甘ブリ番外編 チョロイン彗星 |
甘ブリ番外編 チョロイン彗星
「千斗先輩。いい加減、椎菜の可児江先輩から離れてください。先輩、お仕事ができなくて困ってましゅっ!」
「嫌よ。私と西也くんは一心同体二人三脚四捨五入。離れるなんてできないわ」
冬休みがあけた1月前半の日曜日午後1時過ぎの従業員専用通路内。可児江西也は学校の後輩であり甘城ブリリアントパークのキャストでもある中城椎菜に怒られて立ち往生していた。
より正確に言えば、千斗いすずが密着して抱きついて離れず移動に難儀していたところを椎菜にみつかってお叱りを受けていた。
「ほらっ。可児江先輩も千斗先輩に言ってやるでしゅ。邪魔だ離れろって!」
椎菜はいつになく強い口調で西也に訴える。彼女の特徴であるツインテールが逆立ってとても怒っているように見える。弱気な小動物な彼女にしては珍しい激しい反応だった。
「まあ、中城もこう言っていることだし。そろそろ離れてはくれないか?」
「嫌よ」
いすずは却って体を西也に密着させてきた。彼女の大きくて柔らかい胸の感触が制服越しに詳細に伝わってくる。西也は意志がポキっと折れてしまいそうになった。
西也の顔がデレッと緩んだのを見て椎菜はますます不機嫌になって噛みついてくる。
「何をやってるんですかっ!!」
「ぺったんこの貴方にはできないことよ」
いすずは椎菜を挑発するようにその豊かな胸を西也の胸板へと押し付ける。西也は男の子なのでこの未知の感覚に抗うことができない。
「屈辱ですっ! 屈辱過ぎでしゅう〜〜っ!!」
椎菜がツインテールを回転させながら怒っている。彼女の怒りもそろそろ限界だった。
そして、いすずにいつまでも抱きつかれているとパークの支配人代行の仕事に戻れないのも事実だった。
「いすず、そろそろ離れてくれないか」
「嫌よ。西也くんが結婚してくれるまで放さないわ」
「ムッキーっ!! 可児江先輩は千斗先輩とは結婚しませんっ!!」
いすずは徹底抗戦の構えを崩さない。両腕を西也の腰に回してがっぷり四つの姿勢で抱きついている。密着度が上がり西也の表情がますます締まりのないものに変わる。それでも西也は精一杯紳士ぶった。
「千斗。今朝から変だぞ。やっぱり体調が悪いんじゃないのか?」
いすずは先ほどからあり得ない行動ばかり取ってきた。具体的に言えば、西也に対してやたらベタベタしてくる。昨日までのツンツンした態度とはまるで正反対。
けれど、彼女が魔法の国メープルランドの出身者であること。そしてその魔法の国には理不尽とも呼べる不思議な魔法のアイテムが存在すること。大抵の不思議な現象はそれで説明できてしまう。だから西也は今日のいすずの豹変も魔法の国関連なのだろうとある程度受け入れている。
「体調も悪くなければ、変なアイテムの実験にもされていない。私はただ、西也くんへの愛に素直になっただけよ」
いすずが頬をスリスリさせている。椎菜のツインテールは逆立ちっぱなしだ。
「愛に素直になったって……昨日までツンツンばかりしていただろう。説得力がないぞ」
「私は二次元の世界にのみ存在すると思われてきたツンデレだったのよ。私は素直になれなかっただけで以前からずっと貴方への愛で溢れていたわ」
いすずが顔を西也の顔へと近寄らせる。後はつま先立ちさえしてしまえば、キスできる距離まで迫ってきた。
「女心がわからない西也くんには私がお嫁さんになって一生隣で女心をレクチャーしてあげるわ」
「ムッキーっ!! 先輩は椎菜のものなのですっ! おっぱいオバケな先輩はそのおっぱいを使って可児江先輩みたいに見た目だけじゃなくて内面もイケメンな人と結婚すればいいんですっ!」
「私にとって西也くんは内側も誰よりもイケメンなのよ」
目を閉じてゆっくりとつま先立ちの姿勢を取っていくいすず。少女の可憐な唇が西也へと迫っていく。男の子な西也はいすずのアダルトな魅力に硬直して動けない。椎菜がツインテールをぴょんぴょんさせてもいすずは止まらない。
いすずの唇が重なるその直前の瞬間だった。
「待ってくださいっ!!」
少女の凛とした大きな声が通路内に響き渡る。聞き覚えがあるその声にいすずも行為を続けられなくなってキスを止めて声の主へと振り返った。
「ラティファさま……」
いすずはとても戸惑った表情で仕えている主を見ている。
「ラティファ。いすずの様子がさっきから変なんだ」
キスが未遂に終わったことを心の中で残念に思いながら姫殿下に助けを求める。ラティファは毅然とした態度で西也に驚愕の事態を告げた。
「いすずさんはチョロイン彗星の隕石に接触した影響で、チョロイン化が進行してしまっているのですっ!!」
「なんだってぇ〜〜〜〜っ!!」
「チョロインって何なのでしゅか?」
チョロインという言葉を聞いたことがなかった少女は大きく首を傾げた。
『次のニュースです。チョロイン彗星が日本時間の今夜10時半頃地球に最接近します。隕石欠片の落下の可能性もありますので東京都甘城市にお住まい・お勤めの方はその時間の外出をお控えください』
1月前半のある金曜日の夕方。事務棟の執務室で書類に目を通していた千斗いすずは手を休めて顔を上げテレビへと目線を向けた。
テレビでは中年男性のニュースキャスターが面白おかしい口調でこの彗星が如何に珍しいものかを力説している。正直、その話自体はどうでも良かった。いすずが気にしていたのは他のことだった。
「10時半に最接近。甘城市にお住まい・お勤めの方は外出を控える……このパークは9時閉園だから大丈夫よね」
いすずは甘城ブリリアントパークのゲストとキャストの安全を気にしていた。けれど、彗星の到着時間を考えれば臨時に早期閉園する必要もなさそうなので安心できた。
そしていすずが再び仕事に取り掛かろうとしたタイミングで事務室の扉が開いた。
「会議が思ったよりも長引いてしまった」
可児江西也が会議を終えて事務室に戻ってきた。
「会議室は暖房が効きすぎだぞ。暖房費が勿体無い」
汗を掻いたのか西也は髪を掻き上げてみせた。その仕草に思わずドキッとしてしまう。
「…………あっ」
昨年の夏頃から西也のちょっとした仕草に胸を締め付けられることが多くなった。心臓が高鳴り頭が火照って仕方がない。
その体調不良の原因が何なのか。もう見当は付いている。彼女にとってライバルと呼べる存在がいるから。西也に向けられるライバルの熱っぽい表情と瞳がいすずにその正体を悟らせている。
けれどいすずは意地っ張りなので決してソレを認めない。それに理論武装も固めている。
「……姫殿下を裏切るなんて私にはできない。それに、私と可児江くんは同じ室内で働いているのよ。気まずくなったり仕事が手に付かなくなったりしたら大事だわ」
ソレは間違いであるし、万が一間違いでなかったとしても倫理的に許容できない。だからソレを認めることも追い求めることもない。それがいすずの自己認識だった。
「おい、千斗。聞いているのか?」
肩を揺さぶられてハッと気付く。我に返るととても近くに西也がいた。30cmと離れていない距離に西也の凛々しい顔があった。
一瞬にして頭に血が集まり平常心でいられなくなる。心臓がうるさい。西也の目を見ていられない。
「なっ、何よっ!?」
目を逸らしながら、つい、ツンっとした態度を取ってしまう。このところ西也に対して特に顕著な反応。間近でどうしても西也の顔が見られない。恥ずかしくてとても無理。
「質問しているのは俺の方だ」
「だっ、だから、何?」
「会議に出る前に整理を頼んでおいた書類はどうなっていると聞いているんだ」
「ああ。それなら、ここに」
西也の顔を見ないまま書類を渡す。けれど、顔を一切見ようとしないいすずに西也は苛立ちを覚えたようだった。
「何故俺を見ない? 何か疚しいことでもあるのか?」
「別に見ていないわけではないわ」
咄嗟に反論したら西也の更なる不信と怒りを買ってしまった。
「嘘を吐け。今も見ていないだろうが」
「見る必要性を感じていないから見ていないだけのことよ」
「それは幾ら何でも俺に失礼だろう」
西也が更に距離を詰めていすずを睨んでくる。西也のイケメンにジッと見つめられてしまい、いすずの心臓は最高潮に高鳴った。
「かっ、勘違いしないでよねっ! 私は可児江くんのことなんて何とも思ってないんだからっ! 顔を見る価値なんて少しもないのよっ!!」
ついつい、ツンっとした態度で大声で叫んでしまう。恥ずかしくてイライラして叫ばずにはいられなかった。そんないすずに西也はますます疑わしい瞳を向ける。
「何だその、ツンデレのテンプレみたいな台詞は? 深夜アニメに汚染でもされたか?」
「私がそんな安っぽい深夜アニメヒロインみたいなツンデレなわけがないでしょ」
いすずはどうしても素直になれずツンとした態度と言葉を続けてしまう。
「そんなことはわかっている」
西也は大仰しく頷いてみせる。
「世のリアルにツンデレなんて女が存在するわけがない。ツンとした女は100%ツンで、デレることなど永遠にありはしない」
「えっ?」
いすずが目を大きく見開いたまま顔が固まってしまう。
「ツンとした女は永遠にツンとしたままだ。嫌われているだけのことだ」
「なっ、何を、言ってるの?」
いすずの体が大きく震える。西也は今、とても恐ろしいことを言っている。いすずにとってはそうだった。
「ツンデレなんぞリアルには存在しないという世の真理を説いただけだ」
「で、でも、好きな子に素直になれない人は結構いるんじゃないかしら……」
「そんなのは精神的に未熟な小学生男子だけだ」
とりつくしまもないツンとした言葉。いすずは体を震わせながら反論する。
「可憐な乙女が自分の想いとは反対の態度をついつい取ってしまうって少しはあるんじゃないかしら……」
「ない。芸能界にいた時に清純派とか呼ばれる女優やらアイドルやらの腹の黒さなら散々見せられてきたからな。断言する。女が攻撃的な態度を取るのは敵意を隠す必要がないからという打算に過ぎん」
友達も彼女もおらず、おまけに幼いころに大人たちの人間の裏側を散々見せ付けられた西也はツンデレの存在を一切信じない。
「それってつまり……」
いすずは言葉を切った。口に出すのが恐ろしかった。
可児江くんは私が貴方のことを嫌っていると思っているの?
もし、その問いに西也が首を縦に振ってしまったら。
嫌われている人間を好きになる者はそうはいない。まして相手は人間不信の気が強い西也。いすずの自分で認められない熱い想いは成就しないことが確定してしまう。
そんな恐ろしい展開に繋がる疑問を発するなんてできるはずがなかった。
「何でもないわ」
話を中断するしかない。そしてこれ見よがしに書類に目を通し始める。そんないすずを見て西也もこれ以上会話を続ける気はなかった。
「この週末さえ乗り切れば、とりあえず1ヶ月近くに渡って続いた特別営業も終わりを告げる。最後の気合の入れどころだぞ」
平日の月曜日から金曜日までの来客数は全部合わせても週末や休日1日の来客数の半分にも及ばない。それゆえに明日からの土日は決戦となる。
「わかっているわ」
いすずは西也を見ないまま頷いて返した。どうしても西也の顔が見られなかった。
夜10時半になった。テレビの報道通りならばチョロイン彗星が地球に最接近する時間。
千斗いすずは電気の消えた部屋で入浴しながら窓の外の夜空を眺めていた。
「ハァ。今日もまた、素直になれなかったわね……」
大きなため息が漏れ出てしまう。西也を意識し過ぎるあまりコミュニケーションが危機レベルに取れなくなってしまっている。そのせいで最近は西也を怒らせてしまうことがしばしば。西也への想いが強まるのに反比例して西也からの好感度は下がってしまっている。
「このままじゃ、本当に秘書の座を降格。なんてこともあり得るわね……」
かつて感じた脅威をまた思い出してしまう。映子、美衣乃、椎菜に秘書の座を奪われてパークにもメープルランドにも居場所がなくなってしまう恐ろしい未来を。
事務処理能力では誰にも負けない自信はある。けれど、コミュニケーション能力の欠如が生む弊害は、西也が支配人代行になってからの経営の回復、キャストたちの士気向上を見ていて痛いほどにわかっている。
西也に対してまともな意思疎通が取れない現状で自分の地位は決して安泰ではない。
では、どうすれば安泰になるのか?
それはつまり、西也と接する際に恥ずかしい、照れくさいという感情がいちいち浮かばなくなればいい。
「やっぱり、可児江くんと今とは違う関係になるのが一番だわよね……」
西也本人がいなければもう少し色々と素直に妄想を働かせられる。
入浴中の自分の裸身を見ながら違う関係になった2人を思い描いてみる。
3秒で頬が赤く染まり、5秒で顔全体が染まり、10秒で体全体が染まった。12秒で限界を迎えて鼻から赤いものが流れた。
「なっ、何を考えているのよ、私は? あんな、自分から可児江くんを誘惑するなんて。しかも上に乗るなんて……あれじゃあミッチそのものじゃない」
いすずは自分の妄想に恐怖した。
「私は可児江くんともっと健全な関係を築きたいだけなのよ……」
再び妄想に耽ってみる。
いすずの凛々しい顔が一瞬にして崩れてデレデレになる。今度は鼻血が出ていない。
「パークの支配人代理の秘書から、可児江くん専門の人生の秘書になって専業主婦になってしまった。けど、これは仕方ないわね。可児江くんがそう望んだのだから」
団地妻になった自分になかなかの高得点を与える。けれど、与えてから慌てて首を横に振った。
「私は可児江くんのことなんて何とも思っていない。それに、姫殿下の片思い相手に対して略奪愛だなんてとんでもない」
ラティファの近衛兵である自分のポジションを思い出す。両手で水をすくって眺めながら大きく深呼吸を繰り返す。心の動揺が段々と収まっていく。
「明日も早いし。そろそろお風呂から上がって寝ようかし……っ!?!?」
いすずが気分を切り替えたその時、夜空が激しく光った。そして、メープル城がある方角から爆発音らしきノイズがいすずの耳に入ってきた。
いすずの周りの部屋は騒いでいる様子がない。この女子寮の誰も空が光ったことにも爆発音にも気付いていないらしい。けれど、周囲が無反応な分、いすずには危機感が宿った。
「ラティファさまが……危ないっ!!」
もし、あの光と爆発音が暗殺者からのメープル城への強襲であったなら。その存在に気付く者が少ない方がいいに決まっている。
いすずは下着を付けずに灰色のスウェットだけ身に付けるとメープル城に向かって駆け出していった。
「ラティファさまっ!!」
マスケット銃を2丁構えながらラティファの寝室に入り込む。失礼を承知での無許可での突入。
しかし、室内のどこにもラティファの姿はなかった。ツボを動かして緊急脱出を図った様子も見られない。
「まさか……連れ去られた?」
寝室に上がってくるまで警戒に警戒を重ねていたが怪しい人物・物ともに見なかった。となれば、犯人はテラスからラティファを連れ去ろうとしているのかもしれない。
そうでなくても一刻も早くラティファの行方を確かめなくてはならない。いすずは危険を承知でテラスへと駆け出て行った。
「姫殿下っ!!」
ラティファは暗い空中庭園の中心部付近に立っていた。周りには誰もいない。少女は落ち着いていすずへと振り返ったので誰かに脅されて行動しているわけでもなさそうだった。
少し安心し速度を緩めながらラティファへと近寄っていく。
「いすずさん。こちらに来る際にはお気をつけください。チョロイン彗星の隕石の破片がそこかしこに散らばっていて危ないですので」
「隕石の破片?」
いすずは地面へと目をやる。ラティファの立っている前方の地面がわりと大きな円状に抉れている。ラティファの話通りならあそこに隕石が落下したことになる。そして、その破砕によって周囲の地面も大きく傷ついていた。レンガや土に混じってこのテラスには存在しない石が混じっている。どうやらこの石が隕石の破片らしい。真偽の程は不明だが。
「お怪我はありませんか?」
「はい。幸いにして寝室まで隕石落下による被害は蒙りませんでしたので」
ラティファの返答を聞いて更に安堵する。ほとんど歩く速度に変わった。
「いすずさんはわたしを心配して駆け付けてくださったのですか?」
「はい。私は姫殿下の近衛兵ですので」
少し鼻がむず痒くなる。最近は支配人代行秘書としてばかり働いていてラティファの従者としてはほとんど仕事をしていない。そんな自分が近衛兵であることを姫に向かって述べるのは照れ臭かった。
いすずはラティファへの返答に気を取られていた。それはつまり、足元がお留守になるということ。
「いすずさん。足元にバナナの皮がっ!」
「えっ?」
いすずがバナナの皮の存在に気が付いた時には既に遅かった。視界いっぱいに星の少ない夜空が見えていた。
足を滑らせて後頭部から地面へと叩き付けられた。銃を持っていたので受け身もまともに取れなかった。
「くっ!?」
更に悪いことに、いすずが後頭部をぶつけた地点には5cmにも満たないチョロイン彗星の隕石の欠片が落ちていた。
「いすずさ〜〜〜〜んっ!?」
隕石の欠片に頭をぶつけた瞬間、代わりに悲鳴を上げたのはラティファの方だった。
軍人であるいすずは肉体的苦痛を感じても悲鳴を上げないように自分を律している。けれど、それは痛くないことを示しているのではなく痛くても叫ばないことを意味していた。
ラティファが懸命に呼び掛けてきたがその言葉の内容が頭に入らない。
何が何だかわからないままいすずの視界と意識は黒く塗りつぶされていった。
『可児江さまに駆け付けていただけて本当に助かりました』
『いや。俺はたまたま仕事の都合でパークに戻っていたに過ぎん。それよりも、千斗の容態の方が気掛かりだ』
『はい。咄嗟に銃を杖にして激突の衝撃を和らげたようなので頭の傷自体は大したことないと思うのです。ですが、気になることがあります』
『気になること?』
『いすずさんが頭をぶつけたのはチョロイン彗星の欠片です。チョロイン彗星は昔から乙女の人格に影響を与えると言い伝えられており、特に魔法の国の未婚の若い女性の言動に大きな影響を与えるとされています』
『魔法の国絡みならそういうこともあるのだろう。だが、それならばラティファも危ないのではないか?』
『…………私なら大丈夫です』
『そうなのか?』
『はい。私は既に可児江さまに……ですから』
『えっ? 何て言ったんだ?』
『とにかく、私は大丈夫です。ですが、いすずさんにどのように影響を与えるかはわかりません』
『わかった。目が覚めたらいすずにはゆっくり静養するように厳命だな』
「……ここ、ラティファさまの寝室?」
いすずは目を覚ましたらラティファの寝室のベッドに寝ていた。その突然の事態にひどく恐縮し困惑する。
近衛兵であるいすずにとってラティファのベッドを占拠してしまうなど恐れ多いことだった。自分がベッドを占拠している間、ラティファはどこで寝ていたのかとか色々頭の中に浮かんできてしまう。自分の体調を心配する前に。
「いすずさん。お体の具合はいかがですか?」
上半身を起こしたところ、ラティファに声を掛けられた。気付かなかっただけで隣の椅子に座って控えていたらしい。守るべき主人の存在に気付かなかったことに落ち込みながらも、それを態度に表さないように気を付ける。
「はっ。体のどこにも異常はありません」
敬礼しながら答えてみせる。不自然に畏まってしまっているのだが、いすずはそれに気付いていない。
「頭痛はありませんか?」
「いえ。特に」
答えながら何故自分がラティファのベッドで寝ているのか考えてみる。記憶はすぐに繋がった。ラティファの様子を見に来て転倒し隕石の欠片に頭を打って気絶したことを。
それを認識するといすずはどうにも気分が落ち着かなくなってしまった。
「丸1日眠りに就かれたままだったので心配しましたよ」
「丸1日? それでは今は……」
「日曜日の午後1時頃ですよ」
いすずの顔から血の気が一瞬にして引いた。
「姫殿下には大変な失礼を働いてしまいました。申し訳ございませんっ!!」
勢い良く頭を下げる。頭突きでベッドを叩き割りたい心境だった。
「どうしてですか? いすずさんはわたしを心配して駆け付けてくださったではありませんか。失礼なんてとんでもないです」
「ですが、バナナの皮に転倒して気絶などという恥を晒してしまいました。そして長時間ベッドを占拠。情けない限りです」
喋りながら気絶した後、どうやって自分がここまで運び込まれたのか気になった。ラティファの力ではいすずを寝室のベッドまで運ぶことはとてもできない。誰かを呼びに行ったのだろうが、夜中に苦労を掛けた図を想像すると穴の中に飛び込みたくなる。
「姫さまには私をここまで運んでいただくのにとんだご足労を」
「いえ。あの後すぐに可児江さまが駆け付けてくださったのです」
「可児江くん、が?」
ドキッと心臓が高鳴った。西也の存在を知らされただけなのにいつも以上に興奮している自分がいる。
胸が熱くなり過ぎておかしくなってしまいそうだった。幾ら何でも変だった。
でも、その胸の熱さが、普段とは違ってとても心地良くて。快楽の渦へと引き込まれているようなそんな感じを受ける。
そんな普段とは違う心持ちのいすずにラティファの次の一言はクリティカル・ヒットとなった。
「可児江さまがお姫さま抱っこしていすずさんをこのベッドまで運んでくださったんですよ」
「可児江くんが……お姫さま抱っこで私を運んだっ!?」
それは、いすず覚醒の瞬間だった。いすずの表情が晴れ晴れとしたものに変わる。
「そう。私は可児江くんだけのお姫さまになるしかない。そういうことなのね」
「あの? どうされました?」
いすずの態度と言動が急に変わってしまったことでラティファは目を丸くしている。そんな主君に向かっていすずは深く深く頭を下げた。
「ラティファさま。申し訳ありません。忠臣は二君に仕えずと申します。私は可児江くんの妻となり彼に生涯を捧げるのでラティファさまにこれ以上お仕えすることはできません」
ラティファが蒼い瞳を白黒させた。
「あの、いすずさんと可児江さまはお付き合い、されているのでしょうか?」
ラティファの声は微かに震えていた。彼女にとっては好ましくない宣言がなされてしまった。内心で激しい動揺を覚える。
「いいえ。ですが、可児江くんにお姫さま抱っこされた以上、私は彼のお嫁さんになるのはもう決まっているのです」
「あの、それはいすずさんのお考えであって、決定事項ではないと思うのです。私も、お姫さま抱っこされたことありますし」
控えめに右手を挙げながらも同意しないラティファ。そんな彼女を見て、いすずはピンっときたようだった。
「そう言えば、姫殿下も可児江くんに恋慕の情を抱いていましたね」
「ふぇええええええぇっ!?」
ラティファが珍しく素っ頓狂な声を挙げた。本人的には秘めたつもりの想いを他人の口から発せられてしまったのだから。
「私とラティファさまは恋敵、ということになりますね」
「恋敵……」
ラティファの白い肌が完熟トマトよりも赤く染まり上がる。西也のことを好いている自分を改めて認識してしまう。
「ですが、勝つのは私です。可児江くんのお嫁さんになるのは胸の大きなこの私ですので」
主君に対する言葉とは思えないほどに上から目線の物言い。けれど、ここまであからさまな態度を取られると逆に落ち着くことができた。
そして、いすずがこうなってしまった原因についても推測がついた。
「やはりチョロイン彗星の隕石と接触したことで人格に影響を受けてしまって……」
いすずが変わってしまったのはチョロイン彗星の欠片に頭をぶつけてしまったからに違いなかった。
けれど、ラティファが聞いていたのといすずが見せている症状は少し違う。ただ、違うのも当然のことかもしれないとラティファは考えた。何故なら──
「とにかく、今日は1日ゆっくりとご静養なさってください。お仕事への復帰は明日以降ゆっくりとなされば良いかと」
「いいえ。私は今すぐにでも復帰します。パークにとって今日は正念場です。それに、可児江くんの元へ1秒でも早く行きたいのです」
いすずはラティファの提案を拒んだ。それは彼女の仕事に対する責任感というよりも西也への想いのためであることが見て取れた。
「しかし、まだ目が覚めたばかりのお体です。ちゃんとした検査もしていませんし……」
「私は一刻も早く可児江くんの元に行きたいのです。行かせてください」
「支配人としてはキャストのみなさんの健康が第一です。いすずさんのその願いは聞き入れることはできません」
ラティファは滅多に行使しない支配人の権限をチラつかせた。けれど、それは西也への想いを逆に膨れ上がらせてしまった。
「嘘です。ラティファさまは私を可児江くんに近付けたくないから休むように命令しているのです」
「ふぇっ!?」
思ってもみなかった反論にラティファは開いた口が塞がらなくなってしまう。
「私は別に可児江さまのことを言っているのではなく……」
「可児江くんを独り占めしたい姫殿下のパワハラには屈しません。私は可児江くんの元へ行きます」
いすずは立ち上がるとよろける体で寝室を出て行こうとする。
「無茶です。いすずさんは40時間眠りっ放しだったんですよ。その体で働きに出られるのは無謀です」
追いすがるラティファの手をいすずは振り切った。
「姫さま。私は愛に生きます。もう、貴方の近衛兵を続けることはできません」
いすずは病み上がりの体で走り出す。
「いすずさんっ!」
ラティファは叫ぶ。けれどいすずは振り返らない。走り去ってしまった。
「やはり、チョロイン彗星が人格に多大な影響を及ぼしていますね。早く、可児江さまに知らせないと」
ラティファは電話へと急いだ。けれど、いすずは優秀な軍人だった。ラティファがすぐに連絡できないように電話線を断ち切ってから部屋を出ていた。
「千斗がいないとさすがに仕事がキツいな」
西也は2人分の仕事をこなしながらその表情を疲労で歪めていた。
12月1月と続いた特別営業も今日が最終日。けれど、その最終日と前日を秘書のいすず抜きで営業している。いすずしか把握していない業者の出入りのスケジュールなどがあり西也は対応しきれないでいた。
「前かがみです 前かがみです 前かがみです 前かがみですっ!」
「メガネキラリーン」
トリケン、アーシェたちを助っ人として招集し力を借りてはいるものの、普段とは勝手が違うので彼らも力を発揮しきれない。西也は今日の営業が大きな問題もなく終了してくれることを祈りながら1分1分と過ごしていた。
そうしている内に午後も1時を迎えた。まだ営業は8時間残っているのに西也の体は既に疲労困憊だった。
「可児江さん。昼食を兼ねて少し休憩を取られたらどうですか?」
見るに見かねてトリケンが休息を提案してきた。
「しかし、今俺が抜けるわけにはいかんだろう」
トリケンは周りを見回した。西也の目には彼同様に疲労困憊した救援要員の顔が見えた。
西也の焦りが彼らのプレッシャーとなって重苦しい雰囲気を作り、仕事の効率を下げているのは疑いようがなかった。
「わかった。順次昼食休憩に入ってくれ。俺も一時席を外す」
西也は他のスタッフの気力を回復させる目的もあって一時事務棟を離れることにした。
西也が事務棟から出た丁度その時だった。
「可児江くんっ!!」
スウェット姿のいすずが大慌てで西也の元へと走ってきた。
「千斗。お前、走って大丈夫なのか?」
いすずの行動に強い懸念を抱く。ラティファからの報告では正午を迎えてもいすずはまだ眠り続けているということだった。そのいすずが走って自分の元に向かってきている。ただごとではなかった。
「可児江くん。私のことを心配してくれてるの? ……やっぱり、私は彼と結ばれる運命にあったのね」
いすずがやたら潤んだ瞳を向けてきた。いきなりの色っぽい表情に西也は焦る。
「当たり前だろ。お前が頭を打って気絶したってラティファが大騒ぎしてたんだからな」
「もぉ。私と話している時に他の女の名前を出さないで」
プクッと頬を可愛らしく膨らませるいすず。いすずは他の女にあまり気を使わない。けれど、ラティファの名前を出したのに他の女の名前呼ばわりは不自然だった。けれど、病み上がりなので頭がまだ働いていないのかもと思い直すことにする。
「なあ。本当に大丈夫なのか?」
「ええ。もう平気よ」
まだ青い顔を見せながらいすずが精一杯の引きつった笑顔を見せる。いすずは笑うのが下手過ぎた。
けれど、病み上がりのはずの彼女がここまで駆けて来るのはただごとではない。ラティファは病み上がりの人物を走らせることに決して賛同する人物ではない。緊急事態には違いなかった。
「もしかして、メープル城に何かあったのか? ラティファに何かあったのか?」
西也はいすずに詰め寄る。だが、いすずは不服そうな瞳を向けて西也を睨んだ。
「どうしてまた他の女の名前を挙げるの? 可児江くんは私と話しているのよ」
「まて、千斗。やっぱりお前、おかしいぞ」
いすずは西也の顔を恨みがましく睨むとその手を引っ張った。
「こっちに来て」
「どこに行くんだ?」
「人のいないところよ」
いすずがグイグイと西也を引っ張る。
「俺はこれから昼食を摂りに行きたいのだが」
「じゃあ、私と一緒に行きましょう」
「…………わかった」
断っても面倒なことになりそうなので西也はいすずと一緒に移動することにした。
「うふふふ。やっと人の邪魔が入らないところで2人きりになれたわね」
いすずに手を引かれるままに従業員専用通路へと移動した西也。だが、フードコート側の出口へと向かう中程まで来たところでいすずが立ち止まる。そして西也の首に両腕を回して密着し上目遣いに惚けた表情で誘惑を仕掛けてきた。
「一体何を考えている?」
「それはもちろん貴方のお嫁さんになることよ。うふふふ」
「冗談にしても過ぎるぞ」
妖艶ないすずが見ていられなくて目を逸らす。今のいすずには同級生の少女とは思えない大人の色香が漂っている。元々美人顔でスタイルの良いいすずのこと。色香の出し方さえ会得してしまえばそのアダルト度は映子に匹敵する。
友達もおらず彼女もいない人生を過ごしてきた西也には強過ぎる刺激だった。
「何故、冗談だと思うの? 私はこんなにも本気なのに」
いすずが足を絡めて太ももを押し付けてくるという大技に出てきた。この時、いすずがスウェットではなく生足だったなら……西也は完璧に籠絡されていたはずだった。
「いっ、いい、いい加減に、離れて、くれ……」
西也は理性を総動員していすずの攻勢に耐えた。
だが、一度の攻勢に失敗したぐらいで諦めるいすずではない。
「嫌よ。西也くんが私をお嫁さんにしてくれるまで放さないわ」
西也の首筋に息を吹き掛ける。呼び方を変えるおまけ付きで。
「せっ、千斗っ!?」
高校生にはなかなかできないエッチィサービスに西也は窮地に追い込まれてしまう。
「さっ。西也くん。私を貴方のお嫁さんにするって誓って。そうしたら……2人でとってもいいことし・ま・しょ?」
いすずは胸を西也へと押し付けた。ぷにょん。西也の耳は確かにそう音を聞いた。西也は知らなかったがこの時いすずの服装はスウェットのみ。下着を付けていなかった。
「なぁ〜〜〜〜っ!?!?」
西也の人生史上最大のピンチ。友達もおらず恋愛も知らないまま妻帯者にだけなってしまう。だが、いすずの柔らかくて大きな胸の感触は西也の心を瞬時に溶かしてしまう。
「おっ、俺は、千斗を……」
西也がハニートラップに陥ってしまいそうなその時だった。
「神聖なキャスト用通路で何をやってやがるんでしゅかぁ〜〜〜〜っ!!」
少女の大声が響き渡り密着していたいすずが反射的に体を離した。声の主は一見小学生にしか見えない幼い外見をしたこのパークのアルバイトキャスト中城椎菜だった。椎菜は両手にアトラクションで使う資材を抱えていたが、それを下ろして駆け寄ってきた。
「なんだ。貴方だったのね」
いすずの馬鹿にした声。安心した彼女は再び西也の腕を絡め取って体を密着させ始めた。
「ムッキーっ! 椎菜を見てまたくっつき直すなんて屈辱なのですっ!」
椎菜は両手とツインテールを振り上げて怒るがいすずは取り合わない。
「可児江くんだってAカップ以下の貧乳小娘には用がないでしょ」
いすずは挑発を止めない。けれど、その瞳には椎菜に対する明確な敵意が宿っている。いすずは椎菜を恋敵として捉えその排除を企んでいる。
「いや。俺は別に胸の大きさにこだわりはない、ぞ」
西也はいすずから顔を逸らしながらおっぱい星人説を否定する。だが、いすずは一気に勝負に掛かった。
「西也くん。認めてしまいなさい。貧乳には興味がなく大きな胸が好きだって。そうすれば……この胸をいつでも西也くんの好きにしていいわ」
いすずの提案は椎菜だけでなく、彼女と同様に胸の起伏に乏しいラティファに対する攻撃でもあった。西也が巨乳大好き人間であることを認めればライバルが一気に2人も減る。いすずの勝利は確定的になる。
「いすず。お前、絶対におかしいぞ」
いすずの誘惑が露骨過ぎて西也もドン引きしてしまう。けれどいすずは退かなかった。
「おかしくてもいいのよ。貴方のお嫁さんになれれば私は他に何も要らないのだから」
「……ラティファがあの時に言っていたチョロイン彗星の影響というやつか? しかし、どう対応すればいいんだ?」
西也はいすずに対してどう対応するべきか困惑している。いすずの態度はいつになく好戦的で椎菜は激しく怒りを露わにしている。聞いている限りではいすずはラティファにも喧嘩を売ったようだった。となると、この先会う女性会う女性全てに喧嘩を売りかねない。
いすずを放っておくわけにはいかない。けれど、こうして密着されていると今度は西也がダメになってしまいかねない。いすずの誘惑は本人の強烈な色香と相まって破壊力は抜群。押し切られて結婚の承諾をしてしまいかねない状況だった。
「さあ、西也くん。私のことをお嫁さんにして。そして、私をメチャクチャにして」
「ぶっ!?」
「ムッキーっ!! いい加減、先輩から離れやがれなのですっ!!」
硬直する西也。誘惑の手を止めないいすず。怒りっ放しの椎菜。
昼休みの時間が終わってしまい、人気のなくなった通路で援軍はなかなかやって来なかった。
西也の神経はラティファがやってくるまでずっと針のむしろだった。
「いすずさんはチョロイン彗星の影響でチョロイン化が進んでいます。ですが、いすずさんは本当の意味ではチョロインにはなれないんです」
ラティファは王女らしい凛とした振る舞いで西也に向かって告げる。
「それはどういうことなんだ?」
「いすずさんはじっくりと時間を掛けて、様々なイベントの果てに可児江さまに落とされました。でも、それを意地っ張りな性格が災いして認めることができないツンデレさんなんです」
「…………自分はツンデレだっていすずも言っていたな」
漫画の世界の話をされているようで西也はピンとこない。今になってもいすずが自分のことを好きだと言っているのは彗星の影響だとどうしても思ってしまう。
「だから、いすずさんの場合は彗星の影響で、ツンがデレに変わっただけなんです。ですがそれはチョロインとは本質的に異なるのでとても不安定な影響を与えているのです」
「だからやたら好戦的なのか……ヤンデレかと思ったぞ」
いすずはツンデレなのでチョロイン化が変に作用している。魔法の国のお姫さまに話されると何となくそんな気分になる。
「本当のチョロインとは……例えば、椎菜さんのような方をおっしゃいます」
「ええっ!? 椎菜ですかぁっ!?」
椎菜は突然話を振られて驚いた。ラティファはそんな椎菜を正面に見る。
「質問に正直にお答えください」
「はっ、はい」
椎菜はさっきまでの怒りモードから一変。すっかり小動物に戻っていた。
「椎菜さんは、可児江さまに登校中に挨拶された時にどう思いましたか?」
西也は肉襦袢騒動の時のことを思い出した。思えばあれから椎菜に朝会ったらちゃんと挨拶するようになった。
「椎菜は、ウェディングドレスを可児江先輩と一緒に選んでいるシーンを想像しましたぁっ!!」
椎菜は大声で答えた。
「「はあっ?」」
西也といすずの声が思わず揃ってしまう。朝挨拶されると何故結婚に繋がるのかまるで理解できない。けれど、ラティファだけはほっこりした表情で椎菜を見ている。
「さすがは椎菜さん。とても良いチョロインぶりですね」
「そんな風に褒められると照れちゃうのでしゅ」
頭をポリポリ掻いてみせる椎菜。
「それでは、肉襦袢事件を切り抜けて可児江さまに褒められた時はどう思いましたか?」
「椎菜は、4人目の子どもの名前を先輩と一緒に考えているシーンを想像しましたぁっ!」
椎菜は大声で答えた。
「「はあっ!?」」
また西也といすずの声が揃ってしまった。
「何で4人目なんだよ?」
西也は呆れながらもつい気になって尋ねてしまう。
「それは、先輩が頑張り屋さんで子沢山を椎菜に望んだからです。椎菜としては夫の望みに応えないわけにはいかなかったのでしゅ」
椎菜は両手を頬に当ててイヤンイヤンしながら答えた。
「……貴方って子どもを産める体になってるの?」
いすずの問いは椎菜の耳には届かなかった。
「本当のチョロインとは、このようにほんの少し優しくされただけでも特定の殿方に自分の人生の全てを委ねてしまいたくなるものなのです」
椎菜という実例があるだけにラティファの言葉は説得力があった。
「かくいうわたしも……可児江さまに支配人代行を引き受けていただけることになった時に、わたしの生涯の全てを捧げようと決意いたしました。ポッ」
ラティファは頬を赤らめた。
「えっと……それは、ラティファからの告白。とみなしていいのか?」
「はい。わたしは可児江さまを心よりお慕い申し上げております。どうか、一生涯お側に置いてください」
潤んだ瞳のラティファからの告白。西也の体温が上昇していく。いすずのが強引な色仕掛けだとすると、ラティファは清純派の正統派な告白。擦れてしまっているものの、ピュアな一面を捨てきれない西也の胸に響く告白だった。
「ズルいのです、姫さま。椎菜も、椎菜も可児江先輩のことが大好きなのでしゅっ!?」
椎菜は告白の途中で噛んだ。涙目になっている。とても痛そうだった。
とにかくこれで、西也は1日の内に3人の少女から告白を受けることになってしまった。
「その、ラティファもチョロイン彗星の影響を受けているんじゃないのか?」
複数の少女からほぼ同時に告白を受けてしまった西也は、話題を変えてしまうことでこの告白を何とかチャラにできないかと考えた。
可児江西也。人の心と正面から向かい合うことが苦手なヘタレボーイだった。
「いいえ。私は可児江さまに恋するチョロインですので彗星の影響は受けません。最初からチョロインな女性には彗星は無力なのです」
西也の企みはあっさりと崩壊する。
「中城は?」
「椎菜は昔から先輩のことが好きなのですよ。今度、一緒にお墓参りに行くのです。お父さんに紹介しますから」
ニッコリと微笑む椎菜。彗星の影響がない分だけ、ラティファと椎菜の方が厄介かもしれなかった。
「ラティファさまも中城さんも私の可児江くんを誘惑しないで。彼は私のものよ」
再び西也に密着して所有権を主張し始めるいすず。いすずは2人にはない武器で攻撃してくる。単純だが男の子には有効な攻撃。
「やっぱり、千斗をどうにかするのがとりあえずこの場を切り抜ける最低条件だな」
彗星の影響で攻撃的なデレに変わってしまったいすずを元に戻すことを優先する。今も顔がニヤけてしまいそうになるのを抑えるのでいっぱい。
「ラティファ。千斗を元に戻す方法は何かないのか?」
「…………危険な方法ですが、一つだけあります」
ラティファは表情を引き締めて小さく首を縦に振った。
「チョロインとはほんの少し優しくされただけで結婚生活まで夢見てしまう想像逞しい存在。なら、もっと優しくされれば……」
「妄想が許容量を超えてパンクしてもうチョロインでいられなくなる。元に戻るというわけか」
ラティファはもう1度首を縦に振ってみせた。けれど、そのラティファの言葉がかなり危険な提案であることは西也にもよくわかった。
「しかし、今の千斗に優しくなんてしたら……」
いすずを見る。
「うふふふ。私はいつでもお嫁に行く準備ができているわよ」
妖艶な笑みを浮かべる彼女はちょっとでも優しくすれば入籍まで持って行きそうな勢いだった。
下手な攻撃は西也の独身貴族人生に終止符を打つことになる。メープルランドでは人間界の民法は通じないがゆえにいつ結婚となってもおかしくない。
抜身の刀と刀を鍔付あう真剣勝負。
「ムッキーっ! 可児江先輩が千斗先輩に愛を示すなんて椎菜は見たくないのです」
「…………わたしも、見たくはありません。でも、仕方ないのです」
加えて、椎菜とラティファもこれから西也が取ろうとする行動に対して納得はしていない。やり過ぎれば今度は彼女たちが怒ってしまう。
ギリギリを狙わないといけない大勝負。
「さあ、西也くん。早く私をお嫁さんにもらって頂戴」
耳に息を吹き掛けられてクラクラする。いすずを嫁にもらっても悪くないような気分になる。だが、ここで誘惑に負けて結婚するのはダメな気がする。ラティファたちにも悪い。そして何より、こんな形で結婚してしまってはパークの支配人代行の仕事を続けられない気がした。
誘惑に打ち勝って西也一世一代の勝負に出る。
大きく息を吸い込みながら考える。いすずをメロメロにできる方策を考える。
「……とにかく息を切らさずに畳み掛けて口説くか。段々強度を上げていくことで千斗の限界点を見定めていくしかないか」
大胆にして慎重さを併せ持つ西也らしく安全策を取りつつ一気に勝負を決めることにする。大きく息を吸い込んで口説き方のネタを考えていく。
「よしっ」
西也は覚悟を決めるといすずの両肩をしっかりと抱いた。
「なっ、なななあっ!?」
いすずは激しく赤面しながら動揺している。隕石の影響で自分から行動に移れても西也からのアクションには弱かった。チョロインゲージ80。臨界まで後20。
「いすず。聞いて欲しいことがあるんだ」
甘いマスクを全開にしていすずの瞳を見つめ込みながらいよいよ告白に移る。
「いすず……西也くんが、私のことを、名前で、呼んでくれ…………プシュ〜〜っ?」
西也に名前で呼ばれたことでいすずは嬉しさと恥ずかしさが限界を超えて頭のブレーカーが落ちた。チョロインゲージ100。臨界。
「って、まだ何も言ってないぞっ!? 何でもう落ちてるんだっ!? おかしいぞ、お前っ!!」
あまりにも予想外の事態に西也の方が却って焦る。いすずの体をブンブンと振りながら大声で呼び掛ける。けれど、満面の笑みを浮かべて気絶するいすずがそれに答えることはない。
「いすずさんは、可児江さまに優しくされたという自覚がないだけで立派なチョロインだったのですね」
「椎菜も可児江先輩に名前で呼ばれたいでしゅ」
ラティファと椎菜が呆れながら見守る中、こうしてチョロイン彗星事件は解決の時を迎えたのだった。
事務棟に残っていたトリケンやアーシェに多大な迷惑を掛けながら。
「昨日の私が言ったことは、全部変な彗星の影響で私の本心とは関係ないのよ。その、全然覚えていないのだけど」
「ああ。それでいい。そうでないと頭が痛いからな」
翌日月曜日の夕方。学校が終わってからパークへと足を運んだ西也はいすずとともにメープル城のテラスへと足を運んでいた。
特別営業が終わって来場者数が少ないこともあり、手の空いている男性キャストはテラスの修復及び隕石の欠片の回収を行っている。
西也としては昨日のようなトラブルが起きるのはもう御免だった。
そしていすずは昨日のことを何も覚えていなかった。いすずの記憶では、金曜日の夜に転倒して隕石の欠片に頭を打った後、気が付いたら月曜日の朝に自室で寝ていたという。
騒動を覚えていないという何ともはた迷惑な隕石だった。だが、西也にとってそれは都合良くもあった。昨日の告白と誘惑がいすずの本心なのかはわからない。
女心の機微がよくわからない西也にとっては、ああいう強引な形での求婚は勘弁して欲しかった。恋愛はお手て繋いで交換日記からという大昔の中学生みたいなことを思っていたりする。
「あっ。西也先輩。ここにいたんでしゅね」
ミュージックシアターでのステージを終えた椎菜が西也の元へとやってきた。
「ああ、椎菜。ご苦労さま」
「はいっ、ですっ?」
満面の笑みを浮かべて答える椎菜。だが、そんな西也と椎菜のやり取りがいすずには面白くない。
「いつの間に貴方たちは名前で呼び合うようになったのかしら?」
いすずが目を鋭くして西也に問う。
「昨日、色々あったんだよ」
「はいでしゅ」
昨日の従業員通路での出来事は西也としても他人に知られたいことではなかった。迷惑料と口止め料代わりに椎菜の言うことを1つ聞くことにした。その結果が、互いの名前呼びだった。
「私だって名前で呼んでも呼ばれてもいないのに……」
いすずは不満そう。
「なら、名前で呼んでやろうか?」
「…………いいわ。なんか情けない事態に陥りそうだから」
いすずに昨日の記憶はない。けれど、体は昨日西也に名前で呼ばれた際の反応を記憶してしまっている。本能がアラームを鳴らしていた。
「西也さま。お茶が入りましたよ」
ラティファがポットを持ってやってきた。ラティファもまた、西也に対する呼び方を変えていた。そして、毎日のお茶への招待を確約することに成功していた。
「…………ラティファさままで呼び方を変えている。ぶ〜」
いすずの機嫌がますます悪くなる。
「だから、呼び方ぐらいいつでも変えてやるぞ」
「別にいいわよ…………もっと、ロマンチックな時じゃないと意味ないわ」
乙女は機嫌を取るのがなかなかに難しい。
不貞腐れるいすずの横でラティファはてきぱきとお茶の準備を進めていく。
そして準備を進めながら西也に微笑みかけた。
「実は、チョロイン彗星は未婚の若い女性だけでなく、25歳以上の男性にも著しく影響を与えるそうなんです」
「男のチョロイン……というか、少女がおっさんに惚れられてしつこく迫られたら。そのおっさんはすぐに痴漢かストーカーで警察行きだろうな」
「いえ、成人男性がすぐ惚れてしまう対象は少女ではなく……」
ラティファが言い掛けたその時だった。
「フモ〜〜〜〜っ!?」
「ミ〜〜〜〜〜〜っ!!」
「ロ〜〜〜〜〜ンっ!?」
「ピ〜〜〜〜〜〜っ!?」
「前かがみですっ!?」
清掃作業に携わっていたモッフルたちが一斉に転倒して激しく地面に頭を打ち付けた。
「たくっ! 大丈夫か……お前たちっ!?」
モッフルたちの元へと駆け寄っていく西也。
「あっ! いけません、西也さまっ!」
ラティファが慌てて叫ぶ。だが、西也は既にモッフルたちに手を貸して起こしている最中だった。そして起き上がったリアルキャストの面々は野獣な瞳を西也へと一斉に向けた。
「ハァハァ。何だか今日のボクはおかしいんだフモ。可児江西也を見ていると興奮が抑えられないんだフモっ!」
「はあはあ。ボクはもう男とか女とか小さいことはどうでも良くなったんだミー。可児江くんのお尻が欲しくて仕方ないんだミー?」
「ぜぇぜぇ。ボクは娘がいる健全な性愛者のはずなのに。もお、パパは異常な世界に足を踏み入れることに躊躇できないんだロンっ!」
「人気も知名度もないボクが生き残る方法。それは枕営業しかないんだピーっ!!」
「このトリケン、今までに様々なAVを見てきましたが……まさか男性に対してこのように前かがみになるとは思いませんでした。前かがみですっ!!」
一斉に襲い来る野獣たち。
「盛るなっ! ぎゃ〜〜〜〜っ!! 助けてくれぇ〜〜〜〜っ!!」
群がるケダモノたちを払いのけながら全速力で逃げていく西也。
「「「「「マッスル・ドッキングっ!!」」」」」
「やめんか、この変態どもぉ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
西也の悲鳴が夕日を浴びるメープル城に響き渡った。
「…………もしかして私って、あんな感じだったの?」
いすずの顔は青ざめている。
「さっ。冷めてしまわない内にお茶にしましょう」
「わぁ〜いですぅ」
どうにもならない現実に見て見ぬふりをして、女子3名はお茶に興じることにしたのだった。
「…………西也くん、か」
いすずは琥珀色の液体表面に自分の顔を映しながら小さくため息を吐いたのだった。
了
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pixivで発表した甘ブリ作品その7 | ||
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