MS-04 プロトタイ | 次 |
説明 | ||
『ジ・オリジン』のガレージキット「MS-04」です。 ミノフスキー博士亡命阻止作戦で実戦投入された際の、ラル大尉のパーソナル・カラーであるブルーに塗装してみました。 ラルのパーソナル・カラーはMG(ギレンの野望)ver.とジオノver.と2種類ありますが、今回は前者に準拠しました。 マーキング等はジオノっぽさを狙い、モノアイはHGアイズで再現、モノアイガードをプラ板で追加しています。 以下、設定。 *********************************************** “ミノフスキー物理学の祖”トレノフ・Y.ミノフスキー博士は、公式な記録によれば宇宙世紀0072年に、サイド6経由でジオン公国から地球連邦政府に亡命し、その後エネルギーCAPの技術開発等に貢献したとされている。 しかし、ミノフスキー粒子の発見と応用理論の確立で“素粒子物理学にピリオドを打った”(ミノフスキー・ショック)とまで云われ、人類史に一大技術革新をもたらした偉人であるにも関わらず、博士のその後の足跡は杳として知れない。 そのため、博士の亡命した時期やその生死について、異説を唱える者も少なくない(※1)。 風聞の域を出ないものだが、よく言及されるのは、博士は逃避行時に「ザクに襲われた(或いは襲われて死んだ)」とする説だ。 モビル・スーツの第1号、MS-01「クラブマン」が完成したのが0073年1月、さらに「ザク」の名称がMSに冠せられるようになるのも同年からであり、もしミノフスキー博士が「ザク」に襲われたことが事実だとするなら、博士の亡命は公式記録にある0072年よりずっと後、少なくとも“実戦型”MSがロール・アウトした以降の話ということになる。 一説によると、博士を襲ったのはMS-04とMS-05の混成部隊であったという。 この作戦で投入されたMS-04が、この「プロトタイプ・ザク」実戦仕様だったと云われる。 MS-04には、公式事典「MSエンサイクロペディア」に掲載されている「プロトタイプ・ザク」の他にも、「アーリー・ザク」や「試作型MS-04」など、複数のバージョンあったことが記録として残されている。 MS-04の開発がいかに複雑な経緯を辿ったか窺い知れよう。 この実戦仕様は、そうした経緯に於ける設計プランのひとつであったとも、完成したMS-04の実機をさらに改装したものだったとも伝えられている。 一般的に、初の実戦型MSとして名を挙げられるのはMS-05「ザクT」であり、「プロトタイプ・ザク」はその前段階、ミノフスキー/イヨネスコ型熱核反応炉の稼働試験機であったと云われている。 だが、実はMS-04こそが、初の実戦型を目指して開発されたものであったことは意外に知られていない。 MS-05は、非常に高コストだったMS-04をベースに各部の機構や装備を簡略化した機体であり、厳密には実戦仕様“量産機”を目指したものだった。 一方ワンオフ機であるMS-04は、莫大な開発コストに見合うだけの高い性能を持っており、その戦闘力はMS-05はもとより、MS-06をも凌ぐほどであったという。 軍備拡充を急いでいた公国軍が、「プロトタイプ・ザク」を実戦仕様に改装し戦線に投入したことも、一概にあり得ないとは云えないだろう。 また、同機はそのポテンシャルの高さから、MS-06Rタイプ(※2)と共に、MS-06R-3S「ゲルググ先行試作型」の開発ベースになったとも考えられている。 なお、この「プロトタイプ・ザク」実戦仕様のパイロットを務めたのは、教導機動大隊に当時所属していたランバ・ラル大尉だったと伝えられている。 同機は当初オレンジのデモンストレーション・カラーで塗装されていたが、ミノフスキー博士亡命阻止作戦で実戦投入された際には、ラル大尉のパーソナル・カラーであるブルーに塗り替えられたという。 ※1…これに関連して、「M&Y公社」の社名も欺瞞であり、真実は「M&I公社」であったとする向きもある ※2…このRタイプはMS-06R-3「ザクV」であったとも云われている |
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