塔に入ろうとするのは普通だと思うんだよ。ユウ達がなんて思おうとも、ね」
ユウに話を聞くこともあったが、ここまでのことを話すのは初めてのことだった。
「俺には両方おかしいことにしか思えないよ……」
やっぱり、こうなるんだな。分かってはいたけれど、それでも悲しいのか、諦めなのか、自分でもよくわからない感情が渦巻いていた。
「死にたいわけじゃないよ。結果として死んでも構わないってだけで」
「俺にはどうやって言ったらいいのかわかんねえよ……」
ユウの表情は険しかった。反対に僕はきっといつも通りになってきていると思う。これ以上話していても仕方ないだろう。僕としてはユウに説得されても、心変わりすることは確実にないのだから。
「それじゃ、俺はもう行くよ。また月曜日に学校で会えるといいな」
「お、おい!」
ユウに呼び止められても、振り向かずに公園を出て行った。
時計を見つけて、時間を確認してみると十時半だった。まだ時間はあるけれど、もう向かっておこう。コンビニの中で本を読んでいればいいだろうし、他にすることも特に無い。
コンビニで雑誌を意味もなくパラパラと読んでいると、アイがやってきたようだ。時間は十一時だった。
「おはよう、エイもだいぶ早く着てたんだね」
アイの私服姿は、可愛らしかった。アイは髪が綺麗だなあと思う。今も自然にサラサラと靡いている。さすがに言葉には出さないけれど。
「おはよう。暇だったからね。どうする? もう向かおうか」
「うーん……そうしよっか。ただの時間つぶしにコンビニに寄っただけだったからね」
二人でコンビニを出る。
「それで、どこに向かうんだい?」
「それはあそこだよ。エヌエルモール」
ここから少し歩いたところにあるショッピングモールだった。
「なるほどね。食べるところもあるだろうし、ちょうど良さげだね」
「でしょー。それじゃゆっくり歩いていきましょ」
エヌエルモールは土曜日ということもあってか、人が多いようだった。
「人多そうだね。ご飯はどこにする?」
「考えてなかったなあ。なにか食べたいものある?」
「特には」
「あはは。エイのことだからそういうと思ったけどね」
アイは楽しそうだった。人の楽しそうな姿を見るのは楽しい。自分はそこまで感情の幅が広いわけではないのもあるだろう。
「それじゃ、あそこにしましょ。オムライスを食べよう」
アイが示す先には、小洒落た洋食屋があった。
「美味しかったね。オムライスを食べたのも久々な気がするよ」
「私も久しぶりだったかな。お腹いっぱいだよ」
アイはぽんぽんとお腹を叩く仕草をしていた。洋食屋を出て、モール内の通路に出ていた。
「準備でいるものなってなにがあるかな?」
「うーん。まあ食材は必須って言ったけど、その前にバッグとかじゃないかな。運ぶために必要なものを用意しないと」
「それもそうだね。じゃあ見に行こう」
鞄の売り場に来てみると、ずらりと商品が並んでいる。
「んー、やっぱり移動しやすいのはリュックかなー。エイはどう思う?」
「バベルの中がどんな風になってるか分からないからねえ。でもまあリュックでいいんじゃないかな。両手が空くし、何かあった時に行動しやすいのはやっぱり大きいよ」
「だよね。それじゃ、これにしよっかな。色々と中に入りそうだしね」
アイはデザインなど最初から度外視しているようだった。
「じゃあ俺もそれにしようかな。安いし、お金の心配もなさそうだ」
「お、お揃いじゃん。なんだか恥ずかしい……」
目線が泳いでいるアイがなんだか新鮮だった。
「アイが嫌ならやめとくけど」
「嫌じゃないよー。ちょっと恥ずかしいかなって思っただけ」
すぐにいつもの通りのアイに戻っていた。
「それじゃこれにするよ。会計に行こう」
「うん、行こう」
リュックを買い終わって、モール内にあるスーパーの中に来ていた。非常食が並べられている商品棚の周りでどれにしようかとボーっと眺める。一番栄養が簡単に取れるものはなんなのだろう。乾パンが非常食のイメージとしては強いけれど、ゼリーや棒状のクッキーのもの、選択肢は多かった。
「アイはなにか決まった?」
「決まってないよー。後ろの表示とか見てもよくわかんないし、入れやすいものを買い込んでおこうかなって思ってきたところ。そういうエイは?」
「俺は……食べ物同じものばっかりだと飽きるだろうから、味を変えて適当に買おうかな。なんだか見たこと無い味の商品もあるみたいだからね」
「ヨーグルトだったり、ココアだったり、オレンジ味だったり、バリエーションも増えてきたよね」
「そうだね。まあテキトーにっと……」
籠の中に無造作に入れていく。
「あとは、やっぱり水かなー。一番大事らしいからね」
「水はペットボトル二本ぐらい買っておこうかな。重いけどリュックなら入るだろうし」
「私もそうしようかな。それじゃ買いに行こう」
水も買い終わって、他になにかすることがあるだろうか。
「これからどうする?」
アイに尋ねた。
「することもなくなっちゃったねー。とりあえず休憩しない? 座れるところもあるし」
フードコートの席に座って、一息つくことにした。座りながら時計を確認すると、十四時ぐらいだ。いつの間にかだいぶ時間が経っていたらしい。
「あー疲れたー。普段来ないところを練り歩くってだけでも疲れるのに、水が重いから余計に疲れるよ……」
「次に歩く時は俺が持つよ。筋トレにもなりそうだし」
「あはは、エイってば。トレーニングって!」
アイは楽しそうだった。
「そんなに笑うことかよ……」
「私としては嬉しいんだけどねー。なんか理由が突拍子もないっていうかさっ」
理由なんてこじつけでしかないのは分かっているからこそ、突っ込んできているのだろうか。
「仕方ないだろ。買った時点で気が利かなかったのは確かなんだし」
「エイは面白いなあ。苦手って人も多そうだけど、私は楽しいし、好きだよ」
アイと自分はある意味、対極な気がする。こういう台詞を臆面もなく言えるようになりたいものだった。
「……それは、ありがとう? って言えばいいのか……」
「喜んでくれたら嬉しいよ?」
「まあそりゃ、好きって言われて嬉しくないわけないよ」
「それはよかった」
アイはニコニコしながらこちらを見続けていた。
なんだかんだで、フードコートで適当に甘味を取りつつ話し込んでいた。水はセルフサービスで組めばいいし、食べたくなったら注文をしにいけばいい。便利なものだった。長く居座っても文句を言ってくる店員も近くにいない。時計を見ると十八時になっていた。
「もう六時だ。時間が経つの早いなあ」
「明日はバベルに行くっていうのに、普通に話してるだけで終わっちゃいそうだね。ちゃんとしてるのか、してないのかよくわかんないね」
アイはまた笑いながら言っていた。そんなに楽しいのだろうか。他人が楽しそうなのを見るのは悪い気分ではない。自分の頬もアイと話す度に緩くなってきている気がする。
「いいんじゃないかな。別に。ずっとバベルについて話しててもいいけど、それ以外のことを話すのも大事なんじゃないかな。運命共同体ならなおさらね。相手のことは深く知っておいていいと思うよ」
「そうね。私もエイには興味あるし。バベルに入ろうとする人に会ったの初めてだし、エイ以外の人もいないような気がするんだよね。ただの直感みたいなものなんだけどさ」
僕もアイに興味……はある。バベルに関連することで最初は興味を持ったけれど、それだけではなく人間として。
「俺もアイには興味あるよ。他にいないってことについては俺も同感かな。なんだか、他の人は最初からバベルを見ていない気がするし、どこか違う気がする。前にも言ったと思うけど」
「うんうん。でも、さすがにそろそろ帰らないとまずいかな。明日はどこに集合しよう?」
アイは立ち上がりながらそう言った。僕も立ち上がって、出口に向かって歩いていく。
「また学校の坂の下でいいんじゃないかな。時間は朝からでいい? 昼まで時間を潰すのは面倒だからね。時間は……学校と同じでいいかな」
「うん、いいよ。……それにしても怖さとか全くないんだねー。エイって」
「そんなことないよ。怖いものは怖いさ」
「なんていうかなあ、別にそれが怖くても構わん! って感じっぽい気がするっていうか」
「生きようとも死のうともしてないからじゃないかな」
何もかもが半端で、どっちつかずな自分。生きるため、死ぬための意味を求めるためにバベルを目指すだけだ。
「そっか、そういえばそうだったね」
「それでも別に死にたいわけじゃないからね」
一応補足しておく。死ぬのは終わりだし、恐ろしいことなのは変わらない。
「私はできるだけ死にたくないからね。同じようにエイも死なせないように、明日は頑張るよ。なにをってわけじゃないけど」
「とりあえず謎を解明できるように頑張ろう。危険かもしれないし安全かもしれない道のりだね」
「未知だからね。なにか資料みたいなものがあればわかりやすくていいんだろうけど」
「なんにせよ、明日が楽しみだよ。怖くて楽しいって不思議な感覚だ」
「あはは、そうだね。怖がってるのにどうして楽しいんだってなるよねー」
「スリルとの戦いっていうか、そういうのじゃない?」
「度胸だめしみたいな?」
「そうだね。誰もやってないことをするんだから、勇気あることになるのかな。バベルへの挑戦は」
「挑戦ってカッコイイ響きだよね」
徐々に他愛もない話に変わっていく。話の種が尽きることはなかった。
エヌエルモールを出てから歩いてきて、細い小道でアイと別れた。坂の前まで行くより、ここを通ったほうが早いから、とのことだった。携帯を開いて、母に連絡を入れておく。
「ふー……」
一人になって息を漏らす。ついに明日だ。明日あのバベルの中身を見ることができる。はやる気持ちは不思議とない。落ち着いていつも通り、あの中に入ろう。異形のナニカが居て、すぐに死んでしまうかもしれないし、機械がただ密集しているだけかもしれない。考えだしたら止まらないことだった。
家に着いて、夕飯と風呂を済ませた後も考えることは止まらなかった。ついにあのバベルに……というフレーズが何度も何度もリフレインする。何が起こるかは分からない。だからこそ、知りたい。そうして意識は眠りの中に落ちていった。
朝が来ることをアラームが知らせてくれる。相変わらず、母しか居間にはいなかった。適当に会話をしながら朝食を済ませる。今日も出かけることは昨日のうちに言っておいたし、言及はされない。昨日買ったリュックに準備したものを入れて、玄関に歩いていく。
「それじゃ行ってくるよ」
居間にいるはずの母に聞こえるように声を掛けた。もしかしたら、ここに帰ってくることはないのかもしれない。一生の別れの現実感はなかった。死ぬ間際になったら後悔しているのかもしれないし、そんなことを考える余裕すらないのかもしれない。
記憶の中でバベルについて最も古いものは母との会話だった。
『……バベルの中には入っていけないの』
今とは違い、若いころの母親の声で再生される。母からの言いつけを破ることにためらいはない。
「いってらっしゃい」
僕の思いなど露知らず、母はいつもように僕を見送ってくれた。
これでこの街ともお別れになるかもしれないと考えると、目に映る景色の一つ一つが感慨深かった。綺麗すぎる建物も、ただのモニュメントでしかない緑の木も。形になっているだけ良いほうなのかもしれない。死んだらどうなるのだろう。魂? 見えない物質?
それもまた面白いことなのかもしれない。なぜバベルの塔に入るのが、死ぬことのようなのか今ようやく分かった気がする。バベルと同じく死も未知だからだ。分からないからこそ、恐ろしいしいろいろな想像をすることしか出来ない。もしかしたら、バベルはあの世へとつながっている塔で入ったら、こっちには返ってこれないのかもしれない。それならそれで楽しい気がする。まだ僕の意思はあの世で生きているわけだし。
いつの間にか坂の前まで来ていた。この二日間で見慣れたアイの姿がそこにはある。
「おはよう。おまたせ」
「おはよう。準備は万端だよね」
その言葉に勿論と頷く。アイもそれが当然だと思っていたようで、安心したようだった。
「それじゃ歩いてこう。地図はあるし、大丈夫」
「どのぐらい掛かりそうかな」
「結構歩くと思うよ。まあ焦らずに行こう」
アイは地図を見ながら、そう言った。
バベルに近づくに連れて、白いきれいな建物から灰色の光沢を持った工場が増えていく。工場の周辺に人の気配は全く無かった。よって僕とアイが通るこの道にも人はいない。
「少しずつ不気味な感じになってきたね」
隣のアイに話しかける。
「工場ばかりって聞いてたけど、こんな風になってるとは思わなかった……」
民家はないし、工場とオフィスらしき建物が少しあるだけだった。
「この工場もわけがわからないものだけど、確かめようがないね」
工場の周りは人が入れないような作りになっていた。登れないような柵が工場の周りを覆っていたのだ。
「バベルの周りもこんなふうになってないといいけど……」
少しの不安が僕達を包む。それでも進んでいくことしか僕達には選びようがなかった。いつもより近いところで見るバベルは、いつもより恐ろしく感じた。
工場のある通りを抜けると、開けた空間になった。バベルの周りは円を書くように穴ができていて、バベルの塔へ向かっていくつかの橋が掛かっている。
「バベルの下ってこんな風になってたんだ……」
アイが驚いたように呟いていた。
「……これは予想外だったね。どれだけ深いんだろうこの穴」
穴の手前には柵があり、人が落下しないように処置はされているようだ。ということはやっぱりこれは人の手で作られたもの? 近くで見るバベルは継ぎ接ぎだらけの大きな機械の塔という印象だ。鉄板と鉄板を大きな螺子で止めて作っているように見える。原始的……というよりかは、遅れたテクノロジーのように思う。
贋作を量産できる技術があるのならもっと高機能な塔になるだろうし、工場が出来る前にバベルの塔はあったのではないか。
「アイ、このバベルの塔って工場ができる前からあったんじゃないかな」
「そうだね。じゃないとこの周りに工場が密集するわけないし」
アイも同意見のようだった。穴からは土が見えていた。舗装されつくしている道では見ることがないものだ。
バベルへの橋のほうに近寄ってみる。鉄とコンクリートで固められた橋だった。老朽化の兆しが見える。誰も整備をしていないようだった。二人でゆっくりと橋の上を歩いていく。崩れる心配は無さそうだ。
「やっぱり人が作ったものなのかな、この橋も」
「そうみたい……誰がこんな高いもの建てたんだろう……なんのために」
「……」
未知の連続に、押し黙る。近くに寄って行くと、出入り口らしき扉があった。目の前に経つと扉は僕たちを察知してか、自動で開いた。
「自動扉……?」
「電気がまだ来てるってことかな……」
扉の内部を見てみると、白い空間だった。無駄に小綺麗なところはこの街並みと変わらない気がする。奥のほうにはまた扉があるようだった。二重扉だった。この扉を越えたら、二度と出られなくなるのだろうか。きっとそうだろう。ここまで伝わってきた話からそう推測できる。
「覚悟はいいかい?」
アイに尋ねる。僕の声色はいつもより少し震えているようだった。
「もちろん、覚悟は出来てるよ」
アイの表情は少し強張っていたと思う。それでも揺らぎは無さそうだった。やはり恐怖の感情が少しあるのだろう。僕の中にもある。それをアイに見せないように振る舞う。
終わりなのか始まりなのか分からない空間。そういったことは考えない。ただバベルの中に入るだけだ。ゆっくりと一歩一歩踏み出していく。足音だけが反響してよく聞こえる。僕達が完全にバベルの中に入ると、扉は勝手に閉じていた。
もう一つ奥の扉のほうにも続けて進む。そちらも先ほどの扉と同じように、近づくと勝手に開いた。中は円柱状の空間になっているようだ。アイとゆっくりと進んでいく。二つ目の扉が閉じると、上のほうから機械音が聞こえた。
見てみると、扉の上のところにディスプレイが飾られている。表示された画面には見たこともない文字が表示されている。どういうことだ?
「あれ、何か分かる?」
隣のアイにダメ元で聞いてみるが、アイも分からないようだった。
「分からないものはしょうがないし、中を探索してみようよ。もう扉は開かなくなってるみたいだし」
自動扉は内側からは認識してくれないようだった。入ってきた扉の付近から見渡すと、幾つもの通路がある。真上を見ると吹き抜けの構造になっていて、果てが分からないほどだった。円柱を繰り抜いた構造をしているらしい。上へ行くにはどうしたらいいのだろう? 階段らしきものは見つからない。
「ねえ」
「ん? どうかしたの?」
「あっちにある扉ってさ、エレベーターじゃない?」
指差されたほうを見てみると、通路とは違う機械の扉が幾つかあった。その横にはボタンが二つ存在している。
「そうみたいだね……人力で昇り降りする必要がないのが分かって喜ぶべきなのかな……」
今のところ危険性はないように思える。危害を加えてくるような機械はなさそうだった。
「エレベーターのほうから行ってみない? 探すにしても広すぎるでしょうし」
「それもそうだね……そうしようか」
エレベーターの近くまで来てみると、上向きの矢印と下向きの矢印がある。上だけではなく下へ行くことも出来るようだった。
「どうする? 下へ行くか上へ行くか」
「下に行ってみよう。上は高すぎて分からないし」
「わかった。そうしよう」
ボタンを押すと扉の上にあったランプが点灯した。階数の表示はされておらず、分からない。しばらくすると、エレベーターの扉が開いた。中に入るとパネルがあった。また読むことはできない文字があったけれど、どうやらこのパネルを使って階数を入力して移動するようだ。その他にボタンもあり、地下はワンフロアしかないようだった。他によくわからない階へ移動するためのボタンもあるようだった。
「とりあえず下に行くにはこれ……だよね」
「うん、そうだと思う。……押してみよう」
少しばかりの緊張が指先に表れて、震えている。カチリと音がするところ押した。
――瞬間、浮遊感とも重力感とも違う歪な感覚に包まれた。
アイも同じようで、驚愕している。言葉に出来ない感覚だった。気味が悪い感覚がすっと引くと、もうすでに地下への階に着いていた。
「さっきのは一体……?」
「なんとも言えない感覚だったね……気持ち悪い感じ」
あの感覚についてのコメントはさておき、二人でエレベーターから出ることにした。
「な、なにこれ」
アイの口から漏れていた。僕は何も声を出すことが出来なかった。なんだ、これは。頭が追いつかない。信じたくない光景が広がっていることに。
目前に広がるのは工場らしき空間だった。ロボットがせわしなく動きながら、何かを作っている。その作っているものに、僕は絶句せざるを得なかった。
なぜ、人間の赤ん坊が作られているのか。
「人体研究所……?」
「人間の贋作すらも量産していたのか……?」
二人で、そんな発想しか出来ない。
「これがバベルに入ってはならない理由……?」
「きっと、そうだと思う……。でも、なんで」
頭の中にぐるぐるする考えを纏めることが出来ない。僕もここで作られていたのか? 僕の親は、母と父だ。それは間違いないはず。
間違いない……? そんなの分かるわけないじゃないか。赤ん坊に最初から考える力なんてない。
「大人たちが全部騙していたのか」
そう呟いていた。
「証拠はないよ……。私も同じようなこと考えてたところだけど……」
そうだ。これは推測でしかない。考えても仕方のないことだ。別の場所を見ていろいろと根拠をつけて考えればいい。
「……虱潰しでここを漁るよりは別のところを探そう」
「……うん、わかった」
二人でエレベーターの中へと戻る。
「上に行くのは確かだけど、どこに行こう」
階数がどれだけあるかは分からないが、一番気になるのはやはりもう一つのボタンのほうだろう。
「あのボタンの階……でいいんじゃないかな。ここに来る時もボタンを押したし、パネルで階を選ぶよりも、そっちのほうがいい気がする」
「それもそっか……なら今度は私が押すよ。またあの変な感覚が来ると思うけど、耐えないとね」
言葉尻に合わせてアイはボタンを押していた。想像通り、またあの奇妙な感覚が僕達を襲う。なんだろうこれは。不可解な感覚を味わっていると、いつの間にか目的の階へ着いていた。
開いた扉から外へ出る。
「……ここはどこだ……?」
生じたのは疑問からだった。バベルの塔の大きさに比べて、やけに狭い空間に居た。広さは教室の一室となんら変わらない程度だ。正方形の部屋の中だった。それよりも、気がかりなのは外の空間……? が見えているけれど、変なものが浮いている。それも無数に。なんだろうアレは。
「エイ、天井になにか文字が書いてあるよ」
アイは別のものを見ていたようで、言われた天井のほうを見てみると、全面がディスプレイになっているようで、入り口で見たような訳の分からない文字が書かれていた。……けれど、何かおかしい。
「アイ、あの字……読める?」
「うん、なんでか分からないけど……」
そうなのだ。さっきまで訳が分からなかった文字列の意味が分かる。
『これは統一された真実の言語』
そう読めた。
「なんだろう。なんで、急に……?」
「……外にあるものって、何か見えないかな」
文字も気になるけれど、外のものも気になった。ガラス……? のような壁の近くまで歩いて行き、外に漂っているものをじっくりと眺める。
あれは『木』だ。あれは『鳥』だ。他にも無数の命あるものが、ふわふわと漂っていた。生きている鳥を見たことがないのに、あれが『鳥』だと分かる。
いつの間にか天井のディスプレイの文字が変わっていた。
『ここは贋作しかない世界。本物は存在しない。人間も作られたロボットとなんら変わらない』
……この言葉が嘘ではないことが、なぜか分かってしまう。自分たちが作られたものだと根拠もないのに納得している自分がいる。バベルに入った時に表示された画面の文字も今なら分かる。
「型番A41165854、型番I41165934」
名前からして、おかしいことに今までなぜ気づかなかったのだろう。
『このバベルの塔は神への挑戦を機械的に再現しようとして作られたもの。事実、この機械仕掛けのバベルは天に届いた。神は怒り、この世界からオリジナルのものを全て奪い、壊そうとした』
いきなりの入り混じった事実の連続で、頭が混乱する。けれど、それよりも早く、この言語が頭の中で無理やり分解されている。
『だが、人間の技術は崩壊の前に贋作を作り出し、それを世界に蔓延らせた。このバベルの周辺を拠点に。神は自分が作り出したものは壊せたが、贋作を壊すことは出来なかった。人間の贋作もここで生み出されている。思想や文化や知能は全て人工知能によるもの。ただその人工知能は不完全。人間にとって普通だったものが普通でなくなるなど、欠陥品であった。しかし、それも今や完全に近いものになってしまった。君たち二人がここに来たからだ』
文字はいつの間にか、こちらへの問いかけになっていた。アイのほうをチラリと見ると、目が合った。鏡を見てもきっと同じ顔をしていることだろう。
『バベルで生み出された人間は、二度と戻ってこないはずだった。人間の技術力には驚かされてばかりだ。だから今度こそ、崩壊させて貰う。君たち自身の手によって、人間の技術力全て、リセットして貰う。そこにこのバベルが崩れ去るスイッチがある。それを押せばいい。工場も稼働が終わり、贋作の世界がそれで終わる。それを用意したのも君たち人間だ。贋作が終わったら、私がまた新しく世界を作り直すことを約束しよう』
天井に表示されていた文字はそれで伝えることは終わったのか、もう表示されなくなっていた。
「……理解できた?」
「わかんない。でも、なんだか自分の意味はわからなくなってるかも」
「……そうなるよね」
彼女の言う世界の改変は意味がないものになってしまった。皆が、欠陥品である事実を認識させられてしまったからだ。知りたくもない真実を強制的に聞かされるのは、なんて横暴なのだろう。ふざけていると、叫びたかった。けれど、それが意味のないことなのも理解してしまっている。
「人間自身も作り物……か」
心のどこかで、人間だけは違うという思いがあった。真実を知った今、そんなことは都合のいい考え方でしかないのが分かっている。機械で作られたものを否定するなら、自分自身も否定しないとならない。自己肯定をし続けてきた自分を否定しないとならないとは、何たる皮肉だろう。
「作り物……作り物なんだね、私達……」
アイは泣いていた。涙を隠そうとせずに、流していた。アイが泣いているのが悲しかった。でも、事実を覆すことは出来ない。なんといったら言いのだろう。アイの正面に歩み寄ったはいいものも、何も出来ない。
「作られた心でも、本心って言えるのかな……」
「……アイはアイだよ。それは変わらない」
特別な言葉なんて言えなかった。偽物は偽物なんだ。
「……もしここから逃げ出せたとして、逃げたいと思う?」
「……思わない。自分の意志は曲げない」
はっきりと答えた。自分はここでバベルを崩壊させる気だった。贋作はやはり、おかしいのだ。本物のいない世界など、作られたものだけしか存在しない世界など、おかしいのだ。自分の存在を否定してまで、その考えは通す。それば僕の生きた証だからだ。自分の芯だからだ。
「……やっぱりね。エイならそう言うと思ったよ」
アイは手で涙を拭い去ると、こちらを見上げていた。
「……アイ?」
「私と一緒に死んでくれる?」
アイは笑顔だった。どこか悲しそうで、嬉しそうでもあった。
「それは……」
「たとえ作り物でも、別にいいかなって思えてきたよ。ありがとう。もう全部言う必要はないよね」
「……そうだね」
不思議と、アイの気持ちが分かっていた。無理やり分かるあの文字とは違い、心地の良い理解だった。偽物でも別に生きていていいのかもしれない。でも、僕達が偽物としての終わりを望むなら、それはそれだっていいはずだ。
ゆっくりとボタンの前まで歩いていく。
僕とアイは手を繋いで、崩壊のボタンを押していた。
世界が崩れていく中、僕達が死んでいく中、僕とアイの手の間からは、確かな命の暖かさが芽吹いていた。
説明 | ||
模造品で溢れる世界を生きている。オリジナルが消え失せ、『工場』で何もかもがゼロから作ることが可能になっていた。 しかし、人々はそれを疑問に思わない。 ――偽物しかないのならば、それが本物ということ。 果たして、そうなのだろうか。それを疑問に思いつつ過ごしている人物がココに居た。 この都市の中央部にある天をも穿く巨大な塔。『機械仕掛けのバベル』と呼ばれているものに猜疑心に近い何かを覚えていた。 しかし、繰り返す日常からなかなか逸脱することは叶わない。 そんな日常を逸脱する一日目がカチリと動き出そうとしていた。 |
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