罪と呪いとオンディーヌ
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私の知る限りの世界の中で、愛に縛られている人間は二人いる。

一人目は、今から私が会いに行く少女、湖壺美涼。

彼女はいつも深刻な病に悩まされていた。でもそれはひとつじゃない。珍しい様々な病気に、何度もかかるのだ。

前は涙が止まらなくなるというもので、流涙症。手術をして、今はリハビリ中。先天性のものになると、全色盲、アルビノ。その上に、オンディーヌの呪いなんて呼ばれる、眠りにつけば死んでしまう病気。彼女は睡眠中も鼻マスクで人工呼吸していなければならない。神様はまるで彼女で実験しているようだと思った。

そして、もう一つ。

彼女は夢をよく見る。それは睡眠を恐れているからだ。脳は睡眠とともに休まないから、夢を覚えている。

そんな彼女はたまにはっきりとした夢を見るのだという。それは、例えば真っ白な部屋に自分がいて、ずっと泣いていたり。その夢を見た翌朝、彼女の流涙症が発覚した。

いわゆる予知夢。彼女はその夢から目覚めたときに病気が発覚する。

病気と呼んでいいものか、私はそれを呪いと呼んでいる。

その話を初めて私にしたとき、彼女は儚く悲しげに笑っていた。

真っ白い部屋、そこに映える真っ黒な服を着た誰かがいた。

そしてそっと言ったんだそうだ。他人を愛してはいけないと。その罪は、お前の命を奪うだろうと。

人間の騎士ハンスと禁忌の愛を誓うオンディーヌだが、ハンスはそれを裏切り許嫁と結婚する。怒った水界の王は眠りにつくと死に至る呪いをかけたといわれている。では、オンディーヌは?

禁忌を犯したオンディーヌに、今の時代になってなお、呪いをかけているとでもいうのだろうか。

今日も彼女は、愛の呪いに囚われて、彼女は今日も真っ白なあの病院で、一人城に閉じこもる姫のように佇んでいるのだろう。

そして、愛に囚われる人間が、もう一人。

もしも聖書が正しいものなのであれば、私は正しくないのだろう。罪でいい、正しくなくていいと思っていた。

罪と呪いとオンディーヌに囚われたのは、人間の騎士なんかじゃなく、私だった。

 

「昨日ぶり、冬香。今日はいつもより早かったね」

病室のドアを開けると、真っ白な睫毛を瞬かせて彼女は笑った。

「うん、授業ちょっと早く終わって」

彼女は足が悪いというわけではないので、よく窓の前に立って外を見ていた。差し込む日光に照らされて綺麗だった。

「それ、何読んでるの」

「外国の伝承」

オンディーヌのページを閉じ、鞄にしまう。その代りにノートを取り出す。

「国語からでいい?」

「うん」

私はいつも美涼に勉強を教えている。と言っても美涼は頭が良いから、どの範囲をやったか教えるようなものだ。

教えた範囲の教科書を見ている美涼が綺麗で、私はこの時間が好きだ。

書物を持つ姿が、彼女はよく似合う。伏せられた白い睫毛と、文字を追う視線とに惹かれる。綺麗だと思う気持ちと、呪いを思い出しての気持ちとが入り混じって、わけがわからなくなる。

「学校、行きたいなぁ」

唇が動いて、ふとそう呟かれた。私が悪いわけでもないけれど、何故か申し訳なくなる。大丈夫だとか行けるよなんて気軽にいえるわけもなく、ごめんと言いたくなる。それも、言えるわけないんだけど。

「今日はここのページまで?」

その雰囲気を感じ取ったのか、彼女はそう私に聞いてきた。

「うん、キリがいいからって先生がここまでにしてた」

私はありがとうも言えないまま頷く。そっか、と見せた笑顔が、切なかった。

 

彼女と知り合ったのなんてもう覚えてもいない。物心ついた時から遊んでいた。幼馴染というやつだ。

真っ黒な髪の私は真っ白な彼女が羨ましかった。私はそうして憧れていたはずなのに、いつしか違う目で彼女を追いかけていた。

いつのまにか、恋を、していた。

彼女の見るものを見たかった。隣で触れていたかった。これが恋だと自覚するのに、時間はかからなかった。

それから彼女が呪いにかかって、男性面会謝絶になって、恋をしてから初めて女性でよかったと心から思った。

毎日のように通って、誰にも悟られないように愛して、友達を演じていた。言いようのない苦しさに涙を零した日なんて数えきれない。

どうして愛してしまったのか。どうして彼女があんな目に合うのか。私は一体、これからどうしたらいいのか。

誰も教えてくれない、わからない。答えなんてないのだ、だって仕方ない。好きになってしまったんだから。

日々恋なんてものに悩まされているなんて、誰かが聞いたら青春だと言うだろう。でもそんなものじゃない。私にとってはそんな一言で表せるようなものじゃないのだ。

「…はぁ」

自転車を押しながら病院へと歩く。あんまりそういうことを考えちゃ駄目だ、同じことを考えるばかりで何も進歩はない。それなら もう少し明るいことを考えなければ。

「あの」

その声に少し驚いて止まる。考えることばかりで周りにまで気が回らなかった。

ふと声のほうを見ると、そこにはいくつか年下なくらいの少年が立っていた。口元を隠すマフラーを押さえて、白い息を吐いた。

「私ですか」

「はい。えっと、北尾さんですよね、湖壺さんの病室によくいた」

名前を出されてさらに驚いて、じっと少年の顔を見る。

「近くの病室にいた、中和くん」

「よかった、覚えててくださって」

彼女が呪いにかかるよりも前だ。彼は事故に合ったらしくしばらく入院していた。最近になり見なくなって、今の様子からしてもすっかり治ったのだろう。

「退院したんですかね、おめでとうございます」

「ありがとうございます。湖壺さん、元気ですか?」

「はい、変わりはないですよ」

どこか緊張している少年の声に、自分の中のどこかで、何故かここから逃げ出したいと、そう、思った。

「…あの、北尾さんにお願いがあるんです」

その理由も、すぐにわかってしまうのだけれど。

「これ、湖壺さんに渡してもらっていいですか」

彼が取り出したのは一枚の封筒だった。その手は寒さに真っ赤になって、震えていた。果たして震えていたのは寒さだけのせいなのかはわからないけれど。

「何故かあれから都合が悪くて会えなくて。本当は直接渡したかったんですけど」

看護婦さんたちがてきとうな理由をつけて帰していたのだろう。そこに詰まった思いやりですら、今の私には恨めしかった。

「頼んでもいいですか」

手元の封筒と、彼のまっすぐな目に、乾いた声で、かろうじて、はい、と答えた。

彼は深く礼をして、ありがとうございますと嬉しそうに言っていた。

私はそれをまるで別世界のことのように虚ろに聞いていた。

返事はいりませんので大丈夫です。最後にそれだけ言って、彼は足早に去ってしまった。冷たい外気が私の頭を冷やすばかりだ。

つまりこの手紙は、そういうことなのだろう。何も知らない少年はオンディーヌに手を伸ばして、触れようとしている。その行為が彼女をどうしてしまうのかも知らずに。

封筒を持つ左手が震えた。右手が封筒に添えられて、震えるままに、その封を切った。

綺麗な字だった。三枚の便箋に、小さく、しかし読みやすい字で書かれている。切なる思いが私にまで伝わってくる。

なんだか泣きそうになった。恐ろしい思いに飲まれて、鼓動の音がうるさい。一抹の恐怖を覚えて、呼吸が早くなる。

気づけば私は元のように畳んで、乱暴に自分のポケットに入れていた。押していた自転車を走らせて、病院とは反対方向へ。

どうせ病院関係者が見ても同じようにしていただろうから。これは仕方のないことだから。彼も彼女も、なにも知らないんだから。

足を動かすスピードが速まると、呼吸も早まる。溢れだした涙は止まるとま思えなかった。

ごめんなさい、私もきっと同じだ。一人の人間がどうしても好きで仕方なくて、ただその気持ちを伝えたかった。

ごめんなさい、あなたはきっと違った。伝えられないわけじゃなかった。愛に縛られてなんかいなかった。だから私に渡したんだ。

なのにどうしても、私は。

「ごめんなさい…」

足が疲れても私はペダルを漕ぐことをやめなかった。

 

それからしばらく病院には行けなかった。でも、彼女を心配させるわけにはいかないし、なにより自分自身会いたかった。

「冬香、来てくれたんだ。なんだか久しぶりだね、どうしたの」

病室の扉を開けると数日見ていなかった、しかしいつも通りの彼女の姿があった。

ポケットの中にはあの封筒がまだ入っている。手を入れて確かめることすらできないけれど。

「うん、ちょっと風邪ひいちゃって」

笑顔を張り付けて、嘘をついた。ごめん、美涼。

「そっか、最近寒いもんね。看護婦さんもよく言ってるよ」

近くにパイプ椅子を出してそこに座って、彼女の顔を見る。そこでハッとさせられた。

「美涼こそどうしたの、疲れた顔してるけど」

いつもよりゆっくりとした動作で、彼女は俯いた。

「あのね、冬香、聞いてほしいことがあるの」

嫌な予感がした。思わず言わないでと止めそうになった。でも、それでも、聞きたい、聞きたくない、聞かなきゃいけない。

「なに、どうした」

なるべく笑って場を和ませて。うるさい心臓の音を鎮めたくて、膝の上で拳を握りこむ。

「夢を見たの」

小さく開かれる唇が、薄く笑った。

「真っ白なところにね、子供の頃の私がいたの。舌っ足らずに、あなたはもうすぐわたしになるんだよって言われた」

泣きそうな目を見て、私も泣きそうになった。

「私、病気のことも、先生のことも、親も、冬香も、忘れちゃうのかな」

やだなぁ、と掠れて呟かれた言葉に、私は思い知った。

これは罰だ。

オンディーヌを愛し、独り占めしようとした私の罪の、罰だ。

ごめんと小さく零して、震える彼女の手を強く握った。

 

彼女の悩みも私の悩みもどうでもいいかのように時間は過ぎて朝は来る。学校に行っていつも通りそつなくこなして、それから自転車を引いて病院に向かう。

あまり睡眠はとれなかった。きっと笑顔も作れない。でも行かなきゃいけない。

今までと違うのは、彼女が夢を見た翌朝にそうなっていなかったこと。夢の中の美涼は、もうすぐ、と言った。そのもうすぐって、いつ?

「美涼」

怯えるように声が震えて、我ながら情けない。確認するように声をかけると、彼女が振り返った。

「冬香」

笑って名前を呼ばれて、息をつく。

「よかった。体調は?」

「まぁまぁかな。ご飯はちゃんと食べたよ」

よかった、ともう一度口にして、椅子に座る。

よく見ると目のあたりが腫れていた。真っ白な髪と肌に皮肉のように映えた。でもそれに対して何も言えない。きっと私も同じだろうから。

「勉強、しようか」

久々に教科書を取り出すと、彼女は少し躊躇って、頷いた。

お互いに、それが無駄なこととは言いたくなかった。

だからといって、きっと大丈夫だよとも、言えなかったのだけれど。

「あ」

その時、机に置いてあった花瓶に腕が当たって、水が零れてしまった。

「わ、割れてない、セーフ」

「制服大丈夫?」

「うん。どうせ二着あるから、帰ったら洗うよ」

そう言いながらふと手を伸ばしたポケットの中に、カサリと紙の感触。

どきりと指先から冷えるような感覚のあとに、頭の中に何かが、閃いた。

「…ごめん美涼、教科書貸すから、今日は早めに帰る」

「ん?うん、早く洗ったほうがいいかもね。じゃあお言葉に甘えて」

鞄を急いで持って、私は病院から出た。

 

もしあの呪いが私への罰であり、私へのチャンスであるならば。

もし自分の罪を、リセットさせられるのならば。

私は、私は。

「ごめんね」

ポケットからあの封筒を取り出す。謝って、しわを伸ばす。

懺悔をしよう。

彼女に、すべてを伝えよう。私のこと、彼のことを。

貴女を愛した人のことを。

 

これが罪であるならば、きっと明日には彼女は忘れているのだろう。

そうして、私の罪は鎖を緩めて、私の中だけでそっと残っていくだろう。それでいい。それがいい。

許されても、許さないままで。私はそうして、罪と向き合うのだ。

「美涼」

昨日のようにそう名前を呼ぶと、同じように彼女も振り向いた。

「冬香。遅いから今日は来ないのかと思った…はい、教科書ありがとう」

教科書を渡そうと私のほうを見て、彼女は何かを悟って、真剣に視線を向けてきた。

「…どうした?なにかあった?」

私は椅子に座って、目を合わせた。一回大きく呼吸をして落ち着く。

「私もね、言いたいことあるんだ」

ポケットから封筒を取り出して、手渡す。彼女は教科書を机に置いて、代わりにそれを受け取った。

「…中和?前、入院してた子?」

「うん。ちょっと前に預かってたの」

彼女が中身を取り出していく。私は無言でそれをただ見ていた。たまに紙をめくる音が、病室に響いた。

「…そっか」

読み終えて畳んで、それを見て私は深く頭を下げた。

「ごめん」

「…どうしたの、なんで謝ってるの」

顔上げてよ、と言われても私はそのままだ。ゆっくり、口を開く。

「私、それ先に読んだ」

「うん」

「忘れてたとかじゃない」

「うん」

「わざと、渡さなかったの、美涼に」

「うん」

優しく諭すような声に、涙が零れる。握った拳にぽたりと、落ちた。今だけまだ、まだ頑張ってよ私。

「私、ずっと美涼と一緒にいたよ。一緒にいて楽しくて、美涼の一番でいたかった」

「うん」

「ひとりじめしてたかったの、私だけ、美涼のこと知ってればいいと思ってた」

「うん」

あと一歩。顔を上げて、口を開いて、あとはもう、声と勇気を、出すだけだから。

「私、美涼が好きだよ」

声が裏返っていたかもしれない。涙で酷い顔してるかもしれない。だけど、心だけはふわりと、軽くなった気がした。

「…私ね、夢を見たよ」

白い睫毛が瞬いた。唇が戦慄いて、言葉を紡ぐ。

「小さい私が、あしたぜんぶおわるよ、って。それから、きょうはすてきなひになるよ、って」

開いた瞳から、ぼろりと涙が零れた。

「愛せなくても、愛が怖くても、それでも私を愛してくれる人がいるんだね」

彼女は笑った。涙がライトに輝いて、とても綺麗だった。

私は、私だけは、この景色を一生、忘れないだろう。

「好きだよ」

「うん」

「大好き」

「うん」

「愛してるの」

「…うん」

ずっと言いたかった。今は聞いていて。明日になったら、忘れて。

「さっきの、嘘。きっと来るってわかってた、美涼が来るって思ってたよ」

握りこんでいる私の手をそっと取って、柔く解かせてきた。手の震えと冷たさが伝わって、力を込める。

「ありがとう」

最高の返事に、うん、と言葉を返した。彼女は謝らなかった。それが私は嬉しかった。

彼女は手を引いて、私を抱きしめてきた。私も強く抱きしめ返す。

病室にふたりの泣き声が、こだました。

 

どんなに願っても、朝は過ぎて日常が訪れる。目の腫れが目立つ私だって、いつも通り学校に行って、授業だって、受けるんだ。

「北尾、続きから教科書、読んで」

先生に呼ばれてハッとして、それから、いつもとは違う、ちょっと晴れやかな顔で。

「教科書、忘れました」

 

私は今日、忘れた教科書と恋心を取りに行く。

真っ白なオンディーヌのいる、真っ白な病室に。

 はじめましてって会いに行って、そしてまた、恋をする。

 

説明
軽い百合表現。とても力を入れて書いた作品です。
修正前の作品です。一度修正をしたものが行方知れずなので、また置き換えるかもしれません。
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