現の中の夢物語 三章
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三章 三度目の夜

 

 

 昨日の夜、秋広さんから唐突に休みが与えられることを伝えられた。

 明日見の丘に定休日はなく、何かない限りは毎日開いているが、例外的にひと月かふた月に一度だけ、臨時休業があるのだった。

 その休みを使って、前にヘンリーが話したように旅行へ行くこともあれば、何をするでもなくのんびりと過ごすのが慣例だ、と蓮香さんは教えてくれた。そして彼女は、せっかくだから俺に街を案内してくれるという。これを遠くに断る理由もなく、喜んでオーケーすると彼女は笑みを見せてくれる。

 いつも明るく愛想がいい彼女だが、満面の笑顔は格別だ。

 そういえば、昨日は件の悪夢もなかった。……結局、なんだったんだろうか。もう二度と見なくなればいいんだが、どうにもあれきりで付き合いが終わるとも思えない。まあ、その時はまた足羽さんに話を聞いてもらおう。

 初めは付き合いづらいと思っていたあの人だけど、夢をきっかけにずいぶんと親しくなれた気がする。悪夢が人との関係を取り持ってくれるだなんて、なんとも言えない皮肉な話だが。

『長郷くん。準備出来ていますか?』

「ああ。今出るよ」

 今日が臨時休業になった理由は、いくつかあるそうだがその内の一つには、俺も関係している。というのも、遂に俺が喫茶店で着る制服が出来上がったらしい。そして、それに合わせて俺の私服も買い揃え、生活に不自由がないようにしておいた方がいい、と秋広さんは言ってくれた。今日はまだ「服を買いに行くための服がない」ので、秋広さんの服の中から一番まともそうなのを借りたが、明日からは私服に関しても俺がいいと思った服を着ていられる。おまけに店の方にも制服で出れるので、ようやく新たな生活が始まった気がする。

 それにしても、あらゆる料金は秋広さんが出してくれた。俺のバイト代の前借りみたいなものだ、とは言っていたものの、既に秋広さん達には三食食べさせてもらっているし、数え出すと気が遠くなるほどの恩がある。

 制服を入手した暁には、出来るだけ懸命に働いて、少しでも恩を返したい。売上を更に伸ばすため、何か新商品でも開発するのを手伝ってもいいんじゃないか――そんなことまで連想的に思い浮かんでいた。

「おまたせ。なんか、男の俺の方が待たせるなんて変だな」

「そんなことないですよ。長郷くんはまだ色々と慣れていないので」

「けど、いい加減に慣れないとな。今日私服を買ったら、もうそんなに支度とかで時間を取らせることはないと思うけど――どっ」

 手櫛で髪を整えながら、今日はじめて蓮香さんと顔を合わせる。すると、どういうことだろう。俺の視線は彼女の可愛らしい顔や魅惑的な胸ではなく、更に下へと釘付けにされてしまった。

「どうしました?」

「きょ、今日は……ミニスカートなのか」

「に、似合わないですか。こんな、足を出しちゃうのは」

 そんなことは全くない。ただし、普段の彼女は部屋着でもロングスカートだったし、喫茶店の制服は極端に露出の少ない、クラシカルなメイド調のものだ。白い肌と、それよりも白く輝く膝丈のソックスが眩しい。あまりにも眩しい。

「長郷くん。そんな、見ないでくださいっ」

「ご、ごめん。よく似合ってるよ。俺と吊り合わないぐらいだ。一番見た目のいい服を借りたけど、蓮香さんに比べると中身が伴わないからな……」

「そんなことはないですよ!長郷くんは、素朴ですごくいい感じですから」

「素朴、か。そうか」

 そこまで俺は芋臭い顔をしているだろうか。フォローのつもりで言ってくれた言葉が、逆にちょっと胸に刺さる。自尊心なんて大層なものはないに等しいので、そんなに傷にはならないけども。

 何よりも、今は俺のことなんかより、蓮香さんに注目したい。少しずつ暑くなって来る季節のためか、蓮香さんの服は全体的に青を基調としている。部屋着のものよりも装飾が多く、フリルで可愛らしく彩られたブラウスは薄いブルーだし、スカートも爽やかな青がメインだ。その姿はさながら、避暑のため地中海にやって来たお嬢様、といったところだろう。

 対する俺は――比べることも恐れ多いので省略しておく。

「では、早速いきましょう。ジェイムズさんも、まもなく来ることでしょう」

「ヘンリー?ああ、そうか」

 なんだか二人きりで遊ぶ気分でいたが、ヘンリーも一緒の約束だったことを思い出した。けど、彼女が来てくれてよかった。蓮香さんと二人で街を歩くというのは、まるであの夢と一緒だ。なんだか薄気味悪い。しかも、そうでなくても傍から見ればいわゆるデートのようで、不思議な気まずさのようなものがある。

 しかし、そこで女性陣が多くなれば、俺は女子二人の買い物の荷物持ち、という実に無難なポジションに収まることができる。今日は俺の買い物もあるので、どれだけ荷物を持てるかは不明だが、まあそこそこは貢献できるだろう。

「太陽が眩しいな……。こんなに明るいものだったのか」

 奇妙な話だが、俺はここに来て初めて建物の外に出て、太陽というものを拝んだことになる。ずっと室内で生活していてそこから出ることはなかったし、“あの夢”の舞台は夜の世界だった。たとえ夢の中であったとしても太陽の下に出たことはない。

「今日は特によく晴れていますね。帽子か日傘が欲しい陽気です」

 男の俺は眩しいとか暑いとか、動物的な反応をしているだけでいいが、女の子はそうもいかない。日焼けのことが気になるだろうし、直射日光はじりじりと体力を削っていく。あまり丈夫には見えない蓮香さんには、さぞきついことだろう。

「すぐにでも店の中に入りたいな。とりあえず蓮香さんは、ヘンリーが来るまでは……」

「いえ、もう来ましたよ」

 彼女を気遣って店で待つのを勧めようとすると、店を出て右手側からヘンリーが元気いっぱい走って来ていた。確かあっちの方向はより奥まったところに繋がっていて、件のケーキ屋、山代屋もあるという話だ。ヘンリーはそっちの方に住んでいるのか。

「二人とも、おはよー!久し振りのお休み、体調とか大丈夫かなー?」

「おはようございます。あたしは大丈夫ですよ」

「おはよう、俺も元気だよ」

 ヘンリーの服装は真っ白い半袖ワイシャツにハーフパンツ、更にカンカン帽を被っていてなんとも涼しげだ。ウェイトレスの制服も決まっているけど、こういうやや中性的な服装も似合っている。

 そんな彼女は暑さを少しも感じていないように、俺達を先導するように前へと躍り出た。

「今日はジェイムズさんが案内をしてくれるんですか?」

「この街はきっと、ワタシの方が詳しいよー。特に洋服屋さんとかはね」

「そうですね。あたしはあんまりそういう買い物が得意じゃないので」

 少し恥ずかしそうに顔を背ける蓮香さん。

「ちょっと意外だな」

「元がいいから、大体なんでも似合うけどねー。ワタシが選んであげたりもするんだ」

「なんでも似合うのは、ジェイムズさんの方です。背も高くてスタイルがいいですから……」

「日本だとちょっとサイズを見つけづらいけどねー。だからメンズの店も見たりするんだ。そういう訳だから、リョータくんに良さそうなお店もわかるよ!」

 それはなんとも心強い話だ。全く知らない街なのだから、まず自分が着れるような服を買える店を見つけるところから始めなければならない。それに、秋広さんの“新品のお古”のセンスがまずいことはわかるが、俺にファッションセンスというものはあまりなさそうだ。一緒に服を選んでもらえるのなら助かる。

「なら、ヘンリーに案内を任せて、出発しようか」

「はい。ジェイムズさん、今日はよろしくお願いします」

「おーけー。ばっちり任されました!」

 石畳を靴で踏み鳴らして行く金色のポニーテールを追いかけ、俺達も街へと繰り出していく。そうして角を曲がり、喫茶店のあった通りよりもずっと道幅のある、おそらくこの街のメインストリートに出ると、街の景色は大きく変わった。

 そこは灰色のビルが並び立つ、完全なる現代都市だ。どこか中世ヨーロッパのような雰囲気があった、石畳と温かな一戸建ての家々で造られた街並みとは明らかに違う。数百年の時を超えてきたかのような、色のない街だった。……あの夢とは、まるで景色が違う。

「たった一つ道が違うだけで、こんなにも景色が違うのか……」

 この街に失望した、という訳ではない。俺が勝手にあのお洒落で、温かな景色が続くと思い込んでいただけだ。それでも、動揺は隠しきれなかった。長い長い夢が、ようやく終わったような気がする。

「お店のあったあの通りが、ちょっと特別だったんです。いわゆるモダンな街並みの保護区域で。ここから先は全部、こういう感じですよ」

 現実についてよく知る蓮香さんは、優しく説明してくれる。その言葉の通り、どれだけ遠くを見ても、俺達の後ろに広がるのと似た街並みはありそうにない。異端だったのは、あの通りの方だったのか。

「リョータくん。ワタシ達のような外国人が日本を思い浮かべる時、そのビジョンはどういうものかわかります?」

「えっ?それは、まあ……富士山とか、桜の木とか。後はお城?白鷺城とか、海外でも有名だろうし」

「のー。ビルが軒を連ねる大通り。そこを歩きまわるスーツ姿のサラリーマン。電気街に行けば、たくさんのパソコン、テレビ、家電。後はイギリスじゃ絶対に見られないメイドさんの姿。いつまでも外国人だって、サムライとスシの国を思い浮かべてはないですよ」

「そ、そうか。それも、そうだよな…………」

 これこそが日本的な街並みだ。俺が今までこの街の全てだと思っていたあの景色は、時代の忘れ物。日本よりむしろ、外国の田舎にあるべきもののはずだ。それがどうして、この街一面に広がっているものだと勘違いしたのか。全く、記憶と一緒に常識まで失ったのか?俺は。

「そろそろ行きましょう。そんなにじっくりと街を見ていては、あっという間に日が暮れてしまいますよ」

「ごめん。もう大丈夫、行こう」

 ヘンリーが前を行き、それに蓮香さん、俺と続く。最後に思わず後ろを振り返り、すぐにまた歩き出した。“鉄の街”に見慣れた後に見た“石の街”は、逆に違和感を覚える時代の断絶を視覚的にも、空気的にも見せていた。

 明日見の丘から見える“明日”とは、この街そのもののことなのだろうか。

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「まだ十時過ぎとはいえ、人が少ないですね。今日は平日でしたか」

「火曜日だからねー。お店も空いてていいよ。あっ、それでこのお店、このお店。でね、あっちのビルでは女の子の服も売ってるよ。レンカちゃんはそっちを見とく?」

「ええと――そうですね。では、長郷くんをお願いします」

 五分ほど歩いただろうか。変わらない景色が続き、俺は完全にこの街のことをよく知る二人に任せるだけの体になっていた。目的の店のあるビルの前に辿り着くと、蓮香さんは一人で別れて行ってしまう。

「長郷くんも、あたしのことは気にしないでゆっくり選んでくださいね。予算が足りないようでしたら、あたしが出せますのでまた呼んでください」

「ありがとう。けど、それだったら蓮香さんも一緒に来てもいいんじゃ?」

「いえいえ。あたしではお力になれそうもないので。ジェイムズさんは怖い人ではないので、大丈夫ですよ」

 なんとなく、一人俺達から離れていく蓮香さんが寂しそうに見えた。だから言ったことだったのだが、こうも見事にフラれてしまうと逆におかしくなってしまう。まあ、俺としても蓮香さんを意識しない方がいいかもしれないか。

「リョータくん、レンカちゃんのこと好き?」

「……なんか今、すっごくヘンリーがアメリカの人だって意識した」

 ビルの中に入り、件の店がある三階へと上がるエスカレーターの途中、ヘンリーはにやにやしながらそんなことを言う。

「loveじゃなくて、likeで、でもいいよ?」

「それなら、蓮香さんが好きじゃない人の方が珍しいと思うけど。少なくとも、蓮香さんのことをある程度以上知っているのなら」

「確かにねー。じゃあ、loveでは?」

「俺は別に、そういうのだから蓮香さんを誘った訳じゃないよ」

 さっきのは他人が見れば、俺はまるで好意のある子に声をかけて、断られてしまった哀れな男かもしれない。俺だって多分、そう思っていた場面だろう。でも事実はそうじゃない。そこはきちんと訂正をしておきたい。

「レンカちゃん、可愛いからねー。一人だと変な男の子に絡まれちゃいそうで心配?」

「それもあるし、なんだか蓮香さんが寂しそうにしている気がして」

「よく見てるんだね、リョータくん。ワタシは気付かなかったよー」

「なんか、暗に自意識過剰だろ、って言われてる気がするんだけど」

「のーのー。ワタシ、そんな意地悪じゃないよ。悪口を言う時は真っ向から言うから!」

「それはそれで、いい感じに心をへし折られそうだな……」

 さすがはアメリカ人。まごまごしている日本人とは違って、きっぱりと思ったことを言える。

 しかし、ヘンリーは秋広さんの好意には気付かないのに、こうやっていわゆる“コイバナ”みたいなことはするんだな。本人は鈍いけど、他人の恋愛事情は気になるんだろうか。

「で、レンカちゃんのことは好きなの?」

「loveの場合で、か」

「好きなんでしょ?」

「だから、嫌いになるような人じゃないよ。どっちの意味でも。ということはもちろん、好きってことにもなる。一緒に暮らしているんだし、もしも俺が彼女とより深い仲になれたら、それはきっと楽しいことだろうとも思う。でも、俺は自分の過去にもきちんと踏ん切りを付けられていない身分なんだ。そんな人間が、誰かを好きになっていいと、ヘンリーは思うか?」

 一階から二階に上るエスカレーターから乗り換え、それももうすぐ終わる。こういう話は、売り場に着いてから引きずりたくはないんだが。

「思うよ。いつ記憶が戻るかわからないんだから、今を大事にして、楽しく生きていればいいと思う。リョータくん、前にワタシに自分のこと話してくれた時は、そう考えていると思ったんだけどな」

「自分一人生きていく分には、俺もそう考えてるよ。でも、そこに他人を巻き込むとしたら?今も蓮香さんや秋広さんにはお世話になってるけど、その関係性を更に深めて、個人的なことにまで巻き込んでいいとは思わない。俺は本当に、俺自身にもどんな人間だったのかわからないんだから」

「なーんか、煮え切らないね。自分の人生なんだから、自分で好きにすればいいのに。ワタシはそうやって来たよ?正直、パパもママもあんまりいい顔はしてないけどね」

「ごめん。でも、今の俺に自分以外のことを考える余裕はまだないんだ」

 エスカレーターに乗っていると、不思議といつもは言わないようなことも言えてしまった。歩くことに気を取られないから、それだけ頭を使い、今まで言えなかったことを整理出来たからだろうか。おしゃべりなヘンリーが相手だから、たくさんするお喋りの内の一つとして、それほどしっかり記憶に留められないだろう、と高を括った部分もあるのかもしれない。

 ともかく、三階に辿り着いた時、俺の気持ちはずいぶんと晴れ晴れとしていたように思う。

「でも、人を好きだと思うだけなら許されると思うよ。それで、もう一回同じ質問をしていい?」

「ヘンリー、意外としつこいな」

「そうかな?リョータくん、怒ってる?」

「いや。そんなことはないよ、ごめん。ちょっと意地悪で言っただけだから」

 当たり前だけど、ヘンリーは俺や蓮香さんのような「子ども」の世界ではなく、「大人」の世界に属している。話し方やテンションは幼いから同年代と思いがちだけど、実際はそうじゃない。

 そんな偉大な「大人」に対する、「子ども」のささやかな反撃のつもりだった。でも、大人でありながら子どもの味方もできるヘンリーに対してのその攻撃は、彼女の心に傷を残してしまいかねない。慌てて取り消して、本当の気持ちを彼女だけには伝えておくことにした。

「俺は、蓮香さんのことが確かに好きだよ。それが許されることなら、もっと彼女の傍にいたいと思う」

「そっか。そういう人がいると、毎日がもっと楽しいよ。ワタシもそうだから」

「えっ……?ヘンリーも誰か好きな人がいるのか」

 脳裏にチラつく人の姿がある。もちろん、秋広さんだ。彼の想いはヘンリーには伝わらず、彼女が別の男性に好意を抱いているのなら、率直に言ってそれは可哀想な話だ。

「マスター。アキヒロさんだよ。実はワタシも、リョータくんみたいに、今の関係以上になるのがちょっと怖いんだ。まさかAmericaから家族が怒鳴り込みに来るとは思わないけど、迷惑かけちゃうかもだからね。アキヒロさんも、ワタシのことを好きでいてくれてるって、知ってるんだけどな……」

 思わず、吹き出してしまいそうになった。なんだ、そうだったのか。ヘンリーも大した役者だ。

 まるで気がないように見せて、彼女の方でも秋広さんのことを意識していただなんて。裏表がない、単純な人のように思っていたのに、彼女にも生きた二十五年の時間があって、それが相応の深みを与えている。深いところにある“大人の顔”は、えてして俺みたいな若輩者にはわからないものなのかもしれない。

「じゃあ、今日はお互い、練習ね」

「れ、練習……?」

「こういうことだよー」

 突然、ヘンリーの手が俺の手首を掴まえる。それをそのまま引っ張るものだから、自然と俺も彼女に引きずられて歩き出してしまう。

「恋人の練習。将来、こういうことしてみたくないの?」

「そ、そりゃあ、してみたくない、って言えば嘘になるけど」

「ならいいでしょ?ワタシがコーディネートしてあげるね、服。なんかねー、最近の男の子って黒とか白とか、無彩色を着たがるけど、ああいうのは正直古いよ!最近の男の子はもっと、暖色を使わなきゃ。たとえば、こういう服。基本は青とか黒とかだけど、赤いラインが入ってると、ずいぶん締まって見えるでしょ?こういうワンポイントもいいし、このオレンジのアウター、よくない?地味なインナー着てても、これ一枚ですっごい目立つよ!」

 それからの俺は、物理的にヘンリーに振り回されながら、度々、物理的に着せ替え人形にさせられていた。でも、彼女が選んでくれる服はどれも中々にセンスがいい。結局、その中から気に入った上下を三着ずつ購入して、予算をほぼ全て使い切ることになった。

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「……なんで、素直になれなかったんでしょう」

 見る気もないのに店内を見て回って、蓮香は溜め息を漏らした。

 別に自分の服を見る必要なんてなかったのに、ほとんど反射的に彼から遠ざかることを選択してしまった。その理由は、何も彼を嫌っているからではない。むしろ、もっと彼のことを知りたいと思っているというのに、言葉や態度はいつも真逆の方向へと自分を導く。

 考えてもみれば、蓮香は今までだっていつもそうだった。自分の望んでいることとは反対に物事が動く。しかも、自らそうなるような選択肢を選び取り、ほとんど自分を自分で苛むような形になっているのだ。

「あたしはこんなにも天の邪鬼で、いつも、誰にも本当の気持ちを伝えられません。これからもずっと、そうなんでしょうか」

 顔には貼り付いたかのような微笑があり、口から紡ぎ出される声は、いつも一定のトーン。誰にとっても耳心地がいい、他人を思いやった“お利口さん”な言葉だった。それが癖になってしまっているから、他人に迷惑をかけることになる自分の気持ちを人には伝えられない。

 ただ、相手を立てて、社会的に正しいとされることだけをして、それで上手に世間を生きていく。その中で欲しいものは遠ざかり、好きな人は通り過ぎて行き、父親と今の従業員だけが近くに残っている。そしてそれも、いずれはいなくなるのだろう。蓮香は決して、引き留める努力をしない。そんなことをするぐらいなら、自分が我慢することを選ぶのだから。

「蓮香。泣いてるの?」

「ひゃっ!……ヒ、ヒロミさんですか。こんなところで会うとは奇遇ですね」

「普通の服も欲しくて。今日は店がそんなに忙しくないから」

「そうですか。なんだかウィッグを取ったオフのヒロミさんと会うのは久し振りですね」

 いつもはメイド服に赤紫色のウィッグを付けている彼女だが、その地毛は美しい黒髪のセミロングだ。ただし、ケーキ屋としてはあまりにも華のない和風な容姿、ということであんな格好をしている。本人も同じように地味な外見にはコンプレックスを抱いているので、この姿の時はややうつむき加減だ。

「それより、蓮香のこと」

「……あたしは。あたしは、大丈夫ですよ」

「蓮香の嘘はわかりやすい。目が笑えてないから」

「何気なく言ってますけどそれ、一種の達人技ですよ。あたし、作り笑顔だけは得意なんです。それを見破るんですから敵いません」

 意識的に作り出した笑顔をやめた蓮香の目には、涙が溜まっていた。店の蛍光灯がそれを光らせる。

「あたし、ヒロミさんにだけは嘘をつけませんよね。だから、ヒロミさんだけは苗字じゃなく名前で呼ぶようにしているんです。あたしのことを話せる、唯一の人だから」

「そんなルール、作らなくていいのに」

「おかしい話ですよね。お父さんにすら、自分のことを全部は話せません。義理の父だから、と言えばそれまでですけど、お父さんのことは本当に大好きなんですよ。これでも」

「わかる。あなたを見ていれば」

「そうでした。余計な言い訳でしたね」

 買うつもりもないのに、上着を一着手に取ると、それを自分の体に合わせてみる。背丈は問題ないが、胸を考慮すると少し小さい。蓮香にとって一番都合のいいサイズは、彼女より長身でスレンダーなヒロミにぴったりのサイズと同じだ。

「あたしが本当のことを話せなくなったことは、知ってますよね」

 言葉もなく頷く。ヒロミに対しては、自ら話したことだ。

 蓮香は皮肉にも今の“望み”を暗示させる苗字になる前。つまり、本当の両親に育てられていた頃、多くのことを望んでいた。父がもっと長い時間、家にいてくれること。父が危険な仕事から無事に帰って来てくれること。それから、母が決して自分を見捨ててはおらず、必ずいつかは帰って来てくれること――。いくつものことを望み、願い、祈り。そのことごとくを裏切られてきた。

 その内にいつしか、ある錯覚をする。自分の望みは全て、逆転した形で叶えられる。ならば、逆のことを常に望んでいればいいのだと。友達がたくさん欲しいのなら、友達なんていらないと思うようにする。お金が欲しければ、貧乏でいいと望む。店を訪れる客の一人と親しくなりたいと思ったなら、彼とはもう縁を切りたいと願う。そうすればきっと、自分の思い通りになるのだと。

 結果は、考えるまでもない。何も蓮香に望みが逆転するが、必ず叶う。というようならオカルトチックな力が発現していたようなことはなく、彼女の望みが実現しなかったのはただの偶然。そして、彼女が逆転させようとした望みがそのままの形で叶ったのも偶然の産物だ。そのことを頭では理解しているのに、今でも彼女の口は望みを逆転させたがっている。どれだけ気を付けたとしても、思い通りのことは言えなかった。

「また、駄目でした。長郷くんという方と、本当はもっと親しくなりたいんですけど。上手く付き合えないんです」

「あの男の子?」

「はい。ちらっとですけど、見てましたよね」

「蓮香はあの子が好き?」

「気になります。今はとりあえず、それだけ」

 今度ばかりは、嘘ではない。

 ヒロミは何も言わない。言葉を促そうとする訳でも、下手に何もかも受け止め、包み込もうとする訳でもなく、ただ平然とそこにいる。下手をすればその微動だにしない姿は、冷たく人の目に映るだろう。だが、蓮香にとってはそれこそが快かった。

 人を気にし過ぎる自分と、人を無視して自分だけの世界にいるようなヒロミ。だからこそ、不思議な空気の中でわかりあえている。

「気になるのなら、その気持ちを大切にすればいい。私には、わからないけど」

「ヒロミさんは、そういう人ですよね。誰かを好きになったことはないんですか」

「しいて言えば」

「いるんですか」

「私自身」

「……なるほど。わかります」

 冗談のようで、ヒロミ本人にとっては本気のその言葉を、蓮香は少しだけ羨ましく思いながら聞いた。

 自分のことを好きだと堂々と言える。それはどれだけ幸せなことなのか。

「あたしはまず、自分を好きになることから始めるべきなのかも。そうして“対等な関係”を作ることが出来れば、素直になれるんでしょうか」

「……わからない。でも、変わろうと思ったのなら、その気持ちに正直でいた方がいいと思う」

「そうですね。自分に正直、なんて難しいですけど、努力はしてみます。でも、それが上手くいかなくて泣きたくなったら、また話を聞いてくれますか?」

 ヒロミは答えなかった。首を縦にも横にも振らず、口も開かず、幽霊のように去っていく。彼女との付き合いに慣れている蓮香だが、たまにその真意がわからなくなることがある。今が正にそうだ。

「泣き言はやめろ、ってことでしょうか」

 強引にそういう結論を出し、苦笑まぎれに微笑んだ。誰に向ける訳でもない、癖になっている微笑のまま店を出る。ほとんど時間は潰せていない。何をするでもなく待つことになるだろうが、それでも構わない。

 二十分ほどだろう。定期的に携帯を確認しながら待っている時間は長かった。遂に二人の姿が見えた時には走り出しそうにもなったが、すぐに自制の心が働く。

「どうでしたか。買い物は」

「ヘンリーがいくつか選んでくれて、その中から予算内で適当に買ったよ。ほとんど残ってないけど、よかったか」

「ええ。むしろ返されなくてよかったです。もう長郷くんにあげたものですから、どうぞ好きに使ってください」

「そうか、ありがとう」

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「レンカちゃんは何も買わなかったの?」

「これといって欲しいものがなかったので。それよりも、なんとヒロミさんに会いましたよ。お休みが重なるのも偶然ですし、ああいうお店で出会えたというのも、完全に偶然でした」

 ヒロミさん……前に一目見た山代ヒロミさんは、どことなく他の人とは違う、神秘的な雰囲気のある人だった。確かに、ビルの中にあるファッション系の店出会えそうな人じゃないな。そういえば、いつもはどんな服を着ているのだろうか。

「それじゃあ、とりあえず必要なものは買えたことだし、色々と見どころを案内するよー。まずは遊園地にする?それとも動物園?」

「遊園地や動物園があるのか……?こんな街中に」

「あれを、そうだと呼んでいいんでしょうか」

 蓮香さんには心当たりがあるのか、困惑した瞳を東の方へと向ける。その方角に、ヘンリーがそう呼んだ施設があるのか。

「立派にそうだよー!どうせ一緒の方向だけど、ワタシのオススメは動物園かなー」

「じゃあ、そっちを先で。一応聞いておくけど、ペットショップだった、とかそういうオチはないよな」

 ――その時、空気が凍りつくのをはっきり感じた。

 大寒波が到来し、万物が氷に閉ざされる。後には音もなく、沈黙の冷たい空気だけが吹き荒れていた。時間の止まった世界があるなら、こういうことなのだろう。そう感じるほどの静寂だ。

「リョ、リョータくん」

「うん」

「キミのように勘のいい男の子は好きじゃないよ?」

「そういうこと、なのか……」

 結局、動物園(ペットショップ)には行った。とはいえ、そこは高がペットショップ、動物園と呼ぶには恐れ多い……と思いきや、そうは言ってもいられないほどに立派な、なるほど確かに巨大なスペースだった。

「おお……確かに、これだけの店なら、動物園って呼んでもいいかもな」

「でしょうでしょう!ワタシも初めてここに来た時には、すっごく感動したよー」

 もちろん、ペットショップなのだから、ライオンやトラのような大きくて凶暴な動物はいないし、フラミンゴやハクチョウもいない。もっと言えば、ヘビもカピバラもいないが、イヌやネコの品種はとても多いし、ハムスターや熱帯魚、鳥類も充実していてオウムもいる。見応えのある“動物園”だ。

 思えば、この街に来て初めて動物というものを見た気がする。蓮香さんの家でペットを飼ってはいないし、ペット喫茶ではないのでお客さんもイヌやネコを連れて来ることがない。

 かなり新鮮な気持ちで見ることの出来た動物達の中で、俺は特に犬が気になっていた。可愛らしいチワワなどではなく、精悍で、しかも頭の良さそうな顔つきの柴犬だ。そいつが俺に興味を持っているように、ずっと俺の方を見ているような気がする。俺も見つめ返すと視線を外されるが、俺がどこかに行こうとすると、やはりこちらを見てくる。

「素直じゃないな、お前」

 思ったことをそのまま、イヌにぶつけてみる。名前の呼びかけや、簡単な芸ならともかく、こんなに長い言葉がイヌに伝わるはずがない。それでも、なんとなくこいつは理解しているような気がする。

「じゃあな」

 ずいぶんとそのイヌの前にいた気がするが、遂に女性陣が集まっている方へと向かう。

「なんか意外だねー。レンカちゃんがハムスターを飼いたいなんて」

「そうでしょうか?」

「ちょっとね。なんとなく、ペットとかそういうのには興味がないかな、って」

 蓮香さんの視線が釘付けになっているのは、ジャンガリアンハムスターというプレートの掲げられたハムスターだ。灰色の体毛を持った小さなネズミを見つめ、蓮香さんはうんうん唸っている。

「犬や猫のような、大きな動物には興味がないんです。でも、ハムスターぐらいならいいかな、と思ったりして……」

「安いから?」

「食材としてならともかく、生きている動物の命に値段の上下を付けたいとは思いません。ただ、彼らは精々、長く生きて三年でしょう?それぐらいの時間なら、あたしが責任を持って預かれるかも、なんて考えるんです」

「十年以上生きる動物は、ちゃんと面倒を見れなそう?」

 無言で頷く。彼女がそんな風に考えるのはもしかして、自分と重ね合わせているからなのだろうか。蓮香さんは十何年かで、実の親に捨てられることになった。その気持ちは察するに余りあるが、少なくとも自分も同じことをしよう、などとは絶対に思わないはずだ。彼女は、動物に対して自分が親と同じ過ちを繰り返さないだろうかと、そのことを心配しているのかもしれない。

「長郷くんも来てくれたんですか。……どうでしょうか。あたしに飼えそうですか、ハムスター」

「飼い方とかはよくわからないけど、蓮香さんが飼えそうだって思ってるなら、その気持ちに従えばいいんじゃないか」

「……それ、相談に乗ってくれているとは言えない応え方ですよね」

「ご、ごめん。でも、本当にわからないことだし」

 言葉では不機嫌そうでも、蓮香さんはどこか楽しげに見えた。それから、もう少しだけ悩んだ後、踏ん切りが付いたように微笑を見せた。

「今は買いませんが、きちんと準備をして、お父さんにも話して……それから、またここに来ようと思います」

「おー、レンカちゃん、初めてペットを飼う、の巻だね」

「ジェイムズさんは、実家にたくさんペットがいたんでしたね」

「いえす。犬もいたし、猫もいたし、文鳥もいて、ハムスターも短い間だけいたかな。後はグッピー、亀もいたし……」

「本当にたくさんだな。やっぱり、ヘンリーの家は広かったのか?」

 典型的なアメリカの田舎のイメージだ。家と家の間にはものすごい距離があり、広い庭と、犬小屋。場合によっては鳥小屋だってある、広い広い家に住んでいるヘンリーが想像出来た。庭にある大きな木には、もちろんブランコが備え付けられている。枝の上には鳥の巣だってきっとあるだろう。

「そうだねー。後、家とは違うけど牧場も持ってたよ。昔はこう見えて、カウガールだったからね」

「いや、イメージ通りだよ。なんかすごくそれっぽい」

「ですね。ジェイムズさんが牛の世話をしたり、乗馬をしたり、という姿は容易に想像できます」

「はっはっはー、そっかそっか。……って、それってもしかして、ワタシがすごく泥臭いってこと!?」

「そういう意味じゃない……と思う」

「きっとそう……違います、よね」

「はっきりと否定しておこうよ!そこはっ」

 ヘンリーはどうも、本気で自分が田舎臭くないかを気にしているようだ。苦笑しながらきちんとフォローを入れて、次はもう一つの観光スポット、“遊園地”へと移動した。

 まあ、その正体はおおよそ予想が付いている。よくビルの屋上にあるような、ちょっとした遊園地的なスペースのことを指しているのだろう。もしかすると、本当に小さな観覧車ぐらいはあるかもしれないが、高が知れている。

 そもそも、俺ぐらいの年齢にもなれば、純粋に遊具を楽しむために遊園地に行くことはできない。その多くの場合は、恋人とのデートのために行くか、なんらかの思い出作りのために行くか、といった程度だ。もしかすると女子はまた違うのかもしれないが、少なくとも俺はそれほど遊園地そのものに魅力を感じないから、本当に立派な遊園地に連れて行かれたとしても、あまり感動出来そうにはない。

 ……と、反応に悩みつつ街を歩くのは中々に憂鬱だったんだが、着いた瞬間、全ての悩みは杞憂に変わった。

「じゃじゃーん!遊園地です!」

「な、なるほど。遊園地、か」

 そこはビルのある階層。思いっきり屋内だった。

 屋内に遊園地、中々に違和感があるフレーズだが、俺の目にはまず、カラフルな大きな箱がいくつか飛び込んで来た。その仲間のような箱が、この階の奥の方にはいくつもあるように見える。全体的に騒がしい、その雰囲気はなるほど確かに遊園地らしかった。

 客層も、全体的に若者が多い。中には一目見てカップルだとわかる二人もいるし、同年代の仲間同士で来たんだな、という団体もわかる。小さな子どももいるし、もちろん大人だっている。幅広い年齢層の人々が楽しんでいる施設なのだろう。確かに、これを“遊園地”と呼んだとしても、差支えはない――のかもしれない。

 更に極めつけは、ここの名前だ。看板にはPlay Parkと書かれてある。

「プレイパーク……和訳すれば、遊園地にならなくもない、か。正しくはアミューズメントパークだった気もするけど」

「でしょー」

「でもこれ、どう考えてもゲームセンターだよな」

「………………いえす」

 クレーンゲームやら筐体ゲーム機やら、カードゲーム台やら、ガチャガチャやら……多種多様な“ゲーム”が集ったその様は、まごうことなきゲームセンターだ。それもかなり巨大な部類であると言える。

「俺、こういうのよくわからないぞ。それに、ヘンリーとか蓮香さんとか、女の人が頻繁に通うようなところでもないだろ」

 ゲーム機を見て、それがクイズゲームなのか、レースゲームなのか、シューティングゲームなのか。その判断をすることはできるが、見覚えのあるゲームがある訳ではないから、俺はきっと記憶を失う前からこういうのと縁遠かったのだろう。

「でも、ジェイムズさんはかなり得意ですよね。前もクレーンゲームでぬいぐるみを取ってもらいました」

「ふふふー、ワタシはこう見えてゲーマーなんだよ。Americaでも、様々な大都市のゲームセンターを血祭りに上げて来たほどの……!」

「へぇ、それは意外だな。さすがはアメリカ人……でいいのかな」

「皆が皆、ゲームに慣れている訳じゃないと思うけどね。日本よりもっと、ゲーセンは日常的な施設なんじゃないかな。それで、レンカちゃん。何か欲しい景品はある?」

「いえ……今は特に。これ以上、部屋にぬいぐるみを増やしても仕方ないですし、特に好みのものはないので」

「えー、ワタシのテクニック、リョータくんにも見せたかったのにー!あわよくば、二人で対決したかったのに」

「俺、こういうのは苦手だと思うけどな。多分、有り金を全部使っても、何も取れないんじゃないか」

 服のお釣りは約千円分あるが、一回百円として、チャンスはたった十回。感覚を掴むのに三回ぐらいは使うとして、残り七回で成果が上がるとは、とても思えない。無駄遣いになるだけだ。それならまだ、何かしら確実に手に入るガチャガチャをする方がいい。

「じゃあ、何をする?」

「むしろ何かをするのか……?とりあえず、今回はこういうところがあるんだな、ということを知れただけで十分だよ。無理にお金を使う必要もない」

「リョータくんも、おカタいなぁ、レンカちゃんと同じで。若者なんだから、もっとこう、ぱーっ、とお金を使ってもいいんじゃない?」

「きちんとした形でバイト代をもらえたら、また今度な。今、俺が持っているお金は俺のものであって、俺のものじゃないみたいなものだから、無駄遣いをするのはちょっと気が引けるんだ。また次の機会があれば、誘ってくれたら乗るよ」

 ただでさえ子どものような目をしたヘンリーが、このゲーセンでは特に目を輝かせ、全力でゲームを楽しむつもりでいる。どうやらそれは、俺と競い合えるかと思ったからのようだ。そんな風に期待させてしまっていたのだから、あんまり無碍に断ることも出来ない。取ってつけたような言い草だったが、ヘンリーはこれで満足してくれたようだ。

「ふふー、その言葉、きちんと覚えたよ!じゃあ、その時はまた今日と同じように、審判としてレンカちゃんにも来てもらうからっ」

「ええっ、あたしもですか。別にいいですけども」

 巻き込まれた蓮香さんも、決してそう迷惑そうにしている訳ではなかった。

 それからは、ぶらぶらと歩きながらもう少し街を見て回り、昼食も外で食べて、店へと帰った。ヘンリーとは店の前で別れる。

「それでは、また明日。おやすみなさい」

「はーい、おやすみなさーい」

「おやすみ。一応、気を付けてな」

 家までそんなに距離はないんだろうが、本当に“一応”言っておく。そうしておいた方が、なんとなく決まりがいい。

 店に戻り、風呂に入った後、遂に完成した俺の制服を合わせてみることになった。デザインはウェイトレスのものと遂になった、どことなくイギリスの男性使用人風のシンプルなもので、白と黒の二色だけが使われているのも同じだ。無難な感じにまとまっていて、ウェイターの着る衣装として何も不都合はない。

「じゃあ、明日からはそれを着て本格的に働いてもらおうか。まあ、職務内容は変わらないがね」

「レジ打ちだけでいいんですか?普通に蓮香さん達のように、お客さんの応対をしても――」

「この店は可愛いウェイトレスが接客をするからこそいいんだ。わざわざ男に世話をしてもらいたいと、君は考えるか?」

「は、はぁ。確かに、俺みたいな男と女の子なら、確実に後者を選びたいですが」

「だろう。だろう!よって、君の仕事はレジ打ちだ。それ以上でも以下でもない。名誉ある仕事と心得、懸命に働いてくれたまえ」

「わかりました」

 せっかくの男手なのに、女性陣の負担を減らせないようで申し訳ないが、レジ打ちもかつては彼女達がやっていたのかと思うと、これも十分な貢献か。後は、秋広さんの仕事の中で協力出来ることがあれば、それを手伝っていきたい。

 そんな新たな決意と共に、今夜は眠りに就いた。あの夢を見ないか心配ではあったが、それもない。代わりに別な夢を見た。

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「二日開いたけど、その間の夢見はどうだったの?」

 また暇な時間、足羽さんに会いに行く。今日の彼女はいつもに増して手が進んでいない気がする。

「一昨日は夢を見ませんでした。ただ、昨日は……」

「見たのね。今度は何?いよいよ、あなたが死んだのかしら」

「いえ、そういうんじゃないんです。あの夢とはまた違うタイプの夢で、その」

 彼女にはもう二回も夢について相談している。それに興味を持ってくれた足羽さんは、力になってくれるつもりでいるみたいだが、さすがに昨日の夢について話すべきか。ためらいがある。

「実在の人物は出て来なかったの?」

「蓮香さんは出て来ました」

「なら、話しなさいよ。シチュエーションは違っていても、一連の夢と関係があるかもしれないわ。もしかしたら夢の中で見た夢、という可能性もある訳だし」

「いえ……でもちょっと、その」

 こう言うのもアレだが、足羽さんは基本、生気のなさそうな目をしている。感心事がある時だけ、いくらか目は輝くが、俺と話していてその状態になることはあまりない。蓮香さんと話している時になるのがほとんどだ。ただ、今だけはいつもと違う、怪しげな光がその瞳には宿っていた。

「あなたのような青臭いお子様が話しにくい夢、ってことはえっちな夢でしょう。マセガキめ」

「なっ……!」

「図星なのね。いいわよ、私も大人なんだし、少年の淫夢の報告に付き合ってあげるわ」

「そんな大層なものじゃないですけど。ただ、こういう感じなだけです――。

 俺と蓮香さんは、普通にこの店で働いていて、不思議とヘンリーや足羽さん。後は、秋広さんもいないんです。ただ、見たこともないお客さんみたいな人がいて、俺と蓮香さんは料理を作る人もいないのに、トレーの上に乗っている料理やコーヒーを運んでいて、その途中で蓮香さんとぶつかってこけてしまうんです。

 俺のトレーの上にあった熱いコーヒーが蓮香さんにかかって、俺はともかく拭き取ろうとするんですけど、蓮香さんは目覚めない。……夢なんで脈絡なんてはっきりしてない訳ですけど、どうやら蓮香さんは死んでしまったみたいなんです。俺はそれが悲しくて、なぜか蓮香さんにキスをした――ような気がします。なぜかお互いの服を脱がしてから」

 細部をきちんと覚えている訳ではない。そういうところに、あの悪夢とは違う、きちんとした普通の夢であるという実感がある。ただ、ひどく悲しい夢だった。

 やっとまともに、現実によく似た世界を舞台にした夢を見れたというのに、そこでは蓮香さんとの別れが待ち受けていた。件の悪夢の未来をも予感させるようで、目覚めた俺はひどい寝汗をかいていたことを覚えている。

「あなた、やっぱり深層心理では蓮香を排除したがっているんじゃない?」

「だ、だから、なんでそういう結論に辿り着くんですか。きっと俺、世界でも有数の蓮香さんに感謝している人間ですよ」

「その感情に、殺意が隠されている可能性もあるわよ」

「やめてくださいよ、本当にそういうこと」

「これでも本気で考えているのよ。あなたの過去が全くわからない以上、あらゆる可能性が想定出来るわ」

「でも、まずないケースでしょう、それは」

「確かにね。私としても、あなたみたいな冴えない少年が狂気を抱えている、みたいな荒んだ時代に生きているとは思いたくないわ。――それにしても」

 足羽さんはまた、面倒くさそうな表情になる。仕事をしている時だってこの顔なんだから、本当にこの人は詩人になりたくてなったのだろうか、と疑問に思える。

「あなた、蓮香のこと好きなの?確かに蓮香は可愛いし見た目も最高だけど、身のほど知らず、という言葉の意味はわかっているわよね」

「……たとえ釣り合わなくても、憧れる気持ちぐらいは抱いてもいいですよね」

「まあそうね。けど、意外だわ。あなたって、見るからに恋愛とかそういうのに興味なさそうじゃない。そういうの、最近は絶食系とかなんとか言うわよね。なんだか安心したわ。あなたも一応、男の子なんだ、ってわかって」

「地味にグサグサ心に刺さるんで、あんまりそういうのやめてくれませんか……」

「あら、わかってて言ってるのよ」

「はぁ、タチの悪い人だ」

 足羽さんも驚いたようだが、同じように俺も驚いていた。あんまりにもすらすらと、蓮香さんのことを想っているのだ、という旨の言葉が口から飛び出して来たからだ。ヘンリーとの“恋人の練習”も、効果があったのだろうか。

「ちなみに、先にこれだけは言わせてもらうわ」

「はい?」

「蓮香を夢の中でどんな風にしてもいいけど、私をあなたの青少年らしい夢の登場人物にするのはやめなさい。ひどく屈辱的だから」

「それを言われて、俺もひどく屈辱的なんですが」

「あなたなんてどうでもいいのよ。私があなたの想像内とはいえ、ひん剥かれる姿なんて考えたくないわ」

 大丈夫、足羽さんの場合、外見はともかく、中身は一つも可愛らしくないし、体型にしてもスレンダーなのはあんまり好みじゃないから……なんて思いはしたが、絶対に言えない。万が一にも口を滑らせたりしたら、俺は一体どうなってしまうのか。

「ええと、それじゃありがとうございました。仕事に戻ります」

「なにを目に見えてテンションを下げているのよ。もう少ししゃきっとしないと、雰囲気悪くなるわよ。せっかく少しはマシな制服を着ているんだから」

「暗にそれ、秋広さんの私服が悪いって言ってますよね……」

「当然よ。あの男のファッションセンスがいいと思う?」

 残念ながら、弁護の余地は見つからない。あっ、でもこの制服も秋広さんがデザインしてるのなら、センスはいいんじゃないだろうか。

「制服は――」

「デザインは外注よ。メイド喫茶の衣装も手がけている、有名なデザイナーにね」

「あっ……」

 弁護の余地がいよいよ潰えた。秋広さん、ごめんなさい。俺にはこれ以上、あなたを庇うための材料がないみたいだし、正直、あのダサい私服を着させられていた過去もあるので、弁護もしたくはない。

「ほら、さっさと仕事に戻りなさい。また忙しくなるわよ」

「は、はい。では」

 軽く背中を押され、前のめりになりながらカウンターへと向かう。すると、途中で扉が開いてお客さんが入って来た。

『いらっしゃいませ!!』

 今日はいつもより少し暑い。飲み物はホットよりもアイスの方がよく売れそうだ。確か、明日か明後日には雨が降るはずで、そうなるとまた少し涼しくなるが、これからは順調に暑くなっていくことだろう。

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三章なのですよ
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長編 現の中の夢物語 

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