Essentia Vol.2「その光があるかぎり」
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近年ではAEDを設置することが学校に義務づけられたこともあり、応急救護の体験講習を依頼されることが多くなった。そのおかげで、私は都立の様々な高校を渡り歩くという絶好の機会を得たのだ。

毎度のことながらこの学校こそ彼女が通っている高校なのではないのか、と期待をかけてしまっている自分がいるのだが、これまで費やしてきた時間を考えてみたら、自分が思うほど簡単に出会えるはずもないことはわかっていた。

諦めの気持ちが心の半分を占めた頃、私はもう挫けそうになっていた。

 

(あなたを捜すことがこんなに苦難を伴うものだとは思わなかった)

(私はいま、とても心細い気持ちがしています)

 

大切な人たちが遠ざかっていき、あるいは、自分から遠ざけておいて、いざ対面する死の番人との最終局面というのは、想像していたよりもずっと身にこたえ、心をも蝕んだ。人の姿をしていると思い込んでいた死の番人は、剣士であるこの私ですら尻込みするほどの恐ろしさなのだろうと思っていたけれど、実際は姿形のない、或るのだか無いのだか判らない空想上の生き物のように思えた。もしかしたら、そこには何もなく、ただ独り私というちっぽけな存在が放り出されただけなのかもしれない。だからだろうか、恐怖に怯え、数多の命を奪った罪を罰せられ、生きていた証を諸共剥ぎとられるのを待っていただけに、私はもう何を思ったらいいのかわからなかった。

 

(私という人間は、結局なんだったのだろう?)

(武士の本懐を遂げられず、愛する人をも幸せにできなかった)

 

死してなお、身勝手な悔恨に囚われ続けるとは思いもしなかった。これこそが私への罰なんだろうか。

 

(労咳じゃなかったら…)

 

そうやって何度恨み言を呟いたろう。考えたくもないのに、いつも頭の中心にそれはいた。どう考えたって、そいつだけが自分を破滅に追いやろうとする。元凶と言わずして、なんと言えばいい。

自分が労咳ではなかったら、叶えたい夢がいくつも合った。労咳になる前は、願望なんて数えるくらいしかなかったというのに、死病に冒されて死ぬんだとわかったら急に自分は強欲になった。そんな自分に嫌気が差したことは、言うまでもない。

せめて死ぬ前に一度、人として、男として、胸を張れることをしよう。彼女を郷里へ帰すことの決意は固かった。

心から彼女を愛している。欲しいという我欲よりも、これ以上彼女が傷つかないように、自分よりもふさわしい人と幸せになってもらいたいという願いが上回っていた。愛するとはそういうものなのだろう。たとえ自分が隣にいなくても、相手の幸せを切に願うこと。それこそが愛なのだろう。だから、私は死ぬ前に愛を知ったのだ。それだけでもう十分じゃないか。夢は叶えられたのだ。だったら、もういいじゃないか。

わずかな私の命など取るに足らないのかもしれないけれど、それでも残り少ないこの[[rb:灯火 > ともしび]]を使い、彼女を郷里へと無事に帰すことができるのなら――

 

(理不尽だと呪い続けた私の生涯を、慈しみの心で受け入れると誓います)

 

持てるものがなにもなかった私には、消えかかる命くらいしか差し出せるものがなかった。

後で考えてみたら高望みだったのかもしれないけれど、それでも願いは聞き届けられたはずだ。

 

(そして、いま??)

 

私はここにいる。なんでかは知らないけど、確かにここにいる。

何気なく窓を開ければ、あの頃とは少し違う風が通り抜けていく。相変わらず空の色は青いけれど、やっぱりどこかが違っていた。

 

(雲の形がまるで違うな)

 

最初は不思議でならなかった。もしかしたら、願い事がねじれてしまったのかとも思ったけど、道ばたの石ころほどの価値もない残りの命など神様が請け合ってくれるはずもない。利他のためだったら望みはあるかもしれないけど、神様が間違って自分を生かしてしまったなどということになれば、笑い事じゃ済まないし、それじゃあ単なるお間抜けだ。

そう考えると、もしかしたらこれには意味があるんじゃないかとも思うようになった。都合良く解釈しすぎだと自分を叱らなければならなくなったけど、あれだけ殺戮を繰り返したこの私が救われる理由が見つからない。

 

(私は、やり直しを迫られている…?)

 

またしても都合良く考えすぎていた。時間は止まらずに流れていく。私だけが待ちぼうけをくらう。

探しても探しても、答えなどどこにも見当たらなかった。

いつだってそうだ。答えは自分で決めなければならない。いや、決めるというよりは、自分で導き出さなければならない。

そう、最善の答えを――

 

(だったら、今度こそ諦めたくはない――!)

 

どんなことも諦めたらそこで終わりだということは、先の人生で嫌というほど味わったではないか。

信じることの気高さを教えてくれたのは、誠の隊旗であり新選組そのものでもある。

名を穢すことのないように、義を貫いた彼らの至誠に報いたい。

 

(今度こそ私は胸を張って生きるんだ!)

(そして――――)

 

彼女を取り戻す。

どんなに望みが薄くても常に前向きでいようというのが、ここ最近の私の信条だった。

ややもすると、焦りすぎて何かを見落としているかもしれないと、そんなふうにも考えられるようになったここ数日――

 

「失礼します。」

 

後ろ背でそんな声がした。

声の質に聞き覚えがあると思ったときには、体が勝手に振り返っていた。

 

(あ…)

 

開きかけた唇は固まったまま、驚きが声にはならずに口の形だけが作られている。

頭の後ろが痺れたようになり、呼吸の仕方すら忘れてその子を凝視した。

お座敷へ上がるときに見せる、非の打ちどころがない彼女の所作。それが、たった一度のお辞儀を通して私の脳裏に甦っていた。いま目の前にいる彼女が先か、あの頃の彼女が先かなんてどうだっていい。

 

(会えた…やっと会えた…)

 

出逢ったときに見た襟元の赤いスカーフが、歩くたびに彼女の胸元を踊っている。

何のためらいもなく私たちの方へ向かってくる彼女は、凝視する私の視線に居心地の悪い思いをしたのか、わずかに肩をすぼめながら視線を外し、職員室の中をきょろきょろと見回している。血色の良い顔をしていて、瞳は澄んで美しい。最後に見た時よりもずっと元気そうだ。いや、元気でいてくれなければ困る。何の心配事もなく、毎日を元気に楽しく過ごしてくれていればそれでいい。たとえ、私を恨んでいたとしても、今の彼女が幸せなら喜んで引き下がろう。

私は目頭が熱くなり、気取られないように思わず顔を背けた。

 

(なんで気づかなかったんだろう)

 

思えばこの学校のセーラー服こそ、あの頃の彼女が身につけていた制服ではなかったか。

学校を訪れてからそこかしこに女の子がいたのに、同じものだとは思えなかったのが不思議だ。

 

「((星|ひかり))さん…?」

 

つい半信半疑で名前を呼ぶと、彼女の瞳はキョトンと丸くなった。突然の呼びかけに、柔らかそうな唇が声を失っている。

 

「うちの生徒をご存知なのですか?」

 

彼女が何も言えないで立ち止まっていると、その雰囲気を感じとったのか、担任が不審がるような目をして私を見つめていた。

後ろめたいことを隠しているとでも思ったらしい。私たちはそういう間柄ではないのに、いやらしい目で見られるのは心外だ。だからといって、私が慎重に事を運んだかというとそうではない。明らかな軽挙であり、完全なる墓穴だ。

自分で火をつけたからには、自分で否定し、事を収めなければならなくなってしまった。

 

「…いいえ。たぶん勘違いです。」

 

自分よりも彼女の立場を考えると、否定せざるを得ない状況だった。

久しぶりに口にした彼女の名前。しかも、本人の目の前でだ。本当なら喜んでいいはずだった。だけど、彼女は私の名を呼ばない。それだけならまだ気の迷いで片付けられそうなものだけど、もっと残酷な現実が私を打ちのめすのだった。

ほっと安堵の息をついた彼女が、少し言いにくそうにして私に久方ぶりの言葉をかけくれたのだけど、すぐに私はその科白に耳を疑いつつやがて愕然とした。

 

「よかったぁ。私が忘れてしまっているのかと思いました。」

 

高校生らしい口調で、彼女は屈託なく笑う。その表情からするに、私のことなどまるで忘れてしまったかのようだ。

 

(忘れているというよりも 私のことなどまるで知らないかのように見える)

 

彼女が二度安堵したように胸を撫でおろすのを見たら、深い仕掛け穴に落ちたみたいに上も下も分からない心境になった。

どうして否定しないのだろう。どうして、名前を呼んでくれないのだろう。

 

(私です…覚えていませんか?)

 

いや、覚えていないはずないじゃないか。だって、私たちはあれほど恋し合ったのだから。

もしかしたら、久しぶりすぎて声を忘れてしまったのだろうか。だったら、もう一度名前を呼んでみたらいいんじゃないか。

そうは思ったけれど、ついさっき否定したばかりの自分には彼女の名前をもう一度口にするだけの勇気と口実がまるで持てなかった。

 

(考えもしなかった…)

 

再び会えば元の鞘に戻るかのように、お互いがぴったりとくっついて二度と離れないものだと思っていた。忘れるなんてことはありえない。顔を見れば、声を聞けば、彼女は間違いなく涙を流しながら私の名前を叫ぶはずだ。それなのに、彼女は目の前で私を拒絶する。それはやさしい拒絶だった。見知らぬ他人だからこそできるやさしい拒絶。それは、彼女が他人であることの証だった。

二人で育んだ思い出は、時を超えてもお互いを繋ぐものだと信じて疑わなかったというのに。

 

(私が分からないのですか?)

 

そう問いたくてたまらなかった。

彼女の目を覗き込み、共に過ごした時間を並べ立て、彼女の魂にしかと訴えたかった。

だけど、それをしてしまえば、一度否定して立て直したばかりの信用を、たちまち失ってしまうことだろう。

性急な振る舞いをすれば、念願叶って彼女を捕まえられたことが水泡に帰す可能性だってある。

はち切れそうになる感情をどうにか抑え込み、拳をぐっと握りしめることで私は忍び耐えた。

 

「そうは言っても、名前をご存知みたいですけど?」

 

ハッと我に返った私は、彼女との繋がりがまだ途切れていないのだとわかり、一縷の望みを繋いだ。名前が変わっていないのならば、彼女は紛れもなくあの頃の彼女のままだ。私の顔を覚えていなくても、彼女は他人なんかじゃない。きっと私と同じように、あの時代から身ひとつでこっちに連れてこられただけなんだろう。おそらくなんらかのきっかけで、少しの間忘れてしまっているだけなんだ。だから、悲観するにはまだ早すぎる。その点に関しては、ひとまず安心してもいいんじゃないだろうか。

問題なのは、むしろ自分の方だ。先生の指摘どおり、彼女の名前を言い当ててしまっている。人違いだと言い訳したからには、どう弁明すればいいのだろう。これは言い逃れが難しいなと思った。

 

「ええと…実は知り合いの妹に似ていたもので。」

 

苦し紛れに思いついた言い訳で、なんとかこの場を凌いでみせようとした。

すると、彼女も同調するように口を開く。

 

「((ヒカリ|、、、))なんてありふれた名前ですもん。偶然にしてはすごい一致ですけど…」

 

大人の洞察がもっともらしいので、思い直して不審に思ったに違いない。

彼女の探るような視線が痛いほど自分に注がれている。本来ならうれしがるところだけれど、さすがの私も居たたまれなくなってきた。適当に言い訳をして、一時避難させてもらおうか。そんなことを思いながら愛想笑いを浮かべていると、ポンポンと肩を叩かれてその場に押しとめれられてしまう。

 

「確かに偶然にしちゃ出来すぎてるが、面白いこともあったもんだなぁ。」

 

先生は呵呵と笑って済ませ、それ以上の追及はしないでくれた。

どうにも腑に落ちないという顔の彼女も、それ以上追求する意思はなさそうでつられたように笑っている。

 

(あぁ、笑ってる…)

 

久しぶりに見た彼女の笑い顔は、それがたとえ作り笑いだとしてもやっぱりかわいかった。このかわいらしい顔を曇らせてしまうのは、相も変わらず常に自分だ。輝かせることも曇らせることもどちらも知っているからこそ、曇らせてしまったときの失敗は心を摩耗する。あとどれくらい失敗すれば、彼女に近づけるのだろう。

彼女とのことで頭がいっぱいの私は、自分が何をしにこの学校へ来たのかという本来の目的を忘れ、うなだれかかっていた。

 

「それで、先生。私は何を手伝えばいいですか?」

「そうだったな。こちらは救命士の沖田さんだ。講習のセッティングを頼めるか? 体育館までご案内してくれ。」

 

(そうだった)

(何しにここへ来たと思ってるんだ)

 

それにしても、第三者を介して紹介されると、知り合い同士のお見合いみたいで妙な感じがする。しかし、そうはいっても彼女にとってみればこれが初めての対面なわけで、顔も見たことがなければ名前だって知らないのだろう。だったら、そのように振る舞うしかない。私は初対面らしく、渋々と頭を下げた。

 

「((青天目|なばため))はクラスの学級委員をしてましてね。何か手伝うことがあれば、彼女に言ってください。」

「青天目と言います。今日はよろしくお願いします。」

 

さっきまでとは打って変わって、白い歯を覗かせた彼女は年齢相応の笑顔を浮かべた。

私だけに見せてくれたあの頃の笑顔とは少し違ったけれど、それでも私に向けられた笑顔だとすればこれほどうれしいことはない。うれしいどころか、めまいに似た感覚が頭の中をぐるりと回転する。笑いかけてくれたというたったひとつの事実だけで、心の中はとろりと甘いときめきで満ちていく。きりりと締めた口もとが、何かの拍子にほころんでしまいそうだった。

 

「こちらこそよろしくお願いします。それでは、今から準備をしたいと思いますので、手伝っていただけますか?」

 

ゆるみきった自分を叱責するかのように、腹にいっそう力を込めて凛とした声を発する。もしかしたら、顔面もつられて力んでいたのかもしれない。

その違いにさっそく気づいたらしく、なぜかおかしそうに喉を震わせた彼女は笑い声を含ませながら歩き出した。

 

「はい。それじゃ体育館までご案内しますね。」

 

ようやく二人きりになれる。そう思うと、頭の血が一気に駆け巡るようで顔が熱くなった。

次にかけるべき言葉が整理しきれずに、慌てて後ろ姿を追う私はもう彼女しか見えない。二度と見失ったりしないと自分に言い聞かせながら、先生に会釈をするのも忘れて職員室を後にした。

 

興奮を抑えきれずに職員室を飛び出すと、彼女は観光地のガイドさながらに私を待っていた。

誠実そうなのは相も変わらず、それに加えてどことなく好奇を孕んだ瞳は、何かを尋ねたくて遠慮しているように見える。

彼女が気にしていることは、すべてを忘れていようがこの際はっきりさせておくべきだろう。

仮に一から関係を築かなければならなくなったとき、燻ったままでいると望むより先に進まないからだ。

 

「さっきはすみませんでした。急に名前を呼んだりして。」

 

まさしく尋ねたいことはそれであったのか、彼女は目をしばたたいた後で、恥ずかしさをまぎらわすみたいに左の肩のあたりを撫でていた。謝るつもりが、逆に緊張させてしまったらしい。

知らない男に名前を言い当てられたのだから、無理もない話だ。警戒されるのも致し方のないことだろう。

 

「名前を言い当てられて驚きましたけど、不快に思ったわけじゃないので大丈夫です。」

「よかった…嫌われたかと思いました。」

 

興奮を冷ます意味も込めて深い溜息をつくと、それを見た彼女が少し驚いたように目を丸くしていた。そうかと思いきや、今度はたまらずといったようにくすくすと笑っている。その声は鈴の音に似てかわいらしい。

 

「おおげさですよ。」

 

たったそれだけの短い言葉なのに、彼女が言うと少しだけ大人びて聞こえた。なんとなくお座敷の風景と重なってしまうのは、島原で過ごした時間が一番気楽で、私の青春の記憶としては特に色鮮やかだったからなのかもしれない。

以前の私だったら彼女に笑われるのは恥ずかしかっただろうけど、生まれ変わった私はちっとも恥ずかしくはなかった。まるで、膳の物を囲んで談笑しているかのような気分だ。

彼女の思いやりが空気を伝いこちらに流れてくるように、あたたかさに取り巻かれ、やさしい気持ちにさせられる。大らかさは昔のままだ。

 

「でも、不思議ですね。たまたま名前が同じだったなんて。知り合いの子とそんなに似てましたか?」

「ええ。人違いだとは思えませんでした。」

 

(だって、私が求めてたのは、他でもないあなたなんですから)

 

何気なく交わす言葉のひとつひとつが、宝物のようにいとおしい。どこにいるかもわからない彼女を捜し求めて年月が経ち、自分は一体何を捜しているのだろうと途方に暮れたこともあった。もう駄目かもしれない、無意味なことを願うのは虚しいと何度も諦めかけた。でも、私は存外諦めの悪い男だったから、結果的にはそれが良かったんだと思う。これほど満ち足りた思いは、本当に久しぶりだ。

彼女が私という人間を知らないことを除けば、今日という日に起こった奇蹟の巡り合わせは、まさしく好調なスタートのように感じられた。これを機に、少しずつ彼女との距離が縮まればいい。

 

「それにしても、この学校は気風がいいですね。快適そうだ。毎日通うのは楽しいでしょう?」

 

世間話のつもりで何気なく切り出しておいて、私は自分の選んだ言葉に違和感を感じハッとした。それは、既視感だった。

 

(これは憶えがあるな)

(その昔、似たような科白を言ったはずだ)

 

あれは、彼女が置屋に預けられたばかりの頃で、慣れない生活を慮って発した言葉だった。

あの頃と比べて明らかに違うのは、住み慣れた環境にいる彼女が、なんの不自由もなく日常を過ごしているということだ。

それだけで、心配の種はひとつ減る。

 

「はい。クラスのみんなはとても仲がいいんです。先生方も気さくで話しやすいし、授業では分からないことがあると、分かるまで熱心に教えてくれたりします。」

 

うれしそうに話す彼女を見ていると、郷里へ帰すという選択は間違いではなかったんだと思った。

かつての行いの中で唯一胸を張って正しいと主張できることを見つけた私は、自分の葛藤も無駄ではなかったんだなと思い、初めて自分を褒めたくなった。

 

(それにしても…)

 

洋装こそが本来の彼女の姿だというのに、見慣れているのが振り袖のせいか、星さんらしさにいまいち欠けるなと思った。だからといって、彼女に振袖を求めるのは無理な話だ。この時代の振袖といえば、成人式に一度見たきりというふうに頻度が下がっている。そもそも着物を装おう習慣がないのだから、あの頃のような振袖姿を拝むことはまずないだろう。

残念な気もするけど、ここは洋装の彼女に慣れるしかないのだ。

 

(平成に暮らす彼女は、何を好み、どんなことをして過ごしているのだろう?)

 

振袖は過去のものと決めたとたん、俄然私は興味を覚えた。

あの頃の彼女とは未来の話をしたことがなかったから、ここでどんなふうに生活しているのかまでは私にもまったく想像がつかない。たぶん他の女子高生と行動はさほど変わらないのだろうけど、彼女だけが得意なこと、好きなことはあるはずだ。それが知りたかった。きっとどれだけの年月をともに過ごしても、彼女への興味は尽きないんだろうなと思う。

 

「星さんはどんな授業が好きですか? 得意科目はあるのかな?」

「えっと、そうですね…現文かなぁ? 苦手なのは数学です。」

 

数学と口にした瞬間、彼女の眉が面白いほどに下がっていく。どうやら、相当に手こずっているらしいのが見てとれた。

久々に見る表情の豊かさが、微笑ましくもあり愛おしくもある。

 

「私も数学はあまり好きではないな。歴史は割と好きです。」

 

(とはいえ、現役の頃は情勢にめっぽう弱かったというのが本当のところだけど)

 

歴史を紐解いていく面白さや、舞台の裏側に仕掛けられた真の思惑に夢中になったのは、こっちの世界に移ってからだ。さかのぼっていろいろと調べていくうちに、触れる機会が多くなったことが原因とも言える。

ともあれ、現代人の筋書きの多くは夢やロマンを含むところが大きくて、多種多彩な解釈も楽しみのひとつだと思うし、当事者が想像もつかないような仮説を打ち立ててくれるから見ていて面白かった。

 

「実は、歴史も苦手なんです。年号や人名の暗記が得意ではなくて。特に江戸時代の徳川家は歴々と続いていて、もう何が何だか…」

 

(意外だな…なかなかに教養のある人だという憶えがあったのに)

 

自分から政局の話を振ったことは数えるくらいしかないけれど、彼女から自発的に難しい話を持ち出すことは稀にあったというのを記憶しているだけに、彼女が歴史を不得手としているのが不思議だった。今まさに京で起こっている事変のことも語り合ったりしたし、幕府の成り立ちや幕閣の要人の名前なんかもすんなり口にしていた星さんだ。

 

(そういうのも全部忘れてしまったんだろうか)

 

そうだとしたら…いや、それしか考えられないけれど、本当にもったいないことだと思った。いろいろと苦労して見聞きしたことを、彼女なりに一生懸命頭に叩き込んだはずだからだ。

 

(でも、そんなに丸ごと忘れてしまうものなんだろうか?)

 

少しくらいは名残があってもおかしくなさそうだ。現に自分と比べてみると、気持ちがいいほどきれいさっぱりなくなっている。

 

「日本人なのに、自分の国の歴史に疎いなんて恥ずかしいですよね。外国では、自分の国の歴史を自分の言葉で語るのは当然のことだって聞きました。本当にそうだと思います。もっとしっかり勉強しなくちゃ…」

「そんなに思いつめなくてもいいじゃないですか。それより、投扇興って知ってますか?」

 

つい勢いで聞いてしまったが、その反応は思っていたよりもすぐに返ってきた。

 

「えっ?」

 

彼女は何を言われたのかわからないというように、聞き返す口がぽかんと開いている。それでも私はめげずに問い続けた。

 

「投扇興という古典遊戯はご存知ですか?」

 

私が持てる最大の切り札。それは、もちろん投扇興しかない。

 

――あれは名勝負だった

 

そんなふうにのちの語り草になったほど、私と彼女の真剣勝負は座を大いに沸かせたものだ。

 

有り合わせで作った不恰好の蝶を、懐に忍ばせては宝物だと言ってくれた彼女を思い出す。

あの蝶は、今でも彼女が大切にしてくれているはずだ。

もしも、彼女が蝶のことだけは憶えていて、私が願う通り大切に保管してくれているのなら、すぐに思い当たるのではじゃないだろうか。

時間をも超えてもなお、私と彼女をつなぐ唯一無二の絆だからだ。

 

「いいえ。知りません。投扇興というのが徳川家に所縁のあるものなんですか?」

 

ところが、私の期待とは裏腹に、彼女はあっさりと否定の言葉を口にした。なんの引っ掛かりも感じられない、素朴な疑問が胸を抉る。無知な子どもが向ける、無垢な瞳で――

 

(そんな…冗談ですよね?)

 

頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 

血の気がすうっと引いていく感覚になり、全身のあたたかさが抜け、力が奪われていくようだった。

だんだんと視界の中央が暗転していき、目の前の光が徐々に失われていく。

 

「あの? 私、何か見当違いなことを言いましたか?」

 

彼女の気遣う声が、溺れかけている水面の外側から聞こえたような気がした。

もう駄目だ。このまま沈んでしまう。どうしても浮かび上がるための浮き輪が見当たらない。

溺れかけている自分に手を差し伸べてくれる彼女は、もうここにはいないのかもしれないと思った。

心が寒い。

 

「徳川家とはなんの関係もありません。江戸期に流行った遊びで…昔、私が好きだったので…」

 

溺れてしまいそうなほど息が苦しいのに、なんとか言葉をひねり出してそれだけを言うのに必死だった。

 

(宝物だと言ってくれたのに…!)

 

声にしたくてもできない責めの気持ちは、私の心をきつくきつく痛めつけた。

どんなに大切な思い出だったとしても、ここにいる彼女にはなんの関わりもないことだ。もしかすると、いま私の目の前に存在する彼女は、私の星さんであって、そうでないのかもしれない。記憶を忘れているだけなのかもしれないし、奪われてしまったのかもしれない。もしくは、私の愛した星さんは初めから存在していなかったとも考えられる。

 

(いやだ!)

(それだけはいやだ!)

(考えるな!)

 

頭の中に黒い声が拡がっていく。それをどうにか抑え込み、希望だけを手繰り寄せようと必死に思考を巡らせた。

 

(そうだ…あの蝶はどこにいるのだろう?)

 

この際、蝶だけが手がかりだと思った。

彼女が持ってさえすれば、私の愛した星さんだという証明にもなる。

だけど、事情も知らない彼女にどうやって探りを入れたらいいのだろう。

 

「あの…震えてるみたいですけど、大丈夫ですか? もしかして気分が悪いんじゃ…」

 

彼女に指摘されなければ、自分が震えていることにも危うく気づかないままだっただろう。どうにか正気を保ってはいるものの、気を抜けば胴が震えて収拾がつかなくなりそうな状態だった。それくらい一種異様な震えを私は起こしていた。

 

「すみません。ちょっと寝不足かもしれない。」

 

心配をかけないように薄く笑うと、廊下の突き当たりからワイワイと楽しそうな声が聴こえてきた。もうすぐ午後の授業が始める時間なのかもしれない。そうだとしたら、こんな場所でおちおち座り込んではいられないだろう。だいたい、何しに来たと思っているのか。

理性をフルに働かせ、体の芯に気力を注ぎ込もうとすると、隣にいたはずの彼女は一目散に駆けていった。その姿を唖然とした目で追う。

 

「翔太くん!」

 

その呼び名に、私は意識を吸い込まれそうになった。

だんだんと近寄ってくる男子を見れば、確かに見覚えのある人物だ。

 

「どうしたんだよ、こんなところで。」

 

二人の同級生に囲まれながら軽快に歩み寄る男子は、私を一瞥した後で親しみのこもった微笑を浮かべたのだった。

説明
原型はあまりないですが、元ネタは艶が〜るです。
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タグ
艶が〜る,沖田総司,現代,長編

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