恋姫†無双 八咫烏と恋姫 8話 雑賀人、黄巾を付けるのこと |
光和七年。歳は甲子、黄巾の乱が起きた。
武装蜂起を起こしたのは農民である、彼らは頭に黄色い頭巾を巻いていた事から黄巾党という名が付いた。その戦力数十万。何が目的で反乱を起こしたのは明確ではないが、張角という者が率いている以外の事は正確には分かっていない。ただ、分かっているのはとてつもないことが起こったということだ。戦争、とても大きな戦争が開戦された。
豫州潁川にて黄巾党と漢軍が激突した。
漢軍の将は朱儁、皇甫嵩の二名。彼らは果敢に戦ったが黄巾党は地を覆うわんとする大軍、漢軍は敗走する。しかし、次の戦いでは劣勢の中、皇甫嵩が火計を用いて黄巾党を混乱させ、そこに援軍としてきた曹操軍と合流してこれを大いに打ち破ることに成功した。これを皮切りにして全土で激しい戦いが勃発することになる。
黄巾党、その本隊が冀州巨鹿にて静養していた。
荒野には千を超える天幕が広がっている。その周りを柵と堀で覆っており、櫓にて辺りを警戒し、一見、簡単に攻め入ることは難しそうに見えるが実情は酷いものであった。兵士の数だけが膨れ上がり、武器や身を守る鎧、それに生きていく為の食料がまったくと言っていいほど足りていなかったのである。それに加えて流浪の民が黄巾党に入れば飯にあり付けるであろうと考えて集まってくるのだ。それを断ることのできない天和はどんどん彼らを黄巾党に入れてあげた。
中央に張られている大きな天幕が事の中心人物、張三姉妹の住居となっていた。なぜこうなってしまったのか。何とも簡単なことである。彼女たち三姉妹は孫市と別れたあと、各地を転々として活動を続けた。その甲斐あって信奉者の数は膨れ上がっていったある日である、三姉妹の次女張宝こと、地和が催眠作用のある妖術を歌の最中に用いてこう言った。
「大陸、取るわよ!」
もちろん、歌でである。それをファンの者たちは妖術の作用もあって、三姉妹がそう言うなら天下だってあげちゃうぞ、という風に黄巾の乱は起こってしまった。文章にすると何ともチープである。
現在、三姉妹の頭脳役である三女張梁こと、人和は絶望のどん底に陥っていた。
今、自分たちが置かれているこの状況、なんでこんなことになってしまったのだろう。私たちはただ歌が好きだっただけなのに、地和姉さんが変なことをしてしまったせいで。
人和は気狂いを起こしてしまいそうであった。天和は今がどういう状況かも分かっていなさそうだし、知和は率先して何かをしてはいるがどれも失敗に失敗を重ねてしまっている。人和はこのまま風癲を起こして何処かに去ってしまいたい気分であった。
人和はただ一人、椅子に腰かけてあらぬ方に眼が向いていた。二人の姉は呑気に風呂に入っており、今はこの場にはいない。そこに天幕の外から男の声が聞こえてきた。
「皆さん、よろしいでしょうか?」
何だろう、人和は垂れ幕の人影に眼を向けた。声からして、いつも何かしら報告に来る男であった。
「なに?」
中に入れようとする気も無い、そのまま報告を聴こうとする。
「はい。御三人方に会いたいと申す者が来ています」
どうせまた流浪の民だろう、人和はそう考えた。
彼らは戦力外である、飯を食うだけでまとも戦う事も出来ない。今は姉たちも居ないので追い返してしまおうと思ったが、逆光でできている兵の影を覆う大きな影ができた。
この影の持主が三姉妹に会いたい人物なのだろう。
(大きい・・・)
ふと思う。
影だけを見れば報告係の倍の大きさに見えるが、実物を見れば黄巾党の実態と同じようにひょろひょろかも知れないし、後ろに立っているのだから報告係の男の影を覆ってしまうのは自然の摂理である。
ふわ。天幕が、かすかに揺れた。小さく振るわせるように風が吹き始める。荒野を抜ける風が、垂れ幕を大きく揺らして中に入って来た。からりと乾いた大地の息吹が天幕の中に広がるその中に、僅かに涼やかな風が混ざっていたのに気付いた。人和はそれをなぜか懐かしいと感じたてしまう。昔の記憶ではない、いつか何処かで感じたことがあるような、爽快、というものだろうか、その人肌よりも涼しげな風が彼女の肌を撫でて抜けた。
次に垂れ幕が少しめくれ上がり、大木のような脚が大地から伸びているのが見えたと思ったら、人和は無意識の内に彼を誘い入れていた。
「入るぞ」
野太い声が通る。
その怪漢が幕を払い退けた。とにかく、巨漢。その男が頭を下げて入って来る。
遠く海の向こうと思えるような異国的気風をその身に宿し、異風を纏って突き抜けるように歩いてくる真赤な袖の無い羽織の男。後ろ裾をばさっと揺らし、真白になめした革の袴を動かしている。ぎろっとした眼で人和を見てから中を見回し、一周回って人和の元に戻った。その背後から次に涼風が通り抜ける。いやまったく、この男の息吹のように思えるほどすがすがしさがある男だ。続いて、小さな馬がかしこまって男の背後から現れた。背には黒光りの筒、それに天下一なんのなになにと書かれた差し物。墨はだいぶ、雨風にさらされており肝心の名前が読めない。とにかく天下一らしい。
この奇矯な男。すーっ、と静かに立っている。人和はその顔をただただ見上げている。言葉を失っていた。
場は静寂に包まれている。
「ここは流浪の者も入れてくれるらしいな」
天下一のなんのなになにが、ぐわっと吠えた。
「・・・」
人和はまだ言葉出てこない。
「おい人和?」
彼は親しげに彼女の名を呼び、腰を曲げて人和の顔を覗き込んだ。人和は眼の前のこの男を知っている。人和が彼の名を呼んでみると、男はニコッと人懐っこく笑った。
潁川にて漢軍と戦った黄巾党の将は波才という名の長い髭を蓄えた初老の男性である。彼はこの近くの町の遊侠の親分のような男で、町の顔役として役所などに出入りもしており、老若男女問わずに人気があったそうだ。波才は張三姉妹とは知り合いであり、過去に彼女たちの活動を支援したことがある仲である。彼にはちょっとした財と一声かければ三千人の侠人たちが彼の下に駆けつけるくれる人望もあり、この黄巾の乱でもそうであった。黄巾党の討伐の命が出ると彼は町の男たちを集めて張三姉妹の保護を買って出った。財産をはたいて兵の装備を整え、糧食を集めて黄巾党の将となり、今日まで張三姉妹を守り続けてきた。しかし、この男、戦さの才は褒めるほどではない。朱儁たちとの戦いは数を利用した勝利であり、彼の采配で勝利が決した訳ではない、現に次に戦ったときは対策を立てられており火計と援軍で粉砕された。
侠の精神だけでは戦さに勝てるほど世の中とは甘くはなかった。
この黄巾の乱、波才はこれが人生最後の好機ととらえた。侠の精神に則りながらも、波才はこの戦いになってデカくなってやろうと画策していた。それが波才の夢であった。しかし、この様である。波才は悔やんだ。歳は四十過ぎ、体格は優なれど過去の英雄たちのように戦局を変えるには至らない凡々である。このまま乱が静まれは逆賊として処刑されることだろう。
何か助かる道は無いのか、波才は考えたが答えは出てこない。しかし、波才には人を見る目があった。張三姉妹も波才が見込むと同時に囲む人が増えたのである。
彼の天幕の中は陰欝とした空気が蔓延しており、波才は息苦しさを感じて天幕から出た。外はからっと乾いており、こちらもこちらで嫌なものである。波才は、周りを見渡した。頭に黄巾を巻いた者たちが各々自由に過ごしている。どれもこれも不毛な気を帯びている。思わず重い息を吐いてしまう。
(やはり黄巾党などに入らずに義勇軍になってればよかったか・・・)
そんな言葉が零れてしまうほど、波才は疲れ切ってしまっていた。
波才は侠気に身を任せて三千人を率いて黄巾党に入った。この三千人は波才の町の男たちであり、そんじゃそこらの並の者たちよりは頼り甲斐がある連中である。不甲斐無い自分が、彼らにいまだ親分と呼ばれると波才は虚しくなってしまう。
するとだ。
そんな波才の前を一人の男が通った。波才の見かけたことのない男である、背は波才より頭一つ半分はありそうだ。その巨漢が黄巾党の一人に案内されるように、真赤な袖無し羽織をたなびかせて肩で風を巻くように歩く。その儼乎たる姿に波才は、まさに目を奪われた。
(なんだこの男は)
波才は息を呑んだ。男が足を踏み出す度に地面で風が起こったように見えた。その男の一挙手一投足が染み透るごとく波才を刺激するのである。
その男の後ろに付いていく小さな馬が、天下一のなんのなになにと書かれた旗を差して付いている。名前の部分はにじんで読めないが天下一なのは分かった。だが、男が自惚れているようには見えない。間違いなく自分は天下一であると、自負している面である。そのさまは見たことのない魅力があった。
(もしやこいつは例のあれではないのか)
波才は通り過ぎた男の背を追った。その背を見ると天を貫くような衝撃が波才の身体を駆け抜ける。男の背には、高みを飛ぶ八咫烏が黒々と染め抜かれていたのである。真赤な陣羽織に八咫烏を染め抜いた出で立ちはこの男の代名詞と言ってもいいほど似合っている。
(この男こそが八咫烏の化身に間違いない)
波才は疑わなかった。衝動的に男の名を聞きたくなったが、男の向かう先は張三姉妹がいる天幕である。侠気に身を任せてこの男は一人でぶらりとやって来たのかと思うと、波才は己の大きな身体が途端に小さく思えてしまった。供も連れずにたった一人で現れる、これが漢という者なのだろうか。
波才は夢中になってその男を追った。邪な考えなどない、ただこの男が何者なのか単純に知りたいだけである。追いながらも男の一挙手一投足を見逃さないまま、三姉妹の天幕の辺りまで付いていった。しばらくその男は待たされて、許しが出ると男は天幕の中に消えた。波才は天幕の隙間から中を覗き見る。
中では三女の人和とその男しかおらず、他の二人の姉たちは何かしているのだろう。三姉妹の天幕はとても大きく作られており、中には風呂さえあるほどだ。波才に至っては水浴びも出来ないというのに。波才が見るに、二人は親しげに会話を交わしている。ちょっとした仲なのだろう、話の流れから男の名前が分かった。彼は、孫市というらしい。変わった名前であるが、ああいう男というのは何処かしら変わっている方がらしくて良いだろう。ましてや彼は八咫烏なのだから、変な方が説得力があるのではないか。波才はそう納得した。
「待ってて、いま姉さんたち呼んで来るから」
人和はそう言って奥に消えていった。孫市は人和が用意した椅子に腰かけて手踊りしている。少し時間が経った。姉たちが風呂に入っていた為に少し時間が掛かったようだ。人和が二人の姉を連れて孫市の下に戻って来た。その二人は風呂上りゆえ、髪が濡れていた。孫市、その姿を見て、
「ホタ、ホタ」
と、膝を打った。
「孫市さん。お久しぶりですね、今日はどうしたんですか?」
長女の天和が長い髪を舞わせながら孫市に笑顔で歩み寄る。久しぶりに彼に会えて嬉しいのだろう。なにせ孫市は命の恩人だからである。
「いや、なになに」
孫市は、大したことではないという風である。
「ちぃたちのこと助けて来てくれたの?」
次女の地和がそう言った。
「まぁ、それは後よ。まずは話でも聴こうかよ」
「こうなった経緯よね?」
それだけで察しの良い人和が孫市の聴きたいであろう話を切り出した。
「おう、人和は話が早くてよいな」
どうやら孫市という男は三姉妹がなぜこうなってしまったのか全くと言っていいほど知らなかった。ただ、彼女たちが大軍を率いて何かしらやって討伐令が出たとしか知らないようだ。波才はこの男の世間知らずさには驚いた。今や黄巾党はもはや誰もが知るほどの規模となっているし、国相手に戦争をしている最中である。それをあの孫市は噂話を聞いた、と言ってここまでわざわざやって来たのだ。ただそれだけでだ。
(なんて男だろう)
なんとも形象しがたい男である。波才の目に孫市は映り続けた。その真像というのがどういうものなのか、波才は見極めようとしている。
「やれ、久方ぶりに会えばお主らは歌ではなく、逆賊として名を上げるとは思いもせなんだ」
三姉妹は孫市に別れの際に、お主らの歌で他の者たちを楽しませてやれ、と言われていたのを覚えている。そこの所を孫市は別に怒っている訳ではない、現に楽しませてやったのだから。孫市が怒っていたのは地和が妖術を悪く使ってしまったからである。幽州で会った于吉の話で妖術がどういうものか重々承知しており、そもそもこの黄巾の乱は地和のせいで起こってしまったと言っても過言ではないのだ。
「熱くなってて・・・」
地和が弁解をするが孫市は何も言わない。
外の波才は孫市が三姉妹の命の恩人と聞き、彼らの間柄が深いものだと知る。三姉妹の孫市に対する親しみも理解できた。するとやはり孫市は三姉妹を助けに来たのだろうか、波才は小さな期待を持ち始めた。
「地和。わしはお前の言い訳を聞きに来たのではない。お主らとは知らぬ間柄ではない、これも何かの縁じゃろうと思ってだな」
「手を貸してくれるってこと?」
人和が素早くそう訊いた。
「人和は話が早くて助かる」
孫市はもしかしたら自分はこの娘たちを助ける為にこの国に来たのでは何のかと思っていた。
一方の波才は、やはりあの孫市という男は八咫烏で、乱を起こした三姉妹を助けに来たのだと、その目はまさに孫市の考えを見抜いていた。考えることもない、直感でそう感じることが出来る。孫市は案外、単純な男なのかもしれない。波才はこれ以上覗き見るのもなんだろうと思い、天幕の出入り口に移動した。
中ではまだ話が続いている。
「ありがとー孫市さん! お姉ちゃん嬉しいぃ!」
三姉妹の中で一番単純なのは長女の天和である、彼女は孫市に助けてから密かに思いを寄せていた。命の恩人に単純に惚れてしまったのである。吊り橋効果というやつか、ころりといってしまった。彼女は大いに喜びながら孫市のたくましい腕に抱き付き、その豊かな胸を押し付けた。
「あぁーー! 天和姉さんずるい!」
そう言って地和も孫市の逆の腕に抱き付いてその胸を押し当てた。だが、彼女の胸は妹の人和にも劣る貧相であり、いわゆる貧乳というものだった。地和に勝ち目など無いに等しい。
「姉さんたち、孫市さんに失礼よ」
そんな中でも人和は落ち着いていた。申し訳なさそうに、孫市を板挟みにする姉たちを止めようとするが、当人の孫市の顔はほころんでいる。
「それほど喜んでくれるか。この孫市、お主らの為ならエンヤコラサと働いてやろう」
人和は先の事もあり、孫市のことを頼りになるとは思うが、果たして今回ばかりは本当にそうなのだろうかと悩んでしまった。相手は国であるのだ。
波才は話が終わるまで外で待ち続けた。やがて孫市が馬を連れて出てきた。
「八咫烏殿」
波才は孫市にそう言った。孫市は、波才の前でその足を止めた。それに続いて彼の馬も、陣内の案内のために一緒に出てきた三姉妹も足を止める。
「あ、波才さん。どうかしたんですか?」
天和がそう言った。波才は孫市に対して畏まりながら、
「八咫烏殿がここに来てくれるとは考えもしませんでした」
と、続ける。
「八咫烏?」
三姉妹は首を各々の角度に傾けながら同時に呟いた。どうやら知らない様子である。
「人和よ、こやつは?」
孫市は首を後ろにくるりと向けて訊いた。
「この方は波才さん。少し前に私たちの活動を助けてくれて、地和姉さんがヘマをやってから私たちのことを一早く助けに来てくれた方よ。戦いの指揮も取ってくれてるわ」
「ほう」
孫市は波才の顔を見る。その眼はいつものぎろっとした眼ではなく、波才を試すような、なんというか孫市なりに波才がどういう男なのか見定めているのだろう。波才は言い言えぬ緊張感に襲われたが、波才の肩にぽんと孫市が手を置いた。
「波才とやら、これからはわしもここの一員よ。そうかしこまるな」
これはあくまで自分たちは対等な関係として、自分たちの主は張三姉妹なのだから自分にそんな言葉を遣うなと波才に対して気を利かせた言葉である。八咫烏だから自分を特別視するなと、波才はその言葉の意味を捉えて一礼した。
「ではこれからどう呼べばいい」
「わしは雑賀孫市。みなは孫市と呼ぶ」
「ならば孫市。これから俺の所に来ないか、色々と話したいことがある」
波才はその言葉通りにすぐさま言葉を崩し、往年の友人のような話し方をした。波才の人望はこの臨機応変な行動が少なからず関係している、彼は相手から好感を得る術をすぐに実行してこの世を渡り、遊侠の親分までのし上がったのだ。
孫市は少し髭の伸びた顎をさすり、その流れで後ろの張三姉妹に案内は必要ないと手を振って伝えた。人和だけがそれを理解して二人の姉を天幕の中に連れ戻した。
(この八咫烏を何とか利用してやろう)
波才の頭の中はその事で一杯だった。自分の出しえる知恵を全て絞り出して、波才はこの戦いを勝とうとしている。黄巾党内部は殺伐としているが、この八咫烏の一手が戦局を大きく変えうることが可能に違いないと波才は信じた。波才はまず天幕に彼を誘い、酌をした。孫市の機嫌を取ろうとする、彼の初手である。孫市は、久しぶりに飲む酒を誘われるがままに飲む、孫市の乾いた喉は酒により潤った。そのまま二杯、三杯と孫市は立て続けに飲み干す。
波才はその様子をご機嫌良いと見て、孫市の杯に酒を注ぎながらこう切り出した。
「孫市。今の世をどう思う?」
「ん? わしに政の話か」
孫市はご機嫌のまま、朗らかに答えた。
「お前が来たのはこの世を憂んでのことだろう?」
親しみを込めたこの波才の態度、孫市は嫌いではない。むしろ好きである。
「そんなことは知らぬ。わしはただあの姉妹が大変だと聞いたからここに来たのだ」
「むむむ、そうか」
波才はその言葉にこもった侠気を確かに感じ取った。だが、八咫烏がこの大陸に降り立ったという意味はその言葉の中には含まれてはいなかった。この国の乱れを収めるために孫市は天から降りてきたのではないのか、波才はその事を訊いてみた。あくまで機嫌を壊さないように。
「孫市は八咫烏なのだろう? この国の乱を収めるならむしろ漢軍に付くべきじゃないか?」
波才の言い分はもっともだろう。こちら側が乱を起こしているのに、その乱を止めるためならば漢軍に付くのが普通ではないのか。孫市は、ぎろっと波才の方を向いた。波才は言葉をもう少し選ぶべきだったと後悔する。
「八咫烏八咫烏とお前はうるさいやつだ。わしがここに来たのはあの娘どもをただただ助ける為よ、国や政など興味はない」
杯を手に持ったまま、孫市はくわっと喚いた。孫市にしてみれば怒っているのではなく、丁寧に教えてやっているのである。波才はその考えを読み取り、冷静に物事進めていく。
波才という男は何度も申すが世渡り上手であった。相手の心を読み取り、何を欲するか見極める。
「孫市が侠なのはよく分かった。俺はお前みたいな男は好きだ。ところで孫市、お前は一番大変な時期に来たな。つい先日俺たちは大敗したばかりよ」
その大敗は波才が率いていた時の戦いである。波才は己の失敗を笑いながら孫市の言うのである、相手から好感を得る為なら自分の恥さえ笑い話に変える。
その事を孫市に伝えると孫市は、変わったやつだな、と一言。孫市にしては珍しい返しであった。武士というのは戦いの敗北をいち早く忘れようとする生き物である。掘り返されるものなら怒りに任せ相手を叩き斬ってしまうことさえあった。
現状、その敗戦の消耗で物資はほとんど残っておらず。満足に兵士を集めることも叶わない、もし集まったところで遠征に出る兵糧も無い。田んぼに置かれている案山子のように虚勢を張るしかできず、ここの約十万の兵力は紙くず同然である。
「戦えんなら戦わなくてもよいじゃろうて」
孫市、波才の言葉に耳をかすかに傾けていたが、言の葉の合間にぽつんとそう呟いた。波才は困惑する。
「なんなら降伏して三姉妹の命だけでも助けてやればいい、それならあの姉妹は助かるじゃろうて」
孫市は、波才を置いてぽんぽんと話を進めていく。波才は手をかざして孫市を制して、彼の話を止めさせる。そうぽんぽん話されても付いていけない、波才は冷静にゆっくりと話し合いたいのだ。
「孫市、もうこの戦いはその程度の規模ではないのだ。例え降伏しても見せしめ、今後の抑止力として三姉妹は殺されるだろう。それに俺の首もな」
「なるほど、ならばやるしかないのじゃな波才」
孫市の目は、パッと火花を出したように赫ったように見えた。その目で見られた波才はそれに飲み込まれるような錯覚と同時に熱気をまとい、身体が熱くなった。間違いなくこの男、八咫烏の孫市は漢軍相手に大戦闘を繰り広げる気でいる。なぜだろうか、波才は途端に戦場に飛び出したくなった。四十を超えた身体に若かりし頃の熱を感じる。それは前戯にも似た煌々とする気分だ。眼の前にいるのは自分の歳の半分ほどの男である、この男を見た瞬間からただ者ではないと思ってはいたがその予想を遥かに超える男であった。もう八咫烏などどうでもいい、この孫市という男をもっとよく知りたい。波才の心に好奇心が芽生え始めていた。孫市という人間に関わったことで、自分の人生は大きく動き始めているのに彼自身でも感じ取ることができた。
(俺はこの男に付いていきたい)
目を瞑り、自分の世界に入る。
遊侠の親分として生きてきた俺がこんな若造に惚れこんでしまうとは、俺も老いたな。こいつに付いていけば夢ももしかしたら叶うやも、ならば孫市という漢を惚れ通してやろう。
「孫市」
と、波才が孫市に声をかけた時には孫市の姿はなかった。出入り口の垂れ幕がゆらゆらと揺れている、外に出て行ってしまったのだろう。波才は続いて外に出た。そこでは孫市が自分の荷馬を連れ、どこかに行こうかという風に歩き出そうとしていた。
「おい孫市。どこに行く?」
この男が逃げるとは微塵も思わなかった。
「なになに、少し陣内を散歩するだけよ」
「俺も供をしよう」
「お主、将のくせに新入りの散歩に付き合うとは変わった男やつだな」
「お前に言われたくはないわ」
孫市と波才は共に陣内を見て回った。孫市は、田舎から都会にやって来た者のように辺りを珍しげに見回す。波才は案内するように先導するが、孫市は気付くと逆の方に進んでいたりと勝手気ままで、まるで異国に迷い込んだような、風変わりな男である。天幕の間に作られている道を通り、飲んだくれている兵士に話しかけたり、その顔はすがすがしい。回れば回るほど陣内の雰囲気が殺伐としているのに気付くはずなのに孫市は意に介さないように涼しい顔をしている。すると孫市が何かを指差しながら説いてきた。
「おい波才。あいつは何をやっている?」
孫市が指しているのは一人の男である。その男は弩を手にして空を見上げていた。波才がその男を見るのと同じく、弩を持った男は親指を舐めて矢尻に唾を付けると空に向けた。男の視線の先には一羽の鳥、弦の弾ける音と共に矢が空に向かって飛んでいった。鳥に一直線ではなく、鳥の軌道を予測しての撃ち方である。その矢の飛んた先に鳥が誘われるように移動し、首を貫かれて果てた。死骸はぼとっ、と音を立てて地面に墜落。
「あれは何だ?」
孫市がまた言った。あれとはどれのことであろうか、波才は訊ね返した。
「あいつが持っているものじゃ」
もしや孫市は弩のことを言っているのだろうか、波才は耳を疑った。
孫市が知らないのも無理はない、弩は日本では全くと言っていいほど普及しなかった。弓が主流であり、孫市が産まれたころにはもう鉄砲がちらほらと頭角を出し始めていたころである、孫市は弩など産まれてこのかた見たことが無かった。波才は、首を傾げながらあれは弩であると説明した。
「弓ではないのか。鉄砲のような構え方をしているのう」
今度は波才が訪ねた。
「鉄砲とは?」
孫市は赤兎馬の背を指した。そこには黒光りする筒が三本ほど差さっている、波才はその見たことのない物に関心を持った。ちょうど先ほどの孫市と同じ心情なのだろう。
「言葉より見た方が分かるじゃろうて」
孫市はその鉄砲の中でも抜きん出た性能を誇る、愛山護法を手に取った。慣れた手つきであっという間に装填すると構える。前方、約八十間(145m)の所に張られている天幕に黄の字の旗が立てられている。どうやらそれを狙っているようだ。波才は、孫市が一体何をしているのか理解できる知識は持ち合わせていなかった為にぼーっと突っ立ていると忽ちに波才の耳が襲われた。
どがぁぁぁぁん。
雷が落ちたような轟音が辺りに響き渡った。陣内の黄巾党たちは耳を塞ぎ、音のした方を見る。音は荒野の外までこだまする。反射的に自分の耳を塞いで波才も難を逃れた。ちらっと孫市の狙っていた旗を見ると、弾けたように折れて宙を飛んでいた。ここからあそこまでは八十間もある、加えて旗を結び付けている棒の部分はこの距離では糸のようにしか見えない。弓でも弩でも狙えるのは玄人ほどの腕を持つ者だけだろう。いやいや、そもそも孫市は何を飛ばしたのかすら波才には理解できなかった。
「波才や」
混乱している波才を孫市が呼んだ。
「な、なんだ?」
波才は取り乱しながらも返事を返した。
「あの弩とやらを持ってきてくりゃれ」
「お、おう」
と、波才は返した。
孫市に言われてすぐに行動を起こした。孫市は短気な男だ。気に入らないことがあればどんなことをするか分からない怖さがある、波才はそれを見抜き、すぐに手下を使って弩を持ってくるように命じた。すぐさま波才の下に弩を持った手下が帰ってきた。孫市はその間、悠長に大あぐらをかいて弩が向こうからやって来るのを待っていた。
手下が持ってきた弩を、やおらに手に取り、どういう物なのか確かめ始めた。孫市、弩を触るのも初めてである。あらゆる角度からそれがどんなものなのか、どういう仕掛けで矢を発射するのか解析する。長いまつ毛で陰を作りつつ、手の内で弩をくるりと回している。弩とは横倒しにした弓に弦を張り、木製の台座の上に矢を置き引き金を引く事によって矢や石などが発射される機械仕掛けの武器である。孫市の生きた時代の武士たちには、性格上合わなかったために完全に消滅してしまったものだ。
孫市はおもむろに弦に手を掛けた。このころの弩は鎧も貫通させるために改良などが施されており、片手で弦を引くなどまず無理であったのだが孫市は表情一つ変えずに弦を張った。波才は声を出してたじろいだ。
「なんじゃい波才。なんぞ間違ったかのう?」
「いや、何でもない孫市。それであっている、あとはその台に矢を置くだけだ」
手下が波才に矢を渡した。それは弓の矢と比べると短めである、弩専用の矢だ。矢が波才伝いに孫市の手に渡った。孫市はそれを台に乗せて辺りをきょろきょろと見回し、陣を覆っている柵の方へと向かった。的になるような物が無かったのであろう。陣の端、柵の手前まで来るとおよそ五十五間(100m)ほど離れた所に陣の外に枯れ木が立っている、柵に弩を安定させ孫市は狙いを定める。
「下から三番目」
とは、下から数えて三番目の枝という意味だろう。波才は孫市の横に立つと枯れ果てて葉も付いていない枝の三番目を見て孫市が矢を放つのを待った。
やがて弦が弾ける音と矢が空気を斬る音が聞こえるとその枝目掛けて一直線に放たれた矢が飛んでいく。これは当たる、と波才は推測した。孫市の言葉からして弩を扱うのは初めてのようだが、素人のようには見えない業である。矢は孫市の宣言通りに三番目の枝をへし折った。
「さすがだ」
波才は、隣にいる孫市の方を向きながら褒めるがその当人の顔は何とも不服そうである。波才から見て矢はちゃんと当たっていたのだが孫市の目からすれば外れていたのだろう。すると孫市は、
「少し右に反れた」
と、呟いた。扱うものが弩であろうとその腕は劣りはしないが、一寸でも狙った所からずれるのが嫌なのである。
「上から二番目」
波才、そこを見る。同時に矢が飛び、その枝を落とした。
「これは良いのう、使いやすい」
今度は納得のいく出来だったようで孫市は笑っている。たったの二度で、孫市は弩を手足のように扱えるようになってしまったのは彼が、天才だからだろうか。
波才の目に映る、孫市の無邪気な髭面の笑みはまだ童の面影を残しているように見えた。波才は思った。この孫市という男はもしかしてまだ子どもなのではないだろうか、喜び方が大人のそれではないほど純粋で無垢に見える。
喜怒哀楽が激しいのだろうか、不気味に見えたが男らしくも見えた。見続ければ見続けるほど変な男である。
「波才」
物事を考えていた波才は少し遅れて反応した。次はどんなことを言ってくるのだろうか。
「ここに兵はどれほど居る」
孫市、天幕が広がる陣を見渡しながら言っている。彼なりに何か考えがあるのだろう。
「ざっと十万だ」
だが、どれも戦力になるほどの者は少ない。ちゃんと鍛錬を積んでいない者が大半を占めていた。
「十万? どれほど動かせる」
十万なんて数字は孫市からしてみればとんでもない数である。織田信長が紀州攻めに用いた数に匹敵していた。そういえば、南蛮の商人に向こうの国での戦さがどういう物なのか孫市は訊いたことがあった。商人は向こうの国では百万人がぶつかり合うと言うと、孫市は呆れかえったのをふと思い出した。その間も波才の話は続いている。
「糧食の関係上、約一万」
一万で限界である。それほどここの物資は枯渇していた。この一万という数字も波才のおよその予想でしかなく、その半分も動かせれるか正直のところ波才には分からない。
孫市は、うんうんと頷きながら弩を捨てるとそれを指差しながら喚く。
「これを五千。兵はそうじゃな、三千ほどおればよいか。全員に槍を持たせてな。波才は将なのだろう、集められるか?」
波才は断ることなど出来なかった。一目見た時から孫市に惚れているのだ。どんな無茶難題でも聞いてやろう、という心意気で構えていた波才は快くその願いを叶えようとした。
「戦さか?」
しかし、波才は最後に確かめたいことがあった。
「そうよ。ここに来る前に生意気な者たちを見かけてのう。お主が指揮を取れ」
「俺など兵法のへの字も知らん素人だ。兵を率いるのなら孫市、お前がいい。お前の下でなら俺も働きがいがあるというものよ」
さすがの孫市もこれには困惑した。
「初めて会った男に席を譲ると?」
これは波才に残っていた侠の精神であった。
偽物の男に付いていくより、本物の男に付いていく方が良いだろう。今まで馬鹿な自分に付いて来てくれた者たちに対する情であった。
「しばらくは俺がお前の補佐という形にする。だから孫市、共に戦ってくれるか?」
波才は最後に訊ねた。孫市は涼しげに破顔しながら答えた。
「その為に来たのだぞ? 無粋なことを訊くな馬鹿がぁ」
孫市の言葉は悪いが粗暴な口調ではなく、親しみを込めたいつもの調子でそう言った。
すると波才は微笑んだ。孫市の前から姿を消すと、手下の者に命じる。自分の直属の兵士三千人と弩、戦さのための食料をすぐさま集めるようにと。波才自身も陣内を駆け巡り、手下たちに伝えていく。
明日までに兵三千人と弩を五千個、遠征用の食料をざっと一月分。まだ昼過ぎ、波才の人望を持ってすれば楽勝と言えた。陽が沈むごろには八割方完了していた。
波才が多忙を極めている最中、孫市は用意された天幕で弩を弄っていた。地べたに布団を敷き、その上で寝転がりながらもその眼は真剣そのものである。雑賀衆は研究熱心な者が多い、孫市もその一人と言えた。しかし、その代わりに向上心が全く無い。研究はただ効率化や利益を得る為のものであって、自分を磨いて上を目指す野心というものが無いのである。そこが雑賀衆の変わっている所であった。
「たれじゃ?」
篝火で人影が映ったのに気付いた。孫市は弩を放り棄てるとこの影を睨む、敵意は無いが物腰がなんとも怪しいがその影は女のものであった。孫市は本当に誰だろうと怪訝そうにする。
「わ、私ですよ孫市さん」
「その声は」
その声は張三姉妹の長女、天和の声に間違いなかった。黄巾党の首領が夜深くに何の用だろうか、孫市は思考しなかった。むしろ、そっちから来てくれるとはありがたいと思う。孫市に言わせてみれば、天幕に忍び込む手間が省けたというものである。
「入るといい」
孫市は天和の影に向かって猫のような手付で手招きをする。遠慮知らずの天和は礼も少しに孫市の天幕に入り込んだ。彼女の姿は寝巻きである、昼間の格好と違った別の美しさがある、容姿は良いのだからもう少し教養と思うのは余計と言うのだろう。
「で、なんじゃ?」
孫市は、わざとらしくそう訊いた。天和は胸に手を当てながら頭を下げて、寝転がっている孫市と視線を合わせてから口を開いた。
「待て」
止めたのは孫市である。
「まぁ、立って話すのもなんじゃ。ここに座れ」
と、言って指したのは自分が寝転がっている布団である。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
天和は笑みを浮かべながら言う。孫市の気遣いが嬉しいのだろう、その様子を見て孫市は思った。
(警戒心のないおなごじゃな)
男と二人きりなのだから少しぐらい警戒しても良いものであろう。逆に男として傷付きそうになる孫市である。孫市は姿勢を正してあぐらをかく、天和がその隣にちょこんと座った。背の高い孫市の顔を見上げながらもじもじと恥ずかしそうにしている。
孫市は天和が思い切りのいい女だと思っていたようで、意外そうに苦笑いを浮かべた。孫市は少し気分が冷めた。
「どうした」
こういう時は自分から切り出した方が円滑に物事が進むと経験上知っていた孫市は、優しげに言った。
「あの私、孫市さんに助けてもらってからちゃんとお礼を言っていなかったのでその・・・」
(助けたとは・・・あの時のことか?)
孫市してみればもうずっと昔のように思えた。この国に来て一日一日が楽しくて充実しており、もう何年も前のことのように思えて、思い出すのに時間がかかっている。孫市は今この時を生きる男である、過去の事も未来の事も気にしない性格ゆえ、こうも毎日をふらふらと過ごせるのだろう。
「あの時はありがとうございました」
天和が孫市を見ながら感謝の意をきちんと言葉に込めて言うが、孫市はどこか上の空。この時まだ思い出している時であった。天和が置いておかれてきょとんとしていると孫市がようやく思い出して手を打った。昼間にもこの話題が出ていたのに、この男はまったく。
「褒められるものではない。もう夜も遅いだろう、妹の所に戻ったらどうじゃ?」
「孫市さん・・・」
天和は孫市に拒絶されたように感じたのだろう、伏し目がちになり陰ができた。その肩に孫市が手を置いた。
「わしはまだ用事もある、波才に聞いているだろうが明日は用がゆえ、早よ眠ろうと思っておる」
ずけりと言った。天和が孫市を見上げた。孫市はその顔を見る、涙目で上目使いで首を傾げている。
(あ、抱こう)
夜と彼女が寝巻き姿だったのも合わさった。涙目で見上げられ、孫市はあぐらをかいたまま飛び跳ね、自然と心が引き締まり、彼女を気に入った。
孫市、すでにその気だ。
「天和。やはりここで寝ていくか?」
「え!?」
「嫌ならよい、無理強いはせぬのがわしじゃ」
「えっと・・・」
天和、慌てている。すると、天幕の中に誰かが飛び込んできた。
「天和姉さん! 抜け駆け禁止ぃ!!」
地和であった。
「ちーちゃん!?」
「姉さん、私を差し置いて抜け駆けするなんて!」
「違うよ、お姉ちゃんは助けてくれた時のことのお礼に」
「言い訳禁止!」
「ええ〜〜!?」
孫市は不器用な男である、一度に二人も同時に相手は出来ないし、それは孫市の女子道に反するものであった。
「人和、居るか?」
孫市は外にある影に声をかけた。
「ごめんなさい、孫市さん」
人和が申し訳なさそうに天幕の中に入ってきた。どうやら二人で姉の後を付けてきたようだ。
「いやいや、なになに」
孫市は微笑んでいる。逆に感謝している風に思えた。人和は未だに孫市のことを不思議な人だと思っており、まだ自分たちの助太刀に来た真意をちゃんと訊いていなかったことに気付いた。
人和はこれを機に思い切って訊いてみることにした。
「孫市さん。こういう時になんですけど、どうして私たちを助けてくれるんですか?」
本当にこういう時になんである。孫市は一瞬どう言うか迷った。お主らを英傑と見た、と言うのは変である。しかし、嘘を付かないのが孫市であった。二人でじゃれている天和と知和を見て、それから人和を見た。
「お主らが好きじゃからよ」
孫市、本気でそう申すのだ。これが嘘ではないと三姉妹ははっきりと感じとり、誰もが黙りこくる。孫市、ニヤニヤしたままそこに踏ん反り返っていた。
次の日になると、波才はちゃんと準備を終えていた。自分が連れて来た三千と弩が五千ほどと矢は集めれるだけ集め、食料は一月は過ごせるほど集めることに成功した。少し他から反発はあったが人和の説得によって騒ぎにならず済むことができた。
だが、肝心の孫市の姿が依然見えなかった。波才が三千人の前に静かに立っている。三千人はいつもの波才と違う雰囲気に呑まれ、整列して孫市の到着を待っていた。
やがて、三千人の後方。波才から見れば正面の少し離れた所から大きな男が躍りながら向かってきているのが見えた。手には大鉄扇、服は赤羽織、傍らには赤い布を首に巻いた小さな馬。その馬の背には黄色地の差し物に天下一孫市と書かれている。孫市もいつも結っている髷を黄色の紐を使って結っていた。黄巾スタイルである。
「いやいや、絶景よ。絶景。あっ、ちょっと通してくりゃれ、通してくりゃれ」
波才の選りすぐりである三千の屈強な男たちよりも孫市の身体は大きい。広い肩幅を前後に振って男たちの間を簡単に押し通ってしまう。皆は孫市の姿を見て各々同士囁き合っていた。この男が自分たちの将になることを聞いていた彼らはそのひょうげた素振りに、波才よりも頼りがいが無さそうに見えた。これが自分たちの新しい親分かと思うと落胆してしまうが、波才の見る目は彼らも信じていたので心を一新して自分たちの前に立つ孫市の姿を見た。最後尾からも孫市の髭剃り後の顔がよく見える。
「波才よ、一日でこれほど集めるとは凄いのだなお主は」
隣に立つ波才を褒める孫市となぜか偉そうに踏ん反り返っている赤兎馬。
「わしは雑賀孫市」
と、孫市は言った。
この孫市を誰よりも凝視する男たちがいた。彼らは三人でいつも行動することで有名であり、その三人通称ノッポ、チビ、デクの凸凹三人組はあの男はもしやもしやと、孫市のことを上から下まで隅々観察する。
いやいや、あれは間違いないではないか。そう語るのは兄貴分のノッポである、かつて渤海近辺に流れ星が落ちた日に彼らは運命的な出会いをしていたこと忘れることなど出来なかったであろう。ノッポは軍列の中からその名を呼んだ。
「おーい! 鴉の旦那ぁ!」
「むむ?」
孫市、わざとらしく瞼の上に手を添えて、なになにとノッポの声がした方を見る。そして、あっと驚いた。この国に来て右も左も分からなかった自分に金を貸してくれた恩人たちがいるではないか。孫市は恩まで忘れてしまう男ではない、再び男たちを割って進んだ。
「お主ら黄巾党におったのか」
三人の肩をチビから大きい順に叩いていく。
「久しぶりだな旦那。未だに名は聞かなかったが?」
ノッポは少し小馬鹿にしたようにへらへらと笑う。
「許してくりゃれ、少し休みすぎた。これから身体を動かしに参るぞ」
おっとそうだ。孫市は思い出した。
「お主らに金を借りていたな、指揮は執れるか?」
デクの肩に置いていた手をノッポの肩に戻して言う。
「まあ・・・」
ノッポはこれまでの戦いで何度か隊を率いたことがあった。これでいて中々の戦上手である。
「よーし、これからお前らに千人預けるぞ」
「ちょ、ちょっと待て」
孫市は思ったことをすぐに口走る。ノッポは慌てた。まだ自分たちがどこに行くか、何をするのかさえ聞いていないのに隊長にされても混乱するのは当然だろう。
「兄貴、やっぱこの旦那おかしいですぜ?」
「だなぁ」
チビとデクがノッポに囁いた。ノッポは頷くが孫市の話はもう二つも三つも先に進んでいた。
「もう千人は波才が率いてくれ」
と、言いながら列の間に手を差し示し、
「ここからここまで」
と、千人を適当に割り振る。
「あとの者は武器と飯を運べ、馬車はあるかぁ」
三人は先のことが不安に思えてきた。本当にこの男の隊にいて大丈夫なのだろうか、命があと二つほど欲しくなってくる三人であったが以外に他の男たちはこういう滅茶苦茶な感じが好きなのだろう、テキパキと動き始めた。
「そーれそれ、昼には陣を出るぞ」
孫市、大鉄扇を振り上げて喚いた。さあ陣離れである。今日も良い天気だ。遠巻きで三姉妹が孫市に向かって手を振っている、孫市は応えるように手を振り返した。
説明 | ||
天下一の色男にて戦国最大の鉄砲集団、紀州雑賀衆を率いる雑賀孫市は無類の女好きにして鉄砲の達人。彼は八咫烏の神孫と称して戦国の世を駆け抜けた末に鉄砲を置いたが、由緒正しき勝利の神を欲する世界が彼に第二の人生を歩ませた。 作者自身、自分の作品を良くしたいと思っておりますので厳しい感想お待ちしております。 Arcadia、小説家になろうでも投稿しています。 |
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