魔法科高校の劣等生 私って、恋愛に不器用なのかしらね?
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魔法科高校の劣等生 私って、恋愛に不器用なのかしらね?

 

 

「おっ、おはよう……達也くん」

 司波達也と恋人になってから10日。七草真由美は同じ家に住む年下の恋人との距離の取り方に戸惑っていた。

 洗面のために廊下を歩いていると達也と不意に遭遇。真由美の顔がすぐ赤く染まった。

「おはようございます、真由美」

 挨拶しながら達也は真由美を壁際へとさり気なく誘導。壁と自分の体で真由美を挟み、右手を突いていわゆる壁ドン状態に持っていく。

「あの……この状態は一体?」

「キスしてもいいですか?」

 間髪入れずに達也から答えが戻ってきた。真由美が更に赤くなる。

「朝から?」

「朝だからです。モーニング・キスは恋人の基本でしょう」

 達也の言葉にはどこにも照れがなく、彼にとっての当然を語っていることがわかる。

 達也のことを女に手を出せない草食系男子だと思っていた過去の自分が恨めしい。達也は単に抑えていただけで相当にアグレッシブな男だった。

「キスしていいですか?」

「………………はい」

 もはや年上の威厳は欠片もなく達也の提案を小声で受け入れる。目を瞑りながらあごを持ち上げる。頬が熱い。

 達也の唇の感触が真由美の唇に届くのはそれからまもなくのことだった。

 恋人のキスを静かに、けれど熱心に受け入れる。達也からの愛情表現は真由美にとっては嬉しいことだった。けれど、予想外に年下の彼氏は積極的であるために彼女は戸惑いもしている。

 恋人と一つ屋根の下で暮らしてはいるものの、まだ最後の一線は超えていない。達也のことは愛しているけれど、体を許すと本当に歯止めが効かなくなりそうだから。真由美なりに考える恋人同士が歩むペースというものがある。それが、上手く現実と噛み合っていない。達也は性急過ぎるし強引過ぎた。そして、もっと大きな問題が存在する。

 達也の舌が真由美の口内へと侵入してくる。真由美は固く目を瞑り直しながらそれを受け入れる。強引なのは嫌だけど達也のことは愛しているから。

 真由美は生まれて初めてできた恋人との付き合い方を悩んでいた。

 

「あ〜〜〜〜っ! お兄さまっ、朝からなんてふしだらなことをなさっているんですかぁ〜〜〜〜っ!?」

 鼓膜を引き裂くのではないかと思うぐらいに大きな声が真由美の耳に響いた。

「深雪」

 達也が真由美から離れていくのが唇の感触の変化でわかる。真由美は目を開いた。

 案の定、達也の妹である司波深雪が怒った表情を少しも隠そうとせずにこちらに向かってくるのが見えた。達也は妹を見ている。

「お兄さまっ! 朝からハレンチですっ!」

 深雪は達也を睨む。重度のブラコンである深雪が、敬愛する兄のキスシーンを見て平然としていられるはずがなかった。

「…………そうか?」

 そして、重度のシスコンである達也は深雪の言うことを無視することができない。恋人ができても、達也の一番は依然として妹なのではないかと真由美は思うことが多々ある。

「そうですっ! きっ、キスはお二人が正式に婚約を果たしてから行うべきなんですっ!」

 深雪の考えは随分と古い。というか、キスさせたくないための方便。真由美はそう分析した。

 深雪の怒った表情が今度は真由美へと向けられる。

「七草先輩も七草先輩ですっ! お兄さまの言いなりになってキスされちゃいけません! 乙女はもっと自分を大切にすべきなんですっ!」

 指を刺されて怒られた。

「ご、ごめんなさい……」

 真由美は素直に頭を下げる。

 深雪もここ数日の達也の行動を見て、達也の方が積極的に、というか強引に真由美に求愛しているのは理解している。理解しているからこそ、受動的で達也のなすがままになっている真由美に腹を立てている。

「いいですか。乙女の純潔というものは結婚するまで絶対に守りぬかなければいけない尊いものなのです。お兄さまに強引に迫られるようなことがあっても、決して自分を安売りするような真似はしないでください」

「…………はい」

 真由美は深雪に凄まれてちょっと泣きそうになっている。

 ちなみに深雪は親切心だけで真由美にアドバイスしているわけではない。達也至上主義である深雪にとっては、真由美に兄の身も心も真由美に奪われてしまうのは面白くない。だからこそ、真由美に歯止めを掛けることで間接的に兄を繋ぎ止めている。真由美のみならず、司波兄妹の関係者の誰もが知っている事実だった。

「七草先輩には今後とも夜はわたしの部屋に寝泊まりしていただきます。お兄さまの魔の手からはわたしが命に換えてもお守りします」

 変換すると、命懸けで真由美と達也が結ばれるのを邪魔するつもりですとなる。

「お兄さまが蛮行に及ばないように、お兄さまの部屋の扉の前には十文字変態を待機させて見張らせています。ご心配には及びません」

 変換すると、真由美と達也が逢引きを企んでも、おっさん顔の全裸が四六時中見張っているので無駄ですとなる。

 深雪は真由美と達也が結ばれることを望んでいない。最愛の兄を討つことになっても。

「…………ありがとう」

 達也との接し方に戸惑っている今の真由美にとっては深雪の行き過ぎの護衛はありがたくもあった。

 真由美が頷いてみせたことで深雪はようやく怒りの表情を解いた。

「そうです。朝ごはんができたのでお兄さまたちを呼んでくるように十文字変態に言われていたのでした」

 司波家のもう1人の居候であり、自称司波達也の義妹である十文字変態(本名:十文字克人)は顔に似合わず繊細な料理を作る。今ではすっかり司波家の台所を預かっている。

「わかった、行こう。深雪も真由美も行くぞ」

「はい、お兄さま」

「ええ、そうね」

 歩き出す達也と深雪。

 真由美は恋人の後ろ姿を胸のトキメキと一抹の寂しさを両方感じながら見ていた。

 

 

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「えっ? 真由美ってば、まだ達也くんとエッチしてなかったの?」

「摩利……そういうことを教室で平然と尋ねるのはどうかと思うわよ」

 3年A組の教室。真由美は渡辺摩利の歯に衣着せぬ質問に呆れていた。真由美は十文字手製のお弁当を摩利と取っていたが、箸を机の上に落としてしまったほどだった。

「だって、達也くんの家に居候はじめた当初は真由美が誘惑を繰り返していたでしょ。その小さい体で頑張ってさ」

「…………身長は小さくても出るところは出ているつもりよ」

 恥ずかしくなりながらも反論する。実際、真由美のスタイルは悪くない。単に身長が平均より少し低いだけ。真由美にしてみれば、摩利の方が背が高くスレンダーなモデル体型で稀有な存在なだけだった。

「付き合い始めたら、達也くんは肉食系でガンガン真由美に迫ってくる」

「うん。まあ、そうね」

 渋々認める。達也が彼氏になった途端、第三者から彼の話が出る度に過敏に反応してしまうようになった。嬉しくもあり恥ずかしくもある。今の場合、自分の彼氏が肉食系と断定されてしまったことで恥ずかしさが上回っている。

「そんな2人でどうして真由美はまだヴァージ……」

「スト〜〜〜〜プっ!!」

 元生徒会長として元風紀委員長の危険発言を口を塞いで止める。何より自分が恥ずかしかった。

「あなた……風紀委員会よね?」

「もう引退した」

 サラっとした口調の摩利。

「引退した途端に風紀を乱すの?」

「なら、実力で私を捕縛して反省させればいい。そのための風紀委員会よ」

 摩利の態度にはいささかの揺るぎも見られない。

「あなたの後輩の風紀委員たちは大変よね」

「真由美の跡を継いだ中条ほどじゃないと思うけどね」

「どういう意味?」

「真由美も会長在任中は結構な無茶を繰り返してきたからねえ。おんなじような路線を歩もうとしたら生徒会ごと学校や他のお偉いさんに潰されかねないってね」

 ムッとした表情の真由美を摩利は平然と受け流す。

「あーちゃんなら私とは違うやり方で生徒を良い方に引っ張ってくれるわよ」

「そうよねぇ。真由美はもう達也くんにグイグイ引っ張られるのにメロメロで、生徒たちを引っ張っていく余裕なんてないもんね」

 摩利はニタニタとやらしい笑みを浮かべている。

「…………前会長がいつまでも口を出す生徒会はろくなことにならないの」

 真由美は話を打ち切ることにした。摩利との不毛な話し合いに疲れもしたが、達也との関係のことで頭がいっぱいで学校のことを考える余裕がないのもまた確かだった。

「まあ、恋人との接し方がわからなくて困るってんなら、普段とは違うことをしたらいいんじゃないの?」

 彼氏持ちの先輩である摩利からのちょっとしたアドバイスは真由美の心に響いた。

「普段とは違うこと……」

「達也くんといつも同じ家で過ごして息が詰まるってのなら、外の美味しい空気でも吸いがてらデートに出掛けてみたらどう?」

「デート…………デートっ!」

 摩利の放った『デート』という単語は真由美の心を激しく揺さぶった。

「そう言えば私、達也くんとまだデートしたことない」

 同じ家に住んでいるので敢えて外に一緒に遊びに行くという選択肢が真由美の頭から抜け落ちていた。

「デートもしたことないのに既に同棲してるって。私に言わせればそっちの方が羨ましいけどね」

 今度は摩利の白い目が真由美に通じない。

「そうよ。デートともなれば達也くんに私が年上のお姉さんであることを示せる機会も設けられるはず。私が望むイーブンな関係に戻せるはず」

「口にすること事態が既に負けフラグな気がする」

 摩利の言葉は真由美に届かない。

「達也くんにグイグイリードしてもらえるのは嬉しい。けど、やっぱり年上のお姉さんの余裕も示したいのよ」

「だから口に出すほどに負けるんだってば。そういうのは」

 摩利の話を無視して真由美は立ち上がって拳を握りしめる。

「決めたわ。今度の日曜日に達也くんとデートして、私がお姉さんなんだって達也くんに知ってもらうんだから」

 己に課した新しい目標に燃え上がる真由美。

「今度の日曜日は真由美の初体験になる……いや、大規模テロ発生かな」

 摩利は開かれている後方の教室の扉を瞳を細めて睨みながら小さく呟いた。

 

 

 

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「テロは未然に防ぐものだと私は思うんです」

 放課後の1年A組の教室。残った数少ない生徒たちを前にして光井ほのかは教卓に手をつきながら悲しげに胸を痛める現状を訴えた。

 そんな彼女を、交換学生として1年A組に編入している一条将輝はどこか違和感を覚えながら見ている。

「今までの私たちは何か大きな問題が起こる度に達也さんにおんぶに抱っこで助けられてきました。私たちの平穏は達也さんによって守られてきたと言っても過言ではありません」

「同級生の命の危機を何度も何度も救ってくれるなんてなかなかできないよ」

 ほのかの隣に立つ北山雫が彼女の言葉に同意する。

 そんな雫の態度に一条はやはり違和感を覚えてしまう。

「森崎さんの偵察によれば、今度の日曜日にテロリス……七草先輩は達也さんとデートをなさるそうです」

 ほのかが教室の隅に直立不動で立っているモブ顔の小物を見る。ご褒美のグーパンチを両の頬にもらった森崎はほのかと雫に敬礼して返してみせた。

 狂気が支配する空間に迷い込んでしまった。一条はほのかの誘いに乗り教室に残ってしまったことを激しく悔やんだが今となっては後の祭り。編入当初、親切に接してくれた少女2人の危険性に純情な若者は気付けなかった。

「今こそ私たちは達也さんに恩を返すべきだと思うんです」

「同級生に恩をきちんと返す。こんなことなかなかできないよ」

 ほのかたちが話を進めるほど一条の胸には嫌なものが去来する。

 一条もほのかと雫が達也に恋愛感情を抱いていることは理解している。だからこそ、2人が話す恩返しとは何なのか嫌な予感がしてならない。

 ライバルである司波達也に同じ十師族の一員である七草真由美という恋人ができたことは知っている。

 果たしてほのかと雫は達也のことを諦めたのか?

 そんな風に少しも思えないことが一条の不安の根源になっている。

 けれど、一条はそれを口にすることはできない。小学生の妹に対する扱いは慣れているものの、同世代の少女と接することは苦手だった。それも、何か企んでいるに違いない少女たちを相手にすることは純情過ぎる一条には気が重かった。

「同志深雪にお聞きします」

 ほのかは教室の最後方で窓の外を見ながらずっと憂いを湛えている深雪を見た。

 同志という言葉を使い始めたことに一条の嫌な予感度が更に増していく。

「何でしょう?」

 深雪はとても疲れた表情で焦点の合っていない瞳をほのかに向けた。

「日曜日の達也さんとテロリス……七草先輩のデート先。ご家族である同志深雪なら行き先に見当が付くのではないですか?」

 深雪は疲れた表情のまま天井を見上げた。

「そうですね。お兄さまにはこれという場所はないと思います。考慮すべきは七草先輩の希望かと」

 深雪の声は疲れている。九校戦以来一条が気になっている少女は今日1日何か考え事に耽っていた。

「森崎さん。テロリス……七草先輩はデートの行き先に関して何かおっしゃってましたか?」

 森崎は目を瞑って考えながら答えた。

「七草先輩は具体的なことは何も言っていない。けれど、渡辺先輩は外の美味しい空気でも吸いがてらってアドバイスしていたから、景色と空気が良いところなんじゃないか?」

 ほのかは和やかに一条を見た。突然視線を向けられて一条はビクッと肩を震わせた。

「一条さんなら、高校生同士のデートで景色と空気が美味しいところと言えばどこを思い浮かべますか?」

 ほのかは微笑んでいる。けれど、その優しい笑みが一条にはどことなく怖かった。きちんと答えないと自分がどうされてしまうか自信が持てない。

「えっと……俺は金沢の人間なんで東京のデートスポットとかよく知らないんだけど……」

 一条の本来の在籍校である第三手品専門学校は所在地が石川県金沢にある。

「石川県の事例で構いませんよ」

 一条は逃げようとしたが回り込まれてしまった。

「その、石川県は日本海に面して海が綺麗な所として有名だから……若い観光客のカップルはよく海を見に来るね」

 蛇に睨まれた蛙の心境で冷や汗を垂らしながら答える。

「海、ですか……」

 ほのかは教卓の端末を操作して黒板の位置に関東の地図を出現させる。

「東京及びその周辺も結構海に面しているんですよね」

「関東全域の海をカバーするのはちょっと無理かも」

 眉をしかめるほのかと雫。

「七草先輩はわりとミーハーなところがありますから、海と一緒にオシャレなスポットがいっぱいあるところを選ぶと思いますよ」

 意見を追加したのは深雪だった。一緒に暮らしているために真由美がどんな人間であるのか段々深雪にはわかってきた。

「オシャレなスポット。綺麗な海。となると……」

「横浜かな。一番可能性が高いのは」

 雫は端末を操作して横浜湾岸部をズームする。

 横浜みなとみらい21。横浜市の西区と中区にまたがり横浜港に面している地域であり横浜都心に指定されている。ランドマークタワーや日産本社ビルなどがありオフィスビル開発を推進する「中央地区」、赤レンガ倉庫やコスモワールドなどがある「新港地区」、そごうやスカイビルがある「横浜駅東口地区」から成り立つ。2009年4月に設立された一般社団法人横浜みなとみらい21により街づくりの企画・調整・プロモーション活動が行われている。

 主な商業施設・テーマパーク、オフィスとしては、横浜ランドマークタワー、クイーンズスクエア横浜、 MARK IS みなとみらい、TOCみなとみらい、横浜ワールドポーターズ、よこはまコスモワールド、横浜赤レンガ倉庫、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、カップヌードルミュージアムパーク、新港中央広場、パシフィコ横浜、横浜みなとみらいホール、魔術協会横浜支部などが存在する。国際観光地であり、国内外合わせて年に7,200万人の来街者を記録している。

「なるほど」

 ほのかは小さく頷いてみせた。

「では、今度の日曜日には横浜で大規模なテロが発生します」

 ほのかは普段通りの温和な表情で未来予知をしてみせた。

「何でそうなるんだっ!?」

 つい、一条は大きなツッコミの声を挙げてしまった。

「そうは言われましても、テロリストの考えることは私にはわかりません」

 ほのかは寂しげに首を横に振った。

「これで地球と火星のヴァース帝国との交渉は決裂っと。これは日曜日辺りに衛星軌道上に浮いている機動要塞の揚陸城が横浜辺りに落下しそうだねえ。火星人との戦争なんてなかなかできないよ」

 資産家の娘であり、各界の人脈と深い繋がりのある雫は驚きの声を挙げた。

「ちょっと待ってくれっ!?」

 日本の全ての魔法師の力を結集してもどうにもならない事態が進行しようとしている。一条にはそれが恐ろしかった。

「火星との戦争なんてなったら、魔法師は全員戦場に真っ先に送られて死滅するぞ」

 十師族が目指す魔法師の地位向上。それと反対の未来が近付いていることを一条は感じずにはいられない。

 いくら十師族とて地球の科学力を遥かに超越する巨大人型ロボットを多数操る宇宙からの侵略者を相手にすることはできない。戦えば魔法師の全てが、いや、人類の全てが滅ぶことにもなりかねない。

「大丈夫ですよ。ヴァース帝国の横浜強襲はただの双方の不幸な誤解により生じるものですから、用が済んだらすぐに事態は収束しますよ。ほんの数十分の話です」

 ほのかは普段通りの優しい笑みで答えた。

 『用が済んだら』とは何を意味するのか?

 一条には怖くて聞けなかった。

 そして、その数十分の間にどれほどの被害が発生するのか考えるだけで恐ろしかった。

「後、世界各地のテロリストが日曜日辺りに横浜に大集結しそうだよ。テロリストの見本市状態なんてなかなかできないよ」

 各界の人脈と深い繋がりのある雫はまたも驚きの大声を挙げた。

 一条は泣きたくなった。

「横浜が大ピンチですね。達也さんに代わって私たちがフル武装して横浜を守りましょう」

 ほのかは大きく頷いてみせた。

「争い事は嫌ですが、達也さんのためです。私たちは武器を取って戦おうと思います」

 何と戦う気なんだい?

 一条はまた自分の不安を声に出すことができなかった。

「流れ弾には十分気を付けましょう♪」

 その流れ弾は誰に向けられるんだい?

 一条は口下手な自分を呪った。

「ん? 同志深雪はテロとの戦いを望みませんか?」

 ほのかは浮かない表情をずっとしている深雪を見た。

「お兄さまを傷付けようとする輩がいるのなら、わたしは幾らでもこの腕を奮います。ですが……」

 深雪の返答は歯切れが悪い。

「同志深雪は全力で達也さんを、達也さんだけを守ってくださればそれでいいと思います」

「それなら……はい」

 ほのかの返答はさり気なく警護の対象から真由美を外すことを示唆していた。一条にはそれがよくわかってしまっていた。

「そして一条さん。あなたがこのテロリスト駆逐作戦の要です。私や雫ちゃんでは七草先ぱ……テロリストに敵わないので一条さんだけが頼りなんです」

 金沢に帰りたい。一条は心の奥底からそれを思った。

「俺は、司波達也を護る司馬さんを全力で護ることにするよ」

 危険な回答を避ける。イエスともノーとも言わない。怖くて言えない。

「では、対テロリスト防衛戦に関してはまた後日お伝えします」

 ほのかは教室の後ろの扉に鋭い瞳を向けた。

「森崎さん、追ってください」

「おうっ!」

 扉の付近にいた森崎が勢いよくドアを開ける。

「うわらばぁッ!?」

 森崎の体が扉の外に消えた瞬間、断末魔の悲鳴が聞こえた。

「扉を飛び出して0.32秒。幾ら森崎くん相手とはいえ、この瞬殺劇はなかなかできないよ」

 雫は正確な時間を計測していた。森崎が殺されるのは最初から想定済みだったことを伺わせる対応。

「どうやらこのテロとの戦い。そう簡単にはいかないようですね」

 遠ざかっていく足音の主を追う気もなくほのかは静かに呟く。

「日曜日は結構な修羅場が見られそうだよ。リアル修羅場へ足を踏み込むなんてなかなかできないよ」

 雫もまた森崎の追跡失敗には動じずに首を回してコリをほぐしている。

「どんな危険があろうと…………お兄さま………………はわたしがお守りいたします」

 深雪はとても小さくよく聞き取れない声を発した。

「早く金沢に帰って妹と戯れたい……」

 一条はそれだけ口にするのがやっとだった。

 

 

 

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 ほのかたちがテロとの戦いを決意していたころのこと。真由美は達也に会うべく1年E組の教室を訪れていた。ひっそりと静まり返った教室の扉を真由美は開く。

「達也くんはいるかしら?」

 放課後になってだいぶ時間が経ち、教室の中に生徒の姿は見当たらなかった。司波達也1人を除いて。

「真由美」

 自分の机の端末で調べ物をしていた達也は顔を上げて真由美を見た。

「こ、こんにちは……」

 思いがけず2人きりというシチュエーションに真由美の緊張感が込み上げてくる。けれど、恋人と2人きりになっただけで緊張するのはおかしいと自分を奮い立たせて近寄っていく。

「あっ、あのね。提案があるんだけど……」

 恋人になる前より話しづらくなってしまった達也にデートを提案しようとする。

 恋人同士だからデートはある意味で当然。けれど真由美は何だか話を切り出すのが恥ずかしかった。

「真由美がキスしてくれたら話を聞きますよ」

「えっ?」

 真由美は驚きのあまり少しの間達也の言葉の意味を理解できなかった。

「それって……私からキスしないと、達也くんは私の話を聞いてくれないってこと?」

「はい、そうです」

 達也にあっさり頷かれてしまった。状況を理解した真由美の全身が赤く染まり上がる。

「ここで……?」

「はい」

 また一瞬の躊躇もなく頷かれてしまった。

「ここ、学校の教室なんだけど……」

「高校生同士の恋愛の舞台が教室であることはおかしなことではないと思いますが?」

 達也は自分の提案に何の疑問も抱いてくれない。

「そうなのかもしれないけど。その、お姉さんは生徒会長だし。学校の風紀を乱すような真似は……」

「真由美が生徒会長だったのは、9月までのことでしょう」

「でも、元生徒会長としては、その、やっぱり……」

 先ほどの摩利とのやり取りの一幕を思い出す。

「キスしてくださらないというのであれば俺は帰ります。さようなら」

 達也は立ち上がって本当に帰ろうとする。

「まっ、待ってっ!」

 真由美は達也の腕の袖を引っ張って恋人を引き止める。

「キス、する気になりましたか?」

「………………わかったわよ」

 真由美は真っ赤になりながら小さく頷いてみせた。

「その、少し屈んで」

 真由美と達也では身長に20cmの開きがある。達也に屈んでもらわなければ、つま先立ちになっても真由美では達也の唇まで届かない。

「仰せのままに。マイ・プリンセス」

 達也は真由美に合わせて上半身を屈めてみせた。

「…………恥ずかしいんだからね……ばか」

 真由美は愚痴ってから目を瞑り、そのまま自分の顔を前へと突き出した。

 2人の唇が重なる。

 達也とは恋人になって以来何度もキスをしてきた。けれど、真由美の方からキスしたのはこれが初めてのことだった。

 教室でキスしているという背徳感も加わっていつもより激しく緊張する。恥ずかしさで頭がおかしくなってしまいそうになる。必死になってキスをしている。

「こっ、これで、満足してくれた?」

 唇を離して目を開けながら達也に尋ねる。達也は真由美の両肩を掴んできた。

「真由美の据え膳……この場でいただいてもいいですか?」

 達也の体全体が近寄ってくる。腕が離れない。

「だっ、駄目。駄目ったら駄目っ! キスしたら話を聞いてくれるって約束でしょっ!」

 真由美は顔を激しく横に振って拒絶の意を示した。

 教室でキスより先の体験をする。考えただけで頭が沸騰してしまいそうだった。

「わかりました。では、話を聞きましょう」

 達也は真由美の両肩を放さない。真由美は一抹の不安を覚えながら話を切り出した。

「今度の日曜日にお姉さんとデートしない?」

 かつては見せられていた年上の余裕を思い出しながら必死に大人の女を頑張ってみる。

「真由美とデート、ですか?」

「そっ。どこか海辺のロマンチックなところでも2人で回りたいなって思って」

 真由美には具体的なデート候補地があるわけではなかった。

 けれど、どうせだったら、2人で歩いていて絵になるところがいい。そんなことを考えていた。

「わかりました。俺が真由美を素敵な場所にエスコートしましょう」

 達也は笑ってみせる。

「うん。お願いするわね」

 真由美はようやく笑顔を浮かべることができた。

「真由美にはどこかデート場所で希望はありますか?」

「海辺に行って潮風にちょっと当たりたいかしら。具体的なことは達也くんに任せるわ」

「海辺ですね。わかりました…………うん?」

 達也の目が急に鋭くなった。

「誰だっ!?」

 達也は怒声をあげながら扉を開け放った。だが、真由美の瞳には誰の存在も映らなかった。それは達也も同じようだった。

「逃げられたか。相当にすばしっこい奴のようだな」

 達也の舌打ちが聞こえた。達也が不服を態度に表すのは珍しいことだった。

「俺たちのデートは何者かに監視されている可能性が排除できません。警戒は怠らないようにしたいと思います」

「監視、警戒ね……」

 警戒すべき相手に心当たりならかなりある。真由美は大きなため息を吐き出した。

 

 

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 十文字が作った夕食を4人で食して司波家の夕飯は終わった。この日の夕飯では誰も一言も発さなかった。より正確にはいつもはお喋りしている深雪と真由美が沈黙を守り通し、元来寡黙な達也からは一言も発せられなかった。十文字は己の筋肉たちに栄養を補充するのに忙しかった。

 夕飯が済んだ真由美はすぐに入浴することにした。達也の部屋から深雪の部屋へと移したタンスの中から着替えを取り出して風呂場へと移動する。

 服を脱ぎ終えて脱衣所と浴室を分ける扉を開ける。中に足を踏み入れた途端、急激な疲労が彼女を襲ってきた。

「ちょっと考え事をしているだけでこれだもの。ほんと、情けないわねえ」

 低めの温度の湯を顔から浴びながら真由美は心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。

 恋人になる前は達也が自分のことを何とも思っていないのではないかと不安だった。恋人になったら今度は一転してアグレッシブなスキンシップを求めてくる達也に翻弄されてばかりいる。ここ半月以上、真由美の心は翻弄されっ放しで体もそれに伴い疲れていた。

「私って、恋愛に不器用なのかしらね?」

 自分の中では以前から答えが出ている問いを疑問形で口に出してみる。答えがイエスであることは真由美自身が一番良くわかっている。念願叶って達也と恋人になれたというのに嬉しさよりも気疲れしている自分に嫌気が刺す。

「もういっそ……」

 真由美は視線を下へと向けて自分の体を確かめる。

 プロポーションは自分では悪くないと思っている。達也を失望させることもないはず。

 男女の関係になってしまうことが達也との関係をより深く確かなものにする有効な方法であることは頭で理解している。けれど……。

「深雪ちゃんより大切な存在にはなれないのかしらね……」

 達也の一番大事な存在になりきれていない。

 その懸念は真由美の心をどこまでも重くする。

 2番目でも構わないと思えるほどに真由美は人生を達観してもいなければスレてもいない。恋人である以上達也の一番大切な存在でありたかった。

「恋人の実の妹に劣等感を抱いて抜け出せないなんて……なんなのかしらね、私?」

 自分が無様で惨めに思えて穴があったら入りたい。

 そんな心境に囚われながら湯船に足を入れる。穴の代わりに湯の中に全身をすっぽり浸すことにする。屈み込んで頭のてっぺんまで湯に浸かる。

 子どもっぽいと自分でも思うものの、全身を水の中に沈めていると別世界の感覚を味わえるので気分転換には丁度良かった。

 

「あの……七草先輩、よろしいでしょうか?」

 水の中に潜っていた真由美は突然浴室の外から深雪の声が聞こえてきたことに驚いた。

「えっ? 深雪ちゃん? 一体どうしたの?」

 慌てて水面から顔を出しながら尋ねる。

「ご一緒してよろしいでしょうか?」

「えっ? ご一緒? …………えっと、うん。いいわよ」

 内容を理解せずにとりあえず了承してみせる。

「それでは…………失礼します」

 脱衣所へと繋がる扉が開かれる。裸にタオルで前を隠しただけの状態の深雪が入ってきた。

「えっ?」

 真由美には目の前で起きていることがすぐには理解できなかった。

「一緒に暮らし始めてしばらく経ちますけど、こうしてお風呂をご一緒するのは初めてですね」

 深雪は照れ臭そうな笑顔を浮かべながら水道の前に座った。

「あっ、うん。そうね」

 深雪が腰を下ろしたのを見て真由美は初めて『ご一緒して』の意味を理解した。

 初めて目にする深雪の肌。その白さときめ細やかさと美しさに見惚れ、同時に落ち込んでしまう。

「…………達也くんがシスコンになるのも道理よね」

 肌が綺麗なだけでなくプロポーションも抜群だった。学校一番の美少女と名高い深雪は脱いでもスゴかった。そんな文句が真由美の頭の中に浮かんでくる。

「あの……わたしの方をジッと見られて。どうかされましたか?」

 深雪を凝視していたのが鏡越しにバレてしまったらしい。

「深雪ちゃんの肌は綺麗だなって驚いていただけよ」

 女同士だしセクハラには当たらないと思って感想を素直に述べてみる。

「そ、そんなこと言われると……は、恥ずかしいです」

 深雪は赤くなりながら俯いてしまった。そんな初心な反応を見せる年下の少女に真由美は少し気分が落ち着くのを感じた。

「お姉さんはまた深雪ちゃんに心配を掛けてしまっているようね」

 深雪が何故一緒に入浴することを申し出たのか。その理由は少し考えればすぐわかるものだった。すなわち、元気のない真由美を心配してのこと。それ以外は考えられなかった。

「…………お兄さまが最近羽目を外し過ぎなので仕方ありません」

 深雪は真由美の言葉を婉曲に認めた。自分の身内のせいと責を認めながら。

 それからしばらくの間、2人には会話がなかった。

 真由美はしばらく深雪が体を洗っていく様を眺めていた。けれど、その最中にとある欲求に強く駆られ出した。

「深雪ちゃん、背中流してあげようっか?」

 真由美は浴室の縁に足を掛けて立ち上がりながら尋ねた。

「へっ?」

 今度は深雪が驚く番だった。

「いえ、おかまいなく」

「いいからいいから♪」

 真由美は深雪の背中に回る。そして自分用のボディースポンジを手に取る。猫の形をあしらったボディースポンジは真由美のお気に入りの一品だった。

「でも、先輩に背中を流していただくなんて悪いですよ」

「お姉さんがしたいんだからいいの♪」

 スポンジにボディーソープを含ませると、深雪の了承を待たずに背中に手を置いて上下に優しく丁寧に動かし始める。

 真由美が背中を洗い始めると深雪の声は収まった。深雪の肌を磨くことに専念する。絹という表現でも褒め足りないぐらいにきめ細やかで綺麗な肌だった。

 心の中で負けを素直に認めて背中を擦り続ける。すると、深雪が前方を凝視したまま全く動かないでいることに気が付いた。

「どうしたの?」

 気になって尋ねてみる。鏡越しに深雪が目を瞑ったのが見えた。しばらく経ってから目が開いた。

「…………先輩の方が肌が綺麗じゃないですか」

 深雪の声には少しの悔しさが篭められていた。

「何を言ってるの?」

 お世辞でも何でもなく深雪の言葉には同意できなかった。深雪の言葉はまだ続いた。

「それに……先輩はわたしより背が少し低いのに、胸は少し大きい気がします」

「別にそんなことはないと思うけど」

 深雪のバストサイズを知らないので正確なことは言えない。けれど、完璧といえるプロポーションを誇る深雪より自分の体型がいいとは思えない。

「お兄さまも結局、綺麗で魅惑的な体つきの女性が好みだったということですね。ちょっと幻滅です」

 そして深雪は達也に対して勝手に怒っている。不思議な光景だった。

「私は深雪ちゃんの方が綺麗だと思うけど」

「そんなことありません。先輩の方が綺麗です」

 深雪の口調は怒ったままのもの。嘘やお世辞が感じられない。

「……隣の芝生は青いってことなのかしらね」

 真由美は落ち込みから抜け出すための端緒をみつけた気がした。

 

「はいっ。これでおしまいよ」

 シャワーで丁寧にお湯を掛けて背中を流し終えたことを宣言する。

「ありがとうございます」

 丁寧に礼を述べる深雪は真由美が知るよりも上流階級出身であることを連想させた。

 達也と深雪には自分がまだ知らない大きな秘密がある。それは司波家に来る前からわかっていたこと。

 いつかは彼女たち自身の口から喋ってくれることを期待しながら今はまだ聞かないことにする。それを知る時には自分はもっとこの兄妹と深い仲になっているだろうから。

「それでは今度はわたしが先輩のお背中をお流ししますね」

「えっ? いや、別にいいわよ」

 考え事をしている間に事態は次の展開を迎えていた。

「まあまあ。わたしだってあの難攻不落のお兄さまを落とした女性の肌をしっかり観察させてもらいたいですし」

「いや、そんな、だから……あっ」

 いつの間にか椅子に座らされて深雪に背後を取られていた。

「それでは失礼しますね……お義姉さま」

「…………う、うん」

 『お義姉さま』と言われてしまえばそれ以上抵抗することはできなかった。ただの冗談なのだろうけど、真由美には逆らい難い魅力を持ったワードだった。

 真由美の背中を流す深雪の手の使い方はとても丁寧なものだった。彼女の生来の育ちの良さを伺わせる。司波家にはやはり真由美の知らない何かがある。

「お兄さまに、もしわたし以外に愛する女性ができるとしたら……その方はきっとわたしよりも年下で可愛いらしさを全開にしたような方なのだろうと考えたことがありました」

 背中を流しながら深雪が少し冗談めかして話し掛けてきた。

「そうね。達也くんはシスコンだもんね。好きになるんだとしたら、深雪ちゃんより妹指数が高そうな子って考えるのが自然よね」

「まさかお兄さまが選んだ女性が年上の方になるとは露ほども思いませんでした」

「達也くんにとって私はお姉さんじゃなくて妹なのかもしれないけどね。実際、私は実家に2人の兄がいる妹なんだし」

 深雪に同意しながら頭の中で更にその先を考えてみる。

 押しかけ女房を気取って司波家に住み着いたことで達也との距離は確かに縮まった。恋人になることもできた。けれど、考えてみると達也が自分のどこを好きになってくれたのか聞いたことはなかった。

 そして長いこと実家に帰っていないことも合わせて思い出した。達也との関係が進展しないでいた間は疎ましくも命綱でもあった家族からのメール。達也と恋人になったことを浮かれながら妹たちに電話で知らせてからはあまり連絡が来なくなった。心配する必要がなくなったと思われているのか、それとも嵐の前の静けさなのか。

「やるべきことは多いわね」

 達也との恋にだけ生きていられるわけでない自分を再発見する。

「やるべきこと……」

 深雪は小さく呟いた。

「その、先輩は、今度の日曜日にお兄さまとデートなさるんですか?」

 真由美は深雪にデートの情報を流していない。達也にしても話した形跡はない。けれど、深雪が既にその話を知っていることは予想済みだった。

「うん、そうよ。達也くんにエスコートしてもらえることになったのよ」

 素直に答える。

「どこに行かれるのですか?」

「海辺に行きたいって希望を出したわ。後はどこに連れて行ってくれるのかは当日のお楽しみね」

「やはり海……」

 深雪は小さく息を吸い込んだ。

「深雪ちゃんも一緒に来る?」

 流れ上、初デートが妹同伴になっても仕方がない。その方が達也もきっと喜ぶ。そんなことを思いながら深雪に誘いを掛けてみた。

「いいえ」

 鏡越しに深雪は明白に首を横に振った。

「わたしにはお兄さまとお義姉さまをお守りする使命がありますから」

「えっ?」

 驚いて振り返る。そこにはいつになく真剣な表情を湛えた、強い決意に満ちた美しい少女がいた。

「たとえわたしであろうとお兄さまの幸せを邪魔してはならないのです。わたしは、お二人を守るために全力で戦います」

 深雪は誰と戦うつもりなのか口にはしなかった。けれど、覚悟を決めていることはその力強い口調からわかった。

「お姉さんも守ってくれるなんて……深雪ちゃんは優しいわね」

 真由美に深雪の決意を翻すことはできない。代わりに彼女の髪を撫でていたわった。

 

 

?

 

-6ページ-

 

 脱衣所で深雪とは別れ、真由美はキッチンへと向かった。喉が乾いていた。それに、何か予感めいたものがあった。

「達也くん」

 キッチンに入ると、達也が冷蔵庫の前に立ってよく冷えた麦茶をコップに注いでいた。

「そろそろ出てくる時間かなと思いましてね」

「さすが気が利くわね」

 真由美は椅子に座った。

「マイ・プリンセス、お茶にございます」

「ありがとう、私のナイトさま」

 達也から受け取ったガラスのコップに注がれた麦茶を口に含む。氷が入ってよく冷えたそれは風呂あがりで火照った体に最上の清涼感をもたらしてくれる。どんな高級な茶やコーヒーよりも冷えた麦茶は今この瞬間真由美の心も体も潤してくれていた。

「ねえ、達也くん」

「何ですか?」

 達也の表情の変化はいつも通りに少ない。けれど、一緒に暮らすようになり段々とその少ない変化の内容を読み取れるようになってきた。

 達也は今この瞬間を楽しんでいる。それは真由美にもよくわかっている。

「深雪ちゃんはいい子ね」

 達也は一瞬驚いた表情を見せた。世間一般から見ればポーカーフェイスのままなのだが。

「もちろんですよ」

 そして同意してみせた。強い自信をもって。

「達也くんの教育の賜物ね」

 今度は一瞬寂しそうな表情を見せた。やはり第三者から見れば一切表情は変わっていないのだが。

「俺が深雪の前に大々的に出て来られるようになったのはわりと最近の話です」

「そうなの?」

「はい」

 真由美にとっては意外な話だった。深雪の態度を見る限り、幼い頃から兄にベッタリだったようにしか見えない。

「だから妹がいい子であると認めてくださるのなら、それは深雪の元来の性根の賜物です」

「そうなのね」

 やはり司波兄妹には自分の知らない秘密が数多く存在する。それを改めて悟る。

「いずれ真由美には段階を踏みながら全てを知っていただくことになります」

「話して、くれるんだ」

 嬉しさが込み上げてくる。

「ええ。真由美は俺の妻になっていただく女性ですから」

 臆面もなく『俺の妻』と言い切られてしまい真由美は赤面する。

「お姉さんはもう達也くんのお嫁さんに決定なのね」

「ええ」

 また躊躇なく言い切られてしまった。

「もう俺から逃げられるなんて思わないでくださいよ」

 ワイルドな物腰で迫ってくる達也。

 悪い男に惹かれてしまうヒロインが出てくる漫画を読んだ時のことを思い出した。あの時は何でヒロインが悪い男に惹かれるのかわからなかった。けれど、今はわかってしまう。胸のドキドキが止まらない。理屈じゃない何かが真由美を支配する。

「お姉さんも悪い男に捕まっちゃったわね」

 テーブルの横から達也の顔が更に近づいてくる。

「キス、しますよ」

「………………うん」

 本日3度目のキス。

 朝、昼、晩とキスばかりしている。

 そんなことを頭の片隅で考えながら達也の愛情を受け入れる。

 朝のキスより、自分からした昼のキスより、今のキスの方が心地良くて嬉しい。

 自分の心境が変わったからだと推理してみる。

 長いキスが終わる。

 唇が離れていく感触が名残惜しくてたまらない。

「達也くん……大好きよ」

 物足りない想いが、達也への愛情が溢れて今度は自分からキスする。

 2度目の自分からのキスは1度目よりも遥かに満ち足りた感覚を真由美に与えてくれたのだった。

 

 

 つづく

 

 

 

-7ページ-

 

 

 

 電化製品のごく微かな動作音がオーケストラとなって聞こえる深夜の寝室。ベッドに寝転がった深雪は悶々と眠れぬ時を過ごしていた。

 床に敷かれた布団へとそっと顔を向ける。暗がりの中に穏やかな寝顔を浮かべている真由美の顔が映る。

「お兄さまと七草先輩……とても幸せそうにキスしてた……」

 入浴後に偶然目撃してしまった光景を思い出す。

 水が飲みたくなって台所に向かったところ、真由美と達也のキスシーンを目撃してしまった。2人のキスを目撃したことなら何度もある。今朝にしてもそうだった。

 けれど、今朝のキスと先ほどのキスでは雰囲気が明らかに異なって見えた。

 今朝のキスは達也主体の、どちらかというと強引なキスだった。真由美の戸惑いが深雪にもよくわかった。

 けれど、先ほどのキスは違う。2人を結び付けている強い想い、愛情が深雪にも伝わってきた。2人が愛し合っているのがよくわかるキスだった。

「お兄さま離れしないといけない時が来たのでしょうか……」

 達也と真由美を守ると誓った。その言葉に嘘偽りは微塵もない。けれど、一心に敬愛する兄が自分の元から離れていってしまうことはこの上なく寂しいことだった。

「わたしはこれからお兄さまとどう接していけばいいのでしょうか……」

 真由美と同様に15歳の美しき少女もまた達也との関係に頭を悩ませていた。

 

 

 

 

 

 東京世田谷田園調布。通称キン肉ハウスと呼ばれる平屋建て賃貸物件は現在1人の男子高校生によって借りられている。借り主である一条将輝はあまり星が出ていない夜空を見上げながら金沢の夜を懐かしく思っていた。

「茜と瑠璃は元気にしているかな……」

 2人の小学生妹の安否を気遣いながらため息が漏れ出てしまう。

 司波兄妹を追って東京に来たまでは良かった。けれど、兄達也は新しくできた恋人に夢中になっており一条を相手にもしていない。妹深雪に自分の想いを伝えようと思うものの満足に話をすることもできないシャイぶりを発揮している。

 編入先で仲良くしてくれた少女2人にはどうにも裏がありそうで嫌な予感が止まらない。

 一条の精神は消耗していた。

「金沢に帰りたくなるよ……」

 つい泣き言が口から出てしまう。そんな時だった。携帯がメロディーを奏で出したのは。

 一条の携帯に連絡を掛けてくるのは圧倒的に故郷繋がりの者が多い。少し気分が高揚するのを感じながら端末を手に持った。

「うん? 北山雫? 北山雫……」

 現在進行形で一条の頭を悩ませている転入先の女子生徒だった。

 出たくはなかったが、気付いてしまった以上仕方ない。一条は通話ボタンを押した。

「はい、もしもし一条です」

『花の女子高生乙女が真夜中に男子クラスメイトに電話を掛ける。こんなことなかなかできないよ』

 まず間違いなく雫だった。声というより挨拶の内容が。

「それで、こんな夜中に一体どうしたんだい?」

 クリムゾン・プリンスの名に恥じぬ振る舞いを心掛ける。

『深雪にはもう告白したの?』

「…………勘弁してください」

 クリムゾン・プリンスは折れるのも早かった。

『まあ、それは後で遊ぶネタにするとして』

「編入したての男子高校生を弄ぶのは良くないと思うよ」

 爽やかな口調で必死に慈悲を乞う。

『今度の日曜日の達也さんと七草前会長のデート妨害の件だけど』

 雫の口調が変わった。真剣な口調に一条は緊張感を覚える。

『ほのかは七草前会長だけでなく深雪も始末するつもりに違いないから気を付けた方がいいよ』

「何だってぇっ!?」

 夜中にも関わらず大声を上げてしまった。けれど、声を上げずにはいられなかった。

 何しろ恋する少女の危機を突如打ち明けられてしまったのだから。

「しかし、光井さんと司波さんは味方同士だろう?」

『ほのかは達也さんに本気で恋をしている。それは一条さんも知ってるよね?』

「ああ。何となくだけどね」

 電話を持ちながら頷いてみせる。

『ほのかは達也さんを七草前会長に取られて正気じゃなくなってる。SAN値が下がって、達也さんを奪取するのに邪魔になるものを全部排除しようとしている』

「仮にそうだとしても、光井さんの実力では司波さんにも七草さんにも勝てないさ」

 ほのかの魔法師としての力は決して低くないことを一条は認めている。エリート揃いの魔法学校の中でもトップクラスの力の持ち主であると。

けれど、深雪と真由美は更にその上を行き、全くの別次元にいる。だからたとえ不意打ちしても深雪たちを倒しきれるとは思えなかった。

『ほのかには奥の手があるの』

「奥の手?」

『ほのかの声(CV:雨宮天)は火星のヴァース帝国第一皇女アセイラム・ヴァース・アリューシア(CV:雨宮天)と見分けがつかないぐらいにそっくりなの。ほのかは声真似を通じてヴァース帝国の兵力の一部を一時的に操ることができる』

「それって……」

 とても嫌な予感がした。

『ヴァース帝国軍を横浜に引き込むのは私じゃない。皇女を騙るほのかなの。声1つで帝国を謀るなんてなかなかできないよ』

「なるほど。彼女は一時的とはいえ、世界最強の軍隊よりも遥かに強大な力を操れるというわけか」

 魔法師だからといって魔法師として戦う必要はない。一流の魔法師である一条にとっては不自然というか出てこない発想に大きく頷いてしまう。

『だからほのかが深雪を狙おうとしたら……一条さんが深雪を守ってあげて』

 雫の声には切実な響きが含まれていた。

「言われなくてもそうするつもりだけど……」

 一条は小さく息を吸い込んだ。

「君は光井さんの仲間だろう? 何故僕に情報をリークするんだい?」

 明らかに不可解な電話だった。ほのかが深雪を狙うというのなら本人に直接知らせて当日は欠席させればいい。雫にもまた裏がありそうだった。

『私はガチンコの修羅場が見た……ううん。イイオンナには秘密が付きものなんだよ』

「イイオンナには秘密が付きもの……そうかもしれない」

 敵との死闘には勝利できても女子高生に手玉に取られる。それがクリムゾン・プリンスこと一条将輝。

『私クラスのイイオンナが本心を打ち明けるなんてなかなかできないよ。ということで、忠告とお願いはしたから。じゃあまた明日学校で』

「あっ、うん。おやすみ……」

 雫からの電話は切れた。

 夜空を再び見上げる。東京の空には相変わらず星が少ない。

「司馬さん……クリムゾン・プリンスの名に掛けて俺は貴方を必ず守ります」

 何を信じていいのかわからない中、一条はどうしても貫きたいことだけを胸に誓うことにした。

 

 

 

 

 

「ファランクスッ! ファランクスッ!! ファランクスッ!!! ファランクスッ!!!!」

 深夜の校庭に40代を連想させるおっさん顔の全裸高校生の声が響き渡る。

 十文字克人は己の最高魔法である『ファランクス』を連続して発動させていた。十師族全体でも頭角を現してきている十文字の攻守一体の魔法は群を抜いて強力。だが、当の本人は自分の魔法に欠片も満足を見出していなかった。

「この程度の威力ではヴァース帝国はおろか、テロリストどもを一掃することすら叶わん」

 汗まみれになり荒い呼吸を繰り返しながら、自分の力がまるで目標に達していないことを恨めしく思う。

「俺程度の魔法師の力では、何一つ守ることはできんと言うのか!? 人智を超えた力は習得できんのか!?」

 十文字が目指しているのは魔法師としての限界を遥か彼方に超えた地平だった。だが、幾ら魔法の名門十文字家の嫡男とはいえその魔法力には限界がある。十文字は己の理想と現実の間のギャップに苦しんでいる。

 

「精が出ますね」

 背後から声が聞こえた。完全に後ろを取られている。相手が気配を消していたからではない。小物過ぎて気に留めなかった。すなわち、この人物は……。

「森崎か」

 1年A組の形だけ風紀委員のSGGK森崎駿に違いなかった。

「傷はもう癒えたのか?」

 十文字は振り返らないまま尋ねた。

「先輩の一撃で見事に瞬殺されましたが、今はもうピンピンしてますよ」

 ギャグキャラは死なない。世界の真理に従い森崎は殺された後にすぐ復活を遂げていた。

「して、森崎よ。お前は一体何をしにここまで来た?」

 筋肉まみれの背中が森崎に問う。

「先輩と特訓して強くなるためですよ」

 まともな答えが返ってきて十文字は少し驚いた。

「お前が、か? 何故だ?」

「俺は……JKが好きなんですよ」

 森崎は真剣な口調でとても馬鹿なことを述べた。

「JCもJSも大好きなんです。まったく、小学生は最高なんです」

「警察に行け。もしくは病院に行け」

 十文字は聞いて損をしたと思った。だが、森崎の話は続いた。

「だから俺は、大好きなもので溢れている横浜の街が破壊されるところなんて見たくないんです」

 いつもより低い、力の篭った声。

「森崎、お前……」

 驚いて振り返る。そこにはいつもの小物ではなく、覚悟を決めた一人の漢が立っていた。

「人智を超えた力がどうしても必要ってんなら、何をしてでも身に付けるまでですよ」

 負け犬の遠吠えしか聞いたことがなかった男が十文字を超える覚悟を見せている。

「俺たちは魔法師の限界を超えねばならん」

 十文字は己が目指す地平がどれほど彼方であるのか改めて口にする。だが十文字はすぐに痛感することになる。己を狭い枠に閉じ込めているのは森崎ではなく自分であることを。

「強くなるのに魔法師であることにこだわる必要もないのでは?」

 森崎の言葉は十文字にとっては衝撃的だった。

「魔法師へのこだわりを捨てる……」

 十文字の心臓が激しく高鳴る。

 かつて、ほんの一瞬だけ邂逅したある男の言葉が蘇る。

 

『僕は君が魔法師ではなくマ法師になるべきだと思っている』

 

 その男は高高度から墜落してきた空中戦艦を己の肉体のみで受け止め、大空高くへと弾き返してしまった。一流の魔法師が束になってもやってのけないことをその男はたったひとりでやってのけてしまった。

 魔法師にとって忌むべき力である『マ法』。筋肉の力で全てを解決するそれは魔法師の存在理由さえも否定してしまう禁忌の力。

 一度は拒絶したはずの力。だが……。

「魔法師の俺で至れないなら、マ法師の俺で至ってみせるのみッ!!」

 護りたいものがあるから。

 十文字は魔法師であるこだわりに別れを告げる。

「服を脱げ、森崎っ! 我らはこれよりマ法師への道を歩むっ!!」

「はいっ!」

 一瞬にして衣服を脱ぎ捨てる森崎。

 そして2人の男は魔法師の限界を遥かに超えた地平を目指して歩み始めた。

 

「「フロントダブルバイセップスッ! サイドチェストッ! リアダブルバイセップスッ! サイドトライセップッ! アドミナブルアンドサイッ! モーストマスキュラーッ!!」」

 

 同時刻、学校の監視カメラの管理を任されている管理会社のモニタールームでは。

やたら老け顔の男子高校生と小物臭漂う男子高校生が、夜中の校庭で全裸でマッスルポージングを取り続ける映像がモニターに映ってしまう機能障害に見舞われていた。

 運営会社は関連映像を全て念入りに処分し『本日の業務に何ら異常なし』と業務日誌に書き添えたのだった。

 

 

 次回 横浜騒乱 とそれとはあまり関係なくイチャイチャしているたつまゆ

 

 

説明
たつまゆ2話
真由美さんは恋人になっても色々と苦労は耐えません。
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司波深雪 司波達也 七草真由美 魔法科高校生の劣等生 

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