艦これファンジンSS vol.33「花の想い、想いのかたち」
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 潮風がそよぐ岸壁に彼女は立っていた。

 優しげな目元、柔和そうな顔立ち、鉢金を模した大きなリボンは凛々しさと共に、どこか可愛らしさも感じさせる。ドレスにも制服にも似た茜色の衣装に身を包んだその姿は、気高く咲いた一輪の花を思わせた。

 だが、彼女の身は、鋼の艤装でよろわれていた。腕についたいくつもの砲、脚にしっかり固定された魚雷発射管。その姿が、彼女をして、ただの女の子ではないことを如実に物語っている。

 艦娘。人類の脅威、深海棲艦に対抗しえる唯一の存在。

 彼女の目は、眼下で海を駆ける少女たちに注がれていた。同じ艦娘であり、彼女にとっては後輩であり、教え子であり、時と場合によっては部下となる存在である。

「重心をぶれさせないで。高速機動は駆逐艦の命です。疲れがたまっても、自分の動きには細心の注意を!」

 彼女が声を上げ、やんわりと叱咤すると、教え子たちの「はい!」という返事が返ってくる。その声の張り具合を見て、彼女は思った。この調子なら、機動訓練後に射撃演習を行ってもついてこれそうね、と。

 教え子たちの食い下がり方が徐々にしぶとくなっている。それは教官である彼女にとっては喜ばしいことであり、事実、誇らしいことではあったのだが。

 それでも、艦娘たちを見守る彼女の顔はどこか浮かない様子だった。

 軽巡洋艦、「神通(じんつう)」。

 それが彼女の艦娘としての名前である。

 

 「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。

 それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。

 艦娘にとって、その司令官たる提督とは、上官であり、あるいは敬愛する存在であり、またあるいは目の上のたんこぶである。その折り合い方は艦娘それぞれにとって異なるものであるが、それでも「提督に選ばれた」という証である銀の指輪を持つことが、特別な意味を持つというのはどんな艦娘であっても認めざるをえない事実であった。

 

 話はその日の午前にさかのぼる。

 提督執務室。通称「マホガニーの扉」。

 職務においては静けさを好む提督のため、その執務室は通常は沈黙に包まれており、書類をめくる音とペンを走らせる音だけが響く。その緊張感に満ちた静寂が、この重厚な扉をして艦娘たちをして遠ざけさせている原因になっていることは想像に難くない。

 しかし、いまその執務室は喧喧とした声に満ちていた。

「だから、これはいったい何なの!」

 本日の秘書官を務める艦娘が、一冊の書類を執務机にたたきつけて言った。

 肩のところでふっつりと切った髪、目元にどことなく漂う色香、その肢体はすらりと引き締まりながらも女性らしい柔らかな輪郭を描いている。その左手の薬指には、銀の指輪がきらめいていた。

 この鎮守府の押しも押されぬビッグスリー、戦艦の陸奥(むつ)であった。

「……君とは前にもこんな押し問答をした記憶があるよ」

 軍帽を脱いでぱたぱたとあおいでみせる提督を、陸奥はじろりとねめつけた。

「そうね、そのときと同じ書類よね」

「わかってるなら、なぜ俺に聞く」

「何の目的でこんなものを取り寄せたのかってことよ」

 陸奥が手のひらをたたきつけたその書類には、桜の紋章の浮き彫りが施されていた。

 大本営じきじきに発行する特別な書式だ。

 その表にはこう大書されている――「ケッコンカッコカリ届出書」と。

「何の目的ってそりゃあな。ケッコンカッコカリは一人じゃできまい」

「そんなことはわかっているわよ。わたしが聞きたいのは――」

「――誰なのか、ということかい?」

 やけに余裕綽々で答える提督の顔を、陸奥はじとりとした視線で撫でた。

 陸奥の指に光る指輪はケッコンカッコカリの証である。提督はこれまでに三人の艦娘にその指輪を贈ってきた。

 最初は、艦隊総旗艦の呼び名も高い、長門(ながと)である。提督にとってはもっとも信を置いたパートナーであり、艦娘たちのまとめ役を担っている彼女がそれを受け取ることに誰も異存はなかった。

 次に指輪を贈られたのが、この陸奥であり、そして、大和(やまと)であった。陸奥は長門の姉妹艦であり、大和は鎮守府最強の艦娘である。これについては、当事者である指輪を贈られた三人の間でひと悶着あったのだが、外野の艦娘たちにとってはまた納得のいく選定であった。提督はスタイルの良い艦娘しか好みではないという、いわゆる「大艦巨乳主義」がささやかれる原因になったとはいえ。

 では、四人目はどうなるのか? これについては、艦娘たちの間では定期的に話題になる事柄であった。練度の高い艦娘が選ばれるとはいえ、先に挙げた三人以外はみなあと一歩でとどまっている状態であって、ぬきんでてこれといった艦娘がいないことも、噂話に花を咲かせる材料となった。

 いわく、提督の好みからして、次も戦艦の誰かである。

 いわく、最古参の重巡が選ばれる可能性が高い。

 いわく、今度こそ、空母陣の誰かだろう。

 いわく、地道に錬度を積み重ねている潜水艦である。

 あるいはいわく、ある駆逐艦に一目ぼれして練度を引き上げているらしい。

 そのどれも他愛のない与太話ではあったが――指輪を受け取っていた三人にとっては、表面上涼しい顔をして聞き流しつつも、捨て置けない話題でもあった。なんとなれば、自分のライバルが増えるのである。

 ひそかに「その時」がくることに身構えつつ、しかし、なかなか提督自身にそういった動きがないことから、少々気を緩めていた矢先のことである。陸奥としては、気が気でならない。

「まあ、誰を選ぶのかは提督次第だけれども――」

 ぷいと顔をそむけた陸奥は、そのくせ横目でちらりと提督を見やりながら、

「――変な子だったら、わたしたち黙っていないわよ」

「それは陸奥に長門に大和まで加わってお仕置きするということかい」

「あらあら、それ以外の何かに聞こえました?」

「パーで頬を張られるぐらいですめばいいがな……」

「ちょっと! 本当に変な子選んでないでしょうね!」

「心配いらん。たぶん、誰か分かればすぐに納得できるよ」

 提督はあおいでいた帽子をかぶりなおし、言った。

「先ほど呼んでおいた。もうじき来る――おっと、おいでなすったかな」

 その言葉に重ねるように、控えめに扉をノックする音がした。

「どうぞ。はいりなさい」

 彼のその応答に、扉が静かに開く。

 入ってきた艦娘を見て、陸奥は目を見張った。

 知らないわけではない。鎮守府では有名な艦娘だ。ただし、戦艦である陸奥にとっては馴染みが薄い。どちらかといえば駆逐艦から神とも尊ばれ、鬼とも称されていることだろう。小柄な背丈に、鉢巻を模した大きなリボンがよく似合う彼女は――

「もしかして、神通なの?」

 陸奥があっけに取られた様子でつぶやく。部屋にはいってきた神通は、半ば呆けている秘書艦には目もくれず、提督の前に来て、目の冴えるような敬礼をして言った。

「神通、まいりました」

「ご苦労――楽にしてくれていいぞ」

 提督が返礼して言うと、神通は敬礼をといたが、その平静な面立ちは変わらない。

 陸奥は、神通と提督の顔をかわるがわる見ていたが、ややあって、ふうと息をつき、

「まあ、そうね――神通なら仕方ないわ」

「だろう。なんといっても水雷戦隊のボスだ」

 提督がにやと口の端を持ち上げて陸奥に言った。

「宿将が宿将たるにふさわしい立場だとは思わないか」

「――あの、失礼ですが。何の話なのでしょうか?」

 不審そうに眉をひそめて神通がそう訊ねて、提督は咳払いをしてみせた。

「こほん。うん、神通。君に渡したいものがある。受け取ってもらえないだろうか」

 そう言って、提督はビロード張りの小箱を取り出した。ことりという音と共に、神通の目の前の執務机に置かれる。

 神通はまじまじとその小箱を見つめ、いったん手に取って開き、中を確認した上で箱を閉じ、そして再び箱を執務机に置いた。

 神通の瞳が揺れる。そこに浮かぶ感情は喜びでも驚きでもなく。

「……これを、わたしに?」

「そうだが」

「なぜ、わたしに?」

「受け取ってほしいから、ではだめかね」

「答えになっていません」

 そう言って神通はふるふるとかぶりを振り、そっと小箱を押しやった。

「――申し訳ありませんが、しばらく考えさせてください」

 小さく、静かな、だがきっぱりとした声。

 虚を突かれたように提督が目をぱちくりとさせる。それは陸奥も同じだった。

「ご用件はこれだけでしょうか」

「あ、ああ。うん。他にはない」

「それでは、失礼いたします」

 背筋をぴんと伸ばし、来たときと同じように目の冴えるような敬礼をしてみせてから、神通は執務室を後にした。

 見送る形になった提督と陸奥はしばし沈黙していたが、ややあって、

「あ〜〜〜、なんだ? なにかまずったのか、俺?」

 頭を抱えてみせる提督に陸奥はどこか愉快そうな顔で言った。

「あらあら、提督の渡し方が悪かったんじゃないの? 神通って結構きっちりしてそうだから、あんな放って投げるような形は良くないんじゃないかしら」

「そうかなあ。そうかもなあ。しまったなあ」

 机につっぷして自分を呪う言葉を吐き出し始めた提督。そんな彼に陸奥は歩み寄り、ぽんぽんとその背中を優しくたたいて言った。

「まあまあ、『考えさせてください』と言っただけで、『お断りします』じゃないから、まだ挽回する余地はあるんじゃないかしら」

「……本当にそう思うか?」

 涙目の提督に、陸奥はウィンクしてみせた。

「ええ。しばらくは様子見ておきなさいよ」

 そう言いつつ、陸奥はマホガニーの扉に目を向けずにはいられなかった。

 神通とはあまり言葉を交わしたことはない。

 ただ、任務で一緒になったときに、そのひたむきな姿勢が強く印象に残っている。

 長門が鎮守府艦隊総旗艦なら、神通は水雷戦隊総旗艦だ。

 その彼女のメンタリティ――誇りやプライドがどのあたりにあるのか。

 提督に請合ったものの、陸奥自身も把握はできないところではあった。

 

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「神通ちゃん、なんだか元気少ないね。だいじょうぶ?」

「そうだよ。なに? なにか悩み?」

 そう声をかけられ、神通は物思いの淵からはっと意識を戻した。

 目の前には、艦娘が二人座っている。

 一人は髪をお団子にまとめ、大きなくりくりとした瞳が人目を引く。その衣装は華やかなフリルで彩られ、制服というよりステージ衣装だ――軽巡の那珂(なか)である。

 もう一人は短い髪をこざっぱりと束ね、白いマフラーを首元に巻いている。その風貌はどこか挑戦的で溌剌とした印象を受ける――軽巡の川内(せんだい)である。

 神通も含めて三人とも姉妹艦であり、三人揃ったときはいつもそうするように、甘味処へ来てテーブルを囲み、思い思いにデザートをつついて談笑しているところだった。

 三人揃ったときは、というのは、末っ子の那珂が遠征要員で遠地へ出かけていることが多いからだ。それでなくても神通も川内も水雷戦隊の教育や、それを率いての出撃やらで忙しい。姉妹で揃ってゆっくり時間をとれる機会というのはなかなかない。

 談笑といっても、もっぱら話すのは那珂だった。それに川内が時折つっこみや茶々を入れ、神通は微笑みながら話を聞いて相槌を打つのが常だった。

「ごめんなさい、姉さん、那珂ちゃん。だいじょうぶよ、たいしたことじゃないから」

 神通は苦笑いを浮かべながらそう弁明してみせたが、

「そうかなあ。神通ちゃん、笑顔、しんどそうだよ」

 那珂が首をかしげながらじっと神通を見つめてくる。

 神通は内心たじろいだ。川内型軽巡の末っ子は鎮守府のアイドルを自称し、なにかと奇矯な言動が目につくが、洞察力や分析力は人並み以上なのだ。遠地への派遣任務が多いためドサ回りと揶揄する声もなくはないが、その実、那珂の練度は一線級なのである。「芸人はバカでは務まらない」は真実なのだ。

 助けを求めて川内に目をやると、長女はびしっとスプーンをつきつけながら、

「わたしにはわかるよ? あれだね? 提督に呼ばれたことに関係しているね!」

 姉の言葉は神通にとってはヘッドショットものだった。ずばり撃ち抜かれて内心もだえていると、

「えーっ、なんでなんで。どうして提督に?」

「そこまでは分からないけどさあ。どうもそこから神通の様子がおかしいんだよねえ」

「何か怒られちゃったとか? 駆逐艦の子が粗相して連帯責任とか」

「うーん、どうなんだろ。朝方、提督を見かけた感じじゃ機嫌よかったけど」

「じゃあ、何か提督が怒っているとかじゃないのかあ」

「そもそも神通に迷惑かける駆逐艦なんて、そんな度胸のある子いないよ」

「だよねえ。なんといっても鬼の神通ちゃんだもんねえ」

 那珂と川内がひとしきりさえずって、はははと笑ってみせてから、

「「で、提督に何を言われたの?」」

 二人揃って声を合わせながら、神通にずずいと迫ってきた。

 姉と妹に詰め寄られ、神通は身もだえし、頬を朱に染め、顔をうつむけ、

「あの……その……指輪を、受け取ってくれないか、って」

 消え入りそうな小さな声でそう答えた。

 それを聞いて、川内と那珂が顔を見合わせる。無言のまま川内が左手の薬指を示し、那珂がそれを見てうなずく。川内が右手の親指と人差し指でわっかをつくって、左手の薬指を通してみせると、那珂も同じ仕草をしてみせた。二人してうなずき、

「「もしかしてケッコンカッコカリ!?」」

 揃って声をあげるのを、神通は顔を赤くしながらたしなめた。

「こ、声が大きいです!」

 そんな神通の手を、那珂が握ってきらきらした目で見つめながら、

「神通ちゃん、すっごーい。あの提督に選ばれるなんて」

 その言葉に、川内がどこか遠い目をしながらお茶をすすりつつ、

「そっか、神通がケッコンねえ。まあ、この姉妹じゃお嫁さんにしたい一位だもんな」

「ケッコンじゃなくて、ケッコンカッコカリです」

 小さな声で神通がそう訂正してみせると、川内はひらひらと手を振って、

「一緒だって。カッコカリでもお披露目パーティするんだから」

「すごいなあ、披露宴だね。そこで指輪の受け取りやるの?」

 弾む声でそう訊ねる那珂に、神通は困ったような顔で、ためらいがちに答えた。

「それが――提督には、保留にしてほしいと言ってあるの」

 神通の言葉に、那珂がしおれたように握った手を下ろし、川内がかたんと湯飲みをテーブルに置く。ややあって、二人同時に食いつくように、

「えーっ、なんでなんで? ケッコンなんだよ?」

「どうしてさ、この上ない栄誉なのに、もったいない」

 二人してそう訊ねてくるのに、神通は大きく一呼吸おいて、言った。

「――その、わからなくなってしまって」

「わからない?」

「なにがさ?」

「提督がわたしをどう思っているのか。わたしが提督をどう思っているのか。ケッコンカッコカリなんて考えたことなかったから、まさか選ばれるなんて思っていなくて。でも、いざ指輪を目の前にしたら、悩んでしまって。本当に、もらってしまっていいものか」

 そう言って、神通は目を細めて、困ったような顔で、

「変だな、って思ってる。でも、なあなあで受け取りたくなくて――わたしにも、提督にも、その気がないのなら、受け取るべきじゃないと思ったの。お互いに心に嘘をつくのはよくないと思うから」

 神通の言葉に、那珂がテーブルにぐんにゃり崩れながら、

「でも、提督から贈ったってことは、提督にその気があるんでしょ? それなら、あとは神通ちゃんがどう思っているかじゃないの?」

「本当にそうかしら」

 神通は軽くかぶりを振って、言った。

「提督の心の中には、もう住んでる人がいるんじゃないかと思うの」

 それを聞いて、川内が「ははーん」と声をあげ、

「なるほど。そのあたりがはっきりしないと受け取れないってわけだ」

 その言葉に、神通はこくりとうなずいてみせた。那珂が頬をふくらませながら、

「うーん。提督もそこまで重く考えていない気がするよ?」

「ばかっ、こういうのは受け取る側の気持ちの問題なんだよ」

 川内が那珂のおでこに軽くデコピンをくらわせる。那珂が額をおさえながら泣きまねをしてみせるのを見て、神通はようやく、くすりと微笑むことができた。

「二人とも、ありがとう。もう少し考えてから、答えは出すことにしますね」

 神通のその言葉に、

「うん、ゆっくり考えるといいと思うよ」

「気楽にね。要は理屈じゃないと思うからさ」

 那珂も川内も揃って笑みを浮かべてみせたのであった。

 

「――はわわ、聞いてしまったのです」

「さすがは九三式水中聴音機。あんな会話まで拾えるなんてね」

「もう、盗み聞きなんてレディのすることじゃないわ」

「とかいって、あなただってかぶりつきだったじゃないの」

 甘味処の片隅に潜む影、四つ。

「でもあのままじゃ神通さん断ってしまうかもなのです」

「サジャレーチ。それは避けたい。せっかくの水雷戦隊出身なのに」

「そうね。誰かが背中を押してあげなきゃいけないわ」

「でもいったい誰が押すのよ。あの神通さんの背中を」

「困ったのです。頼れそうな川内さん那珂ちゃんがあの調子なのです」

「良いアイデアがある。大勢で背中を押せばいいんじゃないか?」

「なるほど、赤信号みんなで渡れば怖くない、か」

「要は、既成事実化して神通さんが後に引けなくすればいいわけね」

 ひそひそこそこそと他愛のない陰謀は紡がれる。

「そうと決まれば善は急げなのです」

「ハラショー。手分けして回ろう」

「おしゃべりはレディのたしなみのひとつよ!」

「じゃあ、みんな、神通さんのために!」

 戦艦泣かせの第六駆逐隊は「えいえいおー」と気勢をあげると。

 三々五々、鎮守府の各地へと散って行ったのであった。

 

 悪戯というには少々毒気の強いたくらみは、早速、夕食時から効果を発揮した。

 午後の訓練も終え、さすがに空腹を訴える胃袋を抱えて食堂へ入った神通は、いつもと異なるただならぬ気配に思わず身構えた。

 廊下からはさざめき笑う話し声が聞こえてにぎやかだったのに、神通が食堂へ足を踏み入れるや、空気のトーンが一気に三段階は重くなった。

 居並ぶ面々を見回す。いずれも訓練で顔を合わせる駆逐艦ばかりだ。小柄で、幼く、それでいて勇ましく、元気にあふれた、水雷戦隊の申し子たち。

 不審を感じた神通がおそるおそる歩みを進めると、駆逐艦たちの視線が自分に集中しているのに気づいた。

(なに、どうしたの、みんな? なにか訓練で変なこと言ったかしら)

 表面上はにこやかな顔を保ちながら、内心で不安いっぱいの神通の前に、まろびでるように一人の駆逐艦娘が歩み寄ってきた。栗鼠のようなくりくりした大きな丸い目。その表情は、緊張と興奮と喜びではちきれんばかりだった。

「じ、じ、神通さん!」

 おっかなびっくりという感じで、その子は口を開いたかと思うと、

「ケッコンカッコカリ、おめでとうございます!」

 食堂中に満ちんばかりの大声で、そう叫んだ。

「え、あの、えっと」

 神通が目を白黒させていると、それまで息をひそめていた駆逐艦娘たちが一斉に神通のもとに駆け寄り、

「ケッコンおめでとうございます!」

「よっ、めでたいねえ。よもや水雷戦隊から四人目たあ!」

「でも神通さんなら納得です! さすがは提督、目の付け所が違いますね」

「これ、明石さんのところで買ったプレゼントです。前祝いにどうぞ!」

「……めでたい……提督から賜餞があってもおかしくない……」

「みんなで食べちゃって提督につけちゃおうよ!」

「ケーキ通りまーす。ささ、神通さん、入刀して」

「それよりも神通さんに早く座ってもらおうよ。お祝いの主役なんだから」

 一斉に黄色い声がさえずりだしたかと思うと、誰かがクラッカーを鳴らす音まで聞こえてきた。それも一人や二人ではない。ざっとダースでいるようだ。

「あの、ちょっと、みんな、落ち着いて」

 神通が必死に声をあげて制止するも、燃え上がった駆逐艦娘たちの勢いは止まらず、

「ささ、ここに座ってください」

「ごはん! ごはん持ってきて! とっておきの鶏の丸焼き!」

「神通さんとの握手は一人十秒までです!」

 そいやそいやと担ぎ上げられるままにされて、興味深そうな空母や重巡の艦娘たちの好奇の視線にさらされながら、神通はあまりもの騒動に涙目になっていた。

「皆さん、落ち着いて。わたしの言うことを聞いて――」

 必死の訴えもかしましいおしゃべりに紛れてしまい、かくてその夜は消灯時間ぎりぎりまで食堂でどんちゃん騒ぎが行われたのであった。

 無論、その渦中に神通が最初から最後まで祭り上げられていたのは言うまでもない。

 

 疲労の果ての泥のような睡眠。

 そこから神通がようやく目を覚ますと、部屋の窓から朝日が差し込んでいた。

 目をこすりながらベッドから身体を起こす。

 どうにか部屋には着いたらしいと確認して、神通はほっと安堵のため息をついた。

 気疲れもあったのだろうが、宴の後半で回ってきたジュースのいくつかはアルコールだったのではあるまいか。騒ぎの最中では味まで気が回らなかったが、そのあとどうも酩酊していたらしい記憶がうっすらとある。

 神通は軽巡洋艦であり、水雷戦隊の元締めである。であれば、駆逐艦の暴走を止めてしかるべきだ。しかし、それができないままに場の空気に流されてしまった。

 なんと未熟なことか。神通はほぞを噛んだ。

 駆逐艦たちには後できちんと申し渡しをした上で、誤解を解かねばなるまい。

 提督の申し出に対して、自分は何も決めていないのだから。

 ただ、なにはともあれ、頭にかかる靄をすっきりさせないと事が進まない。

 神通はそう思い、ふと、肌が汗でうっすらべとついていることに気づいた。

 昨夜は宴から部屋へまっすぐ戻り、その後、意識が落ちたようである。

 つまりは、そういうことだ。

「日課とは異なりますが、仕方がないですね……」

 神通はそうひとりごちると、替えの服と下着を箪笥から取り出した。

 

 鎮守府で艦娘が使う浴場は、昼の掃除の時間を除き、基本的に沸かし通しである。

 元が温泉なのを加温して使っている関係もあるが、より切実な理由もあった。

 鎮守府待機の艦娘は夜の決まった時間に入れるが、出撃や遠征に出た艦娘が日の昇っているうちに帰投できるとは限らない。場合によっては未明に鎮守府に帰ってくることもあり、そんな時にせめて風呂ぐらいは温かくして出迎えようという――提督からの親心であり、艦娘にとってのささやかな贅沢であった。

 よって、総員起こしの時間よりも早起きして朝風呂を楽しもうという風流な艦娘がいないわけでもない。もっとも、朝はあわただしいのが常であり、風呂に入っているぐらいなら他のことに時間を使いたいという艦娘の方が大多数なのも事実である。

 神通も大多数の一人ではあるが、これは例外ケースというものだ。鏡に映った自分の顔を見ながら、日課を変えたことに神通はいささか不本意さを感じていた。

 とはいえ、風呂は風呂だ。

 石鹸を泡立てたタオルで、身体を丹念に洗う。

 洗面器にお湯を張り、肩からざぶりとかける。

 きめの細かな肌がお湯をはじいて、柔らかな曲線の上を幾つもの雫が流れ落ちた。

 汗でべとついた感覚がようやくさっぱりとすると、神通はふっと息をつき、髪を結わえ上げた。そうして、すっと立ち上がると湯船へと歩み寄り、ふうわりと湯煙を立てる中へそっと足を差し入れた。

 じわと、あたたかな感覚が沁み入ってくる。それを楽しみつつ、神通は肩までお湯に漬かった。全身に熱が巡り、頭にかかっていた靄がすうっと消えていく。

 束の間、一人きりの朝風呂を楽しんでいた神通であったが――

 程なくして、浴場のガラス戸をガラガラと開ける音が聞こえた。

「うん? 先客がいるのか」

 湯煙の向こうに声が聞こえる。それが誰か悟って、神通は一瞬ぎくりとした。

 凛とした武人の風格を思わせる声。そんな声音の持ち主は鎮守府に一人しかいない。

 ざぶりとお湯をかぶる音がしたかと思うと、湯気の中からその艦娘が姿を現した。

「なんだ、神通だったのか。おはよう」

 長い黒髪は結わえ上げているが、その面立ちは見間違えようはずもない。

 艦隊総旗艦の、長門であった。

「おはようございます」

 神通がぺこりと頭をさげると、長門はゆるゆると湯船の中に入ってきた。

 嘆息するかのように息を深くつくと、彼女は神通に向き直り、

「めずらしいな。神通が朝風呂とは」

「……やむをえない事情がありまして」

「そうか。まあわたしも普段は朝風呂は使わないのだがな」

「今朝は特別なのですか?」

 神通がそう問うと、長門はにやりと笑んでみせた。

「そうだな、気持ちの整理をつけたいときは活用している――たとえば、提督が四人目のケッコンカッコカリを決めたなどと聞いたときにはな」

 その言葉に、神通は思わず頭まで湯に沈み込みそうになった。

「……どこまでご存知なのですか」

 恐る恐る神通がそう訊ねると、長門は肩をすくめた。

「昨夜、あれだけの乱痴気騒ぎになっていたのではな。いやでも耳に入るさ」

「――そうですか」

 神通は眉をひそめて憂い顔となった。束の間、逡巡した後、

「あの、ですね。わたし、まだ提督のお申し出を正式には――」

「分かっている。陸奥から聞いた」

 長門はうなずきながら、言った。

「だが、わからん。なぜ提督からの指輪を受け取ろうとしない」

「それは――」

 神通が言いよどむと、長門はそっと目を閉じて言った。

「これで四人目。その数で、提督のお気持ちの軽重に疑問を感じるのだとしたら、的外れというものだぞ。わたしも後で聞いたのだがな。ケッコンカッコカリの書類は相当に面倒な手続きを踏む必要があるそうだ。それこそ、生半可な軽い気持ちで取り寄せられるほど簡単なものではない――提督もそれなりに覚悟をして指輪を用意されている」

「……そう、ですか」

 神通が顔をうつむけると、長門は目を開き、ふっと微笑んでみせた。

「お前がなにを悩んでいるかは知らんが、提督の思いの強さは信じていい。それだけは、ぜひ伝えておきたかった」

「――長門さんは、気にならないのですか?」

「なにがだ?」

「指輪を贈られた艦娘が増える、ということにです」

 その問いに、長門は片眉をつりあげて、答えた。

「腹立たしくもあり、うれしくもあるな。提督の節操のなさには一発拳を入れてやりたいと思うし、立場を同じくする仲間が増えるのは喜ばしいことでもある――まあ、朝風呂に来たのも、ちょっと心を落ち着けてから、朝一で提督に問いただしてやろうと思ったからなんだが……結局は、わたしはあの人がなさることを認めてしまうのだろうな」

 長門の声は、諦め半分、喜び半分、といった響きだった。

 そんな彼女に、神通は問わずにはいられなかった。

「あなたは――提督を一人占めしたいとは思わないのですか?」

 その問いに、長門が目を丸くし、次いで、くすっと笑みをこぼす。

 次いで見せたのは、すがすがしいほど晴れやかな表情だった。

「思わないな。そんなことをしなくても、わたしにとって提督は一番の存在なのだ。わたしがそれを知っていれば、わざわざ独占なぞしなくても満足だ」

 その言葉は、あまりにも誇らしげに響いて。

 それだけに、神通は自分が何を悩んでいるのか分かってしまった。

 

 ほてった身体に朝の涼風が心地いい。

 先に浴場を後にした神通は、鎮守府の敷地をぶらりと歩いていた。

 少し、頭を冷やしたかった。かかった靄を払おうと風呂にいったのに、今度は心にもやもやした感情を抱える羽目になってしまい――神通は懊悩していた。

 ふと、向かいから歩いてくる艦娘が目に留まる。

 それが誰か、すぐに気づいて、神通は内心でため息をついた。

 束ねた長い黒髪。優美な長身。華を感じさせる美貌。トレードマークの日傘。

 神通の姿に気づいた先方が、きっと表情を引き締めるのが見てとれた。

「おはようございます」

 どこか幼さを感じさせるたおやかな声で、先方が挨拶してくる。

 その声にまじる、どこか身構えるような硬さを聞き取りつつ、神通は応えた。

「おはようございます――大和さん」

 一瞬の沈黙。それに次いで、大和が言った。

「噂は聞きました。提督に選ばれたそうですね」

「その、それはそうなんですが……」

 弁明しようとした神通を押さえるように、大和は毅然と言い放った。

「わたし、負けませんから」

 その声の響きは、いっそほほえましい稚気に満ちていた。

「神通さんがどんなに素敵な人でも、提督を譲る気はありませんから」

 それは、彼女なりの宣誓だったのだろう。そう言い置くと、大和は軽く会釈して、かつかつと足音も高く去っていく。

 神通はその後ろ姿を見送った。大和の左手の薬指にも銀の指輪が光る。

 彼女は彼女なりに、自分の思いを貫き通しているのだろう。

 ただ、神通には、それに比肩できるだけの強い思いを抱ける自信はなかった。

 

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「だいじょうぶ? 相当、疲れた顔してるわよ?」

 気遣わしげな陸奥の声に、神通は苦笑いを浮かべた。

「ごめんなさい、分かってしまいますか」

 訓練の合間を縫って、神通は陸奥と会っていた。

 鎮守府のあちこちに置かれたベンチのひとつに、二人は腰かけていた。

 陸奥も忙しい身の上だが、神通が声をかけると快く相談にのってくれた。

 次の訓練までそんなに時間があるわけではないが、それでもありがたい。

「あらあら。その様子じゃ、相当な数に『おめでとう』を言われちゃったみたいね」

 陸奥の言葉に、神通は頬をかすかに朱に染めた。

 悩みを抱えているからといって普段の日課をすっぽかすわけにはいかない。

 問題は、指導する駆逐艦の子たちが皆口々にお祝いを述べてくることだった。

 昨夜のどんちゃん騒ぎについて注意もしてみたが、駆逐艦たちはそんなふうに怒られることさえ織り込み済みのようで、にこにこと笑みながら話を聞いているのだ。

 ――次のケッコンカッコカリも戦艦の人だと思っていましたから。

 ――水雷戦隊の重要さが提督に認められたみたいでうれしいんです。

 ――神通さんなら、優しいし、しっかりしてるし、お似合いですよ。

 無邪気にかけられる祝福と喜びの声。それはずしりと神通に重くのしかかった。

「なんというか、その。しばらくゆっくり考えたかったのに、なんだか一晩で噂が広まってしまって。みんな、わたしが申し出を受けるのが当然みたいになっていて、こんなことになってはどうしようもないじゃないですか」

 訥々と語る神通の声に、少しうらみがましい色がにじむ。それを聞いて、陸奥はやれやれといった調子でため息をつき、言った。

「どこの誰かわからないけど、内密の話を聞きつけて、意図的にそれを広めた子がいるわね、これは。それも一人の仕業じゃないわ。神通がケッコンカッコカリせざるをえないような状況に追い込むのが目的でしょう――まったく、やらかしそうな子には心当たりはあるけど、まさか水雷戦隊のボスを嵌めるなんて本当に命知らずなんだから」

「……やり方はともかく、悪意があったとは思えません。駆逐艦の子たちに言われて、彼女たちが今回のことを本当に喜んでいることがよくわかりました。もし、ここでわたしが提督の申し出を断ったりしたら、きっとみんながっかりすることでしょう」

「でも、あなた自身は決心がつかない――ううん、気がかりなことがあって、それが解決するまでは前にも後にも動けないってところかしら」

 そう言って、陸奥はふわりと微笑んでみせた。

「それで? そのお悩み相談にわたしを選んだのはなぜかしら?」

「……長門さんや大和さんには既にお会いして言葉を交わしたのはありますけれども、それ以上に――」

「うん?」

「――陸奥さんが、一番、気負いなく提督と向き合っているように見えましたから」

「まあ、ずいぶんと買われたものね。実際には難攻不落を前に攻めあぐねているっていう方が正しいのだけれどね」

「難攻不落、ですか」

 神通の言葉に、陸奥がうなずいてみせる。

「そう。長門と話したなら気づいているでしょう。長門と提督の仲って一筋縄ではいかなくて、そのくせ、長門自身は余裕綽綽なのよね。ああも堂々とされちゃうと、まず二人の仲を認めたうえで、自分をどこに置くのか、って話になっちゃうもの――でも、それって結構残酷な話よね」

 そう言って、陸奥がふっと目を細めて、神通を見つめる。

「あなたが悩んでいるのも、そのあたりなんでしょう?」

 陸奥の言葉に、神通は顔をうつむけ、ぽつりと言った

「わたしは――それほど心が広いわけではないみたいです」

「どうして?」

「仮にもそういう仲になるのなら、提督にはわたしだけを見てほしいと思うからです」

 神通は、膝の上においた両のこぶしをきゅっと握りしめた。

「これはわがままです。それも、わたしが提督が好きかどうかという感情以前に、そういう仲であればそうあるべきだという、自分だけの倫理観によるものです――でも、長門さんの構えっぷりを見てると、いかにも小さいことに思えてしまって。そんな小さなことに思い悩んでいる自分が、とてもつまらなく見えて……」

「つまらなくはないし、小さくもないわ。長門が鷹揚すぎるのよ」

 陸奥は、ぽんと神通の肩に手を置いた。

「でもひとつ訂正。『好きかどうか以前』だってあなたは言ったけど、相手を独占したいと思うのは、やっぱり『好き』だって証拠よ」

「そう……でしょうか」

「そうよ――“愛は惜しみなく与えるもの。愛は惜しみなく奪うもの”」

 おそらくはそらんじた成句だろう、陸奥が歌うように口にする。

「結局、自分の感情が本当はどんなものなのか、把握しきれていないんじゃない? それがつかめれば、自分の気持ちをどんな形で置くべきか見えるんじゃないかしら」

「そうでしょうか……」

「提督のことは嫌い?」

「とんでもありません。上官として敬愛しています。立派な方だと思います」

「じゃあ、好き?」

「…………」

「あらあら。その無言は立派な答えだとわたしは思うけど」

 そう言って、陸奥はくすりと笑んでみせた。

「どうしても分からないというのなら、二人で話してみたらどうかしら。神通の場合、そんな機会はなかなかないものでしょう?」

「二人で――提督と、ですか?」

「そうよ、他に誰がいるの」

 陸奥の言葉に、神通がきゅっと唇を引き締め、こくりとうなずいてみせる。

 それを見て、陸奥は肩に置いた手をぽんぽんとたたいてみせた。

「がんばりなさい。誰よりも、あなた自身のために」

「陸奥さん、ひとつお伺いしてもいいですか」

「なにかしら」

「話しておいてなんですけれど、どうして相談に乗ってくださったんですか?」

「ライバルになるかもしれないのに、って? 答えは簡単よ」

 陸奥は、小悪魔めいた微笑みを浮かべて言った。

「プレイヤーが多いほど、ゲームは面白くなるじゃないの」

 

 その夜。神通は提督執務室を訪れた。

 両手が塞がっていたので声をかけると、すぐに応答があった。

 提督自身の手で、マホガニーの扉が開かれる。

 神通が手にしたやかんやら何やらを見て、提督は相好を崩した。

「これはこれは――熱燗の差し入れとは痛み入る。どれ、持とう」

「いえ、お運びします」

「気にするな。ここまで重かったろう」

 そう言って、提督は神通の手からやかんを受け取った。

 やかんにはお湯が張られ、何本かの徳利が浸っている。

 応接のテーブルへそれを運び終えると、提督は神通にソファを指し示した。

「ゆっくりしていくといい」

「……おじゃまではなかったのですか?」

「熱燗をわざわざ運んでそのまま帰る気でもなかったんだろう」

 そう言って、提督は片眉を吊り上げてみせた。

 神通はソファに腰をおろすと、向かいに提督が座るのを待った。

 彼が腰をおろし、お猪口を手にとるのをみて、徳利を一本差し出した。

「どうぞ、提督」

 神通は静かに提督のお猪口に酒を注いだ。

「おお、いたみいる――ありがたく頂戴するよ」

 そう言って、提督がくいっとお猪口をあおった。思い切りのいい、飲みっぷりだ。

「君にも注ごう。自分のぶんをもちたまえ」

「恐れ入ります」

「なんのなんの。そういえばこんなふうに話すのは初めてだな」

 提督はそう言い、ふっと優しげに目を細めてみせた。

「君には本当に助かっている――水雷戦隊の層は以前にもまして飛躍的に厚くなった。それも君が訓練に尽力し、実戦にあたっては陣頭指揮に当たってくれているからだ」

「いえ、当然のことをしたまでです」

「そうは言うがね。誰にでもできることじゃないさ。駆逐艦は数も多いし、性格も能力もばらばらだ。曲者ぞろいといっていい。それをまとめあげて、それぞれに選別し、鍛錬をほどこすのは難仕事だと思う。つまるところ、長門が艦隊総旗艦として頭を張っていられるのも、君が水雷戦隊をしっかりまとめていればこそだ」

 神通が飲み干したお猪口に、酒を注ぎながら、提督は言った。

「その働きは評価したいし、好ましいと思うし、報いたいと思っていた」

「――わたしに指輪を贈る気になられたのは、それが理由ですか?」

「まあ、演習で駆逐艦たちを率いて、果敢に標的に向かう君の顔が、とても凛々しくて美しく、胸がときめいたことは確かだよ。長門の風格と似てるものはあるが、しかし明確に異なる、君だけの魅力だな……おっと、このことは胸にしまっておいてくれ。長門が聞くともれなく拳骨が飛んでくる」

 彼が微笑みながら話す言葉に、神通は頬を朱に染めて、思わずついと目をそらした。

 視線をそらした先に、壁にかかった図上演習盤が目に入る。

 張り出された大判の地図に、いくつもの駒が刺さっていた。

 神通の視線に気づいて、提督が「ああ」と声をあげる。

「次の限定作戦の予行演習をしていた。大規模なものになるだろうからな。各方面から一時的に戦力を引きぬいて、作戦方面に振り向ける――深海棲艦の隙をついて、どこまでの動員が可能かどうか、見極めていた」

「お手伝いできればいいのですが……」

 神通が、悔しさを滲ませる声で言った。

「しょせん、わたしは前線の艦娘です。大所高所から意見を言うような戦略的なことは不得手です。戦うべき相手と、戦場が決まっていれば、どのようにも考えが出せるのですが……もしも、提督がわたしにそういうことをご希望なら、わたしは――」

「それは考えなくていい。いや、違うな。考えるようになってくれるとうれしいんだが、いますぐに君にそれは求めていない。そういうことは長門の得意分野だ。君は、用意された戦場で最善を尽くすことをまず考えてほしい」

「それで、よろしいのですか?」

 そう言いながら、神通は提督のお猪口に酒を注いだ。

 白い磁器から立ち上る、熱を帯びた酒気の香りをかぎながら、提督は言った。

「いいともさ。艦娘を花にたとえるなら、花それぞれに形も色合いも香りも違う。それなのに、それぞれの魅力を認めないのは、失礼というものだろう」

「花、ですか……」

「そうとも。たとえば――大和は桜だな。あの華やかさは他にたとえようがない。そこへ行くと長門は梅だろうか。まだ雪の残る時期でも凛として花を咲かせる風情がよく似合っている。陸奥は金木犀だな。正直、彼女が漂わせる色香には、時折どきりとさせられることがある」

「……わたしは、いったい何になるのでしょうか」

 恐る恐る訊ねてみた神通に、提督は微笑んでいった。

「山茶花だろうか。冬の寒い時期にあえて花開き、誇らしげにその紅を誇る――華やかではないかもしれないが、桜にも梅にも金木犀にもない、それは独特の魅力だ」

「――鎮守府にも、咲いているところがありましたね」

「うん。また冬が来たら、二人で見に行くか。そんな時間があってもいい」

 その提案は、ごく自然で、優しく、神通の耳にするりと入ってきて。

 それを心で受け止めたときに、彼女はようやく答えを見出せたように思えた。

「……提督、いま指輪はお手元にお持ちですか?」

「ああ、うん。もちろんだとも」

 その言葉に、神通はうなずき、提督の目をひたと見つめた。

「いったん考えさせてくださいといったこと、いまここでお答えします――わたしでよければ、お受けしたいと思います。でも、ひとつだけ条件を出させて下さい」

「どんな条件だい?」

「ごくたまに――お時間があるときに、ほんのわずかで構いません。わたしと二人だけの時間を作ってください」

 神通の瞳が、かすかに潤んだ。

「提督は、もう誰かを心に住まわせておいでです。本当は、こんな関係になる以上、わたしだけを見てほしい。でも、それが叶わないのなら――せめて、ひとときは、そう感じられる時間をわたしにください。そのときだけは、提督はわたしのことだけ考えて下さっている――そう、感じられる時間を。我が儘にすぎるお願いだとは思っています。でも、二人きりで山茶花を見に行くような、そんな時間をわたしは大切にしたい」

 そのまっすぐな眼差しは、提督を射抜くように。

 その切なそうな声は、心の底から振り絞るように。

 神通のお願いを聞いて、提督はふうと息をついて、うなずいた。

「いいだろう。二人きりの時間を作る。それは誰にも邪魔させない」

「長門さんにも、ですか」

「もちろん。そのたびに拳骨がとんでくる覚悟はしておくがね」

 提督の冗談に、神通がくすりと笑みをこぼすと、そっと左手を差し出した。

「じゃあ、提督――いま、この場で指輪を嵌めて頂けますか?」

「構わないが……いいのか、お披露目パーティをしなくても」

「パーティなら昨夜、駆逐艦の子たちがさんざん騒いだから、もういいでしょう。それよりもいまこの場で――提督と二人きりのときに、指輪を頂いた思い出を心にしまっておきたい。これが、最初の、二人きりの思い出です」

 神通はにっこりと笑んだ。花が咲き誇るような、満面の笑みだった。

 

「もっと動きはキレよく! 回頭するときは大回りしないで!」

 爽やかな青空の下、神通の指導の声が響く。

 駆逐艦たちは「はい!」と応じながらも、その実、ひいひいと悲鳴をあげていた。

「なんか、神通さん、いつにもまして気合入ってるね」

「丁寧なのは変わらないんだけど、鬼度合いが増している気がするよ」

「やっぱり、あれのおかげなのかなあ」

「あれって? ああ、あれかあ」

 駆逐艦たちの目が、神通の左手の薬指に向けられる。

 きらりときらめく銀の指輪。提督に選ばれた証。

 それを身につけた神通は、いつにも増して、元気で、そして凛としていて。

 そして、きらきらに輝いていると、教え子たちは皆思うのであった。

 

〔了〕

説明
じんじんして書いた。やっぱり反省していない。

というわけで艦これファンジンSS vol.33をお届けします。

今回は、神通さんのケッコンカッコカリのお話となります。
このところシリアス回が続いていましたので、日常系のお気楽な話を書きたいと思い、
筆を執ってみました。「うちの鎮守府」では、長門・陸奥・大和がすでにケッコンカッコカリ済みなのですが、
そこへ神通さんが加わる場合、どんな想いがあるのかなと思って筋立てしてみました。

書いてみると「あれ、神通さん、意外とヘヴィな人?」と思ってしまいましたが、
ゲーム内台詞でも真面目で果敢なものが多いので、こうなるのもむべなるかな。

「うちの鎮守府」でのケッコンカッコカリにまつわるエピソードとしては、
vol.1「指輪の意味」や、vol.4「命短し恋せよ艦娘」などで描いていますので、
あわせてお読み頂けるとまた違った面白みがあるかもしれません。

最期に、お約束の文言として、「うちの鎮守府」シリーズは、
各エピソード単品でお楽しみいただけるように気を遣っております。
このvol.33からお読みいただいても差し支えないですし、お気に召したら、
過去エピソードもつまみ食いしてくださると作者冥利につきます。

それでは皆様、ご笑覧くださいませ。
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