現の中の夢物語 四章
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四章 四人だけの雨

 

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 翌日は、朝から雨だった。

 それでも窓から見える景色によれば、人通りは多い。あのビル街にも大勢の人はいるだろうし、この通りに折れてくる人は、癒やしを求めているのだろうか。

 明日見の丘の客の入りも、決して悪いものではなく、昨日とは対照的にホットコーヒーの注文が多くなった。次点としてホットミルクティーもよくオーダーが入り、俺にしてみればこっちの方が暖まりそうだと思う。

 昨日の晩はまた夢を見ることがなく、いよいよあの不思議な夢ともお別れか、と一息つく。今思えば、あの夢は全くもって不思議だし、蓮香さんのしていることや、俺の“設定”は惨憺たるものだったが、少し懐かしく感じられる。

 もうあの夢を見ないということは、それだけ俺の心も体も落ち着いたということだろうか。制服も出来たことで、いよいよこの店の一員になれた気がしている。蓮香さんやヘンリーとも、もうすっかり自然に話せる。秋広さんとは、不思議と元から話しやすかった。足羽さんも、今ではすっかり嫌みを言い合う程度の仲にはなっている。彼女と付き合う上でそれは、仲よくなれたことの証拠だと思う。

「長郷くんは、雨は好きですか」

 午後のある時間。足羽さん以外のお客さんが少なくなり、わずかに暇な時間が出来る。その時、窓の外を見つめていた蓮香さんは、そんな質問をした。

「自分が濡れないなら。つまり、見ている分なら嫌いじゃないな。なんだろう、雨に周りが守られてるような感じがするからかな。不思議と安心感がある」

 たとえ雨が降っていても、店にお客さんはやってくる。だが、ここが一般の家庭であれば、まず来客はないだろう。まるで結界に包まれたかのように、家の敷地が聖域になったような感じが俺には心地いいんだと思う。――まるで俺が根暗で暗いやつみたいかもしれないが、案外それも外れてはいないのかもしれない。

 足羽さんが言ったように、俺の過去はわからない。ということは、どんな過去を持っていたことだって想定出来る。そういう訳だから、俺の感じることが実は手がかりになっている、という可能性も十二分にあり得る。俺は今の生活を充実した幸福なものだと常に感じているから、前の人生はそれの真逆だった可能性はある。

「あたしは、そんなに好きじゃないんです。どうしても昔を思い出してしまうので」

「昔……ですか」

「はい。色々と」

 雨に想起させられる過去ということは、秋広さんに出会う前のことだろうか。身寄りのない少女が雨の日を越すということは、なんらかの手段で雨を凌がなければならない。他の家の軒先を借り続ける訳にはいかないし、傘になりそうなものがあったのならいいが、それもない状態ならば……。

 雨の中、じっと空を見つめているかつての蓮香さんが、びしょ濡れで俺の前に立っているような気がした。

 身を震わせる華奢な少女は、誰かを待ち続けている。救いの手を差し伸べてくれる、誰かを。

「――蓮香さん」

「は、はいっ。どうしました」

「いや……何もない、ごめん」

 後、ほんの少しだけ俺に度胸――いや、無謀さがあれば、俺は蓮香さんのことを抱き締めていたかもしれない。それぐらい、今の彼女は心細く、寂しげで、護らなければならない、という使命感に駆られる姿と声をしていた。

「でも、今こうして見る雨は、嫌いではないです。好きにもなれませんが……」

「けど、オレは好きだな。あの日がまさに、今日みたいな冷たい雨の日だったんだから」

「お父さん……」

 気付くと秋広さんも手を止めている。ヘンリーがコーヒーを出し終わって戻って来ると、彼女も話の輪に入って来た。

「雨の話、してたの?」

「ああ。好きか嫌いか、って。ヘンリーはどうだ」

「ワタシは、どちらかと言えば嫌いかな」

「ほう、ちょっと意外だな。その心は?」

 自分の愛する人の新たな面を知った、とばかりに嬉しそうな秋広さんが声を弾ませて詳しく聞こうとする。こんな風に声音からして変えていれば、まあよほど鈍感でもない限りは好意に気づくか。

「空が暗くなるし、一緒に暗い気分になっちゃうからですかねー。畑とかにはいいってわかるんだけど、なんかこう、割り切れないって感じです」

「なるほどな。さすがのヘンリーでも、雨の日はちょっとテンションが下がる訳だ」

「ちょっとだけ、ですけどね。その日の気分がノらないのを天気のせいにしたくもないんで」

 なるほど。今日は朝からどうも気だるかったが、雨が降っているから、という意識が動きを鈍らせていたのかもしれない。でも今思えばそれは、天気を言い訳に怠けていただけだ。……気合を入れ直して、また午後の仕事を頑張ろう。お茶の時間には、雨だからこそ温まろうとする人が増えるに違いない。そんな人に、店員が湿っぽい対応をする訳にもいかないな。

「雨一つを考えてみても、印象はそれぞれですね。足羽さんなら、どう答えるでしょうか。そろそろおわかりが来ると思うので、その時に聞こうと思うのですが……長郷くんは予想できます?」

「ええっ、そうだな。どんな天気でも自分は屋内で詩を書いているんだから、関係ない、とか?」

「でも、このお店までは足羽さんも雨の中を歩いて来ましたよ。究極、自分の家でも出来ることなのに」

「ああ、そうか。わざわざ足羽さんはここに来ているんだよな」

 このお店には、出入口近くに傘立てがある。できるだけ水滴を払ってからご来店ください、という雨の日用の看板も出ているが、どうしても傘立ての辺りは濡れてしまっているので、折を見て床を拭かなければならない。

 ともかく、その傘立ての中で一つだけ、異彩を放つものがある。それは、どう見ても日傘にしか見えないフリルの付いた、ゴスロリ調の傘だ。足羽さんが言うには雨傘も兼ねているそうだが、そもそもファッションアイテムなので、あまり雨をしのげる範囲は広くない。いくら小柄な足羽さんとはいえ、あれを持って濡れずに来れたことが驚きだ。

「実は、あたしもそこまで足羽さんの私生活については知らないんです。もしかすると今、一番足羽さんについて詳しいのは、長郷くんかもしれませんね。もちろん、お父さんを除いてですが」

「そうかな。そんなに足羽さん自身のことは聞けないんだけど」

「でも、あれだけ話しているんですから、きっとそうですよ。ジェイムズさんなんか、足羽さんに一方的に嫌われているんで、まともに取り合ってくれないって、よくスネていたんですよ。長郷くんが来てくれてから、長郷くんがあたしの代わりに足羽さんの相手をしてくれているので、そういうこともなくなりましたが」

「ああ……まあ、ヘンリーはな。けど、俺も冷たくあしらわれることは多いし、そんなに差はないんじゃないかな」

 こうやって噂話をしていると、足羽さんはとんでもない人のようだが、いざ本人と話してみると、不思議な居心地のよさすら感じてしまう。毒を周囲にスプリンクラーのようにまき散らしている人なのに、本当に奇妙なことだ。

「足羽さんのそういう態度はきっと、照れ隠しですよ。少なくともあたしはそう理解してます」

「はぁ、もしも本当にそうなら、傍迷惑な人だよな」

 蓮香さんは苦笑し、足羽さんに呼ばれて彼女の席へコーヒーを運んでいく。それからいくつか言葉を交わしたようだが、声は聞こえず、表情もよくわからない。果たして足羽さんは雨が好きなのかどうなのか。

「どうだった?」

「雨には強い憎悪を抱いているとのことです」

「それはまた、強烈な印象だな……」

 あの人らしいと言えばらしいが、自然現象相手に憎悪を抱くとは。詩人ともなると、感性が一般人とは大きく違うのだろうか。

「なんでも、学生時代に書いていた創作ノートを雨の日、水溜まりに落としてしまったらしくて……。もしもそのノートが健在だったら、今頃はもう一冊、詩集を出しているのに、と歯をむき出しにして怒ってました」

「まあ、それなら憎悪するのも道理、か?でも、学生の頃からそこまでの自信作を書けていたんだな」

 俺には芸術的なセンスがないようだから、詩人というのがどんな人で、何歳ぐらいから詩を書いているものなのかなどもわからない。ただ、足羽さんはまだまだ芸術家として若いはずなのに、既にたくさんの仕事をしているようだ。それはやはり、学生時代からの積み重ねがあったからなんだろう。

「足羽さんの詩は、すごく易しいし、優しいんですよ。あっ、難解じゃないって意味の易しいと、人として優しい、っていう意味の両方ということです。だから、感性さえあれば若い時の方が書きやすいような作品なのかもしれません」

「へぇ。なんというか……」

 かなり失礼だが、あの人自身から感じる印象とは大きく違う作品を書くんだな。いや、足羽さんそのもののような詩を思い浮かべていた訳じゃないが、それにしたって意外だ。

 そんな足羽さんにとっては憎く、結果を見てみれば女性陣全員が嫌いな雨だが、天気予報によれば夜まで降り続けるそうだ。今日は嫌でも付き合ってやるしかない。さっきから窓ガラスにへばり付いては流れる雫の量は、増えることもなく、減ることもない。強くはないが、弱くもない。はっきりと降る雨だ。

「さて、そろそろお暇するわ」

「足羽さん。ずいぶんと今日は早いですね」

 彼女は普通、閉店時間まで店にいる。そんな彼女がもう伝票を持ってくるなんて。レジを打ちながら不思議に思う。

「雨の日に暗くなってから帰っていたら、どんな事故に遭うかわからないわ。もしもパソコンを落としたりしたら、今度は雨を憎悪するどころか、嫌悪することになるわよ。そしたらもう、雨の日は絶対に家から出なくなるわ」

「は、はぁ。じゃあ、ありがとうございました。お気をつけて」

 ピークを過ぎ、他のお客さん達も足羽さんと同じ考えなのか、次々と退店していく。すると、俺がここで働くようになって以来、初めてのことが起きた。店から完全にお客さんがいなくなってしまったのだ。

 レジスターに収まっている金額を見ると、大体いつも通りか、それ以上の売上が出ている。客が来ないとはいえ、もう十分に稼げたが、もう誰も来ないのだろうか。そうなると少し寂しい。

「いつまでも扉が開かないのは、ちょっと落ち着かないな。この店を開いた頃に戻ったようだよ」

「……お父さん。懐かしいですね」

 親子は思い出話を始め、なんとなく俺が聞いてはいけないような気がしてくる。仕方なくヘンリーと話していたら、窓の外がいきなり光ったかと思うと、轟音が遠くに聞こえた。――雷だ。

「おお、雷まで落ちたか。これはあれだな、陸の孤島となった館で、連続殺人事件が起きるパターンだな?」

「連続して事件が起きるほど、このお店に人はいませんよ……」

 秋広さんのボケに華麗なツッコミを入れる蓮香さんもいいが、俺は不意に全身を圧迫されて、危うく窒息死、もしくは全身の骨を砕かれるかして、本当に事件の犠牲者になるかと思った。強い力で体を押し付けてきた犯人は、他でもない。ヘンリーだ。

「ちょっ、ヘンリー。痛いって」

「うっ。ぅぅ…………。ワタシ、雷はダメぇ……」

「い、意外な弱点だな。でもとりあえず、俺に抱きつくのは……秋広さんに、殺されそうだから…………」

 なんとか引き離し、秋広さんに対処をお願いする。まだまだ雷は鳴り続けるだろうから、その都度、俺に抱き付かれていたら命がいくつあっても足りない。二つの意味で。

 ……ああ、しかし本当にとんでもない感触を味わうことになった。俺は初めて、女の人に抱き付かれた訳だが……あまりにも柔らかかった。ヘンリーが女性の中でも特にスタイルがよかったというのもあるだろうし、彼女があんまりに全力だったから、余計に強く押し付けられ、その感触がわかったというのもある。

 おまけに顔まで近く、髪の匂いがはっきりとわかった。なんでもないシャンプーか化粧品の香りだろうに、なんであそこまで魅惑的だったのか。

「長郷くん。今のは、あれですね」

「どれだ?」

「ラッキースケベに分類されるのでは?」

「アンラッキーだよ……。秋広さんとは良好な関係を築いておきたいんだ。居候にして、雇われの身としては」

「大丈夫ですよ、あれぐらい。次に雷が落ちれば、お父さんに抱き付くでしょうし」

 蓮香さんはクールで、雷の音にも少しも驚いた様子はない。……夢を思い出してみれば、落雷の音よりも銃声の方がうるさく、恐ろしいかもしれない。なんてことを考えて、すぐに忘れようとした。あれは夢だ。それにもう終わった。

「しかし、本当にもうお客さんは来ないかもしれませんね。ちょっと寂しいです」

「そうだな。人が来ると応対に大変なんだけど、誰も来ないとそれはそれで暇でしょうがない」

 俺と同じことを蓮香さんが考えていることが、なんとなく嬉しい。いや、別に特別じゃない、普通なことを考えているからなんだろうけども、ヘンリーに俺のその……恋心をはっきりとさせられてしまったからだろうか。こんなちょっとしたことで嬉しくなり、ドキドキするのは。

 その時、またどこかに稲妻が落ちた。一瞬後、音がやって来る。さっきよりも近いのか、音が大きい。

「ぴゃうっ」

 思わず秋広さんの方を見ると、小動物のような悲鳴と共にヘンリーが抱き付いている。しかし、いざ人が被害に遭っているのを見ると、あれは完全に格闘技の絞め技だ。骨がいかれたとしても文句を言えない。それなのに、秋広さんは笑顔のようだった。あまりにも幸せそうで、そのまま天に召されていきそうなほど……。

「大丈夫か、あれ」

「ジェイムズさんの手で旅立てるのなら、父も本望ではないでしょうか」

「いや、さすがにそれは。というか、蓮香さんも知ってるのか、秋広さんの気持ち」

「直接、話されたことはないですけど。何かあればジェイムズさんと二人になりたがったり、過度に気にかけていたりするので、しばらくいれば気付きますよ。――では反対に、長郷くんにはお父さんが話したんですね」

「ああ。再婚を考えてる、って。……でも、蓮香さん的にそれはどうなんだ?」

 今の同僚……いや、立場的には部下だろうか。そんな彼女が自分の母親ということになるのは色々と複雑だろう。秋広さんも少し奇妙な若過ぎる父親だが、ヘンリーはそれより更に若く、姉として見るのが自然だ。秋広さんのことを父と呼べている蓮香さんでも、さすがに彼女を母と呼ぶのは難しいに違いない。

「お父さんがそうしたくて、ジェイムズさんもその気持ちに応えてくれるのであれば、問題はないと思います。そしたらいよいよ、このお店は家族だけで経営されていることになりますけどね。今の親子関係の時点で普通じゃないんですから、これ以上こじれてもあたしは構わないですよ」

「そ、そうなのか。……あれ、でも、家族だけって俺がいるんじゃ」

「長郷くんはバイトという扱いじゃないですか。――それに、長郷くんはほとんど家族のようなもので……い、いえ、何もないです」

「れ、蓮香さん」

 彼女が顔を真っ赤にしてそっぽを向くのと、俺の顔が火照っていくのは同時だった。

 今、蓮香さんは口を滑らせるようにして、家族と呼んでくれた。俺のことを。それがあまりに嬉しくて、でも照れ臭くて、今の俺の顔は実に愉快なことになっているだろう。喜びながら照れて、ついでに泣いているに違いない。

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 うっとうしい天気が続いている。

 客の入りは極端に少なく、もう店を閉めてもいいんじゃないかと思うが、あくまで営業時間いっぱいは開けておくのが秋広さんの方針だ。……とはいえ、あまりに暇過ぎて、蓮香さん達との雑談が続く。

「そういえば、最近はもう夢を見ないんですか」

「夢?あ、ああ。あれはもうないな。落ち着いたからなんだと思う。ごめん、心配かけて」

「いえ。けど、長郷くんの過去、わかればいいですね。やっぱり、気になりますよね。今でも」

「正直言うと、な。毎日を楽しんでいるつもりでも、まだどこかで引っかかってるんだ。割り切ればいいんだろうけど、俺は今の姿のまま、どこかから湧いて来たんじゃない。ちゃんと過去があったんだ、と思うと不安になる。俺と接していて、蓮香さんは俺の“性格”のようなものを感じると思うけど、それがどうやって作られたのか、とかも気になる」

 まず、こういう言い回しをしたがることが俺の“性格”の現れだ。俺はとにかく、考えに考えて、やたらと理屈を並べるのが好きな人間らしい。こういうのは脳に染み付いているものだろうから、記憶を失ったくらいじゃ失われないはずだ。

 結果、俺は気楽に記憶喪失者としての生活を楽しめず、うじうじと考え続けている。頭はそう馬鹿じゃないらしいから、意味があるなしに関わらず、諸々のことを考えてしまうんだ。同じ考えるにしても、楽しいことを考えていればいいのにな――

「長郷くんはきっと、あたしのことをもう知ってますよね」

「えっ、いや、それは……」

「気を遣わなくても大丈夫です。足羽さんならきっと、話しているとわかってましたから。ご存知の通り、あたしはああいうことがありました。なので昔の性格らしいものは一度、なくなってしまったんです。それからのあたしは悲観的で、いつしか過度に遠慮するようになったんです。何も望まないようになって、今みたいにふわふわ生きています。当たり障りのないことを口にしながら」

「そんなことはない。だって、蓮香さんは俺を助けてくれただろ。そんなの、当たり障りのないことをしようとする人がするようなことか?俺はとんでもない犯罪者で、それを助けることで事件に巻き込まれたかもしれないのに、警察や救急車を呼ぶんじゃなく、家に居候させるなんてこと」

「そ、それは……」

 彼女は自嘲する笑いを凍り付かせる。

 今の俺は、蓮香さんを好きだと思う気持ちをはっきりと自覚している。そんな俺は、彼女に自分自身を否定してもらいたくはなかった。俺が助けてくれた、俺の大好きな蓮香さん自身を。

「蓮香さん。君はすごく優しくて、皆を愛してくれる人だ。だから、足羽さんやヒロミさんみたいな、気難しい人でも君とは上手く話せるんだろ?それは紛れもなく蓮香さんのいいところで、今までの人生で作られた素晴らしい性格だ。そこは自信を持っていいと俺は思う」

「長郷、くん……。手、痛いです」

「あっ……」

 反射的に彼女の手を乱暴に握り、その瞳を覗き込むようにしながら、俺は偉そうに説教を垂れていた。気まずくなってすぐに離れ、なんだかもう彼女の方を見れなくなってしまう。

 声を荒らげてしまったので、きっと秋広さん達にも聞こえただろう。だから彼らの方も見れず、ただ虚空に視線を漂わせる。湿度の高い空気は、体に絡みつくようだった。

「長郷くん」

「……ごめん。俺なんかが変なこと言って。でも、このことだけは言いたかったんだ。何度も言って、その重みはもうないかもしれないけど……俺は蓮香さんに感謝している。きっと世界の誰よりも」

「ありがとうございます。長郷くんの気持ちは、よくわかりました」

 視界の端に茶色の髪の毛が見えたかと思うと、俺より身長の低い蓮香さんが目の前に現れた。

「あたしは、そこまで長郷くんに想ってもらっていたんですね。長郷くんに手を取られた時、すごくびっくりしました。まさかそんなこと、されるとは思わなくて」

「本当、ごめんなさい。さっきは俺、どうかしてたな」

「あのまま、どうにかされてしまうかもしれない、と思いました。だから怖かったけど、ちょっとだけ嬉しかったです」

「嬉しい?」

「はい。本当にちょっとだけ」

 頷いた蓮香さんは、窓へと視線を向けた。雨はまだまだ降っている。窓ガラスには止めどなく雨水が流れ、他の家々も雨が洗い流しているのが見える。

「長郷くんは、真剣にあたしのことを見ているんだ、ってわかりました。言葉だけじゃなく、体でまであたしを捕まえて、長郷くんは想いを伝えてくれたんです。……こんなの多分、お父さんの他には初めてのことです。……あっ、ちなみにお父さんは、あたしが生意気にも見ず知らずの人のお世話にはなれない、って言った時に頬を叩いて、その後、泣きながら抱きしめてくれる、という何かのドラマのようなことをしてくれたんですが」

「蓮香さん」

 なんとなく、彼女の隣に並び立って窓の外を見た。人通りは少ない。ただし、珍しく通った人は男女二人組みで、一つの傘を二人で差していた。

「長郷くん。あたしは長郷くんのことが好きです」

「……蓮香さん。あっ、俺も――」

「それは大丈夫です。ただ、蓮香と。呼び捨てで呼んでくれませんか。あたしも、燎太くんと呼びます。それで十分なんです」

 蓮香さんは自分の人差し指を俺の唇に当て、笑った。……いつもの微笑じゃない、華が咲くような満面の笑顔だった。

「わかった、蓮香。それから、ありがとう」

「なんでありがとうなんて言うんですか。おかしな燎太くん」

 どうして蓮香さんが、唐突に俺のことを好きだと言ってくれたのか。いまいちその理由はわからない。ただ、はっきりとわかることはある。

 俺は間違いなく、幸せの絶頂にいる。それと同時に、最高に気まずい状況にもいた。

「遂に春が来たな、少年!君になら、仕方ないな。蓮香を送り出しても構わないということにしておこう」

「レンカちゃんとお幸せにね!いやー、もしかしてワタシが恋のキューピッドなのかな?大丈夫、大丈夫。お礼はいらないよー」

 冷やかしに冷やかしてくれる、最悪にいじわるな大人が二人もいるからだ。

 確かにどちらにも。特にヘンリーには感謝しているが、思いっきりにやにやしながらだと、どうしても腹が立って来てしまう。

『秋広さん』

「ん?何かな、春が来た少年よ」

 報復とばかりに秋広さんの耳元でささやく。

『これに乗じて、ヘンリーに告白したらどうですか』

「え、ええっ!?そ、それは。もうちょっとこう、雰囲気というか……」

 少しだけ満足できた。だからとりあえずこれで許して差し上げることにする。

 それから俺は、できるだけ表情には出さないが、明るい気分で仕事を終え、眠った。――その中で、久しぶりにあの夢を見ることになる。奇妙な実感のある、限りなく現実的な夢を。

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「遠く、来ましたね……」

 俺の服装が変わっている。よく見るとそれは、昨日完成したばかりの喫茶店の制服だ。ただし、服の本来ならば白い部分まで黒くなっているものだから、すぐにはそれだと気付かなかった。不思議なことに、蓮香の制服も同じように白が黒になっている。

 思わず自分の服に触れてみて、その奇妙な手触りから全てを察した。これは全て、人間の血だ。返り血を浴び続けて、白い布地が赤黒く染まってしまった。

「このまま、どこに行くんだ?」

「どこにしましょう。あたしは燎太くんが望むなら、どこへでもいいですよ」

「じゃあ、終わりにしようか。蓮香、この夢はもう終わらせるべきだ。俺は、こんなものに自分の現実の人生を惑わされたくはない。何も気に病むことなく、生きたいんだ」

「……本当にそれでいいんですか?このまま逃げ続ければ、燎太くんの真実がわかるかもしれません。もう二度と、この世界に来れなくてもいいんですか?本当に、後悔をしませんか?」

「ああ。もうやめよう。俺はここに来たくて来てるんじゃない」

 俺は、初めて夢の中でこれを夢だと理解した言葉を発した。今までは夢に飲まれて、夢だと理解しながらもそれに抗うことができなかった。それなのに、今夜だけはそれができる。現実で起きた出来事がきっと、関係している。

「多分、これきりですよ。もうあなたがどれだけ迷っても、この世界に来れはしません。それであなたは無事に生きて行けますか?」

「心配ない。蓮香がいてくれるんだから」

「あたしが何の助けになるんです?あっちの、何もできないあたしが。こっちのあたしはあなたを守れるんですよ。どんな人間だって殺してみせます。欲しいなら、お金でもなんでも奪って来ます。あたしはあなたになんだって与えられますよ」

「じゃあ、心をくれ。現実の蓮香は、俺のことを好きだと言ってくれた。同じように、俺を愛してくれ」

 黒い服の蓮香は、一瞬だけ動きを止めた。それから、おずおずと口を開く。

「い、いいですよ。なんですか、キスでもします?それとも、服を脱げばいいんですか?」

「それがまず嘘だ。現実の蓮香は、俺に答えさせることもさせてはくれなかった」

 あんまりにもプラトニックで、奥ゆかしくて、煮え切らない態度が嫌だと感じる人だっているだろう。でも、彼女のことが俺は好きだ。

「頼む、もう消えてくれ。俺には偽物はいらない。そんなもので心を落ち着かせる必要はない。俺はもう、現実を生きていける」

「だったら、あたしを殺してください。そうすれば、もうあたしはあなたの前には現れません」

 拳銃を握らされる。思った以上に重いそれを、彼女は片手で自由に扱っていた。

「俺に、撃たせるのか」

「本当にあたしと決別できるのなら、簡単なはずです。それが無理なら、あなたはあたしなしには生きられませんよ。……だってあなたはきっと、永遠に戻らない記憶を抱えて生きることになります。あなたが考える以上にそれは負担になり、きっと心を病むことになります。そのために、あたしは生まれました。あなたを救う、あなたの理想の恋人として」

「でも、夢が叶った時には現実になる。俺はもう、現実で蓮香とより深い関係を持つようになった」

「じゃあ撃ってください。あたしは死にます。ここは夢の中ですが、あたしの死は現実です。もう二度と、蘇りはしません」

「……消えてくれ、蓮香」

 狙いは適当だった。どこを撃とうかなんて決めていなかったのに、銃から放たれた弾丸は胸へと吸い込まれていった。血液が宙に飛び散る。そして、撃たれた女性は俺が好きな人と同じ顔と、同じ体型をしていて、声まで同じだった。

「これで、あなたとはお別れです。……最後に、真実を教えましょう。あなたは動く死体、既に生きてはいない人間です。あなたは、生きている人を愛し、愛される資格を持っているのでしょうか。あなたから見れば、普通の人々は等しく天上の世界に生きる聖人も同然です。あなたはそこにいるはずのない人間なんですから……」

「くどい」

 もう一発、銃弾が吐き出される。今度は腹に命中し、もう彼女は動かなくなった。ただ最期に、口の端から一筋の血の川を溢れさせる。

 夢はそれで終わった。新たな朝が来る。

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「おはよう、蓮香」

「おはようございます。燎太くん」

 朝、朝食を作る彼女の姿を見れた俺は、どれほどそのことを喜んだのだろうか。

 あの夢には現実味が溢れている。全てが生の感触であり、銃の重みも、反動も、命を奪われてゆく蓮香の姿も……何もかもがリアルだった。それだけに、今が夢の延長にすら思えている。つまり、蓮香はもう生きてはいないんじゃないか、と。

 だけど、彼女は笑顔を見せてくれた。今朝も雨だ。一日降れば止むはずだったのに、天気予報は外れた。今日も三時以降は客足が途絶えるのだろうか。それとも、午後ぐらいには止んでくれるのだろうか。今朝の俺は、ずいぶんと未来のことが気になっていた。

 昨日までは今を生きるのに精一杯で、更には過去も振り返ろうとしていたのに。

 あの夢との完全な決別は、気の持ちようにも大きな影響を与えたということか。

「今日の燎太くんは、いつもより晴れやかな顔ですね」

「表情にも出ているのか?……確かに、喜ぶべきことがあったんだ。あの、変な夢のことで」

「何か、わかったんですか?」

「ああ……もう二度とあんな夢は見ない、そんな気がするんだ」

「気がするって、変な話ですね。自分の見る夢を、自分好みにコントロールすることなんてできるんでしょうか……?」

「多分、今度の場合はそれができるんだ。元から変な夢だったからな、普通じゃない道理があるんだ。きっと」

 結局、あの夢がなんだったのか。あそこで蓮香が最後に言ったことは真実だったのか。

 目を覚まし、もう二度と見ないはずの状況となった今、その真偽を確かめる方法はないし、きっとその必要もない。俺は夢のことなんて早く忘れて、自由に生きていくべきだ。過去のことも、なるだけ考えないようにしよう。今度こそ。

「なんだかよくわかりませんね」

「確かにな。俺ですらよくわからないんだから、他の人はもっとわからないだろう」

「けど、あたしも嬉しいです。なんだか、やっと燎太くんが目を覚ましてくれたような気がします」

「……えっ?」

「いえ、別に今までの燎太くんが、夢遊病のような状態だったとは言いませんが。それでも、どこか遠くに感じていました。でも、今はそんな感じもしません。あたしと傍にいてくれている、そんな実感があります」

 そう言った蓮香は、優しく微笑む。俺にとっても、今の彼女の笑顔は初めて見るもののように思えた。今までは心の距離を感じていたのに、もう隔たりを感じることはない。そして、その障壁を取り除いたのは俺からの働きかけではなく、彼女の方からのアプローチだった。

 蓮香は昨日、雨を見ながら俺が好きだと言った。それに俺は答えられなかったが、今までの態度で十分に応えたつもりだ。……俺と蓮香はきっと、世間で言う“その関係”にある。足羽さんは俺に彼女は相応しくないと言い、俺も自分に自信は持っていなかった。だが、現実はそうじゃなかったのだろう。どういう訳か俺は、彼女に受け入れられていた。

「もうすぐできますので、お皿を出してもらえませんか?」

「わかった。……そういや、今日は秋広さんが遅いな」

「途中で道草をしているのでしょうか。ほとんどお金も持たずに外出してるのに……」

 二人してまだ開かない扉の方を見ると、噂をすればなんとやら。すぐに秋広さんが帰って来た。

「やあ、おはよう諸君。少し、帰り道に人助けをしていてね。今時、道にオレンジを転がしてしまう、なんて漫画みたいな失敗をする人もいるもんなんだな」

「それはまた、朝から変なことに巻き込まれましたね。しかも雨降りなのに。もうご飯が出来ますよ、お父さん」

「なに、素敵なご婦人だったから、オレに遺存はないさ。見覚えがあるから、この辺りの人なんだろうが、独身だろうか」

「……ヘンリーはもういいんですか?」

「まさか!!」

 朝っぱらから大声を上げる秋広さん。……テンションが恐ろしく高い。

「君達に先を越されこそしたが、オレの嫁は彼女以外にはあり得ない!……ただ、男ならわからないか?その人と結婚するとかどうとか、そういうのはどうでもいいんだ。ただ、素敵な人に夫や彼氏がいない、それだけでなんとなく嬉しくならないか?」

「ま、まあ、そういう気持ちはわからなくも……ないです」

「だろう!オレはそういう、ささやかな幸せをかき集めて生きているんだ。もちろん、蓮香の成長を見守るのが一番の幸せだが、すっかり蓮香も大きくなったからな……色々と」

「お父さん。朝ご飯は少なめにしておきましょうか」

「し、身長の話だぞ。それに、だ。オレは断然、巨乳派だ。ヘンリーを胸だけで好いてる訳じゃないが、そこも大きなポイントだった。いかにオレが巨乳を愛しているかわかるだろう」

 見る見る内に、蓮香の機嫌が悪くなっていく。

 そういえば、未だかつて蓮香は自分の容姿、特に胸のことについては何も言っていなかった。こうやって秋広さんの胸に関する話題に嫌悪を示すということは、あまり好ましいものとは思っていないのだろうか。

「お父さん。お願いですから、燎太くんもいるのにそういうことは言わないでください。本当にお父さんのトーストだけ焦がしますよ」

「すまないすまない。だが、本当に蓮香は立派になったな。それが嬉しいという気持ちは本当だよ。……特に、今となっては好きと言える人を見つけたことだし。やっぱり少し寂しい気持ちはあるが、父として受け入れるべきことなんだろう」

「……もう。あんまりそのことには触れないでください。あたしはそんなに大きく変わりはしませんよ。燎太くんも、そうですよね」

「そ、そうだな。俺もまだ、そういうことはよくわからないし、今までと変わらず、楽しくやっていければいいと思う」

 こんなことしか言えない自分が、なんだか恥ずかしかった。でも、蓮香はこの言葉こそ望んでいたようで、大きく頷く。彼女もきっと、何か明確な理由がある訳じゃなく、俺をいいと思ってくれているんだろう。だから、何も“それらしいこと”はしようとは思わない。

 彼女の告白の理由が俺にはわからなかったが、きっと蓮香自身にもよくはわかっていないんだと思う。そんな、あんまりにも頼りない、できたての二人だからまずは普通にしていて、それから少しずつ“わかる”ようになってから、ステップを踏んでいけばいい。蓮香が望んでいるのは、そういうことなんだと思った。

「けど、そんな彼氏くんが蓮香の容姿をどう思っているか、それだけは聞いておくべきではないかね?」

「お父さん!」

 本気で頭に来ているらしい蓮香は、秋広さんに負けず劣らずの大声を張り上げた。どちらかと言えば静かに話す彼女にしては珍しい。ただ、湿った空気を切り裂くような声にこもった覇気は、育ての親ながらも秋広さんそっくりに思えた。

「……はぁ。あんまり気にしないでください、燎太くん」

「ああ。けど、自分の体についてあれこれ言われるのは、嫌いなのか?」

「そういう訳ではないんです。でも、この胸にだけは自信が持てなくて」

 食事の後、ヘンリーが来るまでのひと時を二人で過ごす。秋広さんは開店準備のため、少し席を外している。

 蓮香は憂うような瞳で、己の胸を見る。豊かなその上に手を乗せると、わずかにそれが沈んでいくのがわかった。

「どうして?やっぱり、大きいと肩がこるとか、そういうのなのか」

「それはもう、諦めも付きます。問題はあたしにこの胸が似合うかなんです」

 本当に大きいとそういう悩みがあるのか……と思わず感心してしまう。しかし、似合うか似合わないか、か。胸も身長と同じように、持って生まれた変えようのないものだろう。気に入ろうが気に入らまいが、一生涯付き合っていかなければならない。

「ジェイムズさんは背が高く、均整の取れたスタイルです。なので、胸が大きいのがすごく似合っていますよね。でもあたしは、背は低いですし、童顔ですし、胸以外は肉付きのバランスがよくないって、服を着ていてもわかると思います。そのせいで実際の身長以上に小さく見られている気がするんです」

「い、いや。俺は……蓮香の場合はそういうところも含めて、魅力的だと思うけどな。大体、ヘンリーはアメリカ人だろ?蓮香は日本人の女の子として身長は普通にあるし、むしろ胸は長所だろう。顔立ちも、これからまた大人びていくだろうし、俺としては別にそのままでも……」

「本当、ですか?……いえ、燎太くんがお世辞で適当なことなんて言いませんよね。信用します。実は誰かにこのことを話すのは初めてで……。お父さんに話すようなことじゃないですし、ジェイムズさんにも話しづらく、他の知り合いの人達に言うと、その……わかりますよね」

「まあ、嫌みっぽくなるな」

 特に足羽さんは絶対に駄目だろう。いや、でも考えてみるとあの人は秋広さんと同い年なのに、どう見ても高校生かそれより幼い見た目をしている。自分より下を見て安心するのはアレだが、童顔や身長の悩みを吹き飛ばし得る人物だ。

「これだけでも、燎太くんと出会えて、こういうことになってよかったです。男の人から見るとどうでもいいことかもしれませんが、どうしても気になっていて」

「そうか。少しでも話して気が楽になったのならよかった。……まあ、あんまりディープな話をされても困るけど、もしも悩みとか誰にも言えないことがあったら、これからも俺に話してくれていいから。俺も、ずいぶんと蓮香には助けられたことだし」

「いえ、そんなことは。結局、夢の相談も足羽さんがされた訳ですし、その、一昨日はジェイムズさんが何か話されたんでしょう?」

「俺は何も、人に話せる不安や悩みだけを抱えていた訳じゃない。こうして蓮香が毎日変わらず、俺と会って話してくれている。それだけで心の助けになったんだ」

 だからこそ、あの夢にはよりによって蓮香の姿の少女がいて、彼女が俺を護り、恋人になろうとして、最後には俺に殺されたのだろうか。

「……ありがとうございます」

「こっちこそ」

 まもなく秋広さんが戻って来て、ヘンリーもやって来た。緩やかに今日という一日が始まる。

 雨の中、晴れやかな気分。とはいかないが、少なくとも俺は昨日よりも明るい気持ちで働けるような気がした。

 いつもすぐそこには蓮香がいる。その意識が今もなお、強力に俺を支えてくれていた。

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四章なのだ!
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長編 現の中の夢物語 

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