凪の海 - 5
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 卒業式を終えて、社会に出た泰滋は、本当によく働いた。依然と彼の父との不仲は続いていて、同居はしていたもののこれ以上金銭的な部分で親に頼りたくはないと、泰滋は意地を張っているような節もある。もっとも、若いとはいえ彼は妻ともうすぐ産まれる子どもを養わなければならない。このような状況下では、理屈をこねる前にまず体を動かして稼がなければ、なにも始まらないのも事実だ。

 時々、労働者の権利とか人権とか、そんなものに熱く議論をしていた新聞部時代の自分を懐かしく感じる。しかし今は、そんな議論や思索に時間を費やすより、身重の妻が出産に耐え、元気な子どもを生み、そして育めるよう、とにかく働く事の方がずっと大切だと思える。時には名門同志社大学卒のプライドが踏みにじられ、今まで経験したことがないような苦労と挫折を味わうこともあったが、それで彼の笑顔が曇ることはなかった。

 彼を楽天家と呼ぶ人もいたが、筆者はあえて、彼には自分が選択した新しい生き方を、実に素直に受け入れられるという資質の持ち主なのだと言いたい。逆の言い方をすれば、今以外の道を選択した自分を全く思い描くことができないということだろうか。『かもしれなかった自分』を想像できないのだから、当然今の自分と比べようもなく、したがって後悔もない。これはもしかしたら誰もが羨望するような資質なのかもしれなかった。とにかく、朝早く大阪の会社に出勤し、夜は残業や得意先の接待営業に励み、毎晩終電で帰宅する毎日であったが、家に帰ってシンドイの一言も発っすることがなかった。

 一方身重の妻ミチエは、女子高時代と同様に忙しい毎日であった。石津家の家事の手伝い。慣れない京都での暮らしと人付き合い。妊婦として日毎変わっていく、からだの変化に対する驚きと対応。

 高校時代の忙しさの日々は、バスケの部活が、彼女その忙しい毎日を生み出す根源であると思っていたが、そうではなかったのだとミチエはようやく悟った。

 この忙しい毎日は、実は宇津木家の女系に延々と伝えられているDNA。つまり、『朝ごはんを食べながら、昼ごはんの準備を考え。昼ごはんを食べながら夕御飯の献立が気になる。』というせっかちな性格が作り出していたのだ。それゆえに嫁ぎ、夫を持ち、ましてやこどもまで生まれるとなれば、もはや忙しくない毎日など考えられない。結局自分の毎日は生涯を通じて忙しいにちがいないと、今では諦めるようになっている。

 泰滋と違って、ミチエのこの性格は、誰もが羨望するような資質とは言えないが、誰からも愛される資質だと言えるかもしれない。実際、ミチエはお義父さんからもお義母さんからもえらく可愛がられていた。

 

「ねえ、考えたんだけど…。」

 ミチエがとなりの布団で大の字で寝転ぶ泰滋に声をかけた。今床に入ったところだから、よもや寝てはいないだろうとミチエは問いかけたのだが、疲れきった泰滋はもう眠りの門に片足を入れている状態であった。

「ねえ、もう寝たの?」

 もう寝たのと問いかけるのは、起きろと行っているのと同じだ。泰滋は、名残惜しそうに眠りの苑に背を向けた。

「なに?」

「子供が生まれたら、自分のことをなんと呼ばせるの?関東風におとうさん…それとも京都風におとうはん?」

 ミチエは、大きくなったお腹をさすりながら泰滋に尋ねた。せっかちな彼女らしい質問だ。生まれる前からそんなどうでいいようなことが、気になってしかたがないようだ。

「どっちもあかん。そんな呼ばせ方はさせない。」

「じゃなんて…」

「パパ。」

「えーっ、嘘でしょ。じゃ私は…。」

「ママ。」

「…ちょっと、変じゃない…。」

「どうして?」

 同志社育ちの泰滋にはなんともなくても、下町育ちのミチエが躊躇するのもわからなくもない。昭和28年代、パパ、ママという呼び名は、欧米スタイルに傾倒しているブルジョアの家庭では使われていたとしても、庶民の実生活の中で実践されるには多少気恥ずかしい時代だ。

「とにかく、あすも忙しいし…もう寝ましょう。ママ。」

「ちっ、ちょっと待ってよ。いきなり始められても…」

「いざ子供が生まれた時に照れくさかったらアカンやろ。今から慣れてへんと…。」

「でも…困ります泰滋さん。」

「只今より、もう『泰滋さんと』呼んでも、返事をしません。」

「そ、そんな…。」

「もう一度言うよ。もう寝ましょう、ママ。」

「…そうしますか…パパ…って恥ずかしい。」

 おおいに恥ずかしがったミチエだが、ふたりは、それ以来お互いを、パパ、ママと呼び合うようになった。

 突然グセの京男にせっかちな東女。そんな夫婦らしいといえばそうなのだろうが、ふたりはわずか10カ月という短い新婚生活を終えて、早々と子供のいる新しいライフステージに立とうとしていた。

 

 8月1日。ミチエは珠の様な女の子を出産した。若いふたりはお互いの一文字ずつをとって、ヤスエと名付けた。

 泰滋が喜んだのは当然のことだが、実際誰よりも喜んだのは、泰滋の父にちがいない。実のところ、パパママなどと孫に呼ばせる息子の趣味は、全く気に入らない。一人息子を同志社などというハイカラな大学に行かせたことをあらためて後悔するものの、孫を手に抱くとそんなことはどうでも良くなる。おじいちゃんは初老の目尻のシワの本数をますます増やして、似合わぬ幼児言葉で孫のヤスエに語りかけた。

 ミチエはヤスエが、ギスギスしたパパとお義父さんの間に入り、緩衝材の役目を果たしてくれることが嬉しかった。実際ヤスエをふたりの間に置くと、ヤスエを見る二人の顔には笑顔が絶えることがなかったのだ。

 ヤスエは日々すくすくと育ち、その喜びに背中を押されながら泰滋は一層仕事に励んだ。毎日朝早くから大阪の事務所に出勤し、商品のカメラを持って四国方面へ行商に行った。時には四国のお得意さんを渡り歩き、何日も家に戻れないこともあった。家族の笑顔が消えぬよう励むがあまり、自分の体に無理を強いていることに意識がいかなかったようだ。ヤスエが1歳の誕生日を迎えた年、泰滋は病に倒れた。その病とは結核である。

 昭和10年代であれば、結核は死亡率の第1位の病である。毎年10万人以上の日本人が結核で亡くなり、結核はその当時、若者の命を奪う不治の病として人々に恐れられていた。欧米に追いつくことが日本全体の目標であった時代に、国の宝である若い労働者や兵隊の命を奪う結核は、国家的損失をもたらす「亡国の病」と考えられていた。国を挙げて富国強兵が叫ばれていた時代では、日本最大の敵が結核だったのだ。

 しかし昭和24年、ストレプトマイシンが日本に登場し事態が一変する。結核に対するこの薬の効果は驚異的なものであった。登場時には余りにも高価な薬だったので、ごく限られた富裕層にしか処方できなかったのだが、昭和25年に国内生産が開始され、さらに健康保険でも使用できるようになり、多くの人たちがストレプトマイシンの恩恵を受けることになった。

 この薬の流布により結核は徐々に減少することになる。そしてまもなくして、パス、ヒドラジドとの3剤併用も始まり、結核患者は目に見えて減っていった。この昭和25年を境にして、それまで不治の病とされていた結核の予後が大きく変わったのである。このわずか数年の違いによって、結核患者の生死が大きく分かれることになった。

 泰滋が結核を患ったのが、昭和29年。もし5年早く結核を患っていたら、彼の命はなかったのかもしれない。幸い薬のおかげで、彼の容態は良くなったものの、同じような無理をすれば薬の効果も得られない。さらに、京都は湿気の高い地域とされており、結核菌の繁殖を防ぐためには、もっと風通しの良い地で過ごすことが必要だった。泰滋は両親と話し合い、3ヶ月を目安に療養を兼ねて京都から出て暮らすことにした。石津家の遠い親戚を頼り、泰滋はミチエ、ヤスエの手を取って福岡県久留米市へ旅立っていったのだった。

 

「先輩…やっぱ、もう少し練習してからの方が良かったのでは…」

「これ以上は、いくらやっても同じです。」

「でも…。」

「佑樹さん。もうここまできたのですから、覚悟を決めなさい。」

 離れの床で、おじいちゃんと父親が佑樹たちを待っている。部屋に入る襖越しで、佑樹がもじもじして、部屋に入ろうとしないのだが、汀怜奈はこの期に及んでの、佑樹の弱気を許さなかった。

「おじいさまが起きていられるお時間は限られているのですよ。これ以上時間を無駄にするなら、ハイキックを食らわしてでも…。」

「わっ、わかりましたよ。」

 チンピラを吹き飛ばしたハイキックを見舞われたらたまらない。佑樹は両頬を叩くと、気合を新たにして、襖を開けた。

 おじいちゃんは、床にいて、布団を折りたたんで椅子状態にし、上半身を起こしてふたりを待ち受けていた。どうも半分目を閉じかけている。

「なにやってんだよ。爺ちゃんが待ちくたびれちゃって、寝てしまうぞ。」

 開口一番父親の非難を浴びながらも、佑樹は無言でじいちゃんの前の椅子にすわると、汀怜奈に教えられた姿勢で、ギターを抱える。汀怜奈も父親に並んで、観客側に座った。

 佑樹がおじいちゃんのために準備した曲は『上を向いて歩こう』である。この曲は、元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した(作詞は永六輔)楽曲であったが、坂本九のシングル曲としてレコーディングされ、世界でも最も知られる日本の楽曲となっている。おじいちゃんにも馴染みのある曲をということで、汀怜奈が選曲したものだ。それを佑樹が引きやすいように、単純なメロディーラインに整理したり、決めのところでしっとりとした和音を入れ込んだりして、汀怜奈が美しい曲にアレンジした。

 佑樹は汀怜奈に教えられた通り、しばし目をつむって指先で弦をさわってその温度を確かめる。こうすると周りからのプレッシャーが意識から遠ざかり、ギターとだけ向き合うことに集中しやすくなるのだそうだ。

「それじゃ…じいちゃん。始めます。聞いてください。」

 佑樹はそういう言うと、最初の音をつま弾いた。そして佑樹自身も口ずさみながらゆっくりと弦を弾き始めた。テンポに追われるのではなく、自分の歌にあわせて音が出るようにする。これも、汀怜奈から教えられたことである。自分自身に歌がなければ、楽器の音も曲にならないのだそうだ。

 一方、師匠である汀怜奈は、佑樹のギターに緊張状態。観客席にいてこんなにハラハラするなら、自分が弾いたほうがよっぽど気が楽だ。おじいちゃんを見ると、ギター演奏を聴いているのかいないのか。はんば目を閉じてじっとして動かないでいる。

 汀怜奈はあらためて佑樹の演奏を聞くと、なんとも自信のない音でつながってはいるものの、彼の素直な心が現れていると感じた。この曲はもともと不思議な憂いをもつ楽曲ではあるのだが、おじいちゃんとの別れを意識した佑樹の悲しい気持ちが手伝ってか、その憂いが余計に深いような気がする。

 やがて佑樹も最後の音を弾き終わると、すべての力を出し切ったように、大きなため息をついた。佑樹に負けないくらいの緊張で拳を強く握っていた汀怜奈も、やっと汗だくの手を開いて拍手をした。

「上手でしたよ。ねっ、おじいさま。」

 汀怜奈はおじいちゃんに向いて同意を求めた。

「まあ、上手かどうかはとにかく、じいちゃんが寝ちまう前に一曲弾き終えたのはえらいかもしれない…。」

 答えたのは父親の方だった。

「おとうさま、そんな言い方…」

 ムキになって言い返す汀怜奈をなだめるように、おじいちゃんが小さく声を出した。

「そんなバカなどほっておきなさい。佑樹、ありがとう。心が温まるおまえらしい優しい音色だったよ。」

「でしょう。」

 汀怜奈が相槌ともに満面の笑みで佑樹に向かってうなずいた。佑樹は照れくさそうに頭をかいている。

「だが…」

 終わってはいなかったおじいちゃんの感想に、みんなが動きを止めて注目した。

「なんでそんなに悲しい音を出すんじゃ。佑樹、なにか悲しいことでもあるのか?」

 佑樹は、おじいちゃんの意外な問いに答えることができなかった。

「もしかして…あの世へ行くわしを哀れんで、悲しんでいるのかな。なら…まったくのお門違いだ。」

 そう言いながらのおじいちゃんの薄笑いに、今度は佑樹をはじめ、そこにいる全員が言葉を失った。おじいちゃんは、そんなみんなを見回しながら、言葉をつなぐ。

「むしろ、わしがこの時をどれほど待ち望んでいたと思う。」

「どういうことだよ。」

 気色ばむ佑樹の父親をなだめるように、おじいさんは優しい笑顔を返す。

「まあ、聞きなさい。」

 そして、ゆっくりと話し始めた。

 

 泰滋の一家が久留米に来て、2週間が過ぎようとしていた。

 泰滋といえば日がな一日、ヤスエと家で過ごしながら養生に努める。ミチエといえば、忙しい性分をここでも発揮して、近郊の市場での時間決め臨時労働、いわゆるパートを見つけ出しせっせと仕事に精を出していた。

 泰滋が縁側で寝転んでいると、ヤスエがヨチヨチとやってきて散歩をせがむ。どんな天気であろうとヤスエは家で過ごすよりは、外で遊ぶ方を好んだ。自分もミチエもどちらかといえば出不精な方なのに、いったい誰に似たのだろろうか…仕方なく泰滋はヤスエのお供で散歩に出る。

 危なっかしいヨチヨチ歩きながら自分の足で歩きたがるヤスエは、泰滋が手を差し伸べることを好まない。自立心の旺盛な愛娘の背後について目で守りながら、泰滋はゆっくりとヤスエのあとを付いていく。

 泰滋は、小さなヤスエの背中を見守りながら、家長としてこのあとヤスエやママをどのように守っていったらいいのだろうかと思い悩んだ。ミチエは、自分が働くから今はとにかく養生して元気な体を取り戻して欲しいと、逞しい笑顔で自分を励ましてくれる。だからといって、いつまでもそれに甘えているわけにはいかないのだ。

 何ものにも優先してまず家族の幸せを考えなければならない。それが自分の務めだ。それを果たすことが家長としてのプライドでもあり、プレッシャーでもある。泰滋はふと自分の父親を思った。自分の父親も家長として、こんな想いを抱いて自分や家族を見ていたのだろうか。

 果たして父親が描く自分の幸せと自分自身が考える自身の幸せは、必ずしも一致はしないものだが、自分の幸せを考えてくれていることには変わりがなく、それに対しては感謝してもしきれないはずなのに…。事あるごとに難癖をつけて、父に反発していた自分が恥ずかしい。今更だが、今度機会があれば父とゆっくり一献を交わすべきだろうが…。そう思う反面、実際に顔を見たら、気恥ずかしい思いでそうは切り出せないだろうことも感じていた。

 

 泰滋がヤスエに導かれての散歩から帰ると、ミチエがもう帰宅していてせっせと夕飯の支度をしていた。

「最近ヤスエと良く散歩に出かけるけど、どこへ行ってるの?」

 足が折りたたみ式の木製のちゃぶ台に、食器を並べながら、4畳半の次の間でヤスエと戯れる泰滋にミチエが聞いた。

「ヤスエに聞いてくれ。僕はヤスエがいきたいところについて行っているだけだから。」

「あら、散歩もヤスエ任せなの…パパの主体性はどこへ行ってしまったのかしら。」

 泰滋は返事もしなかった。そんな彼を見て、ミチエが言葉をつなげる。

「養生することは大事だけど、何もするなというわけでもないでしょう。」

 妙な後ろめたさがあるせいか、ミチエの気遣いの言葉も、自分を責めているように聞こえた泰滋は、魚の骨が喉に刺さったいるような気分になった。

「さあ、食事の支度ができたから、食べましょう。」

 ミチエに促されて、泰滋がちゃぶ台の前にあぐらをかく。あぐらの上には、ヤスエがちょこんと座ってニコニコ笑っていた。ヤスエの笑顔に癒されて、泰滋の気分も取り直したようだ。

「毎晩、市場の惣菜の売れ残りで申し訳ないけど…。」

 すまなそうにちゃぶ台の上に惣菜を並べるミチエ。

「何言ってるんだよ、ママ。俺もヤスエも大満足だよ。なあ、ヤスエ。」

 泰滋が箸で惣菜をつまみ、ヤスエの口に運ぶと、ヤスエは満面の笑顔で美味しそうに口を動かした。養生する泰滋を気遣って、今はミチエが働いて家計を支えている。その苦労が痛いほどわかるがゆえに、泰滋も文句など言う気にもなれない。

「ねえ、何か趣味でも始めたら?」

「趣味ねぇ…。」

 いくらミチエに言われても、家長としての責任を果たせていない今、それを忘れて趣味にふけるなど泰滋の性格では無理な話だ。うつむき加減で黙々とヤスエの口に食事を運ぶ泰滋を見て、ミチエの口数もだんだん少なくなってきた。

 ヤスエを寝かしつけて泰滋が居間に戻ると、ミチエが財布を取り出してにっこりしながらそれを彼に差し出した。

「たまには外に飲みに行ってくれない?」

「えっ…。」

「これから部屋の大掃除するの。パパ邪魔だから。」

「えっ、これから?」

「だから、家に居られると邪魔なの、さっさと行った、行った。」

 逡巡する泰滋に外着のジャンパーを投げつけたミチエは、ホウキで履くように泰滋を外へ追いやった。

 

 近くの赤提灯。俺はそんな暗い顔をしていたのだろうか。狭いカウンターで日本酒を一杯一杯大切に口に運びながら自問自答する泰滋。彼にはわかっていたのだ。ミチエがそんな自分を心配して気分転換に外へ出してくれたことを。ミチエの心遣いは、心底ありがたいと思っている。だが、こんなことをされ続けたら、家長としての自信を失ってしまうような気がしてならなかった。

『こんな俺でも、今できることはないのだろうか?』

 養生が終わればまた京都に戻るのだ。元気な体を取り戻すまでの辛抱だとは思っても、今の焦燥感がとてつもなく大きな力で泰滋を締め付ける。しかし、この土地で仕事に就こうにも、結核上がりのよそ者、しかもやがて街を出てしまう泰滋に仕事を与えてくれるところなどなかった。

「おい、お前。」

 泰滋は、となりで飲む初老の酔っ払いにいきなり声をかけられた。

「はい?」

「お前、さっきから病み上がりみたいな青白い顔で、ため息ばかりつきよって…酒がまずくなるから何とかしろ。」

 知らずとため息をついていたのか。しかし、こんな気分の時に酔っぱらいに絡まれるとは…。なんとついていない日だ。

「はいはい、申し訳ありませんでした。もう退散しますから。」

「なんだと…わしは、お前に帰れとは言っとらんぞ。」

「でも…。」

「お前じゃない、お前のため息を何とかしろと言っておるんだ。」

 腰を浮かした泰滋の腕を引き取ってもう一度座らせると、初老の酔っぱらいは盃を差し出す。

「とにかく飲め。」

「いや…結構ですから。」

「いいから飲め。」

「いや…。」

「お前、目上のモノが酒を勧めているのに、盃を取らぬなどとは無礼千万だ。」

「いえ、おすすめいただいている酒が嫌ではないんです。その盃が嫌なんです。」

「盃?」

「ええ…。」

「…なぜだ。」

「ヒビが入っているから。」

「なんだと。」

 初老の酔っぱらいは、手にした盃を回しながらすみずみまで舐めるように検見した。

「ヒビなどまったくないではないか。愚弄するのもいい加減にせい。」

 初老の酔っぱらいは、盃を握ると怒声とともに泰滋の顔の前に差し出す。すると、盃が彼の手の中で真っ二つに割れた。いくら興奮してたとはいえ、初老酔っ払いの握力で盃を握り割るなどできるはずもない。彼は、呆気にとられたように手の中の割れた盃を凝視していた。

「でしょう…やっぱりヒビがはいっていたんですよ。」

 初老の酔っぱらいはようやく視線を泰滋に戻すと宵も覚めたように言った。

「なぜわかった。」

「なぜって…。」

「ろくに見てもいない盃にヒビが入っていると、なぜわかっていたんだ。」

 掴み掛からんばかりの問い詰めように、泰滋も種明かしをせざるを得なかった。

「音ですよ。」

「音?」

「さっきから、机に置くたびに鈍いジャリジャリ音がしてたじゃないですか。」

「ジャリジャリ音?」

「ええ、ヒビが入ってなければ、そんな音など出るはずありませんから…。」

「お前にはそのジャリジャリ音とかが聞こえていたのか。」

「ええ、まあ…。」

 初老の男、泰滋の答えに酔いも覚めてしまったようだからそう呼び変えるが…、は割れた盃と泰滋をしばらく交互に見くらべていた。そして、いきなり立ち上がると、泰滋の腕を取った。

「おもしろい。お前は非常に面白いやつだ。ちょっと来い。」

 嫌がる泰滋を赤提灯の店から無理やり引きずり出した。

 

 

 泰滋が連れてこられたのは簡素な一軒家。初老の男は、木戸門をくぐって庭から離れの小屋へ泰滋を引きずっていった。そしてヒビの入ったガラスがはめ込まれた安普請の門をガタガタと開けると、平木が大層に積まれた部屋に彼を放り投げた。

「こないなとこ連れてきて、自分をどないするつもりですか!」

 泰滋の抗議にもまったく意も介せず、初老の男は喋り始めた。

「なんだ、いきなり京都弁になりおって…まあいい。ここはな、乾燥室といってな、木材を自然乾燥させる部屋だ。」

「それが、自分に何の関係が…。」

 初老の男は、三つの木板を泰滋の前に置いて言葉を続ける。

「この三つの板のどれが一番乾燥しているか、当ててみろ。」

「なんですの、藪から棒に…どれも見た目同じやないですか。無理ですわ。」

「無理か?なら、板を持ってみろ…どうだ。」

「どれも同じような重さです。違いはないみたいですよ。」

「そうか…」

「だから、無理やて…。」

「どうだ、板をたたいてみんか。お前の耳で聞いてみたらわかるかもしれん。」

「そんなこと言わはっても…。」

 泰滋は仕方なく板を叩いてみる。

「なるほど…わかりました。真ん中の板が一番乾燥しているようです。二番目が右、そして左が一番湿っている。」

 初老の男は泰滋の答えを聞いて目を輝かせた。

「やっぱりわかるんだな、お前。」

「でも…。」

「でも、なんじゃ。」

「残念ながら、真ん中の板は、板の芯に小さな空洞があるようですよ。」

「お前…板を一度叩いただけで、そんなことまで分かるのか。」

 初老の男は、半分呆れたような表情で泰滋の顔をまじまじと眺めていた。バツが悪くなった泰滋が口を開く。

「ところで、こんなこと自分にさせはって、どないしようというんです。」

「ああ…。」

 初老の男は、泰滋の言葉に我に返ると、今度は奥の部屋に彼を導いた。灯りがともされていない奥の部屋ではあるが、月のあかりに見ると、中は工房になっていて、狭いながらもきっちりと整理がなされている。万力で挟まれた木片や柄のようなものが立ち並んでいた。

「わしの名前は、橋本カズオ。お前、わしの仕事を手伝ってくれんか。」

「仕事って…。」

「わしは、ギターを作っている。ギター職人だ。」

 泰滋は目を凝らしてあらためて工房を眺め直した。そう、月の光に浮かんできた風景は、確かに作りかけのギターが、所狭しと立てかけられ、そして吊り下げられている木工の工房だった。

 

「悪いが、水をとってくれんか…久しぶりのおしゃべりでのどか乾いてたまらん。」

「じいちゃん。無理しないで、この続きは明日にでも…。」

 佑樹がストローのついたコップをじいちゃんに渡しながら言った。もちろん、おじいさんには無理をさせられない。そうは分かっていても、固唾を飲み込みながら彼の話を聞いていた汀怜奈は、ようやく知りたい話の核心に入ってきたので、ここで終わってほしくない気持ちもあり、その葛藤で心が揺れていた。

「じいちゃんがギター職人だったなんて、意外だな。親父は知っていたの。」

「俺が生まれる前の話だからな、知るわけもない。」

 ストローを弱々しく吸って喉を潤すじいちゃんを、佑樹と父親が見つめた。

「なに誤解しておる…わしがギター職人になったなんて、誰が言ったのだ。」

「えっ、違うの?」

「だから…。」

 勢い込んで話しを始めたせいか、おじいちゃんが少し咳き込んだ。汀怜奈はすかさずおじいちゃんの手にあるコップを受け取ると、優しくその背中をなぜる。

「おじいさま、本当にお話を続けてよろしいのですか。」

「ああ…すまないね。今日はことのほか意識がはっきりしている。こんな日に皆に話しておかんと、話せる機会を失ってしまうかもしれん。どうか、続けさせてくれるかい。」

 笑顔で答えるおじいちゃんに、汀怜奈も気持ちの整理をして、彼の話しに集中することにした。

「そのギター工房から帰るとすぐに、わしはママに言ったんだ。居酒屋で変なじいさんに声かけられて、仕事を手伝ってくれないかと誘われたことをね。そうしたら、ママは言ったよ。」

 

『どんなお仕事なの?』

『どうも手作りギターを作る仕事の手伝いらしい。』

『ふーん…私は反対だわ。』

『えっ、だめなの?どうしてなのさママ…さっきは、何か趣味でもいいからなにかやれって言ってたじゃないか。』

『ええ、だから仕事のお手伝いだったら反対です。でも、お金をもらわないで趣味でお手伝いに行くなら反対しないけど。』

 

「えっ、どういう意味なの」

 不思議そうな顔で佑樹が尋ねる。

「うむ…きっと、家族のためにお金を稼ごうと焦っているわしを見抜いていたにちがいない。病み上がりの身で、稼ぐための仕事に行かせたらまた体を壊してしまうかと心配したんだろう。」

 汀怜奈が優しい眼差しでおじいさんに言った。

「おばあさまはおじいさまのことを、よっぽど大切にされていたのでしょうね。」

「うん…そういうことになるのかな…。」

 

 翌日から泰滋は、橋本のギター工房へ週三日のペースで通うことになる。泰滋の手伝うパートは、ギターの材料となる木材の乾燥度のチェックだ。橋本から示された木材の音と乾燥室に並ぶ木片との音の違いを比べることによって、加工にふさわしい乾燥度になったかを確認する。さらにニカワで圧着されたギターが、次の工程に進んで良いかの判断としてニカワの乾き具合も音でアドバイスすることもある。

 泰滋はギター工房で木材に囲まれていると、木を削る細かいホコリは舞っているものの、その香りと温かみは、彼の心を落ち着かせてくれるような気がしていた。幾日か経つと、工房の職人さんたちとも慣れてきて、ギターが作られる工程をまじまじと眺められるようになった。そして彼は、ギターの製作工程が、大きく分類すると、乾燥、加工、組立、塗装、仕上げの工程であることに気づいた。

 乾燥。将来的に狂いの少ない安定したギターを作るためには、しっかりと乾燥した木材料が必要だ。聞くところによると、乾燥に二十五年もかけることもザラだそうだ。橋本ギター工房では、海外から仕入れた乾燥木材を、日本の国内でしっかりと長期間自然乾燥させることで、日本の気候に合ったよい音の出るギター作りを手がけている。

 しかし、ここでなにも百万もするようなギターをつくろうとしているわけではない。名演奏家の手に渡るよりは、手作りながらより多くの人がギターに親しんでもらえるような大衆的な楽器作りを目指していることは、素人の泰滋でもわかった。狂いのない、良い音の出る、買い求めやすいギター。そのためには、仕入れた木材のどの乾燥段階で加工を始めるかが重要で、橋本師匠は、その見極めに苦労していたようだった。

 加工。ここからは、職人技の発揮できる工程である。木材を切断し、削り、各パーツに仕上げていく。特に、ヒールからネックの部分を削って、日本人に最も弾き易い厚さにするなど、弾き易さを左右する重要な部分は全て手作業で行っている。とはいえ橋本ギター工房は、4人ほどの職人が立ちはたらく小さな工房だ。泰滋の目から見ても、手分けをして各パーツをあらかじめ削りあげ、それをまた手分けをして組み上げていけば、経費効率も良く生産性も上がると思うのだが、橋本師匠はそれを許さなかった。各パーツは、ギターを組む人間が、自らの手で削りあげて作る。1台のギターを複数の職人の手によって加工されることが、橋本ギターのポリシーに合わないということらしい。素人の泰滋にはそうあるべき理由が良くわからなかった。

 加工の圧巻は、ボディの側面を構成する板を型にはめ込み熱で曲げる工程である。もともと、学徒動員で木の飛行機のパーツを作っていた泰滋であるので、木加工についての基礎知識は持っている。しかし、頑固に乾燥させた側板が折れもせず、なんでこんなに繊細な曲線を描き、そして形を維持できるのか、何度見ても興味が尽きなかった。

 組立。職人の手によって準備されたパーツがいよいよ組み立てられる。組立といっても、基本的にはニカワの糊付けである。ニカワを着けて万力等で力を加え圧着させる。ひとつのパーツが圧着されニカワが乾燥するのに一週間はかかる。すべてのパーツが組み上がるのにどれほどの日数が必要なのかは、容易に想像できるだろう。

 組立での重要なポイントのひとつに、トップ板の裏側に『力木』を接着させる工程がある。『力木』はその材質・形状・配置により音質を左右する重要な部材である。橋本ギター工房では、橋本師匠が私財を投げ打ってスペインに修行に行き、苦労の末に得たスペインの伝統的な配置を採用していた。

 塗装。組みあがってニカワの乾いたギターは次の段階へ進む。表面を磨いて塗装面を均一にならし、艶も出すようにするのだ。そして、そこに塗装を施すことになる。塗装は完成品をきれいに見せることと木の表面を保護することが役目であると、木工の世界では言われているが、楽器には見栄えなどの他に『音』という一番大切なことがある。実は、この塗装はその音に大変影響を与えるのだそうだ。

 塗装は薄すぎても厚すぎてもいけない。厚すぎると音質の良さや木の美しさを塗りこめてしまう。塗料は調合したニスを使い、刷毛やたんぽで丹念に仕上げる。その都度乾かしながら何回も繰り返す作業はとても長い時間がかかるのだが、この工程を丁寧に行うことで、ギターの振動への影響が小さい塗膜を形成し、見た目にも美しい仕上がりのギターが作り出される。

 仕上げ。塗装の工程を終え、十分に乾燥させたギターはいよいよ仕上げの作業に入る。音作りに大きな影響を与える駒の接着場所の塗装をノミで削る。ここをフラットに削って駒を隙間なく接着することで、弦の振動を最高の効率で表面板に伝えることができる。そして、最後の仕上げでナットを調整し、音色の良さと弾き易さを最大限にまで引き出す努力を尽くす。もちろん、ナットとサドルは一本ずつのギターに合うように手作りされたものであり、後の調整まで考慮して最適の状態に仕上げる。そしてやっと出荷が待たれる楽器として完成されるのだ。

 楽器として完成するのにどれほどの時間が必要なのだろうか。材料として長期間乾燥させ、ひとつひとつのパーツは、その都度手加工でされ、ひとつ組み上げてはニカワを乾燥させ、またひとつ組み上げては乾燥させる。挙げ句の果てに、ニスのうす塗りと乾燥を気の遠くなるほど繰り返す。ある著名なギター工房では、発注から納品まで三年から五年待ちは当たり前とも聞く。

 百万単位のギターを作るならいざ知らず、大量生産のシステムを持たない小さな手作り工房が、大衆的なギター作りを目指すなど、到底ビジネスになるわけがない。しかし、橋本師匠は、そのモノづくりポリシーを固持し、工房の業態を変えるつもりは全くないようであった。

『ええか、わしらは楽器づくりの職人だ。その楽器というもんはな、奏でる人がおってはじめて楽器になる。決して置いて眺めるもんではない。見た目の美しさより、常に弾き手のことを考えろ。』

 工房の職人達の不出来を叱る時の橋本師匠の口癖だ。泰滋は、そんな橋本師匠の頑固さが好きであった。しかも、もともと工作好きの性分である彼は、職人達の手で作り上げられるギターを眺めながら、ギター工房での手伝いの日々を楽しく過ごしていた。

 

「パパ、なんだかこの頃楽しそうね。」

「そうかなぁ…。いつもと変わらないと思うけど。」

 泰滋があぐらの中に腰掛けているヤスエの口にご飯を運びながら、笑顔で答えた。

「ここに来た時より、だいぶ明るくなったわよ。」

「きっと、養生ができて体も回復してきたのだろう。」

「そうかしら…。」

「これもママのおかげだよ。ありがとう。」

 泰滋はミチエに向き直り、真顔で頭を下げた。

「やあねぇ、あらたまっちゃって…。やめてください。」

「なに照れてるんだよ。ところで、そろそろ、京都へ帰ることを考えたほうがいいかな?」

「いえ、まだ早いわよ。ゆっくり養生して半年後ぐらいでいいんじゃない。」

「そんな先おくりしたら、ママも大変だろう。」

「市場の仕事は、慣れてきたこともあるし、そんなに大変じゃないんだけど…。」

 箸をくわえて口ごもるミチエ。

「けどって…なんだよママ。何か心配事でもあるのか。」

「心配事って程のもんでもないわ…。」

「なんだよ…言ってくれよ。」

 ミチエは黙ったまま、優しい視線をヤスエに注いでいた。泰滋もその視線に気づくと、ヤスエの口へ運ぶ箸を止めて、ミチエに問いかける。

「なんだよ、ヤスエのことか?」

「ええ。」

「ヤスエに何か問題でも?」

「いえ別に…。」

 そのまま、しばらく口を開かぬミチエに、さすがの泰滋も焦れてきていた。

「だから、なんだよ。」

「…今、パパのあぐら椅子の中でヤスエが楽しそうにご飯食べてるじゃない。」

「ああ。」

「ヤスエは、その特等席を半分でもいいから、快く開けてくれるのかなって…。」

「何言ってんだよ。このヤスエの特等席を、誰に開けるって言うん…」

 泰滋は、ハッとして大きな目でミチエの笑の含んだ顔を見つめた。

「ママ…もしかして…。」

 笑顔を崩さず、ただ頷くミチエ。泰滋は、ヤスエを抱き上げて叫んだ。

「ヤスエ、お前ももうすぐでお姉ちゃんになるぞー。」

 ヤスエはわけがわからずも、突然の高い高いが嬉しくて、泰滋同様ハイテンションではしゃいでいた。

「…今度は男の子だといいわね。」

「そんなことはどうでもいい。元気な赤ちゃんが生まれて、ママが無事に出産を終えてくれれば…それで十分だよ。」

 高い高いをやめようとせず喜び続ける泰滋とヤスエ。ミチエはそんなふたりをいつまでも笑顔で眺めていた。

 

「師匠!」

 橋本が突然の呼びかけに驚いて振り向くと、肩で息をしている泰滋が立っていた。

「…シゲか…今日は工房の手伝いは休みの日だったろう。いったいなんだよ。」

「師匠。この前、仕事を手伝ってもらっているのに、金を払わないのは申し訳ないって言ってたでしょう。」

「ああ、なんだ、今更給金が欲しくなったか。」

「給金はいりません。その替り…。」

「なんだ。」

「その替り、ギターをひとつ、自分に作らせてください。」

 

 傾いた日差しが青めいた空に浮かぶ雲を赤く染める。そろそろ夕焼けが始まろうとした頃、ミチエが、ヤスエの手を引きながら、庭の木戸門をくぐる。橋本ギター工房の小さな庭から、恥ずかしそうに工房の中をのぞくミチエ。

「やあ、ミチエさん。」

 庭で作業をしていた工房の職人が、ミチエに気づいて声をかける。

「こっ、こんにちは。」

「シゲを呼びに来たのかい?」

「ええ、すみません。」

「別に、俺たちが引き止めているわけじゃないんだが…どうも、ミチエさんの旦那は、なにかはじめるとすぐ熱中してしまう癖があるようだな。」

「はい、子どもみたいですみません。」

 職人は、笑いながら、工房の中に入っていく。程なくして泰滋が出てきた。

「すまん、すまん。キリのいいところと思いながら、つい長引いちゃって…。」

 泰滋の手にはまだ組み立て中のギターが握られていた。

「でも、見てくれ。ここまでできたよ。」

 泰滋は嬉しそうに、手にしているギターをミチエに見せた。

「ギターらしい形にはなってきたわね。」

「そうだろ…。」

 手にしたギターを、あちこちから眺めながら、悦に入る泰滋。

「実はね、けっこう自分なりの工夫をしてね。おっと…ミチエ、体が重いだろう。立ってないで、ここに座れよ。」

 泰滋は、切り株でできたベンチをミチエに勧めた。ミチエは勧められるがままに、大きくなったお腹を揺すりながら、よっこいしょっと座る。

「ギターの柄はね、小さな日本人の手にあうように、握りやすく小ぶりにしたし…」

 得意そうに、自分の工夫を語る泰滋。長々と続く彼の話しに、ヤスエはとっくに飽きてしまい、庭に下りて雑草の花を摘んで遊び始めた。しかし、ミチエは相変わらずそのすずしい目元にとてつもない優しい笑みを浮かべて、辛抱強く泰滋の話しに耳を傾けていた。

 泰滋は時より、嬉しそうにミチエのお腹をさすった。ギターの話しをそのお腹にも聞かせているようだ。

「そのギターは出来上がったら、いい音が出るかしら。」

「どうだろうね。弾きやすいとは思うけど、いい音が出るかどうかは自信ない。」

 泰滋もミチエもしばらく無言で組み立て中のギターを眺めていた。

「だけど師匠が言うには『凪の海』のようなギターがいいギターなんだそうだ。」

「どういうこと?」

「凪の海は、穏やかで、静かだろう。」

「ならば、音が出ないギターってことかしら…。」

「そんな馬鹿な…。」

「ギターの話も大概にせんか、奥さんもお腹のなかの赤ん坊も腹が減ってたまらんとよ。」

 ふたりとも、声の主に目を向ける。見ると、木土門をくぐって頑固そうな顔の老人が入ってきた。

「師匠…わかりましたよ。もう帰りますから。」

 泰滋が頭を掻きながら、ギターを仕舞いに行く。彼が工房に入るのを見届けると橋本師匠がミチエに話しかけた。

「この土地で産むのかな。」

「はい、泰滋さんもギターが完成するまではここから離れたくないみたいで…。」

「この土地には、ロクな病院もないし…安心して産めんじゃろうに。」

「いえ、私は大丈夫です。」

「それならいっそ、シゲを工房に出入り禁止にして、奥さんにずっと付きそえるようにしようか。」

 ミチエが笑い出した。

「そんなことしたらまた病気になってしまいます。泰滋さんが元気になったのも、明るく楽しく過ごせるのも、師匠とこの工房のお陰です。感謝しています。」

「わしらは、ただシゲを手伝わせているだけで、何もしておらんがのう。」

 工房から出てきた泰滋をギョロリと睨むと、師匠は後ろ手に歩きながら工房へ入っていった。

 

 汀怜奈は、生唾をごくんと音を立てながら飲み込んだ。『凪の海のようなギター』意味はさっぱりわからないが、どうも自分が求めているものにたどり着く重要なヒントであることはなんとなくわかった。その言葉が、魔法使いの呪文のように汀怜奈の頭の中を駆け巡る。

「ねえ、じいちゃん。その時ばあちゃんのお腹の中にいるのは、おやじだよね。」

「ああそうだ。」

「親父はおばあちゃんのこと覚えている?」

 おばあちゃんというのは佑樹の父の母親である。会うこともなかった母親の話しに、佑樹の父親は佑樹とはまた違った感慨にふけっていたようだ。神妙におじいちゃんの話を聞いていた佑樹の父は、佑樹の問いに我に返ると、大きなため息をついて返事を返す。

「写真では見たことあるけど…まったく記憶にございません。」

「そうなの…でも、いつ、どうして亡くなっちゃったの?」

「だから、まったく記憶にないんだって…。じいちゃんだって教えてくれないし…。」

 じいちゃんは、またゆっくり話し始めた。

 

 ミチエの陣痛が始まると、さすがの泰滋も工房もギターも放り出して、ヤスエを背負いながらミチエを診療所に連れて行った。

 当時は、分娩に夫が立ち会うなどという習慣はなかったので、泰滋は分娩室の外にある待合でじっと待つしかなかった。初産であるヤスエの時は、仕事で出産時には立ち会えず、仕事から帰ってきたらミチエの腕の中にヤスエがいた。だから彼にとっては、出産を待つという経験は初めてのことだ。陣痛の痛みに耐えているのだろうか、時折分娩室からミチエのうめき声や叫び声が聞こえてくる。子どもを産むというのはこんなに大変なことだったのか…。泰滋は今更ながら、母親としてのミチエの苦労に心を痛めた。

 分娩室に入って約五時間。ヤスエを背負った泰滋は待合室でウロウロしながら出産を待っていた。そして、ミチエのうなりとも叫びともつかぬ声とともに、ようやく産声を聞くことができたのだ。

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」

 分娩室からタオルに包まれた赤子を抱いて笑顔の看護師が出てきた。泰滋は、笑顔なのか泣き顔なのか、顔をクシャクシャにして息子と初対面を遂げたのである。

 急に分娩室が騒がしくなった。すると、別の看護師が分娩室から飛び出してきた。

「石津さん。この白衣を羽織って、すぐに分娩室にお入りください。」

 飛び出してきた看護師の青ざめた顔を見て、泰滋もただならぬ事態を察した。ヤスエを看護師に預け分娩室に飛び込んでいった。彼の妻は下半身を血に染めて横たわっていた。

「お子さんは無事に産まれましたが、我が子を抱いた後に急変しました。」

 医師の説明も耳に入らず、泰滋はミチエの手を握った。しかし、青白い顔で朦朧としているミチエの顔を見ると言葉が出てこない。

 分娩後早期におこる弛緩出血。胎盤の剥離(はくり)面から出血した血が子宮内にたまり、子宮収縮と同時に起こる間欠的な大量出血。子宮はすぐに収縮不全の状態になるため新たな出血が再び子宮内にたまり、この出血が繰り返されると凝固因子の消費による播種性血管内凝固症候群(DIC)を引き起こし、止血ができなくなる。分娩後二四時間以内におこる恐ろしい傷病だ。

「なんでもええから、何とかしてください。助けてください。」

 泰滋の絶叫のお願いも、医師は力なく目を伏せる。

「もちろん最善を尽くしていますが、この診療所の設備では限界が…。」

「限界ってなんや…人の命がかかってるんやで。」

 医師の白衣の襟を掴んで怒り狂う泰滋。

「今、救急車を呼んでいます。ここから大学病院へ搬送して、そこで処置をしないと。」

 泰滋は、その言葉を聞いてミチエに向き直った。

「ママ。聞こえるか。今、大きな病院へ連れて行くさかいにな。しっかりしいや。」

「パパ…。」

 ミチエが力ない声で泰滋に話しかける。

「なんや…無理して口きいてはあかん。無理したら血がようけ出てしまうがな。」

「パパ…もし私がダメだったら…。」

「そんなこと、ならへんて…。なったらあかんがな。」

「…子どもたちをお願いね。子どもたちは、私とパパが一緒に生きた大切な証だから…。」

「なにゆうてんねん…。」

「それから…床の間の化粧箱の奥に御札があります。…よく見てくださいね。それが、わたしの願いだから…。」

「あかんがな、目をつぶったらあかんがな。ママ、ママ、うちを残していったらあかん。」

 静かに目を閉じたミチエは、それ以上泰滋の呼びかけに答えることがなかった。いつミチエの命が事切れたのかわからない。ただ大学病院へ搬送されたものの、大学病院の医師は聴診器を外してただ首を横に振るだけであった。あっけない。本当にあっけない別れ。どんなに愛する人であっても、人の別れとはこんなにあっけないものなのだろうか。泰滋の頭の機能が停止した。ようやく頭が動き出し、『この現実をどう受け止めていいのかわからない』と頭に浮かべられるようになることすら、ミチエの死後かなりの時間が経ってからだった。

 

「今更、カミングアウトかよ…。」

 佑樹の父がポツリと言葉を漏らした。

「ああ、お前が気にするかと思ってな…。お前は案外気が小さい息子だから…。」

「そんなこと…。」

「いいか、ママはお前の命と引換えに、自分の命を絶ったわけじゃない。事故だったんだ。そして、たとえどんな事故が起きようと、お前が生まれることは、ママにとっても、わしにとっても幸せなことなんだ。」

 佑樹の父親を見るとその瞳には涙を浮かべているようだった。そんな親子を見つめていると、汀怜奈の瞳も思わず潤んできた。

「ところでさ、じいちゃん。その…あばちゃんの願いの御札ってなんだったんだい。」

 こんな家族愛に満ちた話しにも、ただひとり冷静な佑樹は、じいちゃんに話しの続きを催促する。

「ああ、しばらくしてママの残した言葉を思いだして、化粧箱から御札を取り出したよ。」

「なんて書いてあった。」

「それがな…」

 おじいちゃんは当時を思い出すかのように遠い目をした。

「ストップと書かれた札だった…。」

「何それ?」

「いやな…まだ十代のママがな、言い出しづらいだろうから、婚約期間中、自分や京都が嫌になったら、出してもいいとわしが渡した『ストップ札』だった。」

「どう言う意味?」

「これをわしに出したらな、訳も愛想も要らず、千葉の実家に返してやるという約束だった。」

「おばあちゃんは、実家に帰りたかったのかな。」

「ああ、そうかもしれん。」

「それからどうしたの。」

「…ヤスエと生まれたてのお前の父さんを、わしひとりで育てるのも難しいだろ。千葉のママ実家のところへ行き、ママの兄さんがやっている事業を手伝うことにした。」

「京都には帰らず?」

「ああ、ママの希望でもあるからな。左手にヤスエ、右手にママの骨壷、赤ん坊を背負って千葉の実家を訪ねた。その時のママの母さんのびっくりした顔が今でも忘れられん。」

 おじいちゃんの顔がわずかに微笑んだ。

「おふくろは、おやじと京都や久留米で暮らしながらも、本当は実家に帰りたかったんだな。」

 佑樹の父が感慨深げに口をはさんだ。そのことばに頷く石津家の面々を見て、汀怜奈に変化が起きた。

「うわぁー…。」

「ど、どうしたの…先輩。」

 突然大粒の涙で泣き出した汀怜奈に佑樹は慌ててテッシュボックスを差し出す。

「ほんとにっ、えっ…なんでっ、えっ、こんなに石津家の人たちは鈍感なんでしょ!」

「ええっ…ここで、またそれ…。」

「おじいさま、失礼ですが、実家に帰ることが本当におばあさまの願いだったとお考えでいらっしゃるのですか?」

 大粒の涙で興奮した汀怜奈のモノの言いように、石津家の面々は身が引き気味になる。汀怜奈は、佑樹から差し出されたティッシで、音を立てて鼻をかむ。そして深呼吸をして気を落ち着け、話し始めた。

「おばあさまの本当の願いは、おじいさまが、おばあさまを慈しみ愛する気持ちをいつまでも引きずらないように、ストップをかけたかったのではないですか。おじいさまが自分を愛する気持ちがわかるがゆえに、自分がいなくなったあとのおじいさまと子どもたちのことを心配されて…。」

「どういうこと?」

 首をひねりながら佑樹が汀怜奈に尋ねた。

「ご自身への愛する気持ちをストップさせて、おじいさまに新しい気持ちになっていただいて、新たに出会った方とともに、子どもたちを大切に育んでいただきたい。それが、おばあさまの本当の願いだったのではないでしょうか。」

 しばらくの沈黙の後、佑樹の父親が反抗するように、珍しく強い口調で汀怜奈に言った。

「血も繋がっていない先輩さんに、なんでおふくろの気持ちが分かるんですか。」

「血とか関係ありません。女性の気持ちはみなさんよりだいぶ分かっているつもりです。」

「いくら先輩さんが、女にモテルからって言っても…。」

「確かに言うとおりかもしれん。」

 おじいちゃんが強い口調で食さがる息子をたしなめた。

「佑樹の先輩さん。息子も始めて母親のことを知って、さすがに気が動転しているようだ。許してやってくれ。」

 おじいちゃんは優しい眼差しで、佑樹の父親を見つめた。

「ママのことは、先輩さんの言うとおりかもしれん。ただ、それを最初からわかっていたとしても、自分の生き方が変わっていたとは思えん。ママへの気持ちをストップさせるなど、とうていわしにはできんから。」

 おじいちゃんは、今度は優しい眼差しを汀怜奈に注ぐ。汀怜奈がその眼差しに勇気を得て問うた。

「作りかけのギターはどうされたのですか。」

「完成させたよ。そうそう、トップ板の裏に『ストップ札』を貼り付けたっけ。なんだかそれがママへの供養だったような気もしてな…。」

「そのギターはどこにあるのでしょうか。」

「そのギターを見ると身重のママを思い出してしまう。持ち回るのも辛いので、工房においてきたよ。」

「そうですか…。」

 おじいさまとおばあさまの愛が詰まったそのギター。ぜひともそのギターを抱いてみたかったと残念に思った。

「どうやら、自分の体力も顧みず長話しが過ぎたようだ。最後に佑樹の先輩にお願いがあるのだが…。」

「なんでしょうか。」

「以前、二階で弾いていた曲を、もう一度聞かせてはくれないだろうか。」

 汀怜奈はおじいさんの願いに困惑し佑樹と佑樹の父親の顔を見た。ふたりの瞳には、おじいちゃんに聞かせてあげて欲しいと語っていた。汀怜奈は、頷いて佑樹からギターを受け取ると膝の上に置いた。

 ロドリーゴ作『小麦畑で』。汀怜奈は弾き始めた。美しい旋律と音色は、そこにいるすべての人々の心を浄化していくようだった。やがてすべての人々の瞳に、麦畑のイメージとともに、泰滋とミチエが織り上げた美しい人生の織物が広がり、その敷物の上に優しい微笑みを浮かべて腰かける女性の姿が見えてきた。泰滋が、床から立ち上がり女性に向かって歩んでいく。

『パパ、ひさしぶり。だいぶおじいちゃんになっちゃったわね。』

『なにいうてんのや。五十年もたつのやから当たり前やろ。しかし、ずるいわ、ママはあの時とかわらず若いままや。』

 泰滋の不満そうな口ぶりに、コロコロ笑うミチエ。彼はミチエの横に腰掛けた。

『でも、がんばったやろ。』

『そうですね。結局わたしのメッセージは伝わらなかったけど、がんばりましたね。』

『ああ、今になって知るなんて、傑作や。』

『自分で札作っておきながらわからないなんて、パパらしいです。』

『そない笑わんといてくれ。…ところで、やっと迎えに来てくれたんか。』

『迎えるもなにも、私はずっとそばにいましたよ。』

『そうやったんか、気づかなんだ。…でも、これからはずっと一緒やな。』

『ええ、ずっと一緒です。』

『ママ…始めて賀茂川を散歩した時に戻って、ミチエって呼んでええか。』

『もちろん…パパは立派にお役目を果たされたので、あの頃のふたりに戻っても誰も文句を言わないと思いますよ。…泰滋さん。』

 ミチエが甘えるように泰滋の肩に自分の頭を預ける。

『ああ…けど、五十年。本当に疲れたわ。』

『これからは、また私がご飯を作るから、ゆっくり休んでください。』

『ありがとう…けど、ミミズ入りのご飯は勘弁やで。』

『まあ…泰滋さんったら。』

 

 『小麦畑で』の演奏が流れる中で、曲とともに誰もがそんな泰滋とミチエのやり取りを聞いた。ギターをつま弾く汀怜奈でさえも、そのふたりの優しい会話を耳にして涙を流した。そして、曲の終わりとともに、美しい幻想も幕を閉じたのだった。

「じいちゃん…寝ちゃったみたいだよ。」

 佑樹の言葉に我に返った父親と汀怜奈。おじいちゃんを見ると静かに寝息を立てている。

「親父はどんな夢見てるんだろう…笑ってるぜ。」

 そう言って優しくおじいちゃんの頬に手を当て、じっとしている佑樹の父親。その様子見ていた佑樹と汀怜奈は、やがて視線をあげてお互いを見つめた。ふたりの視線は感謝とも慈しみとも言えぬ暖かさで絡み合っていた。

 おじいちゃんは、その日から一週間後に他界した。汀怜奈のギターを聞いた日から、目をさますことはなかったという。

 

 黒のフォーマルスーツに真珠のネックレス。黒いベールのついた帽子を目深にかぶった汀怜奈は、母親に手配してもらった黒塗りのハイヤーの後部シートに深く腰掛け、自分自身を落ち着かせていた。

 自分は『ヴォイス』を求めて石津家の中に紛れ込んだ。最後の命の灯火を使い切ってお話しをしてくださったおじいさま。そこで語られていた『凪の海』ということばに、汀怜奈が求めていたもののヒントがあるように感じたものの、結局正解は分からずじまいだった。おじいさまの話しを聞いて、素直に感動して弾いたあの一曲。その時の橋本ギターからも、おじいさまとおばあさまの声は聞こえたけど、残念ながら自分のギターは何の声も発しなかった。もう自分にとって、石津家へ通う必然性はなくなった。いやそれ以上に、純粋な石津家のみなさまを騙すようなことはできないと感じていた。

 石津家の皆さんとの触れ合いはとても暖かくそして楽しいものであった。特に佑樹と触れ合いは…。汀怜奈の思考はここで中断する。佑樹と触れ合いをどう表現していいかわからないのだ。子犬のように可愛らしく、しっかりもので、時にはたくましく、ときには頼りなく。そんな佑樹とギターをはさんで過ごした日々が、ペリエの泡のように浮かんでは消えていく。

「汀怜奈、弱気になってはだめよ。石津家のみなさんに嫌われても、自分がなんの目的で何をしていたのか、ちゃんとお話しなければ。」

 汀怜奈を乗せた黒塗りのハイヤーは、葬儀場へ向けて走っていた。

 

「ところでヤスヒデ。おとうさんのおコツはどうするの。」

 佑樹の父にそう問うたのは、久留米の工房の庭で、花を摘んでいた実姉のヤスエである。当然ながら彼女は父親の葬儀のため、大阪から出てきていた。ふたりは、父親の御霊前の前で、お焼香に並ぶ参列者に礼を返していた。

「ああ、千葉のお墓に、かあさんの骨と一緒にと思ったんだけど…やめた。」

「じゃあ、どうするのよ。」

「母さんのお骨を分骨して、オヤジの骨壷に入れてやり、京都のおじいちゃんたちのお墓に入れて上げることにしたよ。」

「なんで?」

「なんでって…オヤジの遺品を整理してたら、年取って趣味でやっていた書画の雅号印が出てきてさ。なんという雅号だったと思う。」

 佑樹の父は参列者の挨拶を返すのに言葉を切った。

「『慕京(京をしたう)』だぜ。なんだかんだ言っても、京都に帰りたかったんじゃないかな…なんて思ってさ。」

「ふーん…。」

「おいオヤジ、あの美人見て…オヤジの知ってる人か。」

 やはり、御霊前の前の家族席にいた佑樹の兄が、葬儀のお焼香に並ぶ参列者の列に、とてつもない美人を発見して父親の脇を小突く。

「いてえなぁ、泰樹。知ってるわけないだろ。」

「やだ、あのひと村瀬汀怜奈じゃない。」

「知ってるのかよ、あねき。」

「知ってるもなにも…ヤスヒデ本当に知らないの。世界的に有名な天才ギタリスタじゃない。この前テレビで見たけど、生で見ても本当に綺麗なひとね。」

「へえ…。」

「なんで、死んだじいちゃんが村瀬汀怜奈と知り合いなの?」

 長男泰樹の問いに、佑樹の父親も答えに窮した。

「いや…泰樹や佑樹と同じぐらいの年だろ。オヤジの知り合いとは思えないんだが…。」

 汀怜奈のお焼香の番が回ってきた。汀怜奈はじっとおじいさまの遺影と柩を見つめた。

『おじいさま、本当にお疲れ様でした。これからはおばあさまとご一緒に楽しくお過ごしください。』

 そう心に念じて深々と礼をすると静かにお焼香をして手を合わせる。そんな汀怜奈の美しい仕草を、佑樹の父と伯母、そして兄が、ほれぼれと眺めていた。当の本人である佑樹はといえば、お清めにいる友人たちのへの対応で、しばし御霊前の席から離れていたのだ。

 汀怜奈が焼香を終えて、家族の前に進んできた。家族が礼をすると、汀怜奈はいきなり帽子とウィッグを外した。

「えっ、もしかして先輩?」

「はい、おとうさま…。このたびは本当にお悔やみを申し上げます。」

「先輩って…どういうこと。」

 驚くヤスエに汀怜奈が向き直って笑顔で挨拶した。

「はじめまして。ヤスエさまですね。お話しはよくおじいさまからお聞きしています。」

「はい?父から?私のことを?」

「すみません。僕のことは聞いてません?」

 美人の汀怜奈の参入に、彼女ナイ歴の長い長男の泰樹が割り込んでくる。

「ああ、佑樹さんのお兄様ですね。お写真で拝見させていただきました。」

「佑樹さんって…じゃ佑樹の知り合いなの?」

「はい…。」

「先輩はな、佑樹のギターの先生で、おじいちゃんが亡くなる前に、寝ている横で美しい曲を弾いてくださったんだぞ。」

「村瀬汀怜奈さんが?あの天才ギタリスタの?」

 驚くヤスエに微笑むと、汀怜奈は佑樹の父親に向き直る。

「その節はいろいろお世話になりました。」

「いや、こちらこそ…しかし、先輩がこんなに綺麗な女性だったとは…。」

「ええっ、ヤスヒデ、いままで村瀬さんを男だと思ってたの?」

「ああ、たぶん佑樹だって女性だとは思っていなかったんじゃないか。」

「あんたたち、本当に馬鹿ね。それでお父さんは?」

「おじいさまは、私が女であることは察しておられました。」

「そうなんだ…。」

 まじまじと汀怜奈を見つめる佑樹の父。好奇の目で見つめるヤスエ。そして、あきらかにお近づきになりたい下心が丸見えの目で見つめる泰樹。汀怜奈は少し照れくさくなって彼らに聞いた。

「佑樹さんはどちらに?」

 三人が一斉に汀怜奈の背後に視線を移した。視線に誘われて振り向くとそこに佑樹が立っていた。驚きとか、怒りとか、敬愛とか、相反する複雑な感情が織り交ざると、人間の顔は無表情になる。佑樹の表情はまさにそんな無表情を呈している。

「佑樹さん。あの…。」

 佑樹は、汀怜奈の言葉を待たずに外へ飛び出していった。

 

 佑樹の足は早い。ヒールの汀怜奈が追いつくわけがなかった。やっとのことで、斎場の駐車場の片隅に立ちすくむ佑樹を見つけた汀怜奈は、今度は逃げられないように慎重に近づいていった。

「佑樹さん。」

 近づく汀怜奈に気づいた佑樹は、顔を反対の方向に背けた。

「佑樹さん、聞いてくださいな。」

 佑樹は黙っていた。

「騙すつもりはなかったのです。ただ…音楽家として、どうしても見つけ出さなければならないことがありまして…。」

 汀怜奈は、ロドリーゴ氏との面会から、久留米への調査旅行、山手線での佑樹と橋本ギターとの出会い、そしておじいさまとの会話の一部始終を語った。

「そんなこと!」

 耳を塞ぐように、佑樹がついに汀怜奈の話しを遮った。

「そんなこと、自分には関係ありません。自分はただ先輩が好きで…。」

 佑樹が言葉を躊躇した。汀怜奈顔が自然に赤くなる。

「自分は先輩が男だと思ってましたから…ただ先輩が好きでつきまとっていただけです。だのに、先輩には自分がつきまとうのを許す別な理由があったんですね。」

 汀怜奈は二の句が継げなかった。

「セルリアンタワー東急ホテルでお会いした時も、御茶ノ水でお茶した時も、結局気づかぬ自分をからかっていたんですね。」

「そんなことは…。」

「で…答えを見つけたんですか?」

 佑樹は汀怜奈が言い訳をする暇を与えなかった。

「…結局は、わかりませんでした。」

「そうですか、残念でしたね。」

 佑樹の言葉ぶりが知らずと無表情になってくる。

「で、おじいちゃんも逝っちゃって、もううちに来る必要はない。だからそのカッコでカミングアウト。はい、これでお終いってことですね。」

「そんな…。」

「分かりましたよ、村瀬汀怜奈さん。どうもご苦労様でした。残念ながら目的は達成できなかったみたいですが、別れの餞別にあのギターをお送りますよ。おじいちゃんも逝っちゃって、もう自分には必要ありませんから。」

「私の嘘を許してとは言えませんが…ギターは続けてください。おじいさまの想いと、そして彼女への告白もまだ残っているのでしょう。」

「もういい加減…先輩の振りをするのはやめてくれませんか村瀬さん。自分の好きな先輩はあなたじゃない。」

 佑樹は、サヨナラも言わず背を向けた。歩み去る佑樹の背中に呼びかける汀怜奈。しかしその声にも佑樹が振り返らないのは、頬に伝わる涙を見られたくないからだ。もう汀怜奈も追うことはなかった。

 佑樹は歩きながら、なんて自分は幼いのだろうと切実に感じていた。正直に話してくれた汀怜奈を受け入れられないのは、なぜであるか自分にはわかっていた。そばにいてくれた先輩を失うことの喪失感が、彼をことのほか苦しめた。村瀬汀怜奈であることを明かした彼女は、もう先輩として佑樹のそばには居られないはるか天井の人なのである。

『どうって…強くて頼りがいもあるんですが、プライドが高くて、おこりんぼで、時々手に負えない時があります。…いえ、それでいて放っておけないような、どんなことをしても、支えてあげなきゃいけないって思えるような…。』

 そんな先輩はもう何処にも居ない。その替り目の前に現れたのは、世界的にも注目されている天才ギタリスタなのだ。ああ、自分でも身勝手な怒りだとわかってはいる。でも、やっぱり、到底受け入れることができない。

 

 

 おじいちゃんの骨が灰になった日から、5年の月日が経った。

 汀怜奈は、答えが得られぬ『ヴォイス』の幻影に悩まされながらも、その天賦の才を開花させて、世界的な音楽活動を積み重ね、その評価も不動のものとなっていた。

 今日もスペイン・マドリードでの演奏会を終え、帰国の準備を母親としているところである。

「ギターは全部日本に送っていいのかしら?」

「ええ、もう演奏の予定はないし、練習用を一本残しておいてくれればあとは送っていただいて結構です。」

「ええっと、練習用はこれでしょ…あとは送りと…あれっ、これは?」

 母親が手にしたのは、古びたいかにも安価そうなギターだった。そう、5年前、佑樹が送ってきた橋本ギターである。

「あっ、それはブリッジが少し浮いてきちゃって…。こちらの知り合いの工房で直してもらおうと思ってるの、残しておいて。」

「これ、確か石津さんのところからいただいたギターよね。」

「ええ、まあ…。」

「使いもしないのに持ってきてたの。」

「だから、直してもらおうと思って…。」

「日本でも直せるにわざわざスペインまで?」

「これを上手く直せる工房は、スペインにしかございませんのよ。」

 汀怜奈が、母親にそっぽをむいて答えた。目の中にある心の乱れを気づかれたくないのだ。

「へえ、そうなんだ。」

 母親が橋本ギターをケースにしまいながらひとりごちる。

「そういえば、石津さんの息子さん。たしか大学行くのをやめて、スペインへギター作りの修行に行ったって言ってたわよね。」

 汀怜奈が母親の言葉に驚きながらも、動揺を隠すためにゆっくりと振って言った。

「お母さま、なぜそんなことをご存知なんですか。」

「ご存知だなんて…だって、石津さんに聞いたもの。」

「いつ?」

「…いつだか忘れたわ。」

「忘れたって…いつ佑樹さんのお父さんとお会いしたの?」

「その話が出たのは、だいぶ前にお会いした時だったから…」

「その後、佑樹さんのお父さんとは?」

「…ええ…まあ…何度か…、先月にもお会いして…。」

「やだ、佑樹さんのお父さんとお付き合いをされているのですか?」

「お付き合いって、何言ってるのよ…お友達なだけよ。」

「わたしは始めてお聞きしますわよ。いつからそんな仲になられたの?」

「いつからって…5年前渋谷で映画を観に行って…ほら、汀怜奈に無理やり勧められた時よ。そのあと、石津さんのお父様が亡くなられたあと…そう、このギターを持ってこられて、お話して…。案外石津さんて博学で、お話しも面白いし、私のお話しも聞いてくれるし、その後月一ぐらいでお会いして、おしゃべりしたり、お食事したり…。」

 今度は動揺を見透かされまいとしているのは、汀怜奈の母親の方だった。

「とにかく、私は明日の早い便で帰国するから、もう休ませてもらうわね。おやすみなさい。」

 慌てて寝室に引きこもる母親の背におやすみの声をかけたが、汀怜奈も意外な佑樹の父親と自分の母親との関係を知って驚きを隠せなかった。

 実は汀怜奈も、佑樹のその後の動向は噂に聞いていた。最近ではあるが、スペイン語も英語も話せぬ若者が、スペインのギター工房に座り込み、入門が果たせるまで居座り続けた話しを、スペインギター関係のハッシュタグのツイートを流し読んでいる時に知った。

 練習の合間には、スマホを手にしては僅かなキーワードからその真相をサーチし続け、ついにフェイスブックに入門を果たした日本の若者の顔を見たときは正直驚いた。佑樹だった。どんな心境の変化で、決まっていた大学への入学を蹴って、言葉も分からぬ異国の地に飛び込んでいったのか。あの時のおじいさまの話しの影響なのだろうか。汀怜奈には全くはかり知ることができなかった。すこし大人びた佑樹の顔をフェイスブックで見ると、今まで心の奥にしまいこんでいた箱の鍵が弾け飛んだ。中から抑えきれない衝動が飛び出してきた。

 佑樹に会いたい。会いたくて、会いたくて仕方がない。それならば、佑樹の家に行けばいいのだが、それは彼女のプライドが許さなかった。そしてなにより、彼が汀怜奈に放った最期の言葉が、いつまでも心に引っ掛かっていて、彼の家の門をくぐることができなかったのだ。

『もういい加減…先輩の振りをするのはやめてくれませんか村瀬さん。自分の好きな先輩はあなたじゃない。』

 確かに私は佑樹を失望させた。だが、それがいったいなんだというのだ。一生の仕事として音楽家の道を選んだ自分にとって、大切なのは『ヴォイス』の探求である。佑樹の失望とか、佑樹との友情関係を失ったとかなど、大した問題ではないはずだ。そう頭では割り切っていた。割り切ってはいるが、なぜ自分の胸は佑樹に会いたいと叫び続けるのだろうか。

 汀怜奈は以前、佑樹に会いたくて、セルリアンタワー東急ホテルのフロント周りのロビーを1時間ほどウロついたことを思い出した。それは、プライドの高い汀怜奈が、当時佑樹に会うために実行できる最大限の譲歩行動だった。そして今、汀怜奈は自分ができる最大限の譲歩行動を再び実行しようとしていた。

 

 汀怜奈が滞在していたマドリードから飛行機で一時間。汀怜奈がやってきたのは、アンダルシア州グラナダである。周知のことであるがグラナダは「アルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区」として、世界文化遺産に登録されている地域。歴史的にはスペインを占領したアラブ人が、十一世紀から十五世紀までナスル朝として首都とした街として知られ、イスラム芸術最高傑作の居城「アルハンブラ宮殿」、石畳の緩やかな丘にあるイスラムの居住区「アルバイシンの丘」といったふたつの世界遺産を抱える都市である。

 汀怜奈は、「アルハンブラ宮殿」に近いHotel Alhambra Palaceにチェックインすると、早速アルバイシン地区へとタクシーを走らせた。

 元来がアラブ人の城塞都市として発展したこの地区は、小高い丘にあり、道が迷路のように入り組んでいる。すれ違う車や白い壁に擦られそうになりながら、急な坂道をぐいぐい登っていく。丘を登りきり着いたところにサン・ニコラス広場がある。タクシーを降りてそこの展望台に立つと、アルハンブラ宮殿の眺望が目の前に美しく広がった。まさにこの眺望は絶景である。

 「こんな素敵なところに工房があるなんて…信じられませんわ。」

 思わずそんな言葉が口に出る汀怜奈。しばらく、眺望を堪能していたが、ここで夜を迎えることもできない。彼女は目指す工房へ歩き始めた。

 展望台から少し下って、石畳をてくてく歩いて行くと小さな広場があり、目の前の白い壁に素敵な淡いブルーで「ベルンド・マルティン」と書かれた白い小さな陶板がかけてあった。そう、ここが彼女の目指していたギター工房である。

 ドアを開けると、奥で職人さんが力木か何かを切断していた。優に190センチはあるであろう背の高い職人さんで、それがこの工房の頭首であるベルンド・マルティン氏であることは、壁に飾ってある写真で知ることができた。作業はしばらく続いていたが、汀怜奈に気付くとニコニコして出てきた。写真で見る限り気難しそうな印象だったが、実際に会って話しをしてみると、明朗、快活で彼もまた佑樹と同じような優しい子供のような眼をしている。

「何か御用ですかな、セニョリータ。」

「あの…ギターを修理していただきたくて…」

 パリのエコール・ノルマルに留学していた学生時代に比べ、スペインでの数多くの演奏活動を経験した今では、汀怜奈もカタコトのスペイ語が話せるようになっていた。

「どれ、まずはそのギターを見せてもらおうかな。どうぞ、中におはいりください。」

 マルティン氏に導かれ工房の奥へと進む。工房はとても整理されており、彼が大きいせいか机も棚もすべて高い位置にある。中央にベッドのように作業台が置かれていて、棚には写真が飾られており、著名なギタリスタやスペインはグラナダの名工、アントニオ・マリン・モンテロ等と一緒にマルティン氏が笑って写っていた。実はこの時の汀怜奈の瞳はせわしなく、そして忙しく動いていた。工房の中に佑樹の姿は無いか探していたのだ。しかし、その姿は見つけることはできなかった。

 汀怜奈が持ってきたギターを一通りながめ終わったマルティン氏が口を開く。

「セニョリータ、ひとつ聞きたいのですが…。」

「はい、なんでしょう。」

「これはここで作ったギターではないね。」

「はい、そうですけど…。」

「私の工房でつくるギターは、どれも表、裏共に丸太から製材して、良質なところを厳選して使用していていましてね。」

「はい」

「特にこだわっているのは、ローズウッドのヘッドもブリッジも裏板も横板にも同じ一本の丸太から製作されていることなんです。」

「それで?」

「だからこそ、うちの持ち味である『重い低音を持ちながら、高音も硬くしまって音が抜けたギター』が生まれているわけで。」

「だから、それがどうしたのです?」

「つまりですね…うちはこの工房から生まれたギターは直しますが、そとから持ち込まれたギターはできかねます。残念ですが…。」

 できないならできないと、結論だけ言えばいいのに…。どうもプライドの高い職人さんは、自らの技術を話さねば気がすまない人種らしい。まあ、断られるのは十分予想はしていたが…。しかし自分の本当の目的は別にある。その目的を果たすべく、マルティン氏とのやり取りの最中でも、佑樹の姿を探した。しかし、やはりその姿は見つけられず、佑樹が就業している痕跡すら発見することができなかった。工房は決して広くない。また、別室があるとも思えなかった。本当にここで修行していれば、会えないわけない。わざわざグラナダまで来たのに…。汀怜奈にひたひたと失望感が忍び寄る。

「ところで…セニョリータ。もしかしたらあなたは、セニョリータ・テレナ・ムラセではありませんか?」

 そう、この地球上、ガットギターに関係する人間で彼女のことを知らない人などいないのだ。汀怜奈は恥ずかしそうに黙って頷いた。

「いや、感激だな。あなたのような世界的なギタリスタに来ていただけるなんて…。」

 しかし、感激して歓迎するマルティン氏の言葉など汀怜奈の耳に入らない。彼女は全く別なことを考えていた。思い切って佑樹のことを聞いてみようかしら…。

「不思議ですね…高名なセニョリータ・ムラセが、失礼ながら、こんな素人じみて粗暴な作りのギターを修理したいなんて…。」

 マルティン氏が、汀怜奈と橋本ギターを見比べながら首をかしげる。

「よっぽどいわくがあるギターなんでしょうね…。」

 汀怜奈は自分の目的が見透かされたようで恥ずかしさのあまり、橋本ギターを奪い返したい衝動に駆られた。

「わかりました。セニョリータ・ムラセのお頼みということであれば、特別に修理して差し上げましょう。見たところ、ブリッジに多少浮きが出ているようですね。そのほか、粗を探せばたくさんありますが…。」

「ブリッジだけで結構です。」

「わかりました。このブリッジをはがして、接着する部分のトップ板の塗装をあらためて紙やすりできれいにし、うちのブリッジと交換して張り替えましょう。」

「すみません。よろしくお願いします。あの…修理代は。」

「この程度の修理でしたら代金はいいですよ。そのかわりお願いがあります…」

 マルティン氏がカメラを工房の奥から持ち出してきた。

「来ていただいた記念に、写真を撮らせていただいていいですか?」

 汀怜奈は、話しの流れ上、断るわけには行かなかった。ああ、また肖像権を管理するDECCAのマネージャーに怒られてしまう。

 マルティン氏がカメラに三脚を立てて、セルフシャッターをセット。で二人が笑顔でカメラに収まる間、汀怜奈は思い切って切り出してみた。

「修理は、マルティンさんご自身でやっていただけるのですか?」

「いや、私は今注文の本数を結構抱えていて…この程度の修理なら弟子にやらせようかと…」

「弟子?」

「ええ、セニョリータ・ムラセと同じ日本人で…でも、結構出来る奴なんです…だめですか?」

「いえ…そんなことはないです…そのお弟子さんは今どちらに?」

「ああ、今は木材の選定で山へ行ってます。明後日には帰ってくる予定ですが…。」

「そうですか、そうですか…。」

 佑樹はやっぱりここで頑張っているんだ。汀怜奈の顔に自然と笑が浮かんだ。

 汀怜奈は明日ホテルをチェックアウトして、帰国しなければならない。修理後のギターの送り先をマルティン氏と確認した後、工房を出た。

 どれほどの時間を工房で過ごしたのか、あたりはもうすっかり夕方になっていたので、バルで休みながら一杯やろうと考えた。夜も更けて満天の星空の下で、ライトアップされたアルハンブラ宮殿を眺める。脇でジプシーの二人組がフラメンコギターを、バルの客に披露している。軽快なギターの音色をBGMに聞きながら、まるで夢のような気持ちになった。

 佑樹がここで頑張っている。師匠にギター材の選定を任されているくらいだから、師匠にもだいぶ信頼されているに違いない。もともと、器用で耳のいい佑樹のことだ。それは、当たり前の事なのかもしれない。今日会うことはできなかったが、ここで佑樹が頑張っていることが知れただけで十分だ。会いたいという気持ちは収まらないけれども、今日はこれで満足しよう。またどうしても会いたい衝動が爆発したら、ここにギターを修理しに来れば良いのだから。

 バルをチェックすると、汀怜奈はさくらんぼほどの小さなの満足感を口に含みながら、アルバイシンの丘を下りて行った。坂の途中でアルハンブラ宮殿を眺めると、宮殿の方から吹いてくる風が夜になって少し肌に冷たく、とてもとても心地よかった。

 

 その時同時に、アルハンブラ宮殿から吹いてくる冷たい夜風にあたりながら、丘を上がっていく若者がいた。佑樹である。汀怜奈と佑樹は、韓国ドラマのようにお互い気づかずに、道をはさんですれ違っていた。

 木材の選定が順調に進んで、佑樹は予定より2日早く工房へ戻ってきた。現地で余った時間を観光に費やすなど、マルティン師匠が許すはずもない。そして、工房について驚いた。思いも知らぬ橋本ギターとの再会である。このギターは5年前、親父に先輩に送ってくれと託したギターだ。当初は自分の目を疑った。しかし、マルティン師匠から。村瀬汀怜奈が来たことを告げられると、自然と顔が上気する。

『先輩がここに?このギターの修理で?なぜ?』

 佑樹は、橋本ギターを見つめながら、答えが見つからぬ自問自答に無駄な時間を費やす。そして、しばらくすると抑え難い衝動が胸に飛来してきた。会いたい。会いたい。今すぐにでも先輩が泊まっているホテルを訪ね、先輩に会いたかった。

 しかし、佑樹の衝動とは裏腹に、足は動こうとしない。思えば、佑樹がここに来ようと思ったのは、汀怜奈が原因である。おじいちゃんの告別式の日。先輩が汀怜奈であることを知らされた日。驚きとともに、先輩を失ったことへの耐え難い喪失感に怒りで身を震わせた。それから、時間はかかったが徐々に先輩が汀怜奈であることを受け入れる気持ちになっていった。

 先輩を失ったとしても、汀怜奈が先輩なら、汀怜奈に少しでも近づくことによって、この耐え難い喪失感から逃れられるかもしれない。しかし、あの天才ギタリスタにどうしたら近づけることができるのか。今更ギタリスタとして汀怜奈の世界の一員になれるわけがない。自分にギタリスタとしての資質がないことは十分わかっていた。

 考えた末、彼が選んだのはギターを作ることであった。そして、無我夢中でこのグラナダにやってきて「ベルンド・マルティン」と書かれた陶板の下に座り込んだ。 

 当初拒否していたマルティン師匠が、スペイン語もわからぬ佑樹の入門を受け入れたのは、言うまでもなく、おじいちゃんが橋本師匠に見込まれた方法を真似て、自分の耳をアピールできたからだ。

 ここの工房でギター作りの修行をはじめることができたのだが、なにも、いつか自分が作ったギターを汀怜奈に贈ろうとは考えていない。汀怜奈にとって必要不可欠なギターを供給する名工となって、汀怜奈を見返そうという願いでもなかった。

 同じギターの世界に身を置くことだけが、あの天才ギタリスタと過ごした日々が、忘却の海に沈むのを防ぐ手段になるのだと感じていた。

 佑樹はギターを手にして、あらためてあの告別式を思った。そうだ、先輩はもう何処にも居ない。世界的な天才ギタリスタ村瀬汀怜奈の来訪の理由はわからないが、今日工房に訪れた彼女が、自分を必要としているとは思えなかった。

 佑樹は、足を動かさず、代わりに手を動かした。明日すればいい修理だったが、どうせ今夜は眠れそうにない。

説明
天才ギタリスト汀怜奈は、ロドリーゴ氏から与えられた命題『ヴォイス』を奏でるギターを求めて、その美しい髪を切った。昭和の時代を生きた人々、そして現在を生きる人々との様々な出会い。悠久に引き継がれる愛のシズルを弦としたギターで、汀怜奈は心の声を奏でることができたのだろうか。
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