ネアトリア王国記五話「盗まれた魔術書」
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 ネアトリアハイムには決して知られてはならない秘密が存在している。といっても、国家には隠しておきたいことなど山ほどあるのが普通だが、ネアトリアハイムが秘密にしているのは他の国とは比肩すべきではないだろう。

 そもそも、国の成り立ち方からして歴史を偽造しなければならないほどだ。ネアトリアハイムの真実の歴史は三冊の書物によって記録されている、ヨアキム一世による『ネアトリア建国記』、ルシード・フェトゥンによる『建国戦争回想録』、ワグニムス・フェーエンベルガーによる『ワグニムス日記・一巻』の三冊である。

 この三冊以外にもオラウス・ウォルミスが記した『ウォルミス流退魔剣術指南書』も間接的にではあるがネアトリアが隠している秘密に言及していることから他の三冊と同じような扱いを受けていた。どのような扱いといえば、禁書にして一般身分はもちろんのこと王侯貴族であったとしても特定の家柄のものにしか見られないようにしている。

 『ウォルミス流剣術指南書』はウォルミス家が管理しているため、ウォルミスの人間でなければ読むことが出来ない。他の三冊は城内にある特別な鍵がかけられた保管庫にしまわれていた。その中に入れるのは王家以外では英傑の血を引く、ウォルミス家、フェトゥン家、フェーエンベルガー家の三つしかない。

 だというのに、厳重に保管されていた三つの書物のうち一冊『ワグニムス日記・一巻』が何者かの手によって盗み出された。この本の奪還を命じられたのはウォルミス家のエルザ・ウォルミスである。

 そのエルザはネアトル=プトゥスの傭兵組合の待合室で紙に書いた依頼文を見直していた。どう考えてもこれを書いた人間は無能としか思えない、そもそも盗まれたのは魔術書では無いのだし、こんな興味を引きそうな文章を書いてどうするというのだ。

 やってくる傭兵は確実に余計な興味を抱いてやってくるに違いない。もしかすると『ワグニムス日記・一巻』を奪おうとするかもしれないのだ。一応、釘を刺すような文面にはなっているが傭兵風情が信じるとはエルザには到底、思えなかった。

 もっともエルザが気にしているのは盗んだのは誰か、である。真実の教団にせよエトルナイト騎士団であったにせよ、この二つの組織の中で力のある人間に対してはネアトリアハイムも注意を払っているのだ。厳重な管理の下から易々と奪って見せたところを鑑みると、キャスティン・ハストであるのは間違いが無いだろう。

 椅子の背もたれに体を預けて、ネアトリアハイム騎士団がキャスティン・ハストについて得ている情報を頭の中で反芻した。彼の所属は真実の教団、エトルナイト教団の両方に属しており橋渡し的な役割をしていると現状では考えられている。

 キャスティンが表だって出てくることは少ないが、重要な場面、特に真実の教団において魔術的儀式が行われる場合は必ず出てくるところを見ると相当な魔力の持ち主であると見られていた。とはいえ、彼は戦闘になる前になると必ずどこかへ逃げおおせてしまうためにどのような魔術を使うのかまったくの不明である。姿を隠すものではないか、瞬間移動なのではないか、等と一部では論議されているがエルザにとってそのような推測の域を出ない論議はどうでも良かった。

 溜息を一つ。キャスティンについて思いを巡らせて見たところで彼に関する情報が得られるわけではない。何せ、知られていることがあまりにも少なすぎる。真実の教団の司祭、ナイアールよりかは知られているとはいえ、キャスティン・ハストの正体は未だベールの向こうにあった。

 多くを考えすぎたところで仕方が無いと、依頼文の書かれた紙をエルザは放り投げる。これ以上文面を見たくなかったし、何よりも過ぎてしまったことをいつまでも考えていたところで非生産的だ。

 こうなってしまった以上は、やってくる傭兵は確実に魔術書に興味を抱いているだろうし、エルザのやるべき仕事は彼らを如何にして監視下に置きながら命令に従わせるかである。国王直属だけあってエルザに与えられている権限は他の騎士よりも強く、それこそ意にそぐわなかったという理由で斬り捨てる権利も与えられていた。

 もっとも、言うことを聞かなかったから、程度の理由で斬り捨てるようなことをするつもりはエルザには最初から無かったが。

 それにしても、とエルザは窓から入り込む日光の強さの加減で大まかな時間を推測する。そろそろ傭兵が待ち合わせ場所に指定されているこの組合所に来ていてもおかしくは無いのだが、時間に対して無頓着なのだろうか。そのような人間とは仕事をしたくないなと考えていると傭兵組合の扉が開く。

 入ってきたのは腰まで伸ばした金の長髪の女性だった。手には上質な木で作られた杖を持っている、それが彼女の武器なのだろう。その女は真っ直ぐにエルザの元に向かってきた。

「私、クロエ・ヴァレリーといってネアトリアハイム騎士団から依頼を受けてここにやってきました。あなたが同行するという騎士様でしょうか?」

「あぁ、そうだ。私の名はエルザ・ウォルミス、此度は頼むぞクロエ。依頼を受けているのはもう一人いるのだが、まだ来ていない。適当なところに座って待っていてくれ」

 エルザが名を名乗った瞬間、クロエの動きが固まる。理由については大方察しが付いていた。ウォルミスの名を聞いて怖気づきでもしたのだろう。ネアトリアハイム内で起こる事件でウォルミス家の人間が出てくることは少ない。

 その理由はただ一つ、ウォルミスの人間は常に切り札として扱われてきたからだ。この程度のことならば誰しもが知っていることであり、同行するのがウォルミスの人間と知り彼女は自分の受けた依頼がどれだけ重要なものであるのかを理解したのだろう。

 人によってはここで降りたくなるのかもしれないが、彼女がそれを希望したところで一刻を争う事態であるが故に認めてやることは出来ない。

「本当に、あのウォルミス家の方なのですか?」

 彼女の質問に「あぁ、そうだが」とそっけなく答えるとクロエは目を輝かせる。彼女にそんな表情をさせる要素はどこにもなかったはずなのだが、クロエは嬉しそうだ。

「まぁ、あのウォルミス家の方とご一緒できるなどとは感激でございます。他の騎士の方々と一緒にお仕事をさせていただくことはありましたが、まさかあの御三家の一つであるウォルミスの方とご一緒させていただくなど!」

「そんなに喜ぶようなことか?」

 エルザの問いにクロエは「それはもう!」と即答した。

「ウォルミス家の方と仕事をしたとなれば、私の傭兵としての履歴に箔がつきますもの」

「あぁ、なるほどな」

 確かに、そういった理由ならば納得がいく。傭兵業界について詳しくは知らないし、知ろうとも思わないが、彼らの間では高名な家柄の人間と仕事をしたとなれば何らかの形で利益があるらしい。

 知名度が上がったりなどするのだろうか。とはいえ傭兵の世界などこれっぽっちも知らないエルザである、特に彼女の言葉を気に留めるようなことはしなかった。それよりもまだ来ないもう一人の方が気になる。

 名前と簡単な経歴は既に手元に来ていた。もう一人の傭兵も女性であり、杖を武器として使うそうだ。もっと殺傷力の高い武器を得物にしている傭兵が欲しかったところだが、こればっかりは仕方が無い。もう一人の方に期待するしかないだろうと思っていると再び扉が開いた。

 瞳だけ動かしてみればまたもや女、透き通るような白い髪を後ろに流して束ねている。束ねることが出来るぐらいに髪を伸ばせるのは羨ましいなと思いながらも、その女が依頼を受けた傭兵でないことをエルザは願った。

 女性を差別しているというわけではない、そもそもエルザは女性なのだし差別するはずがない。だが、やはり男手が一人でもいると心強いと思うところがあった。加えて、今入ってきた女が手に持っていたのもクロエと同じく杖である。

 とはいえ、この首都ネアトル=プトゥスにある傭兵組合を訪れる傭兵は少ない。理由は非常に簡単なもので、選りすぐりの騎士たちが集うこの首都では傭兵に回せるような仕事が無いためだ。よって、今来た女は依頼を受けてきたであろう傭兵であるに違いない。

 そしてエルザの推測はどうやら当たっていたようで、白髪の女は真っ直ぐにエルザの許へと近寄ってくると「クレスというものですが、あなたが魔術書の件に携わっている騎士の方ですか?」と尋ねてきた。

「あぁ、そうだ。ということは貴公が依頼を受けてここに来た傭兵か?」

 クレスと名乗った女は頷く。

「そうか、依頼を受けてくれたことをまず感謝しよう。そして私の名はエルザ・ウォルミス。もうお分かりかと思うが、三代名家のうちの一つであるウォルミス家の人間だ。そして国王直属の騎士でもある、これはそちらのクロエにも伝えておくべきことなのだが、依頼文はちゃんと読んでくれただろうか?」

 二人とも即座に頷いた。本当なら省きたい話ではあるのだが、重要なことはさらに念押しで伝えておかなければならない。エルザの意思だけで決めて良いのならば言いたくないことを言わなければならないのは少々堪える。

「依頼文でも触れられていたが私は騎士団所属の騎士ではなく、国王陛下直属の騎士だ。よって普通の騎士よりも強い権利を与えられている、簡潔に言うのならば貴公らが私の意にそぐわなければその場で切り捨てることも可能だということだ。今のところで何かしつもんはあるか?」

「私はありませんわ」とクロエが言うと「私もありません、今のところは」とクレスも言った。

「では、諸君らへの依頼の詳細を今から伝える。途中、質問をしたくなることもあるかもしれないがとりあえずは最後まで聞いてくれ」

 クロエとクレスの表情を見るが二人とも特に言いたそうなことは無さそうだったのでエルザはそのまま続ける。

「我々が行うのは奪われた魔術書を奪い返すことだ。奪った人間については目星が付いている、もしかすると知っているかもしれんがキャスティン・ハストという名のエトルナイト騎士団に所属する反乱分子であると共に真実の教団にも手を貸している超一級と言っても過言では無い犯罪者だ。私たちはそいつを追い、可能であれば捕らえ、場合によっては殺すことも視野に入れておいてくれ。我々ネアトリアの騎士にとってキャスティンは頭痛の種なんでな、とはいえ目的はあくまでも魔術書の奪還だ。本さえ奪い返してしまえばとりあえずキャスティンのことはどうでも良い。ここまでで質問のある者はいるか?」

 クレスが小さく手を上げて発言の意思を表示した。

「なんだ?」

「その本はどのようなものなのでしょう?」

 エルザは自身でも眉をしかめてしまったことがわかった。依頼文が依頼文だけに彼女がどういった意味でこの質問を発したのかは大いに気になるところだ。果たして内容について問うているのか、それとも装丁、いわばどのような見た目なのかを聞いているのか。

 彼女の瞳は氷のような冷たい印象を与えてくるばかりで、その裏にどのような感情を、思惑を抱いているのか計り知れない。

「何を教えて欲しいんだ? どのようなもの、とはえらく抽象的に聞こえる。仕事柄、どうしても疑い深くなってしまうものでね。君のその言い方ではそうだな、私には本の内容を聞いているように聞こえてしまう。そのあたりはどうなのか聞かせてもらいたいね」

 剣の鞘に左手をやり、柄を親指で押し出し僅かに刃を覗かせる。そのときに鳴った音は彼女らの耳にも当然届いていたはずだ、クレスは平然としていたがクロエはといえば一歩後に下がっていた。

「場合によっては斬るということですか?」

「あぁ、もちろんだ。物分りが早くて助かるね、依頼文にも書いてあるとおりあれは門外不出の品でね。読む権利は王家と御三家の人間にしか無い物だ。それを傭兵風情が知ろうというのがおこがましいわ!」

 エルザは立ち上がると同時に剣を抜き放ちその切っ先をクレスの喉元に突きつける。窓から差し込む日光が剣に反射し、クレスの顔を照らしていた。

「あ、あの騎士様……幾らなんでもやりすぎでは……」

 クロエが制止すべく近寄ってくるが「黙れ!」と一喝して後ろに退かせる。

「何の目的があってここに来た!? 答えろ!? 答えねば斬る!」

「ウォルミス家の方とお会いしてみたくて、というのが私の本音です」

「本当か?」

 喉元に突きつけていた剣を僅かに離すが、それでもいつでも首を斬れるようにと頚動脈へと狙いをつけている。彼女の本当の狙いがなんなのかわからない以上、油断することも妥協することも許されない。

「本当ですとも、私の生まれも少々特殊で……このようなことを申すとエルザ様のご機嫌を悪くされるかもしれませんが、実はウォルミス家の方々に一種の親近感に近い感情を私は抱いているのです」

「ほぅ、我々に親近感か。中々面白いことを言うな、しかしみたところ普通の人間のようだが。私のように金の瞳を持っているわけでもなく、かといって角の類を備えているわけでもない。一体、我々ウォルミスのどこに共感を覚えたのかな? 答えてもらおうか」

 エルザが喋っているとき、クレスの視線が僅かに左へと向いたのを見逃さなかった。体の左側、おそらくは左腕あるいは左手に隠しているものがあるのだろう。

「左手か?」

 クレスがエルザを睨み付けてくる。明らかに嫌悪と一種の怒りが満ちていた。ようやく感情を見せたことに少しだけ安堵しつつも、騎士に対して無礼ともいえるこの態度をどうすべきか逡巡したが、ここは見逃すべきだろう。

「隠さずともよい。私も金色の瞳、耳の後ろにある角。幼い頃は陰でよく虐められたものだ、他人と違う。だがそれがなんだ? 君も人間なんだろう? 違うかクレス? 私は金の瞳に角を持っているが、私が人間以外の化け物に見えるか?」

「いいえ、見えません。あなたは人間だと、思います」

 妙な間がありはしたがクレスは確かにエルザを人間だと言った。そのことに頷き、エルザは言葉を続ける。

「では見せて欲しい、君がどうして我々ウォルミスに対して一種の親近感に近い感情を抱くのかを。普段ならば決してこのような尋問は行わないのだが今回の仕事はかなり重要でな、出来ることなら何もかも、包み隠さず私に話してほしい。口外しないことは確約しよう、私は誇りあるネアトリアの騎士。それも国王直属だ、もし人がいるのが嫌ならば人払いさせようじゃないか」

 エルザは剣を納めて笑みを浮かべてみせたが、それを彼女がどのようにとったのかまではわからない。

「大変申し訳ありませんが、見せるわけには参りません。ですが、一ついえることは……申し上げにくいことではありますが、私がいわゆる邪教と呼ばれているものを信奉しておりまして、それが理由です」

 邪教と聞いた瞬間に、反射的と言っても良いほどの速さでエルザの手は剣の柄を握っていたが、抜くことは無かった。ネアトリアハイムはマールクリス教を信奉するように法で定めているため、真実の教団のように害を成すものばかりだけでなく害を成さない宗教までも邪教としている。

 マールクリス教国家であるネアトリアハイムの騎士としてエルザはクレスが邪教を信奉しているというのならば即座に切らねばならなかった、これは騎士としての義務だ。だがそれを言うのならば王家、それに御三家はどうなるだろうか。

 この国の真実を知る者達は誰一人として女神マールクリスの存在を信じていない。このような発言をするということは、クレスという女はこの国の真実を知っているのか、あるいは本当の神々について知っているのか、どちらなのかエルザには判別しがたかった。

「何故、それが理由なのだ? 我々ウォルミス家の人間がマールクリス教以外の宗教を信じているとでも言いたいのかな?」

 視界の隅でクロエの表情が見る間に青ざめていくのが見える。彼女はこれからクリスが斬殺されるとでも思っているのだろう。だがエルザにそんな気持ちは毛頭無かった。

「いえ、決してそういうわけではありません。ただ、ウォルミスの方々が使う術を見ていると不思議とそういう気持ちになるのです」

「我々の術を見たことがあるというのか?」

「はい。ここに道中で復活したオラウス・ウォルミスの戦いを見ることがあったのです、なんとも奇怪に思えましたがすぐに通常とは違う体系の魔術であることはわかりました。なぜならば術を使用する際には片手、あるいは両手で何かの印形を結んでいましたから」

 クレスの話を聞いてエルザは感心せざるを得なかった。彼女の言い方から察するに戦いには巻き込まれていたか、あるいは巻き込まれてもおかしくないほどの至近距離にいたことだろう。少なくとも落ち着いていられる状況ではなかったはずだ。

 だというのにクレスは冷静に分析し、ウォルミス流がどのようにして術を行っているのかまで見極めている。類稀なる慧眼の持ち主であるとしか言いようが無い。加えて、オラウス・ウォルミスと出会ったというのが実に興味深かった。

 ウォルミス家の祖であるオラウスが伝説の通り復活したことはクラウディオからの伝書鳩により既に知っていたが、それが真実だとはエルザは思っていなかったのだ。心の片隅ではそれが誤報だと思っていた。

 しかし、クレスの言葉を聞いてオラウスが復活したのは間違いないだろう。エルザの知る限り、指で印形を形作ってそれを魔法陣の代わりとして魔術を発動させるのはウォルミス流だけである。

「どうやら、ここまでの非礼を詫びた方が良さそうだな。といっても、私ができることは少ない。せいぜい上に掛け合って報酬を上乗せするようにしてみる。ところで話を変えて、二人とも武器は杖のようだが……木製か?」

 クロエとクレスの二人は同時に頷く。ここでエルザの悩みが出来た。彼らの武器はあらゆる状況に対応しやすいものではあるが、木でできているということは剣や斧を相手にした場合、破壊されるという可能性も含まれていた。

「クレス、君の魔術はどのようなものなのか教えてくれないか?」

「私は基本的に防御です。具体的にいえば流れのある水の膜を発生させることによって攻撃を受け流す、そういったものです」

「なるほど」と頷いてからいつの間にか隅へと移動していたクロエへと目を向ける。

「クロエ、君はどういったもの?」

「私ですか……そうですね、説明するよりも見せたほうが早いと思うので器に入った水でも用意してもらってよろしいですか?」

「あぁ、それならこれを使いたまえ」

 そう言ってエルザは自分が飲むように置いていた木製のタンブラーをクロエへと差し出した。中にはまだ水が半分ほど残っている。

「では失礼して」

 クロエがその中に指を入れた、途端に湯気が立ち上ったと思ったらあわ立ち始める。水が一瞬にして沸騰を始めたのだ。これにはエルザも目を丸くするしかなかった、クレスもそれは同じようであり驚嘆の視線をタンブラーへと注いでいる。

「これが私の魔術です。水を沸騰させるだけなんですけど、これ生き物にも使えますから。あ、でも私が直接手に触れた部分だけしか沸騰させることができないんですよ」

 クロエは笑ってみせたが、見せられた方からしてみれば到底笑えるようなものではない。この魔術をもし人体が浴びたらどうなるか、血液が一瞬で沸騰する。体の中が沸騰するような事態になれば、おそらくその部位は破裂するに違いない。

 その情景をエルザは思い浮かべると背筋に怖気が走った。クロエは人の良さそうな笑みを浮かべているが、彼女の持つ魔術は筆舌に尽くしがたい恐ろしさがある。それと同時に何故彼女が杖という武器を使っているのかも理解できた。

 要するにあの杖は、相手の武器を押さえ込むためのものなのだ。人体を破裂させることが出来るのならば武器は何も要らない、ただ接近して手を触れるだけでよい。あの杖はそのための布石に過ぎないのだ。

 これは恐ろしい人材が手に入ったものだと思わざるを得なかった。クレスは盾としての能力を持っており、クロエは相手に触れることさえ出来ればどのような防御も関係が無い。女ばかりと思ってどうしようかと思っていたエルザであったが、これは上手く行くかもしれないと思い始めていた。

「よし、これで準備と挨拶はすんだわけか。馬車の準備はもう整えてある、今回の任務は追撃だ。即座に出発するぞ」

 エルザは腰に差している剣の位置を調整してから歩き出し、勢いよく傭兵組合の扉を開ける。日光が全身に降り注ぐ、そしてエルザは今回の任務の成功を祈った。

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 馬車を使って三人が向かったのはセイレム=ヴァド。ネアトル=プトゥスより東へ二日ほど向かったところにある、過去セイレム=ヴァドにおいては血生臭い猟奇的な魔術を使用した事件があるらしいがクロエはそれについては何も知らなかった。

 クロエがセイレム=ヴァドについて知っていることといえば、過去はセイレム=フスと呼ばれ魔術研究が盛んに行われており一度は国の魔術研究所をそこに移動させるべきではないかという話が持ち上がったということぐらいである。

 何でもその時に全国を震撼させるような魔術事件が起こり、その影響で積年築き上げてきた名声やその他諸々は灰塵に帰し、国の命によってフスからヴァドへと格下げになったということぐらいである。

 と、ここでクロエは気付いたのだがそれほどまでの事件が起こっていながら何故詳細を知らないのだろうかということに気付いた。一国を震わせるほどの大事件であれば、例え過去のものであったとしても資料なり、口伝なりで広まっていてもおかしくはないはずなのだが。

 馬車の中、クロエと向かい側に座っているウォルミスならば何か知っているのかもしれない。彼女は御三家と呼ばれるウォルミス家の出身、立場上国王陛下との距離も近く自然と国内の情勢、歴史には詳しいはずである。

 今、彼女は進行方向にその金色の眼を向けていた。顔をこちらに向けている形になるため、髪にある程度は隠されているとはいえ彼女の耳の後ろに角らしき突起物があるのが確認できる。やはりウォルミス家の人間には竜の血が混じっているのは本当なのだろうか。

「騎士様、一つお尋ねしたいことがあるのですが?」

 ウォルミスの金色の瞳がクロエを捉えた。睨み付けられたわけでもなんでもないのだが、その独特な輝きを持った瞳に見られるとどうしても萎縮してしまう。

「なんだ? 尋ねたいことがあるのだろう? 遠慮なく言っていいぞ」

「あ、では……私達がこれから向かうセイレム=ヴァドですが、昔どのようなことがあったのですか?」

途端、ウォルミスの纏う空気が変わった。殺気ではないがそれに近い、ほんの僅かではあるが彼女の右手が柄に近づいたのが見える。警戒されているのは明白だった、ネアトリアハイム騎士団としてはセイレム=ヴァドで起こった事件というのは隠したいものであるらしい。

クレスもセイレム=ヴァドで起きた事件については興味があるのか、ウォルミスの隣に座り眠っているように見せかけながらも聞き耳を立てているようだった。

「詳しくは、私も知らん。だいたい五〇年も前の出来事だ、よくわからない」

「資料とかは残っていないんですか?」

「本当のことを知ったら帰れなくなるが良いのか?」

 ウォルミスの思わぬ言葉にクロエは言葉に詰まった。彼女はセイレム=ヴァドでの事件を間違いなく知っている、国の重鎮達は全員知っているのかもしれない。だが、それを国民には知らせていないというのか。

 では、何故知らせないのだろう、という新たな疑問が湧き上がってくるのだがそれを口に出すのははばかられた。もし言葉にしてしまえば傭兵組合でのクレスのように斬られる寸前まで行くかもしれない、もしかしたら今回は見逃すことなく容赦なく斬ってくるかもしれないのだ。

 緊張に思わず唾を飲み込むとその音が聞こえたのか、一拍の間を置いてからウォルミスは大きな溜息を吐いた。

「そんなに知りたいのか? クレスと言い、君といい傭兵というのはそんなに危険な出来事に足を踏み入れたいのか? 私達が真実を語らないのはそれなりの理由があるからだ。君の国籍がどこにあるかは知らないが、現在は私の管轄下にある。その君達の安全を守るために知らせないだけだ」

「そ、そうなのですか?」

「壁に耳あり障子に目あり」

ウォルミスの言葉にクロエは思わず首を傾げる。彼女の言った言葉の意味がまったくわからない、壁に耳あり、はまだわかるにせよ『ショウジ』とはいったい何を指している言葉なのだろうか。

「我らが祖、オラウス・ウォルミスの遺した言葉の一つだ。どこで誰が聞いているか分からないし誰が見ているかもわからない、だから己の言動や行動には注意しておけ。そういう意味だそうだ」

「あぁ、なるほど。ですが『ショウジ』とはなんなのでしょう?」

「さぁ? 私が教えて欲しいぐらいだよ」

 そう言うと体をほぐすためなのかウォルミスは両腕を上げて全身を伸ばした。クロエが馬車の進行方向に目をやると、まだ遠くではあったが夕日に染め上げられたセイレム=ヴァドの姿が見え始める。

 尖塔が立ち並び、城壁に囲まれたかつての都市は夕日の持つ独特の灯りのせいか、かつて誇った今はなき栄華を語っているようにも見えた。

「あそこがセイレム=ヴァドですか」

 いつの間に起きたのか、クレスは馬車の中で立ち上がり進行方向を見ながら言った。ウォルミスも彼女の言葉に釣られるようにして前方へと視線を向ける。

「あぁ、あれがセイレム=ヴァドさ……クロエ、クレス。五〇年前のセイレム=ヴァドで何があったか知りたいか? といってもあまり教えてはやれんが」

「それはぜひ教えていただけるとあれば」

 クレスは迷うことなく答え、クロエも同意の言葉を言った。だがウォルミスはすぐに話そうとはせず、未だに何か決めかねているようでもある。先ほどのオラウスが遺したという言葉を気にかけているのだろうか、それともまた別の理由があるのか。

「五〇年前、セイレム=ヴァド、いやその当時はまだセイレム=フスか。セイレム=フスは魔術研究が盛んで、各地から魔術を研究する者達が集まってきていた。人が多く賑わっていたと聞く、だが全員が全員健全な者ばかりではなかったらしい。今日、真実の教団という邪教組織で教祖に祭り上げられているナイアールという男がある実験を行った。なんでもそれは神を召喚するというものでな、実際にほんの一瞬ではあるが成功したらしい……」

 ここに来て今まで前を見続けていたウォルミスは俯いてしまう。顔を覗き込んでみれば悔しそうに歯噛みしていた。だがそれも束の間のこと、彼女は顔を上げるとその力強い視線を前へと向ける。

「そして……ナイアールが呼んだ神によって街は壊滅的な打撃を被ったとのことだ」

 それ以上ウォルミスが喋る様子を見せなかったのでクレスが尋ねた、「神が現れたのは一瞬の出来事ではないのか」と。同じ思いをクロエも抱いていた。

「その神が途方も無い、我々人間には思い描くことすら出来ぬ正に名状しがたいものだったのだよ。私が読んだ資料にはこう記されていた、呼ばれた神は『全にして一、一にして全なるもの』とな。それがどのような神性なのか、私も探っているのだが未だに全容が把握できん。だが分かっているのは、その神性は人との間に子をもうけることが可能でありナイアールが呼び出したのもそれが理由なのだろうと騎士団では推察されている。そして、その神性と人間との間に生まれと目されているのが、今我々が追っているキャスティン・ハストだ」

「となるともう五〇歳になるわけですか、おじいちゃんですね」

 クロエが何の気なしに言うと静かにウォルミスは首を横に振った。

「普通に考えれば年老いているはずなんだがな……届いてくる目撃情報では二〇代から容姿が変わらないらしい。そういった理由でやつが神の子ではないのかとされているんだが、君ら二人は魔術に長けているようで実に助かったよ」

 そう言ってウォルミスはクロエとクレスの表情を見るために振り返った。そこには作り笑いが浮かんでいたのだが、それは束の間のこと。瞬時に彼女の形相が変わり、右手が腰に差している剣の柄に伸ばしながら御者に馬車を止めるよう命じた。

 異変を感じたクロエとクレスもそれぞれの得物を手に取り、馬車の後方へと体を向ける。いつからそこにいたのか、馬車内の粗末な椅子に一人の男が座っていた。髪の色は海のように青く澄んでおり、血の色に似た紅い衣を見に纏っている。

「やれやれ、ようやくお気づきになられましたかエルザ・ウォルミス。もう少し早く、そうですね……私が門をこの場所へと繋いだ時に気付いても良かったのでは?」

 男が顔をこちらへと向けた。その時に馬車が止まる。男の笑顔はどうみても人当たりの良さそうな笑みなのだが、どこかしらに不快感があった。その原因を探ってみるが分からない、目もちゃんと笑っている。

「エルザさん、そんなに怖い顔をしないでくださいよ。あなたも私も人じゃないんだ、仲良くしませんか?」

 男が立ち上がると「こいつがキャスティン・ハストだ」とウォルミスが小声で呟いた。その言葉にクロエとクレスは構えを防御に向いたものへと変える。相手がどのような術を使用するか分からない以上、まずは守りに徹した方が良い。それに、先ほど彼が言った『門』という単語がクロエの中で引っかかっていた。

「どうしますか?」

 クレスがウォルミスに尋ねる、ウォルミスは剣を引き抜くと「叩き切るまでだ」と勇ましく言って見せたが馬車の中は狭い。クロエとクレスの杖はとてもではないが振り回せる余裕はないし、ウォルミスの剣ですら扱いづらいほど余裕が無かった。

 ウォルミスが構えもなしにクロエとクレスの間を通り抜け、キャスティンと対峙する。

「この中で事を構えるというのですか? 私は構いませんがあなた方にとっては不利ではありませんか?」

「一向に構わん、真実の教団に属している連中に公平さなど求めてはいない」

「やれやれ。我々が何を崇拝し、何を行おうとしているのかネアトリアの方々は一向にご存じないようだ。それとも認めたくないだけなのか、私にとってはどちらでもいいですけどね。ともかく、馬車のそとに移りましょう」

 そう言うとキャスティンは身を翻し三人に対して無防備な背中をさらけ出した。またとない好機であるというのに、ウォルミスは何も手を出さずにキャスティンが馬車から降り適当な場所まで歩いていくのを見ている。

「やるならば今しかないと思います」

 クレスの言葉にクロエも同意した。キャスティン・ハストが無防備にも背を向けているのだ、やるのならば今が間違えようの無い好機である。だというのにウォルミスは「ならん!」と一喝してその金色の瞳でキャスティンの背中を睨み付けているだけだ。

「何故!?」

 クロエが半ば叫ぶようにして問うと「誇りだ!」と即答される。

「私はネアトリアハイムの騎士、それも国王直属だ。そのような立場にある者が幾ら相手が邪教徒だからといって背後から斬るような真似はできん。真実の教団がどのような手を使ったとしても卑怯ではない、しかし我々は法と秩序を重んじなければならない」

 歯噛みしながらクロエはキャスティンが歩いていくのを見守るしかなかった、彼は馬車から適当に離れた草原に立つと振り返り両手を広げる。さぁ、いらっしゃい、とでも言いたいのだろうか。

「行くぞ」

 抜き身の剣を持ったままウォルミスは馬車を降り、二人もそれに続いた。いつ戦いが始まるか分からない、自然と杖を握る手に力がこもる。合図はいつ始まるのか、ウォルミスが戦闘に立ち、クロエとクレスの二人はその後ろに並んで歩いていた。

 ウォルミスはまったく構えようとしていない。キャスティンはというと武器すら取り出していなかった。それでいて二人の距離が縮まるに連れて緊張は高まっていく、空気は軋み音を立てるのではないかと思うほどである。

 戦いは突如始まった、呪文の詠唱も何もなしにキャスティンの頭上に大人二人が並んで入れるほどの大きさの門が出現したのである。その門は緑青で出来ているようであり、人間が生理的に受け付けることの出来ない色をしているだけでなく、生物であるかのような生々しさがあった。

 また彫刻がほどこされており、それらの彫刻はどれも動物を模ってはいるのだがいささか奇妙すぎる。どれも海洋生物をおぞましくしたような見た目であり、そこに確かな芸術性は存在しているもののどれも歪んでいた。現存の動物の模倣に見えないことも無いが、変形させられておりこれを作った人間が仮にいたとしたならば狂人に違いない。

「気をつけろ!」

 ウォルミスはそう叫ぶとキャスティンへと向かっていく。慌てて二人もその後に続くが、思わず足を止めてしまっていた。

 キャスティンの頭上にある門扉が開き始める。漏れ出す光は幻想的かつ魅惑的な虹色の輝きであり、有り得ざる光景にクロエとクレスは足を止めてしまう。クロエはその美しさに見惚れてしまい、体の力が抜けていく。

 いや、見惚れているからではない。それだけで脱力などするものか、体の奥底から力を門に吸い取られているような気がするのだ。その内に立っているだけでも困難となり思わず両膝を地面に付いた。隣にいるクレスもそれは同じようで、彼女の方は杖を支えにしてなんとか倒れるのを免れている。

「気を確かに持て! そうすれば防げる!」

 ウォルミスの怒声が響くがどこか遠くから聞こえてくるようであった。彼女は力を座れていないのか、果敢にもキャスティンに剣を振るっている。だがキャスティンはどこからともなく出した二本の剣で華麗にウォルミスの刃を受け流していた。

 一体、どこからと胡乱になりつつある頭で必死になりながら考えキャスティンを見ていると、彼が剣を手にしていないことが分かる。彼の腕、肘から先が変形というべきか、それとも変身というべきなのか。肉ではなく、鋼の剣に姿を変えていたのだ。

 それが契機となったのか、遠ざかりつつあった意識が急速に戻りクロエは立ち上がり取り落としていた杖を再びその手に握り締める。クレスは未だ意識を捕らわれているのか、杖に掴まったままゆらゆらと揺れていた。クロエは彼女の側に走り寄り、平手を一発見舞う。

 その衝撃でクレスも意識を取り戻し、杖を構えなおすと「すまない」と一言だけ言った。そんな二人の様子を見ていたらしく、キャスティンは高らかに笑い声を上げ始める。

「ハハハ! いやぁ、エルザさんは良い傭兵を雇ったものだ。私の門を直視しておきながら意識を引きずり込まれることがないなんて。相当な精神力の持ち主ですよ」

「ぬかせ!」

 ウォルミスは言いながら何度も斬り込むがその全てを払われてしまう、彼女の剣技が劣っているのでは決して無い。キャスティンの腕が優れているのだ、加えて彼の場合は腕がそのまま剣となっている。手に持って使うよりも使いやすいに違いない、加えて両腕だ。

 近く劣勢になるかもしれないウォルミスの加勢に向かうためクレスとクロエは同時に走り出す。するとまたキャスティンが嬉しそうな笑い声を上げた。

「流石に一対三では負けるのが目に見えていますからねぇ、加勢を呼ばせてもらいますよ!」

 キャスティンが言い終わると、空に浮かんでいる門が完全に開ききった。向こう側はどこへと繋がっているのだろう、ここではない別の世界なのだろうか。虹色が平面を成しているようにしか見えなかった。

 クロエが頭の中で色々なことを一瞬のうちに考えている間に、門から獅子ほどの大きさをした獣が飛び出す。飛び出してきた獣の数は二匹、四足獣で全身に毛が生えておらず灰色の皮膚で覆われておりその下には厚い脂肪があるのだろうと察せられた。

 尾は短く、足も短いが細く引き締まっている。だが醜悪なのは頭部だった。輪郭は狼に近いのだが、そこには耳も無ければ目も無く鼻も無い。あるのは首にまで達しているのではないだろうかという大きな口だけである。その口からは紫色の下と鑢で磨きぬかれたかのような牙が二重に生えており、涎がだらだらと垂れていた。

 顔の無い獣はクロエとクレスを得物とみなしたのか天に向かって高らかな咆哮を上げる。それは今まで聴いたことの無い雄たけびだった。とても生物が発する声とは思えない。宗教に狂った人間が祝詞を上げているようにも思える。

 口しかないというのにどうやってその獣は獲物の存在を把握するのだろうか、クロエには分からないが二匹の毛無しの怪物はウォルミスと二人を分断していた。彼女の許に行くにはこの二匹の化け物を倒すしかない。

 毛の無い怪物はバネを溜めたと思ったら次の瞬間には眼前へと接近していた、杖で叩き落すべく首筋を横殴りに叩きつけたのだが脂肪がその衝撃を緩和してしまう。化け物の勢いは止まらずにクロエの上へと伸し掛かり、大きな口を開く。

 眼前に広がるのは二重に並んだ刃のような牙、紫色をした蠢く舌。そして腐敗臭を遥かに超える強烈な臭いに気を失いそうになるもクロエは理性を保った。相手の体に触れることさえ出来れば、体内の血液を沸騰させることによってその部位を破裂させることが出来る。

 ここでクロエは勝負に出た、杖を手放し右腕を怪物の口の中へと突っ込み舌を握り締めた。以前、動物は舌を握られると弱いという話を聞いたからだ。だがこの怪物は違った、そのまま口を閉じて二重の刃を右腕へと突き立てる。

 あまりの激痛に背を仰け反らして悲鳴をあげながらも右手はしっかりと舌を掴んで話さず、魔力を流し込み舌の中に流れている血液を沸騰させた。破裂音の後、怪物は口を離して青い血液を口から撒き散らしながら地面をのた打ち回る。

 クロエの右手には怪物の湯気を立てるほど熱い血液で塗れ、自身の流す血も入り混じり強烈な臭いと痛みを発していた。手のひらの焼けるような痛みを感じる、火傷してしまったのだろう。

 それでもクロエは傷の深さを確認せずに、地面でもんどりうっている怪物に近寄り頭に触れる。幾らなんでも頭を吹っ飛ばされたらどんな生物でも死ぬに違いない。

 火傷を負っている右手で暴れる怪物の頭部に叩きつけるようにして右手をぶつけると同時に魔力を流し込み、頭部の血液を沸騰させる。一瞬で怪物の頭は破裂し、周囲にその頭の中に詰まっていたものをぶちまけた。一部はクロエの体に湯気を立てながら付着したがもう気にもならない。後に残るのは頭部だけが骨のみとなった獣の死骸である。

 右腕の傷口を押さえながらクレスを見ると彼女は苦戦していた。怪物は鈍重そうな見た目とは裏腹に動きがすばやく、縦横無尽に彼女の周囲を駆け回り攻撃を仕掛けている。クレスは水の膜を張り、それらを受け流すと同時に杖に体重を乗せた重い一撃を確実に何度も当てているのだが、分厚い脂肪は衝撃を吸収してしまっていた。

 落ち着いてみればクレスは上手く攻撃をかわしているが、今まで幾度も攻防を繰り返しているのだろう。僅かではあるがクレスの服の一部は血で滲んでいた。

「クレスさん」

 呼びかけながらクロエは杖も持たずにクレスを加勢するために走る。クレスは攻防することに集中しきっており、クロエの呼びかけには応えなかった。だがそちらの方が良い。

 結果としてクロエは怪物の背後に回りこむ形となり、その短い足に触れ先ほどと同じように体内の水分を蒸発させ爆裂させた。そして倒れこんだ怪物の頭部へもう一度同じことを行い、二匹の怪物を倒すことに成功する。

 だが怪我と魔力の消耗によりクロエは思わずその場に倒れこんでしまう、クレスが慌てて駆け寄ってくるがクロエはそれを止めた。そんなことよりも優先すべき事項がある。

「クレスさん、騎士様の許へ」

「しかし……あぁ、分かった」

 クレスが駆け寄ろうとしたとき、ウォルミスとキャスティンの間には三歩分の距離が開いていた。お互いに攻めあぐねているのは見てわかる。だがそこにクレスが加勢すればキャスティンの行き場は無くなる。だが、彼がまた新しい獣を呼び出さなければの話だが。

 もし、彼が新たな怪物を門から呼び出せばこちらの行き場が無くなる。ウォルミスはキャスティンに手一杯であり、クレスでは獣達に致命的な一撃を与えることが出来ない。彼らを殺すことの出来るクロエは負傷で動けなくなっていた。

 そのためにもクロエとしては早くクレスとウォルミスが合流して欲しかったのだが、ネアトリアの女騎士はクレスに静止を命じる。それでもクレスが近寄ろうとすると、剣の切っ先をキャスティンではなくクレスに向けた。こうなってしまえばクレスは騎士の言うことを嫌がおうにも聞かざるを得ない。

「どうしたんですか? お仲間の助力を断るだなんて」

「何、こうなったら……」

「おや? 何か切り札でもあるので?」

 キャスティンの言葉に応えることなくウォルミスは剣を鞘へと納めた。これにはこの場にいる全員が首を傾げる。キャスティンはそんな彼女の行動を鼻で笑っていたが、ウォルミスには何か切り札があるらしい。両手の指で印形を形作り、呪文の詠唱を始める。

「光射す世界に 汝ら暗黒 住まう場所無し――」

「ま、待て! それは旧神の!?」

 キャスティンは明らかに動揺し、後ろへと後退していく。ウォルミスはそんな彼を真っ直ぐと見据え、印形を作るの止めて右の手の平を前へと突き出した。

「乾かず 飢えず 無に還れ!」

 詠唱が終わると同時にクロエは強力な魔力の流れを感じる。草木がざわめき立ち風がウォルミスの周囲で渦を巻き始め、彼女の手の平には魔力の塊と思われる球体が出現していた。

「何故だ!? 何故!? 何故!? 魔を断つ刃の秘法を貴様らウォルミスが使えるのだ!? 理不尽だ、理不尽すぎる!」

「理不尽な貴様ら邪神の眷属が言うことか! この秘法は直接、夢の中で私が旧神に授けられたものだ、無限熱量で滅ぶが良い!」

 ウォルミスが跳んだ。キャスティンは驚愕のあまりその場を動けずにいる。

 次の瞬間、閃光が周囲を包みクロエは思わず目を閉じる。それでも痛いほどの光が入ってきた。全てが光に包まれる中でウォルミスが「昇華!」と叫ぶ声が聞こえる。

 その後、徐々に閃光は弱まってゆき目を開けるとキャスティンは左腕を付け根から失っていた。そしてウォルミスはといえば、今にも倒れそうなほどに呼吸を荒げさせ肩を揺らしている。

「くそっ、理不尽だ。理不尽すぎる! 邪神の血を引くものに旧神がその秘法を伝えるなど。良いですか、エルザ・ウォルミス。この屈辱は、絶対に忘れませんからね!」

 そう言い残すとキャスティンの姿は徐々に薄くなり始め、最終的には透明になり存在感すらも無くなった。この場を去ったのだろう。だが彼が立っていた場所に何かが落ちていた。

 この中で唯一動けるクレスがそれを拾って皆に見えるよう掲げて見せる。それは革装丁の四つ折り本であり、遠めに見ても年季が入っていることがわかった。その本を見たウォルミスの表情がほころぶのをクロエは見逃さない。

 キャスティン・ハストを逃がしはしたものの、魔術書を取り返すことには成功したのだ。

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