DarkandRed 〜 朝のこない夜のなか 四章 |
四章 自殺者は、10代女性
1
現在のマコトは、車いすでどこにでも一人で行けるようになっていた。
腕の骨折は比較的軽度のものであり、特に左手はヒビが入っていた程度。ギプスはすぐに外れ、右手に関しても未だに少し不自由ではあるが、リハビリのためにも車いすに乗り、積極的に手を動かした方がいいと医師は言った。大人の言うことは話半分にしか聞かないマコトでも、さすがに医師の言葉は鵜呑みにする。早く怪我を治し、シゾノとの生活を再開させたいからだ。
車いすに乗って廊下を行くと、様々な人物とすれ違う。特殊な病院であるため、入院患者は若い者が多い。逆に老人はまずいないのだから、その雰囲気は病院というよりも、刑務所と呼んだ方が近いのかもしれない。腕を吊った患者や、松葉杖を突いた長身の男などは、いずれもアウトローの匂いを漂わせている。中には、事故で愛車と己の上半身の骨のあちこちを壊した運び屋もいた。中には顔なじみすらいる。
そういった相手には声をかけ、かけられもするが、大抵の場合は彼女が一番重症なものだから、きちんと顔を合わすことができなかった。あいつもあれだけの怪我をするのか、大したことないな。そんなささやきが聞こえて来る気がする。
とはいえ、彼女は彼女なりの戦いを終え、これからはゴトウがそうであったように、殺人者のための舞台を用意するだけの人間になろうと考えている。いくら“現役時代の自分”の名前に泥が付き、傷が付こうとも、もう関係ないと達観することができている。ただし、それに伴ってシゾノの実力まで低く見られるのではないかと思うと、これだけはどうしても我慢ならなかった。
特にゴトウの死後、二人は一心同体のようなものと扱われている。マコトの口がすなわちシゾノの口であり、シゾノの足がすなわちマコトの足、というような仕事の進め方をしていたためだ。それは姉妹と互いのことを表す二人にとっては名誉なことだったが、ここに来てそれがマイナスに働くかもしれないと考えると、自然と気が重くなる。
まだ誰も、はっきりと口に出してはそんなことを言っていない。その勇気がないのだろう。手負いのマコトはともかくとして、無敗の殺戮者を敵に回したら、五秒後には自分の命がないと誰もが知っているからだ。
「ありゃ、こりゃまたずいぶんと派手にやっちゃいましたねー。あなたもやっぱり自殺未遂ですか?」
「……えっ?」
古めかしい言葉を使えば、生き恥を晒すようなことをしていると思いながらも、とにかく早く体を治さなければならない。十二階の廊下に車いすを走らせていると、正面からマコトと同じような姿をした少女がやって来た。彼女はマコトの有り様を見ると、彼女ではなく、自分自身をあざ笑うような笑みを浮かべ、話しかけて来た。その口ぶりからして、マコトのことを知らないらしい。
「ありゃ、間違っちゃいました?ああ、確かに頭に包帯ないですもんねぇ。てっきり飛び降り自殺をして、不幸なことに死ねなかった同志かと」
「ヤな同志だね、それ。ということは、あんたは自殺したの?」
「こうして生きているんで、未遂になっちゃいましたけどね。借金につぐ借金でどうにも上手くいかず、一家心中です。練炭とかはよくわからないので、全員がバラバラにビルから飛び降りたんですけど、わたしだけ上手いこと柔らかい荷物を積んでいたトラックの荷台にぶつかって、全身打撲でしたけど、どっこい生きてはいます。でも治療費とか、どうなるんでしょうかねぇ」
「あんたもわかってるとは思うけど、ここは限りなくブラックなところだから、治り次第、ナースとしてタダ働きとかじゃないかな。もう死ぬまで働くことになるんじゃない?」
「ありゃりゃ、それはまた愉快な。死んだ方がマシ、とは正にこのことですねぇ。もう一回、今度はここの屋上から飛び降りましょうか。そういや、病院ってシーツとか包帯とか、屋上に干すんですよねー」
自殺者。いや、その未遂者はからから、と特徴的な切ない笑い声を上げ、その顔には一切の陰りが見えない。マコトは、彼女のような人間を一人だけ、おそらく誰よりも深く知っている。彼女は、シゾノに似ていた。方向性は違うが、彼女もまた、既に狂っているのだとわかる。
ブロンドの髪を腰まで長く伸ばし、頭には包帯を何重にも巻いている彼女は、その肌の色から察するに西洋人だ。英語が見事なのも、元々の母国語だからだろう。彼女の家族もまた、かつてマコトが出会った少年――ユウヤと同じように、没落していったのだろうか。
「あんた、名前は?あたしはマコト」
「わたしですか?エリノラっていいます。エリーって気軽に呼んでくれていいですよ」
「じゃあ、エリー。あんたさ、今も本当に死にたいって思ってるの?」
「うへぇ、重い質問だなぁ。まあ、割りとそんな感じですね。生きていても、明日が見えないじゃないですか。一人生き残ったのなら、懸命に生きて行け、とか大人は言うかもしれませんが、病院にも借金作っちゃった訳ですしねぇ。もう、人生詰んだと言っても差し支えないんじゃ?完全にチェックメイトですよ」
「そっか。死にたがる理由としては、下の下だね」
「ありゃりゃ、言われちゃいました。マコトも死にたいんですか?」
「ううん。あたしは、生きようと思う。死にながら生きてる、姉貴がいるからね」
「変な話ですね」
しばらくの間、車いすの少女達は互いに顔を向かい合わせにして、何を言うでもなく見つめ合っていた。包帯さえなければ、エリノラは美少女に分類される容姿をしている。それは幸運にも、効率的にカネを稼ぐことが出来るということを意味しているか、彼女はそれをやりたがらないだろう。
エリノラは幼く、狂っているが、子どもなりの誇りを持っていた。大人への強烈なコンプレックスと、憎悪にも近いほどの反感。その恨みを作り出した元凶は、彼女の親か、さもなくばそれからカネを毟り取った人間か。
「エリー。もしもあんたが今すぐにでも死のうと思ってないのなら、友達にならない?この階の他の患者って、むさ苦しい男達ばっかりだしさ」
「おっ、いいですねぇ。わたしは多分、そう遠くない内に立てるようになるんで、そしたら死のうと思うんですけどねぇ」
「それまででいいよ。あたしは別にあんたを止めたいんじゃないし、そんな義理はない。ただ、あんたで退屈を紛らわせられればいい」
「いいですね、そういう付き合い。わたし、多分マコトのことが大好きですよ。結婚したいぐらいです」
「えぇ、あたしは嫌だよ。あんたと結婚なんかしたら、無理心中させられそうだし、あんただけ死んで、その後の世話とかするの面倒だし。また死にぞこなかったら、治療費とか全部あたしが持つんでしょ?」
「保険金をたっぷりかけて、今度こそわたしを死なせればいいじゃないですか。うーん、妻は死にたがって、夫は殺したがる新婚生活、ロマンですねぇ」
狂人は見慣れているマコトだが、彼女のようなタイプの相手はどっと疲れる。シゾノも、自分勝手な部分はある。しかし、エリノラは特にその気が強い。人の気持ちを考える、という高度な思考の能力が欠落しているのだろう。加えて、思い込みも激しい。彼女の中ではもう、マコトとの婚約が成立しているのだ。
「あたしが男役なの?」
疲れるが、退屈は凌げる。マコトも彼女の寸劇に付き合ってやる。
「そりゃあ、マコトは男らしい感じがするんで、当然ですよ」
「でも、あたしの方がよっぽど胸はあるけど?あんた、思いっきり貧乳じゃん」
「むっ、痛いトコを。わたしはスレンダーな美人なんです。マコトは確かにおっぱいがありますが、ちょっと大柄なので、男役に最適という訳です」
「一般的に見れば、あたしも十分に小柄だよ。あんたが栄養とか足りてないだけじゃないの?」
「それはありますねぇ。病院のご飯って、味薄いですし、量も全然じゃないですか。こちとら、餓死しそうになったから自殺したのに、舐めているとしか思えませんよね」
「病院のご飯に文句あるのはわかるけど、今までの食生活の結果でしょ、あんたが細いのは」
細く、身長も低いエリノラの年齢は、正確には推測することが出来ない。顔の感じから、少なくとも十五歳以上ぐらいだろうが、それにしてはやはり小さ過ぎる。何もかも。
「一応、歳とかも聞いておこうかな。あたしは十八だけど、あんたは?」
「えー、そういうのっていります?わたしはどうせ死ぬので、生きている時の歳とかなんでもいいじゃないですか」
「死んだら享年がわかるから、それでいいってこと?」
「そーいうことです。今はマコトが適当に想像しておいて、後から答え合わせといこうじゃないですか。その時、わたしはいませんけどねぇ」
明るく言い、またからからと笑う。やはり、彼女は狂っていた。
それでも、彼女は明るく、不幸の中でも幸せそうに見える。それゆえに狂っているのだろうが、マコトも段々とそれには慣れて来ていて、シゾノといる時のような居心地のよさが感じられている。
マコトはシゾノとも、エリノラとも共有する気持ちは決して多くはない。ただし、彼女は欠落を持った人といるのが好きだった。
「エリーの病室ってどこ?あたしは1204なんだけど」
「わたしは1212です。なんかいいですよね、数字が繰り返してて。でも病室が離れているのが残念ですねー」
「だから、今まで出会えなかったんだね。あたしが車いすに乗るようになってから、今日でもう五日目だから」
「えーっ、そんなになんですか?うーん、本当に残念だなぁ、そう言っている内に死んじゃいますよ?わたし」
「なら、そういう運命だったんだね」
「あっ、マコトって運命とか信じちゃう系なんですか?わたしはですねー、今みたいな身の上になって、ちょっと感じ始めた系ですねぇ。だって、家族は皆死んじゃったのに、わたしだけ生き残るなんて、神様がわたしをいじめているとしか思えないじゃないですか」
また自嘲する。その姿を見ながら、マコトも小さく笑った。この分なら、彼女はどんな理不尽も笑って受け入れ、消化し、強く生きていけそうな気がする。が、同時に彼女はやっぱり自殺をするんだろう、という気持ちにもなる。エリノラの純心は、正にも負にも簡単に振り切れてしまう危うさがあった。
「おっと、残念ですが、そろそろ戻らなきゃです。マコトの方がまだ動くのは大変そうなので、わたしから迎えに行きますね」
「あんたも大概だけどね。まあ、そういうことなら待ってようかな」
子どもが遊びの約束を交わすのと、そのやりとりは同じだった。エリノラの過去をマコトは知らないが、同年代の少女少年と遊ぶような経験をマコトはしていない。彼女は常に大人の傍にいて、小さな大人としてしか生きられなかった。
エリノラは、いつか必ず死ぬ。初めてできた遊び友達との時間は、初めから決められていることに――少しだけ、彼女は寂しさを覚え、しかしそれもすぐに消した。彼女はエリノラとは違い、無為に死にはしない。
別にそれは、ゴトウやシゾノのためなのではなく、全て自分のためだ。彼女は利己的に生きていく。他者を踏み出しにし、犠牲にしてでも。
2
翌日、十二階はしばらく騒然となった。一人の少女が、自らの点滴の針を抜き、首に刺していたことが判明したからだ。
医療的な知識も、殺人の知識もない彼女は自らの命を断つことには失敗し、ただシーツとカーテンと床とを赤く汚すだけで終わった。ついでに、彼女はもう一人では眠ることができなくなった。ナースが一人、必ず監視に付けられたのである。
マコトは、少女のことを詳しく知ろうとはしなかった。エリノラと言われなくともわかったからだ。
世の中には不思議なことに、幸せになればなるほど死にたがる人種がいる。本人が意識しているのか、していないかはわからないが、過度の幸せを手にしてしまうことに対し、申し訳なさ、ひいては罪の意識を感じるのだろうとマコトは理解している。そして、エリノラはそのタイプの人間だったということだ。
昨日、エリノラはずっと笑っていた。狂人特有の笑い声と、眼の色をしていたが、彼女は確かに幸せだったのだろう。それが彼女を自殺へと駆り立てた。彼女は満足をしたから、もうこの世から退場してもいいと考えたのかもしれない。そして、その考えを盲目的に信じ、能動的な退場を実行してしまった。
その更に翌日も、エリノラは現れない。ここは精神病院ではないはずだが、それなりのカウンセラーはいるはずだ。その人物はきっと、死のうなどと考えてはいけない、どれだけ辛くても生きてさえいれば、必ず未来は開けるのだから、とマコトが思っているのと同じようなことを、ひたすらにエリノラに対して説いている。
だが、それが無意味であることは、カウンセラー本人も気付いているのだろう。それが仕事なのだから、とりあえず話しておくしかない。それから、もしもこの無意味な説教が、次に彼女が自殺を決断した時、なんらかの抑止力になれば万々歳だ、とも考えているはずだ。だからこそ、その彼女だか彼だかわからない人物は、切実さを持って生きるように叫ぶ。
エリノラはどんな顔をして、そんな大人の説教を聞いているのだろう。彼女のことだから、やはり朗らかな顔をしているはずだ。そして、言葉を求められるとこう言う。
『そうですね、生きてみようと思います』
それから、からからと笑うのも忘れないだろう。
その言葉は、早く話を終わらせたいから口から出て来る言葉ではなく、きっと彼女は本気でそう思っている。少なくとも、その瞬間ぐらいは。しかし、彼女は自殺者だ。二度も自殺を実行に移した人間なのだから、彼女はどうあっても死にたがる。翌日、翌々日、三日後……必ずまた、自殺を決意する。その時こそ、自殺は成功し、マコトにしてみれば謎だった彼女の年齢もわかるだろう。
マコトは彼女の運命を哀れに思いながらも、ほんの少しだけ憧れてみた。エリノラは儚く、不幸に死ぬだろうが、きっと心は満足して逝く。彼女にとっての理想の死とは、自ら命を断つことなのだ。誰かにその命運を握られ、ある時に突然握り潰されることではない。それに対し、マコトの一生の終わりは――見えない。幸せに終わるかもしれない。事実、それを望んでいる。だが、果たしてどうなるのか。
シゾノがスウェーを殺せず、逆に殺されれば、彼女もやはり殺されるだろう。とてもではないが、幸せな一生、幸せな死とは思えない。だが、復讐を遂げ、事務所を立て直した後。彼女は幸せに死ねるだろうか。
そう考えると、エリノラは幸せだと思う。彼女の仲間になろうとは思わないが、そういう生き方には一定の理解も示せた。
「やっほー、マコト!なんとか戻って来ました!」
結局、二人が初めて出会った日から三日後。ようやくエリノラはやって来た。頭の包帯は取れている代わりに、首に新しい包帯が巻かれている。先日の自殺未遂の傷だろう。
「エリー。そんな気はしてたけど、あたしに教えもしないで自殺?」
「ありゃ、もしかしてマコト、怒ってます?でも、わたしにとっての自殺って、ある意味で神聖なことなんですよ。なので、その時は誰にも内緒です。ひっそりと死にますから」
「でも、また死に切れないなんてね。神様はあんたに自殺なんかさせたくないんじゃないかな」
「きっついですよね、神様。生き地獄って言葉がありますけど、正にそれです、わたし。二回も死のうとしたのに、二回とも地獄の門番に門前払い喰らいました。代わりに生きてて地獄を歩いている訳ですね」
エリノラはからからと笑う。幸せそうな、愛らしい笑顔だ。大きな碧の瞳が、これでもか、と言うほどにきらきら輝いている。
「なら、地獄をとことん生きてやったらいいんじゃないかな、ってあたしは思うけどな。どうせエリー、また死ねないよ」
「確かに、ちょっと不安になりますよね。けど、この足さえ治ったら、前言ったように屋上から落ちますよ。今度はきちんと地面に落ちるので、わたしはぐっちゃぐっちゃの死体になる、って算段です。痛いかなぁ、痛いですよねぇ。けど、死ぬので大丈夫です」
「生きるのは、死ぬより辛いもんね」
「そうそう、一瞬の痛みさえ我慢しちゃえば、後はもう楽になれるんです。生きてると、ずーっと痛みが続きますからね。肉体的にも、精神的にも。って、死に損なったわたしが言うと、中々に説得力があるんじゃないですか?」
無邪気に、自慢をするように言うエリノラに対し、マコトは思わず笑顔を返していた。正直なところ、彼女の苦労など、マコトの味わってきた不条理と痛みに比べればずっと軽いものだ。そのくせして薄幸の美少女を気取っているのだから、彼女に対し憤りを覚えるのが普通かもしれない。だが、どうにもマコトは彼女を憎めず、むしろ愛することができていた。
それは、彼女があまりにも明るいからなのか。それとも、退行をしてしまったかのような幼さに、同情しているからなのか。ともかく、マコトはもっと彼女と話したい。彼女の命の終わりを可能な限り延長させて、少しでも長く話したいと考えていた。
「ところで、マコトはわたしに自殺するな、とは言いませんよね。なんでですか?」
「えっ?だってさ、そんなこと言ったところで、あんたはちゃんと聞き入れてくれる?」
「無理ですね。わたしは死にます」
「ほら、そう言うじゃん。なら何を言っても無駄だし、あたしは自殺が悪いこととは思ってないよ。あんたが死にたければ、そうすればいい。どんな決断をするにしても、あんたの人生なんだから。あたしはそこまで立派な人間じゃないからね、あんたの生き方に軽々しく口を挟むつもりはないよ」
「あはは、なるほど。じゃあマコト、もしもマコトが三十とか四十のおばさんで、偉そうに説教出来る人だったなら、わたしに自殺するなって言います?」
「ううん」
彼女は首を横に振る。考える間などなく、初めからそうすることを決めていた。
「自殺をやめさせるための説教って、大体は命を大切にしろとか、生きていればいいことがあるとか、そういうのじゃん。あたしは自分の人生の中で、生きても生きてもいいことがないことを知ってるし、むしろ長く生きれば生きるほど、不条理に巻き込まれるってことも知ってる。だからそんなことは言えないし、命の大切さにしてもさ、あんたは十分わかってるでしょ?
だって、自殺したがるってことは、自分の命を捨てたがるってこと。つまり、自分で自分の命のことを強く意識していないと、そんな選択をしようとすら思わないはずだよ。だから、あんたは命を軽々しく扱ってるから、それを投げ捨てようとしてるんじゃない。むしろ、本当は生きたいんでしょ?だけど、生きるアテもないし、生きた先の希望もない。だから死ぬ。なら、あんたは死ぬべきだよ。神様は意地悪で慈悲深いから、中々死なせてくれないかもしれないけどね」
最後は、エリノラ風に笑って締めくくった。力のない空虚な笑みは、マコトだってゴトウを失ってからの得意技だった。
そうすると、しばらく自殺者は呆然として、一分ぐらい何かしらを考えた後、唐突に涙を流した。車いすを動かし、そのまま衝突しかねない距離までマコトに近づく。
「こらこら、エリー。泣くことないじゃん」
「だって……マコトだけです。わたしのことを本当にわかってくれてて、そんなこと言ってくれたの。……わたしだって、生きたいんです。お父さんもお母さんも、弟も死にました。けど、本当はわたし、自殺なんてしたくなかった。
だけれど、そうするしかなかったんです。だから飛び降りたけど、わたしは生き残った。いっそ、みんながみんな死ねばよかったのに、一人残って。それにマコト!わたしは、あなたに会うべきじゃなかった。この世の中に、少しだけ。ほんの少しだけだけど、未練が残っちゃうじゃないですか。そのほんの少しの未練でも、わたしは死ねなくなっちゃうんです」
「そういうもんだよ。あたしも、ただ一人のためにこうして入院してまで生きてる。だから、その人が死んだら、あたしも死にたくなるかもね。……いや、きっとそうなる。なら、一緒に死んじゃう?」
満更、冗談でもなかった。普段は命に関するブラックジョークを言うことのあるマコトだが、本当に自殺を望んでいる少女の前で、軽々しく自殺をジョークに用いるほど愚かではない。
もしもシゾノが死ねば、ゴトウの仇討ちは不可能になる。今のマコトも、そして怪我の完治したマコトも、スウェーを殺すことは決してできない。彼女はもう、自分にできる限りのことをやり終えた後だ。
後の世の中には、ゴトウとシゾノの仇がマフィアの幹部として、大きな顔をしてのさばり続ける。誰も彼女を止められはしないだろう。正義の執行人など初めからこの街にはいないし、どこかから流れて来た正義の味方など、この街の中ではあまりにも無力だ。それならば、やはりマコトは死にたがるのかもしれない。そう考えた。
「あはは……じゃあ、わたしは祈ります。その人が死んでくれるのを。なら、心中できますね」
「こら、縁起でもないことを言わない。これでその人が本当に死んだら、あたしがあんたを殺すよ?」
「それでもいいですねぇ。愛する人の手にかかって死ぬのなら、本望ってやつです」
「……はぁ。あんたには敵わないな。死にたがりって、一番相手をするのが面倒な連中だよ。脅し文句が効かないもん」
「えへへー、つまり、わたしとマコトの相性はばっちりってことですね?」
「逆にね。……一応あたし、ちょっと前まではこう、バッサバッサとマフィアどもを斬り殺してて、裏でもかなり幅を利かせてたんだけどな。今じゃフツーの女の子一人、脅かせないなんてね」
マコトは彼女のような一般人に自分の身の上話をするつもりはなかった。彼女達と自分では、あまりにも生きている日常が違い過ぎる。彼女の不幸は、一般の人間が直面する不幸であり、マコトの上に降りかかった不条理や暴力は、影に生きているからこそのもの。あまり深淵を彼女のような純粋な少女に教えたくはない。そう考えていた。
だが、遂にふっ、と漏れ出してきてしまった。更にマコトは、そのことについて「失敗した」などとは思わない。秘密なんていらない、そう思ったからだ。エリノラはきっと、そう弱い子どもではない。もう少し違う生まれ方をしていれば、マコトの仕事仲間になったかもしれない、強い少女だ。この程度のことで動揺することはないと踏んでいた。
「つまり、わたしはマフィアより強いってことですね!」
「かもね。でも、今のあたしはもうダメだよ。あんたと同じ……いや、あんた以上に弱い、女の子。人殺しは廃業。これからは穏やかにパンでも焼いて生きていきます、ってね」
「あはは、なんでパンなんですか?」
「なんかさ、パン屋さんって、どことなく現実離れしてない?メルヘンっていうか。だから、穏やかに生きるならそれがいいかな、って」
あんまりにイメージが合わないものだから、エリノラは腹がよじれるほど、という言葉が最適なほどに笑った。大いに笑った。目の端からは涙が流れ、腹筋も痛くなって来る。それを見たマコトも、やや複雑な気持ちながら笑顔になる。エリノラが“まともな笑い”を見せたのは初めてのことだ。今の彼女の大笑いには、危うさが一切ない。ただの少女の、心からの笑みだ。
「もう。あんまり笑うと、ほっぺたつねるよ?」
「いいですよー、ぷにぷにしちゃってください」
「ぷにぷに?いや、ぐにぐにだね。人のささやかな夢を笑い飛ばすようなやつには、相応の報いがないと」
本当に頬を掴まえ、ぐいぐいと引っ張る。既にエリノラの方から近寄って来ていたため、苦労なく掴める上に、車いすに乗っているものだから逃げることもできない。エリノラの頬は意外と柔らかな肉があり、ずっと触っていたいという気持ちを起こさせるほど心地いい。だが、彼女が泣き出す前に解放してやる。
「うぅ……ほっぺたが変な形になったら、マコトのせいなんですから」
「死んでぐちゃぐちゃになるって言ってたのに、見た目を気にするんだ」
「だって、まだ死なないですもん。この足が治るまでは、マコトといっぱい遊ぶんです」
「なら、治りそうになったら、あたしが折り直してあげようかな。でもそしたら、別の死に方を考えちゃう?」
「そうですね。階段を転げ落ちるだけで死ねるって言うんで、手だけで這って行く……とか。でも、これも失敗しちゃいそうなんですよね、わたしの自殺失敗遍歴から考えると」
「やっぱりエリー、自殺できない人だと思うな」
「辛いです。死にたくない人は死ぬのに、死にたい人は死なないんですね」
「……そういうもんじゃない」
今度はもう、マコトの顔に笑みはなかった。
3
二週間が経ち、三週間が経った。
未だにシゾノは現れないが、マコトはそのことを不安には思わない。もしも彼女ほどの人物が死ねば、この病院にまでその噂は届く。いや、この病院だからこそ、届かなければならない。
ならば、彼女は今も虎視眈々と決戦の時を待っているのだろう。生活能力のない彼女が、残ったわずかな財産をも焼かれた今、どうやって生活をしているのかだけは気になるが、きっと仕事は向こうの方から来て、それをこなすことでそれなりのカネは得ているのだろう。
ちなみに、マコトの入院費その他は全て、保険から出ている。彼女は表向きには事務の仕事をしている十八歳の社会人、ということになっているため、何の問題もなく、高額の保険に入ることができた。そして今、高い掛け金の見返りが帰って来ているのだ。
「マコト、もう松葉杖でいいんですね」
「言ってる内に、普通に歩けるようになるよ。あたし、こういう回復力は高いからね」
「いいですねぇ、ワイルドです」
「女の子的に、その表現をされるのは喜んでいいのかな。……けど、エリーはまだ立てないんだね。あたしよりずっと前から入院してるんでしょ?」
エリノラとも、今となっては毎日、遅くまで話し込むほどの仲となっていた。
当初から相性はよかったが、仲が良すぎて看護師に注意されるほどだ。日が暮れても、病室に戻らなかったことが何度かある。
「……実はわたし、もう歩けないんです。いわゆるその、下半身不随、みたいな?よくわからないんですけど、このままわたしはゆっくり死んでいくだけです。もう、自分の足で地面の感触も味わえない。自分に足が付いているのか、それを実感することもできないんです」
「やっぱり、そうなんだ」
「さすがに気付かれちゃいますよね。ねぇ、マコト。わたしの足は、確かにそこにありますか?実はもう、なくなっちゃってるんじゃないですか?わたしが、もう一度歩きたい、そう思ってるから幻を見ているだけで」
「あるよ。確かにある。……残酷なことかもしれないけど」
「ええ、残酷です。あるのに、使えないんですから。ね、マコト。もう一つ、お願いしていいですか」
「イヤ。あたしにそんなこと、させないで」
車いすで行くエリノラに、松葉杖のマコトはついていく。彼女は廊下の行き止まりに設置された、ソファとテーブルのところまでやって来た。患者達の歓談の場であり、簡易の面会室だ。はめ殺しの窓もあるが、高い位置にあるため、車いすのエリノラはそれを覗けない。
「死なせてくれないんですか?今のマコトになら頼める、そう思えるのに」
「人を殺すことに、ためらいはないよ。あたしには。だけど、エリーを殺すことにはためらいしかない。つまり、殺せないよ。あたしは」
「失敗しました。もっと早く、マコトにお願いすればよかったんです。わたしとあなたが初めて出会ったあの日。あの日の内に、殺すように言っていれば、あなたは殺してくれましたか?」
「ううん。やっぱりダメだった。あんたは絶対に殺せないよ」
「そう、ですか」
エリノラは涙を流した。顔をマコトからは背け、体を震わせる。彼女はマコトとの交流の中で、何回も泣いた。
笑い過ぎて泣くこともあったし、嬉し涙もあった。明るく、純粋な彼女は時として暗くなり、大粒の涙を落とすこともあった。そして今日も、彼女は泣いた。
彼女は感情も思考も、振れ幅が大きい。しかし、もうマコトは彼女のことを狂人とは考えなくなっていた。ただ、ほんの少しだけ壊れてしまっただけだ。他は同年代の普通の少女となんら変わらない。それは、マコトよりもずっとまともな人間である、ということだ。
「じゃあ、わたしがマコトを殺します。ですから、殺されたくなければ。シゾノさんとまた会いたいなら、わたしを殺して生きてください」
車いすがゆっくりと回転する。エリノラの手には、マコトから見ればおもちゃのような果物ナイフがあった。彼女を見舞いに来る人間はいないから、誰かから奪ったのだろうか。一般人の少女が握った小さな凶器は、あまりにも脆弱で、彼女が社会に対して持てる力とイコールで結ばれているように感じた。
マコトの手には、リーチの長い武器にもなる二本の杖がある。更に、エリノラはどう急いでも車いすに乗っているのだから、そこまでのスピードを出すことはできない。マコトならば簡単に蹴散らしてしまえる。そうして、杖で叩き殺すこともできるだろうし、ナイフを奪って致命的な部位を刺すか、斬るかをすれば、それだけで殺せてしまう。
それなのにも関わらず、マコトは避けず、打たず、受け止めた。むしろ、滅茶苦茶に突っ込んでくるエリノラの刃を、自分の胸に突き刺さるように動いた。刃渡りは五センチもないだろう。本当に果物の皮を剥くことしかできない、弱い刃が肉を突き刺す。
「マコト……?」
「ほら、刺さりが浅いよ?あたしはあんたと違って、胸があるからね……そんなんじゃ、心臓も肺も貫けない。もっと深く、ナイフを持つ自分の指をねじ込むように突くんだ。そしたら、あんたでもあたしを殺せる……」
「だ、だめっ!わたしはっ、本当にマコトを殺そうなんて…………」
「殺しなよ。そうすればいい。あたしは、シゾノと……あんたになら、殺されてもいいって思った。だから、殺されてあげる」
いつしか、エリノラはナイフから手を離していた。マコトがその柄を掴み、より深いところへと導いていく。
これでは、自殺と丸っきり一緒だ。
そう一人思ったが、刃は胸を完全に貫き、行き着くべきところへと収まった。血液が傷口からぼたぼたと溢れ、清潔な床を赤く穢していく。ついさっきまでナイフを持っていたエリノラのパジャマも、まもなく赤黒い色に染色された。
一際大きな、エリノラの叫び声が上がる。すぐに人が集まり――。
4
「マコトのこと、もっと教えてくださいよ。わたしの話なんかしても、しょーもないってことはわかりきってるんですから」
「いいけど、あたしはあたしでロクでもない話ばっかだよ?」
「それでいいんです。聞かせてくださいよ、マコトの武勇伝」
「武勇伝、ねぇ。そんな大したものはないんだけど」
「いやいや、いっぱいありますよね?なんてったって、マコトはインフェルノと呼ばれた、凄腕の殺し屋なんですから」
「……なんか、今更になってその名前を呼ばれると、ダッサいのを付けたもんだなぁ、って思うよ。この名前、ずっと残っていくのかな」
「それはそうでしょう。でも、いいと思いますよ?地獄の炎、インフェルノ!って」
「ぜ、絶対それ、煽ってるでしょ。意外とあんた、性格悪いなぁ」
「そんなことないですって。それより早くお話してください」
「はぁ。別にいいけど、武勇伝とか、そういうのは正直いまいちだよ?だからさ、あたしの家族の話でいい?それとも、他人の家族の話なんて嫌?」
「ううん。むしろ大歓迎です。マコトの家族のこと、聞かせてください」
「それじゃあ……。まず、あたしの本当の家族。つまり、生みの親とかきょうだいとかだけど、そういう人はいないんだ。皆死んだ。どういう人で、どうして死んだのかとかも、あたしは知らない。生まれてすぐ、死んじゃったみたいだからね。
それからあたしは、しばらく日本の……あれはなんだったんだろ。親戚か養子縁組してくれた家族のところで暮らしてて、だけれど七歳か八歳の時、この街に来た。その時にはもう一人で、あたしはゴミを漁りながら生きて、いつしか人を殺しながら生きるようになってた。初めての殺人は、八歳の時かな。その時からもう、刃物を使ってた。あっ、あたしの得物は、刀だったんだけどね」
「おー、いい感じに殺し屋の武勇伝じゃないですか。マコト、そんな時から殺してたんですね」
「だから、あたしは生粋の殺し屋なんだと思う。でも、殺せなくなっちゃった。殺せない殺し屋なんて、飛ばない鳥や、泳げない魚と同じだよね。それで、殺せなくなった理由だけど、兄貴と姉貴がいたの。あっ、いや、姉貴は今も生きてるんだけど」
「実の家族が亡くなったのなら、義理ってことですよね」
「うん。事実上、あたしを育ててくれゴトウっていう兄貴と、殺し屋の後輩だけど、あたしより腕が立つし年上の姉貴、シゾノ。ゴトウは苗字、シゾノは名前だけど、それぞれのもう片方の名前は知らない。ちなみにあたしも、苗字は誰にも教えてないんだけどね」
「何か理由があるんですか?」
「特にないけど、この街――の裏だと、別にそんなのどうでもいいんだ。あたしには兄貴や姉貴がいる、それだけで十分。だから、しいて言えばあたしはゴトウマコト、ってことになるかな?下手に血縁とか意識しない方が、上手くいくこともあるんだ」
「いいですね、そういうの。わたしはずっと家族と一緒でしたから。どれだけ苦しくて、離れたくっても」
「でね、あたしとシゾノはね、兄貴に仕事をセッティングしてもらって、それをこなして暮らしてたんだ。殺しもしたし、人捜しもしたし、暴力団に混じりもした。そうした中で、どんどん名も知れて来て――特にシゾノは、ある種の天才だよ。銃さえあれば、どんな人間だって、どれだけの人間だって、残らず殺せる。そして、それがシゾノの喜びなんだ」
「人を殺すのが好きなんですか」
「正確には、銃で生きた的を撃ち抜くのが、かな。いわゆるトリガーハッピーって言えばいいんだと思う。ただし、ただ撃つだけじゃなく、撃ち殺す方向のね。ともかく、そのお陰ですごいお金も稼げて、いい生活ができるようになった。武器もどんどん仕入れて、それを使ってまた仕事をして、ね」
「すごい世界を生きていたんですね、マコト。見た目はこんなにも普通なのに」
「普通?そうかな。そう見えているのなら、これから生きやすくていいかな」
「パン屋さんになるんですもんね!」
「……だからさ、すごい自然な流れで煽るの、やめてくれない?あたし、割りと短気だからさ、怒るよ?」
「いいですよー、怒ってくれても」
「はぁ。怒る気も失せるよ、あんたには。でね……ううん、こっからは簡単でいっか。兄貴は死んで、あたしのこの怪我も、その兄貴の仇のせい。けど、あたしはやれるだけのことはやったよ。気は済んだ。だから、後はシゾノにあいつを殺してもらって、パンでも焼こうかな。そしたら、エリーもお客に来てくれない?」
「わたしはもうすぐ死ぬので、ダメですよ。でも、その仇の人がきっと死んでくれるように、お祈りしておきますね。そしたらマコトは、わたしの分も生きてくれます」
「エリー。あんた、やっぱり生きたいんでしょ?」
「生きたいです。でも、生きられないんです。わたしは、死なないと」
5
目が覚めて、マコトは苦笑した。
「自分すら殺せないなんて、あたしも真剣に衰えたな。やっぱり、もうあたしは人を殺せない。いや、この病院になんかオカルトな力が働いてて、自殺させてくれないのかな」
白い天井と、自分の胸に巻かれた包帯を見比べて、溜め息をつく。
結局、どうして自分はあそこで死のうとしたのか。マコト自身が一番不可解で、ということは恐らく、これといった理由なんてなかったのではないだろうか、と一人そう決めつけた。
数時間後、彼女はエリノラが自殺したことを知った。正しくは、自殺に今度こそ成功したのだ。
彼女はマコトが倒れた後、多くの看護師や患者が見ている前で、マコトに刺さっていたナイフで自分の頸動脈を掻き切った。プロの殺人者さながらの見事な太刀筋で、美しく頸動脈を切ったものだから、血の噴水は十メートルも離れていた看護師の服まで届き、赤く汚したという。
何を隠そう、その服を汚された看護師自身からその話を聞き、マコトは呟いた。
「エリー、やっと死ねたんだ。……おめでとう」
その言葉が、はたして正しかったのか。マコトにはわからない。きっと、エリノラにだってわからない。
だが、マコトはその言葉を言うことができて、満足だった。
「エリー、あんたの足はさ、すごくすべすべで、奇麗で、あたし好きだったよ。憧れてた。……それでまた歩けてたら、幸せだったね」
マコトは涙を流した。親友のため、故人のため。不幸な被害者のため、涙を流した。
そうして、自分自身も彼女のように、どこかが狂ってしまいたいと願ったが、遂に彼女は狂えなかった。
ただ、二人目の愛した人間の死を乗り越え、胸に二つ目の大穴を開けながら、それでもまだ生きていく。
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四章です。この章が一番思い入れが強いです | ||
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