スケール(β) |
ふと外が薄暗くなる気配を感じて、ヤスコは雲の様子を見ようと店舗の入り口に向った。そして、光を遮っていたものが入店をためらう大柄な女性であったことに気がついた。彼女は白い半袖のシャツと紺色のオーバーオールという地味な出で立ちで、腰まで伸びた長い髪が太陽の光を受けて茶色い輪郭を描いていた。
「いらっしゃいませ」
アパレル業で長く接客をしてきたヤスコであっても、声掛けのタイミングを誤ることがある。今みたいなのがそうだ。その来訪者は店内に足を踏み入れるのを躊躇していた。ヤスコは何事もなかったかのように店の奥に移り、棚の上部に陳列されているシャツを畳み直した。
――来店した客が気を使わないよう忙しくいふりをする……。
ヤスコが新人の頃に先輩から教わった接客の技であった。昔は通りかかった人に声をかけては自分がよいと思う服を押し付けようとしていた時期もあった。そして上司から毎日のように押しが強すぎるだの売り込みが弱すぎるだの矛盾した説教を聞かされていた。振り返れば、客の心情を読めということだったのだろうか。そんな過去を思い出しながら、店内のショーケースに建て掛けられたドレスに目を輝かせてるその大柄な女性を見守っていた。
彼女は店内を巡りながら、ときどき商品の札を手にとっては悲しそうな表情を浮かべていた。ヤスコはその女性が自分が考えていたよりも随分と若いことに気がついた。彼女は気に入った服を手に取る度に少し口を尖らせて大きな目をぱちぱちとさせていた。
――何かを買おうと決めて来店した客の動きね。
ヤスコは声を掛けるべく彼女の視界の中に踏み込んで行った。
「試着なさいますか?」
ところが彼女は控えめに首を横に振り、手に取っていたブラウスを棚に戻した。
――そうか、寸法が合わないのね。
「貴方に合うサイズもありますよ」
そんなヤスコの強気な発言の根拠になったのは、その女性の足が長くLサイズであっても問題はないと踏んだからだ。ポケットからメジャーを取り、馴れた手付きで寸法を測った。しかし、ヤスコは自分の楽観が外れたことをすぐ悟ることになった。
――百八十二センチ……。
女性の身体に当てていた自動巻き戻しのメジャーがシュルシュルと音を立て、先端の金具が本体にパチンと当たる音が店内に響いた。それが合図であったかのように、彼女は申し訳なさそうな表情をヤスコにみせて、そして静かに去っていった。ヤスコが長年かけて品揃えした衣類の並ぶ店舗は、その大柄な彼女が居なくなると不要に広く感じられた。自分の店であるはずのその空間でヤスコは自分がおもちゃの人形になり一人取り残されたような錯覚を覚えた。太陽が夕刻の赤みを含み始める、そんな時刻の出来事であった。
それから数日の間、店まで足を運ぶ客は少なかった。あの謎の大女に連れ去られたようだった。少し派手だと思われるそうな服を揃えている手前、足を踏み入れてくれる人がいないと自分のセンスに迷いが生じるのがアパレル業界に勤めるヤスコの常であった。そんな中、中学生ぐらいの女の子の一団がおしゃべりをしながら店に足を踏み入れてきてくれた。彼女達は会話に夢中で、あまり服を見てくれてはいなかった。それでも会話が途切れると、明るい髪をした子がインポート物に目を付けたのをきっかけに、やがて彼女達は店内の商品を物色し始めるようになった。その様子を眺めていたヤスコは少しだけ取り戻した。ただ気になったのは、その一団の中に浮かない表情をした子が一人いることだった。
その子が着ていた服は見るからに安物であった。繊維の質が悪いので、粗く色付けされたオレンジの襟と袖が黒ずんでいた。家庭用の洗濯では簡単に落とせない油汚れだった。彼女は服を見てまわる集団から少し離れて、服の値札を見ては口を結んで、そっと棚から身を遠ざけた。ヤスコは前にこの店にやってきた大柄な女性の事を思い出した。そんな彼女をほったらかして、他の女の子達は服選びに夢中になっていた。
「ねえねえ、これどうかなぁ?」
「やめなさいよ。ヘソが丸見えじゃないの。そんなのよく着る気になるわね」
「ううん、それにこれを合わせるの」と彼女は白い短めのシャツを手に取った。
――気がつかなかった。そんな組み合わせもできるのね。なかなかセンスがある子だわ。
ヤスコはその女の子が気になり始めた。よく見るとモデルとして十分に通用する容姿だ。
「まぁ、いいんじゃないの? 勝手にしなさいよ」
そしてヤスコはもう一人の女の子の服装も気になり始めた。地味なデザインであるが、相当値の張る素材を使った服だということが直ぐに分かった。彼女は私の店では買い物をしてくれないだろうと踏んで、ヤスコは鏡に向ってシャツを合わせてみている子に狙いを定めることにした。
「試着してみますか?」
「うん!」
「ちょっとお金はどうするつもりなの?」
「ケーヒにすればいいと思うな」
「アンタしか着れない服が経費で落ちるわけないでしょ」
「でも、この間のステージ衣装は専用だったの」
「私服は駄目よ」
――ステージ衣装? そうか。きっとどこかの事務所に所属しているモデルか何かなのね。
目利きの彼女達に服を手にとってもらえて、ヤスコは少し安心していた。今日は買ってくれないとしても、将来的には有望な客だと皮算用した。そのモデルらしき娘は当たり前のように試着室に入るとマイペースにゆっくりと着替え始めた。
一人取り残された方の子は、居心地悪そうにしていた別の子の方に歩み寄っていった。
「何か気に入ったもの見つかった?」
「うーんと、私にはちょっと高いかなって」
自分の選んだ商品の値段にケチをつけられるのはヤスコにとって愉快ではなかった。自分で良い物を選んで身を削るような価格設定をしているという自負があったからだ。それでもその地味な子が着ている服を考えると、そう言われるのも仕方がないように思われた。値札が彼女のような女の子を拒んでいるのではないかと、ヤスコは今まで考えてもみなかったことに想いを馳せた。そしてまた、この間に来店した長身の少女の事を思い出している自分に気がついた。
そんな沈んだ空気を割くように試着室のカーテンが開く音が聞こえた。
「お気にめしました?」というお決まりの文句には冷たい回答が待っていた。「……ごめんなさい。また今度にするね」と彼女は試着した服をヤスコに手渡した。一般的な体型に合わせて造られたその服が、彼女のボディラインを目立たせなくすることにヤスコは気がついた。それが気に入らないのだろう。久しぶりに来店した三人の客から自分の店の品揃えを否定されたヤスコは愕然とした思いだった。
彼女達は店から去ろうとしていた。
「待って!」
また、次の客を待てばよかった。だがヤスコは彼女達を引き止めずにいられなかった。そしてくたびれたオレンジの服を着た女の子を手招きした。
「その服、治してあげようか?」
「えっ? 治すって。私、今日はお金がないから……」
「いいの」
強引であったかもしれない。他の二人が退屈そうな表情を示しているのも感じとった。それでもヤスコは彼女の服を補修する布を見せて処置の内容を説明し、着替え用のパーカーをあてがい、黒ずんだ襟と袖に鋏を入れた。持ち主はさっきまで自分が着ていた服を裁断される様子を見て不安そうであった。それでも薄緑に模様が入った生地で新しい襟と袖が出来上がるのを見ると、彼女の表情は明るくなっていった。商品の仕入れや会計処理ばかりで暫くミシンを手掛けていなかったヤスコであったが、少女時代から培った長年の勘は衰えていなかった。生まれ変わった服を着た娘は、大げさすぎるお辞儀をしながらヤスコにお礼を言った。
彼女達が店を後にすると、ヤスコは自分が久しぶりに手にした鋏をまじまじと見つめた。ヤスコは茶色い斑点のような錆が付いたこの不恰好なこの鉄製の鋏を好んで使った。何かを切ろうとすると自然と手にしているものだ。もとは母親のものだった。裁縫道具を無断で借りては、自分のための服を造ったりしたし、何度か買ってきた服を改造して母親に怒られたりもした。店内には業務用の裁縫道具が揃っているにも関わらず、ヤスコが無意識に手にしたのはその洗練さに欠ける鋏であった。大人になった今でも自分にとってサイズが大きな鋏であったが、母親のように裁縫が上手くなりたいと思っていた彼女は、その大きな鋏を無理して使うことを自らに課し続けたのだ。それが癖になって、プロとして働く今でも使い続けているのだ。
ひとたび鋏に指を通したヤスコは、湧き上がるある欲求を抑えきれなくなっていた。倉庫に眠る生地を確認し、何年も使っていなかったスケッチブックを取り出してデッサンを始めた。紙の中の女性に着装させるのは、そう、彼女が普段着る事ができない女の子らしい服だ。アウトラインが固まっても、ヤスコは休まず筆を走らせた。彼女に相応しい色は何だろう? 威圧感を取り除くには……、明るい水色と淡いピンクを合わせてみよう。彼女の身長と足の長さならフリルスカートが効果的だ。正面が仕上げ、バックスタイルを描き、在庫にある生地を意識して着色した。気がつくと、閉店時間を過ぎていた。売上がない一日になってしまった。ヤスコは翌日から閉店後に自らデザインした服の制作に着手することにした。
生地を裁断しながら、ヤスコはこの服が誰にも買ってもらえないかも知れないという単純な事実に気付いた。それでもヤスコは止める事ができなかった。自分の気が済まなかった。かわいい服を着る純粋な女性の喜びを自分の職業として選んだつもりでいたのに、気がつけば日々の仕事に流されて算盤を弾くような生活に陥っていた。あの長身の娘とオレンジの娘は、自分が戒められるために遣わされたのだと、ヤスコは自分に信じ込ませようとした。そうして出来上がった大柄な服は、ヤスコの店の中央を陣取ることになった。客の誰もがその大柄な服に目を止めた。そして自分にはとても合うはずのないサイズであることを認めて、それから見向きもしなくなった。同業者からは客寄せとしては拙いのではないかと言われもした。それでもヤスコは待った。待ち続けた。そして数ヵ月後にその日はやってきた。
「ほああ……」
その長身に似合わぬ間の抜けた感嘆を漏らして、彼女はその服の前に立っていた。冷静を装うヤスコであったが、心の中は待ちわびた瞬間を迎えた興奮で高鳴っていた。
――待ってたわよ。
「試着なさいますか?」と言い終わらぬうちに、彼女はぶんぶんと首を縦に振り続けた。彼女にとっては狭いであろう試着室の中で、彼女はヤスコの渾身の一着に腕を通していた。
「ぴったり〜〜」
当然である。彼女のためにだけ造られた服なのだから。サイズだけではない。彼女の丸々とした顔と軽くソバージュのかかった髪に合わせるように幾重にもフリルが施されている。ヤスコは彼女に回転するよう促した。それは巨大なメリーのようだった。
「にゃはあああ」
嬉しさの余りか、よく分からない奇声を上げながら、彼女はヤスコに向かって突進していった。次に何が起きたのか暫く理解できなかった。店内をグルグルと回りながら見下ろすヤスコは、ようやく自分が彼女に持ち上げられて振り回されていることに気がついた。そして自分が赤面していることにも気がついた。自分が持ち上げられ振り回されることなど、彼氏にさえされたことがなかった。少女のようにヤスコは照れてしまっていた。
「ちょ、ちょっと」
「にいいいいいい!」
「降ろして! 降ろしてちょうだい!!」
つま先が地についたヤスコはそのまま座り込んでしまった。いったん呼吸を整え見上げると、彼女が手を伸ばしていた。
「ごめんね、つい……」
「い、いいのよ」
彼女の髪と服がゆっくりと元の位置に戻ってゆく様子を眺めながら、ヤスコは彼女の魅力に改めて気がついた。
――この子が大きいんじゃなくて、彼女が私達の世界を小さくしてしまうのね。私はガリバー旅行記に出てきた小人の仕立て屋さんってわけか。
まだヤスコは裁縫の腕は疼いていた。
「あなたの名前を縫ってあげるわ。なんていうの?」
「きらり。ひらがなで」
ヤスコは彼女の名前を裏地に縫い上げると、しっかりと御代を請求した。財布に入っていたぎりぎりの金額だった。彼女が着てきたオーバーオールを店の手提げ袋に入れてあげて手渡したが、彼女は笑顔を抑えきれないようだった。彼女が時折飛び跳ねて身を躍らせて去ってゆく姿をヤスコはずっと見守っていた。
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