ココロノアリカ |
―1―
ドアノブを掴む音と同時に、ぼくは、いつものようにベッドの上のシーツを頭から被った。
体全体を覆うシーツの長さや、ずしりとのしかかる重さは気になったが、それ以上に、頭の上のものを見られるよりはずっとましだ。
部屋の隅に座り込んで、そのまま扉が開くのをじっと待つ。
被ったシーツの隙間から、相手の様子を伺いながら、じっと。
しばらくしてから、ガチャリと、この部屋に似つかわしくない軽快な音とともに扉が開かれた。
そこには大人の男が2人――初めて見る顔だ。
何かを探すように部屋を見回し、隅にいたぼくのところで視線を止めた。
「――この子が、例の子…?」
扉を開けた男が、こちらを指差しながら後ろの男に尋ねている。
問われた男は、その質問に無言で頷いく。
後ろの男は、そのまま入り口で待機するかたちをとり、前にいた男だけが部屋の中に入ってきた。
長身の、とても体格のいい大人の男だ。
あの腕に捕まってしまったら、ぼくの力で抜け出すのは絶対に無理だ。
ぼくは相手にわからないように、そっと身構えた。
「やあやあ、こんにちはー♪」
「……っ……!?」
掴みかかられるのを覚悟していたせいで、思わず拍子抜けしてしまった。
男は笑顔で両手を広げ、軽薄に挨拶をしながら、ゆっくりとこちらに近づいてきたのだ。
今までにない相手の態度に驚いたが、ぼくは、いつものように距離を取りながら、近づく男を避けて移動する。
男は「あれあれあれ〜?」と言いながら、少しだけ困ったような顔をしたが、それ以上ぼくに近づこうとはせず、ぼくと目線を合わせるようにその場に座り込んだ。
「そんなもの被ってたら暑いでしょ〜?」
「…………」
「それに動きにくそうだし、取っちゃいなよ?」
「…………」
「キミとは、ちゃんと目を見てお話がしたいな〜」
「…………」
ニコニコしながら話し掛けてくる男に、ぼくは無言で返した。
男は、きょとんとした顔でぼくを見ながら「恥ずかしがりやさんだなぁ〜」などと、のん気に笑って言った。
この男は知らないのだろうか――ぼくの、頭の上にあるものの事を――。
いや、そんなはずはない。
ここに入ってくる前に確認していたのだ、「例の子」かと――。
知っててそんな事を言っているのだと思ったら、急に嫌な気分になった。
興味本位でこれを見て、どうせ気味悪がるに違いないのだから――。
男は、それから毎日のようにぼくの様子を見に、部屋を訪れた。
その間、ぼくはずっとだんまりを決め込んでいたが、相変わらずお構いなしに話し掛けてきた。
そんな男のしつこさに、ぼくは内心嫌気がさしたが、男が去った後の部屋は、いつもより静かに感じて、少し落ち着かなかった。
―2―
「……そんなに……顔を見せるのは嫌?」
訪れ始めて何日目かのその日、男は終始無言のぼくに問いかけた。
いつもの軽薄な物言いとは違う、真剣さを含んだ男の問いに、少し戸惑った。
男はこちらを見ながら、ぼくの返事をじっと待っている。
きっと何か反応しないと、ずっとそのまま待つんじゃないかと言わんばかりに。
「…………」
だからぼくは、こくりと、無言でひとつ頷いた。
「そっかぁ……」
ふう、と一息つくのが聞こえた。
「でも、キミはそのままじゃあいけない」
「……?」
「キミには、ちゃんと『自分』を受け入れて生きて欲しいから」
「…………」
そう言った男の笑顔に、ぼくはどきりとした。
どうしてだろう……?
この人は、顔では笑っているのに、どうしてこんなに哀しそうなんだろう――
ぼくの胸が、ずきりと音をたてた。
それからすぐさま立ち上がって伸びをすると、男は、扉の向こうで待っている男に「行こうか」と声を掛けた。
「明日もまた来るからヨロシクね」
男の様子は、部屋に入ってきた時の調子に戻っていた。
「にしても……いつも手ぶらじゃあ、私も芸のないオトナだよねぇ〜」
「…………」
「キミは何か欲しいものある? お菓子? それともおもちゃ??」
「…………」
無言のぼくにかまわず、男は首をかしげながら、あれでもない、これでもないとうんうん唸った。
「うーん……今どきの子は一体どんなものがー……あ、そうだ!」
「……っ!?」
「やっぱアレかな! うん、アレがいい♪」
男は、名案と言わんばかりに1人で納得するように頷いた。
そして「それじゃあ、また明日ね〜」と、終始笑顔で手を振りながら部屋を出ていった。
扉の前から、人の気配が消えたのを確認してから、ぼくは被っていたシーツから顔だけ出した。
それと同時に、ぼくの頭の上にあるもの――獣のようなふたつの耳も一緒に露わになる。
(なんなんだろ……あのひと……)
今まで、大人から向けられたのは、嫌悪や憐れみを含んだ視線ばかりだった。
それは自分が『異端』だから、仕方のない事なのだと思った。
でもあの男の視線は、他のそれとは違っていた。
いつも笑顔で、楽しそうにしているけど、あの人の哀しみは、きっと、もっと深くて、重くて――
(じぶんをうけいれるって……どーゆーことなんだろ……)
ぼくは、片手を伸ばして、頭の上にある耳をぎゅっと握る。
……やっぱり、痛い――
これは、自分と繋がってるのだと、嫌でも実感する。
受け入れるという事が、自分を好きになるという事なら、それは、絶対に無理だ。
だってぼくは、この世の中で『ぼく』という存在が、何よりも1番『嫌い』なのだから――
部屋の中は、またいつものようにしんと静まり返っている。
こんな感覚にはもう慣れていたはずなのに――今は、その沈黙がすごく怖いと思った。
(あのひと……あしたも……また、くるのかな……)
ぼくは、その恐怖から逃れるように、シーツを被り直して両耳を塞いだ。
―3―
外から聞こえる、朝を告げる鐘の音で目を覚ましたのに、何故か目の前は真っ暗だった。
ああ、そうだ。
そういえば昨日、シーツを頭から被っていたんだった。
ぼくは、あのまま眠ってしまっていたのか。
シーツの中から這い出て、いつものように、天井に近いところに目をやった。
視線の先にある、この部屋唯一の窓からは、かすかに光が差していた。
その窓は、ぼくが手を伸ばしても届かない程高いところにあり、光を取り入れる程度のものだった。
次に、唯一の出口である扉の前まで歩く。
そこには、いつものように簡素な食事が置かれていた。
食事だけは定期的に毎日2回、監視窓の隙間から差し込まれている。
皿の上に置かれたパンを手に取り、少しだけちぎって口に入れた。
相変わらず、ぼそぼそした味のないパンだった。
いっそのこと、食事に毒でも入れて始末してくれればいいのに、と何度思っただろうか。
だから毎日、腹を満たすためでなく、そんな思いを抱いて手をつけていた。
しかし今日は、今日だけは、そうだったら嫌かもしれないと――少しだけ、ほんの少しだけ思った。
(きょうも……くるっていってたよね……)
ぼくは、昨日男が言っていた言葉を思い出す。
残ったパンを皿の上に戻し、シーツを羽織ってベッドの上に座る。
別に、来るのを待ってるわけじゃないけど……。
来たってどうせ、いつものように話をする気なんてないのだけれど……。
でも何故か、今日はやけに、今か今かとそわそわした。
静まり返った空間の中、時間がゆっくりと過ぎる。
しかし、いくら耳を澄ませても、廊下からは足音ひとつしてこなかった。
窓から差し込む外からの光は既になく、明かりをつけていない部屋は、見渡すのも困難なほどに薄暗くなった。
男は、まだ現れていない。
いつもなら昼の鐘が鳴って少ししたくらいに、遠慮のない軽いノリの挨拶をしながら部屋を訪れていたのに。
それから1人で勝手に喋り始めて、1人で勝手に盛り上がっていたのに。
笑顔なのに、心からの笑顔じゃない笑顔を、終始ぼくに向けていたのに。
昨日、『明日もまた来る』と、そう言っていたのに――
(おとなは……やっぱりうそつきだ……)
あの人は、他の大人とは少し違うかもしれない、と。
そう感じたのに、やっぱり同じだった。
大人は、皆同じ。
口では何とでも良いように言って、裏では全然逆の事を思っている――嘘つきばかりだ。
ぼくは、その『大人』であるあの人に、何かを期待していたんだろうか――
そう思うと、急に自分がすごく嫌になった。
そうだ。
馬鹿なのは、ぼくだ。
見ず知らずの他人を信じようとした、ぼく自身だ――
膝を抱える手に、自然と力がこもる。
(もう……いやだ……)
裏切られて不安になるのも、無駄に生かされるのも、もうたくさんだ。
胸の辺りが痛くて、苦しくて――ぼくは、抱えた膝に、顔をうずめた。
今日一日、ずっと気を張り詰めていたせいだろうか。
身体がだるくて、瞼も重い。
眠い……のかな……?
どうして、こんな状況で眠れてしまうのだろう……
そんな自分も、やっぱり嫌だった。
(でも、いいや……もう、つかれちゃったし……)
そのまま、意識が遠のく感覚に身を任せてしまおうとした時、突然、ばたんと扉が勢いよく開いた。
「おっまたせピョ〜ン★ 遅ればせながら、私、さ〜んじょ〜うっ!」
「……っ!?」
場違いなまでの明るい声に、眠気は一気に吹き飛んだ。
顔を上げると、扉の前にいたのは、あの男だった。
男は、いつもみたいに、陽気な態度でそこに立っていた。
自分の登場に無反応なぼくを見て、苦笑いする。
「……なーんて……あれ!?」
男は、手に持った明かりをぼくの方に向けると目を丸くした。
そして「おやおやおや〜?」と嬉しそうにこちらに近づいてきた。
「今日はシーツオバケちゃんじゃないのかな〜?」
「……っ……!?」
しまった……!
突然の事に、シーツで顔を隠すのをすっかり忘れていた。
だから顔も、頭の上にある耳も、その男に丸見えなのだ。
男はぼくの目の前に座ると、ゆっくりと頭に手を伸ばしてきた。
「……や…っ……!!」
ぼくは、男から逃げるように背を向けると、慌てて耳を両手で押さえて隠した。
「…………」
「…………」
後ろから向けられる、男の視線を感じて、全身が強張る。
やっぱり、ぼくは他の天使に比べて『異物』なのだろう。
獣じみた耳もそうだが、目端に見えた髪は黒っぽい色をしているし、瞳は闇夜で不気味なくらいに光る。
背中の羽だって、生えているのかどうか分からないくらい小さいのだ。
そんなぼくの姿を、彼は見たのだから、きっと――
「…………」
男はまだ、お喋りだと言わんばかりだった口を閉ざしてこちらを見ている。
背中ごしに感じる視線は、嫌悪の目だろうか。
それとも、憐れみの目だろうか――
自分の姿を見られるのは、いつまでたっても慣れないし、嫌だけどー…でも、仕方ないから――
ぼくがこんな外見だから、そう思われても仕方ないのだと、いつも自分に言い聞かせるしかなかった。
「……怖がらなくてもいいよ」
突然、男の一言が、沈黙を破る。
「私が怖がっていないのだから、キミが怖がる必要はないんだ」
「…………」
「それに、とても可愛いじゃないか」
「……うそ……」
気持ちが抑えきれなくて、言葉が思わず声に出た。
ゆっくりと後ろを振り返ると、男は少しだけ驚いた顔をしていた。
でもすぐに、いつもの笑顔に戻る。
「嘘? どうしてそう思うの?」
「おとな……だから……」
「オトナ? 私が?」
男の問いに、ぼくはこくりと頷く。
「キミは、オトナは嫌い?」
もう一度頷く。
「じゃあ私も、嫌いって事かな?」
「…………」
そうだ。ぼくは『大人』が『嫌い』だ。
そしてこの人はその『大人』。
だからこの人だって『嫌い』なはずじゃないか。
じゃあさっきみたいに頷けばいい。
だけど――
だけど、何だかそうしてしまうのが怖かった。
肯定してしまったら、もう二度と会えなくなるんじゃないかと思って、怖かった。
また、静まり返った部屋で1人きりになるのが、怖かった。
「嫌い?」
「……わかん…ない……」
「…………」
でも、どう答えていいのかわからなかった。
「そっか……」
すると男は、うつむくぼくの手を取って「それじゃあ…」と続けた。
「私の事が、はっきりと『嫌い』じゃないなら、他のオトナよりちょっと……ほんのちょっとだけでいいから、今から言う私の言葉を信じてくれる……?」
あの時見せた、真剣な眼差しで訊く。
ぼくは、男の問いに無言で頷いた。
ぼくの答えに、男は「ありがとう」と微笑んだ。
手を握ったまま、ゆっくりと顔を近づけた男の額が、ぼくの額にこつんと当たる。
「キミは、本当に可愛いよ」
それは、怖れも迷いも感じない、真剣で、まっすぐな言葉だった。
―4―
「本当に、来るのが遅くなってごめんね。コレを用意してたら、夜通しかかっちゃって……」
「……? ……っ!?」
男は懐から何かを取り出すと、えいっという声と同時に、突然、ぼくの頭の上にそれを被せた。
ぼくはびっくりして、被らされた何かを両手で掴んだ。
するとそれは、ずるりと目の前まで下がってくる。
「あー…ちょっと大きかったかぁ」
やっぱり勘はあてにならないなぁと、男は苦笑した。
目の前までずり下がったものを、形を整えながらきちんと被せ直すと、ぼくに手鏡を手渡した。
「でも似合ってる! すっごく可愛いよ〜ほら!」
「…………」
自分の姿を目にするのが嫌で、今まで殆ど見た事がない、ぼくの顔がそこにあった。
そして頭には、動物の耳を模ったような黒い帽子がちょこんと乗っていた。
「ね? これでもう、あのシーツ被らなくてもいいよ」
そう言った後、「まあ私としては、帽子を被らないままでもじゅーぶん可愛いと思うんだけどね」と付け足した。
額から上を覆うように被らされた帽子は、頭の上にあった耳をしっかりと隠してくれていた。
「聞こえてくる音も少し和らいだと思うんだけど、どう?」
「…………」
嫌でも耳に入ってきていた周りの雑音や騒音が、男の言うとおり、今は前ほど聞こえてこない。
こくりと頷くと、男は満足げに微笑んだ。
そして男の大きな手が、鏡を持ったままのぼくの手を包む。
さっき手を握られた時にも気になっていたが、男の指にはテーピングが何ヶ所にも巻かれていた。
確か、昨日まではなかったはずなのに……。
ぼくがそれをじっと見ていると、男はぼくの視線の先に気づいたのか「ああ、これね」と苦笑いした。
「裁縫なんて初めてやったから、いっぱい失敗しちゃったけど大丈夫! どーしても自分で作りたかったし、キミにプレゼントできたから私は満足!! ……なんて、これじゃあ自己満足かもしれないけどね」
おどけながら微笑む男の姿に、ぼくは胸の奥の方がじんとした。
痛くて大変だったのに、どうしてそんなに笑ってるの?
どうしてぼくに、そんなにしてくれるの?
今まで感じた事のない、よく分からない、胸の奥からこみ上げてくるような感じ。
これは……何という気持ちなんだろう……?
「……ぼく…も……」
こみ上げてくる何かに遮られて、途中で言葉に詰まってしまった。
言葉でちゃんと伝えたいのに、この気持ちをどう言ったらいいのか、どう言えば伝わるのかが分からなかった。
誰かから何かを貰ったのは初めてで、ぼくに微笑んでくれて、それで胸がいっぱいで――
「えっ…ちょっ……ど、どーしたの!?」
驚いたような男の声にふとわれに返ると、ぼくの頬を冷たい何かが伝っていた。
手で触れると、指先が少し濡れた。
水だ。しかも目から流れてきている。
目から流れ出る水――確か『涙』というのだったな、と思い出す。
視界を霞ませるそれを、ぼくは服の袖で拭いた。
だけど何度ぬぐっても、涙はどんどん溢れて止まらない。
突然の事態に、男はおろおろする。
「ま、まさか、こーゆーのは迷惑だった? それとも、どこか痛い??」
違う――
男の問いに、ぼくは首を横に振った。
迷惑だったわけじゃないし、どこかが痛いわけでもない。
それにこれは、『嫌な気持ち』じゃないのは分かる。
胸の奥からこみ上げてきた『これ』は、とても温かかったから。
でもぼくは、この気持ちを表す言葉を知らない。
男は心配そうに眺めていたが、ふいにあっ、とひらめいたような顔をした。
思い当たるものがもう1つある事に気づいたのか、男は「間違ってたらごめんね」と一言置いてぼくに訊いた。
「もしかして…嬉しかった……とか?」
…………
……嬉しい……?
…嬉しい…………ぼくは…『嬉しい』なの……?
胸の奥がじんとして、とても温かくて……
そうか、『これ』は――この気持ちが『嬉しい』なんだ。
ぼくは嬉しいんだ。
ゆっくりと頷いて顔を上げると、そこにはいつものように微笑む男の顔があった。
やっぱりどこか哀しげだけど、でも、その微笑みはとても優しくて、温かくて……
「じゃあ……もらってくれるかな?」
男の言葉に、ぼくは止まらない涙をぬぐうのも忘れて、何度も、何度も頷いた。
―EP―
目覚めと共に、意識や感覚が戻ってくる。
手や頬に伝わる心地よい温もりがまだしばしの眠りを誘ったが、ぼくはゆっくりと目を開けた。
持ち上げる瞼が重い。きっと腫れてしまっているのだろう。
昨夜あれだけ泣いたのだから、無理もない。
「あ、起きた?」
近くから聞こえる男の声に顔を起こすと、そこは男の膝の上だった。
あのまま男にすがりついて眠ってしまっていたのかと思うと、少し恥ずかしかった。
「おはよう」
男はいつもと変わらない笑顔で挨拶をする。
「……はよ……」
挨拶を返そうとしたけれど、声が擦れてうまく言えなかった。
しかし男は気にしない様子で笑いながらぼくの頭を撫でた。
ぼくの頭には、昨夜男に被せてもらった帽子がそのまま乗っていた。
他人に触れられるのはあまり好きじゃないけど、今は何だか安心する。
「それじゃあ、私はもう行くね」
立ち上がりながら、男がぼくに告げた。
それは、いつもとは違う。
いつものように、明日もくる、とは言っていない目だった。
行ってしまう……
行ってしまう…………
もしかしたら、このままもう――
そう思ったと同時に、ぼくは男の服の裾を捕まえていた。
ぼくの行動に少し驚いた顔をしたが、男はぼくに目線を合わせるように座った。
「ごめんね」
そして、すまなさそうにぼくに謝る。
困らせたいわけじゃないのに。
でも、離したら行ってしまう――ぼくは、きっとそうなるのが嫌なんだ。
掴んだ手に、自然と力がこもる。
「キミには嘘つかないって約束したもんね……」
男は一息置いて、ぼくの目を見て言った。
「今日が、ここに滞在する最終日なんだ。だから、私はもうここに来られないかもしれない。キミにはきっとそれが分かるんだね。それでも、私は行かなきゃいけない」
「…………」
ぼくは無言でただ首を横に振る。
「私の帰る場所には、同じくらいの子がいてね、その子も、今1人で私の帰りを待っててくれてるんだ」
「…………」
……待ってる……1人で…………
その子も……ぼくと同じ気持ちなのかな……?
ぼくも、1人は嫌だ。
だって、1人は『寂しい』って、知ってしまったから……
そんな思いを、ぼくのわがままのせいで他の誰かに押し付けてしまうのは、嫌だ。
ゆっくりと手を離すと、男は「ありがとう」と言いながら立ち上がり、ぼくの手を取った。
「外まで見送りに、来てくれるかな?」
男に連れられて、ぼくは初めて建物の「外」を見た。
ぼくのいた部屋に施錠はされていなかったから、いつでも外には出られたけど、ぼくはあえてそれをしようとしなかった。
今まで外に出たいとも、見たいとも思わなかった。
ぼくはそこから出るべきではないと、自分の中ではそれが当たり前だった。
初めて外で見る「空」と「雲」、
初めて触れる「草木」や「花」、
初めて感じる「陽の光」と「風」――
全てが、大きかった。
ぼくの知っている「外」は、建物ごしに四角く切り取られた一部だけだったから。
「外はね、こんなに広くて大きいんだ。でも、世界はこれよりもっと大きい。私達が今見えないところも、世界だからね」
男がくるりと振り返る。
「こんな広い世界で、キミみたいな境遇の子を作っちゃいけないんだ。キミは何も悪くないもの。悪いのは、昔の掟に縛られて『悪い』と言っている頭の固い連中の方だ」
そう言いながら、空を見上げた。ぼくもつられて男の視線の先を見る。
「今はまだ難しくても、変えるよ……絶対に」
「…………」
自分に言い聞かせるように呟くのを、ぼくはただ黙って聞いていた。
「それじゃあ、行くね」
つないでいた手がそっと離れる。
もう困らせたくないから、ぼくはそのままぐっと堪えた。
「大丈夫。キミは1人じゃないよ。私はいつでも、ここにいるからね」
そう言いながら、ぼくの頭の上の帽子をぽんぽんと叩いた。
「……り…と」
「ん?」
「あ……がと……」
帽子を貰った時からずっと言いたかったのに、言えなかった言葉を精一杯声にした。
やっぱりうまく声に出せなかったけど、もう一度言ったら、また泣いてしまいそうだった。
男もそれを察してくれたのか、頷きながらそれ以上は聞き返さなかった。
「じゃあ、私も帽子のお返しが欲しいな」
「……?」
「次会った時、キミの笑顔を見せてくれるかな?」
次が一体いつになるか、それは分からない。
しかし私では、キミに本当の笑顔は教えてあげられないんだ――
だから私は世界そのものを変える。
そうすればこれから先、キミが出会う人の中に、本当の笑顔を教えてくれる人が現れてくれるはずだから。
それは数年後かもしれないし、何十年も後かもしれない。
でもキミが、キミの本当の笑顔を知った時、私達はきっとまた会えるからね。
お返しはそれまで楽しみにとっておくよ。
笑いながらそう言い残して、男は去っていった。
別れた後も、ぼくは不思議と寂しさは感じなかった。
だって、離れてしまったけれど、今もとても近くに感じるから。
両手を伸ばして、頭に被った帽子にそっと触れる。
そうだ、ここに彼はいる。
作る過程で、その帽子には男の魔力が籠められていた。
とても強くて、温かくて、優しい、彼の力が――
それが全身に伝わるのを感じる。
世界を変える――そう言っていた。
だからぼくはもっと外を知ろう。そしていろんな人に出会おう。
まだ自分を受け入れられる自信はないけど、彼の言う『本当の笑顔』が知りたいから。
早く彼に、帽子のお返しがしたいから――
ぼくはゆっくりと瞳を閉じた。
『大丈夫。ぼくはもう、1人じゃないよ――』
――完――
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以前ブログ内限定で掲載していた小説。当サイト創作作品「Angel×Devil」のキャラの過去のお話です。 | ||
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