山神様
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 私の祖父は猟師であり、私自身が幼いころにはよく一緒に猟へと連れて行ってくれていた。不注意なことしかしない小学生を狩りに連れて行くことは何事かと思うかもしれないが、祖父からしてみれば私と山の散策を楽しみたかっただけなのかもしれないと今は思っている。

 だが祖父が亡くなって久しい今となっては真相を知るすべもなく、祖父との日々は思い出の中に留めておくのが良いだろう。

 それに私は祖父が最後の猟に赴いた時のことは語りたくもない。しかしある事があり私はこうして書かずにはいられない。

 あれは私が小学校五年生の時だった。

 その日も祖父は私と愛犬のゴローを連れて山へと入って行った。ゴローは雑種の中型犬でその時にはもう老犬と言えるほどの年齢だったが、非常に良く鼻が利き茂みに隠れた獲物をよく見つけ出した。小学生の私はゴローが茂みから追い立てた獲物を祖父が手にした猟銃で撃ちぬく光景を見るのが楽しみだった。

 しかしその日は獲物が見つからなかった。天気も良く、風も強くない日でありこういう時はいつもすぐに獲物が見つかる。だがこの日は見つからなかった。

 その内に祖父は躍起になりはじめたのか、普段は私を連れては入らないような山奥にまで分け入った。私は不安で仕方がなかったが、一人で村へと戻る度胸もなく祖父の後に付いていくしかなかった。

 山奥ではあるが道のりは険しいといえるものではなく、小学生の頃の私でも十分に歩けるものだった。そうして進むうちにゴローが耳と尻尾をぴんと立てる。獲物を見つけたらしい。

 祖父が口元に人差し指を立てて静かにするように指示した。私はうなずいて息を潜めると、祖父は猟銃を構えながらゴローの視線の先にある茂みへと一歩また一歩と近づいて行く。

 私には何がいるのか見えなかったのだが、祖父には獲物の姿が見えていたらしい。乾いた発砲音が山を震わせて、獣の鳴き声が響き渡り茂みからは一頭の猪が飛び出した。かなり大きな猪で、それを見た瞬間の祖父は満面の笑みを浮かべている。猪の横っ腹は湿っていた、きっとそこを撃たれたのだろう。

 猪は苦しげな叫び声をあげてさらに山奥へと逃げて行った。

「逃がすか!」

 と祖父は大声を上げて私のことなど忘れたように後を追って行く。ゴローは祖父の後を付いて行こうとしたがすぐに足を止めて振り返り一声吠えた。「付いて来い」と言っているように私には聞こえた。けれどこの先は大人たちが山神様の領域と呼んで決して近づこうとはしない場所である。

 それを思い出して私は足を止めていた。大物を前にして祖父はそのことを忘れているのか、それとも山神様を恐れてはいないのかずんずんと神域へと近づいている。ゴローがまた吠えた。

 私は怖かった。怖くてしかたがなかった、しかしここから一人で麓に戻る自信もない。ゴローはきっと祖父の後を追って行くだろうし、そう考えると私はこのまま先に突き進むしかなかった。

 怯えているせいか、険しくない道にも関わらず進むのはゆっくりになってしまう。そんな私をゴローは犬なりに気遣ってか、私を先導するようにしてゆっくりと進んでいた。祖父の姿は見えなかったが、ゴローはきっとにおいで分かっているのだろう。

 そうして、唐突に私の目の前に赤い鳥居が映った。鳥居は木製で苔むしており、根元の赤色は剥げてしまい腐食が始まっているようだった。かなり古いのは目に見えて明らかで、毒を含んでいるように見えてしまう。

 その鳥居の前に祖父は猟銃を片手に立っていた。祖父は顎に片手を当てて、どうすべきか思案しているようだった。地面を見てみれば真っ赤な血が転々と鳥居に向こうにまで続いている。幼かった当時の私にもこの血が流されて間もないものであることは充分に分かった。

 祖父はこの血の様子を見てここから先に進むのか、進まないのかを決めあぐねているようだった。ここから先は山神様の住む場所とされており、誰であろうと何があっても決して立ち入ってはならない神域と定められている。

 だが祖父は大物を狩れるかもしれないという欲望に負けたようだった。祖父は私の頭を一度撫でて微笑を浮かべると、ゴローを連れて鳥居の向こう側へと行ってしまう。私は一人で降りることも出来ず、祖父が獲物を持って帰ってくるのを鳥居の根元で待つしかなかった。

 あれから何年も経ってしまっているがこの時のことは眼を瞑れば鮮明に思い出すことが出来る。

 太陽はまだまだ高く空は青かったが、木が茂っているためところどころに影がある。時折吹いてくる風が木の枝や茂みを揺らして私を驚かせた。それ以外に音は無かった。風が吹かなければあたりは全くの無音で、この世界の最後の一人に成ってしまったかのような思いが幼い私を襲ったのだ。

 早く帰りたいと思っていたのだが、幼かった当時の私に一人で麓まで降りることなど出来そうも無く体育座りで蹲る様にして祖父の帰りを待つしかなかった。

 早く祖父が戻ってこないだろうか。

 泣きそうな中で私が考えていると、少し離れた場所からズドンという音が聞こえた。祖父が獲物を見つけて撃ったのだ、だったらもうすぐ祖父は帰ってくる。そう思って私は立ち上がり、鳥居の向こう側から祖父が帰ってくるのを待っていた。しかししばらく経っても祖父は帰ってこず、またズドンと音がする。

 二回も撃つなんて珍しいことだった。祖父はどんな獲物であったとしても一発で仕留めるのだ。けれど今回の獲物は大きい猪だから二発必要だったのだろうか。そしてまた一発銃声が轟いた。

 三発も撃つなんて今までの祖父には無かった。周りの雰囲気のせいもあるのか、私は急に不安になってきた。祖父に早く戻ってきて欲しい。私が心待ちにしていると、血相を変えた祖父が慌ててこちらに走ってくる。

「逃げろ! 逃げるんだ! 見るんじゃない!」

 祖父が叫んだ。突如としていつもと全く違った表情を見せた祖父に私は困惑し、足を竦ませていると祖父は手の銃を捨てて私を小脇に抱きかかえた。私にはてんで何が起きたのか分からず「ねぇ、何があったの? ねぇ!?」と尋ねても祖父は答えようとはしない。そこで私はゴローがいないことに気づいた。

 何があったのだろうか。疑問にこそ思いはすれ恐怖は浮かぶことは無かった。しかしそれも束の間のことで、鳥居の向こうにある茂みから現れたモノを見た瞬間に咄嗟に眼を蔽った。

 叫び声すら上げられない程の醜悪なモノが来ていたのだ。

 全体は薄汚い茶色をしており、足が六本あった。前の二本は物を掴める様になっており、足というよりかは手の形に近かった。大きさはかなり大きい。全長は二メートルを越しているだろうか。口は犬のように突き出しており、濡れる濁った白い歯と血のように真っ赤な舌が僅かに覗いている。

 その口には動物の肉が加えられていた。眼は皿のように大きく丸く血走っている。捻れているように見える角が二本、背中に向かって長く伸びており神ではなく、悪魔というような風貌が恐ろしかった。見たのは一瞬のことであるにも関わらずそいつは私の脳裏に強く焼きついて離れなかった。

 そうしていつの間に気を失っていたのか、それともただ記憶が飛んでいたのか分からない。気づけば布団に横たわっており心配そうに顔を除きこむ祖母と母の顔があった。それからのことはおぼろげにしか覚えていない、神社に行って御祓いをしてもらった後、もうここにはいられないということになり都会に引っ越すこととなった。

 かれこれ二〇年以上は戻っていない。一〇年ほど前に祖父母が亡くなった時も親戚一同から来ない方が良いと言われて私の家族だけは出席しなかったのだ。理由は私も薄々は感づいている。

 だがテレビのニュースで故郷に高速道路が開通したことを知ったのだ。ほんの短い時間とはいえ故郷の風景が映ったことに郷愁の念に駆られて妻子にも内緒で私は一人故郷へと向かった。

 幼い頃、祖父に連れられて歩いた山の中へと入る。開発の手が入ったからなのか、それとも私が大きくなったからなのか。山は小さく見えた。神域への入り口である鳥居の側まで行ってみたが、麓からの距離は意外と近かった。幼い時のあの恐怖が蘇ってくるが、時間が経っているせいだろう怖れはほとんど無く、不思議な記憶の一つとして捉えられるようになっていた。

 鳥居はさらに年月を経てより朽ちていた。

 私の躊躇うことなく鳥居の向こうへと足を踏み入れる。長い都会生活がそうさせたのか、いや違う。確かめたかったのだ、幼い頃にみたあの化け物が本当にいるのかを。

 しばらく歩いていると巨大な木を見つけた。その木の周囲には雑草以外には何も生えておらず、神々しい空気を放っている。幹の太さは大人が二人がかりで手を回したとしても届かないぐらいに太い。

 巨木の根元には洞が空いていた。何の気なしに覗いてみると中には落ち葉が敷き詰められており寝床が作られていた。山の生き物がここを寝床にしているのだろう。巨木の大きさに比して洞の大きさもかなりのもので、私が入ったとしても十二分に余裕があるほどの大きさだった。

 自然保護の観点から長居するのも問題だろうと考えた私はこの場を離れようとした。その時、近くの茂みががさりと鳴り誰かに見られているような視線を感じる。一体なんだろうかと辺りを見回すと、木に隠れるようにしてこちらを窺う影があった。

 私は思わず「アッ!」と声を上げてその場に立ち竦んでしまった。影の主は「ギャッ!」と声を上げると山の奥へと姿を消してしまう。背中に向けて伸びる長い角、茶色い体毛は幼い頃に見た怪物と全く同じだった。

 しかし解せない。幼い頃見た化け物は人を見ても臆することは全く無く、襲おうとしていたぐらいだ。それが何故?

 何か驚かせるような物を身に付けていたのだろうか。服装を確認したが、Gジャンにジーンズそれにスニーカーという出で立ちであり野生の動物を驚かせるようなものは何も持っていないはずだ。

 疑問に思いながらも私は周囲を見回す。木々の合間に高速道路が見えた。そこには幾台もの車が排気ガスを出しながら走っている。山神様が何故私を恐れたのかその理由を理解した。

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