凪の海 - 3
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 ミチエは、泰滋との待ち合わせ場所に向っていた。なぜか気がせいて早歩きになる。

「何をそんなに急いでるんだ。もっとゆっくり歩けよ。」

 後ろからついて来る長兄が文句を言った。長兄の同行は気に入らなかったが、母親の言付けだから仕方が無い。『長年の文通相手と言え、初めて会う男性なのだから、うら若き乙女をひとりで行かせるわけにはいかない。身体の大きい長兄に付き添わせ、風体妖しい男だったらすぐに連れて帰れ。』との母の指示である。

 ものぐさな長兄は普通であれば付き添いなどまっぴらごめんだと断るところだが、母の言付けを断らなかったのにはわけがある。適当にミチエの文通相手をあしらったら、ミチエをひとりで帰し、自分は後楽園の場外馬券売り場へ行こうと心に決めていた。長兄は大の競馬ファンなのである。

 待ち合わせ場所は、東京ステーションホテル。このホテルは東京駅開業翌年の大正4(1915)年にオープン。ホテルの窓から発着する列車を一望することができ、戦前、戦後を通じて川端康成や内田百間(ひゃっけん)といった多くの文豪や、財界人などに愛された高級ホテルである。後年、改装前の209号室に滞在していた作家、松本清張がホームを行き交う電車を眺めるうちに代表作「点と線」のトリックを思いついたエピソードは有名だ。

 しかし、東京ステーションホテルで待ち合わせと言っても、残念ながらふたりの待ち合わせ場所はホテルの入口。所詮学生の泰滋とミチエだから、こんな高級ホテルの中の施設を使えるわけがない。

 長兄の懸念通り、ミチエは時間より早く着いてしまう。入口のドアボーイが、胡散臭そうにふたりを見ている。そんな視線を気にした長兄はぶつぶつ文句を言いながら、タバコを吸いに駅の入口の方へ移動してしまった。しかし、ミチエは毅然として動こうとしなかった。泰滋が早めに着いてすれ違ってしまったらと考えると、心配でそこを動くわけにはいかなかった。

 泰滋は、東海道本線の夜行特急でやってくる。1950年、今年の1月に改名された特急『つばめ』であれば、大阪―東京間をわずか9時間で結べるのだが、いくら同志社のボンボンの泰滋と言えども学生の身分では使いづらい。大阪を午後6時頃に出発、15時間をかけて東京駅へ。到着は、午前9時になる予定。そんな長旅に疲れているにもかかわらす、多摩川の親戚の家に行く前に、着いた当日にミチエに会いたいと言う。上京の目的は、親戚に会うことなのか、それとも自分に会うことなのか、ミチエには計り知れなかった。

 

 国鉄のダイヤの正確さは、戦前も戦後も世界でトップクラス。夜行特急は、時間通りに東京駅に着いたのだが、それでも泰滋は京都出発から到着まで1週間も電車に乗っていたような気分になっていた。彼は革のボストンバッグを手に取ると、飛ぶように待ち合わせ場所に向った。

 泰滋にとって上京の目的は久しぶりに親戚に会いに行くことである。それを理由として両親から旅費を受け取った。だから、ミチエに会うのはその『ついで』でしかない。そもそも、なぜ自分は突然ミチエに会いたいと告げたのだろうか…。

 1年近くも続けた文通相手への礼儀なら、申し訳程度の座布団が打ちつけてある木製の硬い椅子で一夜を明かし、ガチガチに凝った身体にムチを打って会う必要もない。東京滞在中にお互いの都合をあわせて会えば充分だ。なのに、東京駅へ着くや否や、ミチエが待つ場所に飛んで行こうとするのはなぜなのか。

 ミチエの手紙の内容、文字の形、筆圧。それらでも手紙を書いた相手の考えや性格をひと通り知ることが出来る。しかし、泰滋の気持ちの中に、もっとミチエのことを知りたいという願いが高まってきたことは、彼自身も薄々感じていた。

『では相手の何をもっと知りたいのか』

 このことについては、泰滋は明解な答えを持っていなかった。

 しかし彼自身が解らずとも、それは誰の目にも明白だ。つまり、ミチエの声の色、息づかい、香り、そして体温。相手の存在を身体で実感したいと願うこと以外のなにものでもない。当初は知的に幼い女子高生を相手にした、たわいもない文通対話であったものが、いつしか相手を一人前の女性として感じ始めていた。もちろん、今までの手紙には恋愛めいた文章を一切書いたことの無い泰滋だ。男女として、ミチエと会話の機会を持ちたい。そう自分の心が変化したのだと、認めづらい彼の気持ちもわからないでもない。

 

 泰滋がホテルの入口が見える場所にたどり着くと、果たして視線を下げず毅然と前を向いて立っている女性を見いだした。泰滋はその女性がミチエであることがすぐに分かった。そして、写真の中の8人の女子高生の中で、この人だと、いや、この人であればいいと目星を付けた女性であったことに少なからぬ衝撃を受けた。そう、喜びではない、衝撃なのだ。それほど生で見るミチエはインパクトがあった。相手はまだ自分に気づいていない。しばらく泰滋はミチエを観察した。

 清楚なワンピースに上着を羽織り、小さなバックを両手で前に持つ彼女。小柄ながらさすがにスポーツで鍛えた身体は均整がとれている。適度な筋肉と脂肪が付いていながら、手首や足首やウェストなどが締まっているからメリハリのある体型だ。

 写真の彼女とは違って髪は多少長めにしている。部活を終えてやっと髪を伸ばせるようになったのだろう。横長に切れたすずしい目元、そして神秘的な漆黒の瞳。これは写真ではわからなかったが、たとえようもない潤った輝きを呈している。目の前に居るのは女子高校生ではない。まぎれもなくひとりの女性であった。運動着姿の活発な女子高生の写真を見慣れていた泰滋にとって、衝撃的であったことに無理はない。

 泰滋はゆっくりとミチエに近づいていった。やがて、ミチエの視線が泰滋をとらえた。不安そうであった眼差しが、輝くばかりの笑顔に変わる。1メートルの距離に近づいた泰滋。初めてあったはずなのにひとことも挨拶せず、だた黙って笑顔で見つめ合っている。泰滋22歳、ミチエ19歳。ふたりは初めて、直接お互いの視線を絡ませあった。

 文通でお互いのことは知り尽くしていたので、確かに言葉は要らないのかもしれない。しばらくそうして見つめ合っていたが、やがて泰滋はミチエの背後に男性が立っていることに気づいた。

「兄の正愛です。」

 泰滋の視線に気づいてミチエが長兄を紹介する。泰滋はミチエの声を初めて聞いた。ハリのある美しい声だ。闊達な彼女の性格にふさわしい。

「はじめまして、石津泰滋です。」

 ミチエは、泰滋の声を初めて聞いた。標準語でしゃべるのだが、多少京都弁のイントネーションが混じっている。それも手伝ってか、ミチエは彼の声をなんてソフトな優しい声なんだろうと感じた。

「どうも、はじめまして…。」

 長兄が頭を書きながら言葉少な挨拶を返した。もともと長兄も人見知りするタイプなのだ。

「それじゃ、ミチエ。俺はこれで帰るから…。帰りはひとりでも大丈夫だよな。」

「えっ?」

 ミチエは長兄に不思議そうな顔で振り返る。母の命令で、今日は一日付き添うのではなかったのか。長兄は、初めて会ったふたりの様子を伺っているうちに、適当にあしらってふたりをひきはがすなど、到底無理だと悟ったようだ。泰滋の端正な容姿を見て安心したことも手伝って、泰滋に見えないように長兄はミチエにウインクをすると、もう心は場外馬券場へと彼の身を急がせたのだった。

 

 長兄らしからぬ気遣いに戸惑いながらも、泰滋を見つめ続けるミチエ。改めてふたりきりにされるとなぜか鼓動は早まるので、それを泰滋に気づかれまいと苦労した。泰滋の様子には一向に変化が見られない。ただ笑顔でミチエを見つめているだけだ。

「ミチエさん。こうして立っていても何やから、映画でも見ましょうか?」

「はい。」

 ふたりは連れ立って、映画館を求めて日比谷方面へ歩いていった。なかなか適当な映画館が見つからないまま、黙ってどのくらい歩いたろうか。結局ふたりがたどり着いたのは、有楽町スバル座である。

 この建物は、第二次世界大戦終結直後の1946年年12月に建設された、大規模木造建築の映画専用劇場だった。第二次世界大戦中は軍部の統制で娯楽への引き締めがおこなわれるとともに、米軍による無差別爆撃への対策として大規模な木造建築の新造も禁止されていた。しかし戦後、GHQは日本の民主化を促進する目的で、アメリカ映画を封切上映する大規模な映画館の設置を要求し、スバル座は都知事の特別認可という形で建設された。

 開館したスバル座は、アメリカの豊かな文化を日本に伝える映画館として、庶民に夢と希望を与える場であった。しかし、終戦直後の物資欠乏の中、突貫工事で建てられたその建物自体は、完全木造建築、内装も合板張り。防災設備は粉末式消火器が常備されているだけで、防火区画・シャッター、スプリンクラー設備はおろか屋内消火栓すら設けられていないお粗末なものであった。その代償はすぐやってくる。1953年9月6日、19時1分。劇場映画『宇宙戦争』の上映中に、爆発音とともに1階の掃除用具入れとして使用されている物置から火の手が上がり、初代スバル座は焼失する。ふたりが入ったのは、1952年の3月だから、その1年半後にこのスバル座は無くなることになる。本人たちは気づきようもないが貴重な映画鑑賞となった。

 映画はすでに始まっていた。しかし、ふたりは気にもせず暗いホールへと目をこらしながら進む。今のロードショウ封切り館のように、映画が終わるたびに指定席入替え制ではない。いつでも入れるし、空いてれば何処にでも座れる。

 作品は、娯楽超大作『サムソンとデリラ』。セシル・B・デミル監督製作による1949年のアメリカ映画。『士師記』のサムソンとデリラの物語を原作としている。『士師』とは他民族の侵略を受けたイスラエルの民を救済した英雄たちのことであり、当然サムソンはその志師のひとりである。

 あらすじを要約すると、古代イスラエルの士師であったサムソンがデリラと恋仲になった。敵対するペリシテ人たちはサムソンを倒すために、デリラを買収して、サムソンの神がかり的な怪力の秘密を探ろうとする。不可解な質問を発するデリラを不思議に思いながらも、サムソンは彼女が買収されたなどゆめゆめ思わない。それでも、曖昧な答えで3度ははぐらかしたものの、4度目にデリラが泣きすがった時に、憐れに思ったサムソンは、ついに力の秘密が髪にあることを打ち明けてしまった。

 この答えが真実だと直感したデリラは、ペリシテ人に密告し、彼らの指示でサムソンが眠っている間に髪の毛を剃ってしまう。髪の毛を失ったサムソンは力を失い、襲ってきたペリシテ人に抵抗できず捕らえられることになった。そして、彼は目をえぐり出されてガザの牢で粉をひかされながら悲劇的な最後を迎えることになる。

 よくよく考えれば、この作品がふたりの初めてのデートにふさわしい作品だったかどうかは疑問であるが、結果的に内容はどうでもよかった。実際後日ミチエはその作品のことを問われても、タイトルは想い出せてもその話しのスジはまったく憶えていない。その時は、とにかく暗く静かな場内で、自分の高鳴る鼓動が、泰滋に聞こえてはしまわないかとヒヤヒヤすることに終始していた。間、チラッと泰滋を盗み見たが、彼はじっとスクリーンを見つめ、映画を観るのに集中しているようだった。

 しかし、実際はちがう。泰滋は顔と目はスクリーンを向いていても、神経は隣に座ったミチエに向いていた。彼女と触れんばかりになっている肘が気になって仕方が無かった。そこから伝わってくるかすかな体温とやわらかな感触。彼とて映画のストーリーが頭に入るわけでもなかった。

 映画のスジが全くわからなくとも、お互いの存在を直接身近に感じて過ごす時間は、あっという間に過ぎていく。映画は終わったが、映画をただ瞳に反射させていただけのふたりに、鑑賞後の感想などあるわけがない。

「ああ、もうお昼か…お腹すきませんか、ミチエさん。」

「ええ…まあ。」

 泰滋の誘いに、ふたりは数寄屋橋へ足を運ぶ。

 食事と言っても、銀座の洒落たレストランなんて今のふたりが知るわけもない。とりあえず百貨店の食堂へ行ったのは当然の選択と言える。

 銀座松坂屋へ行ったふたりは、込みあう食堂でようやく席を確保した。今のように4人席やふたり席があるわけではない。大きなテーブルで他のグループとの同席である。席に座るなりメニューも見ずにビーフシチューを注文する泰滋を見て、さすがセレブな同志社の坊ちゃんだとミチエは感心した。彼女は食べ慣れたカレーライスを注文する。

 

 泰滋は、ビーフシチューをスプーンですくいながら、何か話した方がいいのではないかとは感じていたものの、あらためて聞くようなことが思い当たらない。文通で相手のことはよく知っていた。それよりも、つつましやかにカレーを食べているミチエを見ている方が楽しかった。

 ナプキンペーパーを片手に持って、スプーンを口に運ぶミチエ。その顔を明るい場所で見ると思いのほか肌が白いことが意外だった。そうか、バスケは体育館のスポーツだから日に焼けるようなことはないのか。よく見るとその色白い顔にお化粧している様子はない。19歳の瑞々しい肌に化粧など必要ないのだ。

「何を見ているんですか?」

 突然ミチエに話しかけられて、狼狽する泰滋。知らぬうちに手が止まり、ミチエに見入ってしまっていたようだ。

「えっ…いや…よくそんな大きなスプーンが口に入るなと思って…。」

「いやだ、失礼しちゃう…。」

 笑いながらも、ミチエはスプーンを口に運んだ。そう、食べ盛りのミチエの手を止めるなんて、誰も出来はしない。

「ところで、泰滋さんは、いつもそんな高級なもの食べてるんですか?」

 ミチエがビーフシチューを指し示して言った。

「いや…いつもやないけど、父はシチューが好きで、外食の時はいつもこれや。もっとも父のシチューはタンシチューやけど…。」

 自慢に聞こえたかな…。泰滋はちょっと気にする。

「へぇー、すごいですね。うちなんか千葉の田舎じゃないですか、魚、海老、かに、貝類とか、海産の和食は当たり前にあるんですけど、洋食はなかなかね…。」

 あたし何言ってるんだろう。嫌みに聞こえたかしら。そんなことどうでもいいのに…。

 言葉を発するごとに反省するふたり。文章にすることに比べ、直接の会話のまこと難しいことよ。初めてのデートの緊張感も手伝って、その後のふたりの会話は弾んでいるとは言えなかった。

 食事を終えると、午後3時。ミチエが千葉に帰る時間を考えると、これ以上は19歳の乙女を引き留めるわけにはいかない。それに泰滋も親戚の家に向わなければならない時間だ。ふたりは、有楽町駅へ歩いた。黙って歩きながら、ミチエの胸に言いようの無い寂しさが込み上げてきた。

 初めて直接あったふたり。ミチエは泰滋に会ってみて、その優しそうな眼差し。落ち着いた語り口。ソフトな声。手紙では知り様の無い彼の側面を感じることができた。そして、さらに湧き出てくる彼への関心と興味を押さえることが出来ない。しかし、ミチエの目から見ると、泰滋が自分に興味を持ってくれたとはまったく思えないでいた。へんにリキんで話しかけて来るとか、顔が上気して何か慌てているとか、そんな気配は全く見せない。いたって平静で、見方によってはつまらなそうとも言える対応で終始自分に接っしていた。やはり直接会ったところで、22歳のインテリ大学生から見た私は、話し相手にもならない馬鹿な小娘にしか見えないのだろうか。自分は彼にとって、興味や関心の対象とはなりえていないようだ。今日ここで別れたら、もう手紙を送ってきてくれない。そんな気すらしていた。

「そしたら、ここで失礼します。」

 有楽町のホームで、泰滋が口を開いた。山手線、目黒方向の電車がホームに入って来たのだ。秋葉原方向のミチエとはここで別れることになる。ミチエはブルーな気持ちを悟られまいと精一杯の笑顔で応じる。

「長旅でお疲れなのに、会って下さってありがとう。楽しかったです。」

「こちらこそ、来て頂いてありがとう。」

 泰滋も笑顔で応じると、あとはそっけなくミチエに背を向けた。彼の背中を見るミチエの瞳に、じわっと涙が湧いてきた。

「そや。」

 泰滋は振り返りもせず、電車がホームに入ってくる音に負けまいと大声で言った。

「京都は盆地でね。海がないんですわ。さっきミチエさんの話しを聞いたら、千葉の海の幸を無性に味わってみたいと思いました。明日、ミチエさんの千葉の実家にお伺いします。手土産持って行きますから、ご馳走してください。」

「えっ、伺うって…。」

「大丈夫、住所はもう暗記しています。勝手に行けますさかいに…。ほな今日は、さいなら。」

 泰滋は一方的にそう言い放つと、背を向けたまま左手を軽く上げて、電車に乗り込んでしまった。

 泰滋さんたら、最初から私の家に来たくて、自分に断るいとまを与えないようにタイミングを計っていたんだ…。京都の人間は本当に何を考えているか解らない。泰滋が乗った電車を見送りながら、なぜか笑いが込み上げるミチエ。さあ、大変だ。お母さんになんて言おう…。もう湧きかかった涙など、とっくに引っ込んでしまった。

 

 自宅に戻った汀怜奈は、母親からさんざんお説教を食らった。当たり前だ。帰国後から訳の分らぬ奇行を繰り返し、未だ自分の家で寝ていないのだから。しかし汀怜奈は母からの説教を右の耳から左の耳に流し別なことを考えていた。一応橋本ギターの所在も確認できたし、ギター修理から回収したばかりの佑樹の状況から言って、あのギターがすぐ別な人手に渡るようなこともないはずだ。少し落ち着いて、いつもの生活のリズムに戻ろう。

 その日以降、汀怜奈は日課である朝2時間、午後2時間、夜2時間のギター練習を再開し、1週間ほど佑樹の家には近づかなかった。実際のところ、練習の他にも契約のプレス発表に関する業務で忙しかったのも事実だ。

 契約するDECCAの日本エージェントは、髪の毛を大胆に切った汀怜奈を見て絶句した。プレスリリース用の写真をロンドンで撮ったが、そこに写っている優美な汀怜奈には似ても似つかぬ容姿だ。『髪の毛を許可なく切らないこと』という条項を契約書に入れるべきだったと、エージェントはさかんに後悔していた。

 撮り直して『美女』のイメージを壊すわけにもいかない。だいたいロンドンで撮った写真は、プロフィールとともに世界中に配信されてしまっている。そのうち国内のメディアからも取材のオファーが殺到するだろう。エージェントに懇願されたこともあり、汀怜奈はメディアの取材には写真と同じ髪型のウィッグを付けて応じることにした。

 週が明けて生活に落ち着きを取り戻すと、汀怜奈はまたデニムパンツに野球帽という出で立ちで、母に見つからぬようこっそり家を出た。途中、高級和牛肉を東急百貨店の地下の食料品売り場で購入し、一路佑樹の家に向う。

 汀怜奈が佑樹の家の玄関を開けて挨拶をすると、短パン姿の父親がタオルで鉢巻をして出てきた。この父親はいつも家に居る。仕事をしていないのだろうか。佑樹から父親は売れない恋愛小説家で生計の為に家でエロ小説を書いていることを聞き合点がいくのは、だいぶ経ってからのことだ。

「やあ、お久しぶり。佑樹なら学校だけど…。」

 彼が学校で家に不在なのは承知で来た。ゆっくり佑樹の部屋で橋本ギターを触りたいのだ。

「部屋で待たせてもらえますでしょうか。」

「ああ、別に構わないけど…。」

 父親はそう言いながらも、汀怜奈が手に持つ東急百貨店の手提げ袋が気になるようだ。

「あの…先日は2晩も寝泊まりさせていただいて、ご迷惑をおかけしまして…これはお詫びと言うか、お礼と言うか…。どうか、ご笑納くださいませ。」

「えっ、そんな…気を遣わなくていいのに…。」

 父親は、言葉とは裏腹に相好を崩して嬉しそうに手提げ袋を受け取った。

「どうぞ、上がってください。」

 汀怜奈は玄関を上がり、佑樹の部屋を目指す。しかし、やおら立ち止まると振り返って父親に言った。

「折角でございますが、缶コーヒーは要りませんので…。」

 今日は父親に邪魔されたくない汀怜奈は、先手を打った。

「えっ、そうぉ…。缶コーヒー嫌いなら最初から言ってくれればいいのに…。」

 父親はぶつぶつ言いながらエロ小説の続きを書くために自分の部屋に戻っていった。

 

 佑樹の部屋に入った汀怜奈は、真っ先に橋本ギターに駆け寄った。今度は間違いなく手に取ることができた。高級材を使用しているわけでもなく、ことさら凝った装飾をしているわけでもない。何処にでもあるようなガットギターだ。さて抱えようとしたが、何度見ても、トップ板に後から張ったピックガードが我慢ならない。ギタリスタとして、そんなギターに対する冒涜が許せないのだ。ことギターやギター演奏に関することについては、エキセントリックなこだわりを見せる汀怜奈。それが天才ギタリスタたる所以なのだが、今回はこのままでこのギターを抱えるしかない。

 佑樹のベッドの上に腰掛け、格闘技の雑誌を積み上げて左足の踏み台にし、ギターを立て気味に右ひざの上に乗せる。慎重にチューニングをした。安価な弦で劣化が激しく、キーが安定しない。納得は出来ないまでも、これ以上チュ―ニングしてもよくならないレベルまで来ると、汀怜奈はギターをつま弾き始めた。ロドリーゴ氏の作品の中から、『小麦畑で』約5分の小作品である。

 弾きながら汀怜奈はあらゆる面をチェックした。抱き心地は?小ぶりで悪くない。音は?良い音でよく鳴っていると思う。共鳴を邪魔しているピックガードを除き、弦を新しいものに張り替えれば、もっと良い音が出るに違いない。しかしそれ以上のことはことさら発見できなかった。

 弾き終わって、橋本ギターを改めて眺めた。どこに『御魂声』などあるのだろうか。もしかしたら、演奏する時の気合いが足りなかったのか。汀怜奈は、静かに目を閉じて息を整える。自分がコンサートホールに居るイメージを作りあげ、そしてゆっくりと目を開けて演奏を開始した。汀怜奈はたちまちゾーンに入る。コンサートでの演奏の常ではあるが、汀怜奈はいつも指が勝手に動き出す感覚で演奏している。その感覚はすぐにやってきたが、やがて彼女は不思議な感覚に見舞われる。

 ギターの音が澄みきった汀怜奈の頭の中にしみ込んでくるのだが、その音はやがてある情景を、汀怜奈の頭の中に映し出し始めた。古ぼけた木造の倉庫。その前にある猫の額ほどのお庭。小さな女の子を膝に乗せた女性と作りかけのギターを持った男性が切り株のベンチに座っている。男性はどうやらうんちくを傾けながら、組立中のギターを説明しているようだ。得意そうに語る男性の話しに女性の膝の上の女の子は、とっくに飽きてしまい、庭に下りて雑草の花を摘んで遊び始めた。しかし、女性は相変わらずそのすずしい目元にとてつもない優しい笑みを浮かべて、辛抱強く男性の話しに耳を傾けていた。

 ああ、あの女性は目の前の男性を本当に愛しているのね…。汀怜奈はそう感じた。男性は時より、嬉しそうに女性のお腹をさすった。自分の話しをそのお腹にも聞かせているようだ。きっと彼とのふたり目の赤ちゃんが、お腹にいるのに違いない。やがてふたりは、誰かに呼ばれたのか、同じ方向に目を向ける。見ると、外から木土門をくぐって頑固そうな顔の老人が入ってきた。木土門…あれっ、この門はどこかで見たことがある。

 曲の終わりと同時に、汀怜奈の頭の中に映っていた映像も切れた。汀怜奈はしばらく呆然自失としながらギターを見つめていた。確かに他とは違う独特な感じはする…しかし、やはり求めている『御魂声』なんて聞こえてこなかった。師匠の話しは、やはり単なる噂ばなしに過ぎなかったのだろうか。

 それにしても、このギター。なんて内向的な音を出すギターなんだろう。自分に響くばっかりで、音が外へ出ていかない気がする。これじゃ、コンサートホールの客席にいるオーディエンスに音楽が届かないだろう。仮に『御魂声』を発したとしても、その声が聴衆に届くとは思えない。

 

 しばらくして汀怜奈が橋本ギターから視線を上げると、部屋の入口に佑樹が佇んでいることに気づいた。

「佑樹さん。お帰りになっていたのですか…。」

 汀怜奈に呼びかけられて、佑樹は頭をかきながら部屋に入ってきた。

 実は佑樹は、汀怜奈が2回目の演奏を始めた時からそこにいた。汀怜奈のギターの演奏があまりにも本物だったから、それを中断してはいけないような気がして、声がかけられなかったのだ。しばらく、汀怜奈のギターを聴いているうちに、その演奏に引き込まれるとともに、ギターを弾く先輩の姿に、今まで感じたことない切ない想いを抱いていた。

 到底自分が近づくことができないなにか崇高な先輩。それでいながら、あまりにもさびしそうで放っておけない先輩。近寄れない、でも傍にいてあげたい。この矛盾した想いに揉まれながら彼は入口に立っていた。

 汀怜奈を女性だとはゆめゆめ思っていなかった佑樹は、同性の先輩に対して感じる想いとしてはちょっと変かもしれないと、気持ちを切り替えて汀怜奈に話しかける。

「先輩…頂いたお肉で久しぶりにすき焼きするから、おやじが食べていってくださいって…食べていかれるでしょ。」

 帰らないでくださいと、心配そうな顔で覗き込む佑樹。佑樹の表情には、彼の心が透けて見える。汀怜奈は、そんな嘘がつけない純真な佑樹が好ましかった。橋本ギターの正体を知った今では、この家に長居をする理由はない。しかし、そんな佑樹の顔を見ては汀怜奈も断りづらかった。

「はい、ではご馳走になります。」

「やった、買い物してすぐ戻ってきますから、待っててくださいよ。」

 佑樹の顔がパッと明るくなって、制服もそのままに部屋を飛び出ようとする。その落ち着きのなさは、まるで主人が戻ってきたことを喜ぶ子犬のようだ。汀怜奈が笑顔で呼び止めた。

「お待ちになってください、一緒に行ってもよろしいですか?」

「えっ、買い物を?」

「佑樹さんさえよろしければ…。」

「自分は構いませんが…。」

 かくして、汀怜奈と佑樹は、エコバックを片手に、近くの商店街への買い物に、連れ立って歩くことになった。

 

「ところで先輩、本当にギターが上手いんですね。」

「それほどでも…」

「何の曲だが知りませんが…。」

 そう、ロドリーゴの小作品なんて、よっぽど好きじゃなければ知るわけがない。

「聞きながら、なんか…日差しの暖かい、田舎の畑にいる気分でした。」

 汀怜奈は驚いて佑樹の横顔を見上げた。

『佑樹さんはホントに曲名を知らないで、おっしゃってるのかしら?』

「あら、佑ちゃん。今夜お肉は要らないの?」

 商店街のアーケード。店の前を通り過ぎる佑樹を呼び止める声があった。見ると精肉店の冷ケースの小窓から、人がよさそうなおばさんが笑顔で顔を出している。

「ごめんねおばちゃん。今夜は肉は必要ないんだ。」

「そう…あら、今日は珍しくお連れさんがいるのね。」

「ああ。」

「綺麗な方ね。佑ちゃんのガールフレンドかしら。」

「なっ、なに言ってんだよ、おばちゃん。失礼だよ。先輩は男性なんだから。」

 慌てて言い返す佑樹。汀怜奈は、他人から指摘されても、いまだに自分を女だと疑うこと知らない彼を、馬鹿なのか、純粋なのか、はかりかねた。

「こら、ユウキ。素通りはねえだろうが。」

 魚屋の前では、いかついおじさんが佑樹を怒鳴り始めた。

「今日は、良いサンマがはいってるぞ。買ってけ。」

「残念ながらコーチ、今夜はすき焼きでーす。」

「ばかやろう、贅沢もいい加減にしろ。」

 佑樹は笑顔で首をすくめると、早々に店の前から逃げ出す。

「あのおじさん、自分の少年野球時代のコーチなんです。別に怒ってるわけじゃないんですよ。ただ、普通に喋れないだけなんです…。」

 佑樹が嬉しそうに汀怜奈の耳もとで囁いた。

 商店街の店を通るたびに、佑樹は声を掛けられた。そのひとつひとつに笑顔で答える佑樹。まるでこの商店街のすべての店が、親代わりとなって佑樹を育てたのがごとく、彼を可愛がっているようだった。

「あら、ゆうボウ。いらっしゃい。」

「こんちは、おばちゃん。今日はすきやき用の野菜もらうよ。」

「あら、今夜は豪勢ね…大切なお客さんでも来たの?」

「この先輩がとってもいい肉を持ってきてくれたんだ。」

 八百屋のおばちゃんが汀怜奈をまじまじと見つめた。

「先輩って…、野球部の先輩じゃないでしょ。こんな綺麗な人が野球をやるとは思えないし…。」

 詮索好きなおばちゃんの視線に耐えかねて汀怜奈は店の奥へ逃げ込んだ。

 

 さて、汀怜奈は山積みされた様々な野菜を前にして、動きが止まる。首をひねりながら考え込んでしまった。

『すき焼きに入れる野菜って、なんでしたかしら…。』

 海外生活も長く、家の食事も家政婦さんが作ってくれる洋食がほとんど。すき焼きなんて、音楽関係者と外で数回食べる程度で、具の野菜なんてあまり意識したことがない。だから、野菜の山を目の前にして、何を取ったらいいのか判断しかねていた。とりあえずもやしをひと袋持って、これは必要かどうか記憶をタグってみた。

「どうしました、先輩。なんか、もやしとモメごとですか?」

「いえ…。」

 どうも汀怜奈は、場違いなものを取り上げてしまったようだ。

「解決したらひとまずもやしを置いて、あっちの棚から、シイタケをひと袋持ってきてください。自分は長ネギ選んでますから…。」

 もともとプライドの高い汀怜奈は、人に指図されることが嫌いだ。しかし、とりあえずここは佑樹の指示通りに動いた方が無難だと切り替え、口をへの字にしながらも、おとなしくシイタケを取りに行った。

「ちょっと待ってくださいよ、先輩。これはシイタケじゃなくて、マッシュルーム。さすがにこれはすき焼きには入れないでしょう。」

 汀怜奈が持ってきた袋を見た佑樹が笑い出す。また汀怜奈はしくじったようだ。

「えっ、シイタケとマッシュルームは、全く別なものなのですか?」

「いえ、まあ同じキノコ類ですけど…。」

「では、なぜすき焼きに入れてはいけないのです。」

 度重なる失敗に、ちょっと傷ついた汀怜奈は、今度はムキになって言い張る。理不尽な主張ではあるが、頬を丸くふくらませて言い張る汀怜奈の顔を見ると、佑樹もなぜか心がゆるんで、その主張を尊重してあげたくなってしまった。

「…ですよね。今夜はマッシュルームでいきましょう。」

 汀怜奈は満足そうにマッシュルームの袋をかごに入れた。

「ところで、なにをなさってるの?」

 盛んに長ネギを指でハジいている佑樹を不思議に思って汀怜奈が聞いた。

「あぁ、これ…じいちゃんに教えてもらったんですよ。いい野菜は声でわかるってね。」

「お野菜が、しゃべるのですか?」

「ええ、嘘じゃありませんよ。ほら、先輩も聞いてください。このネギとこのネギの違い。」

 佑樹が汀怜奈の耳元で2本の長ネギを指で弾いた。

「違い…わかります?」

 汀怜奈も一流の音楽家だ。音を聞き分ける耳は、人並み以上のものを持っている。僅かであるが確かに音が違う。ただし、それは個体の差ではなく、ハジき方の違いから生じるのだと言われたらそれに反論する自信はなかった。ましてや、どちらの音がいい野菜を示しているのかなどわかるはずもない。

「こちらのほうが、『痛い。』って大きな声で文句をいいます。だからこっちが元気でいい野菜なんです。」

「文句?」

「はい…。それに、この白菜もそうです。」

 佑樹はふたつの白菜をそれぞれの手に取った。

「このふたつの白菜、大きさも重さもほぼ同じ、しかし揺すってみると…。」

 それぞれの白菜を両手で掴んで揺すってみせた。

「ほら…、こっちの白菜の方がおしゃべりで、自分を選んだ方がいいって盛んに売り込んでますよ。」

「わたくしには、サワサワと葉っぱがゆすられる音しか聞こえませんけど…。」

「じいちゃんが言ってました。元気な野菜はおしゃべりなんだそうです。だからその音は、声になるんだって…。」

 汀怜奈の心に、何かが引っかかった。

「ところで先輩、すき焼きに白菜入れましたっけ?」

 問われても汀怜奈にわかるわけがない。困って佑樹を見上げると、彼は白菜を掲げてニヤニヤしながら汀怜奈を見つめていた。すき焼きの具に無知な汀怜奈に、彼が半分意地悪で聞いていることに気づいて、彼女も鼻先をツンと上げて開き直った。

「私に聞かないで、そのおしゃべりな白菜に、直接伺ってみたらいかがですか。」

 

 商店街からの帰り道。野菜をいっぱいに詰め込んだエコバックを担ぐ佑樹の後ろについて、汀怜奈は黙りこくって歩いていた。

『楽器が声を出すなら、野菜が声を出すのも不思議な話しではないですわ。でもそれは、楽器や野菜の問題ではなくて、聞く人の耳の資質の問題なのかもしれません。結局、佑樹さんの耳が特別ってことなのでしょうか…』

 汀怜奈は改めて佑樹の後ろ姿を眺めた。

『…それにしても、佑樹さんって、不思議な男の子ですわね。』

 汀怜奈の思考が、野菜からそれを担ぐ佑樹へと無意識に移行していく。考えてみれば、八百屋で、男性…いや男の子と一緒に買い物するなんて初めての経験だ。こと買い物に関しては、自分はまるで役に立っていなかったが、佑樹に皮肉を言われながらも、買い物カゴをぶら下げて、売り場をぶらぶら歩くのはなんとなく心が休まる。

「それにしても、佑樹さんはいろんなことをよくご存知ですね。」

「ああ、母親が小さい時に家を出てしまったので…。その頃はまだ親父もサラリーマンで、家のこととか孫の世話とかは、全部同居していたじいちゃんがやってたんです。小さい頃は、自分もじいちゃんにべったりくっついてましたから、いろんなこと教えてもらいました。」

「そうなのですか…。」

 汀怜奈は自分の記憶を手繰ってみた。自分には、どうも祖父という存在の記憶がない。今度母に聞いてみよう。

「そのじいちゃんが、半年前末期の大腸がんだとわかって…。そしてら、オヤジのやつ、結構大きな会社に勤めてたんですが…急にやめちゃって、前からなりたかった恋愛小説家になるんだって、いきなり執筆活動を始めちゃうんですよ。」

 汀怜奈の脳裏に、白いタオルのハチマキをした短パン姿の父親が浮かんできた。

「結局恋愛小説じゃ食えないから、変な雑誌に掲載するエロ小説を書いて小銭にしてますけど…。」

「おじいさまはどちらに?」

「家族の手も足りないから満足なケアができっこないのに、どうしても在宅看護するんだって、無理やり家に連れてきちゃって…。奥の和室で寝ています。入院費ももったいないと思ったんじゃないですか、けちなオヤジのことだから…。」

 佑樹が小さくため息をついた。

「こんな時に急に会社辞めるとか、じいちゃんを無理やり連れ戻すとか…全くうちのオヤジは意味不明ですよね。」

「そうでしょうか…。」

 汀怜奈が、佑樹の前に回って彼の歩みを止めた。

「わたしには、おとうさまの気持ちがなんとなくわかるんですが…。」

「何がわかるんです?」

「おとうさまはおじいさまと残された時間を、少しでも長く一緒にいたいから…自分の生活をお変えになったんじゃないですか。」

 確かに表現の方法が不器用で、外からは意味不明に思われるかもしれないが、汀怜奈は佑樹の父の突飛な行動には家族愛が隠れていると感じていた。

 彼女はなぜかスペインの偉大なギタリスタ『ナルシソ・イエペス』氏を想った。イエペス氏は1952年に、パリのカフェで映画監督のルネ・クレマンと偶然知り合い、映画史上屈指の名作となるあの『禁じられた遊び』の音楽担当を依頼される。当時24歳のイエペスは映画の音楽の編曲・構成、演奏を一本のギターだけで行った。そして、その映画が公開されると、メインテーマ曲「愛のロマンス」が大ヒットし、彼は世界的に有名なギタリスタとなった。

 世界的に活躍した彼も、1990年頃に、悪性リンパ腫に冒されている事が発覚し、医師から演奏活動の中止を忠告されたが、ひるむことなくその後も演奏活動を続け、1996年3月にサンタンデール音楽祭に出演したのが最後のステージとなり、1997年5月3日に69歳で死去した。

 「芸術は神のほほえみである」との信念で年間120回にもおよぶ演奏会を、30年近く世界各地で展開したイエペス。彼が紡ぎ出す弦の音には、常に『家族愛』の香りが漂っていると汀怜奈は感じていた。

 汀怜奈は無性にギターが弾きたくなった。ギタリスタとしてのインスピレーションは、こんな平凡な暮らしの中にも存在しているのだ。

「佑樹さん、そう思いませんか?」

 汀怜奈はちょっとした感動に浸って、自分の言葉への同意を佑樹に求めた。しかし佑樹の心は、どうも彼女とは別なところにあったようだ。彼の視線の先をたぐると、それはアーケードの反対側にいる女子高生の一群に注がれていた。

 佑樹の顔をあらためて見ると、あらゆる部分が緩んでいた。鼻の下が伸びるとはよく言ったものだ。今の佑樹の顔がまさにその顔で、あの女子高生の一群の中に、佑樹の気になる女の子がいるということは誰の目にも明らかだ。

 すると佑樹は何かを思いついたように、突然買い物袋を地面に放り投げ、汀怜奈の前で手を合わせて両膝をついた。

「先輩…お願いがあります。」

「な、なんですか…急に…。」

「自分に、ギターを教えてもらえませんか?」

 やはり佑樹は汀怜奈の話を全く聞いていなかった。そんな相手の非礼をプライドの高い彼女が、許すはずもない。汀怜奈は無言で歩き去っていく。

 佑樹が買い物袋を抱えて慌てて追いかけて生きた。

「先輩、お願いしますよ。」

 背後からの佑樹のお願いに歩調も緩めず汀怜奈が冷たく言葉を返す。

「どうして今、急にギターなのですか?」

「なんか…先輩みたいに弾けたらいいなって思えて…。」

「どうしてですの?」

「どうしてって…先輩みたいにギターを上手くなってですね…、いろいろな人に自分の演奏を聞かせてあげたい…。」

「聞かせてどうするのですか?」

「いや…だから…幸せにしてあげたい…。」

 佑樹の答えに汀怜奈は首を振ってため息をつく。

「よくもまあ、大業に人類愛をネタにして大嘘を言いますよね。佑樹さんはただ、さっきの女子高生たちの中にいたひとりに、よく思われたいだけでしょう。」

「ぐっ…。」

 佑樹は、汀怜奈に言い当てられて次の言葉が出ない。

「つまり…女の子をモノにしたいから、ギターを上手になりたいってことですね。」

「モノにしたいって…それほど不純じゃないですけど、まあ意味的には近いかも…。」

「もちろん、お断りします。」

「先輩、そんな冷たいこと言わないで…。」

 足早に歩き去る汀怜奈を、野菜を揺らしながら佑樹は追いすがる。

「ねえ先輩、お願いだから可愛い後輩の恋を応援してくださいよ。」

 可愛い佑樹の願いといえども、汀怜奈はまったく相手にしなかった。女の子を口説くためにギターを弾くという佑樹の動機は、普通の男子高校生の動機として理解はできる。しかし、世界の一流ギタリスタの仲間入りをしている汀怜奈が、なんでそれに関与しなければならないのだ。そんなことに自分の技術を使ったら、自分にギター演奏の才と高い芸術的感性を与えてくださった神様に怒られてしまう。汀怜奈はすがる佑樹に構うことなく、顎をツンと上げてあゆみを早めた。

 

 そっぽを向いた汀怜奈は玄関に着いても、足早に家に上がり込む。追いすがるようにしていた佑樹も仕方なく、担いでいた重い買い物袋を、玄関にドカッと置く。その音に気づいた父親が彼に声をかけた。

「ああ、佑樹。もう一回買い物に行ってくれるか。」

 段取りの悪い父親は、カセットコンロを取り出して初めてガスが無くなっているのに気づいたようだ。

「それはおやじのミスだろ。おやじ行けよ。」

 汀怜奈に相手にされなかった佑樹は、父親に八つ当たり。仕方なく父親はぶつくさ言いながら、買い物に出かけた。

「先輩、準備ができるまでリビングで待っていてください。すぐできますから。」

 そう汀怜奈に声をかけて、佑樹は野菜を担いで台所に消えた。

 すき焼きの準備ができるのを待っていた汀怜奈は、手持ち無沙汰に佑樹の家の居間を眺め回す。ふと、棚に飾ってある家族写真に目が止まった。佑樹、そして佑樹の父親。ふたりの顔は知っているので、二人を囲むそれ以外の人々が家族なのだろう。写真に母親の姿はなかった。佑樹の兄。そして祖父。男だけの珍しい家族写真に見入っていると、奥の部屋から、人を呼ぶ声がした。

「あの…佑樹さん。」

 汀怜奈は台所に向かって佑樹に声をかけたが、忙しく立ち働く彼の耳には届かないようだ。仕方なく、汀怜奈は声のする方向へ進んでいく。すると声は、離れの和室から聞こえる。汀怜奈は静かに障子を開けてみた。部屋の中央に布団が敷かれていて、老人が寝ていた。

「その足音は、佑樹ではないようだが…。」

「はい、佑樹さんは台所で忙しそうで…。」

「そうか…申し訳ない、どなたか知らないが、そのコップの水を飲ませてもらえませんか。無性に喉が渇いて…。」

「はい。」

 汀怜奈は、枕元のコップに立っているストローを、老人の口に添えた。その老人は、さっき買い物の帰りに話を聞いた佑樹の祖父であろうと、汀怜奈も容易に察することができた。祖父は、三度喉を鳴らすと、頷いてもう十分だと汀怜奈に合図を送る。

「ありがとう…お嬢さん。」

 汀怜奈のコップを持つ手が止まった。

「私が女性であることが、おじいさまにはお分かりになるのですね。」

「あたりまえだよ。そんな柔らかな足音をたてるのは、女性以外におらんだろう。それに…」

 老人は、ちらっと汀怜奈を覗き見る。

「どんな格好をしたとしても、お嬢さんは女性らしさに溢れているよ。もし、女性だとわからないバカがいるとすれば、それはうちの息子か孫ぐらいなものだ。」

 汀怜奈は、クスッと笑った口元を手で隠した。

「それに、その爪…あなたは、プロのギタリスタだね。」

 汀怜奈は慌てて右手を背中に回してその爪を隠した。

「さっきの演奏はあなただったか…。」

「聞こえましたか?」

「ああ、美しい音色は聞こえたよ。聞きながら、懐かしい風景を想い出した。」

「そうでございますか…最近佑樹さんが手に入れたギターを弾かせていただきました。弦が新しければ、もっといい音が出ると思います。」

「いい音が出る…か。でも残念ながら、お嬢さんのギターから声は聞こえなかったね…。」

 老人の言葉に汀怜奈の体が凍りついた。スペインでロドリーゴ氏から出た言葉が、突然この老人から聞こえて、汀怜奈は心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。

「あの…おじいさま。」

「ああ、疲れた。悪いが寝かせてもらうよ。」

 しかし老人は、汀怜奈の反応にもお構いなしに目を閉じてしまった。しばらく間、驚愕の眼差しで老人を見つめていた汀怜奈だったが、老人の口元から寝息が聞こえてくると、諦めて居間に戻らざるを得なかった。

「あれ、どこに行ってたんですか?」

 居間のダイニングテーブルに、すき焼きの具材を並べていた佑樹が、汀怜奈の姿を認めて問いかける。

「奥の和室に…。呼ぶ声がしたから…。」

「ああ、じいちゃんですか。なんだろう。」

 離れに行こうとする佑樹を汀怜奈は呼び止めた。

「喉が渇いていらしたようで、お水をとって差し上げました。今は満足されて寝てらっしゃいます。」

「そうですか…。すみません。病人の世話までさせてしまって…。」

 済まなそうに佑樹は言ったが、汀怜奈は何か考え事をしているようでその言葉も耳に入っていないようだった。

 やがて、騒々しく佑樹の父親がカセットボンベを脇に抱えて戻ってきた。

「買ってきたぞ。さあ、すき焼き始めようぜ。」

 父親が、満面の笑顔で汀怜奈と佑樹に着席を促す。

「まず、脂を鍋に敷いて…。」

 父親が熱くなった鍋に脂を押し付けると、ジュッという音とともに香ばしい匂いが部屋に充満した。

「かぁ、さすが高級和牛。脂からしてモノが違うわな。」

 佑樹も父親もよだれを抑えながら、今まさに肉を入れようかと箸で挟むが、ひょっと汀怜奈を見ると、彼女は深刻な顔をしてブツブツ言いながら、野菜を指でハジいている。

「おい、佑樹。先輩…大丈夫か?」

 父親の囁きに、佑樹も首をかしげながらしばらく眺めていた。すると突然、汀怜奈が顔を上げた。

「佑樹さん。」

「はい?」

「ギターをお教えする話ですけど…。」

「えっ?」

「早速明日から始めましょう。」

「なんですか、この急展開は?」

 橋本ギターの正体を見切った汀怜奈ではあったが、今度は離れに寝ているあの老人の正体を暴かなければならない。不本意ではあったが、佑樹の家に通う理由をなんとしても作らなければならなかったのだ。

 驚く佑樹に構わず、汀怜奈はまだ肉も入っていない鍋に、手づかみで一心不乱に野菜を投げ込み始めた。

「野菜はまだ早いんじゃ…。先輩、何思いつめた顔してるんですか。大丈夫ですか?」

 佑樹は無言で野菜を放り込む汀怜奈の奇行を心配顔で見守った。

「おい、ちょっと待て佑樹、いま先輩が投げ入れたその白くて丸い物体はなんだ。」

 父親が野菜の中に混じって割下に浮かぶマッシュルームを箸で差しながら言った。どうやら父親は、汀怜奈の奇行よりも、これから入れる高級牛肉の味に悪影響を及ぼしかねない白い物体の方が、心配で仕方ないようだった。

 

 ミチエが泰滋とのデートから帰って、明日彼がやってくることを告げると、母が大騒ぎをはじめた。何も天皇陛下が来るわけではないと、いくらミチエが言っても、母は耳を貸さない。晩御飯もそこそこ、部屋の大掃除、茶菓子の準備、客用座布団の虫干しをしなければと騒ぐ母に、長兄は友達のところへ行くと言って早々に家を抜け出し、妹はそそくさと勉強部屋に引っ込んでしまった。結局、母の指示でミチエだけが大汗をかいてその準備をする羽目になった。

 夜遅くまで玄関の拭き掃除をしながらミチエは、なんで自分がこんな目にあわなければならないのかと、すこし泰滋を恨みたくなる。

 それでも、彼が来てどんなことになるのかと余計な心配をする余裕がないということは、彼女にとってはよかったのかもしれない。実際、母が指示をしたすべてのことを終えて、深夜に布団に入ると、ミチエは疲れきっていて、まぶたを閉じた瞬間に眠りの園に入っていた。

 翌朝、ミチエは日課である朝ご飯のお米研ぎのために、寝ぼけまなこをこすりながら庭先の水場に出た。朝の冷たい水に手肌をさらしていると、ミチエも徐々に目が覚めてくる。そこで、はたと今日の泰滋の来訪のことが心配になってきた。

『泰滋さんは、何時に来るかな?聞くの忘れちゃったわ…。』

『たぶん昼過ぎよね。海の幸が食べたいなんて言ってたけど、常識的には夕飯だろうから、昼食の時間を避けるのがマナーだもの…。』

『でも…昼過ぎに来て夕御飯まで何したらいいのかしら…。じっと家にいるのも嫌だし…。』

『だいたい、泰滋さんは、ここに何しに来るのかしら?本当に、海の幸を食べたいだけなのかしら…。それじゃただの図々しい貧乏学生だわ…。』

「ミチエさん…。」

『ビーフシチュー好きの貧乏学生なんて…傑作よね。』

「ミチエさん…。」

「きゃっ。」

 ミチエはいきなり耳元で声を掛けられて驚きのあまり尻餅をついた。

「そんな驚かないでください。外から何度も声かけたのに、返事してくれないから…。」

 恐る恐る見上げると、そこに泰滋が立っていた。

「泰滋さん…なんでそこに…。」

「やだな。今日お伺いすると言ったじゃないですか。」

「でも、まさかこんなに早くいらっしゃるとは…。」

「親戚の家にいても、やることがないんでね。それはともかく…そんなに長く地面に腰掛けていると冷えますよ。」

 笑いながら泰滋はミチエに手を差し伸べた。水道の水で冷え切った彼女の手には、泰滋の手がとてつもなく暖かく感じられた。腰についた土を払ってくれる泰滋にどう対応したらいいかわからないミチエは、とりあえず彼にあがなうこともできず、小さくお礼を言うと、またしゃがみ込んでお米とぎを再開した。

「これから朝食ですか?」

「泰滋さんはまだなんですか?」

 ミチエは顔も上げず答える。

「ええ、親戚の家を出たときは、まだ夜が明けてなかったですから…。」

「よかったら、ご一緒に朝食をいかがですか?」

「そりゃありがたい。」

 ミチエが見上げると、そこには満面に笑みを浮かべる泰滋の顔があった。

 

「ミチエさん。これは…この不気味なもんはなんですか?」

 朝食の食卓で、ミチエの家族と挨拶を済ませた泰滋は、食卓に並ぶ惣菜のひとつひとつを珍しそうに眺めていた。一方ミチエの家族は、突然現れて、屈託もなく他人の家の朝食を楽しむ泰滋にどう対応したらいいか分からず、唖然とした面持ちで彼を眺めている。

「それは、納豆ですよ。」

「こっ、これが…。」

 泰滋は絶句して、納豆が盛られた小鉢を、顔を背けて遠ざける。

「関東では、腐った豆を食べるとは聞いてはおりましたが…、本当だったんですね。」

 京都人の泰滋には、納豆の匂いが激しすぎるようだ。しかし、なんのことはない。10年先には、この納豆が彼の大好物になっているのだ。

「ミっ、ミチエさん。この味噌汁はなんですか?味噌の味がしません…それに白くないし…。」

「千葉じゃ、みんなこんな田舎味噌ですよ。甘い白味噌は、滅多に使いません。」

「そーなんですか…。」

 泰滋は、朝食に難癖をつけているのではない。ひとつひとつの生活スタイルが京都とは異なり、珍しくて仕方がないのだ。嬉々とした顔で質問する泰滋に、ミチエは丁寧に答えた。

「ああ、お母さん。これ、泰滋さんがお土産にお持ちいただいた京都のお漬物です。」

 唖然として箸も動かない自分の家族を気遣って、ミチエが盛んに話しかけた。

「朝食にはちょうどいい。どうぞみなさん京都の錦市場で買ってきた漬物ですが、味わってみてください。」

 泰滋が勧めても、なかなか手を付けない家族。

「お兄ちゃん、食べなさいよ。せっかく頂いたのに失礼よ。」

 ミチエに促されて、ついに長兄が動く。いつものように、漬物に乱暴に醤油をかけようとした長兄。それを見た泰滋が慌てて長兄を制した。

「ちょっと、待っておくれやす。お兄はん。」

「おにいはん?」

「京の漬物には、醤油はあじないですわ。そのまま、たべなあきまへんて。」

 慌てたせいか、泰滋から出てきたベタベタな京都弁に、家族全員の動きが一瞬止まる。そして顔を見合わせると、どっと笑い出した。

「わたし…なにか変なこと言いました?」

 いぶかしがる泰滋に、ミチエが笑いを噛み殺しながら言った。

「違うんですよ。泰滋さん。みんな、本物の京都弁を初めて聴くものだから、感動してるんです。」

 動機はともかく、泰滋がミチエの家族に受け入れられた瞬間である。決して京都弁の奇異を笑ったのではなく、泰滋がその本性を見せた気安さが、好ましく家族に伝わったのだ。これから先は、もはや宇津木家の一員のように自然に食卓に溶け込んで、みんなとともに朝食を楽しんだ。ミチエはそんな泰滋を見ながら、この男が、ひどく図々しいのか、それとも類まれなる順応性と包容力の持ち主なのか、はかりかねていた。

 

 朝食の後片付けを終えて、ミチエが台所から戻ると、泰滋は堀ごたつに横になり腕枕でぐっすりと寝込んでいた。この男は、いったい何時に家を出てきたのか…。夜明け前とか言っていたから、眠いのも当たり前だろう。しかし、初めて訪問した他人の家の堀ごたつで、こうもすやすやと眠れるものなのだろうか。

 ミチエは当然知るはずもなかったのが、泰滋はミチエと有楽町駅で別れた以来、ほとんど寝ていない。寝られなかったのだ。寝られないものだから、じっと布団の中にいるのもの我慢ならず、電車が動き出す前とは分かっていても親戚の家を出た。しかし、なぜ寝られないのか、その理由が彼にはわからなかった。ミチエの声とか顔が何度か頭にチラつくことはあっても、彼女が寝られない理由であるとはどうしても思いつかない。夜明け前のプラットホームで震えながら始発電車を待っている時も、ミチエに早く会いたいからとは微塵も自覚できないでいた。

 彼にも恋愛らしき経験はある。大学生になりたての頃、ある娘に初恋らしき感情を得たが、その娘の住家が八条より外側にあり、その地域の住人との関わりを嫌う父親により仲を裂かれてしまった。

 その時は、さすがの泰滋も父親と大喧嘩をして抵抗したが、母親に泣かれて結局父の意思に従わざるを得ない結果となった。それ以来、父親と古い風習へのふつふつとした抵抗意識が彼の潜在意識の中に潜むようになったのだ。しかし、その時ですら、その娘のことを想って寝られない日々が続いたということはなかった。だから、自分が寝られない理由がミチエに結びつけて考えることができないのも、無理はないのかもしれない。

 実際にミチエに会ってみると、朝食で腹が膨らんだせいもあろうが、なぜか急に眠くなった。薄れる意識の中で、この妙な充足感はいったいどこからくるのだろうかと、問う言葉も完結できないまま、強烈な睡魔に負けて堀ごたつで寝入っている。

 そんな彼の事情も知らずミチエは彼の寝顔を不思議な生物を眺めるようにしばらく見入っていた。

「みっちゃん。この大学生、何しに来たの?」

「きゃっ。」

 そばに妹が来ていることに気づかなかったミチエは、小さな叫び声をあげる。

「なによ、そんなに驚かなくたって…。」

「だって…。」

「それに、なによ。にやにやしながら大学生の寝顔を見つめちゃって。みっちゃんにそんな趣味あったっけ?」

「変なこと言わないでよ。」

「だから、このひと何しに来たのよ?」

「海の幸をご馳走になりたいって、言ってたけど…。」

「なんで、この人にご馳走する義理があるの?」

「文通でお世話になったし…それに昨日有楽町でご馳走になったし…。」

 ミチエもそれ以上答えようがなかった。

「ふーん。なら、夕御飯食べたら帰るの?」

「だと思うけど…。」

 その時この姉妹は、いやミチエの家族全員がそうであったが、泰滋がその後多摩川の親戚の家に帰ろうとせず、3泊もミチエの家にとどまることになろうとは考えもしていなかった。

 

 ミチエと泰滋は、たったふたりで保田の海岸に居た。2月の海岸に人が居るはずもない。泰滋は、寄せ打ちそして引く潮の波と戯れながら遊んでいる。それをミチエはコートの襟を立てて、砂浜の流木に腰掛けて眺めていた。

『ねえミチエや。石津さんは、いつお帰りになってくれるんだい?』

 急に母の言葉を思い出されて、ミチエはクスリと笑った。母は、一応客である泰滋に毎晩のようにご馳走を振る舞い、もう息切れしているようだった。しかし泰滋は、初めて来た日以来、今日で4日目にもなるがなぜが帰ると言い出さなかった。

『ミチエさんの家は、毎晩ご馳走なんだね。京都の自分の家とは大違いだ。』

 そんなのんきなことを言っている泰滋に、人のいい母は追い出すようなことは口に出せない。長兄は、泰滋と気が合うようで、同じ部屋に並べて布団を敷いて寝ても、まったく気にしていないようだった。ただ、妹だけが勉強の邪魔になるからといって、早く帰ってもらうように言えとミチエに迫る。

 ならばミチエはどうだったのだろうか。後日友人に、この3日間に一体何をしていたのかと問われたことがあったのだが、全く覚えていないと答えるしかなかった。確かに、二人のあいだに特徴的な行動や言動があったわけでない。ただ淡々と変わらぬ日常が過ぎ、その日常の風景のひとつとして泰滋が居たに過ぎないのだ。言葉を変えれば、この3日間、彼がずっとそばにいたのにも関わらず、なんの興奮も、嫌味も、不安も、気まずさもミチエに感じさせなかった。

『これって…泰滋さんといると安らぐってことなのかしら?』

 ミチエは自問自答するが、20歳にも満たないミチエにはちょっと難しい問なのかもしれなかった。

「やあ、やっぱり海っていいですね。」

 波際の遊びから戻ってきた泰滋が、ミチエの隣に座りながら言った。今日は、急に泰滋が海を観たいと言い始めて、ふたりでここにやってきたのだ。

「連れてきてもらって、良かったです。無理言ってごめんなさい。」

「今日で4日目にもなるのに、今までどこへ行きたい、何を食べたいなんてわがまま言わなかった人が、珍しいですね。」

 笑顔で皮肉るミチエに、泰滋が頭を書きながら応じる。

「京都は盆地で、海がないでしょう。時々広い海が見たくなるんです。」

「そうですか…。」

「それに、海に来なければわからなかったこともあるし。」

「例えば?」

「例えば…風です。」

「風?」

「ええ、京都の風は、樹々を揺らしてその音を発するのですが、風自体に音があるなんて、海に来なければ気づきませんよ。」

「そーなんですか…。」

「それに、風の表情。」

「表情?」

「ええ、盆地の風は無表情ですけど、浜辺の風は時に安らぎ、時に怒り、時に悲しむ。実に様々な表情を見せますよね。」

「でもそれは、風の表情ではなくて、風を受ける人の気持ちが風に写っているだけじゃないんですか?」

「うっ、女子校生の割には結構深いこと言いますね。」

 ミチエはコロコロと笑った。

「要するに、いままで風に表情が感じられなかったのは、盆地のせいじゃなくて自分の感受性が乏しかったからだと?」

「そこまでは言いませんが…泰滋さんは、怒ったりしないんですか?」

「そりゃあ、怒ることもありますが…。」

「そんな時はどんな顔になるんですか?」

「えーっと…。」

 しばらく顔の筋肉を動かしていた泰滋だったが、諦めたようにため息をついた。

「わかりません。京都人は感情を顔に出す訓練を受けてないんで。」

「そんなことはないでしょう。泰滋さんの笑顔は素敵ですよ。」

「あ、ありがとうございます。」

 屈託のないミチエの言葉に、泰滋が頭をかきながら赤面する。

「でも、実はその笑顔がくせもので、色々な感情に襲われながらも、京都人はその笑顔の下にそれをひた隠すんです。」

「あら、怖いことを…。」

「ええ、それでよく言われることなんですが、京都人の本心は寝顔に現れるんですって。」

「ならば泰滋さんは安心ですね。泰滋さんの寝顔は、その笑顔よりも何倍も可愛くて素敵ですから…。」

 ミチエは泰滋に見つめられて、自分言った言葉の意味に気づき、赤面しながらうつむいてしまった。泰滋も視線を水平線に戻し、しばらく黙っていた。

「今夜、親戚のうちに戻ります。母親に言い付かった用がありまして…。母の実家…山梨県の塩山なんですが…行かなければならないのです。」

「そうですか…。」

「明日、塩山で1泊したら、また親戚の家に戻り…その次の日には京都に戻ります。」

「はい…」

「本当にお世話になりました。」

「いえ、十分にお構いもできず…。」

 ミチエも泰滋も、お互いに溢れてくる気持ちに手を焼いていた。ふたりとも、どうしたらいいか分からず、ただ黙って水平線を見つめていた。

 

 翌日の夜、ミチエは庭の軒先から家屋の屋根の上に浮かぶ月を眺めていた。月は満月なのに、彼女の胸は三日月のように欠けた空虚感に苛まれていた。言い尽くされた表現ではあるが、胸に大きな穴があいたようだ。こんな感じは、以前は感じたことがなかった。

 ミチエにしてみれば、長兄とともに泰滋を千葉駅に送っていき、彼の背中を見送った時からこの空虚感は続いている。泰滋が改札の奥に消えるのを見ながら、5日前に初めて会ったばかりの彼なのに、長年過ごした家族と離別するような気分になるのはなぜなのか、合点が行かなかった。

「おう、お前ここにいたのか?」

 見ると長兄が勝手口に立っていた。ミチエは別に返事もせずまた月に視線を戻した。

 仕方なく長兄は、サンダルをつっかけると、大きな体を揺すりながらのっそりとミチエの横に立った。

「お前、こんなところで何やってんだ?」

「別に…。」

 長兄は、しばらく月に照らされているミチエの横顔を見ていたが、くわえていたタバコに火をつける。

「お前に…月を眺めて感傷にひたるなんて乙女心があったなんて意外だな。」

「うるさいわね。何しようが私の勝手でしょ。」

「なんか…不機嫌そうだな。」

「私に用がないならさっさとあっち行ってよ。」

「用があるから、お前を探したんだろう。」

「だから、何?」

「実はな、部屋でこれを見つけてな…俺のじゃないから、どうも、泰滋くんが忘れていったらしい。」

 長兄の手にしているものを見ると、万年筆だった。柄が木製でだいぶ使い込まれている。これは、1年以上にもわたり彼女への手紙を書き綴った万年筆に違いないとミチエは直感した。これが彼の手元から失われてしまったら、自分あての手紙を書く事ができない。

「お前、彼の住所知ってるんだろう。送り返して…。」

 長兄の言葉が完結する前に、ミチエは彼の手から万年筆を奪っていた。これがなければ、もう二度と自分あての手紙は届かないのではないか。そんな恐怖をミチエは感じた。何が何でも彼が京都に帰ってしまう前に、これを返さなければ。たしか、彼の手紙の中に、多摩川の親戚の家の住所が書いてあったような気がする。彼が塩山から帰っているかどうかわからないが、彼が京都に帰る前にこの万年筆を届けよう。奇妙な強迫観念に駆られて、ミチエは、多摩川の家の住所を確認するために一目散に自分の部屋に駆け込んだ。

 彼に会いたいのなら、そんな理由がなくとも素直に会いに行けばいい。しかし、この時代では、そんな素直な気持ちを表すことが不健全とされていた。だから、彼が忘れた万年筆が、ミチエの気持ちを救ったと言えないこともなかった。

 

 泰滋は、母の実家の庭先で、山梨の山並みの上に浮かんでいる月を眺めていた。こうしてひとりになって、顔に山の冷気を当てていると、今自分の心が何を求めているのかがはっきりわかる。それと同時に、自分が求めていることを、妨げる可能性があるものが何かも、はっきりと分かるのだ。

 彼にとって、父親と京都(ふるさと)は同義語だった。いずれも手ごわい相手だ。かつて自分の初恋もボロ切れのように捨てざるを得なかったのは、彼らに屈した自分の弱さではなかったか。あの頃の自分に比べ、今の自分に強さが増していると言えるのだろうか。

「泰滋ちゃん。部屋に戻らんかい。温かいほうとうをつくったで。山の夜は冷えるから、体に毒じゃ。」

 彼に声をかけたのは、伯母である。

「はい。」

 泰滋は素直に答えて居間に戻ると、進められるままにほうとうを頬張った。

「ところで、泰滋ちゃん。なんか元気ないようじゃが…。」

「そうですか?」

「悩みでもあるのかの?」

「嫌だなおばちゃん。悩みなんかありませんよ。」

「そうかい、それならええんじゃが。」

「ただ、急に考えなきゃならないことが増えちゃって…。」

「それは悩んでると同じじゃろ。」

「そうでしょうか…でもどうしようかと迷っているわけではないんですよ。自分のしたいことは、はっきりしているんです。ただ、それをいつ言い出すべきなのかがわからないんです。」

「それを迷ってるというんだがや。」

「はは、確かにそうですね。」

 泰滋は笑いながら、ほうとうの熱い味噌仕立ての汁をすすった。そんな彼をしばらく眺めていた伯母であったが、厚手のどてらを羽織る背を一層丸めながらつぶやく。

「ああ、本当に冷えてきたのぅ。この調子だと明日は雪じゃ。」

「そうですか。」

「この時期が一番冷え込むのだから仕方がないが、山の暮らしをしてると、人はただ耐えてじっと春を待つことだけを覚えてしまう。…あら、泰滋ちゃん、まだほうとうはあるで、もう一杯どうじゃ?」

「ああ、ならお椀に半分だけください。」

 伯母は、泰滋から空のお椀を受け取ると、ほうとうを鍋からすくった。

「春は必ずやってくるから、待つのはええんじゃが…。ほら、こんくらいでええか?」

 泰滋は礼をいいながら伯母からお椀を受け取った。

「他のことは待ってて、本当にええんかったかと、思う時がある。」

 伯母の言葉を聞いて泰滋の手が一瞬止まった。しばらく、椀の中の野菜を無言で眺めていた彼だったが、やおら箸を動かし始めると、2杯目のほうとうを勢いよく口にかきこみ、最後の一滴までお椀の汁を飲み込んだ。

「ああ、美味しかった。ありがとう伯母ちゃん。ところで…。」

 泰滋は空のお椀を伯母に差し出すと、満足そうな笑顔で言った。

「電報局は、確か駅のそばにあったよね。」

 泰滋は何かを決意したようだった。

 

 ミチエが家を出た時ちらついていた雪は、やがて本降りとなり、街の屋根や道を白く覆う。運が悪いことに、その日は関東史上にも記録される大雪の日となった。泰滋の万年筆を握りしめて、電車に乗っていたミチエだが、車窓が次第に雪に塞がれていくと、家を出た時の勇気もどこへやら、だんだん心細くなっていく。通常なら、総武線から山手線に乗り継ぎ、目黒で東急目蒲線に乗り換え多摩川へと、2時間程度の道のりなのだが、雪のために大幅に遅れて2時間経ってやっと、秋葉原である。

 山手線に乗り換えたはいいが、ここも停止と発車を繰り返して、1時間以上もかけて目黒にようやく到着した。ミチエはしばらく駅のベンチで休むことにした。今まで、締め切った車内で蒸し暑い人熱れに揉まれて、ミチエも気分が悪くなっていたのだ。バスケットで鍛えたミチエの心身でも、今日の雪は体に堪える。無謀にも、こんな日に家を出てきてしまった自分に後悔の念が押しよせる。

 雪はまだ降り続いていた。これから先へ行けるのか、うまく行けたとして果たして帰れるのか。ミチエは全く予測ができない。ヘタをすれば、駅での野宿を余儀なくされるかもしれない。いずれにしろ、か弱い19歳の乙女には、危険がいっぱいだ。

 泰滋は、今日塩山から帰ってくると言っていたが、こんな雪の日に戻れるわけがない。もう万年筆を返すなんてあとにして、このまま家に帰った方が良い。19歳の乙女として当然のあるべき判断だが、引き返そうとしても体が言うことを聞かなかった。

 一度目指したことは、何が何でもやり遂げろ。悲しいかな、インターハイまで行った体育会系のバスケ女子は、いつまでたってもコーチの教えを自分の身から拭えない。ここまで来ると、万年筆を届けて泰滋に会えるかもしれないとか、手紙をまた書いてもらいたいとか、そんなロマンチックな期待はとうに頭から消えていて、ただやり始めたことを途中で断念することが悔しかった。

 やおらベンチから腰を上げると、ミチエは果敢にも目蒲線の改札に歩みを進めた。蒲田行きの電車はまさにいま発車しようとしている。改札に近い、最後尾の車両に慌てて駆け込んだものの、同じように駆け込んだ多くの人の人熱れに、気分が悪くなる。より空間のある車両を求めて、ミチエは進行方向の車両に歩みを進めた。

 車両と車両をつなぐ連結部分のドアに、ようやくたどり着いたミチエであるが、気分の悪さももう限界に達していた。相変わらず電車は、停止と発車を繰り返して、遅々として進まない。意識も朦朧としてきた。真夏のスパルタ練習に耐え抜けたのも、チームメイトが居たからこそなのだろう。たったひとりでは、自分はこんなにもか弱いものなのか。ミチエの膝の力が抜ける瞬間、彼女を抱きかかえるものがいた。

「ミチエさん!なんで、こんなところに居はるんですか?」

 ミチエが、朦朧とした視線で声の主を見ると、それは泰滋であった。

 こんな映画のような話しは、後日誰に話しても、決して信じてもらえなかったという。しかし、信じもらえないならそれでもいい。この時ミチエは薄れる意識の中で、この男が自分の『運命の男』であることを確信したのは事実なのだから。

 

 ミチエが目を覚まして、まず一番最初に目に映ったのは、心配そうに覗き込む泰滋の顔だった。

「きゃっ!」

 驚きと恥ずかしさのあまり、布団の中に顔を隠すミチエ。

「なんで泰滋さんが…。」

「聞きたいのはうちの方です。しんどい思いして雪の塩山から帰ってきた電車の中に、ミチエさんがいるなんて…。」

 ミチエは布団の中で、徐々に記憶を取り戻していった。

「ここは?」

「親戚の家です。」

「わたしは…。」

「貧血のようですね。朝ごはん食べてないでしょ。」

 ミチエは返事のしようもなかった。

「さあ、いつまでも布団をかぶっていないで、ちゃんと答えてください。なんでこんな日にあんなところに?」

「泰滋さんが…うちに万年筆忘れていかれたから…届けようと思って…。」

 布団の中からポツポツと答えるミチエ。

「まったく、そんなことで…。こんな日に家を出たらあかんです。心配させんといてください。」

「はい…すみません…。あの…。」

「ご自宅には、親戚のおばちゃんが連絡してくれましたわ。今日は、ゆっくり休んで、明日、雪がやんだら帰りましょう。僕が送りますさかいに。」

「えっ、京都には帰らないのですか?」

 泰滋は、ミチエの問に答えようともせず言葉を続ける。

「それに、せっかく届けていただいても、しばらくはその万年筆で手紙を書くつもりはないですから。」

「えっ?」

「これからは、言いたいことや聞きたいことは書かずに直接話します。」

 ミチエが、泰滋の言葉の意味を測りかねて、布団の中から恐る恐る顔を出すと、そこには無邪気な笑みを浮かべた泰滋の顔があった。

 一方泰滋の笑顔とは裏腹に、難しい顔をして、列車に揺られている人物が居た。泰滋の父、泰蔵である。彼の手には電報が握られていた。

『ツマニシタキヒトアリ。ケッコンモウシコムノデ、ドウセキタノム チチドウイセヌバアイハ カエラズ ヤスシゲ』

 列車は、泰蔵の心内を表すように、雪の中を猛烈な汽笛を上げながら、東京に向かって突進していた。

説明
天才ギタリスト汀怜奈は、ロドリーゴ氏から与えられた命題『ヴォイス』を奏でるギターを求めて、その美しい髪を切った。昭和の時代を生きた人々、そして現在を生きる人々との様々な出会い。悠久に引き継がれる愛のシズルを弦としたギターで、汀怜奈は心の声を奏でることができたのだろうか。
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