現の中の夢物語 六章
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六章 彼女との始まり

 

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 再三、言われていたことでした。あたしはもうこれ以上、ただのウェイトレスではいられない。

 あたしはどこまで行っても、あの父の娘であり、父に連なる人達はあたしのことを知っています。あたしは彼等にとって、兵士としては頼りない存在でしたが、利用価値はありました。大昔の言葉をあえて当てはめるのなら、政略結婚です。あたしと結婚することで、権威を得ることが出来る人物がいる。そして、あたしとの結婚を実際に望んでいる、と。

 もちろん、あたしは断り続けました。あたしは確かに年齢的には結婚できますが、まだするつもりはありませんし、その相手が見ず知らずの、しかもギャングだなんて認めることができるはずがありません。

 それに、あたしはあたしのことを知っていました。父は決してどうでもいい一兵士という訳ではなく、お金と殺しの重要な部分を握る地位にいました。その父を持っていたあたしを邪険にすることは、彼等の理性が決めても、体と本能は許さないんです。ギャングというのは動物的な面も多分にありますから。

 ですが、彼はやって来ました。想像していたのと違う、普通の東洋人としての容姿を持った彼は、あたしと同い年ぐらいに見えましたが、今年で十八。確かに結婚できる年齢なんです。実年齢よりは少し幼く、あどけなく見えました。

 でも、それでもあたしは首を横に振り続けました。彼が穏やかで素敵な人物だと理解しつつも、ギャングに違いはないんです。あたしはもう、彼等と縁を切る。望見家の子として、一般人としての人生を生きていく。そのことをとっくに決めていたのですから、今更また闇に戻ることは出来ないんです。

 きちんと説明をして、お詫びの印のように、一度だけお食事を一緒にして……これが迂闊でした。彼はもう、あたしと離れられなくなったんです。そこからはもう、まるでロミオとジュリエット。彼は、今のギャングとしての生き方を捨ててでも、あたしと結ばれると。そうすれば、結婚をしてもいいだろうと。強く、情熱的に迫りました。

 彼が一般の人間になるなら、悪い話ではない。そう思いはしましたが、彼はやはり闇の住人です。とても周りが許すこととは思いませんでしたし、たとえ万事首尾よくいったとしても、やはり抵抗はありました。あたしは多分、彼が好きでした。でも、彼を愛することは出来なかったんです。好きと愛しているは、やはり違いますから……。

 あたし達は別れることになりました。もう、最後だから、と何かをすることもしません。駅まで見送ることも、もうしませんでした。そのままあたしも、電車でどこかに行くことになりそうだったからです。

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 それから、数日後のことでした。

「また、あなた方ですか。その、もうここには来てもらいたくないのですが」

「それが、事情が変わりましてね……。ウチの若とくっ付いてもらえないようなら――」

「死ねと、そう言いますか」

「お察しが良い」

 銃社会ではない日本での発砲は、さすがにまずいと考えたのでしょう。得物はナイフでしたから、あたしでも対処は出来ました。相手は三人でしたが、まずは正面の一人の……いわゆる股間に打撃を与えた後、その人を柔道の要領で投げてもう一人にぶつけ、そのぶつけた相手から奪ったナイフを三人目に向けて、そこで動きが止まりました。

 あたしはほとんど反射のようにして、この三人目の首をかき切ろうとしていたことに気付いたんです。実際に人を殺めたことはありません。でも、技は学んでいます。かなりのブランクがあったというのに、体は呆れるほど素直で、覚え込んでいた技をそのまま実行した訳です。

 どんな相手であっても、あたしは殺せませんでした。ここで誰かを殺めるぐらいなら、自分がそうされた方がいい。そう思えたほどです。だからあたしは手を止め、運命を受け入れようとしました。結局、あたしは闇に生まれて、一度はそこから抜け出しても、やっぱり最後は闇へ還る。でも、後に残されるお父さんはきっと、悲しむだろうな。あたしの後を追う、なんてことを考えたりはしないだろうか。せめて、遺書を残したかったな。そんなことを一時に考えていました。

 でも、あたしの死はやって来なかったんです。代わりに、“彼”がやって来ました。彼はまるでテレビのヒーローのように颯爽と駆け付け、男を蹴り上げたかと思うとナイフを捨てさせ、素手での殴り合いを始めました。

 彼は勇敢でしたが、決して強くはなく、一人を倒す頃には自身もかなり殴られて、頭から血を流していたのを覚えています。口も切っていて、足もガクガクでした。ヒーローにしてはあんまりに情けない姿でしたが、彼はどちらかといえばインテリな人でしたから、それも仕方なかったんです。

 残る二人の内、お気の毒なことに、最初にあたしがいなした一人は重症で、しばらくは立ち上がることも出来なかったですが、二人目は無事でしたから、やはり彼と戦いました。また彼は殴られに殴られ、顔を腫れ上がらせて、もう人相がわからないほどでしたが、それでも勝ちました。

「どうして、あたしを」

「僕が、君を愛したからだ。それでは、理由にならないだろうか」

「あたしは、あなたをきちんとフリましたよ」

「それでも、諦めきれなかった。今度は、君の友人になりたくなったんだ。それじゃ、駄目かな」

「駄目です。あたしは、喧嘩も大して強くないのに、無理してボコボコにされるような友達はいりません」

「……手厳しいな、君は。ならまずは、僕がタフガイにならないと駄目かい」

「ええ、そうです。五年ぐらい修行して来てください。頼れる男性になって帰って来たら、考えてあげなくもないです」

「はは、友達になるだけでそんなに大変なのか。いや、でもそれでいい。さすがはサルバトーレ伯父の――」

 そこで、彼は意識を失いました。二人目の男性が意識を取り戻し、思い切り殴ったんです。鈍い音の後、彼はぴくりとも動かなくなり、下手をすれば死んでしまったのではないか、と泣き出しそうになってしまいましたが、まずは自分を守らなければなりません。その、やはり少し申し訳ないのですが、股間を優しく。本当に優しく蹴り上げて、静かにしておいてもらいました。

 それからあたしは、彼を担いで運んだんです。……どこへ?――あたしの家へ。

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「いらっしゃいませ……」

「どうも、ヒロミさん。久し振り、でもないか」

「燎太。どうしたの」

 俺が山代屋を訪れるのは初めてのことだった。店が暇な時はヒロミさんがケーキを配達して来ていたし、そうじゃない時にケーキをもらいに行くのは全て蓮香の仕事だった。ヒロミさんとの会話には慣れていても、山代屋の雰囲気は想像以上に和風で、思わずたじろいでしまう。

 店には小さなカフェスペースがあるのだが、そこのソファは普通の布張りのものではなく、畳だ。しかもテーブルの裏側にはヒーターが付いていて、いわゆる掘りごたつのようになっている。……冬場は、こたつに入りながらケーキを食べるんだろう。正に和洋折衷、か。

「蓮香の好きなケーキってわかるか?それをもらいたいんだけど」

「……喧嘩?」

「わからない。でも、俺にはこれぐらいしか思いつかないから」

 女の子と問題が起きてしまったから、甘いもので解決しようとする。我ながら呆れ返るほど単純で、短絡的で、馬鹿な発想だ。しかも、俺は蓮香のことを好きでいるつもりでいて、彼女の好み一つロクに知らない。傑作もいいところだろう。でも、今はそうすることしか出来ない。何も出来ず、ただなんとなく店に帰るというのも嫌だった。

「蓮香が好きなケーキは、このモンブラン。普通のよりクリームの量が多くて、高い」

「……七百円か」

 月曜の夜、二人同じものを食べたモンブランの約二倍の値段だ。あまり売れないのか、在庫も少ないが……それだけの価値がある逸品なんだろう。

「まあいい。三つ、くれないか」

「毎度あり。セット価格で二千円でいい」

「わかった。じゃあ、これで」

 昼食に使うはずだった“二千円札”を渡す。偶然、お客さんが支払いの時に使ったものを、秋広さんが面白がって俺の給料に加えてくれたんだが、ここぞという時に使ってネタにするつもりだった。……だが、もうなんだかそれもどうでもよくなっていた。

「二千円札は不可」

「……はい」

 とっととこの“ババ”を捨てようと思ったんだが、あっさり拒否されてしまった。知り合いだからこそ言われたことなんだろうが、ヒロミさんに真顔で言われると妙な説得力がある。慌てて千円札二枚を出し直し、二千円札を返してもらう。こいつはもう、このままずっと財布の肥やしになりそうだ。

「保冷剤はいる?」

「いや、すぐそこだからいい。多分、蓮香も帰ってるだろう」

「わかった。崩れやすいから気を付けて」

「ありがとう。それじゃ」

 紙箱を受け取り、踵を返す。彼女がどうして俺の前から去ったのか、全くわからない。俺が悪かったのか、彼女が急に何か悲しいことでも思い出したのか、実は全て夢だったのか。何も。

 それでも俺は、彼女が待つはずの場所に帰る。そこに戻ることしか俺には出来ないから。

「蓮香はあなたが今も好き。だから、あなたも蓮香を好きでいて」

 扉を開け、外に出ようとした時。ヒロミさんが大きな声を上げた。初めて聞く、彼女の遠くまで届かせようとする声だった。

「……わかった。いや、そもそも俺は、蓮香を好きじゃなくなった瞬間なんてないよ」

 店に戻る。秋広さんもヘンリーもいない。二人とも、街に繰り出したんだろう。ヘンリーも秋広さんが好きだったはずだから、きっと告白を受け入れたはずだ。むしろ、彼女も蓮香のように告白される前に、自分から思いを伝えてしまったのかもしれない。この店のウェイトレスは二人とも、見た目は可憐なのにパワフルな人達だ。

 また、蓮香の姿もなかった。……自室なんだろう。彼女が帰っている証拠に、鍵は開いていた。まさか空き巣が入ったなんてことは考えたくない。それに、カウンターの上には一枚の封筒が乗っていた。真っ白なそれは、電気の点いていない薄暗い店内で、わずかな太陽の光を反射し光り輝いているように見える。まるでゲーム内で重要アイテムにされるような演出がなされているようだ。

 そして、その感想は決して的外れではない。これにはたぶん、蓮香が突然、俺の前から消えていった理由が記されている。「あたしの好きな人へ」という宛名がその証明だ。

 俺はあるいは、山代屋に寄ってヒロミさんと話していなければ、この手紙が俺に宛てられたものだと、確証を持って開くことができなかったかもしれない。彼女が本当に好きな人はもう、俺ではなく、彼女の父親になっているかもしれない、と考えることができたからだ。だが、ヒロミさんは蓮香がまだ俺のことが好きだと言った。

 蓮香が彼女にそう言うように言伝を頼んだとは思えない。俺が一度も行ったことのない山代屋に行くだなんて、予想は出来るかもしれないが、わざわざ低い可能性に賭けてヒロミさんまで巻き込むとは思えない。彼女がああ言ったのは、全く偶然のことだったのだろう。だが、彼女が適当なことを言う人とも思っていない。少しずつ口を開いていく、大岩を動かすような彼女の話し方が何よりもの証明だ。

 謎めいた不思議な言葉だったが、それが俺の背中を押して手紙を読み進ませる。

 ――そこでようやく、俺は真実に触れた。

 記憶が戻るとしたら、今だった。でも、俺は俺のままだった。“僕”になることはなく、蓮香の言う“彼”にはなれない。

 なんとなく、これは俺があの夢を終わらせてしまったからだ、とわかった。

 俺は本当に、あの世界においては神のような存在だった。それを自ら終わらせてしまったのだから、もうあの世界には帰れない。あの世界にこそ、俺の忘れた“僕”はいたはずだ。

 あそこにいた蓮香は、この世界の蓮香の分身だったのかもしれない。彼女は身を挺して、自分の守りたいものを守ろうとした。それでも、守ることはできなかった。

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 扉が叩かれた。弱々しいのか荒々しいのか、よくわからないノックの音だ。

 あたしは、その扉を開けようとも思った。でも、できなかった。そこにいる彼がどちらの彼でも、あたしはもう、前と同じようには接することができない。

「……駄目です。あたしはもう、あなたには会えません」

 あの手紙を書いている間も、今も、ほとんど目の前は見えていなかった。ずっと涙が流れていて、それがない時は、意識が体から離れていた。起きながらもあたしは眠り、彷徨っていて、自分の体がひどく遠い場所にあるような感じがする。体が熱いのか冷たいのかも、よくわからなくなっていた。

『会いたい。俺は、君に』

 扉の向こうにいる彼が、燎太くんだとわかる。あたしが大好きで、大嫌いな人だ。

 彼はあたしと結婚しようとした人と同じ見た目をしている。でも、彼の中身はあたしの知る彼ではない。彼よりも少し偉そうで、少し男らしくて、でも、ぼーっとしている。きっと彼より意気地はないし、喧嘩も出来ないと思う。ただの人だった。そこらにいる男の子と、そう大きくは変わらない。普通の男の子だ。

「あたしは、もう会えません」

「俺は、会いたいんだ」

 扉に鍵はかけていなかった。あたしもまた、彼に会いたかったから。扉が開き、クリーンな彼の声が聞こえて来た時、あたしはまた涙を流した。今の顔はもう、男の子……燎太くんには見せられないほど酷いことになっているとわかる。だから、会いたくないのに。とは後付の理由か。

「全て、わかりましたよね。あたしが好きなのは、昔の燎太くんなんです。今の燎太くんは、今の燎太くんでしかありません」

「驚いたよ。昔の俺は、自分のことなのに殴りたくなるほどのキザ男だった」

「でも結婚したい相手でした。あたしが提示した五年の間に、死んでくれればと思うほどに」

「だが、実際の別れは一分後だった。次に目覚めた時にはもう、俺がいたんだな」

「今の燎太くんは、男の子として好きでした。だから、恋愛してみたいと思ったんです」

「求婚の後に告白されて、デートをした訳だ。この体は」

「でも、わかりました。あたしは燎太くんを見る時、今と昔、両方の姿を重ね合わせてしまっている。今のあなたを見る時は昔のあなたがいて、昔のあなたを懐かしもうとしても、今のあなたが被って来るんです。顔も声も、同じであるがゆえに……」

 彼が二人いるように、あたしも二人いる。今の彼を愛するあたしと、嫌うあたし。そして、それぞれが昔の彼を嫌うあたしと、愛するあたしでもあった。その二人のギャップが、あたしに涙を流させる。どれだけ泣いても、涙は枯れそうもない。意識を失うのが先だと思った。

「蓮香……」

 彼の腕が、あたしを抱きしめる。いかにも慣れていない、力の加減がわかっていない抱きしめ方だ。

 よくわかっていないから、全然気持ちよくはない。安らぐこともできない。でも、あたしの涙は止まろうとしていた。

「あたしは、あなたとの恋愛が好きです。でも、心から恋人になることは出来ません。そんな自分が嫌で。あたしはあなたの前を去りました」

「わかってる。でも、それでいい」

「あたしが嫌なんです。あなたの本気を、あたしは本気で返せないんですよ?」

「それでいい。俺は蓮香が好きだ」

「あたしは嫌いです。だって、あたしは二回も同じ人に告白されているんです。どうやって受け止めればいいのかなんて、わかる訳ないじゃないですか」

「だったら、無視してくれてもいい。このまま片思いで終わっても、いいから」

「そんな訳…………」

 あたしは、燎太くんの体を抱きしめ返す。彼の体もまた、震えていた。

「そんな訳、ないじゃないですか!あたしはあなたが好きなんです。好きだからこそ、嫌いなんです。そんなあなたをこのまま、片思いで終わらせることが出来るとでも?」

「だったら、待つよ。蓮香が俺だけを見ることが出来るようになるまで、いつまでだって」

「そんなの、待てる訳ないじゃないですか」

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 顔をぐっと近付けた蓮香は、俺の瞳をまっすぐに見つめた。彼女の瞳の中には、小さな俺自身がいる。

「こうしていれば、あなたはあたしが知る燎太くんでしかありません。今の燎太くんの顔つきは、少し昔と違うので。顔だけを見ていれば、混同なんてしないんです。……だから、今はこれだけ、させてください」

 頬に何かが触れる。それが蓮香だと気付いた時、既に全てが過去の世界に存在している。

「蓮香……」

 もうそれ以上は、俺にも言葉はなかった。ただ彼女の体温だけを感じながら、いつまでも抱き合っている。しかし、どれだけ彼女に包まれても、俺は俺でしかない。昔を思い出すことはなく、ただ今の俺は彼女を愛している。この感情を、かつての俺も抱いていたとは知らなかったが、それも無理はないと思った。

 多分、過去の俺も蓮香に一目惚れをしたんだ。――その理由は、彼女がとても可愛らしい容姿をしていたから?それもある。彼女はあまりにも魅惑的だ。だが、それだけで。そんな薄っぺらい理由だけで俺は彼女を好きになったんじゃない。見た目がいい女の子なら、テレビやグラビア雑誌の中にいくらでもいる。

 俺は彼女だけが持つ、少しの翳りを持ちながらも、優しく、全てを包み、許してくれる空気。性格。性質……それに強く惹かれたんだと思う。今の俺も、昔の俺も、救いを求めていた。傷付いていたし、不安だったし、愛にだって飢えていた。だから、蓮香の愛に救い出されようとしたんだろう。

 ……俺は今、記憶を失う前も好きだったから、というだけの理由ではなく彼女を愛している。本当に必要としているからこそ、今は恋人として彼女を求めている。前のように、結婚相手として見ることは、とりあえずしていなかった。

「燎太くん。一つ、聞かせてください」

「ああ」

 蓮香が俺から離れていく。彼女の体温はあっという間にわからなくなってしまうが、そのことに不安はなかった。

「あなたはあたしのことが、好きですか?」

「もちろん。愛してる」

「そうですか。……あたしは」

 蓮香は微笑んだ。見慣れた、彼女の微笑をたたえた顔には、やはり優しさが溢れている。俺が恋した笑顔は、正にこれだ。

「まだ燎太くんを愛しているなんて、とても言えません」

 頷く。こんないい笑顔で、彼女がその表情通りのことを言うとは思っていなかった。その程度に俺は、もう彼女を理解することが出来ている。そんなに単純な女の子じゃないんだ。彼女は。

「なので、とりあえずはもうしばらくこのままで。デートなんかしない、手だって繋がない、今まで通りの恋人を続けましょう。たぶん、お父さんはもうそろそろ、彼女さんと一緒に帰って来ますけどね」

「そうだな」

 一時間もしない内に、秋広さん達は帰って来た。手を繋ぐどころか、腕を組んで来た彼等がどうなったのかは、考えるまでもない。幸せの絶頂にいる二人と一緒に、俺達は買って来た山代屋の高級モンブランを食べた。秋広さんとヘンリーから、それぞれのパートナーが今日、どんなことをして、話して、愛を深めたのか。それを聞きながら。

 ただ、うっかりしていた。俺が買っていたケーキは三つだけだったから、必然的にモンブラン嫌いな秋広さんの食べる物はなく、なぜか冷蔵庫にあった羊羹を悔しそうにかじっていた。ちなみにこれは、山代屋とも関係のない市販のものだ。……ひもじい思いをさせてしまい、本当に申し訳なかった。

「それで、君達は?」

 大人達の話の後は、必然的に俺達ティーンエイジャーの話になって来る。だが、きっと蓮香は秋広さんにも、自分の身に起こっていたことは話していない。その状況で、まさか俺が自分の過去を知ることができた、と言う訳にもいかないだろう。蓮香に全てを任せるため、俺は黙っている。すると、予想外の爆弾が彼女の口から飛び出した。

「燎太くんとのお付き合いは、とりあえずちょっと保留です。燎太くんはあたしを惚れさせておきながら、その時の記憶をあっさりと手放しちゃっているような人なので、一つお灸を据えさせてもらいます。燎太くんも、それでいいですよね?」

「か、簡単には首を縦に触れないんだけど」

「いいですよね?」

「そういうことにしておこう……」

「はい、決まりです。ということなので、あたし達はお父さんやジェイムズさんとは違い、冷えきった倦怠期のような関係ですが、どうぞお二人はアツアツでお願いします。その方がお灸も効くと思いますので」

 当然、秋広さん達にはよく意味が伝わらず、呆然としている。さらりと蓮香は記憶を失う前の俺と会っている、という情報を提示したものの、その背景がわからないから状況の把握は難しいだろう。そして、一応はデートに行って来た俺達が、進展するどころか現状維持で終わってしまったのだから、わからないなりに波乱に満ちた半日があったのだ、ということを二人は考えているに違いない。

 確かに、今日は決して平穏ではない半日を経験した。蓮香との動物園、そして真実を知らされて、しばらくずっと二人で蓮香の部屋にいて……とても全てを話すことは出来ない。特に秋広さんには。

 だから蓮香は、あえてわかりづらい言い方をしたんだろう。彼等に教える情報は、それぐらいでいいのだと判断して。

「倦怠期って、そりゃあ、確かに前からそういう感じではあったけども、いったい何が?」

「そうだよー!レンカちゃんとリョータくんは、実はすっごく仲がよかったって、ワタシ知ってるのに」

「いや、まあ、色々あったんですよ。それで、概ね俺が悪くて、蓮香に非はないんです」

 尚も二人は心配そうで心苦しいが、全てを話すと心配をかけるどころでは済まないかもしれない。それでも、平然と嘘をつくことは出来ず、自然と目線は泳いだ。もしかすると、それが大人達に伝わったのだろうか。それ以上の追求はなかった。

「ともかく、従業員諸君には色々な変化のあった一日だった訳だが、明日からは通常通りに営業再開だ。各員、懸命に働くように!オレもより一層気合を入れて、ヘンリーにいいところを見せるぞっ」

「ワタシも、ダーリンのためにはりきって頑張るよー!」

「こらこら、ヘンリー。ダーリンなんて冗談でも言うもんじゃないぞ」

「えー、じゃあ、ダーリンもハニーって呼べばいいでしょ?」

「そういう問題じゃないって。まあ、でも、なんだ。ハニーというのは、スウィートな響きでいいな……。な、ハニー。とか言ってみたりして」

「いいねー、ダーリンっ」

 ぴょん、と秋広さんに抱き付くヘンリー。俺と蓮香の時とは比較も出来ないほどスピーディで、フランキーで、かつ情熱的な抱擁だ。……俺が言うのも変な話だが、青少年の教育上あまりよろしくない気がする。

「蓮香、部屋に戻るか」

「そうですね。後はお熱い二人に任せて」

 二人は抱き合うだけでは飽き足らず、愛を囁き合う。……羨ましいような、俺と蓮香はこういう関係にはならさそうなので、そこまで羨ましくもないような、微妙な感じだ。

 そうして二人はそれぞれの部屋に入って行き、今夜も別々に過ごす。もちろん、明日も明後日もそんな感じだろう。

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「また、夢を見たんだ」

 起き抜け一番、蓮香と顔を合わせて口から出た言葉には、どことなく既視感のようなものがあった。

 きっともう、俺の記憶が戻りはしない。俺と蓮香の初めての出会いは、ふた月前のあの日でしかなく、その直前やそれ以前は人づてに聞くことしかできない、ただの「物語」だ。

 ただし、俺が蓮香と再会したあの時からの記憶は、一つも余さず覚えている自信がある。思えば記憶喪失でここに来てからの俺は、過去を常に意識しながらも、せめて今は忘れないように、全ての記憶を脳に刻み付ける努力をしていたように思う。

 だからこそ、こうして二人の局面が変化した今朝、懐かしいセリフが出て来たのだろう。意識したつもりはなかったが、これが足羽さんの言っていた無意識というやつか。それとも、俺が単純な人間だから似たようなことを繰り返すのか。……後者とは、思いたくないな。あまり。

「どんな夢ですか?まさか、楽しげに悪夢を語るんじゃないですよね」

「もちろん。俺と、蓮香の夢だった」

「燎太くんはそのタイプの夢ばっかりですね。愛が重くて、ちょっと怖くなりますが」

「まあ、そう言ってくれるなよ。昔見たような、悪夢ではないから」

 苦笑いしながら、未だに鮮烈な夢の記憶を辿っていく。俺と蓮香が逃避行を演じた夢と同じぐらいにリアリティがあって、どうにもただの夢には思えなかった。だから、彼女にも話そうと思ったんだった。

 

 

 そこがどこなのかはわからない。この街なのかもしれないし、どこか遠く。つまり、架空の街の架空の店なのかもしれないが、小洒落たレストランにいる。白いテーブルクロスと、ナイフとフォークがなんとも俺に不釣合いだが、蓮香との組み合わせは悪くない。今日の彼女はちょっと気合の入ったよそ行き用の衣装であり、名家の令嬢のような風格がある。

「あたしは、特別なことは言いませんよ。あたしに気は欠片もありません。あなたとも、あなた方とも一緒になるつもりは、もうありません」

「それでいい。それで十分だ」

 蓮香の声のトーンはいくらか低い。その表情に笑みも一切ない。陰鬱な空気が、満ちていた。

 まるで大きな金を動かし合う取引でもしているようだ。俺の服装が真っ黒なスーツであることも、そんな錯覚に拍車をかける。どうして俺は、こんなものを着ているのだろう。未だかつて、着たことがないというのに。

「あなたも、変わり者ですね。この食事の意味がわからないほど、あなたは愚かじゃないはずです。そして、あたしがどんな態度をするかも、あなたはわかっていたはず。それなのに、わざわざこの場に現れるだなんて」

「これが最後だというのなら、行かない訳にはいかないだろう。それに、もしもバックれたら、君を一人で食事させることになる」

「久し振りのフレンチです。あたしはそれでも問題なかったですよ」

 険のある彼女の言葉に、俺はただ肩をすくめて見せる。彼女が見た目ほどに素直な少女じゃないということは、十分にわかっている。むしろ俺は、彼女の毒を好んでいるようにも思えた。

「食事を終えたら、あたしとあなたはそれきりで終わりです。もしもしつこいようなら……」

「頭でも撃たれるのか?」

「おはじきは捨てて久しいので、足で対応させてもらいます。キックには少し自信がありますよ」

「確かに、君の足はちょっと太いからな」

 無言でスネを蹴られ、更に思い切り足を踏まれる。ほんの戯れのつもりだったのだが、さすがに空気というものを読むべきだったか。いや、それにしても蓮香の足はややむちむちしていて、魅力的に映る。やっぱり俺は、彼女みたいな適度に油断のある体型の人が好きだ。あんまりにスマート過ぎる人は、雑誌の中のモデルで十分だろう。直接会って魅力的な人とは、必ずしもイコールで結ばれない。

「料理が来るまで、こうしてあなたを蹴って過ごしてもいいですが――一応、これで最後なんですから、言いたいことがあればどうぞ。聞くだけ聞いておきましょう。変なことを言ったとしても、今の蹴りで許してあげます」

「本当に、これっきりなんだな」

「しつこい男性は嫌われますよ」

「すまない。じゃあ、そうだな……。もう好きだとか愛しているだとか、そんな決まりきったことは言わない。虚しくなるだけだろうし、君も聞き流すだけだ」

「物分かりのいい男性は嫌いじゃないですよ」

 蓮香の黒い笑みに笑い返す。彼女との会話に退屈はない。一つ一つに謎解きの要素があり、それをきちんと理解し、適切な言葉を返せている限りは。

「君とこれで別れるのなら、言っておくことは一つだ――」

 

 

「ありがとう」

 現実の蓮香の瞳を覗き込みながら、夢の通りにその言葉を口にする。ただし、これはただの夢の再現などではなく、いつか蓮香に言いたい言葉でもあった。今まで、何度もお礼はしてきた。それでも、まだ言い足りなかった。

 特別に何かをしてくれたことに感謝する訳ではない。言うなれば、何もかも含めてありがとう。そう言いたかった。

「と、まあ、それで夢は終わったんだけども。なんだか、すごく記憶に残ったんだ。これって、やっぱりその、昔の俺……なんだよな」

「……ありがとう、ですか」

「蓮香?」

 目を伏せた彼女は、少しだけ身を震わせていた。もしかして、泣いているのか?――と思った時にはもう、元気な顔を俺に見せている。

「ええ、確かにそれは昔の燎太くんとの、最後の食事の時に酷似しています。でも、本当の燎太くんはもっと女々しくて、だけども変に気取っていて、今の燎太くんよりよっぽど魅力に欠けてました。……まあ、そんなところも嫌いではなかったんですけども」

 前言をかき消すような咳払いの後、更に言葉が続く。

「残念ながら、燎太くんとあたしは離れ離れにはなりませんね。そうなる理由がありませんから」

 笑みの後、蓮香は背中を向けて厨房へ向かう。今日もまた、日々の営みが始まった。

「そういえば、蓮香。俺のことを探しているやつはいないのか?一応、その、ギャングなんだろ、俺は」

「もう二ヶ月が経ってます。誰か来るのであれば、もう来ているでしょう。それに、もしも追っ手が来るようなことがあれば、二人きりで逃避行と洒落込んでもいいんじゃないですか。確か前、燎太くんもそんな夢を見たんでしょう?」

「ああ……けど、そうはなりたくないな」

「もちろん、そんなのを望む人はいません。少なくともあたしは、普通の人として、普通の毎日を生きていくんですから」

 窓から光が差し込んでいる。快晴の今日の朝日は、いつもよりも眩しい。いつもなら暑いな、うっとうしいな、と思う程度のそれも、なんだか今日は違った意味を持って見える。

「蓮香。今日も張り切っていくか」

「あっ、燎太くん」

「な、なんだ。急に思い出したように」

「なんだか燎太くんはそれっぽい夢を見て、まるで昔のことを思い出し、あたしに許されたような気でいるみたいですが、そんなことないですよ。そんな夢、偶然の一致でしょうし、あたしの気持ちもまだ整理が付いてないので、倦怠期は続行です。なので、勘違いしてあんまり慣れ慣れしくしないでくださいね」

「……あ、ああ」

 険のある彼女も、あの夢の中だけであって欲しかった。いや、でもこれだからこそ、毎日に張り合いがある……んだろうな。うん、プラスに考えるとしよう。むしろ、そうしなければ。

「なんて、嘘ですよ。燎太くんのこと、大好きです」

「あっ、え、えっと。……ありがとう」

「ごめんなさい。もう一度、その言葉が聞きたくて意地悪しちゃいました。なので、これはお詫びとお返しです」

 トーストの準備をしていた蓮香が、不意に俺の方にまで駆け寄って来て、それから俺の右手を取った。

「蓮香……?」

「あたしはジェイムズさんみたいに、大胆なハグや、キスなんてできません。ですから、これで許してくださいね」

 小さく、滑らかな両手が、俺の手を包み込んだ。柔らかな感触と、体温が伝わって来る。

 なんでもない、キスやハグほどわかりやすい求愛行動ではないが、決してこんなことは深い関係性を持たない男女同士ではできない。その意識がなんだか俺を幸せにしてくれて、より一層、俺が彼女にとっての特別なのだと思えた。

「今度は、この手を離さないでくださいね。もしもあたしが逃げ出そうとしても、必ず掴んでいてください。……こんな簡単なことも忘れて、あたしの目の前からいなくなったりしたら、承知しないんですから」

「もちろん。今度は絶対に忘れないから、蓮香もそのつもりでな。俺に嫌気が差しても、簡単には別れられないと思ってくれ」

「……もう。しつこい男性は」

「嫌われても、蓮香と離れ離れになるよりはマシだからな」

 左手で蓮香の手を握り返す。彼女も笑い、俺達は秋広さんがやって来て現実に引き戻されるまで、ずっとそうしていた。

 

 

 

終わり

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六章、最終章です。お付き合いいただき、ありがとうございました
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