空を舞う鳥のように
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(いつか、もし……世の中が平穏になったら……)

そんな埒もないことを、関平は漠然と考えている。

抜けるような青空に、一羽の鳥が舞っていた。

雲と競うほどに高く、悠然と。翼を持たない者を誘うように――。

 

そうだ、鳥のように自由に。

いつか……私も飛べるだろうか。

 

毎日が、戦と、兵の調練と、武術の鍛錬で過ぎてゆく。

他国との駆け引きや軍を統べる戦略などは、もっと上層部の人たちの領分である。自分はただ一軍を率いる将として、与えられた任務を確実に遂行しうる器量を磨くために、不断の努力を惜しまないだけだ。

そんな生活に、不満があるわけではない。

けれど、時々、無性に空が見たくなる。

そんな日には、関平は、いつも決まってこの場所に足を向けた。

遠く視界の果てへと、長江がゆるやかに流れていく。空と水が交わる先まで見通せる小高い丘は、葦原に覆われた、かれだけの隠れ家だった。

 

 

「やっぱり、関平さんの馬だったのね」

不意に華やいだ声がして、ゆるやかにたゆとうていた思考は破られた。

「尚香さま?」

振り仰いだ視線の先には、ついひと月ほど前、劉備の妻として呉から嫁いで来た孫夫人、尚香の屈託のない笑顔があった。

「趙雲どのに聞いたのです。関平さんは、空を見たくなると、一人でここに来るって。でも、こんな所でさぼっていたら、お父上に叱られますよ」

「別に、さぼっていたわけじゃありません。調練は、毎日ちゃんとやっています」

さほど親しく話をしたこともない相手に、突然うれしくない冗談を言われて、関平はむっとした。

「尚香さまこそ、このような所に一人でお出ましとは、少々無用心が過ぎますぞ」

思わず語気が荒くなる。顔色が変わっていたかもしれない。

尚香は慌てて微笑を消すと、素直に謝った。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃないのよ。私も、空を見たかったから……。趙雲どのが、荊州で一番きれいな空を知っているのは関平さんだって教えてくれたの。それに、私のことならどうぞご心配なく。供は向こうに待たせてありますから」

言いながら、空を見上げた横顔があまりにも鮮やかで、関平は胸を突かれた。

女だてらに武芸をたしなみ、腰元たちまで武装させ、劉備と同衾する時にも剣を手放さないじゃじゃ馬娘。「弓腰姫」とあだ名される尚香に、それは不似合いな印象だった。

 

――この方も……空を見たいのだ。

 

呉の君主、孫権の妹。江東と荊州の和平の証として、親子ほども年の離れた劉備の元へ、見知らぬ土地へ嫁いで来た、呉国の姫。

強大な魏の曹操に対抗するため、劉備と孫権は、今は同盟を結んでいる。しかしそれは、いつ破れてもおかしくない危うい友好関係だ。

二つの勢力をつなぐ孫夫人の立場は、むしろ質に近い。

そこまで思い当たった時、そんな己の運命を黙って受け入れ、なお毅然として立っている尚香が、いじらしくなった。

関平は身をずらすようにして、さっきまで自分が仰臥していた傍らの場所を、彼女に勧めた。

「ここからだと、長江の流れが遠く東の果てまで見通せるのです。その先は、尚香さまのお国ですね」

尚香はうれしそうに関平の隣に腰を下ろし、まだ少女の幼さの残る顔に、透き通るような笑みを浮かべた。

 

 

(それにしても……)

と関平は思う。

 

――趙雲さまは、何でもお見通しだな。

 

あの時もそうだった。

漢王室の末裔(すえ)と名乗る劉備玄徳とその一行が、流浪の旅の途中、関平の家に立ち寄ったのは、かれが十六になろうかという春のことだ。

かねてから義勇軍で名を挙げていた劉備たちを、関平の父関定は手厚くもてなし、一行はひと月あまり関家に滞在した。

そして、いよいよ発つという直前になって、突然、関羽雲長という武将が、関平を養子に迎えたいと申し入れてきたのだ。これには、父も子も、天地がひっくり返るほどに驚愕した。

その頃すでに、劉備の義弟関羽の勇名は天下にとどろいていたから、降ってわいた僥倖に、関定は感泣し、一も二もなく承諾した。

とまどったのは、当の関平である。

天下に対して未だ何の野望も持たない少年が、この先ずっと続くであろうと考えていた退屈だが平穏な未来は、思いがけなく崩れ去ってしまったのだ。

漢王室復興を旗印に掲げ、戦場を縦横する劉備軍。その中でも「万人の敵」と謳われた豪傑関羽雲長の養子として、この先、自分はどんな運命をたどることになるのか。

 

――なぜ、私などが選ばれたのか。人より少々剣術ができる程度の、田舎者の子倅に過ぎぬ私を、関羽さまは、いったいどんな気まぐれで?

 

地に足がつかないとは、こういう状態をいうのだろう。

選ばれた誇らしさよりも、不安ばかりが先に立つ。あわただしく親子の契りを結んでからも、心に重くのしかかる憂鬱は、消えそうになかった。

(あの日も、一人でぼんやりと空を眺めていたんだ)

故郷を出立する日の朝。

新しい義父が用意してくれた真新しい戦袍に手を通しても、関平の心は晴れなかった。

まだ暗いうちから起き出し、屋敷の裏の、一抱えほどもある松の古木の根元に座って、黄砂に霞む空を見上げていた。

「気負わなくてもいいぜ」

ふいに声をかけられ、驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、劉備の家臣の一人、趙雲子龍だった。

趙雲は、関平の側に腰を下ろすと、人懐っこい笑顔を向けてきた。

「関羽どのは、今のお主のあるがままを認めて、養子にしたいと言われたのだから」

「ですが……」

「お主の気持ちも分かるさ。俺なんぞ一番の新参者だから、気負いも不安も人一倍だ。一日も早く目立った武勲を挙げて、劉備さまに認めてもらいたい、ってな」

趙雲は、わざとくだけた口調で、関平の緊張をほぐそうといているらしい。

「だが、焦ってもどうしようもあるまい。確かに、関羽どのも張飛どのも音に聞こえた豪傑だ。だからって、養子であるお主がそれに勝る豪の者でなければならんとは、誰も思ってはいないさ。それに、言っちゃなんだが、俺たちは、お主が思っているほどご大層なものでもないぜ」

大きな声じゃ言えないが――と、趙雲は関平の耳元で囁いた。

「張飛どのなんか、酒を飲むと人間じゃなくなる(わは〜〜♪)し、関羽どのだって神様じゃない。劉備さまにしても、今はまだ領地も領民も持たぬ流浪の将軍だ。……だがな、あのお方は『本物』だぜ!」

劉備について語る趙雲の眸子は、まるで自分の大切な宝物を自慢する子どものように、輝いている。

「俺は若い頃からあちこち流れ歩き、いろいろなお殿様を見てきた。食客という形で、何人かの主君に仕えたこともある。その俺が言うんだ。間違いない。あのお方は、きっと天下に名をとどろかせる英雄になる」

これほどの信頼と連帯感は、どこからくるのだろう。何の身分も明日の保証もなく、日々転々としている彼等には不似合いな、この圧倒的な意志の強さは。

関平は初めて、劉備たちの絆をうらやましく思った。

「俺たちには、でかい夢があるんだ。劉備さまを、天下の大舞台に押し上げたい。あの方を唯一の君主と仰ぎ、この乱れた世を正したい。関羽どのも張飛どのも、そのために戦っている」

趙雲の熱い視線が、まっすぐに関平を見つめてきた。

「関平も、今日から俺たちと同じ夢を追うんだ。そのために、自分にできる精一杯のことをやる、それで十分じゃないか?」

 

――同じ夢を。

 

この男たちと同じ夢を追う。そのために、自分は選ばれたのだ。

初めて、痺れるような緊張に身が引き締まった。

「もう、大丈夫だな?」

ぽん、と趙雲の大きな手が関平の背中をたたいた。その温かな感触は、いつまでも消えずに体の奥深いところまで染みとおっていくような気がした。

「あ……はい。大丈夫です」

「では、行こうか。新しい家族が待っている」

 

 

あの時趙雲は、傍目にもそれと分かるほどの関平の不安と緊張を、なんとかほぐそうとしてくれたにちがいない。若い頃から世間を渡り歩いてきた苦労人らしく、そういう人の心の機微がわかるのだろう。

今、尚香に関平のことを告げたのも、故郷を離れて見知らぬ土地で暮らす尚香の寂しさを察した、趙雲流の思いやりだろうか。

鼻の奥がつんとするような感傷とともに、過ぎた日のほろ苦さ、あの日の背中のぬくもりまでが、懐かしく思い出された。

 

 

あれから九年――。

夢中で走ってきた。ただ、父の背中だけを見つめて。

気負うつもりはない。それでも、関羽の息子としての矜持はある。

「私は私なりに、精一杯努力してきたつもりですが」

何の脈絡もなく、ふいに関平の口をついて出た言葉が、尚香を驚かせた。

「ただ、どれほど精進しても、父上のようにはなれない」

武人としては生真面目すぎるまなざしが、そこにあった。

「それは……(笑)。関平さんの父上は、この世に二人とはおられぬというくらい、特別な方なのですもの」

ええ、と頷いて、関平はちょっと眩しそうに目を細めた。

「もちろん、わかっています。人にはそれぞれ持って生まれた才というか、分がありますから。関羽の息子という立場は、あまりにも大きすぎて、もとより私の器には余ります。周りの人たちも、みんなわかっているから、私にはことさら何も言いません」

自嘲に似た言葉を吐きながら、たまらなく胸が痛い。こんなふうに心が昂ぶるのは、久しぶりだ。

自分は本当に、関羽の息子として認められているのだろうか。

「でも、私はそれに甘えてちゃいけない。この世に二人とはいないといわれるその方が、私を選んでくださったのだから。そのことに何としてでも応えねば」

「大変ですわね……」

尚香は、ほっとため息をついた。

「尚香さまも」

「え?」

小首をかしげるようにして、大きな眸子が関平をのぞき込んできた。

「お寂しいでしょう?慣れ親しんだ土地を離れて、見ず知らずの者たちの中で暮らすのは」

(ましてや、ここは敵地だ――)

劉備と尚香の婚姻を快く思わぬ者がいることは、関平も知っている。父の関羽でさえ、尚香のことをただの人質くらいにしか思っていない。

「時々息がつまることもありますけど。でも、玄徳さまはお優しいし。奥向きのことは、趙雲どのがいろいろと気を遣ってくれますし。それにこの頃は、阿斗さまがよくなついてくださって……」

思いのほか明るい眸子で答える尚香を見て、関平は安堵した。

「そうですか」

「玄徳さまに嫁いでより、すでに尚香はこの国の人間です。あなたが関羽さまの息子になられた時に、古い名前(関という姓は同じだけれど)を捨てたように、私も孫の名は捨てました。でも……」

と、尚香はほんの少し言いよどんだ。

「周りの方たちは、そうは見てくださらないから」

尚香にしてみれば、呉の間者であるかのような目で見られることが、一番くやしかった。

確かに政略結婚である。だからといって、二人の間に愛がないとなぜいえよう。

初対面の時から、尚香は劉備に対して、幼い時に死別した父への想いにも似た親しみを抱いていた。それはやがて、一人の男性に対する慕情へと変わっていく。

劉備もまた、勝気で聡明な尚香の明るさに惹かれ、いつしか年の差を超えた情愛を覚えていたのだった。

だが、ごく普通の夫婦として暮らすには、二人の立場はあまりにも微妙なものであるといわざるをえない。

「だけど、もう平気。これからは、寂しくなったら、ここへ空を見に来るわ」

どちらからともなく二人して見上げた空には、先刻の鳥が悠々と弧を描いている。やがて鳥は、遠く東南の空の彼方へと吸い込まれていった。

「ああ、あちらは呉の国の方角だ」

「なんて速い。もう見えなくなってしまったわ」

青空に溶けてしまった鳥の後を慕うように、尚香はいつまでも空の彼方を見やっていた。

「けれど、鳥は本当に自由なのかしら。たとえ翼があっても、空を飛ぶことができても、魂の帰れる場所がなければ不幸ですもの」

(帰れる場所か)

尚香のなにげない言葉が、関平の心にさざなみを立てた。

「それは、自分が必要とされている場所、自分自身が居たいと願う場所のことですね?」

関平の問いに、尚香は花のような笑みを浮かべた。

「そう。そして私が帰る場所は、江東ではなく、玄徳さまのおられるここ、荊州です」

 

 

やがて、しびれを切らした供の者にうながされ、尚香は城へ帰って行った。それを見送って、関平はなおしばらく、じっとその場にたたずんでいた。

尚香の言葉が、残り香のように沁みついている。

 

――私の帰る場所は、どこにあるのだろう。

 

しだいに赤みを帯びてくる空に、父の顔が浮かんだ。関平が、常に憧れと畏怖を込めて見つめてきた、厳しい武人の顔である。

(父上――)

心の中で呼びかけると、厳格な父の顔がゆるんだような気がした。

その瞬間、胸の奥で何かが音もなくはじけて、後には、ただ澄みきった思いだけが残った。

 

――私の帰る場所、それは父上です。そんなことは、わかりきっていたのに。あの日、父上が私を選んでくだされた時から。

 

もう、迷わぬ、と思った。

「私はなんと情けないことを考えていたのだろう。世の中が平穏になったら、じゃない。その平穏な世の中を作るために、私は、私たちは戦っている。尚香さまも、形こそ違え、同じ夢のために戦っておられるのだ」

声に出せば、より一層、身の引き締まるような思いがこみ上げてくる。夕暮れの冷気を含んだ風が、葦原に立つ関平の頬を打った。

 

たとえ翼はなくとも。

私には、やらねばならぬことがある。

信じるもののために、今、自分にできる精一杯のことを、ただひたすらに――。

それが、私が自分で選んだ道なのだから。

 

 

 

説明
私の中の関平のイメージは、あくまでも真面目でストイックな好青年。そして、三国志にはめずらしく、ちょっぴり人間的な弱さもある、等身大の若者です。そんなかれの、おそらく一般の三国志モノでは絶対出てこない、心のつぶやきみたいなものを書きたくて、こんな話をでっち上げてみました。
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関平 孫尚香 趙雲 三国志  

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