Essentia Vol.12「偽者」 |
走り出した瞬間に、体の違和感に気づいた。
全身が火照っている。
火の中に飛び込んでいるからではない。
胸に棲みついた病魔が、四方八方へと手を広げているのがわかる。
(労咳なんか、二度とごめんだと思ってたのに)
皮膚の内側にこもる熱の割に、背中を伝う汗は冷たかった。
身体がだるく、手足が重い。
鴨川に浸った水分が、羽織や袴に重量をかけているのもある。
道の両側に火の蛇が絡みつき、蜷局を巻いて火焔を噴く。
運び出す足がだんだんと重くなっていき、目の前を流れる景色もゆるやかになっていた。
足がもつれそうだ。
肺が苦しい。
ギシギシと胸が痛む。
「あともう少し…しっかりしろ!」
胸倉を掴んで檄を飛ばす。
四条の辻を右に折れ、堀川通に出た。
菊矢ちゃんを庇いながら星さんがうずくまっていた場所を探すと、そこには黒焦げになった支柱が倒れているだけで、周辺は無人のまま火の勢いに呑み込まれていた。
パチパチと木を炙りつくす音がして、うねり狂う緋色の大蛇が屋根から屋根へと這い伝っていく。
(誰もいないじゃないか)
火の粉が降りしきる道の先は、火焔に巻き上げられた灰と煙に遮られ、怒涛の勢いで迫りくる熱波だけを伝えていた。
(来るのが遅かったのかな?)
(…いや、そんなはずはない)
目線を走らせながら周囲を窺っていると、熱風が作り出す蜃気楼の先に、ぽつねんと佇む人影があった。
(どうしたんだろう? 様子が変だ)
京者は、火事をことさら怖れていると聞く。
天明の大火による爪痕が、時代を経てもなお、町民の心に恐怖を根づかせているからだ。
そういった風潮があるだけに、逃げ遅れた人がいるというのは、いかにも不自然だった。
(もしかしたら、長州の残党かもしれない)
北から流れてくる風が煙ともども蜃気楼をさらい、通りのちょうど真ん中を通り抜けていった。
佇む人間の容貌があらわになる。
「…っ」
先の予見どおり、市中を彷徨う敗者の姿があった。
目と目が合った途端、男の眼球が地の底から睨み上げるような動きをし、その迫力に圧倒された私は後退をせまられた。
まさしく般若のごとき様相だ。
顔の左半分は血と汗と煤にまみれ、元結いが切れたのか髪がだらしなく垂れ下がっている。
埃に洗われ白茶けた皮胴は、ざっくり割れるほど生々しい余韻を残し、凄まじい戦闘であったことが明白に窺えた。
極限まで粘ったに違いないが、圧倒的な軍備の差によって、泣く泣く撤退を受け入れたのだろう。
なにしろ、長州は事を起こすのに性急すぎたと思うし、諸藩への懐柔もままならぬまま挙兵を果たしたことで自らを破滅に追い込んだのだ。
端から勝てる見込みのない戦ということになる。
この時期の新選組には知る由もないが、私は身につまされる思いがした。
勝てないとわかっていても、義のために戦うのがこの時代の武士道だ。
もっとも、長州の場合は「勝てない」のではなく、「勝ちを奪いに行く」という気概で臨んでいた。
よもや、勝ち負けなど初めから度外視していたのかもしれない。
台風の目となること――それこそが目的であり、そのためには名高い藩士の犠牲すら厭わなかったのだから――
自らの死にふさわしい場所を求め、男は徘徊を続けるうちに、またとない好機に巡り合えたということか。
雪辱を晴らすべき相手、新選組と。
仄暗く湿り気を帯びた双眼に、怨嗟の焔が宿っている。
「来るな!」
反射的にそう叫んでいた。
右足を踏ん張って牽制を加えながら、男が妙な気を起こさないようにと祈った。
しかし、男の目は一点だけをとらえたまま離さない。
じっとりとした陰鬱な視線が、私の視界に絡みつく。
(抜かせるつもりか!)
狂気を彷彿とさせる陰湿な嗤いを浮かべ、男の足は一歩、また一歩と加速していく。
「私は手負いの者を殺めたりはしない。今すぐここを立ち去りなさい。」
忠告は無視された。
地を噛む草鞋の裏でザリッという音が鳴り、男は間合いに飛び込んでくる。
刹那、天に白刃が燦めいた。
ガッ…
下緒が宙を舞い、鞘に食い込んだ傷が斜めに光った。
水平に受けた太刀を弾き返すと、すぐさま二の太刀が襲いかかる。
(抜かずにどこまで躱せるか…)
追撃は隙間なく襲いかかり、防御に徹するだけではやがて体力も底を尽きてしまうだろう。
単に興奮して冷静さを欠いているのか、剣の腕が乏しいせいなのかはわからないが、がら空きの胴を突いてこないのが不思議なくらいだった。
(ここで抜刀したら、元の木網になってしまう)
私は長人を懲らしめるために戻ったのではない。
星さんを迎えにきただけなのだ。
たったそれだけの単純なことなのに、どうして上手くいかないのだろう。
なぜ、こうも障壁ばかりが立ちはだかるのだろうか。
(活路を見出さねば)
いつまでも激しい撃ち込みが続くわけがない。そのうち相手も気づくだろう。
仕掛けられたとき、私はどうすればいいのか。
(答えはわかりきっている)
身を守るために、抜刀しなければならないだろう。
死にたくないのなら、そうするより道はない。
(彼女を迎えに行くためには、ここで死ぬわけにはいかないんだ)
わかりきった理由があるのに、どうしても戦う決心がつかなかった。
自分はどうあるべきか。
ためらいもなく剣をとり、血煙を浴びる自分に戻ってしまったら――
(同じ過ちは繰り返したくはない)
新選組の沖田総司として、もう一度やり直してみる価値はあるだろう。
でも、労咳に待ったはかけられない。
睨み据えた運命に足掻いて見せても、死力のかぎりを尽くしても、私の行き着く先は「病死」である。
轍を踏むことになるのは、避けられない。
(今度こそ彼女をつれて未来へ帰るんだ)
剣士として死ぬよりも、彼女とともに生きる道を選択したい――その希望を今ここで潰してしまえば、何のために時間を繰り返すのかということに意味を問えなくなる。
(何がなんでも説得しなければ)
喧嘩の仲裁ならともかく、敵を丸め込むだけの弁を私が持っているのだろうか。
停戦へと導くためには、それこそ巧みな話術が必要なんじゃないだろうか。
(思い返してみると、口喧嘩にも勝ったことがない)
(いつも土方さんにやり込められてきたんだもの)
自信を喪失するようなことばかりを思い出し、少々気が滅入っていた。
弁が立たないことを取り上げられ、永倉さんからもこんなことを言われたものだ。
「総司は黙って立ってるだけで、相手に早速抜かせちまうのさ。柄頭に手もかけねえで、だぜ? おそろしい奴だよ。」
どうやら私は、そっちの才能にだけは恵まれているらしい。
才能と言われれば喜ばしいものであるのが普通だが、その才を開花させることができたのも新選組あってこそなのだ。
つまり、それ以外には使い道のない人間ということになる。
(相手の殺気に煽られてはいけない)
(なにより、本性を気取られてはいけない)
殺気と聞けば自発的なものだと思うかもしれないけれど、私の場合は抜かずとも「殺人剣」のにおいがすると揶揄されたものだ。
文字通り内側から漂うそれは、多くの不逞者を引きつけてきた。
認めるのは癪だけど、剣の道においてはそっちの部類に入る私だ。
(ああ、もう考えるのはやめだ)
敵と対峙しながら慣れないことをするのは、どうにも調子が狂うだけだった。
穴だらけの知恵を振り絞ろうにも、これだという一閃が見つからない。
体は自然に動いてくれるのに、どうも口のこととなるとぎこちなかった。
「国許に待ってる人がいるでしょう?」
情に訴えるありきたりな科白で、相手がうろたえやしないかと期待してみたのだけど、火に油を注ぐだけに留まり、むしろ男の感情を逆なでる結果となってしまった。
「だから何じゃ! 抜け! 抜かんか!」
戦う意欲すら見せない私に、かえって男は動転したらしい。
「腰のものは飾りか!」とか「臆したか!」などと、思いつく言葉を立て続けに発し、あの手この手で挑発してくる。
「その人を悲しませても、あなたは平気なのか?」
怯まずに私は続けた。
剣以外に能がなく、他人が呆れ返るほど世間に疎い私であっても、無事を願い帰りを待ってくれる人はたくさんいた。無条件に愛情を注いでくれる人もいる。
ならば、この人だって同じはずだ。
彼の死を嘆き悲しむ人々は、本人が思っている以上に一生分の思いを引きずっていかなければならない。
「おぬしそれでも武士か! なんのための二本差しじゃ!」
心の隙間に分け入るほどのしなやかさが、私の言葉には不足している。
私の思いは男に届かなかった。
届かないというよりも、あえて聞かないふりをして撥ねつけられたのだと思う。
武士としてのプライドが、這ってでも生きることを見苦しいと感じさせるのだろう。
かつて私もそうだったから、気持ちはわかるつもりだ。
しかし、伝統に則り死ぬことを誉とするのに、武士という言葉は都合よく使われすぎる傾向があった。
君主への絶対忠誠とか、己の矜持だとか、そんなものは後づけにすぎない。
つまり、諦めが先に立っているのだ。
どんなに生き恥をさらそうが、どれだけ罵倒されようが、己が志を果たすために生を選ぶ者の方がよっぽど国のためになるというものを。
「馬鹿にしよるんか!」
「それは、あなたの被害妄想だ。私は初めから抜くつもりなどない。」
「それが馬鹿にしとる言うんじゃ! こげなもんに仲間を殺られ、国を潰されるとはのう! 情けのうなってくるわ!」
朝敵と定められているにもかかわらず、男はにべもなく口にし、反省の色も見られない。
破壊工作をしたのは、彼らの方であるのに、だ。
「武力で御所に押し入り、あわよくば天子様を連れ去ろうとしたあなたたちに言われたくない。」
「負け惜しみか? 新選組言うんは、幕府の狗じゃけにの。」
男は侮蔑をあらわにして、このときとばかりに尊大な嗤いを返す。テラテラとした顔の脂が、熱気に融かされて不気味な色を放った。
(すぐにこれだ。幕府の((山犬|きょうけん))だとかなんとか)
「なんとでも好きなように貶したらいい。抜かないと決めたからには、抜かない。それが、私の信念だ。」
「ふざけるな! ぬしには抜かねばならぬ道理というもんがあるじゃろう!」
「道理」という言葉が、楔を打つように胸の中心を貫く。
逃げ場をふさぐように囲いを敷かれ、ついぞ考えもしなかった対外的立場というものを突きつけられた瞬間だった。
「新選組ならば、迷わず刀身をさらすべきだと? 意思がなくともそうするのが道理だと? あなたはそうおっしゃりたいのですか?」
剣によって己の道を説いてきたのが新選組だ。
当事者ばかりではなく、雇主である会津も敵である長州も、私たちをそんなふうに一括りにして見ていた。
命を奪り合う場面に必ず現れるのは、決まって私たちなのだ。
それが「殺人集団」という蔑称へと発展していったのも、もはや避けられぬ運命だったのかもしれない。
とりわけ私は「新選組でもっとも屍の山を築いた男」として恐れられ、根拠なき悪評をもってその名が一人歩きしていたのだから。
「ぬかせ! 貴様らは思想すら持たぬ傀儡ではないんか! 国事を論じようともせず、徳川に意見するもんを片っ端から殺しよって…それを大義じゃと勘違いしよる。血に飢えた腐れ下郎どもが!」
剣で我が道を切り拓くことを切望していたのは、自分ではなかったか。
それなのに、結果として無駄に血を流し、つくらなくてもいい敵をわんさか呼び寄せてしまった。
(この時代のすべてが血に濡れている)
血が血を呼ぶのだ。終わりなき連鎖で。
そのただ中に、新選組がいる。
これも、因果なのだろうか。
私たちは、立ち止まって振り返ることがない。
もし、立ち止まる場面まで辿り着いたのなら、後戻りできないほど遠いところまで来てしまったと悔やむのだろうか。
「百姓風情が肩を聳やかして笑わすな! ぬしらは偽者じゃ! 武士を騙るな!」
声が割れるような叫びだった。
耳をつんざくような罵声に、私のこめかみがピクンと弾け飛ぶ。
「私だけならまだいい。仲間を侮辱するのは許せません! 我々は武士だ。出自こそいろいろだけど、新選組は立派な武士の集まりだ。」
「ほう? なら、殺ったらええ。ぬしらの卑怯なやり方で、わしらの口を封じたらええんじゃ。」
「それとこれとは話が別だ!」
どうしてこうも死に急ぐのだろう。
先に死んでいった仲間たちは、果たしてそれを喜ぶのだろうか。
死ねば何かが変わるのだろうか。国が良くなるのだろうか。
死んで喜ぶのは敵ぐらいのものだ。
それなのに、みすみす命をくれてやるなど、どう考えても無駄死にだ。
「生きていれば、いつか必ず志を遂げる日がやってくる。死ぬことでそれを果たしたと思うのは、大間違いだ! 臆病者のすることだ!」
相手の逆鱗に触れるとわかっていても、激しく非難するのを止められなかった。
仲間が死に、国が倒れ、逆賊と呼ばれる長州の心情など、私には推し量る術もない。
しかし、私には少なくとも伝えたい思いがあった。たったひとつの誤ちが生んだ、後悔という一文字を。
命を潰してしまえば、人生の終わりは後悔でしか埋まらなくなる。
だから、諦めてほしくはないのだ。
それが、たとえ敵として相見えた男であっても――
「ぬしに何がわかるっちゅうんじゃ!」
男の太刀筋に乱れが生じてきた。
声に悲痛さが滲んでいる。
「間違っちょらん! わしらは間違っちょらん! なぜわからん!」
信念の裏側に潜む矛盾に気づいたとき、人はそれを許容できずに自分を否定することで回避する。
だけど、それは堂々めぐりをしているのにすぎない。
「ここは一旦退いてください。命があるのだから…」
我儘を押し通すように喚き出した男は、やたらめったら手首を振り回し、でたらめな線を描いて宙を切り裂いた。
立て続けに号く虚しい空音とともに、男の絶叫は周囲の轟音に押し負けられていった。
しばらくそうして力尽きたのか、萎えた腕がだらりと垂れ下がり、滑り落ちそうな指の隙間から柄が斜めに傾いていった。
止むことを覚えたふくらの丸みは、土の表面を細く長くえぐっていく。
ギリギリと音が聞こえそうな歯間からは、くぐもった呻きが洩れ聞こえ、憤怒の振動とともにこちらへ伝わってくる。
「もう終いじゃ! せめて…せめて腹を斬って大殿様にお詫びを…」
男は手放しかけた大刀を握り直し、頸動脈に当てたかと思うと、寸劇でも演じるように泰然とした面持ちで鋼を走らせた。
物打ちと皮膚の境目から、血潮が宙を目がけて飛んでいく。
止める暇がなかった。
足が縫いとめられたように動けなくなり、燃え狂う緋雨の中、それはひとときの眩惑のように過ぎ去っていった。
ばくばくと心音が駆け回っている。
「どうして…どうして死ぬことがあるんです?」
火の海に沈んだその体躯は、武士と呼ぶにはあまりにも繊細で、邯鄲の夢に身を窶したかのごとく薄弱な姿となっていた。
「武士…じゃ…け…に…」
お前は武士ではない。
武士のふりをした偽善者だ。
そうなふうに嘲る目が私を射すくめた。
「私は…」
とうとう抜けなかった刀を腰に収め、胸の内でざわめく感情が何なのかわからなくなっていた。
――武士ではない
偽善者だ――
呪詛のようにこだまする科白が、心に大きな波紋を打つ。
(不殺を誓ったのに)
抜かなければ、相手は傷つかずに済むとばかり思っていた。
しかし、「討死」か「自害」かという二択を迫るくらい、新選組の存在は敵を死地へと追い込んでいるのだ。
男の死が、何よりも明らかな事実として、私の面前に横たわっていた。
(私が殺したようなものだ)
思い上がりだったのだろうか。
人の尊厳や志など、ただの綺麗事なんだろうか。
(戦い続けるしかないのだろうか?)
血を流すたびに、彼女との距離が遠くなっていくような気がする。
繋ぎとめた指先が、血で滑りほどけていく白昼夢を見た。
全身が粟立つ中、背中の窪みに汗が伝う。
(嫌だ! 離したくない!)
矛盾と葛藤に苛まれ、歪んでいく道筋を必死に正そうとしている自分がいる。
(新選組であるという事実を、いまさら白紙には戻せない)
それならば、自分は一体どうすればいいのだろう。
混ざり合う思いに、答えは見つからなかった。
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元ネタ艶が〜る。展開は違いますが、どんどん焼け参照です。 | ||
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