DarkandRed 〜 朝のこない夜のなか 一章 |
DarkandRed 〜 朝のこない夜のなか
一章 被害者は、30代男性
1
夜の街。そう呼ばれるここはその異名通り、昼間であったとしても太陽の差し込まない場所が多い。その原因は日照権などというものを無視して乱立された高層ビルにあり、影の世界には当然のようにそれに相応しい者が巣食った。
表向きは郊外にある大手商社のオフィスが集まる巨大なオフィス街だが、裏の顔は誰もが暗黙的に知っている。ギャングが裏社会に暗躍する無法者達の国。経済、そして政治を動かす大会社と無法者が同居しているその構図は、不自然なようで自然。危うそうに見えて安定しており、少なくとも一般人にとっての治安は良好だ。――その裏では、日常的に殺傷事件が起きているが、明るみにならなければそれはないのと同じ。そう人々は考えている。
そんな街にある、背の低い雑居ビル――近くに建った超高層マンションに光を奪われている――に、人目を忍びつつ入る男が一人いた。きっちりとしたスーツに身を包んだ、どこかの企業のサラリーマンだろう。年齢は三十代前半ぐらいか。ギャングもスーツは着ているものだが、彼はどう見ても荒事に慣れていそうには見えない。
事実、彼は一般人であり、わらにもすがる思いで、このビルの一階にある事務所を訪れたのだった。
「やあ、こんにちは。仕事の依頼ですか」
男を迎えたのは、紺色のスーツで、ノーネクタイの男だ。こちらの男はまだ二十代の前半ほどだろう。きちんとネクタイを締めていれば、立派なフレッシュマンに見えるはずだ。
「ゴトウ・エージェンシーの事務所ですよね、ここは」
「ええ、その通りです。私がそのゴトウですよ。依頼でしたら、こちらのソファにかけてどうぞ。お茶でも淹れましょう」
「あっ、いえ……」
「ゆっくりしている暇はない?ですが、ウチに頼むということは容易じゃあないことでしょう。こちらもビジネスですから、きちんとお話をしておかなければ。間違った仕事をして、悪評が立っても困りますからね」
無理やりに依頼人を黒革のソファに座らせた後、ゴトウは炊事場に向かい、あらかじめ沸かせていた湯をティーカップに注ぐ。名前が示す通り、東洋人である彼だが西洋人の多いこの街では紅茶を飲むようにしている。たまには緑茶が恋しくなるものが、それは個人的に楽しんでいた。
「どうぞ。では、商談といきますか」
ゴトウは依頼人の正面のソファに座る。この事務所は一つのテーブルを囲むようにして、四つの革のソファが配置されているのだが、実は依頼人が座る前から、両サイドのソファは埋まっていた。そこには二人の、こちらもやはり東洋人に見える少女が使用していたのだ。
「彼女等は?」
「ウチの仕事人ですよ。私はただのエージェント、クライアントのお話を聞くだけの人間です。そして、私が彼女等に仕事を指示し、実行してもらう訳ですね。まあ、話は聞いているようで聞いていない不真面目な娘達なので、あまり気になさらず」
「は、はあ」
依頼人から見て左側のソファに座るのは、オレンジ色のセミロングの髪が特徴的な少女だ。日本の私立高校の生徒が着るような、妙にリボンで飾り立てたコスプレ臭い服を着ており、眠たそうに体をソファに預けている。たまに欠伸を漏らしているが、若者らしく夜更かしでもしていたというのだろうか。
右側のソファの少女は更に酷く、長い白髮を黒いソファに投げ出し、小さくいびきをかいている。服装は左の少女に比べると地味であり、真っ黒なアーミーコートを着ていることだけがわかる。ただし、コートから大胆に露出された生足は、あまりにも上の方まで見えてしまっている……つまり、スカートをはいていないように見えた。
どちらの少女の歳も、この街には不釣合いな十六、七ぐらいだろう。本来なら学生をしているべき年齢であり、この街に来るはずのない年齢だが、裏社会はどうなっているのか、依頼人の男にはよくわからなかった。
「お急ぎなら、早くお話してもらいましょう。ご存知でしょうが、我が事務所はどんな仕事だって請け負わせてもらいます。“荷運び”に“人捜し”、逆に“人さらい”も“人殺し”だって出来ますよ。ああ、ただし、銀行強盗とかそういうのはしませんけどね。でも、身代金を要求出来そうな人をさらうぐらいは――」
「そういうのじゃないんです、依頼は。私は普通の人捜しをしてもらいたいだけで」
この街特有の汚い話を、サラリーマンは割り込んで止めさせる。
「なるほど。しかし、本当にただの人捜しなら、探偵社を頼られては?せっかくのクライアントを失うのは惜しいですが、最適な探偵社なら伝があります。そちらを紹介しても――」
「いえ、どうかあなた方にやっていただきたい。そうでなければならないんです」
「探偵社などではない、より強固に秘密を守るところがいいと、そういったところですか。確かに我が事務所は、なんでもしますし、逆にこちらが何をされても、請け負った仕事についてバラすことはありません。それが裏の仕事をする上での、我々のポリシーであり義務ですね。最近はそれを守らない本当の無法者が多くて困りますが」
紅茶を飲みながら、ゴトウは感情なく両少女を見やった。大きな金が動くこの街には、拝金主義的なギャングがあまりに多い。そんな中、彼の妹とも娘とも呼べる二人は本物の悪党で、プロフェッショナルだ。
「捜し出すべき相手について、どの程度の情報をいただけますか。その量と質により、報酬額も変わります。当然、有利な情報を多くもらえるほど、報酬も安く済みますが」
「それが、この写真と名前だけで。エブラール・バレという男です。ご存知ないでしょうか」
「初めて聞きますね。名前からしてフランス人ですか、中々に整った顔立ちですが、芸能人ですか?」
「私の兄です」
「なるほど、そういえばあなたも美形ですね」
お世辞であることが透けて見えるゴトウの言葉に、思わずオレンジ髪の少女が吹き出す。更に「兄ぃもお世辞とか言うんだ。何それ、イケメン専用?」と国の言葉で言ったが、日本語は依頼人には聞き取れない。この街での公用語は英語であり、その者の母語で話す場合、それは聞かれたくないことを言っている、と見なされて相手の心象を悪くする。少女はそれを承知で、わざと日本語でちゃっかいを出したのだ。
「私に対する茶化しですよ。あなたのことを悪く言った訳ではないので、どうかお気になさらず」
「はあ。それで、受けてもらえるんですよね」
「もちろん。ただし、私達はこの街での仕事をする者です。お捜しの人物がこの街の外にいるようなら、力になれませんし、なるつもりもありませんが――」
「必ず、兄はいます」
「確証を持てるのに、あなた自身では迎えにいけない、と。いいえ、それ以上のプライベートなことは結構。秘密保持は万全ですが、知ることが少なければ、漏れることも自然と少なくなるというもの。提供したい情報だけを与えてくれればそれでオーケーです。では、報酬の相談といきましょうか。無論、全額成功報酬です。信用が命ですからね」
「助かります。それで、肝心の額は?」
「仕事の難度次第です。我々が生半可なマネーで動かない、ということは既にご存知でしょう?とりあえず、二百は考えておいてもらいましょう」
公用語が英語であるように、取引されるカネの単位もユーロである。ということは、決して妥当な額などではない。普通の探偵社に頼むとしたら、十分の一の値段が相場だろう。
「……わかりました」
「それでは、連絡先を教えてもらえますか。進展がありましたら、そちらにおかけします。後、連絡用の名前が必要ですね。とはいえ、本名は不要です。お兄さんの苗字があなたと同じかは知りませんが、それから取ってBさんとお呼びさせてもらっても?」
「構いません。電話番号はこれです」
「ここでかけさせてもらっても?一応、確認は取っておかないと不安なものですから。取り立てに行く、なんてことがあったら手間ですからね。ウチは動ける人間が二人しかいないので、能率が半減していけません」
ゴトウは必要以上に爽やかな笑顔を見せ、自らの携帯電話でBの電話にかけた。すぐに胸の電話が鳴る。
「確かに。それでは、お忙しい中、このようなむさ苦しいところへありがとうございます」
「いいえ。よろしくお願いします」
オレンジ髪が「むさ苦しいって何事?美少女が二人いるのに」と不平を口にするが、ゴトウも、もうBも気にかけることはなく、依頼人は外へ。ゴトウはソファに座り直し、オレンジ少女の方に顔だけを向けた。
「さてはて、マコト。今回の仕事は君に頼めるかな」
「人捜し?あの感じだと、まともな人間じゃないね。どっかのチンケなマフィアかな」
「そりゃあ当然だ。ウチに来るんだから。秘密保持だなんだ言ってたが、あれは建前だな。素直に探し人がヤクザだ、なんて言ったら報酬が釣り上がると思って、わざとあんなこと言ってやがる」
「いざ会ってみりゃ、嫌でもわかるのにね。ついでに言うと、あのクライアントもカタギかな」
「さあ。グレーって印象だな。人殺しはしてないだろうが、白の人間じゃないだろ。……まあいい。マネーさえあれば働く、それが我が事務所だ」
「オーケー。一応、写真コピーしてくれる?まだ西洋人の人相を覚えるのに自信ないや」
「同感だ。俺にはクライアントもターゲットも、同一人物に見えたよ」
マコトという名をゴトウに呼ばれている少女は立ち上がり、己の得物を確認する。背負った小太刀と、腰の日本刀。更にスカートの内側に隠れて見えない足のホルスターの拳銃。この三つが彼女の武器だ。少女には仰々しい武装だが、この街の闇を歩くのに、これではまだ心もとなく見える。そもそも、可愛らしい制服の下はそのまま下着であり、防弾、防刃の装備は一切ない。
「ほい、インカムと写真のコピー。一日でやれる仕事だろ?」
「もち。ああ、というかさ、ざっとしか聞いてなかったけど――」
ゴトウと通話を行うためにインカムは必要なものだ。ただの携帯電話でもいいが、いつでも話せるようにしておいた方がいい。オレンジ色の髪に溶け込むよう、同じ色にペイントされたインカムを付け、写真もスカートのポケットに突っ込んだマコトは、最後に一度だけゴトウに向き直る。
「探し出した人間、生きてる必要はないって言ってたよね?」
満面の笑顔だ。殺人者としての笑みではなく、可憐な少女としての。
「特に指定がなかったからな。最悪、死体でも構わないだろ。ま、本人確認が出来る程度の損傷で頼むな。後、生け捕りの方が大金をふんだくれるだろうし」
「もちろん、あたしもお金はいっぱい欲しいもん。シゾノみたいなトリガーハッピーじゃないし、仕事はスマートにやりますよ。面倒なら腕とか足とかもらうけどね」
「それでいい。じゃ、よろしく頼むな。インフェルノさん」
「オーケー、ボス」
インフェルノ。すなわち地獄の炎とは、彼女が自ら付けた自分のコードネームのようなものだ。同じ東洋人である仕事仲間ならともかく、それ以外の人種に日本語名を教えても、きちんと発音してもらえなかったり、そもそも覚えてもらえなかったりする。そうなるぐらいなら、この街の公用語である英語のコードネームを用意した方がいい、ということで決めた。
不吉で仰々しいものになった理由はいくつかあるが、最終的には本人がそれを気に入ったからであり、イメージにも合っていた。生まれついての髪の色は、外国人の血が混ざっていたので茶色だが、それを薄く染め直して作ったオレンジの髪は、炎を連想させる。地獄を思わせるほどの激しさは感じないが、彼女の仕事ぶりを見れば獄卒も同然だと納得することだろう。
そんな美少女の姿をした地獄の使いは、裏口から仕事へと出て行った。正面の入口は大通りに面しているが、裏口は狭い路地に出ることができる。そこから彼女は身を屈め、蛇のように暗がりの中を進む。
2
この街で人捜しをする時にどこに行き、誰に行けばいいのかは長年の経験の中で知り尽くしている。その心当たりに片っ端から当たり、写真を見せる。情報が得られれば可能な限り値切った情報料を支払い、情報がなければ愛想で一杯だけ飲んでいく。見た目に反して二十歳である白髪少女とは違い、マコトは十八なので酒は飲まない。裏社会に飲酒年齢もあったものではないが、単純に彼女は酒が好きではなかった。
「バレか。ああ、聞いたことがあるな」
そうして、四つ目の心当たりでビンゴが来た。
「そいつをとっ捕まえたいんだけど、まだ生きてそう?」
「さあな。でも居場所は――」
マコトは名前も知らないが、アメリカ人の男は自分の携帯を操作し、この街の地図のある一点を示した。その場所は彼女にだってわかる。実際にその事務所に行ったことはなかったが、それなりに名の知れた運び屋の拠点だ。表向きはただの運送会社、裏の顔はカネも死体も薬物も運ぶ、プロの運び屋だった。
「ここのエージェントをやってたはずだ」
「ふーん、じゃあケンカはなさそうだね」
「おいおい、そいつを締め上げる仕事じゃないんだろ。相変わらず、血の気の多い姉ちゃんだな」
「姉ちゃん、だなんて失礼だね。あたしはあんたより間違いなく年下だよ。お嬢ちゃんって言いなさい」
「その歳から細かいこと気にすんなよ、嬢ちゃん。ともかく、そのままズバリの情報をやったんだから、情報料は――」
男も百パーセント親切でやっている訳ではない。いや、愛想の悪い白髮少女ではなく、マコトが来たことに気を良くしている面がありはするが、だからといって収入を棒に振ることも出来ない。彼女は裏社会に生きる少女にしては身持ちが固く、軽く遊ぶことすら決して許さないため、それをカネの代わりに、とはいかないのだ。下手なことを言えば、次の瞬間には刀を突き付けられている。
「あたしの取り分の三割。あんまり大金だったら、二割ね」
「どうせおたくは、大金ふんだくるんだろ?二割でも十分だ、それでいいよ」
「商談成立、どうも、ありがとね。おじさん」
「おう、じゃあな。……後、俺はまだ三十代だし、おじさんは――」
「あたしの倍の歳なんだから、おじさんでいいじゃん。おじーさんの方がいい?」
返事は待たず、また闇へと溶け込んでいく。少女の衣装は可愛らしい目立つもので、髪の色も決して地味ではないのに、闇に同化出来るのは精神的なものが関係しているのだろう。彼女の居場所はそこであり、そこでしかないのだから、自然と一体化していく。
そして、人知れず仕事をするべき事務所までやって来た。正面から踏み込むのもいいが、必ずしも相手が表に出ているとも限らない。鍵の締まった裏口から入り込んだ。この街の中小のビルは、どこも画一的な構造をしている。自分の事務所とほぼ同じ間取りな上、鍵も似たようなものだからピッキングは数秒で完了。すぐに入り込んでしまう。
この街の闇で生きる限り、鍵や家などというものはそこに実在しているようでいて、全くそこには存在していない。精神を支えはするだろうが、命や財を守るものとしての機能はなく、己の身は己で。己の財は己で守らなければならない。マコトは後者が面倒だから、収入は得た瞬間に使い切ってしまう。それでも余った分は身に付けておき、いざという時のために使うようにしていた。
「ボス、話は聞いてたと思うけど、そういう訳で今からご対面だと思うから。出来るだけカネになる捕まえ方ができるように祈っててね」
『ああ。クライアントに電話を入れておこう。まもなく仕事が終わるってな』
「どうだか。ここにいる確証もないし、そもそも生きてるかも――っと、いらっしゃいましたかー」
相手は事務所ではなく、居住区にいた。しかも、まるでマコトの来襲を予測して、ソファに身を隠して。
「やあ、こんにちは。探偵社の方の者です。弟さんがあなたをお捜しですよ、どうぞあたしと来てください」
彼女は可能な限り優しく言ったつもりだったが、男は身を震わせ、床を転がるように這って距離を取り、そこでもう動かなくなった。
「武装はしてない、か。こらこら、何もあんたをいじめようって話をしてるんじゃないですよ。ただついて来てくれればいいだけなんで」
更に子どもをあやすように言ったつもりだったが、それが彼には恐ろしく思えたのかもしれない。もう一言かければ、失禁しかねないのではないだろうか……そう思うほどの怯え方だ。自らが暗い世界に暮らしながらも、直接暴力のプロと接するのは初めてのことだったのか。
「まあいいや。そっちが来てくれないんなら、連れてくだけだから。こっちもこれで食べて行ってるんだからね、言うこと聞いてもらうよ」
今度はもう逃げられないように、身を屈めて猫のような俊敏さで男の腕を掴まえる。男は長身で相応の力も体重もあるだろうが、マコトは完璧に彼を拘束し、大した苦もなく引っ張り出す。彼女がこの街で相対する人間は、ほぼ例外なく自分よりも大柄な相手だ。相手をするのには慣れきっている。
建物から引きずり出し、誰もいないことを確認し、彼女は男を問い質した。威圧的な暴力者の尋問としてではなく、十八歳の少女としての純粋なインタビューだ。
「今はボスとの通話も切ってる。ここでの会話は誰にも聞かれないよ。……まるで、追っ手が来るのを知ってたみたいな怯え方だったね。普通、いきなりあたしみたいな小娘が来たのを見て、あんたみたいな大の男があそこまで怯えないでしょ。弟さんと何かあった?」
一瞬、男。つまりエブラール・バレは悩む素振りを見せたが、遂に意を決したように口を開く。
「弟は、俺を殺そうとしているんだ。大口の仕事を終えて、俺に大金が入ったのを知ってるからな……。それで、あんたを寄越したんだろう」
「あたしは何も、あんたを殺せとは言われてないよ。クライアントの依頼は兄を捜し出せ、って。それだけ。殺すつもりなら殺せ、ってはっきり言うと思うけど。ウチって殺しありの何でも屋だし」
「それじゃ意味がないんだろう……。俺はあいつよりも要領がよかった。だから、すぐにこの街の闇の中にも入られたんだ。それで、律儀にサラリーマンをやっていたあいつより楽に大金を稼ぎ、あいつがやっと汚いことにも手を出すようになった時分には、今みたいになった。あいつは俺に嫉妬しているんだ。そして、俺をむごたらしく自分の手で殺して、金を奪おうとしている。俺にあいつ以外の家族はいないからな……遺産は全部あいつに流れるだろう」
マコトはふんふん、といかにも真面目に聞いているような声を出しつつ、全く真剣に男の話を聞きはしなかった。この街ではよくある話だし、いまいち悲劇としても面白み――具体的には異常性にも欠けていた。そういう訳だから、まずは疑問を口にする。
「それがわかってるんだったらさ、なんでされるがままでいるの?もっと逃げればいいじゃん。少なくともこの街から出たら、あたしの事務所は仕事をしないし、姿をくらます手段はいくらでもあると思う。それか、もっと抵抗したらいいじゃん。泣いてもチビっても、あたしは止まらないよ?」
「どちらも、とても無理だ。俺は十分過ぎるほど、こことここに繋がる組織の闇を知っている。下手に逃げ出したりしたら、そっちの手の者に殺されることになる……。あんたに抵抗するのも、俺は銃をまともに握ったことすらないし、もちろん撃ったこともない。ずぶの素人が対抗出来る相手じゃないだろ?」
「まあ、それはね。相手が丸腰の時ならまだしも、武器を向けられたら、まずあたしは自分が殺されないように速攻で相手を殺そうとするし。でもさー、もうちょっとこう、大の大人の男なんだし、気概っていうの?そういうの、見せてもらいたかったなぁ」
マコトは笑いながら、足のベルトに縫い付けられたホルスターから拳銃を抜き取った。その黒い姿を見て、男は思わずびくりとする。彼女が自分を殺す任務を帯びていないとは聞いているとはいえ、武器への本能的な恐怖は取り去れない。
「あんたさ、生きたい?」
「……もちろん。でも、あんたが来た時点でその可能性はなくなった」
「殺せばいいじゃん。弟さん。事務所で弟さんにあんたを引き渡すことになるだろうけど、あの人はまだモラルとかありそうだったし、事務所内でいきなりあんたに手を上げたりはしないと思う。だから、弟さんに出会ったら、すぐに撃ち殺す。事務所がちょっと汚れるだろうけど、あたしが掃除してあげるよ。そしたら、あんたは助かるよ?ウチらはさんざ汚れ仕事してるから、警察にチクったりできないしね」
拳銃を弄びつつ、無邪気な殺人者は笑いながら、平然と身内殺しを勧める。彼女は彼の弟を、まだモラルがあると言ったが、それは彼女自身にモラルが欠如しているのだ、ということを言外に語っていた。
「俺に、弟を殺せと?唯一の肉親を?」
「でも、弟さんはあんたを殺すんでしょ。兄が死ぬか、弟が死ぬか。どっちかって決まってるなら、自分を生かす選択をするでしょ、普通は」
「だが、それは……」
「じゃあ交渉する?お金をあげるって言えば、もしかしたら……。あっ、でも弟さん、あんたを殺したがってるんだよね。嫉妬とかで。じゃあさ、やっぱり無理じゃん。殺そ?」
少女は、やはりどこまでも笑顔だった。それから、弄んでいた拳銃を男に突き出す。
「銃なら貸すよ。なんなら、刀でもいいし」
男は迷った。弟を殺す?自らが生き残るために?――幼少期の思い出と、青年期に始まった確執とが同時に回想される。深い愛情と、疑心が混ざり合い、やがてどす黒いものだけが残る。
弟殺しは大きな罪かもしれない。だが、その弟は実の兄を殺そうとしている。救いようのない悪党だ。ならば、それを殺すことに罪の意識は感じるべきではない。それどころか、正義の行いをするのだと胸を張ることすら出来る。
男は銃に手を伸ばし、思った以上に重いそれを、しっかりと握った。少女が使っているものだというのに、彼の手のひらにようやくぴったり収まるサイズだ。少女はかなり無理をして使っているのだろう。
「男の顔になったね。いいね、そういうの好きだよ。――じゃ、通話を再開するね。今の話は本当に誰にも聞こえてないし、仕事にも入らないから相談料とか用意してくれなくても大丈夫。あたしが善意でやってる、助言だからさ」
インカムが事務所との通信を始めると、少女はまた仕事人の顔に戻る。ターゲットである男の腕を掴み、事務所へと引き渡しにいく。道のりは中々に長いが、少女は一言も口を聞かず、男も同様だった。ただし、たまに彼は銃を確認している。一度も引いたことのないトリガーに指をかけ、弾丸を撃ち出すための動作をシミュレートした。
どこを狙えばいいのか、やはり頭という結論が出たが、ある程度は弟と距離があるだろう。そこから、小さい頭をきちんと狙えるだろうか。それに、柔らかいところに当たればいいが、頭は堅い頭蓋骨に守られている。この拳銃の破壊力の詳細はわからないが、当たりどころが悪ければ死よりもむごい苦痛を与えることになるだろう。それだけは、最後の良心が。兄弟の情が許さなかった。
だから、彼は胸を狙うつもりでいる。それが外れても、とりあえずは胴体。そうして彼が倒れたところに、トドメの一撃を放つ。この銃がなんという名前で、何発の弾丸を飲み込んでいるのかは知らないが、さすがに二発も撃てない銃であるとは思えない。やるべきことはやれるはずだ。
「着いたよ。……でもさ、いきなり撃たれる可能性がない訳じゃないんだから、それで死んでもあたしを恨まないでよね。あたしはあんたに義理とかないから、体を張ってまで守るつもりはないしさ」
「ああ……」
今度は事務所の正面から入ると、男の弟もソファに座って待っていた。ちなみに、白髮少女は今も寝ている。
「連れて来ましたよっと。ちゃんとお目当ての人か、確認してね」
弟に兄を引き渡しつつ、マコトはこれから始まることに巻き込まれないよう、四歩ほど後ろに下がる。ゴトウも彼女の行動から事情を察し、白髮少女を起こした。
「シゾノ。寝起きのシャワーを浴びてくるといい。俺は着替えを用意しておくから」
「んにゃ……兄さま。もう朝?」
「昼だけど、起きるんだ。そうする事情がある」
やりとりは全て日本語だ。フランス人達には伝わらず、しばし無言で見つめ合っていた二人だが、弟は立ち上がり、まずはゴトウに頭を下げた。
「どうもありがとうございます、ゴトウさん。ええと、それから――」
「あたしのことはインフェルノって覚えて」
「イ、インフェルノさんもどうもありがとう」
「報酬額は、今回はあまり苦労もなく、たった一日で済みましたので、予定の二百の半額でよいでしょう。まあ、そう支払いを急ぎはしません。用意できるようになってからで良いので」
「わかりました。すぐにお支払いさせてもらいます」
最後にもう一度礼をし、弟は兄を伴って去ろうとした。その時、兄が後ろ手に隠し持っていた拳銃を、弟の胸に向けた。そして、一瞬の躊躇の後、トリガーを引く。
鉛の弾丸が飛び出し、弟の胸の肉を裂き、削り、貫いて、鮮血を噴き出させる。男はまもなく絶命し、血で汚された事務所にゴトウは肩をすくめ、マコトは苦笑をする。……はずだった。
「……お、おい」
弾丸は撃ち出されない。どれだけトリガーを引いても、一向に手応えはなく、銃が空回りしているのが素人である彼にもわかる。それもそのはず、彼がマコトから渡された銃からは、既に弾丸が抜き取られていた。そもそも彼女は、戦闘で銃を使うことなどないのだ。
「貴様、騙したな……!」
「ごめんね。だってウチ、報酬は後払いなんだ。クライアントに死なれたらタダ働きになるじゃん。あんたから請求しようにも、なんか信用できないしね。そういう訳だから、ええと、クライアント。五十万追加で、刀貸すよ?その後の処理も全部するし」
「頼む」
腰に佩いていた刀を、弟に投げて寄越す。彼は不慣れながらも鞘からそれを引き抜き、銀色の刃をさらけ出させた。
「ほら、そっちのお兄さんも。四十万で小太刀を貸すよ」
「……なに?」
「生きたいんでしょ?なら、戦って勝ちな。弱肉強食、どんな動物だって知ってる、この世で一番に下等な真理だよ。人の世は必ずしもそう回ってないけど、あんた達は闇の世界に足を踏み入れた時点で、そのルールに則って生きることになった。だからさ、生きたければ戦えばいい。勝者は無条件で生きるのを肯定される。それが、弱肉強食の世界だよ」
「わかった……」
少女は、兄にも小太刀を投げる。彼は弟の得物よりも、まだ扱いやすそうなそれを抜き、構えた。
「じゃ、生き残った方が全額払う、ってことでいいよね。もちろん、刀のレンタル料は自分のだけでいいよ。……いいよね、兄ぃ」
ゴトウは頷く。ここから始まるのは、古代ギリシャの剣闘士の試合にも似た、悪趣味な見世物の闘争だった。当事者達にとっては生存のための死闘であったとしても、観客である戦いのプロからすれば、子どものケンカ。あまりに稚拙過ぎて、逆に面白く映る。
二人の男は再現なく血を流し続け、事務所に血を撒き散らし、遂に決着が付いた。兄の小太刀が、弟の腹部を完全に貫いていた。完全な素人である弟は長い刀を扱いきれず、振り回すばかり。決定的な傷を与える刺突を行えなかった。それが勝負を分けたのだった。
「報酬は百五十万ね。あんただったら、ぽんっと払えるでしょ?」
肩で息をし、弟の死体――と思われるものの近くに身を転がした男に、少女は平然と言った。
「お前は……いつもこんなことをしているのか」
「こんなことって、どんなこと?」
「素人の殺し合いだ……。強者であるお前は、弱者の無様な戦いを見て、いつもこうして笑っているのか?」
「……そんな訳ないじゃん。あたしは悪人でしかないけど、狂人じゃない」
「なら、どうしてこんなことができる?」
男は唾液と血を吐きながら、それでも少女を睨み付けた。結果、彼の命は助かった。マコトに銃を借り、弟を殺すと決意した時に見えた未来と同じだ。だが、その過程はあまりに想像と違い過ぎていた。とても、納得のいくものではない。
「それがこの街だから。それがあたしが生き、あんたも足を踏み入れた世界だから。ルールを守らなければ、どんな世界だって存在できない。だから、あたしはそのルールを誰にでも守らせる。そのための方法が、これだった」
「俺への裏切りは、ルール違反じゃないのか?」
「あたしはあんたに銃を貸したけど、それで殺せとは言っていない。刀を借りて、それで殺すこともできたし、それなら一瞬でカタが付いていた。あんたのミスだよ。裏で生きて来た割には、疑うことを知らずに、純粋過ぎるんだね。どの道、早死するよ」
「お前達のようにやって長生きするぐらいなら、その方がずっといい」
「そ。じゃあ、医者を呼ぶよ。そいつもまともな人間じゃないから、死体を見られても大丈夫。むしろ上手いこと処理してくれるよ」
「……金は払う。それで関係は終わりだ」
「懸命だね。それでいい。あんたみたいな人は」
まだ寝ぼけた顔の白髮少女が、バスローブ姿で奥から現れる。オレンジ髪の少女はそれと入れ替わりに入浴した。
3
「マコトは、委員長のようですね」
怪我人の搬送、死体の処理、そして血痕の除去が完了した事務所で、マコトは不機嫌そうな顔でソファに転がっていた。今では意識のはっきりとしたもう一人の少女――シゾノが、そんな彼女に語りかける。
「委員長?なにそれ」
「学校のクラスにおける、そうですね……長であり、規律を守らせる者です。その役目を風紀委員という役職の者が果たすこともありますが、不良からは煙たがられ、逆に規律を守る生徒からは歓迎される存在でしょう」
「あたしは、そんな大それたものじゃないよ。あたしはあたしの正義を誰にでも押し付けてる、それだけ」
「では、それはなぜですか」
「あたしの気がすまないから。あたしは筋の通らない悪が嫌いだ。一貫されない正義気取りも吐き気がする。……だけど、汚いとされる仕事をやって、それで生活をして、悪を正当化している自分自身も許せない。その生き方自体がまず、被害者ぶった負け犬の人生なんだ。人に肯定される悲劇のヒロインは童話の中にしかいない」
マコトは大仰に寝返りをうち、シゾノの視線から逃れる。
「ほら、委員長的です。自分にも厳しく、人にも厳しい。マコトは頭が良過ぎるのです。教育を受けていないのに、動物的な直感だけで深いものを掘り当ててしまうほどに」
「褒め言葉じゃないよね、それ」
「ええ。余計なことを考えるのは意味がないことですよ、と言っています。あなたが思っているように、この世界は複雑ではありませんよ。それこそ、動物的、本能的な仕組みで動いているのです。やりたいことは、たとえ悪事に分類されていようともやる。それで他人が苦しんでも、道理が通らなくても、関係はない。そんな横暴者の世界、それがこの街の闇ではないですか」
「いいよね、シゾノは。あんたはトリガーを引いて、人を殺し回ってるだけで満足できる」
肩をすくめた白髮は、自分のソファに再び身を預ける。
「ええ。あなたからするとうらやましい身分でしょう。……でもマコトも、いい加減に諦めないと辛くなるだけですよ。あなたは真っ当な道に戻るには、あまりに罪を重ね過ぎている。仮に普通の社会に入ることができても、長続きはしません」
「わかってるよ……。でも、だからこそ、正義を持って生きたい」
「それも、いいんじゃないですか。あなたはあなたの道を生きればいい。あなたは優秀な殺人者ですから、自分勝手していても簡単に死にはしないでしょう。その道を貫くのか、妥協点を見つけてそこに落ち着くのか、それもまたあなた次第。若いんですから、迷って、恋をして、青春を満喫してください」
シゾノは立ち上がると、一瞬だけコートの中に隠した武器を確認。十分なだけの火力が確保出来ていることに満足し、微笑んだ。悪魔の笑みだった。
「二歳しか違わないくせに」
「その二年が、きっとあなたにとっては大きな約七百日なのですよ。では、以前からの仕事に行きます。おそらくは今日でフィニッシュでしょう。中々に暴れがいがありました」
「どっかのマフィアの一団を潰すんだっけ」
「ええ。組織の中の一派閥が独立した訳ですが、不敵にも白いお薬をありったけ盗み出したのですから、狙われるのも当然ですね。もっとも、薬の回収ではなく、皆殺しを依頼されています。薬の損失がどうとか、という話ではない訳です」
十八歳の未熟な少女であるマコトに比べると、見た目は同じく幼いながらも二十歳のシゾノは理性的で大人びているが、彼女に何かの捜索の仕事は回らない。交渉事も頼まれないし、その他の様々な工作などもしない。彼女は人を殺す依頼しか回されないのだ。それは、彼女にとっての他人とは銃で撃ち抜くためだけの存在だから。その一点に尽きる。
昼間、マコトが言ったように彼女はトリガーハッピーの狂人だった。理性はあるし、仲間には親しく、丁寧に接する。ただし、彼女は食事をするように人を撃ち殺す。そうしなければ、生きていけないとすらうそぶく。が、それは真実なのだろう。きっと定期的に快楽を貪らせなければ、いよいよ狂気が溢れ出して仲間すら殺しの対象に入ってしまう。
それを阻止するために、定期的に殺しの依頼が舞い込むこの事務所は都合がよかった。いわば彼女は、一時的な正気を確保するために狂気の依頼を受けている。そのためにこの事務所に身を置いているのだった。
白く、黒い死神が立ち去るのをぼーっ、と見ていたマコトは、本格的に眠ることにした。別にそう決めている訳ではないが、彼女は昼間に。シゾノは夜間に仕事をすることが多い。それはそのまま彼女等の見た目のイメージとも重なる。
二歳上の姉貴分は今宵、何体の死体を作り出すのだろう。マコトはどうでもいいことを考え、眠った。
4
この街は、それ自体が一つの巨大なオフィス街と考えていい。それゆえに、一般的な退社時間には人が溢れ返るし、その後は飲食店が大繁盛する。更にその客が帰る時間になれば、人っ子一人見当たらない、という言葉が本当に通用してしまう街となった。……少なくとも、表の通りにおいては。
これは昼間も同じことだが、裏通りには必ず一定数の人間がこそこそと歩きまわっている。多くは暴力組織の構成員であり、末端の彼等は表の世界に属する人間に圧力を与え、表と裏の経済界を繋ぎ合わす役目を果たしていた。大きな金がどちらの社会でも動いているが、永遠に決まった量のカネを循環させている訳にもいかない。適度にカネは出入りし、表から外へと吐出され、また外から表へと入って来て、それが裏にも入って来ている。
そうやって、この街への貢献を果たしている下っ端のやくざ者に比べると、シゾノやマコトは正にダニか何かのようだった。依頼人から得たカネは適当に使い切ってしまい、暴力組織が作り出すパワーバランスを引っ掻き回す。それゆえ、煙たがられるのだが、組織が利用することもあるし、単純に個々の戦闘能力が高いので、手を出すこともできずにいる。
今夜も、宵の街にコートをはためかせて歩くシゾノを見つけ、末端ギャング達は恐れる。“エンピレオ”のコードネームを持つ最凶の殺し屋は“インフェルノ”よりもずっとタチが悪い、と誰もが標的にされたら死を覚悟する。マコトにはまだ交渉の余地がある。彼女は彼女なりの正義、悪の美学のようなものを持っているから、誠実な態度さえ見せていれば、少なくとも延命は出来る。
ただし、シゾノは無理だった。彼女は他人と話さない。繰り返すが、射撃場にある的と同程度の存在価値しかないからだ。誰がタンスやテーブルに話しかけるだろう。彼女にとっての人間とは、それと同じなのだ。
灯りがない裏路地を、彼女は迷いなく進む。たまに思い出したように光源を取り出すが、それは携帯のバックライトだ。別に彼女は夜目が常人よりも利くのではなく、街並みをほぼ完璧に覚えているからこんな芸当ができる。たまに地形を確認するのは、本当にただ確認するためでしかない。小さな暗殺の仕事ではなく、大規模な銃撃戦に傭兵として参加することを望む彼女は、目を瞑っていても銃撃戦ができるようになるほど、この街の地形を覚え込んでいた。
そうして備えておけば、もっと人を撃てる仕事が来るに違いない、と思っていたがその思惑は現在、外れていた。あまりにも彼女が危険過ぎるので、大きな戦いの助っ人として選ばれないのだ。わざと味方を撃ち、一人でも多く殺して楽しもうとするのではないだろうか、と。――実はこれは正しい。シゾノに初めから倫理観というものはない。殺せればなんでもいいのだ。
予定していた戦場に近付くと、シゾノはコートのボタンを全て外す。コートの内側には何丁もの銃器が収納されており、逆にシゾノ自身の体を守るものは、何一つとしてない。ただ薄手の白いブラウスを着ているだけだ。防具が何もない以上、もしも被弾したら即死の危険性も十二分にあり得る。銃撃戦で使われる大型の銃器は、拳銃とは訳が違う。心臓や大切な臓器を狙われなくとも、少女の体を吹き飛ばし、破壊する威力のものが揃っている。
それなのにも関わらず、スキップ混じりに彼女はある建物を襲撃する。そこに敵がいるとわかっていれば、もっと賢いやり方はあるだろうに、正面から扉をアサルトライフルで撃ち抜いた後、それを蹴破って入った。当然、火線が集中するが転がって避け、転がりながらもライフルのトリガーが引かれると、恐ろしいほど正確な狙いの弾丸は、一人、また一人と撃ち抜いていく。シゾノの被弾はゼロ。コートの裾すら弾丸がかすっていない。
自らの身を危険に晒しているのにも関わらず、少しも彼女には恐れというものがない。それはやはり、他人は的に過ぎないと考えているからだ。だが、それでもわざわざ正面から攻めて行くのは、全く無抵抗な相手を殺しても、彼女は高まらないからである。なんとも面倒な嗜好だが、それだけに今の仕事は天職か。ギャングを相手にするのであれば、必ず彼等は反撃をして来てくれる。
数が減って来たのを確認すると、殺戮者はライフルを捨て、軽機関銃に持ち替えた。彼女に武器への執着はなく、使うものはなんであったとしても、人を撃てればそれでいい。あくまで銃器で殺人をすることに快楽を覚えるので、マコトのように手持ち武器は使うことはないが。
滑り込むようにして屋内へ入ると、手近にいた二人を殺戮。シゾノは満足したように微笑むが、ステレオタイプの狂人のように奇声を上げたり、大声で笑ったりするようなことはない。彼女は狂いながらも冷静で、狂気と共にダンスを踊った。
戦い……いや、一方的な殺戮、あるいは狩猟も終盤。最後の一人を残し、機関銃の弾が切れた。恐ろしく狙いのいい彼女の銃撃だが、さすがに機関銃を扱うともなると無駄弾もばらまきたくなるし、相手が思った以上に多かったというのもある。相手も相手で、あのエンピレオが敵に回ったと知り、用心棒を雇ったのだろう。それも全て倒れているが。
銃は健在なのでマガジンを取り替えればいいだけの話に思えるが、シゾノは銃器を戦場に持ち込むだけ持ち込み、弾薬は一切持ち運ばない主義だ。彼女いわく、再装填の瞬間に興が削がれてしまう。彼女は気ままで身勝手なトリガーハッピーゆえに、その辺りの気分的なものを最重視する。
そのため、武器がなくなれば彼女は倒した人間のものを奪う。武器ごと破壊していることもままあるが、もしも完全に武器がなければ、出直せばいい。そうしたら、その間に増援が来ていて、撃つべき相手が増えるかもしれない。シゾノにしてみれば得しかなかった。
もっとも、今回はまだまだ彼女の武器のストックはあったが、なんとなくコートの裏をまさぐるのも嫌になったので、近くのマフィアの拳銃を奪い取った。彼女の手には余る大口径拳銃だが、一発の威力が重いこの手の銃器は彼女を興奮させる。今まで機関銃を使っていただけに、一度撃てばあまりの心地よさに声が出るかもしれない、と彼女はわくわくしていた。
「さて、あなたで最後の一人のようなので、ちょっとしたゲームをしません?西部劇のガンマンがするようなアレです。背中合わせになり、三歩前進した後、撃ち合う。ひねりはありませんが、最後を締めくくるには中々のセレモニーではありませんこと?」
やや芝居がかった口調でシゾノが言うと、ただ一人残されたマフィアは発砲をやめた。彼が正面から撃ち合った場合、シゾノに勝てる可能性は万に一つもない。とはいえ、これはシゾノにとってはともかく、彼にとっては生死をかけた真剣勝負だ。そんな遊びに付き合っている場合ではないとも思ったが、あるいはシゾノに勝てるかもしれない、そう彼は考えた。
彼女は古式ゆかしい決闘を提案したが、少し早く撃てば、銃の扱いの技量で劣る人間であったとしても、シゾノに弾丸を撃ち込むことができる。狙いなどどうでもいい。彼女に防具はないのだから、当たりさえすればどうにでもなるだろう。
「い、いいだろう」
とはいえ、相手が本物の狂人。死をふり撒くことに躊躇も罪悪感もない、少女の姿をした理不尽だ。それなりの死線を乗り越えて来たマフィアであったとしても、声が震え、手が震える。これで発砲できるのか?――しなければならない。命は惜しい。
「では、始めましょう。……こんな風にして背中合わせで立つと、一昔前の恋愛映画のポスターみたいですね。そうは思いませんか?」
「………………」
機嫌を損ねれば、きっと無条件で殺される。それは理解していたが、賭けに挑む直前に、狂人の戯言に付き合ってもいられない。
「一応、言っておきますが……私を不意打ちで殺そうだなんて考えない方がいいですよ。ゲームにはペナルティがあるものです。今回のゲームにも、それはあるので」
見透かされていた、とは思わない。これもまた狂人の戯言だ。あるいは脅迫の一種だ。
「――始めましょう。一」
狂人は銃を手に、一歩前へ。次のカウントがないということは、男が言えということだろう。
「二――!」
カウントと同時、マフィアは振り返って発砲した。
「三。さようなら」
シゾノの正確無比な頭部への射撃。大威力の拳銃は一撃で男の頭をもぎ取った。
男のカウントからの経過時間は、どれほどだったのか。少なくとも一秒や二秒ではない。もしもそんなに動きが緩慢であれば、男はトリガーを弾き終えていただろう。シゾノはそれよりもずっと速く、建前としてカウントダウンは終えて、男を惨殺していた。コンマ何秒単位の早業。映画の中のカウボーイじゃとても真似できない、本物の殺人者の妙技だ。
「カウント一の後に撃てば、ほんの少しだけ寿命は伸びていたのに、変なところで小心者ですね」
すなわち、二、三とカウントしなければならないため、その「二」のカウント分だけ、男は長生きをすることが出来た。それを寿命が伸びると言って良いのかはわからないが……。
ともかくこの建物に生存者はいない。殺戮の跡を見渡し、仕事に抜かりがないことを確認すると、素早く殺戮者は事務者へ戻った。
彼女は殺人を愉しむが、死体への興味はない。死臭も嫌いだ。硝煙の臭いは嫌いではないが、積極的に好むこともない。早く風呂に入りたい。彼女の最大の感心事は狂っているが、他の感覚は人と同じか、それ以上に過敏だ。罪の意識が鈍化――いや、死滅しているだけである。
事務所に戻る。血の臭いがはっきりとした。昼間の素人同士の喧嘩の痕跡ではない。立場上、血や肉の臭いには特に敏感だが、さすがに犬並みとはいかない。血が流れたのはつい最近。シゾノが殺戮に出た後か。
「………………」
逡巡。いつもの通り、ただいまと言うべきか迷った。静かだが、オフィスの中では銃撃戦が起きている可能性もある。誤射は万に一つもありえないが、跳弾は怖い。味方を巻き込んでも被害は少なく済むであろう、小口径の拳銃を握る。手早く扉を開け、侵入するとそこには静寂が満ちていた。ただし、鉄さびの臭いはより酷くなる。死体がある、と殺人者は理解した。そして、おそらくその死体とは――。
「マコト。今帰りました」
「……そっか。今か」
オレンジの少女は、地べたに腰を下ろしていた。いや、腰が砕けていた。その膝の上には、ある男性の頭が乗っている。この臭いと静寂さえなければ、なぜか屋内で膝枕をするカップルにも見えただろう。いや、マコトがその頬を湿らせているので、そうは思えない。
床には二振りの刀が転がっている。どちらも刀身に血が付着しているが、死体は一つしかない。シゾノは完全に状況を理解し、マコトに駆け寄った。震える彼女を、後ろから抱きしめる。体格ではほぼ同等。むしろシゾノの方が劣るが、無理してでもそうやるしかなかった。彼女は狂人だが、マコトにとっては姉だった。
コートに仕込まれた銃器が、マコトと体を密着させることを妨げる。コートは脱ぐべきだっただろうが、そんなことを考える余裕もなかった。ゴトウは死んだのだ。胸から血が流れた痕がある。
「あたしじゃ、守れなかった。シゾノが、いてくれれば……」
「あなたですら、一人も殺せなかった。私がいても同じでしたよ。むしろ、よくぞ。よくぞ、あなただけでも生き延びてくれたものです。乱暴はされませんでしたか?」
「大丈夫……。兄ぃだけ、初めから狙ってた。あたしなんてまるで見てなくて、斬ったけど、殺せなくて、手負いのやつを追い回してたら、全部終わってた。結局、そいつにも逃げられて………………」
悔しさがこみ上げ、しゃくり上げ出したマコトを強く抱きしめる。頭を撫で、背中をさすり、頬にキスをした。塩辛さを感じ、シゾノも泣けるのではないか、という錯覚に陥りかけた。
今の彼女には、妹への慈しみの気持ちはある。だが、ゴトウへの同情やその死に対する哀しみの気持ちはない。狂人であるとは、そういうことなのだろう。ゴトウは今や死体である。先ほど、彼女が築き上げた死体の山の内の一体と、その存在価値において何の違いもない。物体であり、肉塊であり、生者にとっては汚物だ。
生前の彼を、彼女は“兄さま”と慕った。唯一、心と体を許す異性だった。その死を、悲しむべきなのだろう。だが、涙は出ない。胸の中にも空虚な気持ちしかない。代わりに、マコトへの同情が彼女を泣かせようとする。この憐れで幼い少女から、なぜ彼を奪ったのだろう。そう、客観的に不条理(そうではないとわかっている。闇に生きる限り、殺されるのは当然のことだ)を嘆いている。
「マコト、いきましょう。兄さまは死にました。ですが、私達も同じようになる訳にはいきません。戦い、稼ぎ、生きましょう。そして……」
「絶対に、仇を討つ」
少女の震える手を握る。床を殴ったのか、ところどころが切れたり、内出血をしていたりする。反射的にシゾノはその手に舌を這わせる。血を舐め取り、何度も舌で優しく愛撫をした。
「シ、シゾノ……?」
どこかエロティックな快感のあるそれに、マコトは困惑していつもより高い声を上げる。すると、シゾノもそれをやめた。
「あなたは私の妹です。自分の体を大事にしてください。でないと、また舐めますよ」
「もう、変態……。やっぱりあんた、狂ってるよ」
「ええ。私は自他共認める狂人です。ですが、狂人だって人を愛します。私はあなたのことを、世界の誰より愛していますよ。ですから……」
拳銃を、マコトの首筋に当てる。
「あなたを殺すのは、私だけです。他の誰にも、殺させません」
トリガーが引かれる。弾丸は壁にめり込んだ。
「……ありがと、って言っていいのかな。狂人の変人の――愛人さん」
「あ、愛人?そういう表現もありますか、そうですか」
「だって、シゾノは兄ぃのヨメだったじゃん。だから、あたしはあんたの愛人。だって今の、告白でしょ?」
真顔で言い切るマコトに、久しぶりの笑いがシゾノから漏れた。
「なるほど。ええ、ええ。私は今、あなたに告白をしましたね。なのであなたは私の愛人になります」
「変な関係だね。それって」
「最初に言い出したあなたが言いますか?でも、奇妙なぐらいが丁度良いではありませんか。私達なのですよ」
「確かに。それじゃ、あたしもあんたを殺したいから、あんたを殺すのはあたしだけね」
「人の言葉を奪うのはやめてもらえませんか。あなたは私とは違い、殺人を楽しんでいないのだから、その言葉の重みが違って来ます。しかもそんな完全な便乗のようだと――」
男の死臭をすぐ傍に感じながら、二人はしばらくつまらない話を続け、笑い、何度も抱き合った。
最後にマコトが一滴だけ涙を落とし、ゴトウの処理を始める。マコトは今までの制服風の衣装の上から、彼のスーツを羽織った。ずいぶんと大きく、袖は直す必要があるが、胸が大きいので意外と胴回りはぶかぶかでもない。胸に空いた穴はおそらく、修復されないだろう。
それから、彼に持っていた拳銃――火力の心もとない、ほとんどハリボテの銃は、シゾノが預かった。「これは、あなたを殺し、私が死ぬ銃です」「ううん。仇を殺す時にも使うよ」「それもいいですね」
もう他には、分けるべき形見もなかった。口座にあるカネは、これからの二人が生きるための資金となる。
翌朝。
二人は朝から、物語を作った。ゴトウは事情があり、故郷に戻った。名前は日本人風だが、ハワイに住んでいるとした。なぜそんなことになったのかは、わからない。ただなんとなく、そうしたかった。
彼はもしかすると、もう戻らないかもしれない。だから、これから二人で事務所を続けていく。エージェントはマコトが務め、仕事は主としてシゾノが担当する。もちろん、彼女が苦手とする仕事はマコトが担当するので、多くの仕事を同時に受け持つことは不可能になるだろう。さすがに、シゾノにエージェント的な仕事をさせることはできない。彼女は狂人だ。
収入は大きく減るだろう。だが、一番よく食べる人間が消えた。仕事で事務所を空けがちになれば、光熱費なども浮く。それに貯蓄だってある。彼女達が目的を果たし、死ぬまでは十分に生きていける。
最後に二人は、日記をつけることに決めた。マコトは英語を書けない(単語を音では知っていても、スペルがわからない)ので、あえてこれは全て日本語で書き、彼女達だけが読める秘密のノートにすることになった。
書くことはなんでもいい。ただし、一日一ページを超過することは禁止で、書き忘れたら、翌日の昼食は抜きというペナルティを課すことにした。これは意外にもシゾノの提案だ。「ゲームにはペナルティが必要ですから」「ゲームじゃなくて、習慣なんだけど」「同じです」
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スニーカー大賞で一次選考を通していただいた作品です 残虐な描写、犯罪描写を含みますので、苦手な方はご注意ください |
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