Revolter's Blood Vol'06 第一章 〜正しさと、幻想と〜 |
<1>
ここはまさに『血の海』に等しき場所であった。
──王都グリフォン・ハート王城。
国が興されてから千余年もの間、政の中心に君臨し続けているこの場所は、貴族、豪族、閥族といった欲深き魑魅魍魎どもが日々、絶えず権謀術数をめぐらし、時には甘言、時には恫喝、時には直接的な暴力をもって政敵を陥れ、その血肉を食らい、そして啜り合う。
まさに『伏魔殿』とも称すべき愚者の宮殿であった。
そんな愚者どもが求め、夢見続けていたものが、ここにある。
──玉座。
迷路の如く入り組んだ城内の最奥に位置する謁見の間。そこにのみ存在する唯一にして無二の、神聖にして絢爛なる椅子。
それは代々より続く、王家の血を継ぐ者達によって守られ、或いは脅かされ、そして、その足元にて数多なる命が散らされた場所でもあった。
そう。玉座が存在するこの『謁見の間』こそがまさに伏魔殿と称される王城の中でも、最も過酷にして凄惨な地獄であるとも言えよう。
そして、足元の床に敷かれた毛の深き真紅の絨毯は、長き歴史の中で数多の者達が流した血を象徴しているかのよう。
足元の床に敷かれた毛の深き真紅の絨毯は、長き歴史の中で数多の者達が流した血を象徴しているかのよう。
──そんな、血の海の上に佇む一人の男がいた。
漆黒の甲冑に身を包んだ一人の武人。
この国の王家より要請を受け、その保護のため派遣された隣国ハイディス教国騎士団の長。
名はガルシアという。
大国の権力中枢に食い込んで莫大な利権にありつくことにより、貧しき母国の隆盛、その足掛かりとなるために送られた──言わば、金の尖兵とも称すべき人物の姿でもあった。
本来、権力に対し中立であるはずの騎士団が、東のラムイエ政権に対する不支持を表明し、西の聖騎士アリシアの側についた事により、王都をはじめとした周辺地域や集落の魔物に対する防衛力は低下の一途。東は、これらの防衛力を補うために派遣されたガルシアに対する依存度を強めていった。
謁見の間。その国における政の中枢、言わば、国の主体性の象徴とも言うべきこの場所に、外様の武人が単身で足を踏み入れる事が出来る──他国では決して考えられぬ異常事態が罷り通っている事。
これこそが『依存度』の存在、その証左であると言えよう。
黒騎士は正面を見据えた。
部屋の奥へと向かい、まっすぐと伸びる赤い絨毯。その先にある五段ほどの階段の上。
至高なる黄金の玉座を。
そこに腰をおろし、まるで自分を見下すような視線を投げかける一人の女性の姿を。
その名はラムイエ。
この国における仮の元首にして、大陸東部を支配する勢力の頂点に君臨する女であった。
ガルシアは、この眼前の女と相見える度、まるで化け物と対峙しているかのような緊張感を覚えていた。
──いや、本当に化け物なのかも知れぬ。
その根拠は以下の二つ。
第一に、傍目には十五、六に見えるであろうこの女は、この世に生を受けて三年にも満たぬ幼子であるということ。
彼女の叔母にして後見人である錬金術師アーシュラの術によって、彼女の肉体は加速的な生育が促されているのだという。
錬金術の素人に過ぎぬガルシアには、それが如何なる方法や理論による現象であるのかわからぬ。そして、それを聞こうにも、当のアーシュラが数ヶ月前に行方を眩ませており、その消息は杳として知れぬ。
第二に、その肉体が成人のそれに近くなるにつれ、強烈に帯び始めた気配。
それは王者に相応しき人間が纏う覇気めいたものであり、また同時に、高位の魔物や悪名高き妖術師の類が漂わせる妖気めいたものでもあった。
一言で譬えるならば──『魔性』
それ以外に、眼前の女を形容する言葉が見つからぬ。
黒騎士は、おのれの肉体に微かな戦慄が走るのを感じていた。
彼女ほど、足元に広がる『血の海』の上に立つに相応しい人物などいない──そう思い至ったが故に。
「──面白い余興だったわ」
不意に、空虚な室内に声が響き渡る。
それは人の心が弛緩する際に発せられる、虚飾なき言葉。
純然たる感情の吐露であった。
「かの孤島に建造された『施設』の中で絶えず繰り返される三種三様の責苦。それに苦しめられる弱者の姿。そして、それを娯楽として愉しむ事を覚えた愚者の姿──この国の人間というものが如何に下劣な存在であるという事が心底より理解ができ、極めて有意義な時間でありました」
「お言葉ですが、ラムイエ殿」
黒騎士の長は言った。
「あのプリシラという女が失態を犯した影響によりアリシア派の連中は相当に勢いづいている模様。首領のアリシアは明言こそ避けてはおりますが、西では民も兵も声を揃えて政権の討伐を強く求めているとの事。このままでは我々は──」
「──慌てずとも良いではありませんか?」
黄金の玉座より、小さく笑いがあがる。
黒騎士の姿を見下ろし、軽く馬鹿にするかのような。微かに悪意を込めた声が。
「戦というものは準備に時間のかかるもの。一時の世論に煽られ、いざ戦いを始めんとしたところで準備を終えた頃には、民衆の昂りなど収まってしまう。西の聖騎士が開戦を公言しないという事は、彼女がそのような無責任な煽りの類など無視している事に他ならぬ」
「即ち、アリシアは──」
「この王都の奪還戦。それに踏み出す時機を検討している最中といったところかしら? 開戦まで暫く時間がかかりそうね」
近い将来、必ずや戦が始まる──それを予期した発言であった。
黒騎士の表情が、一際厳しいものへと変じる。
「では、我々も準備を進めねばなりませぬ。その為には──」
「ええ。わかっているわ」
ラムイエは口元に微かな笑みを浮かべ、言った。
「勢力を更に東へと伸ばしましょう。極東に至るまで。そこに位置する我が国最大の鉱山都市──グリフォン・クロウまで」
「早急に願います」
ガルシアは恭しく頭を下げた。
「戦において武具に必要な資源の確保は極めて肝要であるが故に」
「それに、エジッド銀の発掘権──でしょう?」
「……」
頭を上げようとする途中、その動作が一瞬だけ止まる。
その瞬時の所作を、図星を差されたが故とラムイエは見抜いた。
そして、彼女は続けた。
「かつての『十年政権』時代、この国に空前の発展がもたらされたのは、グリフォン・クロウの鉱脈より僅かながら採掘する事ができたがため。今でこそ鉱床は枯れてしまったと『言われて』いるようですが、当時、これで財を築いた王都の貴族たちは、この採算の合わぬと思われる採掘に関する情報を悉く奪い去り、隠蔽し、一向に手放そうとはせぬ──何か、匂うと思わぬか?」
「──御意」
ここで、黒騎士はようやく顔を上げた。
得心めいた表情を、微かに浮かべて。
「私を呼んだのは──成程。そう言う事ですか」
「ええ。貴方達には、今一度働いて頂きたく思います」
幼き女王は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。
そして、最後にこう付け加えた。
「あの忌々しい、女聖騎士を追い出す力を得る為に──ね」
<2>
世界の各国には、他国では決して見られぬ習俗というものが幾つも存在している。
その例に漏れず、この国にも様々なそれが存在しており、その内の一つに方角に関する俗信というものがある。
例えば『東』──東には、政の中心である王都グリフォン・ハートを擁する東方地域が存在しており、それ故に、この国の民は東を『叡智の方角』と定めている。
王城には多種多様な学術書をはじめとした膨大な数の蔵書が管理されている区画があり、それを閲覧する為には、東方の学者の子弟になるのが近道であるとして、賢者の卵たる若者たちは挙って東へと向かっていったがゆえに。
そして『西』──国の最西端には最大の宗教都市である『聖都』グリフォン・テイルがあり、それ故に、この国の民は西を『聖なる方角』と定めている。
各地に点在する神殿の礼拝堂は必ず西向きに造られており、祭壇に向かえば自動的に西に向かって祈りを捧げられる構造となっている。
『南』──この国の南側には大いなる海原が広がっており、国内で食される様々な海産物は全て、この海からの恵みであり、また、外来の珍しい品や美しい工芸品も南部の海を経由してやってくる。
それ故、民は南を『富の方角』と定めており、国内に名を轟かせる主要な商会は皆、その本部を南海に面した都市に置き、商売の拠点として周辺地域に経済の恩恵を授けている。
そして『北』──
この国の北端には、天衝く険しき大山脈が東西に連なっており、それはまるで以北の地と隔てる壁の如く聳え立っていた。
厚き雲に隠れているが故、頂の姿を拝める事は極めて稀。運よく晴れ渡った日に眺め見れば、季節問わず純白の雪化粧の施された姿を垣間見る事ができよう。
これら極寒の地獄に等しき山々を超え、以北の地を目指さんとする命知らずは皆無。
それ故に人々は、これら『北』という方角を──未踏の地を酷く恐れるようになり、いつの間にか、北の山脈を越えた先には粗野な蛮族と魔物が支配する大帝国が存在すると言った根拠なき俗説が支配的となっており、余程の好事家でなければ、北の山々に近づこうとすらせぬ。
だが──これら北の山、麓の斜面に居を構える者が僅かながら存在していた。
この国の武勇を担う、騎士たちである。
騎士とは防人。北からの恐怖より民を守る──その意思を示すため、彼らは敢えて北の地を選ぶという。
そして、そんな騎士達が好んで居を構える街がある。
その街の名は、グリフォン・クラヴィス。
大陸中央部に位置する、巨大な商業都市。
エッセル湖の北に位置する湖岸にありながら、すぐ北には、大山脈が迫り出している。
街は湖と山脈の間にある僅かな平原の上に造られ、古来より東西の玄関口としての機能を果たし、今も尚、交易の中心として長きにわたり発展を遂げ続けていた。
豊かな土地ゆえ、街は繁華街から郊外に至るまで整備が行き届いており、その街並みは華やかにして美しい。
そんな街の姿と、その先に広がるエッセル湖を一望できる絶景が手に入るともなれば、騎士でなくとも北の高台に居を構えたがる物好きが現れるのが世の常。そんな道楽者が麓の斜面に家を建てれば、忽ちの内に道が整備されていった。
こうして、北の高台は街の中心部に次ぐ第二の高級邸宅街へと姿を変えていったのである。
そして、そんな北の山に建てられた多種多様な建造物のうち、一際目立つものがある。
それは城砦。
邸宅街の中で最も高い箇所に建てられし堅牢な小城であった。
外壁を構成する石垣は真新しく、経年による風化や劣化の類は然程見受けられぬ。
──十数年前、新たに建造された騎士団の活動拠点であった。
今や東の王都や周辺地域に替わり、経済の中心的役割を担うようになったエッセル湖周辺の街や集落には、仕事や商売の機会を求める者達が日々流入しはじめていったのである。
こういった人間の動きを魔物が目ざとく察したのだろう。街は度々魔物の襲撃を受けるようになった。
原因は増大していく人口であった。
無秩序に広がり続ける街の規模に対し、これらを防衛する騎士の人数や防衛施設が致命的に不足していた。
そう。この城砦は、そういった防衛力を補うために建造されたもの。主に北の山中に巣食う魔物から街を守る役割を担う、グリフォン・クラヴィス最大の防衛施設であった。
事実上の内戦状態にある現在、分裂した国の東西の境界線上に位置するこの小城は、西の勢力を担い、現政権に反旗を翻す騎士団にとって、魔物と東の勢力──二重の意味において最も枢要な最前線基地でもあった。
そんな枢要なる砦内の一室。強固な石壁と、見張り櫓による防衛が二重三重と張り巡らされている小城の最奥。
そこで繰り広げられたいたのは──戦であった。
その戦とは刀剣の類を用いる事もなければ、流血することもない。だが、戦う者らの神経や精神の磨り減らしていく様たるや、刀剣を用いたそれと同等。
戦場は二十人ほどが集いし一室。四方を石壁に囲まれた殺風景な室内に置かれている品は中央の大きな円卓と、それを囲むかのように置かれた人数分の椅子のみ。
彼らは二派に分かれて、互いを舌鋒鋭く論詰しあっていた。時には熱弁を振るい、時には冷淡に論を説きあうも、互いに一切譲ろうとはせぬ。
そう、戦とは論戦であった。
剣術に例えれば、それはまさに鍔迫り合いの如し。昼夜を忘れての白熱した議論は、今や並行線を辿る消耗戦の様相を呈していた。
会議の場は連日、この場にて設けられ、その度に識者や賢者、時によっては辺り一帯の商売人を取り仕切る商会の長までもが招集されていた。
論戦の題目は、この内戦を終結させるための手立てについて──言わば、東の勢力に対する武力による攻撃、その段取りについてであった。
二年前に王都で発生した政権簒奪劇による、前国王の暗殺と、ラムイエ政権の樹立。
国民が恐慌状態に陥るのを恐れ、積極的な介入を行わず、日和見を続けていた騎士団が一転、遂にこの不義の政権の打倒を目指さんとしていた。
切っ掛けは一か月前──西の騎士団に所属する一人の騎士が提出した、東のラムイエ政権に関する報告書にある。
その内容とは、大陸南東の孤島バスクにて密かに建造されていた『施設』に関するもの。
東の政権に反する思想を持つ者を捕えて幽閉し、様々な責苦を与えて抹殺、或いは洗脳を施す『施設』。そして、あろう事か政権と思想を同じくする者達に開放し、彼らが責苦を受けている様を娯楽として鑑賞させていたという事。その有様が実体験と共に克明に記されていた。
その『施設』の運営を任されていた人物こそ、かつては先王に仕え、そして二年前の一件の際、議会側に寝返り、今や現政権の中核を担う貴族の一人──プリシラ・サバス伯爵であるという事。
そう。その報告書とは、人道面における現政権の正当性に否を突きつける決定的なものであったのだ。
識者は、その報告書を執筆者の名を借りて、こう呼ぶ。
──『ウェルト報告書』と。
報告の内容は一般にも公表され、その内容が知られるや人々に絶大な衝撃を与え、それは大多数の──王家の権力争いに無関心であった者達にも波及するほどであった。
東の政権打倒を願う若者達の声は日増しに高まり、それは志を同じくする権威者に対する支持の声へと変じていった。
その権威者こそ──今、この場に居合わせる二派のうちの一つ。騎士団、そしてこれに同調する強硬派の貴族たちである。
そして、これに相対するは老齢の──穏健派の貴族達を中心とした一団。五十余年前に勃発した内戦の痛ましき記憶を有する者達である。
一団のうち誰もが西方の各議会における重鎮の座に君臨しており、斯様な身分、斯様な経験を経た者ゆえに、その言葉は極めて重く、逸り、猛る者達を諌めるには十分にして余りある迫力を有していた。
「貴殿らの言う通り、二年前の政権簒奪劇、そして『報告書』に記された『施設』の存在。これらを鑑みれば瞭然。東の政権は国益に反する悪しきものと断定できる。この点においては我々も気持ちは同じである。だが──対応は極めて慎重に慎重を重ねた上にて行うべきだ」
穏健派の主導者と思しき男が静かに口を開く。
真白く、豊かな口髭を蓄えた老人であった。
齢八十を超えると言われる彼の眼差しは穏やかでこそあるものの、声は威厳に溢れていた。その威圧的な声を発した刹那、議論が紛糾して喧々囂々たる場内は、まるで水を打ったかのように静まり返り、誰もがその言葉に耳を傾けていた。
「最終的には武力をもっての対応となろうが、今は民衆が『報告書』の存在を知って驚き、冷静さを失って声高に戦を求めているだけ。中には過激化・暴徒化し、自分達と意見を異とする者たち、戦を嫌う穏健的な市民らに対して暴力を振るう者も現れたという。これは言わば、熱病にかかった状態よ。そんな声に煽られ、軽々に東へと攻め入っては、失うものも甚大であると言えよう」
「かつてのように──そう、仰られるのですね?」
静まり返る場内に、凛とした声が鳴り響く。
強硬派が座する側でも、穏健派が座する側からでもなく、それは議会場の最奥より発せられた。
声の主は、室内の円卓より少し離れた場所に置かれた略式の玉座──そこに座するは、帯剣し、その身に髪の色と同じ白銀色に輝く鎧に身を包んだ銀色の髪の女。
その頭には冠の類はなく、その様は王というより騎士の如き姿。
だが、穏健派の老人は声の主たる女の方を向き、まるで主君に対するかのように恭しく首を垂れた。
そして、言った。
「──左様にございます。アリシア殿下」
アリシアと呼ばれた女は暫く黙り込み、その視線を老人の短い白髪へと向けていた。その頭の中で如何なる思考を巡らせているのか見透かそうとするかのように。
「戦とは、言わば物資の生産拠点たる市街の奪い合い。敵方の拠点を制圧するには市街そのものが戦場と化すことも多々ある。かつての戦における犠牲者の大半が、これら市街戦によって犠牲となった市民であると言われ、五十余年経った今も戦前の人口まで回復してはいないといった有様。かつての戦における決定的な失策の一つに、聖都奪還の勅命を重視する余り、民を蔑ろにしてしまった点にある」
語る彼女の表情は苦々しかった。
その凄惨なる戦の中心、騎士団を率いて聖都を奪還した者たちこそ、今や救国の英雄と称えられている二人の聖騎士──生まれたばかりのアリシアを保護し、今まで育ててくれた大恩ある人物であるがゆえに。
──だが、これが現実。歴史上における忌憚なき評価。
このような場でいくら屁理屈を並べたところで、簡単に覆る類のものではない。
今の彼女は、西の勢力の頂点に君臨する人間なのだ。
人の道を踏み外した東の政権を打倒し、王の座につかんとしている者たるや、このような非情な評を受け入れられぬようでは務まらぬ。
だからこそ、アリシアは言葉を飲み込んだ。
恩人に対する非情な評価、今は亡き英雄に対する辛辣な指摘──それに対する、無根拠な反論の言葉を。
押し黙る王女、苦々しげに口を紡ぐ聖騎士に向かい、威風の老獪は静かに語り掛ける。
「……戦が避けられぬ以上、犠牲はやむを得ぬ。避けられぬ事でございましょう。ですが、犠牲になる者にとっては『それ』が全てなのですから。だが、現実は戦を煽る者一人ひとりが、このような事を理解し、覚悟を決めている訳ではない。それ故に武力による衝突は時期尚早であると進言致す次第」
「では、如何なる基準をもって適切であると考え、貴殿らの賛同をいただけるのか?」
「無論、声を上げている若人ども──彼らがおのれの言葉、思想や信条に命を賭すほどの覚悟を持ち始めた時よ」
「即ち?」
「簡単な事」老人は即答した。
「彼らを民兵として徴募し、奴らが二つ返事で同意する事──これが一つの基準となろう」
「馬鹿な事を言うな!」
沈黙を守り続けた強硬派の貴族が声を上げた。
「戦は凄惨であると言ったのは貴殿ではないか。そのような場所に民を巻き込む事などできぬ!」
この発言を皮切りに、強硬派の貴族、騎士、兵卒の長より次々と非難の声が上がる。
「──そもそも、王都の奪還は国体の保持のための神聖なる戦。騎士のみで行うのが当然であろう!」
「そもそも、練度の低い民兵が我々と肩を並べて戦う事など出来るはずがない。貴殿は軍事的な知識が、致命的に欠落しているように見受けられるが?」
矢継ぎ早に浴びせられる非難。辛辣な言葉の箭。
だが、老人はそれを涼しい顔で聞き入っていた。
それを見たアリシアは直感するに至る。
やはり、この反応は既に想定済みか──と。
そして、それは正鵠を射た感性であった。
一頻り、荒々しき言葉の洗礼を受け、これらが途切れかけた絶妙な時機を見計らい、老人は静かに言葉を返した。
「やはり、五十年以上も平和の時代が続くと、武人の知能も劣化してしまうのだな。わかっておらぬのは──貴様らではないか?」
「──!」
この挑発めいた発言に、強硬派は一斉に色めき立った。
怒りの色を露わとする者が殆どであり、残りは無関心を装うか、或いは老人の発言を言うに事欠いての雑言と受け取り、したり顔になっていた。
だが、老人は至極冷静。沈着な面持ちで彼らの反論に応じた。
「事実、かつての内戦時、初期から中期において頻発した市街戦では、庶民は武装する事すら許されず、自主的な避難を行うか、おとなしく戦いに巻き込まれて死ぬ以外の選択肢は存在しなかった。にも関わらず、今や市民は自分が戦禍に巻き込まれる可能性を考えず、或いは自分だけは安全圏にいられ続けられるだろうという無根拠な信仰を基に、開戦を求め、東の政権の打倒を訴えているに過ぎぬ。ならば、無理矢理にでも戦場へと連れ出し、自分達が求めていた戦というものが如何なるものであるのか──山と築かれた屍、河の如き流れる血を見せつける事、これらの凄惨な光景こそおのれが発した無責任な発言の所為で引き起こされた事を自覚させる事こそが肝要であると言えよう」
「戦闘には参加させず、従軍させ──その結果を市民の言葉によって招いたものとして、その現実を見せつけるべきであると?」
「無論」
アリシアが問いかけ、老人が頷く。
「その行為こそが、この国の将来を担う若人達への教訓となろうぞ」
次いで、老人の後ろに控えていた別の穏健派の貴族が言を継いだ。
「──確かに戦とは騎士や兵士、傭兵が主体となって行われ、民の徴用は認められてはおりません。ですが、かつての内戦の折、市民らが中心となって結成した義勇兵を表面上『傭兵』として雇い、戦闘に参加させていた事実がございます。更に当時の記録によりますと、これら義勇兵の役割は、後方からの支援や、前線に参加した騎兵の身辺の世話が主──そう明記されております」
故に、現行法でも市民の徴用は十分に可能。
その貴族は、結論づけた。
「だが、その実は違う」
再び、老人が続けた。
「当時、義勇兵が支援を行ったのは内戦の後期。騎士団が西の聖都へと攻めあがらんとする本隊に対するものであった。だが、それは『支援』とは名ばかりの──まさに地獄の中を彷徨い歩くかの如き、凄惨な旅路であった」
老人は語る。昔話を。
おのれが過去──五十余年前、義勇軍として従軍していたころの痛ましき記憶を。
「かの戦いは──現在、語り継がれているような『聖戦』とは程遠い有様だった」
西の最果ての険しい山地を重厚な装備を纏いながらの行軍。
幾重にも配置された防衛拠点における、度重なる戦闘。激闘。
疲弊していく騎士の姿。
乱れる規律。
恐怖のあまり錯乱する兵士。
陣頭を指揮する、当時の騎士団副長や直下の幹部のような猛者を除いては、かような精神状態で正気を保ち続けられる者など皆無。
荒れ狂う武人たちの怒りの矛先は、戦闘員としての練度が低く、反撃される恐れのない義勇兵へと向けられた。
夜ごとに繰り返される理不尽な私刑と暴行──そこには、この国の武勇を担う防人、誉れ高き高潔な武人としての姿など、どこにもなかった。
昔話の最後に、老人はこう締めくくった。
「これこそが戦、その本当の姿なのだ」──と。
「だが、現在はどうだ? かつての内戦をまるで無謬性に富んだ聖戦の如く伝えられており、その為に多くの痛みを負った義勇兵の存在について語られる事は皆無。結果──戦とは騎士や貴族たちが勝手に先頭に立って行うもの。自分達には一切の影響が及ばぬもの。たとえ、命や生活が脅かされんとしても、何処からともなく英雄が現れ、窮地を救ってくれるものという考えが、民衆の間に広がるようになってしまった。だからこそ、彼らは声高に叫び、戦と流血を求めるのだ──まるで遊戯に等しき感覚でな」
「だからこそ、民兵としての徴募を行えと?」
馬鹿げている──そう言わんがばかりに、強硬派の一人が言い捨てた。
「無責任な発言に対する担保としてな」
だが、穏健派の者達は一切臆さぬ。
「当然、素人に前線で戦ってもらおうなどという魂胆は毛頭ない。ただ、後方からの支援、騎士や兵士の身辺の世話という名目で現場に立ち会わせ、現実を見せる事は有意義なはず。戦とは決して夢物語や伝承伝記の中にのみに登場する絵空事ではない。おのれの生活圏内と同じ現実──地続きである事。そして、これは民意という名の下、言わば自分達の声に応じて起こったという事を理解させねばならぬ」
老人は続けた。
「故に問いかけるといい──おのれの発した強き言葉に自らが命を賭して従う覚悟があるのかを。この国の未来を担う若者たちが安全圏に身を置いて我儘をのたまうだけの愚劣な存在なのか? 或いは、自らが英雄となって、未来を切り開く事の出来る勇者たちなのか? 確かめてみようではないか。果たして如何程の者達が、その手に剣を、槍を持って戦線に参ずる覚悟を秘めし者達がいるのかをな」
穏健派の領袖は最後にこう付け加えた。
その程度の覚悟すらない臆病者如きの口より、どうして戦というものを語られる資格などあろうか、と。
そして、そんな民の上に立つ貴殿らが、どうして戦というものを始められようかと。
この声に応じ、穏健派の老貴族たちが口々に持論を展開する。
「これより行われる戦は、かつてのような勅命によるものではない。即ち、誰かに全責任を負わせるという逃げ道すら許されぬ、言わば西方の民による政治的観念によるものなのだから。それを基に戦に賛同するというのならば、その者が如何なる出自であろうが責は平等に背負うが筋」
「武力、金、そして戦後の処理にかかる、ありとあらゆる労力を厭わぬ覚悟なくば、国の平定など不可能なばかりか、その前の戦にすら勝てるかどうかも怪しいもの。それが出来ぬのならば、速やかに東西の境界線を策定し、第二の国として独立したほうが良い。それが貴殿らや民のためよ」
そう。彼ら穏健派の本懐とは慎重論。独立という形を用いて、東の政権と正式に袂を分かつ事にあった。
今、肝要なのは東西の武力衝突が、いつ勃発するのか、或いは回避されるのか──白黒つかぬ事に対する民の不安。これを取り除く事。
それが、主張の根底であろうと思われた。
先刻からの『民兵の徴用』という無理難題は──言わば、この主張へと繋げるための『誘導』。
一度、極論を展開し、そこを起点として様々な案を提示し、模索させ、そして、結論を意のままに操る。
──議論の初歩的手法。使い古された技法である。
だが、穏健派の者達はみな老練なる弁士。長きにわたる経験に裏打ちされた技術によって、それは忽ちの内に堅固なる言論の盾へと昇華させていた。
対する強硬派の者達は、殆どが若く、血気盛んなだけの武人、及び、これに同調する貴族のみといった有様。
最初の猛然たる勢いは既になく、穏健派の掲げた強固なる盾の前に、誰もが言葉を失っていた。
──流石、手強いな。
事の成り行きを終始、玉座に座して聞いていたアリシアは騎士団の敗北を察した。
だが、これは最初からわかっていた結末でもあった。
それだけ、五十余年前の内戦というものが如何に凄惨なものであり、その記憶を有する老年齢層の者達の納得など到底得る事はできぬであろう、と。
無論、アリシアとて無為に血を流す事などしたくはない。
かつて『聖戦』とまで言われていた過去の戦、それに対する批判や総括が出始め、『聖都奪還を命じた当時の王家の判断は早計』という論が支配的になりつつある昨今、再び武力の行使を決断するのは困難。
だが『ウェルト報告書』が公開され、東の政権による非人道的な所業が明らかとなった今、悠長に構える訳にはいかぬ。
あの孤島バスクの『施設』が政権下で運営されていたという事実がある以上、ラムイエ政権が民の権利というものを極めて軽視しているという事に他ならない。
彼らの悪政は必ずや東の民を蝕む事だろう。最悪の場合、第二、第三の『施設』が造られ、人々を再び苦しめ始めるのかも知れない。
一日も早く、王都をラムイエの呪縛より解放せねばならぬ。
東の民のうち一部の者は、厳格な──言い換えれば、潔癖で清濁併せ呑む事を知らぬアリシアを嫌い、流れていった者も多い。
だが、それでも助けねばならない。彼らごと。
今や敵対する政権の支配下に置かれている彼らもまた、本来は自分の臣民であるのだから。
その為には西方地域の重鎮である穏健派を説得し、取り込まなければならない。
だが、現実はこの体たらく。前途は多難であると言えよう。
アリシアはそっと、ある方向に視線を向ける。
それは強硬派の者達がいる席。屈強な武人らが居並ぶ列座の片隅、目立たぬように座する一人の少女へと。
僧衣を纏った黒髪の少女──セリアであった。
アリシアの視線に気づいたセリアは一度頷いた後、静かに席を立ち、歩き出した。
再び論戦を挑まんとする隣人を横目にして。会議場の出口に向かい──目立たぬように。
目の端でそれを見届け終えたアリシアは勢いよく立ち上がり、声を荒げた。
「もうよい! これ以上、議論を続けたとしても、建設的な結論など出はせぬ! この話は騎士団側が新たな説得の材料を用意でき次第、新たに議論の場を設けるとする!」
「しかし、アリシア殿下!」
その言葉に当の騎士団側が驚きの声を上げた。
アリシアは西側勢力の頂点であると同時に『聖騎士』の称号を戴く正規の騎士でもある。
言わば、騎士団側の人物であると言えよう。
そんなアリシアが、事もあろうか騎士団側の発言を制し、議論の打ち切りを宣言したのであった。
この仕打ちに、騎士団の代表者らはアリシアに食い下がる。
「『報告書』の公開により、東への進攻を支持する声が高まりつつあります。民の声を無視されるおつもりか?」
「勢いだけで押し切れるほど論戦とは甘いものではない。道理に沿い、論を組み立ててから出直せと言っている!」
だが、アリシアも臆さず、一喝のもとで反論を封じた。
騎士団側に属するアリシアが止めねばならぬほど、騎士団の主張・論旨は、勢い任せの感情論に頼った──あまりにも稚拙なもの。
故に、一度反論を許せば、相手の論調に嵌められてしまう。
まるで我儘な子供を厳しく諭す大人めいた様相。
騎士とは所詮武人である。戦場や魔物からの防衛が本来の役目ゆえ、このような場には慣れぬのは道理。
だが、それを差し引いても、今日の議論は、あまりにも酷い──正視に値せぬ有様であったのだ。
「それよりも、我々にはもう一つ──解決せねばならぬ問題があるではないか。それの解決を優先させる。その間に騎士団はしっかりと襟を正し、しっかりとした論をもって主張する体制を整えるように」
そう言うと、彼女は小さく溜息を吐いた。
「また、あの男に頼らねばならぬのか。いまだ傷の癒え切れぬ、あの男に──」
そして、誰にも聞こえぬ小さな声で呟いた。
「──情けない話よ」
<3>
怒号飛び交う砦より然程離れてはいない──グリフォン・クラヴィス北の、同じ山の麓。
高級邸宅街に居を構える一件の邸宅。その南側に広がる庭。
眼下に広がるは、グリフォン・クラヴィスの美しい街並みとエッセル湖の輝かしい水面。
まさに絶景。庶民にとって垂涎の場所であった。
そんな、誰もが羨むこの場所、柔らかい芝生の上に堂々と横たわり、降り注ぐ暖かき陽光を浴び、両腕両脚を伸ばしては寝息を立てている一人の青年がいた。
この世の天国を、謳歌せんと言わんがばかりに。
年の頃は二十前後。少年の面影を残す黒髪の青年であった。
体つきこそ細身ではあれども、全身の筋肉は引き締まっており、その様は服の上からも十分見受けられる。
しかし、衣服の隙間より覗く肌には白く無数の傷跡が刻まれており、その境遇の不遇さを窺い知る事が出来た。
青年とは、ウェルトであった。
この邸宅はグリフォン・クラヴィスにおけるアリシアの別邸。そして同時に、アリシアの身辺警護を務める彼とセリアの詰所と生活の場を兼ねた場所でもあった。
今頃、主たるアリシアは会議の最中。公式の場に出ているがゆえ、彼女の身辺警護を務める彼もまた同行せねばならぬ筈である。
だが、普段の素行ゆえか、彼は貴人や要人の集う議会の場への出入り禁止を言い渡されており、それが今まで明確な所属を持たぬウェルトに『特別警護隊』なる新設部隊への編入を認める交換条件ともなっていた。
王家の血を引き、かつ西方勢力の頂点に立つアリシアには無論、彼女の身辺を警護する部隊というものが既に存在している。
ウェルトの属しているこの『特別警護隊』とは、名前こそ仰々しいものの隊員はウェルトとセリアの二名のみ。そして、この隊に与えられし役目など無に等しく、他部隊に対する短期間の応援や人員調整、小間使いに使われるのが精々。
そう。言わば閑職のようなものであった。
国の東西分裂が現実となりつつある今、アリシアは要人との面会や、会議への出席など多忙な毎日を過ごしているとは裏腹に、ウェルトは暇を持て余す毎日を過ごしていた。
そんな惰眠を貪るウェルトの顔に、黒い影が差す。
同時に、彼の嗅覚を刺激する、甘い香り。
この急なる変化に不審を覚えたのか、ウェルトは意識を覚醒させた。そして、この影の原因となった──目の前に立つ、腰に手を当てた黒髪の少女の姿を視認する。
「セリア……か」
上半身を起こし、大きな欠伸をしたウェルトは、その視線をセリアと呼ばれた少女へと向けた。
だが、その目は寝ぼけ眼。普段の炎の如き覇気は一切感じられぬ。
「また怠けてお昼寝ですか……と言いたいところですが」
言いかけ、セリアは軽く溜息を吐いた。
「ウェルトさんは公式の場への出入りは禁じられていましたね」
「おかげで退屈さ」
そう言うと、ようやくウェルトは立ち上がり、ズボンに付着した土や草を手で払う。そして、大きく伸びをしながら彼は少し抜けたような声でセリアに問うた。
「それで……会議の様子はどうだった?」
促された刹那、セリアの表情は少しだけ暗くなった。
「──やはり穏健派は、武力の行使には消極的なようです」
そして、ゆっくりと──まるで言葉を選んでいるかのように彼女は語り出した。
「折角ウェルトさんがまとめてくれた『施設』に関する報告書も、公開の結果高まった世論も、一時の熱病のようなものと切って捨てただけではなく、開戦を求める若年者層の声を無責任な発言とし、その担保として彼らの徴用を求めてきました。彼らがそれ応じる程、自分の言葉に責任を持つ覚悟があると証明できなければ、武力行使には賛成できないと」
セリアの口調は重い。
「それに対し、『施設』の存在を知り、東の政権の有様を垣間見てしまった以上、これ以上の犠牲者を出さないためにも、一日も早くラムイエを打倒しなければ──というのが騎士団の主張です。ですが、彼らも彼らで、東の政権に対する武力での打倒ばかりを主張するばかりで、他の案には耳を貸さぬ有様。その上、発せられるは感情的な主張ばかりで説得力に乏しく、穏健派を説得できるほどのものではありません。以降、議論は平行線のまま──暫く進展は見られないものと思われます」
そう言い、尼僧は溜息を吐いた。
「私も可能ならば武力衝突なんて避けるべきだとは思います──とは言え、一度方針が決まりさえすれば、我々も覚悟の決め様もあるというものですが、こうやって何の結論も出ずに無為に時間が流れるというのは、やはり見ていて歯痒いものです。恐らくそれはアリシアさんも同じ気持ちだと思いますが……」
そんな重々しいセリアの様子とは異なり、報を聞いたウェルトの反応たるや、まさに平然としたものであった。
あろう事か彼は、まるで納得したかのように頷いて見せ──
そして、こう言った。
「──なるほど。レオン議員らしい発言だね」
「レオン議員?」
「来ていたんだろう? 穏健派の先頭に立っていた御老体が」
「──え?」
この青年の言葉に、流石のセリアも驚き、素っ頓狂な声をあげた。
「お知り合いなのですか?」
ウェルトは即座に頷いた。
「ああ。子供の頃に何度か──生前の祖父母上様とは長い知己の間柄だったみたいでね。先の内戦末期、西方の市民らによって結成されたソレイアに対する抵抗組織の主導者を務めていて、その折に知り合ったとか。その後、義勇軍として聖都奪還の戦に名目上は傭兵、実質上は民兵として参加したのだそうだ」
「では、あの発言は──」
「多分、レオン議員の実体験のはずさ。かつて祖父母上様が指揮を執っていた分隊ではなく、本隊に従軍していた際のね。そんな経験を経た人からすれば、今の状況に辛辣な意見を言いたくなるのは当然の事。かつては命を捨てる覚悟で立ち上がり、戦いに臨んでは多くの仲間を失い、そして自分も命を落としかけた。そうまでしないと故郷を取り戻す事はできなかったし、平和な世の中を手に入れる事も出来なかったんだからね。一般の庶民が──だ」
そして、ウェルトは続ける。
だが、今はどうかな?──と。
「今まで僕は剣で色々なものを殺めて来た。セリアを迫害していた大聖堂の僧兵たち、そして『区画』の人達を迫害していた市民に至るまでね。僕はね、そんな彼らと──開戦を求め、声をあげている人達と大きく重なる点があると感じている」
この意味深長な物言いにセリアは興味を覚えた。
「重なる点……ですか?」
その感情の赴くまま、尼僧は若き騎士を促す。
促されるまま、ウェルトは答えた。
「──『遊び半分』なのさ。その証拠に、彼らは皆、何が起ころうとも『自分は大丈夫』と無根拠に信じてやがる。だからこそ、あいつらの言葉は全く心に響かない」
だが、その口ぶりは──まるで悪態をつくかのような。忌々しげな言葉を吐き捨てるかのようだった。
「如何に異なる考え。たとえ、第三者的な視点で見ても悪と判断できるものであったとしても、やむ得ぬ事情があり、その上で、自分の矜持に則り、責任や覚悟の上で行動に出ているのならば、同調こそ出来なくとも、一定の理解はできるはず──だが、彼らには、その『真剣さ』が足りないんだよね」
「そう……ですね」
セリアは天を仰ぎ、短い祈りの言葉を捧げた。
「確かに、東の政権の所業を許す事はできません。これ以上、苦しむ人を出さぬ為にも一日も早く、ラムイエの一派を政権の座より放逐する事、それを求めて声を上げる事は正しいのかも知れません。ですが──」
彼女は理解をしていた。
長く、辛苦に満ちた逃避行の中で。
正しさを貫くには力がいるという事を。
時には犠牲を、時には責任が伴うという事を。
「自らの言葉──その重みを背負う覚悟がなければ、如何なる正論も空理空論に等しいのではないでしょうか?」
「その通りさ」
ウェルトは首肯した。
「……東との戦いを支持している僕ですらそう思うのだから、慎重論者のレオン議員にはより一層、彼らの軽薄さが目に映ったのだろう。たとえこの内戦を終結させたとしても、近い将来、この国は必ず同じ過ちを繰り返すだろうさ。責任なき主義主張、娯楽としての弱者への嗜虐──次の内戦へと至る、深刻な火種をばら撒き続けるに違いない。そんな馬鹿な事を繰り返させないためにも、一人ひとりが真剣に考え、結論を出して欲しかったのだけど」
「ですが、騎士団は魔物をはじめとした外敵から人々を守る為に組織された者達です」
セリアが神妙な面持ちで問うた。
「如何なる理由があるとはいえ、民が望むのならば、東の政権打倒の為に戦わねばならないのではありませんか?」
「だからさ」
ウェルトは答えた。
真摯な眼差しを尼僧へ向け、そして付け加えた。
「確かに『正しさ』は僕達の側にあるだろう──だけど、正しさ『だけ』で勝てる訳じゃない」
「──負けるかも知れない?」
セリアは心配そうにウェルトの顔を見つめた。
彼は一瞬、苦悩に満ちた表情を見せ、そして頷いた。
「今の状態で戦いに臨めば、多分ね。それだけ東の連中は──ハイディス教国の騎士団は強いよ」
それにはセリアも納得せざるを得なかった。
この国より海を挟み、隣に位置するハイディス教国は国土の大部分が険しい山岳地帯で構成されているがゆえに土地が貧しく、国民皆兵制を敷き、傭兵業による資金で糊口を凌いでいる現状にあるという。
そのような貧国の者達が、富国であるこの国の中枢部へと入り込む事に成功している。言わば、祖国発展の悲願──その足掛かりを得たも同然であるのだ。
悲願を成就させんと、誰もが躍起に、必死になっている。
まるで餓えに餓えた果てに、丸々と肥えた獲物を目にした肉食獣のように。
「僕達のような武人は楽なものさ。敗北し、捕えられたとしても、少し嫌な思いした後で首を切られて終わるだけだからね。悲惨なのは残された民衆たちさ。敗北した勢力下の民として、人間としての尊厳すら蹂躙され、死ぬまで搾取され続けるのだからね」
そして、ウェルトは言った。
自分の生活を脅かされるのかも知れない──そんな選択を『遊び半分』で行って良いのだろうか、と。
「では──」
「だから僕は『命懸け』であの報告書を作り上げた。今、自分達の目の前に存在する脅威、そのありのままの姿をね。そして、その脅威に挑むか否かを真剣に考え、応えて欲しかった。でも、それが出来ないというのならば……」
「出来ないのならば?」
「──弱者を守る騎士として、覚悟なき彼らを脅威に晒す事はできない。その為ならば僕たちは喜んで『正しさ』を曲げよう。そして、喜んで臆病者の誹りを受けよう」
「ウェルトさん……」
セリアは心配そうにウェルトの顔を見つめた。
彼の苦悩に満ちた表情が、尼僧の胸を締め付ける。
「──これからどうするのですか?」
「穏健派の主張通り、国を東西に分割させて統治という流れになるだろうから、まずはアリシアを西の王としての基盤を確立させるために動こうと考えている」
「そうですね」
セリアが小さく頷く、丁度その時だった──
「──それで、お前は本当に良いのか?」
口惜しげな表情を浮かべる二人に向かい、不意に声がかけられた。
老いた男の声。穏やかでこそあったが、どこか覇気めいた色彩を帯びた肉声であった。
二人は驚いて、声のした方を向く。
見れば、そこには一人の老人が立っていた。
「爺さん──」
ウェルトは慣れた様子で言った。
翁はアリシア側近の一人。以前、バスク島に捕えられたウェルトを救助する際、カルサンドラに駐留する騎士隊を率いてアリシアに同行し、退路を確保する為に獅子奮迅の活躍を見せた功労者。
聞けば、聖都騎士隊に所属していた元騎士であったという。かつては王都騎士隊に匹敵するほどの戦力を有していた騎士隊の全盛期を支えていた人物となれば、その実力は推して知るべしと言えよう。
「怪我の具合は如何かと思って見舞いに来てみたのだが、さすが若者と言うべきか、回復が早いな」
「ああ、お陰様でね。魔物討伐ができる程度には回復をしたよ」
「それは結構。お前にはまだまだ暴れてもらわんとな。東の政権を相手にな」
「そうは言いますが」と、セリア。
「私も会議の様子を拝見しておりましたが、穏健派の方々の理解を得られているようには見えませんでした。あの様子ですと東への進攻は夢のまた夢のように思われますが……」
「──確かにな。だが、だからと言って東の脅威を看過するわけにはいかぬ。可能な限り然るべき準備は進めておかねばならぬ」
この翁の発言に、ウェルトは一瞬──顔色を変えた。
そして、彼はその一瞬の変化を悟らせぬよう、まるで取り繕うかのように質問を投げかけた。
「然るべき準備?」
「確かに現状、様々な理由により、こちら側から攻撃に出る事は困難であろう。だが、防衛の手段は確実に構築しておかねばならぬ。しかし、今の状況で戦が始まったら、我々は苦戦を避けられぬ可能性が極めて高い──それは何故かわかるか?」
突然の問いであった。軍事の素人たるセリアは、皆目見当がつかぬと言わんがばかりに首を横に振るのみ。
「──東は国内最多の人口、多くの有力貴族が拠点としている王都と周辺地域を擁し、西はこのエッセル湖畔の商業地域を抱えているがゆえ、経済面・軍資金面においては互角」
反面、騎士としての教養があるウェルトは思考を巡らせ、おのれの脳の内に蓄積された知識より、問いに解くに必要な事項を選択しはじめた。
「戦力面においては──我々は騎士団の全てを擁してこそいるが、東も東でラムイエ政権を構成する議会の連中が抱える私兵団、そして何よりも権力の中枢に入り込んでいるハイディス教国から送り込まれ、その戦力は未知数。以前、ハイディス教国本国との中継地も兼ねていたバスク島を制圧したけど、大陸の周辺には幾つもの島が点在している以上、奴らは間違いなく、それらに同様の中継地を幾つも作っているはず。国民皆兵の制度があるハイディスがその気を起こせば、いくらでも東に戦力を送り込む事もできる。万一の際、この戦力差を埋めるには本格的な民兵の徴用も考慮しなければならないだろうね」
セリアの表情が暗く沈む。
「レオン議員が示唆したのは道理だったという訳ですね」
「だからこそ、相手方の戦力が整う前に攻勢をかけたかったのだけどね」と、ウェルト。
「問題は人数的な戦力だけじゃない。決定的に不利な条件がまだ別に存在しているのさ。それは戦の為に必須なものであり、同時に生活の道具にも用いられる大事な資源に関する条件がね」
「不利な条件? 西側の我々にとって不利……」
騎士に促され、尼僧は再び思考を巡らせた。
だが、ここまで手掛かりを明かされて答えを導き出せぬほど、彼女は疎くはなかった。
「──!」
程なくして、彼女は然るべき答えに至る。
「鉄……ですか」
「──ご名答だ。司教セティの御養女殿」
翁が満足げに頷く。
「我が国には上質で豊富な鉱山資源を有しているものの、主だった生産地の殆どが大陸の東側に偏っている。それによる採掘権の殆どが王都の貴族達によって管理されており、安定した供給が約束されている。それに対し、我々西側におけるこれらの生産量たるや、東のそれと比べまさに雲泥の差と称すべき有様。消費されている鉄の半分近くが諸外国からの購入に頼っているのが現状よ」
「その諸外国の連中も、この国が近く内戦による武力衝突を始めるんじゃないかと感づいたようでね。最近、その鉄の値段を吊り上げてきやがった。いくらエッセル湖の水運事業が順調で、騎士団の資金源になっているとはいえ、鉄が暴騰すれば、それだって枯渇するかも知れない」
ウェルトが言を継ぐ。
「問題は金だけじゃない。諸外国からの運搬経路は当然海路のみ。何の因果かはわからないが、ここ二年ほど大陸南西端・港町エルナス周辺海域の天候が安定しないらしい。運が悪ければ、鉄の供給が望めない可能性がある」
「東に劣るとはいえ、西側にも鉄鉱山はあるのですよね? 人を増やして生産力を上げる事はできないのですか?」
そんな尼僧の疑問に、翁は即答をもって応じた。
「無論、以前より対応はしている。だが、そんな最中、大きな問題が発生したのだ」
「──問題?」
「うむ」白髭を揺らし、僅かに頷いた。
「それらの鉱山で採掘される鉄の質が次第に劣化してきているという報告を受けたのだ」
「おいおい」と、ウェルト。
「全部、掘り尽くしちまったってのかよ?」
「わからぬ」
「わからないって──どういう事だよ?」
不甲斐ない返答ばかりを繰り返す老人の態度に少しだけ苛立ったのだろうか、騎士の眼光が僅かに鋭くなった。
「いくらこの国が東西分裂の危機にあるとはいえ、地質に明るい学者の一人や二人送り込むくらい造作もないはず。今の騎士団が腑抜けになりつつあるとはいえ、その程度の対応策すら思いつかないという事はないだろう?」
「当然、人を送り込んだ」
ウェルトの辛辣な反応を察したのか、翁も少し苛立ちを見せた。
「だが、送り込んだものの一切の音沙汰がない。故に、我々は奇妙に感じておる」
「鉱山の奥から魔物でも涌いてしまったのでしょうか?」
そうセリアが疑問の言葉を口にした刹那、ウェルトはなるほど、と言わんがばかりに頷いた。
「──即ち、僕とセリアにその原因を探って来い、って事かい?」
「病み上がりの貴様には丁度いい肩慣らしだろう?」
げんなりとした表情を見せる青年を見て、老獪は愉快そうに笑う。
「閑職も同然な貴様らに仕事をもってきてやったのだ。感謝してほしいものだがな」
「──ふん」
青年は不愉快そうに鼻を鳴らした。文句の一つも言わずに。
普段のウェルトならば、歯に衣着せぬ言動で不平不満をぶつけていた事だろう。
だが、彼はそれをしなかった──いや、出来なかった理由が存在していたのである。
その理由とは『保護』。
バスク島の『施設』へと単身乗り込み、その全容を明らかとしたウェルトに対する『保護』であった。
発端こそ、旧知の間柄にあった少女シンシアの仇討ちの為であった。結果論とは言え、この彼の行動により『施設』の存在と、そこで行われていた非人道的な行いの全てが明らかとなり、事実、彼がまとめた『ウェルト報告書』は世論を動かし、東の政権を倒すべしという機運を高める結果へと至ったのである。
そして、それは東への進攻を強く推し進める騎士団にとって確実な追い風となっており、西方地域における騎士団の支持基盤は極めて強固なものとなっていた。
だが、規律を重んずる騎士団にとって、独断に基づいた行動に出たウェルトの功績を表立って認める訳にもいかぬ。とは言え、東の政権が工作活動に長けたハイディス教国の協力を得ている以上、彼自身もまた生命の危機に晒されぬとは限らぬ。
ウェルトが今置かれている立場は、そのような事情ゆえの処遇であり、故に彼は文句が言えなかったのだ。
自分に万一の事があれば、最も悲しむのはセリアであり、そして──アリシアでもあるのだから。
「──それで、私たち二人はどこへ送り込まれるのですか?」
押し黙るウェルトに替わり、セリアが問う。
「西側に鉱山が少ないとは言え、私達二人で調べ切れるほどではないでしょう。送り込まれた学者の行方が不明となった辺りに狙いを絞るという事になるかと思われますが……」
「ある程度、当たりをつけているそうだがね」と、翁。「その当たりをつけている所というのは、近年、発掘が始まった北の山の坑道が集中している一帯。規模が大きいため、坑道一つにつき一つの隊を割り当て、計数隊の捜索隊を組織して事に当たる事にした。その隊のうち一つを担当してもらう訳だ」
「なるほど」
ウェルトが気に食わないと言わんがばかりに、表情に不満の色彩を浮かび上がらせた。
「東との戦いの準備も進めねばならない以上、徒に人員も割けない──おおかた、僕達二人はその数合わせといったところかい?」
「半分は正解だ」
「──半分?」
二人の声が同調し、声の主らは僅かに目を瞠った。
そんな素っ頓狂な様子を見て、翁は小気味よさそうな笑みを浮かべた。
そして、言った。
「ああ。間違っていたのは人数──お前達二人であるという点だ。坑道一つの調査となると、二人では心許なかろう」
「だけど、この隊の隊長は僕だ。以前、騎士団の小隊一つを使い潰してしまった僕に従おうなんて変人がいるとでも言うのかい?」
「いる」翁は頷き、即答した。
「貴様と同行させるに、最も適した変人が一人──な」
「へぇ」
その言葉に流石のウェルトも興味を抱いた。
思わず身を乗り出し、更に問うた。
「で、誰なんだい?」
翁は不敵な笑みを浮かべて頷いた。まるで、その言葉を待っていたと言わんがばかりに。
老獪は若き二人を促し、こう言った。
「では、今からその者のもとへと案内しよう。ついてくるといい」
<4>
静かに腰を下ろしている女がいる。
暗く狭い室内。彼女は一切の声も発さず、座した姿勢のまま微動だにもしなかった。
彼女が腰を下ろしているのは、粗末な寝台。部屋の隅には、これもまた粗末な木製の卓が置かれているのみ。
そして、室内を囲う四方の壁の一つは鉄製の格子。その先にあるのは同様の設備が置かれた空の牢。
ここは王都グリフォン・ハート。
王城地下深くにある牢であった。
王城地下には、このように罪人を刑罰に服させる施設が幾階層にもわたって備えられており、その中の最下層に位置するこの階は、凶悪な罪人を幽閉しておくための特別な場所であった。
それ故に、房と房の間の通路には、短剣と胴鎧で武装した看守が絶えず行き来していた。
看守はみな、その手に松明やランタンなどの照明器具を携え、囚人のいる独房の前を通る度それを翳しては、中に異常が発生してはいないか確認を怠らぬ。
かつて、ここはグリフォン・アイにて勃発した暴動の参加者らが捕えられていた。だが、釈放の命が下されたのか、ある日を境に彼らは一斉に此処を後にしており、残ったのは、この女を含めて数名しかおらぬ。
暗闇と静寂、そして、日に三度の訪れる食事番と一時間程度の間隔で訪れる看守たち──彼らの足音と姿。
これが今、この場を支配する全てであった。
そう、昨日までは。
王都王城の地下に変化がもたらされたのは朝──番の者が食事を届けて以来、看守が一度も巡回に訪れなかったのである。
代わりに、女の聴覚を刺激しているのは遠くからの騒めき声。
声の主は──恐らく看守たちであろう。
それより暫く経ったであろうか。
いつもより多くの足音が向かってくる。多数から成る人の気配を伴って。
女は厳しい眼差しで格子の向こうの光景を見遣る。
やがて、女が幽閉されている房の前に七人からなる一団が訪れ、そこで立ち止まった。その中の一人、中央に立つ男が手にしたランタンを翳すと、闇に沈んでいた女の姿──その詳細が晒された。
ランタンの炎に照らされ、現れたのは中年の女であった。
長い間、この独房に幽閉されているがためか肌は青白く、体こそ痩せこけてはいたものの、その双眸には歴戦の武人の如き雄々しき光を湛え、まるで槍の穂先の如き視線を投げかけていた。
元は家柄の良い貴婦人であったのだろうか。囚われの身であれども、その気品までは失われてはいなかった。
「──これはこれは」
女は声を発した。口元に不敵な笑みすら浮かべて。
「ハイディス教国騎士団の団長様ではありませんか? それとも、前王の娘ラムイエを傀儡として東半分の実権を掌握した『やり手』のガルシア将軍様とでもお呼び致しましょうか?」
挑戦的な口調であった。このふてぶてしい態度に、一団の一部が色めき立った。だが、中央に立つガルシアと呼ばれた男がそれを察して手で軽く制すると、彼らの動揺は瞬く間に収まった。
再び、闇の世界に訪れる静寂。一呼吸ほどの時間を置き、中央の男が口を開いた。
「数ヶ月もの間、こんな心寂しき場所に幽閉されていても、なお気丈に振る舞われるとは流石ですな──クラウザー家当主夫人、シェイリ・クラウザー」
独房の中に居た女とはウェルトの母シェイリであり、そして、彼女の前に現れた一団こそ、ガルシア率いるハイディス教国騎士団の者達であった。
「──で、そのガルシア将軍自ら、私に何の御用ですか? 生憎、今の住まいがこのような場所ゆえ、茶の一つもお出しすることすら叶いませぬが」
「単刀直入に聞く」
飄々とした様相で言葉を紡ぐシェイリをガルシアが遮った。
その只ならぬ雰囲気に何かを察したのか、シェイリはこれ以上の発言を止めた。
彼女は、次に発せられる言葉を静かに待つ。
そして、それは程なくしてもたらされた。
「十三年前──貴様の父が王位を代行していた『十年政権』時代末期に閉山した、グリフォン・クロウ鉱山地帯最東端にある鉱山に関する情報を求める」
「……」
この問いを聞いた刹那、シェイリの視線は値踏みするかのようなものへと変じた。
だが、それも一瞬の事。彼女はその顔に平静の仮面を装った。
「──何の事かしら? その頃は、子育てに手を焼いていた時代。幼子を抱える母親が、そのような政治の世界にまで手を伸ばせるはずがありません」
「とぼけても無駄だ。この国には周辺諸国でも類を見ぬエジッド銀の大鉱脈が存在している──それを貴殿が知らぬはずがあるまい? 当時、採掘を行っていた政権、その中枢に存在していた貴人の娘であろう貴殿が、だ」
「……知らないわ」
シェイリは頭を振った。
「この世に生を受けて四十数年、そんな話、聞いたこともありませんわ」
この世界にはありとあらゆる材質の刀剣類が存在しており、そのなかでも最高峰の材質と呼ばれているのが希少金属『エジッド銀』であると言われている。
軽量にして硬質、血糊すらも寄せ付けぬ撥液性に優れ、損傷や風化に対する耐性を備えており、その上に加工も容易。
武器防具を問わず、これら武具の材質としては至上の金属であるが、他の金属と比べて採掘量も極めて少なく、その価値は、数ある貴金属・宝石類をも含めても最高の値であるとされる。
故に、純度の高いエジッド銀による刀剣類など、製作は現実的ではなく、神話や幻想の世界にのみ登場するものと考えるのが一般的であった。
「──そんな夢のようなものが存在していたとしたら、この国は世界の盟主になっていたのかも知れないわね」
「それは随分な説得力でございますな」
隣国の騎士は大きく頷いた。
「そのような貴重な金属で造られた剣を二振りも所有していた家の者が仰るのですからな」
だが、現実は夢物語よりも奇なり。
──この国には『エジッド銀製の武具』が、幾つか存在していたのである。
そのうち二つは大剣と長剣。
これらが誕生したのは数百年前。西の聖都グリフォン・テイルが本国より平和的な独立を果たし、自治が認められた際、本国との友好関係の証として造られたものとされる。
以降、歴史が大きく動くたび、これらの武具は時代の英雄たちの手によって振るわれ、この国を幾度となく救い続けたと言われており、信仰篤き者は、これらの武具の事を『神器』或いは『聖剣』と呼び、新たな信仰の対象としていた。
そして現在、この二振りの『聖剣』を所有している者こそが──アリシアとウェルト。片や落胤ながらも王族の血を引き、片や救国の英雄の血を引き、今や不義による政権の打倒を目指す勢力、その中心に身を置いている。
そう。今、彼女が言葉を交わしている者の敵として──
「──何が言いたいのですか?」
「かつての『十年政権』時代、この国は空前の発展を見せたという。その要因の一つは大陸中央部におけるエッセル湖における水運事業の推進によるもの、もう一つは産業未開地であった僻地に金と人を投じて開墾を行い、大農業地帯を築くなどと様々──王都やその周辺地域といった一地域依存ではない、新たな経済体制を敷いた事が功を奏したがゆえと言われている」
だが、と黒騎士は続けた。
「問題は、その原資が何かであるかだ」
「原資?」
「そうだ。聞くところによると、その時代は庶民から徴収される税金が極めて安く、民は暮らし易かったそうではないか。だが、それは税収が少ないという事に他ならぬ。そのような様々な事業を行うには到底釣り合わぬ。では、その金の差額を如何にして補ったか?」
「それが……『エジッド銀』だとでも?」
「そうだ。この国から周辺諸国へ僅かながらエジッド銀が流出した時期があり、その時期が『十年政権』時代と大きく重なっていた。それは一時期でも、この国がエジッド銀の発掘事業に着手し、一定の成果を挙げていた証左に他ならぬのではないか?」
「そうとは限りませぬ」
シェイリは頭を横に振った。
「もし、その僅量とやらで、これだけの発展を遂げさせるほどの原資を稼ぐことが出来たというのならば、今も採掘事業を行っていなければ奇妙。大規模な鉱脈の存在とは尾ひれのついた噂話に過ぎず、現実は僅かな鉱脈を既に掘り尽くしてしまい今は枯れてしまったと考えるのが自然でしょう」
彼女は更に続けた。
「父が様々な開発事業を手掛ける事ができたのも、全ては庶民の税を下げたがため。税を下げ、庶民の負担を少なくし、富が彼らにも浸透していけば購買意欲を煽る事もでき、結果として物や金が回りやすくなり景気も良くなります。『十年政権』以前が庶民にとって冬の時代だったという事情による反動も手伝ってか、想定以上に税収が伸びたのでしょう」
半ば脅迫めいたガルシアの問いに対し、シェイリは一切臆する素振りを見せず論をもって抗った。
その語り口は静かでこそあったが、同時に堂々としたものであり、それ故に一切の反論の余地を与えなかった。
反論の一字一句を聞き届けたガルシアは、ほうと唸る他なかった。
「なるほど。予想こそしていたが、説得させて情報を引き出すには──なかなかに骨の折れる相手よ」
「──夫を殺した相手に、どうして話す必要などあるでしょうか?」
シェイリは眼光鋭く、ガルシアを睨み付けた。
「如何なる情報を知っていようと、貴方達に教える義理などどこにもありません」
「丁重に扱えと命じはしたのだがな。だが、物事には手違いというものはある。どこにでも暴走する輩はいるものだ。貴殿がお望みならば、その落とし前として、不手際を犯した者の首を今すぐ刎ね、持参させるよう命じても構わぬが?」
「……結構よ」
黒騎士より放たれた只ならぬ雰囲気に気圧されたのか、シェイリの昂った感情は、まるで潮を引くかの如く失せていった。
「──我々も出直すと致しましょう」
そう言うと、ガルシアは配下の者へと指示を下した。
訓練の行き届いた動作で組み直された隊列、その先頭に立ち、黒騎士は歩き出さんとする。
その去り際──彼は言った。
「次、ここを訪れる時には、貴女が言い逃れ出来ぬ程の証拠と情報を携えておくと致しましょう──如何なる手段を使ってもね」
こうして、突然の訪問者はシェイリの前より去っていった。
気丈に振る舞っていたのも、足音が聞こえなくなるまでの事。気配が消え、足音が消えた瞬間、彼女はふらふらとした足取りで寝台へ寄り、そこへ力なく腰を掛けた。
突如、震えが彼女を襲った。震えを抑えようと自らの体を抱きしめても、それは一向に収まる気配は見せぬ。
顔より吹き出した汗が、鼻の頭や顎の先端より滴り落ちる。
背中の汗が衣服に張り付き、不快な感触がする。
言葉を吐き出さんと口を動かすも、声を発する事が出来ぬ。水面で呼吸する魚の如く、無様に口の開閉を繰り返すのみ。
今、シェイリの声を恐怖が呪縛していた。
ガルシアの武人としての気配が、そして、去り際に見せた彼の残忍な光を帯びた目が。
「不手際を犯した者の首を今すぐ刎ね、持参させるよう命じても構わぬ──ですって?」
何より彼女を戦慄させたのは、彼の発言に潜む、その心の闇にあった。
「貴方の──部下ではなかったの?」
シェイリは直感した。
この言葉に潜む──彼の心の闇を。病理の存在を。
異常なまでに欠如した良心。
極端な冷酷さ。
無慈悲。
そして、罪悪感のなさ。
「あの男は──危険だ」
声を絞り出す。それはまるで血を吐くかの如き呻き声。
「あれが私たちの──いや、あの子達の敵なのだと言うの?」
最悪だ──
シェイリはそう思った。
理由はない。理屈でもない。
ただ、確信をした。
ラムイエの隣に、あの男がいる。
その事実が何よりも恐怖に値した。
王とは、人の上に立つ者とは、その一挙手一投足、言葉の一言一句、全てに『責任』というものが生じる。
悪意ある言葉を口にすれば、多くの者に怒りを与え、争いの火種となり得るだろう。
辛辣なる言葉を口にすれば、多くの者に辛苦の涙を流させ、日々の活力を奪っていく事であろう。
そして、その経緯、結果──全ての責任を負わねばならぬ。
故に、王は民の事を最優先に考えて行動をせねばならぬ。言葉を紡がねばならぬ。
大義の為、多くのものを犠牲とせねばならぬ時であっても、民の負担は最小限となるよう、あらゆる手を尽くさねばならぬ。
そのような覚悟なくば、神は王に権力を付与する事を許さぬ。
それほどまでに王の座とは神聖なるものであるのだ。
故に、新たに王が誕生する時には東西二大大聖堂の認めなくば、その頭に冠を戴く事など許されぬ。
だが、ラムイエは、そして行方の知れぬ宰相を代行するガルシアという男も、そのような覚悟を有してはいなかった。
王の素養もなく人の上に立つ地位に相応しき良心の欠片すらない。
そんな者達が二年以上もの間、大聖堂の認めもなく王位に君臨している。
危険にして物騒。不穏にして険呑。
そして──異常にして物情騒然。
王都の現状を、言葉を用いて表すのならばこれらの単語が定める領域に形容されるであろうか。
──そんな狂人が、あの『エジッド銀』の存在に目を付けたのだ。
銀塊一つで国ひとつが動くほどの価値を有し、刀剣類へと姿を変えれば歴史を変えることが出来るほどの聖性を秘めた、あの『エジッド銀』の存在に。
彼らの目的が、金か武器類か──いずれにせよ、東の政権がエジッド銀に辿り着いてしまったら、これから起こるであろう東西での戦いにおける、決定的な主導権を与えるに等しく、西の勢力が勝利する可能性は万に一つも無くなってしまうだろう。
──如何なる手段を使ってでも辿り着かせてはならない。
だが、今の自分は囚われの身。生殺与奪の全権が握られているという始末。
出来る事は限られよう。
「唯一の朗報は、奴らが私を情報源として頼ろうとしている──この点に尽きるわね」
だからこそ、奴らは自分を殺さなかったのだ。夫のように。
かつて『十年政権』を担った人物を親に持つ自分が何らかの情報を握っているのだと──彼らは踏んでいる。
ならば、これから少なくとも一度は自分に接触を図って来ることだろう。
そこを利用せぬ手はない。
考えるのだ。
如何にして奴らを迷路へと誘導し、迷わせるのかを。
出口へ辿り着く事の叶わぬ、理の迷路へと。
だが、それとて限界はあろう。
いつの日か、奴らとて自分が惑わされている事に気付くであろう。
その前にウェルトとアリシア、そしてセリアが、彼らの率いられた西の騎士団が、神官戦士団が、この王都グリフォン・ハートまで進攻させる。
そう。今の自分に求められているのは、それまでの──言わば、時間稼ぎであった。
無論、分の悪い賭けであると言えよう。
国ひとつの命運が、自由の効かぬ囚われの身となった自分の双肩にかかっているのだから。
「だが──」
そんなシェイリが浮かべたのは──笑みだった。
「これも武人の血なのかしらね。分の悪い賭けは嫌いじゃない──そう思う自分がいるわ」
呟き、軽く天を仰ぐ。そして、彼女は決心した。
ならば、この程度の無理、通して見せよう。
その結果、命を落とす事となろうとも、残された者に何か一つでも多くのものを遺して死んで見せよう。
これが武人の家に生まれた者の宿命ならば、その運命の掌の上で精々足掻いて見せよう。
「ウェルト、アリシア、セリア──」
虚空を眺め、そこに息子とその仲間たちの姿を幻視する。
そして、呟いた。
「あとは貴方達の役目──頼んだわよ」
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C87発表のオリジナルファンタジー小説「Revolter's Blood Vol'06」のうち、 第一章を全文公開いたします。 | ||
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