名も無き花
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 人は5度死ぬ。

 失恋した時、学生でなくなった時、仕事をやめた時。

 そして死んだ時と、誰とも関わらなくなった時。

 

 

 生まれ故郷はかなり辺鄙な山間の村だった。山の上の方に竜の巣がある、という伝承だけが残された、それ以外に何もない農村。

 つまらなかった。退屈で死にそうだった。特に、十代後半に差し掛かっていた私は、大人になるにつれて、毎日毎日農作業ばかり手伝わされる日々に耐えられなくなっていた。

 夕暮れの、くたびれたような真っ赤な空と、ぼちぼち帰るっぺかぁなんて言ってるおじさんおばさん連中ばかり見ていた時、疲労も相まってか本当に何もかも投げ出してしまいたくなったものだ。

 土で汚れた自分の手のひらを見下ろして、本当に恥ずかしかった。情けなくて仕方なかった。せっかく女の子に生まれたっていうのに、このまま化粧もせずに畑だけいじって家事をさせられて一生を終えるのだろうか。

 それはそれでいい人生じゃないか、と幼馴染のボンクラ男が言った。綺麗な服など着なくても十分可愛いじゃないか。化粧なんて嘘っぱちだ、都会女はみんな嘘で塗り固めた嘘っぱちだ。この前も、都会から来たっていう女の子にひどい目に遭わされた。都会なんて嫌いだ。

 などとグチグチ女々しい文句を垂れてきたので、私はにっこり笑って殴ってやった。半年ほど置いて、村も出た。もう農作業には耐えられなかった。全員の反対を押し切って、家出するように深夜にこっそりと村を抜けだした。

 村を離れ、一人きり夜の草原に辿り着いたら声を上げて走り出した。なんて開放感。私は自由だ。これから都会へ行って、昨日までとは全く違う新しい人生を生きる。

 人生一番の星空だった。息が真っ白になるくらいに空気の冷たい夜だったけど、私は本当に幸せだった。

 そのすぐ後、草の葉をひきずりながら這い寄ってくる液体状の生物に出会って、人生一番の悲鳴を上げたのだけど。

 無理もない。土曜の“渡り行列”でもないのに一人で村を出てしまったのだから。事前に用意はしていたし、それなりに必死で鍛錬は行なっていたけれど、生まれて初めて私は村の外の危険性を自分の命で実感したのだ。

 四体目を屠った所で、息を切らして座り込む。どうにもこの一帯、あの液状生物が多いようなのだ。次々と這い寄ってくる。そんな生きるか死ぬかの一場面なのに、いよいよ都会に行けるのだと高揚しきっていた私はまったく深く考えていなかったのだ。

 そんなことより、初めて見た種類の木に凭れ、見上げた月は魔法のようで。なんて静か。凍りついたガラスの月が、私の道を明るく照らして導いてくれていた。

 不思議と力が湧いてきたのだ。それはまるで、泉のように。

 ――――広域結界。

 当時、まったく知識のなかった私は知らなかったのだ。あの日歩いた土地は、すぐ傍にある月見の都によって庇護の結界が張られていたこと。そのお陰で、いくらでも力が湧いてきていたのだということ。そんな素敵な恩寵に守られ、私の一夜限りの一人旅は月見の都に辿り着くまで続いたのだった。

 凍えるくらいに寒かったけど、本当に、楽しかった。

 

 

 愛嬌には自信がある。この街に来て唯一学んだことと言えよう。

「いらっしゃいませー!」

 私の声は、真昼の広場によく響く。魔法使いアンジェリカ像が中央に設置された、魔道士連盟設立の市民公園だった。けっこうなお金が掛かっているらしく、ベンチは変わったデザインだし、タイルは様々な絵を描いているし、よく分からないアートもちらほら設置されてるしなかなか広い。暇な人たちが行き交う。風景が美しいからここはいつでもちょっとしたお祭りみたいなものだ。そんなオシャレな公園隅で、アイスクリームの屋台なんかやってるのがこの私だった。

 メル・ラヴリル。ありがちな茶の髪を肩より少し上で切った髪型。仕事中はバンダナを付け、お店の制服を着てアイス売っている。容姿的には、我ながら特徴の薄い人物と言えよう。もしかすると地味かも。何年か前に、とある辺鄙な田舎から、一念発起して単身出てきた元・田舎者だ。

 あの無茶な一人旅を乗り越え、今ではこうして、街の隅っこにこっそり紛れ込んで生活している。

 今日はまだ売上が芳しくない。頑張らないとまた怒られるだろう。頭をカラにして声を上げていたら、鎧を身につけた男性の二人組がアイスを買ってくれた。たぶん賞金稼ぎか用心棒とかその辺なのだろう。

「お嬢さん可愛いね、何歳? これから一緒に遊びに行かない?」

「えっ!?」

 私は目を輝かせた。出会いだ。オトコだ。この時代、鎧を纏ってるような職業の人間はけっこう高給なことが多い。格好だけのハズレもかなりいるけど今は考えないことにする。

 私は殿方たちを見上げ、精一杯可愛い声を絞り出して媚びを売る。

       ・・・・

「はいっ、今年二十七歳です!」

「――――」

 途端に、漂白される二人の表情。幽霊でも見たようだった。

「へー、そっ、か……年上、か……なんか意外だな」

「た、確かにな。とてもそうは見えねーよ。お姉さんすごいっすね。十七くらいかと思いましたよ。じゃ。」

「ありがとうございましたーっ!」

 ぷるぷる震える眉間を理性のみで押さえつけ、お客様共を無事・お見送りすることができたのだった。

「…………ちっ。」

 一人、影で本音を漏らす。まったくストレスだ。年上の何が悪いというんだろう、この恵まれすぎた都会の街は。

 

 

 都会に出てまず始めに理解したことは、自力で生活していくのは大変だということだった。

「ただいま……」

 ドアを開け、くたびれきっていた私はすぐさま硬いベッドに倒れこむ。もうじき日が沈む。アイスの売り子なんて言ったって実は結構な重労働だ。安宿の窓から、赤色に染まった空の彩度をぼうっと眺める。

 この街へ来て何年が過ぎただろう。あの日、手持ちの水がなくなって干からびそうになりながらこの街へ辿り着いた時、ちょうど年末の冬祭りをやっていてとても騒がしかったのを覚えてる。

 視界を埋める人の姿に、たくさんの出店、都会はいつでも毎日こんな風なのだと思い込んで目を輝かせた。目に映る何もかもが新鮮だった。見たこともないようなオシャレな服を着た女の子たちも、腕利きの魔道士によって制御されたとても複雑な花火も。空高く、炎を操って竜を再現してるのを見た時は倒れそうになったものだ。

 ベッドに体を押し付けたまま、指先で風を躍らせる。氷のように冷たい風。私が持っている唯一の技能。女の独り身で村の外を旅しても平気だった秘密の正体だ。もっとも、こんなものは日々の生活ではアイスを売るくらいしか役立たないのだけれど。

「はぁ……疲れた」

 気分が滅入っていて、枕を頭の上にかぶって顔を押し付ける。時は魔法全盛期、ほんとうに魔法って夢がある。それに引き換え、まったく夢のない暮らしを送っている私は何なのだろう。

 なんてことはない、よくある話。田舎で畑仕事しかして来なかった私は、技能や学歴、職歴がまるでなかったのだ。何の技能も持たない人間にできるのは接客くらいなもんだろう。それプラス、あの田舎を出るためにこっそり鍛えたただ一系統の魔法による職業適性。要約すると、今もらっている薄っぺらい給金が、私という田舎者に付けられた価値だということ。

 本当につらい。まったく足りない。最低限の暮らしを送って、休日になってもろくに遊びにも行かずじっとしているだけだ。こんなはずじゃなかったのに――――なんて言葉さえありきたりな、本当にどこにでもある無知な若者の末路だった。

 友達さえいない、一人ぼっちの毎日。最近昔の夢ばかり見る。田舎においてきたあの幼馴染のボンクラ、ぼうっとしてたし無神経だったけど、優しいところだけはよかったな……。

「ん……」

 カクンと寝落ちしそうになって、目についた。枕元に放っておいた新聞の見出し。暗黒時代到来。騎士無き後、ますます苛烈になる戦場の殲滅魔法の撃ち合いについて。

 騎士団が解散してもう数年になる。王に仕える騎士像という理想が崩れ去り、時代は魔道士連盟が犯罪者を取り締まり、魔法が人々の生活を支える魔法全盛時代と言っても過言ではないだろう。

 朝方、まずベッドから起き出してすることは、赤い魔石を打ち合わせて暖炉に火を灯すこと。火というのは偉大な発明だ。そして、こんな根幹まで魔法は人々の暮らしに根付いている。

 より効率的に、より高威力に。ますます発展していく魔法技術だったが、裏を返すように負の面もあった。威力が上がりすぎたことによる危険性だ。特に、戦争なんかはだんだんと苛烈になって来ているらしい。一人で行使する魔法などたかが知れているが、集団の祈りを集めて行使する儀式や大魔法の類は、ものによっては一瞬で都市を消滅させ得る可能性さえあるそうだ。

 そんなスケールの大きい話とは別世界のように、小さく縮こまった私という人間がいる。

「………………ばんごはん……」

 どうしよう。作るのが億劫だ。こんな時、器用で気の利く婿《ヨメ》なんかがいてくれれば、本当に助かるっていうのに。

「あー……うー」

 ベッドの上で悶え、猫のように唸る。本当に嫌だ。人生がつまらない。ちゃんと保証のある仕事に就きたい。いっそ今から魔法の勉強でもしようかと思いきや、実は育ちの悪すぎる私、難しい言葉が読めないほど学力がないのだ。

 識字率というらしい。田舎者でも字が読めるかどうかという指数。ごく地方民たる私は、その境界線のギリギリに生まれてしまっていたのだ。

 この街のキラキラした女の子たちを見ていると、本当に人生っていうのは不平等だと感じる。ひとしきり悶え、頭をかきむしって疲れ果て、またしても私は頭をカラにするのだった。

「……よし。オムライス作ろう」

 我ながら馬鹿っぽい。つまらない女の一人暮らし。化粧を落とすのも億劫で、そのままフライパンに卵を落とした所でドアがノックされるのだった。なんてタイミングだろう。せっかく火の付きにくい安物魔石でうまく火をつけたばかりだっていうのに。

「…………はい?」

 渋々顔を出すと、この安宿の大家のオバサンがニコニコしていて、とうとう追い出されるのかと不安になった。

「メルちゃん、メルちゃん」

「……なんです?」

「男前さまよ」

「はぁ」

 意味がわからなかったが、男前さまらしい。オバサンに呼ばれて顔を見せたのは、確かに男前さまだったけど、少しだけ伸ばしたサラッサラの金髪が何だか女の子みたいでどうかと思った。そのくせ旅慣れたロングコートなんか着ているのも、腰にご大層で時代遅れなロングソードなんか携えているのもなんだか変な感じだった。どうみたって、兵士と言うよりはスポーツマンみたいな爽やかさなのに。

 その青年はやはり、見た目通りの爽やかさでにこりと笑った。

「失礼。個人経営の郵便屋なんだ。手紙を預かってきた」

「……手紙?」

 この危険なご時世に、個人の郵便屋なんて聞いたこともない。街を一歩出ればおかしな生き物が襲ってくるのだ。一人で出歩くのなんて余程の馬鹿か田舎者だけだ。

 困惑する。女の子みたいな優男のくせに、この爽やかさんは何を言っているのだろう。

「メル・ラヴリルさん宛に。なかなか苦労したよ。やはり、住所登録のない人に届けるのが難儀だな」

 それはどうも。低収入の安宿暮らしだから仕方ない。

「――とても重要な知らせのようだ。なるべく早く開封してくれ。では」

 自称郵便屋は、綺麗な真白い封筒を押し付けてとっとと去っていってしまった。

「うふふ。男前さまねぇ、うふふ」

 オバサンは嬉しそうにそう繰り返して、郵便屋さんを追いかけていった。取り残されて一人きりになる。

「……何なんだろう」

 気になってその場で封筒を開けようとしたら、またしてもタイミング悪く来訪者が現れるのだった。

「おーぅメル、元気してっかぁ」

 くたびれた親父。トレンチコートが似合いすぎている、擦り切れた麻布のような中年男がやってきた。くわえタバコに瓶ビール。私は頬をひきつらせた。

「来たよ酔っぱらい。帰れ」

「まぁそう言うなって、お前も飲むか? ん?」

 そう言って、飲み差しの瓶ビールをこちらに向けられる。最低だ。半径二メートル以内に近寄らないでほしい。

「で、何だよ。なんか、若い男が降りていったじゃねーの。いよいよ春か? ん?」

 面倒くさい。本当に帰って欲しい。酒臭くてたまらないのだ。

「郵便屋だって。私にもよく分からない」

「郵便屋だぁ? ハハッ、馬鹿言ってんじゃねぇ。このご時世に何寝ボケたこと言ってやがる。手紙なんぞお前、郵便局が勝手に届けるだろうが」

 などと宣いながら、勝手にどしりと腰を下ろすオッサン。実は、アイス屋の店長だ。私がいつもいつもアイスの売上を叱られている相手でもある。

「週に一度の“渡り行列”。言うまでもねぇ、魔物被害に遭わないように集団で行き来する土曜の列だ。警備も付くし、魔道士だって護衛してくれる。当然、その列の中には郵便局だって参加してる。手紙を届けるのが郵便局の仕事だからな」

 オッサンは、ぐびぐび酒をやりながら、人ん家の前で勝手に飲んだくれて勝手に講釈たれてる。耳をふさいで縮こまりたい。うるさい、うるさい。

「なのに、何だ。さっきの潜りクセェ男が郵便屋だってな、どういうこった。まさか“渡り行列”に合わせもせず、土曜以外に勝手に町を行き来してるってぇのか。冗談だろう。あんな優男が、たかが他人様の手紙を届けるために?」

「あああもう、るっさい! 知るか! 帰れよ酔っぱらい!」

 私は小娘のように地団駄踏んだ。じろりとオッサンが睨み上げてくる。

「帰れとは何だ、ご挨拶だなてめぇ。雇い主に向かってなんだその口の聞き方は」

「雇い主だろうが何だろうが、酔っぱらいは等しく迷惑だっての」

「ハッそのとおりだクソッタレめ。だがな、勘違いすんじゃねぇぞ。てめぇ、俺が酔っ払ってたら何言っても覚えてねぇ雑に扱っても問題ねぇと思ってるだろう」

 その通りである。いかな説教臭いオッサン相手でも、酔っ払ってる時は何言ってもいいのだ。

「ったく……いい加減、酔うと店員の家回るくせ、直した方がいいですよ」

「やなこった。いいじゃねぇか別に。それよりおい、酒がぬるくなった。冷やしてくれ」

「自分でやればいいでしょう。私よりよっぽどベテランなんだから」

 私の魔法なんて、所詮は素人の隠し芸だ。私自身は必死に学んだつもりだったけど、それでもこのくたびれ中年にまったく及ばないというのは悔しかった。

「悪いが、明日は朝から副業なんだ。浪費はできん」

「ああ、塀の守兵でしたっけ。町に入ろうとする魔物はぜんぶ倒すか追い返すかするんですよね。あれって儲かるんですか?」

「ここだけの話、アイス売りなんぞやめてもいいんじゃねぇかって程度には儲かるな」

「へぇ」

 そうなんだ。それは知らなかった。気勢を削がれてしまった私に、店長は皮肉そうに笑った。

「生憎様、衛兵は命がけなんでね。高くなけりゃやっとれん。世の中の給料ってのはな、この世の中に対する重要度で決まるように出来てんのさ。」

 そうなのか。でも、確かに私のアイス売りは誰も救わないし、お金にもならない。不服な私を見かねてか、オッサンはつまらないことを言って来た。

「お前もやるか、兵士。アイス売りよりは似合ってんじゃねぇのか」

「冗談でしょう。初給料もらう前に死んじゃいますよ」

「よく言うぜこの、放浪娘が。田舎から一人で出てきたとんでもねぇ命知らずだろうがお前。まったく、女が一人で町の外歩くなんてな、自殺行為もいい所だぞ」

「そうですね。私もそう思いますよ」

 今となっては、私は本当に無謀だった。頼りない基礎魔法一つだけで外を旅するなんて馬鹿げてる。魔物の餌になるのが当然なのだ。

「知ってるか。お前みたいな馬鹿の出入りを規制するために、帝都の方では一人で町を出るのを資格免許制にするか否かってんで会議になってるらしい」

「ああ、新聞に載ってましたね。抜け道はいくらでもあるんで、無駄だと思いますけどね」

 一人が無理なら、二人で町を出てから解散すればいい。もしくは渡り行列の時だって一人で離れてしまえば同じだし、深夜に衛兵の監視をかいくぐって抜け出すのが簡単だろう。「おう、悪い顔してんなお前。やめとけよ。最近、近くの山を変な魔物がうろついてるって噂だ」

 オッサンは新しいタバコに火をつけ、大きく煙を吐き出した。

「……変な魔物?」

「かなりやべぇな。魔道士共もザワついてやがる。なんでも、そいつは魔物に殺された人間たちの怨念で、出会ったら生きたまま魔物に変えられちまう呪いを掛けられるそうだ」

「呪い……?」

 ぶるりと震えた。何それ、トカゲとかスライムにされるってこと? 最悪じゃないか。

「そういう魔法なんだろう。まったく、魔物共が使う魔法は訳が分からん。いや、魔法なんて上等なもんじゃねぇのかも知れねぇが……」

 酔っぱらいの目が、真剣みを帯びて狼のようになってる。この男も魔法使いなのだ。

「よく分かりません」

「単純な魔力の照射に、意志の力が乗ってるのかもな。要するに悪意だ。魔力で力を持たせた悪意。術式でなく感情で直接現実に干渉するわけだ。広域結界と術式の組み合わせで作る、俺たちの積み木みてぇな魔法とは、根底から違うのかも知れねぇ」

 だからよく分からないってのに。そういったカルト宗教的な魔法理論は正直、苦手だった。何より学がないのだ。聞いててもつまらない。

「…………もう寝てもいいすか」

「おう邪魔したな。ところでお前、どうすんだ、これから」

「これから? 酔っぱらい追い返して寝るだけですよ」

「いいや、将来のこととかだよ。つっても二十七じゃもう将来ってほど先のことじゃねぇが――何だ、そろそろ畑ばっかの田舎へ帰る準備でも」

 思い切りドアを閉めてやった。

 

 

 疲れきっていた私は、お風呂へ入り、机の上に置いておいた封筒を開封するのも忘れてそのまま眠ってしまった。たぶん酔っぱらいのせいなんだろう。

 そして翌朝、事件が起こった。朝十時頃にドアが叩かれたのだ。無視しきれなくて目を開ければ、ダンダンと部屋に響いている。部屋の大気は冷えきっていた。

「……何。誰?」

 眠い目こすってカギを開けると、そこに大家のオバサンが立っていて、いつになく真剣な顔をしていてびっくりした。

「お、オバサン? どうしたんですかそんな息切らして」

「メルちゃん、大変よ! 店長さんが……!」

「店長? あの酔っぱらいが何か――」

 塀を守ってた店長が、魔物に襲われて死んだらしい。

 

 

 

 渡り行列というものがある。それは、魔物だらけの世の中を安全に生きていくために考案された必然。

 町の外には魔物がうろついている。山も森も、自然界には魔物が生息しているのだ。人の住む町の周辺では積極的に討伐されることもあるが、それで魔物が完全にいなくなるわけではない。

 だから、町を出るには多大な危険が伴う。死と隣り合わせなのだ。それこそ、一人で町の外を歩くなどあってはならないことだ。腕の立つ人間と一緒でなければならない。出来うるなら、プロの魔道士に同行してもらうのが一番だ。

 でも、どんなに呼びかけても、死者はあとを絶たなかった。当然だろう、絶対の安全など無い。魔物は凶悪で、魔法は難しくて、人間は悲しいくらいに弱かった。けれど小さきものたる人間たちは、いつだってその知恵をもって工夫をこらし、妙案を考えだすのだ。

 それが渡り行列。毎週土曜の日の出くらいに街を出て、土曜日中に別の町へ渡る、大規模な行列なのだ。

 町レベルで人を集め、何人もの魔道士に厳重警備してもらい、みんなで助け合いながら別の町を目指す。そう、解決策は「人数」だったのだ。何百人規模で一緒に行動していれば、少々の魔物が襲ってきても数に物を言わせて身を守ることができる。魔道士たちだって護衛してくれる。例えば狼一体に対し、一人なら生存率は危ういが、狼一体に三百人で一斉に掛かれば決して負けることはない。なんて人間らしい、数を生かしたアイデアだろう。これで格段に死亡率は下がった。

 けれどまだまだ問題はある。例えば、町に侵入しようとする魔物。大体の町は高い塀で囲って外界と隔絶し、その上警備兵をつけて安全を保っている。けれど、その兵には必ず危険が伴う。みんなの町を守る最前線に立って、もし魔物が襲ってきたら、絶対に追い返さなくちゃいけないのだ。

 そして、あの酔っぱらい店長も、その重大な任務に準じて死亡したそうだ。

「……………………」

 西側の門の周辺には、かなりの数の人が集まっていた。その中心で、魔道士たちが生き残りの兵士から事情を聞いているらしかった。傷を負った兵士は、憔悴して泣き叫ぶように魔道士に訴えていた。

 絶望的な戦いだった。

 先輩が死んでしまった。

 体が水でできた化け物を相手に、先輩は一歩も引かず幾度も幾度も魔法を行使していた。

 化け物があまりにも巨大すぎた。

 先輩の決死の魔法も、化け物の体の一部分を凍らせるだけで、反撃を受けて先輩はやられてしまった。

 手傷を負った魔物はそのまま帰っていった。先輩が追い返したんだ。先輩がこの街を守ったんだ……。

 兵士は泣き崩れ、魔道士がその肩を支えていた。そのすぐそばに、布を掛けられた死体があったことに気付いて、目を逸らす。すると目が合った。金髪の美人さん。昨日の男前の郵便屋さんだった。

「やあ、こんにちは。大変なことになってしまったね」

 郵便屋の青年は、鎮痛そうに事態の渦中を見ていた。

「……厄介なものだ。町は安全かと思いきや、稀に外から襲い来る。きちんと警備しているとはいえ、たまに来られるととても警備がしにくいだろう」

 力なく、笑ってしまう。まるで店長のような難しい口ぶり。なんて顔に似合わないんだろう。

「……うちの上司なんだ」

 郵便屋さんは、くしゃりと申し訳なさそうに眉間に皺を寄せた。

「そうか――気が付かなくてすまない。キミの気も知らずに無思慮なことを」

「なんでさ。いいんだよ、仕方ない。町を守って戦って死んだんだ。私、部下としてあの人を誇りに思うよ。口うるさい酔っ払いだったけど、キメる時はキメる男なんだって最後に分かったから……」

 酔っ払うたび、部下たちの家を回るのだ。いまどき安月給のアイス屋台なんかやってるのは訳ありばかり。ひとりひとりの家を回って、別に込み入った話をするわけでもなく飽きたら帰る。独り身の私たちは、もしかするとあの酔っぱらいに少しだけ元気づけられていたのかもしれない。

 ああ、悔しいな。まるでなんだか良い人みたいじゃないか。死んだら良い人なんて笑えないにもほどがある。

「そんなに多系統を扱えたわけじゃないけど、強い魔法使いだったんだよ。年季ってやつかな。きっと一芸を極めてたんだと思う」

「ああ、俺も魔法を学ぶことにするよ。よく分かってしまった。剣だけで十分だと思っていたが、いざという時に使えるものは多くないとダメだ」

 郵便屋さんは、どこかへ行くのか踵を返してしまう。

「魔石を買ってくる。どこに売っているかな」

「大通りにいくらでもあるよ。安いのは、ピザ屋と肉屋の間にあるマリー道具店ってところかな。ご入用なの?」

 魔石っていうのは、そのまま魔法を封じ込めた宝石のことだ。かなり値の張るものだけど、値段以上に高威力で命を救うこともある。何より、魔法を使えないものでも一度きりの魔法を行使できる。旅には持って行きたい道具だ。

 郵便屋さんは、とても厳しい目をしていた。まるで門前での、店長たちの死闘を見通すかのように。

「巨大な液状の怪物らしい。剣では何もできない。……俺も、外を歩いている時に遭遇したら一巻の終わりだ」

 そう言い残して、郵便屋さんはそよ風のように去っていってしまった。颯爽としていて王子様みたいだった。魔石を買えるなんて、結構なお金持ちだ。

 

 ――――程なくして、“埋葬士”がやって来た。

 

 

 渡り行列は、この国で生きている人々の姿そのものだろう。一歩町の外は危険だらけ。だから身を寄せ合って、みんなで助け合いながら次の町を目指す。それに対し、“死んでしまった人々の姿”がこれだ。

「……………………」

 みな静かに見守っていた。布の下の店長の死体と、その前に立つ一人の男。目深にフードをかぶった、どこか宗教的な神妙な出で立ちだった。その手には大げさなくらいの装飾杖。誰とも会話せず、さっきから呪文のようなものを唱えながら儀式的な動作で幾度も祈りを重ねている。

 埋葬士。見た感じ動作が厳粛で、恐らく地元の、信のおけるベテラン埋葬士なのだろう。

「あ……」

 フードの奥の顔が一瞬見えて、知っている顔だと気付いた。髪の短い、気難しそうな男。以前、とあるお金持ちの婦人の埋葬に立ち会った際、話した事がある埋葬師だった。

 布の上、おそらくは店長の胸のあたりに、宝石をひとつ置いた。魔石だ。透き通った青水晶。埋葬士によって発動《トリガー》の魔力を篭められたそれは、すぐさま輝きだし、強く光ったかと思うと魔法陣を形成していた。

 店長の上で、国旗のように輝く。青い、複雑な文様を幾重にも折り重ねた、いっそ美しくさえある高度な術式だった。魔力の波濤、吹き上がる大気に周囲を青く照らす強い光。見物人たちの頬に青を照らしつけながら、しばし何かを浄化するように波打ち続けた。

「祈りを」

 終盤に差し掛かったのか、黒いローブの埋葬士が、みんなに向けて声を発した。みんな手を組んで祈りを捧げる。私も祈った。ただ一心に、みんなして縋るような必死さで、店長がキチンと天に召されることを。

 メル――。

 店長の声に呼ばれた気がして、色抜けた青空を見上げ、私は一瞬の空白に見舞われた。

「………………………………」

 誰もいない。ただ空を鳥が横切っていっただけだ。

「……無事完了した。ご協力感謝する。あとのことは、魔道士に――」

 青い魔法陣が、燃え尽きるように消滅する。埋葬士の仕事が完了したのだ。魔道士に引き継いだ埋葬師も、集った人々もみなざわざわと口々に話しながら解散したようだった。

 私はぼぅっと、魔道士が店長の死体を袋に収容するのを見ていた。そして不意に、私はこの街に来て、仕事がなくて困り果てていた時に店長に拾われた日のことを思い出したのだ。

「あ……」

 ……たばこ臭いおじさんが、私の命の恩人だと思えた。

「あ、あの――っ!」

 気が付けば魔道士に声を掛けていた。遺体が運び去られる寸前だった。紫コートの魔道士が、私の顔を見るなり怪訝そうな顔をする。

「何だ、どうした」

「その人、知り合いなんです。最後に顔を見ておこうかと思って……」

「ああ、そうか……」

 一生懸命戦って死んだのだ。せめて顔くらい目に焼き付けておいてあげてもいいと思った。多少、うなされることになっても構いはしない。

 しかし、魔道士たちの反応は煮え切らなかった。顔を見合わせて気まずそうにしている。

「……顔、見ちゃいけませんか」

「いや、いけないというわけではないんだが……しかし、」

 何なんだろう。それほどまでに苦しそうな顔なんだろうか。少しだけ決心が揺らぎそうになった時、頷きあった魔道士が私に耳を寄せるように合図してきた。

「……はい?」

「いいから、耳。耳を」

 しきりに周囲を気にしながら、言ってくる。何なんだろう。訳も分からず私は耳を寄せた。

「すまない、被害者の身内なのに。とても、言いにくいのだが……」

 布で隠された店長のご遺体に目を向けながら、魔道士が耳打ちしてきた。そういえば、店長はこんなに小柄だったろうか。もしかして人違いなんじゃないかと逡巡した瞬間、

「首がないんだ」

 

 

 自室のベッドでぼうっとしていた。まだ昼間だっていうのに、何もする気が湧かなかった。

 ただただ、この世界の残酷さを思い返す。現実は不条理だ。身一つで町の外を歩く馬鹿娘は死ななくて、鎧着て町にいた店長が死んでしまったっていうんだから。

「…………葬儀どうするんだろ……」

 店長は身寄りがなかったはずだ。一応既婚者で娘が一人いたって聞いた気がするけど、とっくに別れてもう消息も分からないとも聞いた。

 それにしても、首がない? 胃がキュッと縮んで痛んだ。魔物ってやつはどこまで最低なんだろう。昨日はタバコすってた店長の顔を食いちぎって、腹の中で溶かしやがったんだろうか。なんでわざわざ、死者の最後の尊厳とも言うべき顔を、よりにもよって顔を奪ったんだろう。

 あんまりにもいたたまれない。あんまりにも惨い。一体、あの人が何をしたというんだろう。あまりの理不尽さに世界がグラグラ揺れてるような気さえした。

 私の微熱を冷まさせるように、ドアがノックされる。誰? 面倒だ。このまま居留守でもしていよう。そんな私の無気力を、ドアの向こうの女の声が遮った。

「メル、いるんでしょう。開けて。店長のことで、みんな店に集まっているわ」

「…………はぁ」

 観念して体を起こす。同じアイス屋台の同僚の声だった。

 

 

 お淑やかな同僚に連れられ、白日の下を歩いた。何を話したのかまるで覚えていない。

 倉庫前はにわかに騒がしかった。滅多に集まることのない同僚たちが、川辺で拾い集めた石のようにまったく不揃いな顔を並べていた。

 似ている顔などひとつもない。誰も彼も訳ありで、本当に人種からして違う気がした。私に気づくなり、みんな駆け寄ってくる。

「メルちゃん、店長が……」

「知ってる。私、埋葬士が来た時その場にいたから」

「そう……」

 それきり、誰も何も言えなくなる。仕方ないだろう。誰かが死んだ時に何かを出来る人間なんて少ない。そして私たちは、経営者を失った烏合の衆だ。

「……アイス売り……どうなっちゃうんだろう」

 それは私も疑問だった。私たちは、みんなして路頭に迷うんだろうか。

「それで……店長の、葬儀のことなんだけど」

「葬儀?」

 古参が語り出した内容に、比較的まだ新しかった子が疑問符を浮かべた。古参のほうは、私の次くらいに入ってきて、一時期店長に気があるのではないかという噂もあった子だった。

「ほら、店長って身寄りがないじゃない? だから誰も葬儀をやってくれる人がいないの」

 私は口を閉じて黙っている。なんとなく、明るい顔をしたその子が何を言わんとしているか理解してしまったからだ。

「だからね。みんなでお金を出しあって、店長の葬儀をしないかな、って」

 みんな黙った。曇った顔を見合わせている。それは地雷だ。アイス売りなんかをやっている私たちに、そんな余裕が有るはずないのだ。

「えっと……ごめん、その。お金が惜しいってわけじゃないんだけど……」

 一人、いつもは大声を上げて話す明るい子が、今日に限っては周囲の顔を伺いながらおずおずと手を上げた。

「葬儀って、いくらくらい掛かるもん、なの、かな……」

 私は知っている。あの子は、旦那の借金があって本当にお金に困っているのだ。

 彼女だけじゃない。みんな、それぞれ自分の生活があるのだ。誰も余裕なんてない。お世話になった店長の葬儀をやって、そのためにその分の借金を背負ってしまうような生活状況なのだ。そもそも、店長がいなくなってしまった今、明日からの仕事もどうなってしまうか分からない。

 みんな重苦しい顔をした。言い出した子は、周囲の様子に悲しそうな、申し訳無さそうな顔をしている。みんな気持ちは分かるのだ。葬儀をしてあげようという気持ちも、生活が苦しいという気持ちも分かる。

「はぁ……」

 思わずため息が漏れてしまって、何人かに見られる。私たちはなんて情けないのだろう。ここにいるほとんどが、たったのひとつしか魔法を使えない。それも大したスキルじゃない。身寄りも学力もなくて、本当に無力なのだ。

 無力な人間に、世界は非情だ。だから誰かが言わなければならない。

「結構な大金よ。そんなの、出し合ってまかなえるもんじゃない」

「え……っ?」

 私が前に出て、突きつける。葬儀をしようと言い出した子が、傷ついたように私を見た。

「みんな自分の生活がある。そんな大金払えないでしょう。あなただって、そうなんじゃない?」

「メル……!」

 止めようとする者を、手で制する。別に私だって文句が言いたいんじゃない。

 すう、と大きく息を吸い込む。

「――――店の資産があるでしょう。それはお店のものなんだから、店長の葬儀くらい使ってもいいんじゃない?」

「あ……っ」

 皆が目を見開いた。言い出しっぺの子に安心させるように笑いかける。

「無理しないで。あなただって、そんな裕福じゃないでしょう?」

 生活が苦しいのは皆同じだ。本当にみんな同じなんだ。思えば、私達はみんなあの酔っぱらいに養われていたようなもんなのかも知れない。

「残ったお金でお店のこれからを考えましょう。誰か、異論はある?」

「ないよ。それでいこう」

「お店の資産で、お世話になった店長の葬儀を」

 みな少しだけ元気を取り戻していた。壊れかけた信頼が守られ、繋ぎ直されたように思えた。

 地獄の底でも、喧嘩はしたくないものだ。

 

 

 真昼の街を歩いて行く。葬儀の準備や今後のことをみんなで相談して、その場で結論は出なかったけどひとまず最古参の人たちが魔道士たちと話をつけてることになった。やはり昔から店長と付き合いのある人たちが主導権を握るべきだろう。今日のところは解散となったので、家に帰る途中だった。

 レンガ作りの商店街を行く。キラキラした若者たち。最近の流行の服がとてもよく似合っていて、まだ十代だろうに化粧なんかしてる娘もいた。

 軒先に飾られた流行の洋服。私も着てみようか、と思い立って値札をめくった途端。

「……はぁ」

 一瞬にしてげっそりと精神力をもっていかれ、とぼとぼと家路に戻った。頭のなかで算数をする。あの洋服一枚で、私の食事が何食買えるだろう。

「おい待て。そこの」

「……」

 びくりとした。かなり横暴な呼ばれ方をした気がする。でもきっと私じゃないだろう。どこの借金取りか知らないけど、私はまだギリギリ借金だけはしないで生きている。貯金は限りなく分数だが。

「お前だ。そこの女」

 大丈夫。世の中に女性はいっぱいいる。

「聞いているのか、そこの地味で品のなさそうな童顔女」

 ああ、私のことか。踵を返し、カツカツカツと歩み寄って思い切り締め上げる。

「あァン? 呼んだ? 馬鹿にした? 私今、最っっ高に気分が悪いんですけど」

 私を呼んでいた唐変木は、真っ黒だった。背が高くて重い。暑苦しいフードの中で、鼻で笑いやがった。

「相変わらず、見た目は十代だな。見た目は」

「えへへー。酒場でのオジサマ受けは最高よ? 酒場に行くお金がないけどね」

 頬に手を当て、ブリッコする。何の取り柄もない私の唯一の特技、まったく心の篭もらない営業スマイルだ。経済効果的な観点では、アイス売る程度しか役に立たない。

「で、何なのよ一体。この、軟弱埋葬師」

 軟弱埋葬師、と呼ばれて男が皮肉げに唇を歪める。

「ああ。見覚えのある若作りだと思ってな。仕事に繋がるかも知れんし、挨拶程度はしておこうかというだけの話だ」

 堅物そうな埋葬師。名前は知らない。真面目そうな見た目と佇まいだが、人間性はそれほど精錬でもない。どちらかといえば、嫌味なタイプの人間だ。この男とは以前、別の埋葬の現場で出会ったことがある。

「……そうね。さっきはどうも。うちの店長がお世話になりました」

 ペコリと素直に頭を下げると、埋葬師はなんだか静かになった。

「……なんだ、あのご遺体の関係者か」

「そうよ。悪い? うちの店長様よ。副業で門兵やってたの」

「悪いことなど何もない。立派に戦って殉死したんだ。笑われることなど何もない」

 らしくもない真剣さ。男は皮肉屋であるより前に埋葬師だったらしい。

「そうだね。ありがとう」

 熱心な男に埋葬されたようだ。なら安心だろう。けれど、男はどこか確かめるように言ってくる。

「……彼は、魔法使いだったか」

「ええ。いくつかの系統を、それなりに。天才ではないけどベテランだった。アイス売りとしても、魔法使いとしても」

「…………」

 よく分からない。何か考えこんでいる。

「……何なの? その辛気臭いローブで黙り込まれるとしんどいんだけど」

「妙な感触だったが、気のせいか……いや、少し調べてみるか」

 何か、一人で勝手に納得したらしい。

「……何?」

「いや何も。なるほど。羨ましい限りだな。複数系統の攻撃魔法を使えるだなんて」

 言われて、思い出した。この男と出会った時のこと。

「ああ、そうね。あんた、このまえ酷かったもんね」

 あの日の出来事を回想する。現代の世の中には、『埋葬詐欺』と呼ばれる社会問題が蔓延っていたりする。かなり非人道な問題だ。事件になるたび大きな問題として取り上げられるが、しかし後を絶たないという面倒な話。私自身もまた、その埋葬詐欺という事件に出会ったことがある。

 とあるお金持ちの、貴婦人の葬儀での出来事だった。彼女のご遺体を案じた遺族が、お高いお金を払って埋葬師を雇った。神具や神棚まで揃えた荘厳な埋葬だと思われたそれは、実際にはやっすいパイナップル木材だらけの話にもならない安物だと判明したり、埋葬師が無免許でまったく埋葬になっていなかったり、ということが露見してしまった。

 形だけの埋葬。まるで効果を伴わないそれを、私たちは『埋葬詐欺』と呼んで忌み嫌っている。ご遺体であるご婦人が魔物と成って化けてしまうのではという場面で、詐欺師のエセ埋葬を看破し、激怒してブン殴った人物こそは、目の前の、黒いローブの埋葬師だった。

 まったく男前である。鍛え上げた右ストレートが突き刺さり、名探偵のように真実を暴く姿は歌劇のようでさえあった。……そう、本当に、その場面“まで”は。

 魔法とは残酷なものだ。それは理不尽な武力であり。例えば、一心に鍛え上げた埋葬師の腕力でさえも、呪文一つでなかったことにしてしまう。埋葬師の拳打も憤怒も、詐欺師の使う低級な攻撃魔法の前ではまったくの無力だとあしらわれてしまったのだ。

 本当に、ひどい出来事だった。嘘の埋葬を施した詐欺師が、正規の埋葬師を低レベルな基礎・攻撃魔法でボロ雑巾に変えるのだ。あの場面を見た時、私は泣きそうにすらなってしまった。

 もっとも、それらは、目の前の埋葬師がやり返さなかったのがすべて悪い。あんな詐欺師、攻撃魔法でボロクソに叩いてしまえばよかったっていうのに。

「……あの時、あんたはやり返さなかった。それが埋葬師の挟持ってやつ?」

 私に指摘されると、男は遠い目をしてごまかした。

「…………さてな。所詮は死体を相手にするしかない能なしだ。生者の相手をするのは、慣れていなかったのかもしれないな」

 適当な言葉で誤魔化す男。本当、男はバカだ。

「ま、私はいいと思うよ。やり返さずにただ殴られるだけ。どんなに悔しくとも我慢する。うん、悪くないよ」

 褒めたつもりで、男を叩く。けれど反応は微妙だった。

「……そうだな。本当に、そんな美談だったらよかったのだがな」

「なんですって?」

「いやなんでも。ではな。気晴らしを忘れるなよ。身近な人が亡くなると、調子を崩さないほうがおかしい」

 人の死に慣れた埋葬師は、そんな助言なんだか何だか分からない言葉を遺して去っていった。そんな男が、固そうな黒いブーツをはいていたことに今更気付いた。

「……儲かるのかな。埋葬師」

 いつか転職の機会があれば、あの男を頼ろう。

 

 

 村に戻ってきて、結婚しないか――?

 

 一人、部屋でしゃがみこんで手紙を広げていた。郵便屋さんからもらった手紙をまだ読んでいなかったことに気付いたのだ。冗談のような文面を何度読み返しても、綴られている内容はそういったものだった。

「……驚いたな……」

 微熱の額に手の甲を当てる。少し、体調が悪かった。壁に凭れ、低い天上を見上げてぼうっと思案する。

 村に戻ってこい。そろそろ嫁に行け。

 年齢から考えれば無理もない話だった。驚くべきは、あの田舎村の連中が私の居場所を把握していて、こちらの生活を多少なりとも把握されていることだったが、こう何年も暮らしていれば噂ぐらい入っても仕方なかったのかもしれない、小さいとはいえ、あの村にだって渡り行列は来るわけだし。

 結婚相手は、件のボンクラ男だった。

「ふふ……何よ、馬鹿みたい。そろそろ子供でもできてるんじゃないかと思ってたのに」

 なのに、律儀に私を待っていてくれたらしい。本当なのか知らないが、確かに手紙にはそう綴られている。単に結婚できなかっただけなのではないだろうか。そんな勘ぐりをしてしまう私は、都会に染まったんだろうか。

「……はーぁ、なんだかなぁ」

 力が抜けて、ベッドに倒れ込む。どうしてこう、タイミングよく手紙なんかが来るのだろうか。家に帰ったら、両親に張り倒されるのは目に見えているっていうのに。ちょうど気分を切り替えようかと考えていた時に。これが、縁ってやつなんだったら私は逃れられないかもしれない。

「もう……」

 観念した気分で、バンダナを取る。アイス売りをやめて田舎へ帰ろうか。都会暮らしを終えてしまっていいんだろうか。ぐるぐると頭が回りそうになった時、タイミングよくドアがノックされるのだった。

「…………どちら様?」

「すまない。郵便屋だ。少しお話が」

 またあの美人さんか。いまさら何の用だろう。しかしちょうど誰かと話したかったところなので、ドアを開けてやる。そしたら、何故だか深刻に切羽詰まった顔をしていた。

「仕事がないので転職することにした。職業安定所はどこかな」

「………………は?」

 

 

 

 聞けば、個人の郵便屋さんというのはまったく儲からないそうだ。

「……へぇ」

「そうなんだ。なにせ単価が怖ろしいほど安い。」

 何故か近所のカフェで郵便屋とお茶しながら、雑談なんだか何なんだか分からない話に花を咲かせる。

「……郵便が儲からないんなら、どうやって生活してるの?」

「傭兵だ。郵便屋をやっていると、無駄に戦闘の経験値ばかり溜まってしまってね。俺としては由々しき事態だ」

 郵便屋やめて傭兵を本業にすればいいのに。そんな指摘は黙っておいた。……兵士は、ダメだ。

「……そもそもなんで郵便屋?」

「ふ――よくぞ聞いてくれた」

「は?」

 コーヒーカップ片手に、女の子みたいな男が微笑した。本当にお姫様みたいに目をキラキラさせたのだ。

「――手紙を届けるというのは、人の心と心を繋ぐ仕事なんだ」

 儚げだった。紳士然と、勝手に鎮痛そうに胸に手を当てて何か言ってる。

「昨今、魔物被害による都市間の連絡は芳しくない。皆、町を出ることを嫌う。故に荷物ひとつ届けるだけでも値が高いんだ。運搬は危険を伴うからね。町の外側に向いた連絡というのは、現状では郵便局員に手紙を渡し、週に一度の渡り行列で持って行ってくれることを待つのみだ。あるいは伝書鳩なんて手もあるが、正直、半分も届かない」

 語ってる。たいそう熱のこもった調子で。突然の変わり様に、私はただ呆然と見ていることしか出来なかった

「だからこそ、俺は個人で郵便屋をやっている。遠くの誰かに届けたい言葉や、どうしてもいますぐに届けたい手紙があれば任せて欲しい。手紙一つに値が張るなんて愚かしいかもしれない。信用出来ないかもしれない。――――しかし、俺が、責任をもって相手のもとへ届けると約束する」

 確かに、個人の郵便屋なんて、手紙を預かるだけ預かって代金を受け取り、こっそり捨ててしまわないという保証もない。届ける途中で魔物に襲われる線も濃厚だ。信用。個人がそれを勝ち取るのは難しいが、しかしここまで真剣に言われてしまえば、信じてみたくもなるものだ。

 人の心と心を繋ぐ仕事。もしかすると、恥ずかしげもなくそんなことを言える人間でないと、郵便屋なんてものは務まらないのかもしれない。

「……ふふっ。おかしな人だね」

「よく言われるよ。このご時世に一人旅なんて正気じゃない、ともね」

 爽やかに笑ってる。本当にその通りだ。一人旅なんて正気じゃない。いつかの田舎娘にも言ってやりたい。

「ねぇ、誰かと組まないの? 一人で行き来するなんて絶対やめたほうがいいよ。もしどこかで怪我したら……」

 それは、死を意味する。言いながら気付いた。目の前で朗らかに笑っている青年は、本当に危険なことをやっているのだ。

「…………うん。相棒とか、仲間とか。絶対一緒に旅した方がいいよ」

「相棒、か……確かにそうかも知れない。考えたことはなかったな」

 腕を組んで考えこむ青年。その姿に不安を感じた。布を掛けられた店長の姿がよぎる。いつか、この気のいい青年もあんな風に布を掛けられてしまうのだろうか。

 一人旅をするような人間は、変な所で意固地になってしまうものだ。その意固地が身を滅ぼしてしまうと知っているのに――。

「そうだな、考えておくよ。一人旅は気楽だとはいえ、命には替えられないからね」

「そう……よかった」

 ほっと胸を撫で下ろす。運命が、書き換わった気がした。

「そうだその件に関して……少し、教授してもらえないかな」

「はい?」

「見てくれ」

 ごとり、と郵便屋さんが机の上に置いたもの。それは透き通った赤色の宝石だった。見覚えはあるけど、なんとなく私の知っているものより輝きが鈍く感じる。極端に言えば、安っぽい。

「……魔石? なんか、妙な感じだけど」

「妙? それはまた、どういった意味合いで?」

 ケチを付けるのはやめておこう。魔石って結構高い買い物だし、せっかく高いお金出して買ったものを悪く言うのも失礼だろう。

「いや、なんでもないよ。それよりこの魔石がどうかしたの?」

「ああ、買ったはいいがまったく使い方が分からなくてね。どうやって使えばいいのか教えて欲しい」

「…………」

 魔石の使い方? えっと。

「……単純に、微弱でもなんでもいいから魔力を通して、投げつければそれでいいはずだけど」

「うむ。魔力とはなんだ」

「この魔法全盛時代に、何を言ってるんだいアナタは。魔法の発動ができなくても、単に魔力を放射するくらいそこらの子供でも出来るでしょうに」

 要は、念じればいいだけの話である。生き物はそもそもほとんどが微弱な魔力を生まれつき内包していて、肉体の運用にも活用されているはずなので、出来ないワケがない。例えば超人的な動きをする剣士というものがいるけど、あれらは単純な筋力のみでなく、無意識の内に潜在的な魔力を運用しているせいでもある、というのを聞いたことがある。

「念じるといいよ。誰でもできる」

「いや、出来ない。小一時間ほど頑張って、通りすがりの主婦にも頼んでみたがビクともしない」

「できるから。ちょっと貸してみなさい」

 赤い魔石を奪い取って、手のひらの上に乗せる。間違って発動してしまっては危険なので、本当に本当に微量の魔力だけを走らせる。するとどうだろう。

「…………あれ?」

 何の反応もない。と、いうか――。

「ねぇこれ、どこで買ったの?」

「道端の露天で。今時はあんな値段で魔石が買えるんだな、驚いたよ」

「……何個買った?」

「思わず六つほど。財布はカラだが、これで長旅でも安心だ」

 ゴトゴトと魔石を取り出して、ふっふっふと笑んでいる郵便屋さん。さすが魔法素人、全然気付いていない。

「パチモンだよこれ。魔法なんか発動しない」

「……は?」

「いいもん掴まされたね。魔力なんかすっからだし、術式もゼロ。材質もなんか安っぽいし、完全にただの『石』だよ。部屋にでも飾るといいよ」

「…………」

 呆然とした顔をしたと思ったら、静かにテーブルに沈んだ。しくしく泣いてる。お可哀想に。

「……新素材だと。いまが買いだめのチャンスだと」

「そう吹きこまれたわけね。残念だけど、埋葬詐欺が流行ってるような時代だもん。むしろ旅に出る前に気付いてよかったんじゃない?」

 致命的な問題に繋がる埋葬詐欺といい、この手のパチモン魔石によるボッタクリといい。本当に、どいつもこいつも最悪なことをやる。もし郵便屋さんが魔物に襲われた時、魔法を期待してこんなものを投げつけていたらどうなっていたことか。

「…………そういえば、魔石というものは不思議な発明だ。どうして地域を問わずに発動できるのかな」

 テーブルに沈んだ郵便屋さんが、気を紛らわせるためかそんなことを言った。

「……地域を問わずに? ここで買った魔石が、なぜ余所の地域でも使えるのかってこと?」

「ああ。俺は魔法に詳しくはないが、魔法というのはそもそも全てに『魔法結界』が必要になるんだろう? そしてそれらの結界は、地域ごとに独特なものが張られていると聞く。南で魔法を覚えた人間は、北に行けば地元とは魔法結界が変わってしまうから、魔法が発動できないんじゃなかったのか」

 初心者によくある思い違いだ。こういう思い込みがあるから、魔法は帝都のものを覚えなくちゃいけない、みたいなことを吹き込んでる業者もいる。

「……それはちょっと極端すぎるかな。さすがに、そこまで応用が利かないわけじゃないよ」

「そうなのか? では、地域ごとの魔法結界とはどういうものなんだ」

「んーと。まず、この世に“本当の”魔法使いなんてものは一人しかいないって覚えておくといいよ」

「一人? 何故だ。みんな魔法を使えるじゃないか。そこらの主婦だって、料理に火炎魔法を使ったりもする。この喫茶店のコーヒーや軽食だってそうだろう」

 現在、魔法はかなり普及し、人々の生活に深く深く根を張っている。しかしこれらはすべて、過去の偉大な魔法使いたちのおかげ様なのだ。

「大昔の話になるけど、まず、魔法を使える存在っては魔物と、魔法の始祖アンジェリカだけだった。魔法は便利だ。剣がなくても魔物を追い返せるし、呪文一つで巨大な火柱だって生み出せる。みんなアンジェリカに憧れたし、アンジェリカもまたみんなが魔法を使えるようになればいいのに、と考えた。そうしたほうがきっと人類も発展するからね」

 私は、古い知識を参照する。昔お祖父さんの本棚から掘り返した誇り臭い本の知識。何度も何度も読み返した、この世界の積木のような魔法の実態。

「そこで、アンジェリカはひとつの大きな魔法を発動することにした。“大魔法幻想”って呼ばれるそれは、大陸をすべて覆ってしまうほどの大きな魔法結界で、この結界内にいる人間すべてに“魔法の発動”という能力を付与したんだよ」

「……ほう。なるほど、いつも本に書いてあるのはそういう意味だったのか」

「そう。みんなアンジェリカを崇拝して称賛しているでしょう? それは当然、この世のすべての魔法使いはアンジェリカのお陰で魔法を使えているからなんだよ。私たち魔法使いはみんなアンジェリカの弟子で、現在の人間の暮らしはその始まりの魔法結界に支えられているといってもいい」

 だからこそ、この結界が崩壊したらどうなってしまうのか想像もつかないけど。それでも“大魔法幻想”という結界は、いまだ崩壊せず自動的に永続発動し続けている。どんな仕組みなのか想像もつかない。

「で、そこから後続の大魔法使いや大魔導師たちが現れ、またアンジェリカと同じような魔法結界を塗り重ねたの。」

 魔法の簡略化。系統化。効果付与、全体に対する基礎魔力増幅。そういった大型結界が何重も重ねられることによって、より多くの人が簡単に魔法を使えるように、と工夫が為されている。何より、本来は常人の脳では追いつけないほど高度な計算を必要とされる魔法の発動を、大結界によって簡略化しているというのは重要だろう。

 ベースとなる魔法結界を塗り重ねれば、魔法はどんどん容易に簡便になっていく。自然の言語から人間の言語へとランクアップして簡単になっていくのだ。私たち一般人は、そうしてランクアップされた簡単な言語で魔法を行使しているに過ぎない。

「……で、地域ごとの魔法結界というのは、そういったベースがある上での話ね。結論から言えば、南の方で魔法を覚えても、北の方で魔法を覚えても、帝都で魔法を覚えても差はないよ。地域ごとに強化結界が張られていることはあるけど、魔法の発動自体を地域結界に依存するなんてのは、間違った勉強の仕方だから」

 たまに、魔法の超簡易化の結界が流行ったりもするのだ。しかしそういったものは維持が大変だし、憶えても極端に狭い地域でしか使えなかったりする。例えば、街の外ではまったく使用できなかったりとか。本末転倒。そんなものを覚えるよりは、キチンとした地域に依存しない魔法を覚えたほうがいい。そのほうが妙なクセもつかなくて済む。

「……つまり、魔石がどこの地域でも発動できるということは」

「おかしな地域特産の魔法結界に依存してないってことだね。何が起きても大丈夫なように、普通の魔法よりも自然側言語で術式が組まれてて、ひとつふたつ広域結界から外れてても発動できるようになってるモンじゃない?」

 もちろん、自然側言語に寄れば魔石の生成が困難になっていくため、そのぶん値段は張るけど。でも魔石ってのはそもそもそういった時の安全対策なのだ。やはりちゃんとしたものを買ったほうがいい。

「そうだ、たまに魔道士が戦闘中に結界を張ったりしているが、あれも同じような魔法結界なのか」

「そうだね。結界内での魔法威力強化、魔法発動工程の省略、防御強化、効果は色々あるだろうけど、結局は同じものだよ」

 ふむふむと郵便屋さんが感心している。私はコーヒーカップに口を付ける。店長みたいな小難しい長話をしてしまった。

「参考になったよ。ありがとう」

「はい、どうも」

 コーヒーを飲み干して、ようやく私は始めから気になっていた疑問を口にすることが出来た。

「ところで、仕事がないからってなんで私なの? 悪いけど、手紙出してる余裕なんてないよ?」

「ああ――それもあるけど、心配になってね。その、上司さんの件で」

「………………」

 なんだ、気にかけてくれてたのか。

「身内が亡くなった時に、無思慮な発言をしてしまったんじゃないかと。悪かった」

「え? ちょっと、何よ。別に何も言ってないじゃない」

 あの時、彼は何か言っただろうか。何もおかしなことなんて言っていない。だっていうのに、彼は私に頭まで下げたのだ。

「ああもう、いいってば。大丈夫。何も言われてないから顔上げて……」

 周囲の視線が気になって仕方ない。あのウェイトレス絶対へんな勘違いしてる。

「ありがとう。思ったより元気そうでよかった。ここの払いは俺が持つよ」

「ああ、そう。ありがとう助かる」

 気にしなくていいのに、勝手に領収書持って立ち上がる。金欠なので甘えておこう。郵便屋さんはコートを着ながら、訳の分からないことを言って来た。

「ところでキミ、結婚するのか」

「は?」

 何ヲ言ッテイヤガルノダロウ、コノ男。はっはっはとあくまでも好青年的に笑って、金髪ロンゲの郵便屋は言ったのだった。

「一応、手紙の送り主から直接手紙を受け取っているからね。で、どうする? 彼への返事は決まったのか。」

 私は中途半端に口を開け、そのまま頬だけを吊り上げるという微妙な笑みを作ってしまった。そんな折、外から物々しい音を立てて兵士たちが入ってきたのだった。

「魔物だ! 魔物が町に入った! 全員、いますぐこの一帯から避難してくれ!」

「「!?」」

 みな驚愕し、隅のテーブルにいた魔道士たちもすぐ立ち上がる。

「魔物!? 町に入った、って…………あれ?」

 郵便屋さんが静かに、音も立てずにいなくなっていた。代金だけ残して消えてしまっていた。コーヒーはまだ半分ほど残されていた。

 魔道士たちと兵士が話してる。周囲を探せば、ちょうど郵便屋さんが小走りでドアから出て行くところだった。

「…………なに?」

 逃げた? それとも、まさか。

 

 

 

 郵便屋さんを追って、喫茶店を飛び出した。外はお祭り騒ぎのような荒々しさで、人間が河みたく流れて一方向に逃げていくところだった。

 即ち、町の外を背にして。町の中心の方へと、みんな逃げているようなのだ。子供を抱え、荷物を抱え、焼き討ちにあったように駆けて行く。集団ヒステリー、目の前に門があったら叩き壊していくんじゃないかってくらいの暴力的な勢い。そんな流れに飲まれてしまわないよう喫茶店の壁に貼り付き、本当に逆流の川を進むように一歩一歩と進んでいく。

 次第に人の量が少なくなってきて、まばらな一般人とすれ違いながら駆けて行くことが出来るようになった。しかし、途中で呼び止められる。

「何やってる! そっちへ行ってはダメだ!」

 メガネをかけた、インテリそうな男だった。手首を掴まれて制止される。無理もない、流れに逆らって魔物がいる方へ駆けて行く女《わたし》がおかしいのだ。本当に、私は田舎から一人で出てきた時から何も変わっていない。

「あの……知り合いが、あっちに」

「気持ちは分かるが、行ってはダメだ! みんなと一緒に避難しなさい! いま、魔道士たちが食い止めている最中だ!」

「あー……うん。ですよね」

 やっぱり、魔道士が戦っているのか。衛兵はどうしたんだろう。店長の同僚は、とっとと逃げてしまうか敗北するかしたんだろうか。

「ところで、暑苦しいコート着た、金髪ロン毛の男の人見ませんでした?」

「ああ、あっちで魔道士たちと一緒に戦っていたね。知り合いか」

「ええ、ごめんなさい」

 眼鏡さんの頬にぺたりと手のひらをくっつける。まるで子犬にそうするように。な、何をするんだ、と非難された瞬間に術式を構築・魔力を通す。走る魔力の紫電。業務で毎日使用しているため、あまりに手慣れた発動。広域結界の助力も相まって、私はあっさりと“魔法”の発動を成功させた。

「な……っ!?」

 具体的には、眼鏡さんの顔に白い霧を噴出したのだ。眼鏡は曇り、凍りつく。その隙に私は手を振り払って猫のように逃げた。

「ごめんなさい。あなたは逃げてね」

「待ちなさい! キミ!」

 

 

 ガランと静まり返った無人の町角。廃墟かゴーストタウンのようだった。

 白レンガの町角に、一輪の雑草が咲いていた。その花に触れる。タイルを突き破って生え出した花。奇跡のように生きている、逞しい名も無き花。

 私と花の邂逅を脅かすように、甲高い剣の音色が遠く響いた。墓標のような周囲の白い建物を見上げる。男たちの怒号と、雷が弾けるような音も。

「……あっち……」

 もうすぐそこだ。複雑に入り組んだ町の、五段ほどある階段を上がれば、門から直通の正門通りに出るはずだ。――そこから、激しい戦闘音が聞こえている。

「大丈夫……ちょっと、覗くだけ。」

 私は何をやっているんだろう。ただ郵便屋さんを追って来た。きっと心配だったのだ。店長のように、あの郵便屋さんが死んでしまう光景が容易に想像できてしまうから。

 ――――店長が死んだ時、何も出来なかったから。

 だから私はここに立ち会う。そして、決して来てはいけなかったと後悔する。

「! ぐぁあああッ!?」

「ひっ!?」

 人間の上半身が、燃え上がる。まるで松明。コートを燃やされた魔道士が、転がりまわり、周囲の味方を振り払って噴水へと突っ込んだ。死の舞踏。重い火傷を負った魔道士は、焼かれた肉に水が染み、水の中でさらにのたうち回っていた。

 …………何だ、これは。

 私は何を見ているのだろう。どこへ来てしまったのだろう。魔道士が死んでいる。首を刈られて動かなくなっている。そんな冗談のような現実がすぐそこにある。こんな死の池で、命がけで剣を振るうなんてどんな地獄だ。

「くあああッ!」

 剣が、鈍い音を立てて突き刺さる。あの郵便屋さんだった。決死の特攻はしかし、体が液体でできた生物相手では何の意味もない。

「! 下がれッ!」

 液体生物の挙動に、魔道士が叫んだ。郵便屋さんは危機にあった。液状生物に剣を根本まで突き刺して、ゼロ距離にいたのだ。

「ぐぁッ!」

 郵便屋さんがかろうじて上半身を伏せ、死を回避する。何だろういまの鞭みたいの。郵便屋さんの上半身を刈り取ろうとしているようだった。私の動体視力では追えなかった。

「くそ……っ! おい、何か手はあるか!?」

 力任せに剣を引き抜いた郵便屋さんが後退し、残る二人の魔道士と居合わせた埋葬士に問う。それぞれ短髪と長髪の魔道士たちが頷き合い、長髪の方が何かの術式を起動する。

 光を放ち、世界が赤く脈動する。ドクンドクンと大気が震える。長髪の魔道士が展開した魔法陣はとても複雑で、私ごときではまるで内容を追えはしない。

「それは!?」

「魔法結界――加速陣だ。発動工程を大幅に省略し、連発を可能にする」

 長髪の魔道士が低い声で述べ、それを短髪の魔道士が火炎魔法を構築しながら引き継ぐ。

「本来、こういう工程省略系の魔法結界は、逆に手順が分からなくなって滑ることもある。だがな……」

 加速陣が高速回転を始める。時計の針を早回しにするようだった。短髪の魔道士の両手に炎が吹き出し、その腕にいくつもの小さな魔法陣をまとわり付かせる。即ち――連発前の予備動作《チャージ》だ。あの魔道士は、両手の魔法を維持しながら十近くの火炎魔法を並列展開している。

「連携戦闘を訓練しきった俺たち魔道士に、そんな隙はねぇ――ッ!!」

 魔道士が、獣のように駆け出した。その両手に握られた炎の隕石が解き放たれる。

「くたばりやがれこの化け物っ!」

 疾駆する。朱の軌跡が、撒き散らされる美しい火の粉が弧を描いて魔物に立ち向かっていく。

「らぁあああああああああああああああッッ!」

 幾条《いくつ》も、幾条《いくつ》も。緋の線を描く魔法の軌跡。目に焼き付く深い色の炎は高位のものだ。悪しき魔物や犯罪者から、市民を守るために鍛えぬかれた魔道士の火炎魔法。それが、次々と着弾して溶岩のように魔物の全身を覆う。燃え上がる魔物。海を割るようなおぞましい悲鳴。

 だが――

「!? 伏せろ――ッ!」

「何!?」

 最悪だ。短髪の魔道士は、自身が放った火炎のせいで視認が遅れた。同じように火炎魔法が放たれたのだ。連続魔法の発動で隙だらけだった魔道士の顔に、全身に炎が直撃する。

 絶叫が上がった。熱い、熱いと泣くように叫ぶ。もはや戦闘どころではない。郵便屋さんが、埋葬士が魔道士を引き戻そうと前に出る。顔を掻き毟り、その様子に長髪の魔道士が加速陣を畳んで消火の魔法に切り替えようとしたその瞬間。

「  ?!」

 ――――私は、見た。見えてしまった。位置が悪い。鞭が、駆ける。ぷしゅりなんて果物のような音を立てて、何かが引きちぎられるのを見てしまった。

 血が噴出する。壁に付着し、私の顔にもあたたかい血が掛かる。私は目を閉ざすことも動かすことも出来ず、ただただ長髪の魔道士の首を刈った凶器が、液状生物の口にトンボのように帰っていくのを見送っていた。

 舌だ……

 舌が、鋼鉄のような硬度を発揮して、首を引きちぎったんだ。見えないくらいに速く動く舌は、その質量も相まって怖ろしい威力を発揮する。……何故だか、店長のことが脳裏をよぎった。

 崩れ落ちていく、首から下がまるで蝋人形のようで。首は冗談のように空へ舞い上がって、どこか遠くへ飛んでいく。埋葬士が目を見開き、郵便屋さんが呆然と手を伸ばそうとしていた。

 うそだ。何よこれ。だって魔道士なんだよ? 仮にもプロの魔道士が、市民を守る秩序の味方が、どうして、こんな――――。

 

 ――――どうしてよりにもよって、顔なのだろう。

 

 どくんと嫌な予感に胸が震える。町角に崩れ落ちた首のない死体。まるで小柄になってしまったかのようじゃないか。本当にたちの悪い冗談のようだ。よりにもよって、死者の最後の尊厳である死に顔を持って行くなんて、魔物ってやつはどこまで最低なんだろう。

 キィキィとガラスで出来た虫の大群が羽を鳴らすような、不快な耳鳴りに聴覚を覆われている。それは恐怖だ。

 まさか、まさか。そんな偶然があるものだろうか。いや偶然ってなんだろう。今朝方この町の門で人を殺した魔物が、もう一度町に押し入って来たなんてまったく偶然なんかじゃない。

 それは、やはり、話の通りに巨大な液体状の生物で。生きて動いていることが信じられないような悪夢の具現だった。全身が青みがかっていて、べちゃべちゃと波打つ液体が岩のような溶け崩れた直方体になって直立している。水を切れるわけも、燃やせるわけもない。おぞましい、束になって掛かってもどうすることも出来ない化け物だった。

 まさか、こいつが。

『メ、ル……』

 ――――――え?

 いま、幻聴が聞こえた。聞こえるはずのない声を聞いてしまった。私は錯乱しているようだ。死人の声を聞くなんて馬鹿げてる。肩の辺りを痺れるような悪寒が舐め回している。

 見るな、と私に気付いた郵便屋さんが叫ぶ。そんなこと言われたってもう遅い。私は既に見ているのだ。単に、理解が追いついていないだけに過ぎない。

 液状生物は、あんな体なのに、内臓がある。お情け程度にぷかぷか浮かんでる。それは、脈打つ肉塊と、そして人間の生首だった。

 店長だった。

「ぃ―――――――――――――」

 喉の奥がひきつって、縦に鉄パイプでも突っ込まれたように硬直する。額を殴られたような衝撃が走る。私は頭を抱えて悲鳴を上げているらしかった。視線が固定されてしまったように動かせない。しっかりと、店長と目が合ってしまっている。理解の及ばない現実に私の理性は吹き飛び、ただただ喉から金切り声を噴出させる機械になっていた。

 ああ、ああああ。吐き出す空気がなくなってもまだ声が漏れる。なんて青白いんだろう。まるで作り物の人形のようじゃないか。けれど、あんなリアルで悪趣味な生首を作る理由がどこにも見当たらない。本物だ。本物の店長が、青みがかった化け物の内部に浮かんでいるんだ。

 その瞼がかすかに震えていた。ゾッとする。動いた? なんで動いたの? もう肺も心臓もないのに、どうして眼球が動いているの?

『――――――――…………』

 何か、言ってる。口がかすかに動いてる。悲痛に捩れた双眸で、自分の身と引き換えに町から魔物を追い払った店長は、言ったのだ。

『た、す ………………け、……』

 郵便屋さんと埋葬士が、憤怒の声を上げ、斬りかかる。魔物は嗤うように身をたわませ、体内の店長を転がした。呆然と緩慢な速度で転がる店長。二人の剣は魔物を串刺しにして、しかし何の意味も果たしはしない。

「――!」

 代わりに、剣を突き立てた二人を包み込むように火炎魔法が展開される。二人は懸命に剣を引き抜こうと藻掻く。火が灯る。間に合わない。

「がッ!?」

 声を上げた郵便屋さんは間一髪だった。コートの端が煙を上げる。片や、埋葬士は逆に思い切りが良かった。間に合わないと踏ん切りをつけ、剣を手放したのだ。

「……降参だな。素手では何もできん」

「なら、もう降参だと交渉してみたらいいんじゃないか」

 地獄の底で冗談を交わし、二人は正気を確かめ合った。どちらもまるで余力は感じられない。

 郵便屋さんが片手で剣を前に構え、ナイフを取り出した埋葬士に問う。

「魔道士が死んでしまった。正直な感想を言えば絶望だ。まだ、何か策はあるか」

 郵便屋さんが持つのは、風変わりな剣。曲線的で、しかし豪奢というわけではなく、どちらかといえば紫を孕んだ暗い色合いの剣だった。

 片や埋葬士の方は、店長に浄化を施した時と変わらない。深くかぶったフードに、真っ黒いローブ。今は逆手のナイフを格闘技のように構えているが。

           ・・・・・・

「生憎、俺は埋葬士だ。ろくな魔法はない。お前は?」

 郵便屋さんが肩をすくめ、その繊細な顔で疲れたような微笑を象る。

「…………ただの郵便屋だよ」

「面白い冗談だ。どこの傭兵か私兵か知らないが、頼りにしている」

 埋葬士の声は、低い。

「しかし、はっきり言って潮時だろう。どうだ、ここいらで大人しく逃げるというのは。戦力的に考えて妥当な判断だと思うが」

「生憎だが、逃げ場なんてないさ。この街を食い荒らされれば、俺たちはそれを見過ごしたことになる。今後この街で一切の商売ができないことを覚悟するんだな」

 埋葬士が嫌な顔をする。郵便屋さんは女性みたいに線が細いのに、頑として前だけを見据えていた。

「俺一人ならそれでも逃げるが――お前、退かない気か?」

「当然だろう。被害者が増える。逃げるなんてあり得ない」

 前だけを。魔物だけを。否、違った。さっきから郵便屋さんがまっすぐに直視していたのは魔物ではない。

「――――あの人が、命懸けで守った町だ。居合わせた俺たちにはこの町を守る義務がある」

 郵便屋さんが特攻のために剣を構える。同時に、勝機を探す埋葬士が私の方を見て、声を上げた。

「――アイス売り……!」

 郵便屋さんも、前を向いたまま言った。

「逃げるんだ。ここにいてはいけない」

 魔物が、身を震わせている。ずるずると体を引きずってこちらへやって来る。郵便屋さんが魔物を警戒して構える。

「……え?」

 その時、埋葬士がニヤリと笑った。何故だか壮絶に嫌な予感に駆られた。

「……知っているか。魔法は、俺たちの生活に火を起こす手段という根っこのレベルから完全に浸透しきっている」

「なんだ、いきなり? それがどうかしたのか」

「『アイス売り』にも魔法が必要なんだ。これが、どういう意味か分かるか」

 魔物は進んでくる。二人はジリジリと後退している。

「……だが、」

「威力強化の魔法結界を持っている。俺自身はろくな魔法は使えないが、あるいは――」

 二人が、じっと私を振り返る。私を。

「……………………え?」

「おい、そこの。魔法を使えるな?」

 埋葬士が確認してくる。何言ってるんだろう、逃げ出したい。魔物が近づいてくるこの切羽詰まった状況で、意味の分からない質問を投げないでほしい。そもそも、こっちは酷いものを見せられて顔もぐちゃぐちゃなのだ。本当に来るべきではなかった。

「……何を……」

「結論から言うと、お前の魔法が必要だ。あれを見ろ」

 埋葬士が魔物にナイフを向ける。答えるように飛来する鋼の舌を、郵便屋さんの剣が打ち落とした。

「おい、悠長に話している暇はないぞ!」

「分かっている! ……いいか、見るんだ。あの魔物の心臓、体内で脈打っているのが見えるだろう」

 そんなことを言われても、店長の顔が目に入って仕方ない。……しかし、確かに魔物の体内で何かが脈打っているようだった。

「さしもの魔物といえど、あれほど分かりやすい心臓を潰されて生きてはいられないだろう。あれが弱点だと狙いをつけ、さっきから俺たち剣持ちが串刺しを狙っているんだが――」

「! 来るぞ!」

「チィ――話の途中だ、大人しくしていろ!」

 魔物が、生きた竜のような火炎魔法を放ってくる。真昼にもかかわらず町角が赤の光に染まる。郵便屋さんが退避し、私の前に立つ埋葬士は左手を突き出す。防御の魔法陣。水を割り裂くように炎が流れている。熱波が肌を撫で、このまま死ぬのかと思った。

「いいか。心臓を狙って剣を刺しても、あの体では流動して心臓が狙いから逸れる。心臓以外への剣撃はまったくの無意味だ。あの魔物は、魔法で分解・蒸発させるか、あの心臓をなんとか串刺しにする以外にない」

 ――だから、魔道士たちは火炎魔法を行使していたのか。燃焼ではなく蒸発を狙っていたのだ。よく見れば、魔道士たちの決死の魔法によって魔物は始めより少しだけ体積を減じているように思えた。

 でも、剣だけでは倒せない。だから私の魔法が必要だというのか。残念ながら、それは不可能なオーダーだ。

「…………無理だよ。私、魔法のスキルは最低なんだ……」

「無理ではない。やれ」

「無理だよッ!」

 私は絶叫し、頭を抱えた。戦うなんて無理。私は、魔法使いとしてはあまりにも無力なのだ。

「……私の魔法は、アイスを売るだけのものだよ。それしか出来ない。それ以上のことが出来るんだったら、こんな惨めな人生送ってないよ……」

 魔物が迫ってくる。ぶじゅぶじゅと醜い音を立てて、私たちの首を刈り、血を魔力を吸い尽くすために。もう逃げなくてはならない。だけど、逃げ場所なんてあるのだろうか。追い詰められて、私は震えながら訳の分からない言葉を漏らす。

「……私、ひどい田舎の出身なんだよ……教育なんてまったくなくて、難しい言葉だって読めない。魔法なんて誰も教えてくれなかった。畑仕事しかさせてもらえない小娘が、牛小屋の裏でこっそり練習しただけの魔法に、期待なんてしないでよ……」

 涙が溢れそうだった。私は、なんて弱い。なんて無力なんだろう。この手の小さすぎる魔法は、自分自身の食費を稼ぐことさえ重荷だった。

「…………俺はな。埋葬士になどなりたくなかった」

「え――?」

 魔物に向き合う埋葬士が、鉄のように錆びた声で言った。

「魔道士になりたかった。ああ、ガキの頃の話だがな。市民を守る騎士と魔道士に、あんな風に魔物と戦う姿にありがちな憧れなんかを抱いていたのさ」

 埋葬士の視線の先には、郵便屋さんがいた。凄まじい速さで切り結ぶ。切りつけ、回避し、無駄だと分かってもまた切りつけ、魔法の発動を察知して後退する。あの人は、騎士のような技量の持ち主だった。剣一本で町の外を行き来しているというのも頷ける。

 対して、あっさり剣を手放した埋葬士は力なく笑っていた。

「攻撃魔法が使えないんだ。才能がない。炎も水も風も氷も、生まれつき一切行使できない」

 ――――それは、

 その背中には、影があった。

「だから、俺にろくな魔法は使えない。詐欺師に一方的に攻撃魔法を打ち込まれて何も出来ない。しかしな、無才なりに努力して、なんとかカスのような魔法ばかり覚えて、こうして未練がましく埋葬士なんかをやっているわけだ」

 疲れきった笑み。思えば、私は私なりに恵まれていたのかも知れない。お爺さんの書棚に、たまたまいつのものか分からないような古い魔法の本が残されていたのだ。それを一人で熟読して、二年かかって基礎魔法をひとつだけ習得できた。畑仕事やってた小娘は声を上げて喜んだ。しかし、恐らく血を吐くように努力したであろうこの埋葬士には、小娘がたったの二年で習得した初級魔法が十年掛かっても二十年掛かっても、おそらくは死ぬまで習得できないのだ。

「お前は、“あの魔法”を使えるんだろう? ならそれでいい。お前はただ、初級魔法を打ち込むだけでいい」

 初級魔法。

 初級魔法。

 その言葉が、私たちのような才能のない人間には重くのしかかる。童話の中の魔法使いたちは指一本動かせば何だって出来るはずなのに、呪文ひとつで大樹のような火柱を生んで簡単に魔物を追い払えるはずなのに、なのに現実を生きる私たちには、蝋燭に火をつけることさえ叶わない。

 子供に笑われるような初級魔法の出来る出来ないで、職業を、就職を収入を、一生を左右されるのだ。

 ……魔法なんて、まるで夢がない。ただの能力主義社会を生んだだけだ。いつか小説の魔法使いに憧れていたはずの小娘が、今はこんな悲しくて乾いた諦念なんかを抱いている。

「俺が全力で魔法結界を敷いてやる。小娘の分際で俺には使えない攻撃魔法が使えるお前は、俺の結界を利用し、存分にその忌まわしい“初級魔法”を行使してみせろ」

 たっぷりと嫉妬や毒を塗りつけた、埋葬士の皮肉な笑いだった。私は、瞼を拭って立ち上がる。

「…………攻撃魔法なんていいものじゃないよ。あと、私、今年二十七歳だから」

「知っているさ――ふん。初めて聞いた時は絶句したがな。小娘なのは変わらんだろう」

 埋葬士が鼻で笑った。そこで、郵便屋さんが高速で後退してくる。予断なく剣を構えながら言ってきた。

「……もう大丈夫なのか」

「大丈夫か、だと? そんなことはやってみなくては分からない」

 私も頷いた。唇を歪めて、郵便屋さんが魔法のように消える。それは疾走だった。同時に、埋葬士が手を打ち鳴らして魔法結界発動の術式を組み始める。

「時間を稼げ、郵便屋!」

「分かっている!」

 郵便屋さんが声を上げ、両手で大きく剣を振りかぶって魔物に迫る。それを見送りながら、埋葬士がぽつりと言った。

「……時間が掛かるぞ」

「え?」

「才能がないんだ。仕方ないだろう」

 本当に、私たち才能のない人間は、いつもいつも余分な努力を強いられる。

「らあああああっ!」

 郵便屋さんが、斬りかかる。突進の威力を、剣の遠心力をすべてを斬撃に載せた、横殴りの強烈な一撃。風薙ぎの音がここまで聞こえた。

「!」

 大振りの剣は盛大に魔物の胴にめり込んだように見えたが、郵便屋さんは苦鳴を上げる。液状の体を切る。深々と突き刺さった剣を押し通そうとする姿は、まるで沼に捕まった棒を一心に振り抜こうとしているかのようだった。

 隣の埋葬士が頭を掻き毟り、声を上げる。

「くそっ!」

 埋葬士の眼前に組み上げられていく魔法陣が、パシリとショートして火花を散らす。たったの一箇所。魔法の術式は、ほんの少しの書式違いがあっただけでも、その機能の一切を失い沈黙するのだ。私は隣で、その複雑な術式を読み解こうと必死に目を走らせる。

 郵便屋さんは一人、死と隣り合わせの最前線にいた。まるで意に介さないかのように前進してくる魔物に押されながら。

「らぁッ!」

 引き、斬る。それが精一杯だった。刃は魔物を両断するに至らず、そして両断したところで意味は無いだろう。水を切ることは出来ないのだ。

「危ない!」

 魔物が、動く。郵便屋さんの目の前に問答無用で歪な魔法陣を形成し、処刑の魔法を起動する。

「がっ!?」

 炸裂、した。してしまった。確かに、間違いなく火炎魔法は発動し、郵便屋さんの上半身に熱波と威力を振りまいて後退させる。終わったと思った。郵便屋さんが顔を上げた時、そこには元の繊細さを台無しにするような酷い火傷が刻まれているのだろう。

「ふ――!」

 そんな当然の結果に反して、何故か剣を横一閃に振るい、斬りつける。平気なんだろうか? 顔を上げた彼は“何故か”まったくの無傷だった。

「生憎、魔法には嫌われていてね」

 ……気のせいか、一瞬剣から煙のようなものが上がっていた気がした。

「ここ! よく見て!」

「何……!?」

 私は、埋葬士が組み立てる術式の破綻を発見した。その部分の光を指さして強く指摘する。私の言葉を追うように、埋葬士が術式を追いながら考えを巡らせる。舌打ちとともに、ようやく埋葬士が理解した。

「ああ…………こんな簡単なことか、クソッタレ」

 皮肉な自虐と共に、術式は完成した。

「いくぞ、“魔法結界”――!」

「っ!」

 ――――青白い光が駆け回り、魔力が巡って魔法が起動する。回路を巡る魔力は加速され増幅され、真昼に落ちた少太陽のような強烈な光が網膜を焼く。肌を痺れさせるほどの命の脈動。人間の精神力に起因する魔力というものは、何よりも私たちの魂を震えさせるエネルギーなのだ。

「――っ!」

 魔力加速の破綻が取り除かれた魔法は、無理のない効率的な運用によってぐんぐん増幅されていく。掛け算の掛け算の掛け算まで、無責任に放出された魔力は人間の器では耐え切れないほどに大気中で沸騰し活性化していく。

「………………え、」

 世界が、変質する。起こり得ない魔法《きせき》が、既にこの場に顕現していた。

「…………………………………………雪……?」

 はらりと、手元に白色が降り注ぐ。いつの間にか空は冬の雲に覆われていた。大気は凍え、息は白く、町角の風景は一瞬にして様変わりしていた。

 勢いをまして降ってくる雪の中で、懸命に結界を維持しながら埋葬士が言った。

「…………魔法結界、『冬の息吹』」

 大気が、鳴ってる。魔力が満たされ、この一帯はひとつの属性を帯びていた。

 ――強化結界だ。埋葬士が張ったこの冬の結界によって、大気に魔力が満ちている。

「これにより、ある一属性の魔法のみが威力を倍加される。――いくぞ!」

 埋葬士がナイフを構え、先導する。私は埋葬士の背中に続いて駆け出した。こんな遠距離では、私のような素人の腕では到底魔物に当てられないからだ。

 走りながら、私は術式を構築し始める。持ちうる限り最大のものを発動しなければならない。腕の中の血が熱く滾るような魔力活性化。始めの一角を構成した時点から、回路に篭められた力がとても強力なのを感じ取る。……魔法結界は、確実に効いている。私自身が恐ろしく感じるほどに強化されている。

 だが、目の前に魔物の舌が飛来する。顔を潰されて私は死んだ。

「迷うな、走れッ!」

 その寸前に、埋葬士のナイフが魔物の舌を叩き返す。ちっぽけなナイフは折れてしまうんじゃないかと思えた。

 冷たい追い風が吹き抜け、肌を撫でる。雪は、ぐんぐんと強くなる。それに合わせてぐんぐんと魔力は倍加されていく。今、この空間に満たされたすべての魔力が、私の拙い魔法に収束しようとしているのが分かる。竜巻の中心にいるようだった。

「――っ!」

 右手に集い始めた爆速の奔流は、私の腕を根っこからふっ飛ばしてしまうほどに熱を持っていた。腕が青白い光を放ち、それが規格外に強烈で圧縮されていて、私の腕の骨までもが透けて見えてしまった。

「や、ばい………!」

「いける! 突破するぞッ!」

 進行方向に魔物の火炎魔法が展開される。視界を赤に覆われる。もうダメだ。死を直感した瞬間、

「ナメる、なぁああ――ッ!」

 埋葬士が、結界を維持しながら防御魔法を展開するという荒技をやってのけた。濁流のように割られる炎。転びそうになりながら前に進んだ。もうすぐそこ。郵便屋さんの背中が、怖ろしい魔物が近づいてくる。私は止まりたいのに、もう、戦闘圏内に入ってしまっている。魔物の水のような体表が近い。失神しそうだった。右腕を振り上げる。いつの間にか術式は完成し、もう発動するしかないタイミングに差し掛かっていた。ゼロ距離なら外しようがない。埋葬士に言われるままに私は、右手を突き出していた。

 郵便屋さんの脇を抜け、目の前の液状生物の体表に、その奥の心臓に殴りつけるように手のひらを押し付ける。

 このちっぽけなアイス売りが、あの田舎村の牛小屋の裏で一生懸命覚えた魔法なんて決まっている。

 

 “氷魔法”だ。

 

「凍り、つけぇええええええええええええ――ッッ!!」

 倍加されきっていた魔力が、すべて放出される。強化されきった氷魔法は、一滴残らず、私の魂まで吸い尽くすほどに怖ろしい効率でもってこの現実に還元される。

 ずしん。

 私が押し付けた手のひらを中心に、大気まで凍りつくような質量を伴った冷気が具現化した。まるで重力。一瞬にして空まで凍ったのではないか。そう感じさせるほどの、重い重い冷気だったのだ。

 手のひらの液状の感触は、一瞬にしてシャーベットになっていた。魔物の動きが鈍る。砲弾のように一直線に突き抜けた氷魔法は、魔物の体内に一直線のシャーベットを形成していた。

 シャーベットは、鼓動の鈍った心臓も捉えている。これで、もう逃げられはしない。

「………………よくやってくれた」

 弓のように思い切り剣を引いた郵便屋さんが、矢のように真っ直ぐ剣を突き刺した。その切っ先は確実に魔物の心臓を捉え、射抜いていた。

「ひあっ!?」

 心臓を射抜かれた魔物が、藻掻く。私の首を刈ろうと舌を振り回し、しかし郵便屋さんと埋葬士がそれをしがみつくように叩き落とす。

「下がるぞ!」

 埋葬士に力ずくで腕を引かれ、暴れる魔物から距離をとる。でも、心臓を失って生き続けられる生物なんていないだろう。十秒ほどで魔物はぐったりと動かなくなり、そのまま液状の体が融解して絶命した。

「………………」

 本当に、ただの水溜りみたいになってしまった。そこまで見届けてから、いつの間にか冬の気配がまったく無くなっていたことに気づく。雪は既に止み、幻想の消滅した空も青さを取り戻している。

「……無念だな」

「馬鹿を言え。どうすることも出来ないだろう」

 二人の男が鎮痛そうな視線を向ける。首だけの店長は、とっくに息絶えていた。

 

 

 

 数日後、私は町角のカフェテラスで項垂れていた。ちょっとだけいい服を着て、ずるずると普段は飲まないようなトロピカルなジュースなんかを飲んでいた。

 今日は暑苦しいくらいにいい天気だ。本当に暑苦しい。

「……ヌルい」

 氷屋の腕が悪いのだろう。自前で術式を形成し、仕事で何千回と繰り返してきた氷の基礎魔法を発動する。何やってんだろうかと思いながらも、キンキンに冷えていくトロピカルジュースを見ていると気分が晴れる気がした。

「おや、昼間から大した浪費だ。仕事はいいのかい」

「む。」

 前方から、仕事を終えた男衆が声をかけてくる。郵便屋と埋葬士だった。郵便屋の方は脇に膨らんだカバンなんか抱えている。封筒が溢れ掛けていた。

「……大盛況ね。郵便屋は儲からないんじゃなかったの」

「お陰様で。勇敢なアイス売りのお嬢さんに助力して頂いたお陰で、ご覧のとおり、この町での商売も滞りなく行うことが出来た。次の町へ行ったら大忙しだよ」

 やれやれなんて顔をハンカチで仰いでる。ちなみに、お嬢さんとか言ってるけど実は私のほうが年上だ。教えてはあげない。

「で、そっちは相変わらず繁盛してないのね」

「無念だがな。感謝の意で死人が増えるはずもない」

 黒色ローブの埋葬士は、相変わらず不景気そうだ。ふと通りがかった女の子たちが私たちの姿に気付き、ヒソヒソと興奮気味に話し合って視線を送ってくる。郵便屋さんは爽やかに手を振り、埋葬士は仏頂面で無視して、私だけが反応に困っていた。

「……こういう時は、嘘でも笑っておいたほうがいい。どこから仕事に繋がるか分からないからね」

 さすが個人経営。私は持ち前の接客力でもって飛びきりの笑顔を構築し、薄っぺらなハリボテの愛嬌を振りまくことに成功した。

「急に、どうした。気持ち悪いぞその嘘しかない笑顔」

 黒いのがうっさいので、脚を踏んでおもいきり黙らせる。女の子たちはきゃーきゃー言いながら手を振って去っていった。無駄に鉄ブーツの埋葬士は、ダメージ0で平然と言ってくる。

「……まったく、アイドル扱いだな。魔物一匹追い返しただけでこれか」

「お願い、黙って黒いの。私のこの、捻挫しかけた足首の治療費置いて秒で帰って」

 ニヒルに肩を竦められる。硬かった。岩を踏みつけたようだった。成り損ねた魔道士モドキの分際で、無駄にバトルブーツだなんて。

「しかし、埋葬士の言うとおりだな。俺も正直驚いているよ。こんなに仕事をもらったはいいが、これでは、利益のために戦ったようで癪だな」

「その通りだ。気分が悪い。報酬狙いだと思われているんじゃないだろうな」

 笑ってしまう。何なんだろうこの二人、戦闘ではあれだけ華麗だったくせに、こうしているとそこらの捻くれた少年のようだ。

「何言ってるのよ。あなたたちはこの町を救った勇者なんだから、相応の待遇を受けるのが当然じゃない。報奨金が出てないことの方がおかしいと思うわ」

 双方沈黙。二人ともしおらしい顔をして、心なしか重い空気だった。

「……犠牲になった魔道士たちが、な。」

「ああ。遺族のことを思うと、やりきれない」

「…………そうだね……」

 魔物を討伐し、運良く生き残った私たち三人は、町長から盛大に表彰を受けた。まるでお祭り騒ぎだったけど、同時に読み上げられた魔道士たちの名前の一つ一つが、生き残ってしまった私たちの胸に重くのしかかっていた。

 あれ以来、私たちは少しばかりのアイドル扱いを受けている。郵便屋さんなどは、郵便屋だと判明するや大量の手紙を依頼される始末だ。だからといって、埋葬士の仕事が増えるわけではないが。

「なぁ郵便屋。魔道士でない俺たち“だけ”が、何故か不思議と生き残っている」

「……ああ」

「それが魔道士なのだろうな。例えばあの、加速の魔法結界で連携していた二人。彼らは後がなくなった時、俺たちが特攻を仕掛ける前に自分らが先んじて特攻を仕掛けた。火炎魔法による蒸発狙いなんていう効率の悪い手段にも関わらず。……無論、俺たちが突っ込めば、死の危険性が高まるからだろう」

 郵便屋さんが瞑目した。黙祷するような、深い深い沈黙だった。

「…………やっぱりそうか。守られたんだな、俺たちは」

「ああ。恐らく」

 思うところないはずがない。魔道士たちは本当に死んでた。店長も。みんなが思うより、本当にあの場所は死地だったのだ。

「……怖いね。まるで戦争みたいだった」

「戦争さ。生きるか死ぬかの場所っていうのは、例え小規模でも小さな戦争なんだ」

 それが分かっているからあの時、郵便屋さんは喫茶店を飛び出していったのだろう。

 ……店長が言っていた。傭兵の仕事はとても重要なものだから、お金になるって。アイス売りなんてやめてしまってもいいくらい儲かるって。無知だった私はそれをずるいとさえ感じたけれど、なんて馬鹿だったんだろう。私は、私たちは兵士や魔道士たちに守られて安心しきっていたのだ。外の脅威を振り払ってくれている彼らの任務を見もしないで、理解すらしないで分かったつもりになっていた。

「で、お前らはこれからどうするんだ」

 仏頂面の埋葬士が、固く腕組みして言ってくる。郵便屋さんはいつでも爽やかだ。

「別に、何も変わらないさ。次の町へ行って郵便の仕事をするだけだ。一枚たりとも届け漏らすわけにはいかない」

「……また、一人で町を出るの?」

 私は不安だった。魔物の危険性を改めて思い知ったいま、外を一人で出歩くのは避けて欲しかった。

「いいや。今回は、渡り行列を待とうかと思う。タイミングもいいからね」

「そう……」

 よかった。出来れば、早めに旅の相棒なんかが見つかってくれることを祈っておこう。

「じゃあ、黒いのはどうするの?」

「俺も変わらん。この町で埋葬士としてやっていくさ。シケた商売だが、今回の件で食いっぱぐれにくくなったのは確かだろうからな」

 攻撃魔法の才能を持たない、魔道士になれない埋葬士。悲しいが、彼は彼なりに自分の人生と折り合っているのだろうか。

「で――問題は、キミだ」

「ほい?」

 トロピカルジュースのストローをくわえて誤魔化す。埋葬士が疑問符を向けてくるが、郵便屋さんは残念ながら事情通なのだ。

「結婚、するのかい」

「ほう…………?」

 黒いのがニヤリとした。興味持つなうぜぇ。

「ん〜……」

 視線を右へ逃がしながら、私の心は魚のように川を泳ぐ。実はもう、目的地は決まっていた。

「しない。ていうか、転職する」

「何……つまらん」

 黒いのが渋い顔をする。再度バトルブーツを蹴りつけるが、こっちは素足にサンダルだったのを忘れてた。

「私ね、田舎が嫌いなの。閉じた環境も嫌い。昔、狭い狭い田舎町で閉じこもってさ、それが嫌になって飛び出したのを忘れてたんだよ」

 忘れもしない、あの、日ごと窒息していくような息苦しさ。どこへも行けない人生を生きる退屈さ。……奇妙な話。私はいつの間にか、この都会で、『学がないから』と自分の未来を見限って昔のように窒息しかけていたのだ。

「まぁなんていうか、強烈な体験をしたせいで変わっちゃったのかも。あるいは思い出したのかな。昔みたいな――」

 小娘だった頃の、無謀さを。どうして忘れていたんだろう。自由というのは、自分からの解放のことなんだ。凝り固まってしまった自分自身という牢獄から脱却する時、その時の星空はきっとあの日と同じ鮮やかさをしている。

「と、いうわけで勉強してもっといい所に再就職するの。今年いっぱいまでアルバイト生活しながら、毎日勉強して資格とか取るから。悪い?」

 二人の男は、らしくもない穏やかさで私を見ていた。特に黒いのが子持ちのオッサン化してる。

「悪くない選択だ。二十七歳ならまだ、やり直しは十分に効くだろうからな」

「ああそうだな――――ん、二十七? 誰が二十七歳なんだ?」

 郵便屋さんが混乱している。本当に遺憾なのだけれど、実は、私からすると彼は『男の子』と呼んでも差し支えない年齢なのだ。

 その日はそのまま、カフェテラスで談笑してから食事に出かけた。無論男たちの奢りだ。夜にはお酒を飲んで、調子に乗っていろんな事を話した。思い返せば、友人と飲みに行くなんていつ以来だったろう。

 ……友人? ああ、私たちは友人なんだ。夜のカウンター席で、不意にそんなことに気がついてしまって笑みが零れた。

「どうしたんだ? さっきから一人でくすくす笑って、酒が回ったのか」

「うん、酒が回った。今日は本当にいい気分」

 毎日安月給の仕事だけに溺れていた私は、どれだけのものを見失っていたんだろう。どれほど大切なことを置き去りにしていたんだろう。一体、いつからあんなに乾いてしまっていたんだろう。

「すまん、この瓶ビールが泣けるほどぬるい。どうにかなるか?」

「はいはい、任せなさい」

 魔法を発動し、ビール瓶をキンキンに冷やしてやった。酔った埋葬士が歓声を上げ、それを見てばかみたいに笑う。こんな余分。いまはたったこれだけの遊びがこんなにも楽しい。けれど、その瓶ビールで不意に、店長のことを思い出してしまった。

 そういえばあの日、いつものように現れた店長が、ビールを冷やせと偉そうに命令してきたんだっけ。

「…………あれ?」

 ぽろりと、目から何かが零れた。そうだ店長はもういないのだ。もう二度とああやって、意味もなく店員の家を回ったりもしないのだ。くだらない事を延々と偉そうに喋ることもないのだ。不意に真剣な顔をして、魔法を考察することも一生ないのだ。

「ああ、やだやだ……」

 ゴシゴシと目をこする。どうにも、私は時間差でようやく理解することが出来たらしい。人が死ぬっていうのはいつもこんな感じだ。

 郵便屋さんが、埋葬士がつまらない話をしてくれる。私も同じくらいつまらない話をした。そんなたったそれだけの事が、人間は楽しくてしかたがないのだ。

 薄暗いバーの中は、騒がしい。塀に囲まれ、傭兵や魔道士たちに守られたこの町で、みんな活き活きと生活している。それぞれの人生に営みに必死になって生きている。それはこの世界のどこにでもある光景で、本当に、有り触れたものなのだ。

 誰が世界を救うことも、伝説に選ばれるわけでなくとも物語は続くのだ。私たちのような、この世界の隅で生きる名も無き雑草にも等しく人生はある。

 

 

 

 

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誰が世界を救うことも、伝説に選ばれるわけでなくとも物語は続くのだ。
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