埋み火 |
「平。そなたは落ちよ」
「父上……!」
「なんとしても逃げ延びて、兄者の下に行け。そして兄者に、我が最期を伝えてくれい」
これほど憔悴しきった父の顔は、見たことがない。外では決して見せることのない軍神関羽の「生身の弱さ」を垣間見て、関平は肯んぜざるをえなかった。
「それを頼めるのは、そなたしかおらぬのだ」
「分かりました」
関平は、唇をかみしめた。
本当は、行きたくない。父の側を離れたくない。けれど。
――平も、父上とともに死なせてください。
そのひとことが、言えなかった。
樊城を追われた関羽たちが立て籠った麦城は、長い間打ち捨てられていた小城である。兵糧のたくわえなどあるはずもなく、崩れた城壁は、守ることもおぼつかなかった。
廃墟にも等しいその城を取り囲む敵は、数万。こちらは三百騎に満たない。
戦の勝敗は、いや、戦うことの愚かさは、誰の目にも明らかだった。
「援軍は来ぬ。この上は、ここに籠っていても詮無きこと。よって我らは、夜明けとともに撃って出る」
関羽は、ついに生を諦めた。
ここまで付き従ってきた将兵たちも、すでに死を覚悟した者たちばかりだ。皆さしたる動揺も見せず、最後の夜は静かに更けていく。
深更――。
まんじりともせず、関羽の居室の前に佇立していた関平は、父に呼ばれてその面前にかしこまった。
「父上。お呼びですか」
居住まいを正した息子に向かって、父は信じられない言葉を告げたのだった。
「わたくし一人逃げよとは、それは、平が養子だからですか?ともに死ねとおっしゃってくださらぬのは、真の親子ではないゆえの仕打ちですか」
初め、関平は激しく詰め寄った。
父の口からこのような情けない言葉を聞こうとは、思いもしなかった。あまりの口惜しさに、涙すら出ない。
「そうではない」
父は、厳格な武将の顔を緩めると、幼子を諭すように息子の肩に手を置いた。
「儂は今日まで、そなたを実の子と思うてきた。平は、この父の自慢の息子ぞ。だからこそ、そなたをこんな所で死なせたくないのだ」
「父上……」
そうまで言われては、黙ってうなずくほかはない。
部屋を出て、一人になって初めて、関平は胸の中で泣いた。その涙が凝って、胸の奥深く息づく「埋み火」になった。
やがて、白々と夜が明け初めた。
野を被うた靄が薄れ始めるとともに、城の外一面に、敵がひしめいているのが見渡せた。北門の包囲が幾分薄いと見えたのは、あるいは敵の罠か。
しかし、それを疑っている余裕はない。
朝靄を突いて、麦城の兵たちは一斉に北門外になだれ出た。すぐに激しい戦闘が起きる。
関平をかばうように寄り添いながら、関羽は、凄まじい勢いで敵の重囲を切り崩していく。
「赤兎に乗って行け。赤兎なら、ここを突破できる」
父は己が身を盾として、息子の血路を開いたのだった。
どれほど駆けたか。ようやく敵の追撃を振り切り、関平は我に返った。
その時ふいに――。赤兎が動かなくなった。
一声高くいななくと、それきり前に進もうとしない。
(赤兎!お前も行きたくないのか?父上の下を離れたくないのだな?)
関平の頬に、滂沱の涙があふれた。
馬でさえ、主人の恩を知っている。まして自分は、関羽雲長の息子ではないか。
死に瀕している父を、どうして捨てて行かれよう。
――父上、お許しください。平は、生涯たった一度、父上のお言いつけに背きます。
関平は、馬首をめぐらすと、一散に今来た道を駆け戻った。
山あいの道が急に開けたかと思うと、そこは戦場である。しかし、眼前に展開しているのは、戦というにはあまりにも凄惨な光景だった。
関羽軍の兵の姿は、もうどこにも見えない。ほとんどが、すでに討たれてしまったのだろう。
敵兵ばかりの中を縦横に疾駆しながら、関平は、ひたすら父を探し求めた。赤兎の馬腹を蹴りつつ、声の限り父の名を叫び続ける。
「父上!」
ついに。
枯れた大地の上に、朱に染まって立つ、その人が見えた。
次々に喚きかかる敵兵を、突き倒し、斬り払い、阿修羅のごとく奮戦する鬼神。
「ちちうえっ!」
関平の声が聞こえたか、父はゆっくりと振り向き、そして、かすかに微笑んだ。
まるで、大空に放した鳥が、再び掌(たなごころ)に戻ってきたのを、いとおしむかのように。
関平は、群がる敵を払いのけ、ただまっしぐらに、懐かしい笑顔に向かって飛び込んでいく。
胸の奥の埋み火が、今、赤く燃え上がり、最後の煌きを放とうとしていた。
説明 | ||
シリアスモードの関平です。 関平の最期は、いつかもっときちんとした形で書いてみたいとずっと思い続けているのですが、今はこれで精いっぱい。最期の瞬間は、悲しくてとても書けない……。(T_T) |
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