橘葵の恋愛事情 第ニ話 |
第二話 憧れの彼女は殺人鬼でした
一瞬の走馬灯――
よりにもよって何故そんな場面を思い出したのだろう。
理由は分からない。
でも最期に親友との温かいやり取りを思い出せたなら悔いはない。
欲を言うなら、せめて一回だけでも素敵な恋をしてみたかったけれど、今更そんなことを言ってもどうしようもない。
……だけど、そのときはいつまでたっても訪れない。
一体どうしたんだろう?
不審に思いながらも、結衣はおそるおそる目を開けてみる。
それもそのはず。
目と鼻の先で、白刃はぴったりと停止していた。
ひっ、と悲鳴を上げそうになる。
少しでも動こうものならその切っ先で怪我していただろう。だけど、そんなモノは些細なことだ。
目の前にいる相手――刃物を持った、少女の正体に比べれば。
「葵……ちゃん、なの?」
吐息を漏らすかのように、クラスメイトの名前をそっと呼んでいた。
壊れ物に触れるかのように、こわごわとか細い声で。
「おはよう。結衣」
葵はにこりともせずに言った。
知り合いに挨拶でもするかのような気軽さで。
前髪に飾り付けられたカサブランカの造花が、頭の上で不気味に光っている。
学校で一番の美人と名高い彼女の美貌には、一縷の感情の揺らぎすらなかった。
犯行現場を見られたにも関わらず。ただ、心ない機械のように冷たい瞳が結衣を見下ろしているだけ。
(本当に、本当に……葵ちゃんだ)
今になってそんなことに気づくだなんて。
いや、そんなことよりも呑気に話している場合ではない。
今すぐここから逃げ出さなくては。
だけど、身体が動かない。
恐怖で足がすくんでいるせいか身動き一つとれやしない。
(どっ、どどどど……どうしようっ!)
逃げ出すことが叶わないなら、今は少しでも時間を稼がねば。
運が良ければ誰かが通りすがってくれるかもしれない。
ここで葵との会話を弾ませることが出来れば、生き残れる確率は格段に上がる。
何でもいい。
とにかく葵の気を逸らさねば。少しでも会話を長引かせなければ。
「きっ、奇遇だね。まさか、こんなところで葵ちゃんと出会うなんて、思いもよらなかったよ。これも何かの縁かもしれないね」
「……縁?」
葵は小首をかしげた。
結衣のとんちんかんな言葉を、しっかりと吟味するような間を置いてから、
「たしかに……一理あるかも」
うんうん、と頷いている。
何が一理あるのかまったく分からなかったが、葵の声は嬉しそうに弾んでいた。
でも無表情。
何を考えているのか、てんで分からない。
それもそのはず。クラスメイトとはいえ、葵と言葉を交わすのはおろか、まともに顔を突き合わせたのもこれが初めて。
葵は、どちらかといえば、いつも教室の端っこで静かに本を読んでいるような、おとなしい子だ。
その静かな佇まいはまるで深窓の令嬢。その光景は一枚の絵画として切り取られたかのよう。
いわゆる高嶺の花。
そんな振る舞いを自然とやってのける葵だったからこそ、結衣たちとは違う世界を生きているような存在に思えた。
そのせいかどことなく近寄りがたい雰囲気があって、そもそも接点すら無かったのだが。
まさかこんな形で、彼女と関わることになろうとは、誰が想像出来ただろうか。
「あっ、葵ちゃんはさ……こ、こんなところで何をしていたの?」
声に出してから、結衣は己の愚かさに嫌気がさした。
全く愚かな質問だと思う。
そんなことは分かりきっているではないか。
だが結衣は、目の前に突き立てられたナイフから、意識を逸らすのに精一杯で、他のことに気が回らない。
生きるか死ぬか。
その瀬戸際に立たされている。だとしても、もっと他にいい言葉がなかったものか。
しかし、そんな愚かな問いかけにも、
「人殺し」
葵は律儀にそう答えた。
しん、と静寂が立ち込める。
結衣の頭の中で、今朝のニュースがよみがえる。
それは最近、巷を騒がせている連続通り魔殺人事件。
いずれも残虐な手口が用いられており、犠牲者はみな陰惨な姿で発見されていた。
耳を塞ぎたくなるような事件の数々。
およそ人間の所業からかけ離れた行い。
しかも結衣の通っている高校のクラスメイトが何人か犠牲になっている。そのせいか、とても他人事のようには思えなかった。
いつか私の番が来るのではないか。
危機感はあった。だけどまさか自分に限ってそれは有り得ない。
そんな甘えた考えもあったことも事実。
現に、さっきから身体の震えが止まらない。
そして今、死が身近なものとして結衣の目の前にある。
今度は私の番だ。
私が殺される番だ。
嫌。
そんなの嫌。
重たい沈黙に耐えかねて、結衣は口を開いた。
「じゃ、じゃあ……この前、佐藤くんがバラバラになって死んでいるのを発見されたのも」
「それあたし」
「斎藤くんがサイコロステーキみたいに細かく刻まれているのも」
「それもあたし」
「一郎くんや二郎くんや三郎くんがミンチみたいにすり潰されていたのも」
「全部あたし」
葵の口調は淀みなく、淡々としたものだった。
自分のしでかしたことを恥じていなければ、悪びれた様子もない。自らの犯罪歴を武勇伝のように誇らしげに語るというのも違う。
聞かれたから答えたとでもいうふうな、事務的な口調だった。
結衣はごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃ、じゃあ……望美を殺したのも?」
二週間ほど前。
望美の死体が発見された。
恨めしそうに虚空を睨みつけながら、冷たくなった身体が路上に打ち捨てられていたという。
「望美?」
葵は、しばし考え込むように顎に手を当てる。
「それ誰」
「だ、誰って――」
結衣は言葉を失った。
だって望美はクラスメイトではないか。
互いに直接的な関わりがなかったとはいえ、数ヶ月の間、同じ教室で過ごしていたはず。
いくら死んでしまったとは言え、それを忘れただなんて言葉で片付けようとは。
「あたし、興味のないことは覚えられないの」
葵はそっぽを向いた。本当につまらなそうな調子で。
「なによそれ……」
結衣は怒りのあまり頭が真っ白になった。
興味がないとはどういう意味か。
親友の死を、ここまで無下にされて腹が立たない方がおかしい。
「ねえ、結衣」
いつのまにか葵に呼び捨てにされている。
そんなどうでもいいことに気づいたとき、ふぅっと耳に息を吹きかけられた。
見知らぬ奮えが電流のように身体中を駆け巡る。
気づいたときには、お互い、吐息が吹きかかる距離にまで密着していた。
「そんな知らない子のことは置いといて、あたしの話を聞いてほしいの」
いつの間にここまで近寄られていたのだろう。
全く気配を感じなかった。
葵の唇から漏れ出る生温かい空気に、ぞわりと青ざめた。
結衣は瞬時に確信する。
今度こそ、殺される――
犯人にとって、殺しの現場を見られて目撃者を生かしておく必要性はないのだ。
真実を知っているのは結衣ただ一人。
その一人を殺してしまえば証拠は隠滅出来てしまう。
人の口に戸は立てられないというが、死人にそんなものは関係ない。
そう。
自分は逃げ損なった、愚かな獲物に過ぎない。
葵が、結衣の手を取った。
その冷たい感触に鳥肌が立った。
思いの他がっちりと握られていて、ちょっとやそっとでは振りほどけそうにない。
完全に結衣を逃がさない腹づもりなのであろう。
もとより結衣は、足腰が震えて身体に力が入らない。
そもそも逃げようにも逃げられないのだ。
今度こそ自分の終わりを確信したそのとき、おもむろに葵が口を開いた。
「――あたしのモノになって頂戴」
ぽかんとなった。
実際の時間にしてわずか数秒。
だけど、永遠にも等しい停滞が訪れたように思える。
「えっ……えええぇぇぇぇぇぇぇ――――っ!?」
絶叫した。
路地裏に、結衣の叫び声が響き渡る。
「しーっ、誰か来ちゃう」
当の葵はというと、唇の前で可愛らしく人差し指を立ててなんかいる。
そこに殺人現場を見られたという危機感はない。
例えるなら、そう。
恋人のイタズラを咎めるような、そんなお茶目な仕草であった。
そこではたと気づく。
そういえば、いつから葵は自分のことを下の名前で呼び捨てにしていたのか。
戸惑う結衣の前で、葵は微笑んでいた。
思わずぞっとなる。
死体を背にして浮かび上がるその笑みは、なんだか背徳的で、うすら寒かった。
分かんない。
さっぱり分かんないよ。
葵さんは、なんでこんな状況で笑っていられるの?
私、もうどうしたらいいんだろう。
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