凪の海 - 4
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「さて、先輩。どこから始めます。」

 汀怜奈が練習と演奏活動で忙しい合間に時間を作って、苦労してやってきたことなど全く知らない佑樹。橋本ギターを抱えた彼は、ベッドの端に腰掛けて呑気に彼女を迎えた。汀怜奈は佑樹を一瞥しただけで、彼に演奏家としてのセンスがまったくないことがわかる。とにかくギターを構える姿がシマらないのだ。しかもなぜギターを弾くのにサングラスをかける必要があるのだろうか。音楽に向かう姿勢が全くなっていない。

「まずはそのサングラスを外して…。」

「やっぱり…。」

 多方そう言われることは予想したいたのだろう。佑樹はニヤニヤしながらグラスを外した。

「次に、ギターに貼り付けてあるピックガードをはがすことから始めていただけます。」

「えっ、そんなことして大丈夫なんですか?」

「ええ、もともと、そのギターにはピックガードなんてついていなかったのですからいいのです。私に教わりたいなら、言うとおりにしなさい。」

 佑樹は首をかしげならも、渋々汀怜奈の教えに従う。苦労して爪を立てると、セルロイドで出来たピックガードを剥がし始めた。

「ところで先輩って変わったところありますよね。」

「なんですの?」

「いつも怒ると女言葉になる。」

「そんなことどうでもいいの。作業に集中しなさい。いいですか、トップ板を傷めないようにゆっくりと慎重に剥がすの…だよ。」

 汀怜奈の厳しい指導に、佑樹も慎重に作業をすすめた。

 剥がれた場所の木地が他の場所と相当に色が違う。かなり昔から貼られていたのだろう。汀怜奈はそんな昔からいじめられていたこのギターを思うと、可哀想で涙が出そうだった。ピックガードが取り除かれたら、次になんとかしたいのはスクラップピンだ。しかし後から取り付けられたスクラッププピンについては、ギターの尻に穴を開けての取り付けだから、下手に外すとギターを傷つけかねない。汀怜奈はギターに手を合わせて謝り、泣く泣く我慢することにした。

「おわりました。」

「そう、次は弦の張替え。」

 汀怜奈は自分のデイパックから弦を取り出した。家にあるプロ仕様の弦(ダダリオ社のPro-Arte Normal Tension)を持ってきたのだ。汀怜奈は演奏では、ハードテンションを使うのでノーマルテンションはたくさん余っていた。

 ブリッジの弦の留め方を佑樹に教えると彼は器用に弦を張り替えた。料理もこなす佑樹のことだから、器用なことは間違いないのだが、なぜかギターを弾こうとして構える姿より、ギターをいじる姿にオーラを感じる。汀怜奈は佑樹がギターと奮闘する姿を眺めながら不思議な気分に浸っていた。

「知っていますか?」

 汀怜奈が手持ち無沙汰になって、作業中の佑樹に話しかけた。

「弦を使った楽器は太古の昔からあるのですけれど、ギターの基礎となるものは16世紀にスペインで誕生したと言われています。」

「そうなんですか…。」

「ただし、今のように6本の弦の形になるまでは18世紀の末まで待たなければなりません。」

「ふーん。」

「同じ時代に生まれた弦楽器としてはヴァイオリンとかチェロとかあるのですけれど、ギターにはそれらにはない最大の長所がありました。」

「なんです?」

「たった一つの楽器で、同時にいくつもの音が出せるということです。」

「それって、長所なんですか?」

「ヴァイオリンとかチェロとか、管楽器もそうですけど、ほとんど単音でメロディしか奏でられないでしょう。だから、和音をつくろうと思ったら重奏とか楽団にしなければならなかったのです。」

「うん…言われてみればそうですね。」

「でもね、それと同時に致命的な欠点もありましたの…ですよ。」

「致命的な欠点?」

「ええ、それは音量なのです。今でこそ電気処理で大きな音が出せますが、当時はそのようなものはありませんでしたから、音量がヴァイオリンとかチェロに遠く及ばなかったのです。3メートルも離れればもう音が聞こえにくくなってしまいますの…です。」

「そうなんだ…。ところで先輩、弦張り終わりましたよ。」

 汀怜奈がチェックする。弦にねじれもなく綺麗に張れているようだ。次は、バッグからAの音叉を取り出し、チューニングを教える。佑樹は5弦を起点にチューニングを始めた。汀怜奈はチューニングの音にも構わず話を続ける。

「だからギターは交響楽の楽器にはなりえなかった。他の楽器の音に負けてギターの音など埋没してしまいますから。」

「ギターって、昔はとってもひ弱な楽器だったんですね。」

「そうです。ギターは、楽器を囲むほぼ2メーターの範囲で音楽を聞かせる楽器というのが本来の姿だったんです。」

「それでは多くの人に聞かせられませんよ。」

「ええ、ギターを囲むほぼ2メーターの距離と言ったらそこに居るのは、演奏者自身か、演奏者の大切な人ぐらいなもんでしょうから。」

「大切な人って…。」

「例えば、家族とか、恋人とかですよ。」

「そうなると、音楽を聴かせるというよりは、なんか…語るって感じですね。」

「そうです。ですから、彼女をモノにしょうとするのに、ギターを選んだのは、案外正しい選択だったのかもしれませんね。」

「モノにするなんて…、やめてくださいよ。人ギキの悪い。」

「そうでしょ?違うのですか?私は間違ったこと言ってますか?」

「先輩…また怒るんだから…。」

 佑樹は汀怜奈の皮肉の矛先をかわそうと話題の方向を変えた。

「でも今の自分みたいに恋人がいない場合は、ギターを弾くとどうなっちゃうんですかね。」

「そうですね…当然佑樹さんがギターを弾けば、佑樹さん自身に聞かせることになりますね。」

「ああだからか、それでじいちゃんが言っていたことがわかった。」

 汀怜奈は、会話にじいちゃんが出てきたことに色めきだった。

「おじいさまは…なんと?」

「高校野球が終わって、何もヤル気になれずダラダラしていた時にギターを勧めてくれたんですが…。『人に聞かせる楽器もいいけど、自分自身で自分に音楽を聞かせるギターってのも、いいと思わないか。』って。」

 汀怜奈は新ためて老人のギターに関する造詣の深さを知った。やはりあのおじいさまはただものじゃない。

「先輩、チューニング終わりました。」

 汀怜奈はギターを受取って、チューニングをチェックした。張りたての弦では、チューニングが狂いやすいのだが、音は正確に調整されていた。さすが野菜のおしゃべりを聞き分ける佑樹の耳はチューニングも正確だ。

「しかも見てくださいよ、先輩!」

 佑樹が嬉しそうにギターのヘッドを指差して大声を出した。

「ほら、みんな同じ方向を向いてら。」

 彼の指差すところを見ると、ギターのペグのヘッドが、みんな同じ方向に揃っている。『うそ…偶然でしょ?』胸騒ぎというか、期待感というか、汀怜奈は佑樹がギターをいじると何か不思議なことが起きるような気がしてならなかった。

「あの…。」

 見ると佑樹の父が部屋の入口に立っていた。

「なんだよ。おやじ。なんか用?」

 突然現れた父に不満そうな佑樹。

「いや、コーヒーでもどうかな…なんて。」

 父の手にあるお盆には缶コーヒーとお皿の上にたっぷりのカントリーマムがもられている。

「そんなこと頼んでないから。欲しい時は自分で取りに行くから。」

「そうか…なら、下に戻るが…なんか楽しそうだな…なんて。」

 佑樹の剣幕に押されモジモジとつぶやく父親。

「どうぞはいってください。ご一緒にコーヒーブレイクしましょう。弦も張り替えたし、佑樹のチューニングしたギターで、試しに一曲演奏してみますから。」

 佑樹の不満顔にも構わず、汀怜奈は笑いながら父親を迎え入れた。

 

 佑樹とのギターレッスンをはじめてから、1カ月が経った。

 汀怜奈は今、渋谷のセルリアンタワー東急ホテルの高層階にあるエグゼクティブルームにいる。音楽雑誌からの取材がやっと終了し、このあとBunkamura『オーチャードホール』に向かわなければならない。

 汀怜奈は豪華なソファーにドカッと倒れこむと、そばに腰掛けている母親に尋ねる。

「お母さま。すぐに部屋を出なくてはならないのかしら?」

「1時間ぐらいは部屋で休めるそうよ。」

 マネージャーに時間を確認して、汀怜奈の母親が答えた。汀怜奈は、ため息をつきながらソファーの上に、演奏活動用のウィッグを脱ぎ捨てる。

「汀怜奈さん。何か飲む?」

「はい。ペリエのガスをライム付きでいただけるとありがたいのですが。」

 母親は、娘のためにルームサービスにオーダーすると、ソファーに横たわる娘を優しく見つめながら言った。

「頑張り屋さんの汀怜奈さんだから、こんなに忙しくなると体を壊さないかどうか心配だわ。」

「心配はいりませんわ、お母さま。」

 娘に笑顔でそう言われても、心配が尽きないのは親の常である。母親は最近気になっていることを切り出した。

「ところで…どんなに忙しくても、週に一度はひとりで外出されているそうね。」

「あら、ご存知でしたか…。」

 汀怜奈は母親の視線から逃れるように部屋の大窓に近づき、副都心の高層ビル群を眺めた。

「どこへいらしてるのかしら?」

 もちろん佑樹の家にレッスンに出かけているのだ。母親の質問を背中で受けて、正直に答えなければと思うものの、ならばなぜそんなことをしなければならない羽目になっているのか説明仕切れる自信がない。何か適当な答えを探しているうちに、汀怜奈の心になぜかギターをいじる佑樹の姿が風船のように膨らんできた。

 忙しい合間をぬって、なんとか佑樹とのギターレッスンを3回ほど持つことができたが、本来の目的である佑樹のじいちゃんの正体を暴き、その口からギターの『声』の秘密を聞くというミッションは、いっこうに進まないでいた。

「それにしても…いくら教えても少しも上手くならないですわね。」

 小さく独り言を言いながら、自然と汀怜奈の口元に笑が浮かぶ。言葉は耳に届かなかったが、母親はその小さな笑を見逃さなかった。

「まさか、汀怜奈さん。好きな人ができて、デートされているなんてことは…」

「そんなこと…あるわけないじゃないですか。」

 必死に母親の質問をかわそうとする汀怜奈。

「確かに、男みたいな格好して外出して…デートするような服装ではないと、みんな言ってたけど。」

「そんなことより、お母さま。東京スカイツリーがあんなに近く見えるなんて不思議。こちらにいらしてご覧になったらいかがです。」

 首をひねりながらも、母親は娘の傍らで東京スカイツリーを眺めた。汀怜奈は母親の腕を取りながら、東京スカイツリーを眺めた。しばらくすると、また心の中に佑樹の風船が膨らんでくる。

 佑樹に演奏者としてのセンスなどないことは、汀怜奈は最初から見抜いていた。しかし佑樹に言わせれば教え方が下手なのだそうだ。プライドの高い汀怜奈だ。そんな言われ方したら腹も立とうと思うのだが、どうしてもその場でレッスンを打ち切って席を立つ気にはなれないでいた。

 確かにおじいちゃんに対するミッションもあるのだが、いつの間にか二人のレッスンは、ギターが上手くなるという目的はどこへやら。どちらかといえば、ギターをはさんでの楽しいおしゃべりの時間という色合いが濃くなっていたのだ。そのひと時が汀怜奈には、心地よかった。

 今までギターをはさんで対峙していた相手は、師匠でありそして観客であった。彼らを前に切れるような緊張感でギターを抱えながら音楽に立ち向かっていた。それがどうだ。ギターを弾きながらしゃべり、喋りながらもギターを弾く。こんな人とギターの関係は、汀怜奈にとってはまったく初めての経験だった。

 しかし、これでいいのだろうか。自分は音楽芸術の高みへ進まなければならない。それは自分の宿命のような気がしていた。そのためには、波間に浮かぶような心地よさに揺られて、貴重な時間を費やしている暇はない。佑樹のおじいちゃんからのアプローチが難しいなら、早く見切りをつけて新しいアプローチを見つけるべきではないか。汀怜奈は芸術家として、少なからぬ焦燥感を抱いていたのも事実だった。

 

 ドアチャイムが鳴った。

「あら、きっとルームサービスよ。」

 母親がドアに向かおうすると、汀怜奈が笑顔で制する。

「私が出ますから、お母様はソファーに座ってらして。」

 汀怜奈はドアに近寄るとチャイムを鳴らした人物に声をかける。

「どなたかしら。」

『はい、ルームサービスでございます。』

 ドア越しにくぐもった声。汀怜奈は、ドアを開けた。

「お待たせいたしました。ご注文いただきましたものを…。」

 汀怜奈はボーイを見て驚愕する。髪を綺麗に取りまとめられ、体にピッタリの制服を着ていて、いつもとまるで雰囲気は違うが、紛れもなく佑樹だったのだ。なんでこんなところに…。そういえば渋谷のホテルでバイトしているって聞いたことがある…。なぜか得体の知れぬパニックに陥った汀怜奈は、乱暴にドアを締めた。部屋に入りかかっていたワゴンが閉められたドアにはじかれて、上に乗っていた食器と飲み物が倒れてしまった。

「汀怜奈さん、なんてことしてるの?」

 娘の奇行に母親が慌ててドアに走り寄る。汀怜奈はドアを背に、母親にドアを開けさせまいと踏ん張っていた。仕方がないので、母親はドア越しに外の佑樹に声をかけた。

「ボーイさん、大丈夫ですか?」

『はい…すみません。ご注文のお飲み物をこぼしてしまって…お持ちし直しますので、もうしばらくお待ちください。』

 ドアの外では、慌ててワゴンを押して戻る音が聞こえてきた。

 

 佑樹が再びドアチャイムを鳴らした。今度は、汀怜奈は部屋のソファーでウィッグをつけて動こうともしない。母親がドアを開けた。

「さっきはごめんなさいね。娘がいきなりドアを閉めてしまったから…。」

「いえ…私のほうが不器用でご迷惑を…。」

 注意深くワゴンを部屋の中に入れる佑樹。ワゴンを押す手に、絆創膏が2重に貼られていたのを、汀怜奈は見逃さなかった。先ほどの彼女の奇行で、佑樹は手を挟んでしまったのだろうか。ライムの入ったグラスとペリエのボトルをトレーに載せて運ぼうとすると、母親が言った。

「ああ、そのままワゴンに置いていただいてかまわないわ。」

「はい。それでは、サインを…。」

 佑樹は言葉を止めた。見るとソファーのゲストが、指で彼を読んでいる。どうもここまで運んでこいと言っているようだ。

 確かこのゲストだったよな、さっきドアを開けたのは…。なんかだいぶ印象が違う。こんな髪の毛長かっただろうか。しかし、本当にわがままなゲストだ。いきなりドア閉めたり、偉そうに指で自分を呼んだり…。

 佑樹がトレーを運び、ソファーの前のテーブルにグラスとボトルを置くと、再び汀怜奈の奇行が繰り出された。今度はいきなり絆創膏が貼ってある佑樹の手を取ったのだ。驚く佑樹もゲストの手を払うわけにもいかず、成すがままにゲストの奇行を受け入れざるを得ない。ゲストはじっと絆創膏が貼ってある手を見つめていた。

『それにしても…なんて綺麗な人なんだろう。し、しかもこの優雅で繊細な香りはなんだ。』

 佑樹が思っていることは分からずとも、汀怜奈は彼が自分を見つめていることはわかっていた。ウィッグを着けて取材撮影用にメイクを施した今の自分の顔なら、佑樹に気づかれることはないと自信はあった。しかし耳のいい佑樹だから声を出せば気づかれる。汀怜奈は、ルームに常備しているメモ用紙を取ると言葉を書いた。

『痛かったでしょう。本当にごめんなさい。』

 佑樹はメモを読んだ。なんだ、案外優しい人なんだ。

「いえ…大丈夫です。大したことありません。気になさらないでください。」

『お詫びに何をしたらよろしいかしら?』

「いえ、結構です。大丈夫ですから…。」

『それでは、私の気がすまないのです。』

 佑樹も困ってしまった。美しいホテルのゲストに手を握られてそう言われても、ボーイごときが何を要求できようか。言葉を失う佑樹。汀怜奈も少しじれてきた。

『早く言わないと、今度はこの指を折りますわよ。』

「えっ、そんな…でしたら、厚かましいですがサインをいただけませんか?」

『何か買ったらレシートにサインは客として当たり前でしょう。本当に指を折られたいのね。』

「ちがうんです…お客さまはギターの演奏家でいらっしゃいますよね。」

 汀怜奈は頷いた。

「僕は…お客さまがとても高名なギターの演奏家でいらっしゃるということを、他のスタッフから聞きました。失礼ながら、自分は勉強不足でお客様がどんな演奏家でいらっしゃるかわからないのですが…」

 そりゃそうだ、知っていれば佑樹の家に上がってギターを教える羽目にはなっていない。

「僕の先輩が…とてもギターが上手で、しかもよくギターのこと知ってるし…お客様のサインをお土産にできたら、きっと喜ぶと思って…。」

 汀怜奈は佑樹の手を離すと、母親に目配せして色紙をお願いした。白い色紙に美しく繊細な線でサインを仕上げると、またメモを取った。

『差し上げる方のお名前は?』

「なまえ?そう言えば聞いたことないな…。」

 汀怜奈にしても、確かにあれだけ佑樹の家に出入りしているのに、誰からも名前を聞かれた覚えがない。考えてみれば、佑樹の家族は本当にいい加減というか、ゆるいというか…。汀怜奈は色紙に『先輩へ』と書き記した。

『この方は、どんな方なのかしら?』

「どうって…強くて頼りがいもあるんですが、プライドが高くて、おこりんぼで、時々手に負えない時があります。」

 ゲストの目つきが変わったので、佑樹は言葉を止めた。汀怜奈はメモをとる。

『つまり、面倒なやつということですね。』

「いえ、それでいて放っておけないような、どんなことをしても、支えてあげなきゃいけないって思えるような…。」

 汀怜奈は胸に暖かい空気が吹き込まれるような思いがした。佑樹を騙して申し訳ないとも考えたが、この機会に思い切って聞いてみようと言う気になった。

『その方のことが好きなのですか?』

「えーっ、先輩は男だから、恋愛みたいに好きとかそんなことはありませんよ。」

 ちょっとがっかり。

「でも、誤解を恐れず言うなら、家族以上に一緒にいたいと思える人であることは間違いありません。」

 汀怜奈の胸がキュンと鳴った。きっと耳たぶが真っ赤になっているはずだ。あらためてウィッグを着けていてよかった。

「お客様、ありがとうございます。先輩も喜ぶと思います。」

 汀怜奈の手から色紙を奪うように受け取ると、佑樹は何度もお辞儀をしながら部屋を出て行った。

「フランスから帰国以来、いろいろしでかす汀怜奈さんですけど、今度は筆談とは…。」

 あきれる母親。しかしその言葉も汀怜奈の耳には入っていないようだった。

『次のレッスンではあの色紙を私に渡すつもりかしら…。どんな顔して受け取ったらいいの。』

 今度は、赤くなった耳たぶを隠すウィッグは無いのだ。

 

 ミチエは千葉の実家で泰滋と彼の父と対座していた。ミチエの横には母親とそして長兄が座っている。初めて泰滋と東京駅で会って以来10日目のことである。

 大雪が開けた翌日、泰滋と連れ立って多摩川の親せきの家を出たが、なぜか泰滋は東京駅の待合所で時間を潰していた。やがてその理由もわかった。しばらくすると、深刻そうな顔をした初老の紳士が泰滋に近づいてきて、泰滋の前に立つと大きなため息を吐いたのだ。ミチエは、その紳士にかけた泰滋の言葉に度肝を抜かれた。

「ああ、おとうはん。お疲れやな。」

「おとうはん?」

「ミチエさん。紹介します。自分の父です。」

「は、はじめまして…。」

 父はギョロッとミチエを見て、帽子のつばに手を掛けて軽く挨拶をした。

「おまえ…何考えとんのや。」

「電報の通りや。」

「えらい、いきなりやないか。」

「よう考えた結果や。自分の意思にいきなりも何もない。」

「けどな…。」

「不承知なら、電報に書いた通りのことをするだけや。このことだけは、自分の我を通す。」

 父親は泰滋の瞳の奥に、決意の炎を見た。それは今まで見たこともないほど熱くそして激しく燃え盛っている。

「おとうはん。ええな。ほな、行くで。」

 ミチエは、泰滋と父親が何を話しているのかまったく理解できなかった。いや、理解できないというよりは、これから自分の身に常ならぬことが起こるような気がしてパニック状態になり、考えることができないのだ。そんな状態が解けぬまま、三人はミチエの実家の玄関をくぐったのである。

 案の定、何が起きるか想像できない宇津木家の人たちは、不安顔にただ黙って泰蔵が口を開くのを待っている。ミチエはただ赤くなってうつむいていることしかできない。

 泰蔵は躊躇して一度息子の顔を見た。しかし息子の目の奥にある炎が、いっこうに衰えてはいないことを確認すると、ついに諦めたように口を開いた。

「けったいなこと言うと思われるかもしれまへんが…。」

 泰滋の父にしてもあまりにも突然のことだったから仕方がないのかもしれないが、ミチエの家族を前にして父の言葉に力がない。

「これでも本人は十分考えたと云うておりますよってに…。」

 中々切り出さない父の脇腹を、泰滋は肘で小突いて先を促した。

「ぜひ、お宅のミチエさんをうちの愚息のお嫁さんにいただけませんやろか。」

 宇津木家の人々は、泰蔵の申し出にしばし言葉を失った。ただでさえミチエの母は泰滋の父親が突然乗り込んできてパニックになっているのに、こんな申し出を受けては、返す言葉も支離滅裂にならざるを得ない。

「実は、ミチエはバスケばかりやっておりまして…。」

 困惑している親同士の話だから、なんか話が噛み合わない。

「結婚は…もちろんお許しをいただければの話ですが、こいつが大学を卒業してからということで…。」

「料理といっても、お米を研ぐくらいのことしか…。」

「それまでは、婚約ということで…。」

「そういえば、泰滋さんに美味しい京のお漬物いただきまして、お礼もまだちゃんと言わず失礼おば…。」

「おかあさん。」

 たまらず長兄が口を挟む。

「そんなことより、ミチエの気持ちを聞くことが先だろう。どうなんだミチエ。石津さんからいただいたお話しをお受けできるのか?」

 ミチエは、後年この時のことを思い出すたびに、笑って泰滋を責めた。初めて会ってから10日目の電撃的な求婚で、彼女に考える暇もなく返事を迫ったのは、彼の策略だったのだと言うのだ。実際、あれは了解の意味で首を縦に降ったのではなく、あまりにも急な話しでパニックになり、一瞬気を失いそうになって、思わず頭を垂れたのだと言い張る。気持ちもわからないこともないが…しかし、そんな花嫁の状況はともかく、めでたくも宇津木家からミチエが、石津家へ嫁ぐことが決まったのだった。

 

 泰滋と彼の父が京都へ戻った後、ミチエの母は、花嫁修業をどうしたらいいのかと思い悩んでいた。バスケばっかりやっていたミチエ。その娘を嫁がせるのはいいが、このままだと嫁いだ先で苦労するに違いない。

 とりあえずミチエは、高校卒業後は、東京家政大学短期大学部家庭科被服専攻へ進学することが決まっていたので、泰滋が同志社大学を卒業するまでの1年間、そこに通うことになる。

 母はこの1年でなんとか、ミチエを家事が無難にこなせる嫁に鍛え上げなければならないと考えていた。ミチエの卒業まで待って結婚させようという考えを誰もがもたないところが、当時の女性の位置をよく表している。

 一方ミチエは、自分の身に何が起きたのか把握できずに、ただぼうっと時を過ごしていた。

『わたしが…結婚?…彼が私の夫に…どうして?』

 今まで結婚など想像もしたことがない19歳の処女が、こんな事態に遭遇してリアリティをもって妻になる将来の自分の姿なんて想像できるわけがない。しかも、今に至っても、彼から好きだとも、ましてや直接求婚の言葉(プロポーズ)を聞いたわけでもないのだ。

 確かに彼の考えと性格は文通を通じてわかっていた。会えたことで自分の考えていた彼そのものであったことが確認できた。彼の手紙に嘘はなかったのだ。嘘がない彼の本当の姿を知っている私以上に、彼の伴侶となるにふさわしい女性がいるとは思えない。

 いやちょっと待って、ミチエさん。そういうことではなくて、あなた自身は泰滋さんを夫にしていいくらいに好きなの?確かに、目蒲線の電車で偶然出会った時、彼を運命の男であるかもしれないと思ったりはしたけど…それは好きってことになるのかな?。それに、結婚すれば、当然あの人の子どもを産むわけでしょう…。嘘っ、なんてこと考えてるの私…。

 19歳の乙女の躊躇いは、延々と続くのであるが、とりあえず本当に結婚するまでにはあと1年の猶予がある。それまでに、自分にとっての結婚というものを、しっかり考えればいい。最悪1年後に、どうしても気持ちが定まらなければ、やめちゃえば良いんだから…。

 しかし、なんでも『突然グセ』のある泰滋は、そんな嫁ぐ側の思いも無残にも打ち砕く。婚約して3ヶ月後の5月。京都から『ヤスシゲタオレタ。ミチエサンニアイタガッテイル。シキュウコラレタシ』との電報を受け、ミチエは慌てて京都へ向かったのだった。

 

 京都駅で泰滋の父に出迎えられ、初めて京都の長屋作りの狭い玄関をくぐった。自分の家にはない独特の空気と香りが感じられる。そしてその先に、和服姿で愛くるしい笑顔を向ける婦人がいた。姑との初めての対面である。

「ほんま、かいらしいお嬢さんだこと。」

「はじめまして…ミチエです。」

「お疲れでしたやろ。はよう上がって、お座りよし。」

 その優しい物腰と笑顔。関東から嫁ぐ者にとっては、これが噂の京都風挨拶なのかと警戒するところであるが、幼いミチエにそんなすれた賢さがあるわけがない。しかも、長い間電車の硬い椅子に揺られてパンパンに腫れた足が痛い。ミチエは姑の優しい言葉を100パーセント鵜呑みにして、靴を脱いで座敷に上がると、遠慮がちにも足を投げ出した。

 それがかえって良かった。姑の時子は生粋の京女ではなかったから、塩山から京都へ嫁ぎ散々自分が苦労したことを、こんな幼い息子の嫁に強いることなど考えもしなかった。実際、足をさするミチエの姿を見ながら時子は、可愛い娘が一人できたと、本当に心から喜んでいた。

「ところで…泰滋さんの容態は?」

「あいつか…あいつは2階で寝ておるやろ。」

「わたし、ちょっと様子見に2階へ…。」

「そんなに、急がへんでええ。ミチエさんもしんどいやろから、ゆっくり休んでからで十分や。」

「でも…。」

「いえね…。」

 玄米茶を小ぼんに乗せて運びながら姑が言った。

「確かに熱が出て、ふらつくほど具合が悪くて、病院へ行ってもわけわからへんし、どないしょと思っていたんやけど…。ミチエさんが来る言いましたらな、急に元気になりはってね…そやけど、呼んだ手前、カッコつかへんし…。今はとりあえず布団をかぶってるだけやし。」

 姑が口元を小さな手の甲で隠しながら、ククッと笑った。

「ちょっと、待ってえな、おかあはん。ミチエさん来てるのに、なんで呼んでくれへんの。」

 見ると毛布に包まって、不満顔の泰滋が立っていた。3ヶ月ぶりに見るその泰滋の顔は、確かにすこし尖っていたようであった。

「なんでや言うても、ミチエさんも長旅でシンドイやろから…。」

「起きていいんですか、泰滋さん。」

 心配そうに尋ねるミチエに答えようと、泰滋はあらためて彼女を見た。3ヶ月ぶりに見るミチエ。その澄んだ目とはちきれんばかりの健康美が眩しくて、思わず目を瞬いた。古ぼけた長屋の茶の間が、ミチエがいることでまったく別の空間になっている。

「ええ…なんとか…。」

「なにが、なんとかや…ミチエさんに甘えるのもええ加減にしいや。」

 父親の叱責に泰滋が不満顔で応える。

「仕方ないやないか、ホンマに具合悪くなってしもたんやから…。」

「とにかく…ミチエさんが来てくれたし、今夜はご馳走にしまひょ。おとうさん。湯豆腐なんてどうですやろ。この前頂いたお酒もまだ残ってるしな…。」

 時子がすかさず、雲行きの怪しくなった父親と息子の間に入る。湯豆腐と日本酒と聞いた父親がまんざらでもなさそうに頷いた。

「ほなら、泰滋ちゃん。お豆腐こうてきて。」

「ああ、わかった。」

「あの…。」

「ミチエさん、なんや?」

「私も泰滋さんとご一緒してもいいでしょうか。」

「そんな、しんどいやろから、無理せいへんとも…。」

「では、ミチエさんも行きましょう。着替えてくるので、待っててください。」

 母親の気遣いを遮って、泰滋はドタドタと2階に上がっていった。

 

 泰滋は、ポケットに手を突っ込みながら、ガラコロと大きな下駄の音を立てて歩く。そんな彼の少し後ろを、ミチエは豆腐を入れるアルマイトの鍋を持って歩いた。

「こんにぃちわぁ。春の5月やというのに今日はさぶおすなぁ。」

 すれ違う人々が、泰滋に会釈する。泰滋も会釈で挨拶を返すのだが、すれ違いざまに、ジロジロとミチエを眺め回していった。ミチエはなんか恥ずかしくて顔が真っ赤になる。

「おばちゃん。豆腐一丁くれへんか。」

 店先で、冷たい水に手を真っ赤にして、真っ白な豆腐をすくうおばちゃんが、ミチエをチラチラ見ながら言った。

「ぼんぼん、その方どちらさんや。」

「ああ…一応僕の婚約者やけど…。」

 ミチエは耳たぶまで赤くして、豆腐屋のおばちゃんにお辞儀をした。

「えっ、ぼんぼん、若いのにもう結婚しはりますの?」

「そや、あかんか?」

「そんなこと言うてへんけど…ぼんぼんも若いが、お嫁はんもわかいなぁ。大丈夫かいな…。」

「いらん心配せんといて。」

「とにかく、お嫁はんに苦労させんように、おきばりやっしゃ。」

「わかってるがな…。」

「婚約のお祝いにもう一丁たしとくさかいにな。」

「お祝いが豆腐一丁かいな…。」

 泰滋は笑いながら、アルマイトに入った豆腐と引換えに小銭を渡す。

「安心しいや…結婚したらもう一丁たすさかいに。」

 おばちゃんの言葉にさらに爆笑する泰滋。

「おかあはんに、せわになったとよう言うとくわ。」

「おおきに。」

 豆腐屋のおばちゃんに送られながら、泰滋はまたガラコロ音を立てて歩き始めた。

 飛び交う京都弁。その話されている内容はわかるものの、関東から来たミチエは、外国に来たような気分になっていた。旅行できた京都と生活の場としての京都は、まったく違った空気を持っている。家を離れて暮らすと言う意味をあらためて思い知らされたようで少し心細くなった。

 そんな、ミチエの心情を知ってか知らずか、泰滋が帰路の道すがら、すぐに家に戻らずミチエをそばの賀茂川の河川敷に誘った。

 

「わあ…。」

 住宅街に隣接する小高い土手を登りきり、眼下に広い河川敷とたゆやかに流れる賀茂川の水面が広がると、ミチエは思わず声を出した。

 泰滋は自分のジャンパーを脱いで、土手を下る石の階段の上に敷くと、ミチエに腰かけるように促す。

「そんな…。」

 ミチエの躊躇もお構いなく泰滋は、石段に座り込む。ミチエも仕方なく彼の隣に腰掛けた。

 ふたりは黙ってしばらくゆっくりと流れる賀茂川を眺めていた。最初に口を開いたのは、泰滋であった。

「急にこんな遠くに呼び出してしまって…すみません。」

「いえ…。」

「でも…本当に具合悪くて…でも、ミチエさんが来ると聞いたら、元気が出ちゃって…。自分にもなぜだか…。」

「いいんです。泰滋さんがなんともなくてよかった。それに…お義母さまにも、早くご挨拶しなければと考えてましたから…。」

「そうですか…そう言っていただけると、助かりますが…。」

 また、ふたりは川を見つめながら黙り込んだ。

「ところで…知ってます。この川の名前?」

「えっ…」

 いきなりの問いに驚きながらも、ミチエは、必死に頭を働かせて答えを探った。

「たしか…『かもがわ』でしょ。」

「そう、知ってますよね。京都の顔になるくらいの代表的な川ですから…。遥か北の桟敷岳を水源として南へ流れています。ちょうど上京区出町付近で高野川と合流しますし、市街地をさらに南へ貫通し伏見区下鳥羽で桂川と合流します。そこで、この全長23キロの川の名前は終わります。」

 泰滋は遠く川下に視線を向けながらも、言葉を続ける。

「ここから先は、地元の人間以外知る人も少ないんですが…同じ『かもがわ』という名前でも、実は文字が使い分けられているんです。水源から高野川合流点までを『賀茂川』と書き、それより下流を『鴨川』と書きます。もっとも、現河川法では全長を鴨川と総称していますがね…。」

「へえ、知りませんでした。」

「ですから、北大路橋のこの付近は、『賀茂川』にあたります。」

 泰滋は小枝を拾うと地面に文字を書いた。

「平安の時代はもちろん、都に沿って長い時を流れ続けていた賀茂川。京の人々は、どれほどの時をこの川と過ごしているのでしょうか。数々の新しい時代を迎えても…それでも川の名前すら統一できない…いやしようともしない…それが京都なんです。」

 泰滋は視線を賀茂川からミチエに移した。

「そんな京都の家に体一つで飛び込んで来るなんて、どんな勇気を持っていたとしても難しいことだと思います。僕は自分の気持ちだけを先行させて、ミチエさんの気持ちや事情を大切にしていなかったような気がします。ごめんなさい。」

「あら、ここで謝るなんて…婚約解消ですか?」

 いたずら顔で泰滋に問いかけるミチエ。

「いえ、せっかくミチエさんから頂いた承諾を、僕から解消するなんて絶対にしません。」

 泰滋は慌てて答える。

「でも…ミチエさんにも拒否権がなければ不公平でしょう。そこで、布団の中でずうっと考えてたんですが…。」

 泰滋はポケットから紙片を取り出すと、それをミチエに渡した。紙には『ストップ』と書いてあった。

「本当に結婚するまで、自分や京都が嫌になったら、訳も愛想も要りません。いつでもその『ストップ』という札を見せていただくだけで結構です。自分はすっぱりと諦めます。」

 ミチエはその紙片を長々と眺めながら、あの文通時代の最初の頃を思い出した。そして、大切そうに上着のポケットにしまいこんだ。

「あっ…。」

 そんなミチエを見て、泰滋が思わず声を出す。

「なんです?」

「あの…自分の筋書きだと…必要ないと言って…この場でその紙を破ってくれるのかと…。」

「ご自分で言い出したくせに…甘いんじゃありません。」

 ミチエは笑いながら立ち上がった。腰に敷いていたジャンパーを取り上げて叩くと、それを泰滋に渡す。

「さあ、帰りましょう。お義父さんも、お義母さんも、首を長くしてこのお豆腐を待ってらっしゃるだろうから。」

 戸惑い顔の泰滋を置いて、ミチエは家に向かって楽しそうに歩きだした。自分の意思を尊重してくれる泰滋の心遣いが、ミチエの心をすこし安らかにしてくれたのだ。

 

 それからミチエは石津家での不思議な居候暮らしが始まった。婚約したとは言え、結婚もしていない若い男女を同じ部屋に寝かせるわけにはいかない。2階にはふた間あるが、襖一枚で区切られているだけ。まだ嫁になっていないよそ様の娘を預かる泰滋の父は、せめて寝泊りは近隣の知人の家にと考えるのも当然だ。しかし、少しでも離れていたくない泰滋は、そんな父に、『おとうさんは、息子が信じられへんのか。』と食ってかかる。結局父が折れて、2階のふた間をミチエと泰滋の寝室としてわけて使うことを許したのだが、当時の道徳観から言えば、進んでいるというべきか、非常識というべきか…、筆者はその言葉を思いつかない。当のミチエは、『ストップ札』という切り札を持っているので、泰滋もうかつなことができないだろうと石津家の決定に従った。

 石津家は、ミチエが居るからといって生活のリズムを崩すようなことはしなかった。父親は毎朝出勤。泰滋もいつも通り大学へ通い、家に残ったミチエは家にお義母さんの家事手伝いをする。お義父さんと泰滋が帰ってきたら、食卓を囲み、食事が終わったら後片付け。

 体の弱いお義母さんは、正直キビキビと立ち働くミチエが来てくれて助かっていた。石津家の味付けの仕上げさえすれば、あとはミチエがほとんどやってくれる。忙しさに慣れているミチエとしても、日常の家事で体を動かしていたほうが気が楽だ。

 そして、一日の終わりは銭湯。ミチエの実家とは異なり、長屋作りの石津の家は内風呂が無い。毎夜桶を持って、ふたりは歩いてすぐの銭湯に連れ立って行った。

「ミチエさん。風呂から上がる時に大声を出しますので、タイミングを合わせて銭湯から出てきてください。」

「えっ、声を出すんですか?」

「ミチエさーん、でーるよーって…。」

「なんか…みんなに分かっちゃって…恥ずかしいです。」

「ほなら、口笛にします。」

「どんな?」

「ぴーっぴぴー。」

 『でーるよー』の言葉をなぞっただけの音。口をすぼめて口笛を吹く泰滋の顔が滑稽で、ミチエがコロコロと笑い出す。

「ダメですか?」

「いえ…それでいいです。」

「ミチエさんが先の場合は、ミチエさんが口笛吹くんですよ。」

「えっ…。」

「どうしたんです・」

「私…口笛が吹けないんです。」

「ほんまに?…ミチエさん、そんな箱入りのお嬢さんでしたっけ。」

「意地悪…。」

「ええです。自分が吹きますから、聞こえるまでは銭湯を出たらあかんですよ。」

 ふたりだけがわかる、初めてのサインが作り上げられた。

 男女に分かれてそれぞれの脱衣所に入り、泰滋の口笛でまた銭湯の玄関先で一緒になった。帰りは、アイスキャンディーを舐めながら、ちょっと遠回りに賀茂川の川端の道を帰る。川辺を渡る涼しい風に、ふたりはベンチに座ってしばし涼を取った。

「口笛が吹けなかったら、楽しくないでしょう。」

「いや、べつに…。」

「僕が教えてあげましょう。」

「別に…吹けなくてもいいですから…。」

「そんな、遠慮しないでいいです。ほら、こういうふうに口をすぼめて…そして、一気に息を吐くのです。」

 泰滋はぴーっと口笛を鳴らした。

「やってみてください。」

 ミチエは言われた通り、口をすぼめて息を吐くが、なかなか音にならない。

「だから、もっと口を小さく…。」

 ミチエの口が小さくなりように、泰滋がミチエの唇を、親指と人差し指ではさんだ。真剣に音を出そうと頑張るミチエ。ミチエの息が泰滋の唇をなぜる。柔らかくしっとりとしたミチエの唇の感触が指に伝わってくる。その唇を見詰めているうちに、泰滋の心に愛しさが溢れてきた。泰滋は何かにはじかれたように、唇を挟む指を外した。

「あれ…どうしたんです?」

「やっぱり…女性が口笛なんて…下品ですよね。吹けなくてもいいです。」

 いきなりそっぽを向いた泰滋にキョトンとして彼を見つめるミチエ。純真無垢な19才のミチエは、自分が発している女性としてのオーラに全く気付いていないようだ。

 22才の血気盛んな青年が、風呂上がりの19才の乙女を、洗い髪が香るところに置きながら、本当に結婚するまで自分を抑えきるなんて芸当ができるものなのだろうか。男にとっては残酷な話だ。しかし、彼はそれをやらなくてはならないと決意していた。決して急いではいけない。理性とか道徳とかの次元ではなく、それで彼女の心を失うようなことがあったら、元も子もないと考えていたのだ。

 まだまだ男尊女卑の風潮が残る時代。ともすれば妻を部屋の家具のように取り扱う男が多い中で、女性であるミチエを一人の人間として大切に扱う泰滋のこの考え方は、新島襄の教えが身についている同志社大学の学生であるが故であろうか。

「さあ、帰りましょう。」

 泰滋がベンチを立った。あとに続くミチエ。

「しゅー…しゅー…。」

「だから、口笛は吹けんでもええと言うとるやないですか。」

「だって…。」

 泰滋の苦闘も知らず、みちえは艶やかに潤う唇を突き出して、無邪気に口笛の練習を続けていた。

 

 千葉の実家からは、いっこうに帰ってこないミチエを心配し何度も連絡がきた。とっくに泰滋さんは元気になったのだろうと言う母の言葉にミチエは、もう少し、もう少しを繰り返して、帰るとは言わない。もちろん石津家の誰も、ミチエに帰れとは言わなかった。泰滋は当然のこと、彼の両親もミチエを無理に帰らせて、一人息子がまた具合悪くなるのではないかと恐れたのだ。

 劇的なドラマも感動的な出来事もなく、ただ平凡な毎日の積み重ねの中で、さらに3ヶ月が過ぎ、いつの間にか京都盆地にうだつような熱い夏の日が訪れていた。ミチエは、ここに居候しながら、いったい何をしようとしていたのだろうか。

「おねえちゃん。」

「なあに?」

「おねえちゃんは、なんでシゲにいさんの家にいるんや?」

 ミチエのそばに腰掛けた女の子が、クレヨンを忙しく動かしながら尋ねた。

 泰滋の父は町内会の世話役で、朝のラジオ体操や町内の餅つきなど、町内の催し物に積極的に貢献していた。しかし、夏休みの行事となると、サラリーマンの父は仕事の関係で世話ができない。そんな時は父に代わって、暇な大学生である息子が世話役を代行する。今日は夏休みの熱い日だというのにも関わらず、こども会写生大会の引率で京都府立植物園に来ていた。すまなそうにする泰滋に、子供好きのミチエは喜んで同行していた。

「なんでって…」

 京都盆地の熱い日差しが、力強い蝉の声とともにミチエの麦わら帽に降り注ぐ。ミチエは、お義母さんから借りた扇子を細かく動かして、胸元に風を送った。そうしながら、自分でもなぜここに居続けるのだろうと答えを探していた。

「奥さんやないんやろ?奥さんでもないのに、一緒の家にいるのはへんやないか?」

「そう?変かしら…一応婚約者なんですけど…。」

「婚約者ってなに?」

「あほやな…。」

 おませな女の子がもうひとり話に割り込んできた。

「婚約者いうんは、結婚を約束した人のことや。」

「ほなら、なんではよう結婚せいへんの?」

「それはな…大人の事情ってやつやないの?」

「そんなことはないんだけど…。」

 ミチエも返す言葉が見つからない。

「おねえちゃん、どこから来はったの?」

「千葉よ。」

「えらい遠いんやろ?」

「ええ。」

「こんな長いこと自分の家から離れてて、寂しくならへんの?」

 そう言われてみれば変だ。ここに来てまだ、ホームシックなどを感じた覚えがない。

「きっとシゲにいちゃんが、帰してくれへんのや。」

 ひとりの女の子がわかったような顔で言い放つ。

「あんな優しいにいちゃんが…嘘や、そんなことあらへんやろ。」

「シゲにいちゃん言うてたで。おねえちゃんは、家族よりに一緒にいたいと思える人、なんやて。そやから帰してくれへんのや。」

 子どもたちの言葉が、ミチエの本心を意識の水面に浮かび上がらせた。そうだ、自分がここに居続ける理由は、彼に言われたからではなく、私にとっても泰滋さんが家族以上に一緒にいたい人だからなのだ。

『好きとか愛とかは、未だによくわからないけど…結婚するっていうことは、そういうことなのね…。』

 ミチエは、彼方で子供たちの写生を覗いている泰滋を見つめた。

『私は泰滋さんの妻になる。』

 19才のミチエが、結婚を自分の現実として受け入れた瞬間である。やっと泰滋の妻としての自分が、容易に想像できるようになった。

「ミチエさん。時間です。みんな連れてそろそろ帰りましょう。」

 泰滋が子ども達に帰り支度を促しながら、ミチエに言った。

「はい。」

 そう答えながら泰滋を見つめるミチエの眼差しが、少女から大人の女に変わっていることなど、ぼんぼんの泰滋にわかろうはずもない。

 

 泰滋の突然グセがミチエに乗り移ったのだろうか。

 その日の晩御飯の席で、ミチエの爆弾発言が炸裂する。

「この家に娘のように一緒に住まわせていただいているのに、泰滋さんとの結婚を来春まで待つ理由がよくわかりません。すぐ、結婚させてください。」

 泰滋も父親も口にしていた冷奴を吹き出しながら咳き込む。

「なんで、そないな急なことを…。」

 泰滋の母も困り顔だ。

「今日町内会のこども達に、お嫁さんでもないのに石津の家にずっといるのは変だと言われました。私は気にしませんけど…お義父さんやお義母さんにご迷惑をお掛けするのもいやです。」

「そやかて…千葉のおうちにも準備の都合が…。」

「ええやないか。ミチエさんさえ構わなければ、僕はかまへん。」

 泰滋は口の周りを豆腐だらけにしながら満面の笑顔で母親を遮った。

 

 かくして、泰滋とミチエの結婚式が、泰滋の卒業を待たずに執り行われることになった。といっても、ふたりは10月まで待たされることになる。京都人は祝言をあげるなら平安神宮というのが常識で、平安神宮がその月まで空きがなかったのだ。一方両家の親は大変だ。ミチエが爆弾発言をしてから2ヶ月後。親族だけのささやかな祝言とは言え、両家はせめて人並の結婚をとその準備に大忙しであったのだ。

 1年にわたる文通でお互いを理解し合ったとは言え、まだ年端もいかない大学生と女子校生のふたりが、初めて会ったその10日後に婚約し、その8ヶ月後には紋付袴と文金高島田を身につけて、平安神宮境内で記念撮影を撮るカメラの前に立っている。なんと人騒がせな若者たちだろう。

「あの…ミチエさん。」

 結婚記念写真にカメラマンからポーズの注文を受けながら泰滋が言った。

「はい?」

 ミチエが大きな綿帽子(文金高島田)が重いのか、上目遣いで泰滋に答える。

「どうしても、気になってることがあって…。」

「なんでしょう?」

「あの…『ストップ札』の件ですけど…。」

「ああ、これ。」

 ミチエは懐から紙片を取り出した。

「そんなもの、こんなところまで持ってきはったんですか?」

「ええ…まあ。」

「もう、破ってもええんと違いますか?」

「ええ…でも…今となっては、この札がかえって泰滋さんと一緒にいられるお守りみたいな気がして…。」

 ミチエはまた大切そうに懐へ仕舞ってしまった。

「あっ、ちょっと、ミチエさん。」

 結婚後にそんな札を出されたらたまらない。慌てて紙片を取り上げようとする泰滋。

「ああ、新郎はん、動いたらあきませんがな。」

 カメラマンに叱られて、泰滋は仕方なくカメラに向き直った。

 

 こうしてドタバタのうちにふたりの結婚式が執り行われた。ミチエは後に姉妹たちに語っていたのだが、結婚式のその夜に、お義父さんのために、いつもの豆腐屋に下駄履きで豆腐を買いに行ったそうだ。もちろん、豆腐屋のおばちゃんは結婚のお祝いにと、豆腐を一丁足すことを忘れなかった。

 当然かもしれないが、親の金で結婚させてもらった学生の身分のふたりは、さらに親から新婚旅行を無心するわけにはいかない。また、結婚式を挙げたからと言って、いつも通りの暮らしのリズムを変えようとも思っていなかった。ただ、ひとつ結婚によって変わったことがある。二人の寝室を隔てていた襖が開け放たれたのだ。

 しかし、その日の夜のことは、ふたりだけの大切な思い出なのだから、そっとしておくことにしよう。

 

「しかし、佑樹さんは本当に教えがいのない生徒ですね。」

「わかりましたよ…先輩は顔見るたびに、何度も同じことを言うんだから…。」

 佑樹とのレッスンも2カ月を経ようとしていた。第1回目のレッスンでギターを新弦に張り替えたが、もうだいぶくたびれてきたので、今日は御茶ノ水で待ち合わせし、汀怜奈と佑樹で連れ立って新しい弦を買いに来ていたのだ。

「これでも、努力してるつもりなんですけどね。」

「努力は認めますが…本質的な意欲というもの…つまりギターがうまくなるんだという覚悟がないように思えます。」

「そんなものに覚悟なんているんですか?」

「そうですよ。なんでもやり遂げる覚悟というものが大切なのですわ。」

「そんなもんですかね…ところで先輩、今日はなんだか変ですよ。」

「なんです?」

「なんか…怒ってもいないのに、いつのまにか女言葉になってます。」

「えっ、そんなことはない…だろ。」

「ただでさえ先輩は美形なんだから、女言葉なんか使ってると、勘違いした男に言い寄られてしまいますよ。」

「余計なお世話です…。」

 何故か狼狽して立ち止まる先輩。

「とにかく早く買い物して、レッスンを始めましょう。」

 そう言いながら、佑樹は先輩の肩を押して楽器店に入った。それにしても、本当に先輩は華奢な肩幅してるよな…。そんな思いを抱きながら彼は言葉をつなぐ。

「いくらギターがうまくなっても、当の彼女に彼氏が出来てからでは手遅れですから。」

「そうですね…。あっ佑樹さん、ナイロン弦はここですよ。」

 これはどうだ、あれはどうだと、ふたりして肩を並べて弦の物色していると、その背後から声をかけるものがいた。

「あのぅ…。」

 ふたりが同時に振り返る。

「もしかして…村瀬汀怜奈さんではないですか…。」

 見ると女子大生がふたり、クラシック・ギターと思われるケースを手に汀怜奈を覗き込んでいる。汀怜奈は本能的に鼻と口を手で覆った。やはり、楽器のメッカ御茶ノ水だ。こんなカッコをしていても気づく音楽ファンが居ると思って当然なのに、汀怜奈は油断した自分を呪った。

「村瀬汀怜奈さんって…あのギターの演奏家の村瀬さんのことですか?」

 絶句している汀怜奈に代わって佑樹が答える。

「はい。」

 女子大生たちは目を輝かして頷く。

「やだな…人違いですよ。」

「でも…髪型は違ってますが、よく似てらっしゃるので…。」

「全然違いますよ。自分は村瀬さんご本人をよく知ってますが…。」

「えっ、お知り合いなんですか?」

「ええ、先日もお会いしました。」

『佑樹さんったら…、ホテルのルームにドリンクを持ってきただけじゃないですか。』

 汀怜奈が呆れて彼を見つめる。

「村瀬さんは…。」

 佑樹は、はるか順天堂大のタワーを見上げながら遠い目をした。

「…キューティクルの効いた輝く髪をお持ちの本当に優雅で美しい女性です。しかもですよ、繊細な字をお書きになるんです。」

「そうなんですか…なんかすごい。私たち昔から村瀬汀怜奈さんのファンなんです。」

「そうですか…でもね。」

 佑樹が少しブルーになって、視線を落とした。

「でも、なんです?」

「本当に残酷なはなしですが…。天は村瀬さんに、輝く美しさとギター演奏の才能をお与えになったのに…。」

 ゆっくり間を取る佑樹に、女子大生たちはかたずを飲んで次の言葉を待った。

「天は村瀬さんに声を与えることはしなかった…。」

「へ?」

「失礼ながら、村瀬さんはしゃべることがおできにならないんですよ。」

「嘘つき!本気にして損した。」

 女子大生たちは怒ってそう言うと、踵を返して立ち去ってしまった。

「あれ…ホントのことなんだけどな…先輩、なんでそんなに笑うんですか。」

 ガハガハ笑う汀怜奈に気分を害した佑樹は、乱暴に弦を棚から引き抜くと、レジへひとりで歩き出した。

 

「佑樹さん…いい加減、機嫌直してくださいな。奮発してカプチーノをご馳走しているのですから。」

 楽器店を出たあと、へその曲がった佑樹のご機嫌とろうと、汀怜奈は駅の近くのエクセシオールカフェに彼を誘っていた。しかし、そう言いながらも汀怜奈の笑いがいっこうに収まらない。

「先輩、ホントなんだから…自分はその人に会ったんですから。内緒にしてたけど、先輩へって、サインも貰ったんだから…そんなに笑うなら、あげませんよ。」

「わかった…クックックックッ…もう笑わない…キッキッキッキッ…。」

「だいたい先輩が女言葉なんか使ってるから、女の人に間違えられるんですからね。」

 佑樹がそっぽを向いてカプチーノのカップを口に運んだ。汀怜奈は、まだ口元に手を当てて笑いを噛み殺している。

「先輩!笑いすぎです。」

 口をへの字にして汀怜奈に抗議する佑樹。汀怜奈がその顔を見てまた笑いがこみ上げてくる。佑樹の唇にカプチーノの白い泡がヒゲのように付いているのだ。

「本当に佑樹さんは、子どもみたいですね。」

 そう言いながら汀怜奈が取った行動は、プロのギタリスタの指の使い方としてふさわしいものではなかった。汀怜奈は自分の指を直接佑樹の唇に添えると、その白いヒゲを拭ったのだ。

 可愛らしい佑樹に、正真正銘『思わず』の行為であったが、汀怜奈はすぐさま後悔した。普通プロのギタリスタたるもの、ギターの弦をつま弾くための細くてしなやかな大切な指を、他人の肌、特に唇などに直接触れないものだ。自分のプロ意識はどこへ行ってしまったのだ。

 そんな自分への自己嫌悪に忙しい汀怜奈は、自分が引き起こしたことについての相手への気遣いを全く忘れていた。実際、佑樹が声を発しなければ、目の前に彼がいることさえ忘れていたほどだ。

「わかった。先輩はわざと女言葉を使ったり、女っぽい仕草をして、自分をからかってるんでしょ。」

「別にそんなつもりは…。」

「もういいです…急に用事を思い出しました。今日のレッスンはこれで終わりにしましょう。」

「えっ、でも…。」

「カプチーノごちそうさまでした。」

 佑樹はいきなり席を立つと、さっさとカフェを出て行ってしまった。その後姿を目で追いながら、佑樹が急に怒り出した理由が、全く分からずにいた汀怜奈だった。

 

 賀茂川河畔にほど近く、緑豊かな京都御苑と相国寺に隣接する同志社大学今出川キャンパス。1875年の同志社英学校創立以来、この地で同志社の長き歴史が紡がれていた。烏丸通りに面した西門を一歩入ると、学生たちが行き交うメインストリートの両側に、赤レンガの瀟洒な学舎が並ぶ。京都市に現存する最古のレンガ建築である彰栄館、同志社礼拝堂(チャペル)など、国の重要文化財に指定されている建物群。その正面には、キャンパス全体を見守るかのように、尖塔の美しいクラーク記念館が堂々とそびえている。

 今出川キャンパスを中心に、寒梅館のある室町キャンパス、社会学系学部を中心とした新町キャンパスからなる敷地9万7千平米の今出川校地では、現在約2万人が学生生活を送っている。鎌倉中期に貴族の邸宅が建ち始め、室町時代には足利義満の「室町殿」(現・室町キャンパス)や近衛家の別宅(現・新町キャンパス)が、江戸時代には薩摩藩邸(現・今出川キャンパス)が置かれるなど、長きにわたり日本史の表舞台に登場するこの地は、歴史が形作られてきた現場の空気なのか、キャンパスに独自の存在感を与えている。

 いつもは、歴史の空気に満ちた清閑としたキャンパスなのだが、今日は華やかさが増して、様子が違っている。そう、このキャンパスで4年という月日を過ごし、切磋琢磨してきた学生たちの卒業式なのだ。

「あのう…父兄席はどちらでしょうか?」

 華やかな和装に身を包んだミチエが卒業式会場の案内に尋ねた。

 夫の卒業式に出席するなんて、最初は躊躇していたミチエだが、泰滋とお義父さんが喧嘩状態に有り、家族の誰もが息子の卒業式に出席することを許さない。お義母さんは、それではあまりにも薄情だからと、ミチエだけでも出席できるようにお義父さんを説得したのだ。

 複雑な心境ながらミチエだけが出席することとなったのはいいのだが、京都のフォーマルウェアは和装だからと、お義父さんに和服を着るように言いつけられた。着慣れぬ和装に、お義母さんに着付けを手伝ってもらう時は、帯を少し緩めに閉めてもらった。

 歴史ある同志社の建物に、20才に2ヶ月足りないミチエの若さが華やかに映る。ミチエに尋ねられた案内係は、目を細めながらも不思議そうな顔をして言った。

「学生席やないですか?」

「いいえ、わたし卒業生の家内ですから。」

 驚き顔の案内係に導かれて2階の父兄席に着席すると、ミチエは1階席の卒業生を見下ろして夫の姿を探した。そしてようやく探し当てた泰滋へにこやかに手を上げると、彼も卒業生の席から同じように手を上げて応えた。

「なんや、シゲの彼女か?アツアツやな…。」

 隣に座る学友が、泰滋に尋ねた。

「いいや、嫁はんや。」

 平然と答える泰滋。

「えっ?…いつ、結婚したんや。」

「去年の秋。」

「嘘やろ…。」

 周りの学友たちも、ふたりの話しに聞き耳を立て始めた。

「ご両親が来る代わりに嫁はんか?」

「ああ、おとうはんと喧嘩しててな、今は顔もみんし、口も聞かへん。」

「なんでや?」

「おとうはんに就職先を紹介されたんやが…。」

「どこや?」

「京都銀行やなんやけど…。」

「ええとこやないか。」

「けど、就職試験の面接で、労働者の権利と自由について、弁を張ってもうた。」

 泰滋の顔を呆れたように眺める学友。

「いくらなんでも、それはないやろ。…結果は?」

「ああ、当然落ちたわ。」

「そうやろなぁ…なんで、そないなことしたんや。」

「自分でもよくわからん。気いついたら、喋りまくってた。」

「で、これからどないするんや。」

「おとうはんにグズグズ言われる前に、自分で大阪のカメラの商社に就職を決めてきた。」

「そうか…けど、そんなに急がんと、親御さんの力借りれば、もっとええ就職先を探せたんとちゃうか。」

「ぶらぶらしてるわけには、いかへんのや。妻もおるしな。それに…。」

「それに…なんや?」

「8月には、子供も産まれるよってに…。」

「なんや、嫁はんはもう身重なのかいな。」

 泰滋の話しに聞き耳を立てていた周りの学友たちが、泰滋とミチエを交互に見ながらざわめきたった。どうやら泰滋は同志社の長い歴史の中で、今出川キャンパス栄光館での自らの卒業式に身重の若妻を出席させた初めての学生として、その名を刻むことになったようだ。

 

 佑樹は走った。走って、走って、走って…。彼は心に厄介な感情が生じた時は、いつもそうしている。体育会系の彼らしい対処方法だった。走っているうちに、筋肉がより多くの酸素を必要とし、結果脳へ運ばれる酸素の量が減る。すると脳の活性が阻まれ余計な考えが頭から蒸発していく。体育会系とは言え、医学的な理屈にあった対処方法である。

 厄介な感情の出処はわかっていた。先輩である。では湧き出てくる感情とはどんなものなのか。言葉で言い表すことは難しいが、強いて一番近い表現は『切ない』であろう。本当の気持ちに無理やり蓋をしている気分だ。ちょっと待て、本当の気持ちってなんだ…。まだ男として幼い佑樹は、そう自問しても、自分が欲しているものが何なのかわからなかった。うっすらと先輩と一緒にいたいという気持ちがあることだけは感じていたが、理由もわからず、それを欲してはいけないと自分に言い聞かせている。

 大概は10キロも走れば、気分も切り替わるのだが、今回は事情が違った。今日でランニングを始めてから10日目だ。そして、疲れ果ててその日ランニングを終えても、また明日も走らなければならないだろうと自覚していた。

「おい、佑樹。」

 肩で大きく息をしながら帰宅した佑樹に、タオルを放りながら父親が言った。

「お前、なんでまたそんなに走ってんだ。大学で野球やるつもりか?」

「なわけ…ハァ、ハァ…ないだろ…ハァ、ハァ…。」

「明日のジョーから一転、若さのエネルギーを持て余してるってやつか…。」

「ほっとけ!」

「まあ、変な方向に発散するよりはいいか。」

「そういう人がいるから、オヤジの小説が金になるんだろ。」

「イェス、そういう事。」

 父親はニヤッと笑いながら指で金儲けのサインをつくる。

「ところで…じいちゃんは?」

「さっき往診の先生が来てくれたときは、目が覚ましてたが、今は寝てるんじゃないか。」

「じいちゃんの水差しでも替えてくるか。」

 佑樹は額を流れる汗をタオルで吹きながら、じいちゃんの寝ている離れに向かった。

「おい、佑樹。」

 父親が、タオルで包まれた佑樹の背中に声をかける。

「じいちゃんと過ごす時間も…もう残り少ないようだ。」

 父親の言葉に佑樹の動きが止まった。

「主治医の先生が…。」

「そうか、わかったよ。」

 佑樹は父親に最後まで言わせなかった。

 

「ああ、佑樹か…。」

 寝ているおじいちゃんを起こさぬよう、静かに水差しを替えようとしたのだが、佑樹の努力も無駄だったようだ。

「起こしちゃった?ごめんね、じいちゃん。」

「そうか、佑樹…今、わしは起きているのか…。いかんせん、先生がくれる薬で、痛みが和らぐのはいいんだが、一日中、起きているのか、寝ているのか、わからんようになってしまった。」

「そうなの…。」

 佑樹の胸が締めつけられた。そんな動揺を隠すように、彼はいそいそと水差しの盆にこぼれた水を拭う。

「ところでな…佑樹。」

「なあに、じいちゃん。」

「師匠とのギターの練習はやめたのか?」

「えっ、なんで。」

「最近、お前や師匠の弾くギターの音が聞こえない。」

「や、やだなぁ。聞こえてたの…下手くそなのに…。」

「お前の部屋からこぼれてくるギターの音を耳にするとな…ああ、わしは今起きている。まだ生きているんだ…と思えてな。」

 佑樹はどう返事を返していいかわからなかった。

「なあ、佑樹、お願いがあるんだが…。」

「なんだよ。じいちゃんあらたまって…。」

「一曲でいいからお前のギター演奏を、聴かせてはもらえないか。」

「えー、俺まだ下手くそで、人前で弾くなんてレベルじゃないよ。」

「いいんだ。」

「…ましてや一曲通してなんて…まだ無理だよ。」

「それでもいいんだ。わしももう長くない。しかも、一日で意識がはっきりしている時間も少なくなった。まだ意識があるうちに、お前のギターを近くで聴いてみたい。」

 じいちゃんは、佑樹の瞳をじっと見つめた。佑樹はそんなじいちゃんの濁った瞳を見ながら、こみ上げてきそうになる。

『ギターは、楽器を囲むほぼ2メーターの範囲で音楽を聞かせる楽器というのが本来の姿だったんです。…ギターを囲むほぼ2メーターの距離と言ったらそこに居るのは、演奏者自身か、演奏者の大切な人ぐらいなもんでしょう』

 不意に先輩が言っていた言葉が佑樹の頭に浮かんだ。

「わかった、じいちゃん。先輩と相談してみるよ。」

 佑樹はそう答えるのが精一杯で、水差しを持って逃げるように部屋を出た。

 

 汀怜奈はプロの演奏家である。演奏中に雑念に囚われることはない。しかし、ギターの弦から指を離してしまったら、やはり平凡なうら若き女性に戻るしかないのだ。案の定、1曲目の練習曲を終えると、彼女の頭に、肩をいからせてカフェを出て行った佑樹の後ろ姿が、風船のように浮かんできて仕方がない。

 何が彼をあんなに怒らせてしまったのだろうか。彼女自身まったく思い当たる節がなかった。理解できなければ、もうその件は理解することはやめて切り捨てよう。そう思って次の練習曲に取り組むのだが、その練習曲が終われば、また頭に彼の後ろ姿が浮かんできてしまう。

 御茶ノ水のカフェで別れてから、佑樹とは全く会っていない。普段は、レッスンの終り際に次回のスケジュールを話し合うのだが、あの時の佑樹の剣幕ではそんなことができる状態ではなかった。

 だいたいあんな別れ方をするなんて、彼は失礼だ。彼に会って説教をと思うのだが、会うためには、こちらが彼の家に行くか、連絡するかだが、こちらから動くようなことは汀怜奈のプライドが許さなかった。

 佑樹は、汀怜奈の携帯番号はもちろん、家の連絡先や住所も知らないから、彼から連絡が来るとは到底思えない。聞かれなかったから、汀怜奈から教えもしなかったのだが、今となっては、そんなことすらも聞かない佑樹の家のユルさが恨めしい。

「あら、汀怜奈さん。お出かけ?」

 玄関で靴を履く汀怜奈を目ざとく見つけた母が声をかける。

「ええ、ちょっと疲れたので、気晴らしに渋谷へ買い物でも…。」

「そう…私もご一緒しようかしら。」

「えっ、あぁ…ついでに運動不足だから、階段うさぎ跳びで渋谷ヒカリエ全階制覇でもしようかと思っていますの…それでも行かれます?」

「あなた…呆れたわね…。」

 娘の奇言に絶句する母。しばらく娘を見つめたあと、笑顔を取り戻して言った。

「一人で行きたいなら、そうおっしゃいな。」

「すみません。お母さま。」

「うさぎ跳びかなんだか知りませんけど、もう少し女らしいかっこして外出されたらいいのに。」

「行ってまいります。」

 母の観察に耐え兼ねて、汀怜奈は言葉が終わらぬうちに玄関の外へ出た。

 

 もちろん汀怜奈は、渋谷に出てもうさぎ跳びをするつもりはない。渋谷駅からぶらぶらと歩きながら、セルリアンタワー東急ホテルに向かっていた。

 以前、偶然の出会いで、彼がこのホテルでバイトをしていることを知った。しかしその時出会ったのは村瀬汀怜奈であり、先輩としてではない。もしまたこのホテルで佑樹と会うことができれば、それはあくまでも偶然であり、私がわざわざ会いに来たのだと彼に思われることはないはずだ。プライドの高い汀怜奈が、佑樹に会うために自分が取れる最大限の譲歩行動がこれだった。

 しかし、映画でもあるまいし、偶然などそんな度々作れるわけがない。1時間ほどフロント周りのロビーをウロウロして、ベルボーイやホテルスタッフを目で追ったが、そこに佑樹を見出すことはできなかった。彼はルームサービス専門で、表に出ることはないのだろうか。

 流石に歩き疲れた汀怜奈は、ロビーが見えるオープンラウンジへ腰かけて、コーヒーをオーダーした。運ばれてきたコーヒーカップを手に持つと、佑樹とギターレッスンをしていると幾度となく缶コーヒーと山盛りのカントリーマムを持って、部屋にやってくる佑樹の父のことを思い出した。そんな時は、佑樹は嫌な顔をするものの、決して父を追い出すことはしなかった。

 おじいちゃんに対してもそうだが、この佑樹の家族に対しての優しさはどこで培われたのだろうか。天性のものなのだろうか。汀怜奈も、時に鼻持ちならぬ高慢な言動を彼に投げつけることもあるが、彼は柔らかく受け入れてくれる。そんな佑樹の優しさを汀怜奈は折に触れて実感していた。だからこそ、先日の彼の別れ方は、彼らしくない。

 しかし…しかしだ。汀怜奈はコーヒーカップを乱暴にテーブルに置いた。だからといってなんなのだ。自分の人生を賭けた『音楽芸術』の探求に何の関係があるのか。あの偉大なロドリーゴ氏が私に託した崇高な課題に比べれば、彼や彼の家族がどうであろうが、そんなものに関わる意味なんてなにもない。

『もっと音楽に集中しなければいけない。』

 ひとりでラウンジに座る『時』が積み重なるほどに、佑樹と会う偶然が実現しなかった悔しさと、こんな行動に時間を費やしている自分への自己嫌悪が肥大していき、それがまた自分自身への叱咤を強める結果となった。

 汀怜奈は、席を立ちかけた。

「あれ、先輩じゃないですか。」

 立ちかけた汀怜奈を押しとどめるように、スーツの男が声をかけてきた。汀怜奈は声の主を見たが、相手は見覚えがない男性である。男は汀怜奈から訝しげに見つめられて、バツが悪くなったのか、頭を掻きながら言葉をつなぐ。

「やだな、佑樹の父ですよ。」

「まぁ、おとうさま…。」

 トランクス一丁の姿しか見慣れていない汀怜奈だ、スーツ姿の彼が見分けられなかったのも無理はない。しかし、小説家の前は、大きな会社に勤めていたと佑樹に聞いたが、さすがスーツ姿は板についていた。

「すみません。見違えました…。」

 父親は、少し顔を赤らめた。

「座ってもいいですか?」

「どうぞ…今日はどうされたんですか。」

「いや新作ができたんで…ってもエロのほうじゃないですよ。本業の恋愛小説です。それを出版社に売り込みに来たんです。さすがに、パンツ一丁じゃこれないでしょ。」

 汀怜奈は、口元を手で隠しながら笑ってしまった。

「やだな、似合いませんか?」

「いえ、似合っていらっしゃいます。かっこいいですよ。…それで売り込みは成功したのでしょうか?」

「いや、見事に撃沈です。」

 ウェイターが父親のところにやって来た。オーダーを聞かれると、ちょっと困った顔をしながら、汀怜奈を見る。

「おとうさん、失礼をしたお詫びにご馳走します。どうぞ好おきなものをお頼みください。」

 父親の顔がパッと明るくなった。

「えっ、いいんですか…悪いな…そしたら、コーヒーとカントリーマムください。」

 今度はウェイターが困り顔をする番だ。

「おとうさん、さすがにホテルでカントリーマムは…。」

 汀怜奈はウェイターに向いてオーダーを修正した。

「ハウスビスケットがあれば、いただけるかしら。」

 ウェイターは安心したように返事をするとオーダーを通しに奥へ消えていった。

「いや、すみませんね。久しぶりに家を出たもんだから、うっかり財布を忘れちゃって…そうだ、その代わりっていうのも失礼ですが、出版社から映画のチケットを2枚もらったんで…いりません?」

 チケットを見ると、それはディズニーのアニメ映画『アナと雪の女王』の鑑賞券のようだった。

「なんで出版社がおとうさんに映画のチケットを?」

「映画のチケットやるから出てってくれって、担当が…。」

 さすがの汀怜奈も、今度の笑いは手で隠せなかった。

「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます。せっかく頂いたチケットですから、どうぞお父さんの好きな方とおふたりで観に行ってください。」

「別に…そんなひといませんよ。」

 父親は運ばれてきたビスケットにコーヒーを浸しながら、照れくさそうな顔で言った。

「でも、お財布をお忘れになったのならご不便でしょう。失礼ですが、少しお貸ししましょうか?」

「いいえ、大丈夫です。もうすぐ手持ちのお金を佑樹が持ってきてくれますから。」

「佑樹さんが来るんですかっ!」

「ええ。」

「どこに!」

「ここに…。」

 汀怜奈の胸の鼓動が急に駆け足になった。なんとなく顔も上気して熱くなってきた。どうして?そんな自分の変化に自分自身で驚いていると、さらに汀怜奈を驚かせる事態が発生する。今度はプレタポルテに身を固めた女性が、汀怜奈たちの席に乱入してきた。

「汀怜奈さん!」

「えっ?お母さま?」

「こちらはどちら様なのかしら。」

 佑樹の父を睨みながら母親が汀怜奈に詰め寄る。

「もしかして、お母さま…わたしのあとを?」

「そんなことはどうでもいいの、こちらはどなた様かしらと聞いているのよ。」

「どなたさまって…わたしの友達のお父様で…。」

「石津といいます。テルナオさんには、うちの愚息がお世話になってます。」

「テルナオ?」

 父親は、母が言った汀怜奈の名を聞き間違えているようだ。

「どうぞ、お座りください。…おい、ウェイター、こちらにお水と…すみません、おかあさん、コーヒーでいいですか?」

「おかあさんって…わたしはコーヒーはいただきません。」

「さすがですね、気品のある女性は本来コーヒーなんて飲みませんよね。おいっ、こちらに紅茶をお出しして、…それにハウスなんとかをもうひと皿ね。」

「なんて下品なオーダーの仕方…居酒屋じゃあるまいし…。」

 母親は、汀怜奈が自分に嘘をついてまで、なんでこんなおやじとホテルでおち会おうとしたのかまったく理解できないでいた。だからこの男性に警戒心と嫌悪感丸出しの視線を送る。

 一方父親は、そんな視線も解せず、汀怜奈の耳元に顔を寄せると母親に聞こえぬように言った。

「先輩のお母さんって…けっこう綺麗だな。」

 母親は、我が愛する娘の顔に口を寄せるおやじの仕草に、またカチンときた。

「あの、どちら様か知りませんが…。」

「おかあさま!」

 こんなドタバタに時間を費やしている暇はないと汀怜奈は思った。もうすぐ佑樹がやってくるのだ。

「おかあさま…確か、『アナと雪の女王』観たいって言ってらしたわね。」

「えっ?」

「ちょうどいい、自分その映画のチケットを持ってるんです。よろしかったら差し上げますよ。」

「そんなものいりませ…。」

「おかあさまも離婚してから、映画なんて久しく見てないでしょ。」

「そうなんですか…自分もだいぶ前に佑樹の母親と別れまして…お気持ちはよくわかります。」

「そんなこと、余計なお世話…。」

「どう?お母さま。離婚した同士、おふたりで仲良く映画でも観に行かれたら。」

「えっ?」

「えっ?」

 ふたりが同時に汀怜奈を見た。汀怜奈の母親は明らかに驚愕の顔であるが、佑樹の父親の顔は、嬉しさ半分困った半分である。汀怜奈は、佑樹の父親の困り顔の理由を察して素早くテーブルの下から、1万円札を握らせる。父親の顔が緩んだ。

「そうですか…まあ、息子さんがそう言うなら…この際どうです、ご一緒に…。」

「息子って…ご一緒って…変なこと言わないでください。」

「お母さん、『僕』はひとりで大丈夫。先に家に帰ってるから。」

「僕ってなんですか!」

「おとうさま、わたしのお母さまをよろしくお願いします。」

「わかりました。お母さまを少しお預かりますよ。さっ、行きましょう。」

「あなた、いったい何を…触らないで…だから…汀怜奈…助けて!」

「いってらっしゃーい。」

 佑樹の父親に拉致されて、汀怜奈の母親がホテルを連れ出された。そんなふたりを見送りながら手を振っていると、汀怜奈の顔に自然に笑いがこみ上げてくる。

「キッ、キッ、キッ、キッ、キッ…」

「先輩、なんでここに…。」

 振り返ると佑樹が立っていた。10年ではない。たかだか10日ほど会わなかっただけなのに、なぜか汀怜奈の目に涙が浮かびそうになる。なんか佑樹さん、少し大人になったようだ。

「笑ってたかと思うと、今度は涙ぐんで…大丈夫ですか、先輩。」

「余計なお世話ですわ。」

 汀怜奈はハッとした。女言葉を使ってしまった。また、佑樹は怒り出すのだろうか。しかし佑樹は優しい笑顔を崩さなかった。

「この前は、失礼なことしてすみませんでした。二度としませんから、許してください。」

 佑樹は素直に頭を下げた。そんな笑顔で謝られたら…佑樹に会った時にと準備していた説教シナリオが、どんどん崩れていく。

「先輩に、会いたくて、会いたくて、でも連絡先もわからないから…。」

「そんなに…会いたかったのですか?」

「ええ。」

「どうして?」

 なんて大胆なことを聞くの?汀怜奈は自分の言葉で顔を赤く染める。

「どうしてって…今、先輩は自分にとって一番必要な人だからです。」

 佑樹が言葉を止めて、下を向いてしまった。汀怜奈の胸の心拍数もレッドゾーンに達している。彼の答えひとつで気絶しそうだ。

「1曲でいいんです。じいちゃんに、どうしてもギターの演奏を聴かせたいんです。」

 佑樹は、じいちゃんとのやり取りを汀怜奈に話した。汀怜奈は、意外な方向に進んでいく佑樹の話しに戸惑いながらも、次第に心が落ち着いてきて、言いようもない温かいものが満ちていく気分を味わった。

「また自分にギターを教えてください。もう、残された時間はそんなにないんです。」

 佑樹はそういって口を閉じ、真剣な眼差しで汀怜奈を見つめた。

 その目はとても澄んでいると汀怜奈は思った。相手がどう思うかを気にするのではなく、自分の思いを無警戒にそして素直に表した瞳である。そう、この瞳こそ佑樹なのである。

「わたしが女言葉を使っても、気にしませんか。」

「はい。」

 佑樹は即答した。透き通ったいい返事に、汀怜奈も心のわだかまりが溶けたような気がした。

「佑樹さんも…やっとギターがうまくなるんだ、という覚悟ができたみたいですね。」

 汀怜奈の言葉に、今度は佑樹の表情がゆるんだ。

「ありがとうございます。」

 頭を掻きながら汀怜奈に礼を言う佑樹。しかし、ふと何かを思い出したのか、あたりを見回しながら彼は言った。

「…ところで、うちの親父を見ませんでした?」

説明
天才ギタリスト汀怜奈は、ロドリーゴ氏から与えられた命題『ヴォイス』を奏でるギターを求めて、その美しい髪を切った。昭和の時代を生きた人々、そして現在を生きる人々との様々な出会い。悠久に引き継がれる愛のシズルを弦としたギターで、汀怜奈は心の声を奏でることができたのだろうか。
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