Aufrecht Vol.1 「真夏の残照」 |
慶応四年の夏。
死の淵をさまよっているという感覚を強烈に受けながらも、どこかでまだ抵抗のようなものを続けていた。
私という人間はどこまでいっても諦めの悪い男であり、最期まで薄みっともない執念を保ち続け、あらゆる後悔と対峙しては否定するという不毛なことを繰り返していた。
(もしも、やり直せるのなら…)
――自分の心に、忠実に生きてみたい
新選組の沖田総司であり続けるために、何もほしがらない――そう決めていたのに、あらゆる後悔とともに滅んでいく自分が、惨めでみっともなくて疎ましかった。
(星さんが好きだ)
(もう一度星さんに会いたい)
(星さんを抱きしめて眠りたい)
(手を…)
目尻からこめかみを伝い、ぽたりと落ちた雫で枕が濡れる。
いつもなら庭先で雀とじゃれついているはずの猫も、なぜかこの日にかぎって座敷へ上がり込み、私を監視するみたいに堂々と居座っていた。
ニャー
甘ったるく撫でつける声が、鼓膜を介さずに脳へ直接語りかけてくるようだった。
何かの合図を送るように、猫は飽くことなく鳴き続ける。
ああ、終わりなのか、と思った。
「そろそろ行かなければならないみたいです。」
声にならない別れの言葉は、わずかに動いた唇の間で儚い吐息となり散っていった。
体の中心から、あたたかい何かが衣を脱ぎ捨てるように、するすると解き放たれていく。
(いよいよ死ぬんだな…)
心は決まっていた。恐怖はない。
胸の苦しみも、重い手足も、心に絡みつく悲しみの棘も消え、まっさらになっていく自分がいた。
消えゆく世界の中で願ったことは、たったひとつ。
(星さんが無事に郷里へと帰れますように)
願いはまばゆい光芒となって、私の体と統合を果たし、魂を統べる光の海へと還っていった。
未来への扉は、この瞬間に開かれたのだ。
「実は私、未来からきたんです。」
告げた先から、彼女の目が驚きで見開かれていく。
こんな突拍子もないことを告げられて、果たして彼女はどんな言葉を返すのだろうか。わずかに不安がよぎる。
返答を促すように瞳を覗き込むと、絡めていた両方の五指がぴくりと動揺を示すのがわかった。
「えっと…すみません…沖田さんのおっしゃっていることがイマイチ呑み込めないんですけど…念のため、冗談とかじゃないんですよね?」
「冗談なんかじゃありませんよ。真実です。私は未来から戻ってきたんです。星さんが暮らしてた平成から。」
「平成…」
彼女が世に生を受けてから幾年もの育みをかけ、愛着を持って慣れ親しんできた年号。
それを改めて声に出すことで、そこに内包する意味を彼女は咀嚼しているようだった。
「かつて私も同じ立場でしたから分かりますよ。荒唐無稽に聞こえますよね。」
ともに過ごしたあの夕空の下、まるで世間話の延長みたいに聞かされた「未来」という語感がふとよみがえる。
思いつめた様子もなく、真実を伝えようとする無垢な彼女の瞳は、直前の衝撃を徐々にやわらげていった。
純真な瞳に込められた一途な想いに、言うまでもなく私は心打たれたのだ。
「…じゃあ、沖田さんは私たちと同じように、最初から平成の人だったんですか?」
あの頃とは完全に立場が逆転している。
しかも、私と彼女とでは干渉の仕組みも異なるし、絡繰が複雑になっている分だけ説明も難しいと思った。
理解してもらうには相応の時間が必要だろう。言葉を尽くして丁寧に描写をしていかなければ、多次元的に捉えることを知らない彼女には難解であるのかもしれない。
その証拠に、騙していたのか、と問うような暗い響きがあった。
これには、私も心が弱った。
「いいえ。確かに私は天保生まれですよ。」
「それなら、どうして未来から来たなんて…」
「説明がややこしいのですが…」
そう前置きをして、取り急ぎかい摘んで説明をすることにした。
場所を設け、時間的な余裕を得たうえで、改めて子細を話すつもりだ。
「白い光が、私を別の時間へと攫うんです。」
時間を飛び越えたのは、まだ二回きりだ。
その数少ない経験から割り出してみても、やっぱり白い光が直接的要因のような気がする。
ただ、発生件数が極端に少ないため、検分や精査のしようがないという話でもあるが。
「その白い光に包まれて意識を失ったと思ったら、次に目覚めたときには見知らぬ時代に飛んでいたんです。つまり、星さんの暮らしていた平成です。」
彼女がこちらに飛ばされることになったカメラのフラッシュに似て非なるものだが、それでもなんとなく接点がありそうだと言って星さんはひとまず納得したようだった。
「でも、沖田さんが未来から来たというのを現実として受け止めるには、今までの沖田さんはなんだったのかっていう問題に突き当たりませんか? 前後の理屈が通ってないというか…そもそも何のために未来へ行って、また戻ってきたのか…??」
彼女がそう指摘するのも無理はなかった。
死の場面を省いて説明したからだ。
私の時間移動を語る際に、死の場面というのは欠くことのできない分岐点のひとつになっている。
その要点を外してしまえば、私の説明は意味が通らないわけだ。
「実は一度…」
死んだんです――と言おうとして、その意思を翻すように後頭部が急速に冷えていくのを感じた。
直前で、明らかな間違いだと気づいたためだ。
(やっぱり…言えないや)
すでに彼女も認識しているように、史実のとおり病死したことを打ち明ければ、自分の幸せなど後回しにして私の看病に徹するだろうから。
前回も十分によくしてもらったのに、それと比較にならないほど躍起になって私の病に抵抗するはずだ。
(彼女の幸せを奪うために帰ってきたんじゃない)
(今度こそ彼女を幸せにするために戻ってきたんじゃないのか?)
自分のわがままよりも、他人に心を尽くす星さんだ。
余計な気苦労をかけたくはないし、生活のすべてが私の看病に終始してほしくはない。
彼女を苛むことが何であれ、心を曇らせるようなことを押しつけるつもりはないし、本人がそれを志願したとしても私の本意ではないのだ。
「一度?」
「…結城くんの家に招待されたんです。」
あらかじめ用意していた話とすり替えるために、結城くんの家に招かれた日のことを唐突に思い出していた。そうやって取り繕うことで、なんとかごまかしも効いたようだ。
嘘をついてしまったような罪悪感こそあったけれど、知らなくていいこと、もしくは知る必要のないことを直截に語るのも、それこそ人間味に欠けるような気がした。
「え? 翔太くんの? いつから仲良しになったんですか? 私、ちっとも知りませんでした。」
驚愕というよりは興奮しているのか、小鼻が少しだけ膨らんでいるのがかわいらしいなと思う。
「あっ…ちょっと待ってください。おかしくないですか? だって、翔太くんは…」
少し力みがちになっていたかと思えば、弱りごとを思い出したみたいに萎縮する彼女を見て、思わずふっと笑みが洩れた。
彼女の思考回路がどことなく読めることに、悪戯心が湧いてしまいそうになる。
「ええ。存じてますよ。坂本さんとともに行動しているのでしょう? 彼の口から直接聞きました。」
新選組の沖田総司が、坂本龍馬の動向を掌握しているとすれば一体どうなるだろうか。
その情報の出所が、自分の幼馴染みだと聞かされれば、裏切られた気持ちになるのも無理はない。
あからさまな落胆の色を浮かべ、彼女はしばし声を失っていた。
「そんなのって…」
星さんに言わせれば、お世話になっている恩人の情報をみすみす敵に売るはずがないといったところだろう。
もう少し先の話になるけれど、坂本さんはあらゆる組織からつけ狙われて、最終的には殺されるのだ。
誰かにとって不都合な人物であるがゆえに、巧妙な手口で葬られることになる。
死人に口なしというやつだ。
そういう未来のシナリオを知っているからこそ、結城くんは頭脳を駆使して守ろうとしているのだろう。ならば、守りたい人を危険にさらすようなことを、自ら進んでするはずがないと星さんは言いたいのだ。
「確かに辻褄は合いませんね。でも、結城くんとは腹を割って話し合ったんです。彼が、どんな思いでこの時代を生きていたか…」
不思議なもので、結城くんと語らったあの夕染めの部屋が、なぜだか遠い日の風景を見ているようで切なくなった。
「どうしてそんな話になったんですか? だって、龍馬さんは捕まったら大変なことになるんです。だから、外出するときは、念には念を入れてるって翔太くんが…」
坂本さんが彼女にとって直接の関係性を持たなくとも、幼馴染みを庇うために警戒するのは正しい防衛だと思った。
(だからと言って、彼女に疑われるのもつらい)
懸命に生きた過去の自分よりも、今ある自分の方が彼女にやたら疑念をふっかけているようで、そういう現実の厳しさが虚しく感じられた。
二つの時代に跨がってしまった私が、彼女にとっての脅威になりうるなど想像できただろうか。
「過去の出来事として話をしました。ここでこうして話をしていると、現行の出来事のように思うかもしれませんが。」
ただでさえ煩雑になる話だ。
ポジションを明確にしなければ、勘違いが頻発し真実が見失われるおそれがあった。
元治と平成の話を混同されては、全貌を明らかにする前にさっそく行き詰まってしまうからだ。
「あっ…そっか。未来から見たら、ここは過去ですもんね。」
「条件が同じだと解釈してもらえばいいと思います。結城くんも星さんも、幕末に起きる出来事は大筋わかっていたんでしょう? 今の私にもそれと同じことが言えるわけなんです。」
二度目に同じだと言ったときの彼女の表情が、微妙に歪むのを私は見逃さなかった。
同列とみなされたことが不愉快だったのだろうか。それとも、他に異論があるのだろうか。ともかく、腑に落ちないという顔なのだ。
「なんだか…すごく引っかかります。」
「引っかかる?」
「はい。だって、沖田さんは幕末の人なのに、未来を知ってるんだもの。これから起こることのすべてを知ってるわけですよね? それってつらくないですか? 当事者なのに、結果がすべてわかってるなんて…」
私が持つ最大の葛藤を、告げる前から彼女は知っていた。
それはきっと、同じ葛藤を私よりも先に抱いていたからなんだと思う。
死ぬ前の私は、未来のできごとなどさしたるものではないとして、思考の中でまともに取り扱わなかったのだ。
というよりも、知ったからといってどうにかなるものでもないし、知らなくてもそれはそれで不利になるとも思えなかった。
御神籤がそうであるように、常世にあるかぎりは吉や凶を自分で選べるわけではない。
「そうですね。つらくないと云えば嘘になるかもしれないけど、でも、私は現状を歪めてまで何かをしようとは思わない。今の自分にできる最大限の努力で、大切な人たちが日々幸福を感じてもらえるように頑張ればいいかなって思うんです。」
高望みはしないと決めた。
もう助からない病であると知りながら、それでも諦めきれずにもがくことを続け、新選組のために命が擦り切れるまで戦おうと誓ったあの経験は、今ある私をつくりあげたのだから。
「じゃあ、私はきっと間違っていたんですね…」
「なんですって?」
彼女の横顔が寂しそうに告げるのを見て、反射的に浮かんだ疑問が喉をついて出た。どんな罪悪感と戦っているのか、まるで見えないのだ。
「沖田さんの一番大事なものを取り上げてまで、あなたに生きててほしいと願ってしまったから。そうして、あなたに無理なお願いをしてしまったでしょう?」
(なんだ…そんなこと…)
新選組を抜けてほしい。戦うのをやめてほしい。言葉を変えながらも、言う内容はいつも一緒だった。とりすがるように何度も説得され、そのたびに否定の言葉を重ねなければならない苦しみが私を苛んだ。
彼女がどれほど私を求めているかを知ってしまったから、応えられない自分を恨めしいと思ったし、その呵責は凄惨を極めるものだった。
それだけの苦悩を味わったのだから、同じことを繰り返そうなどと思うはずがない。
「それだけ私を心配してくれたということでしょう? なにも、あなたが気に病むことはないんだ。恨んでいるわけじゃないんだから。」
まるで、自分の墓標を掘り返しているような気分だった。
そこから出てくるものは、過ぎ去りし日の遺骸となった誇りや自尊心など、血腥いことの連続が大部分を占めている。
それらは思念という亡霊のように心の隙間に入り込んで、そのまま取り憑いてしまいそうな侘しさをはらんでいるのだ。
だから、いっそのこと別の人間に生まれ変わったのだとして、風化を待つことにしたいと思っている。
「私、沖田さんが幸せでいてくれるならそれでいいんです。あなたの幸せは、私の喜びなんだってわかったから…」
胸もとに躰を預けている彼女は、こうしたささやかな触れ合いだけで幸福は生み出されるとでもいうように、とても満ち足りた声でそう囁いた。
「私が言おうと思ってたことなのに。先に言われてしまいました。」
こんなふうに躰を寄せ合って、穏やかに語り合える時間が続くなら、私にとってもこの上ない幸せではある。
ただし、ひとつだけ気がかりなのは、私を取り巻く環境がこの取捨選択を是とするかということだ。
おそらく、そうすんなりとはいかないだろう。
「ところで、結城くんはどうしてますか? 一度会って話がしたいな。連絡をとる方法はありますか?」
「ええと…実は、さっきまで一緒だったんです。お寺まで連れて行ってくれたのも、翔太くんだったんですけど…」
突然の問いかけだったにもかかわらず、まばたきひとつを残しただけで彼女は少しも動じなかった。心の乱れは感じさせなかったけれど、その代わりに、渋ったような物の言い方が、漠然とした拒絶を漂わせていた。
そこには、幼馴染みの安全を確保するような慎重さが見受けられる。
(私は、あなたを悲しませるようなことはしない)
心の中でそう呟いたけど、あえて声にはしなかった。言えば、余計に不安を煽るからだ。
居場所の見当ならとっくについている。
念のため、彼女の事前承認がほしかっただけなのだ。
「宿に行けば会えるでしょうか?」
わざわざ居場所を尋ねなくても、既知であることを強調するのはこのタイミングで必要なことだった。
未来に由来する知識として、新たな私を証明するための機会にもなるのだから。
「それはちょっと…沖田さんが危なくないですか? それに、すんなり入れてもらえるとは思えないし…」
彼女の反応からもわかるように、彼らの定宿には見張りや門番役が潜んでいるらしい。
単独で乗り込もうにも、一筋縄ではいかないようだ。
「まあ、そうですよね。それに、戦の最中だ。落ち着いてから考えることにします。」
まずは、結城くんをとり囲む関係者の警戒をゆるめる必要がありそうだ。
それには、やっぱり星さんの協力が必要不可欠なのだけど、催促するのはいかにも見苦しい。
「手紙…街がこんな状況だから届くかどうかわかりませんけど、文を出してみましょうか?」
こちらの意を汲んだのか、おずおずと提案する彼女は、わずかな緊張を持って私の顔色を窺った。
信じていいのですね? というような、念を含むような瞳で。
そんな彼女に対し、敵意も作為もないことを示すために、ことさら明るい顔で微笑んだ。
「お願いします。それとなく伝えておいてもらえませんか? 私が会いたがっていると。」
「わかりました。会えるというお約束できませんけど、沖田さんが会いたがってるってことは伝えておきます。」
ほっとしたように顔の力をゆるめる彼女を見て、一気に胸のつかえが落ちていく心地になった。
私と彼女の間に、つまらない誤解があるのは嫌なのだ。
「ありがとう。とにかく、私が未来からきたことは、結城くんを交えて話した方が分かりやすいかと思って。いずれ詳しく話したいとは思ってるんですけど、戦の後始末もあるだろうから先の話になりそうですね。」
もっとも最善のプランは、彼女を間に立てたお座敷で三人が集まることだった。そこで、各々が持ち寄った情報をすり合わせ、精査できればと思っている。
「私なら大丈夫です。いつまででも待ってますから。」
彼女の晴れ晴れしい笑顔があれば、この先に待ち受けるものが何であれ、明るい兆しが見えるような気がした。
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艶が〜る沖田総司長編。Essentiaのつづきです。 | ||
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