Aufrecht Vol.5 「本音」
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「総司が倒れたそうだな。」

 

会津屋敷から帰ってみると、ちょっとした騒ぎになっていた。総司が突然倒れたのだという。ちょうどその場に居合わせたのが、尾形だったようだ。偶然とはいえ、妙な取り合わせだと思う。

尾形を執務室へと呼び出した俺は、一息入れる時間をも省き、事の顛末を問うはめになった。

 

「申し訳ありません。先生の異変に気づいていたのにも係わらず…」

 

「異変? 何があった。」

 

――思い起こすこと数日前。

真木和泉という将を喪い、天王山へ立てこもった残党兵を討つため、俺たちは汗みずくになりながら山道を登っていた。着込みや具足は思いの外こたえ、途中で総司は装具を取り外してしまったのだ。よほど体調が悪かったのだろう。下山してすぐ、急な高熱を出して寝込んでしまった。晩のことだ。

つい最近まで床に伏せっていたが、元来じっとしているのができない質だから、人目を盗んではふらふらと出歩いていたらしい。ちょっと目を離すと無理を仕出かすのが、総司の悪い癖だった。

今回も粗方そんなものかと思っていたが、尾形の言い分によると、どうやらそれだけじゃないらしい。

 

(異変ってぇのは何だ?)

(まさか、妙な奇病に冒されてるんじゃねえだろうな)

 

いきなり昏倒するというのは、よほどのことがない限り起こりえない。妙な病を抱えてるんじゃねえかと心配になった。

 

「はい。それが…野良猫を見た途端、激しく取り乱した様子で…」

 

ところが、尾形の口から出た言葉に、俺は耳を疑った。

 

(野良猫だとォ?)

 

片眉を吊り上げて真偽を問い直すように睨めつけるが、尾形は眉尻を下げながらも言葉を撤回することはしなかった。答えとしては気に食わないが、それが真相ということだろう。

 

「猫? …そいつはちと合点がいかねえな。」

 

対象にこだわりなく人懐こい総司は、そういう無邪気な側面から生き物を寄せつけることがあったが、特定の何かに怯えたり、目に見えて嫌がったりという様を一度たりとも見た試しがない。多摩では蝮がよく出るのだが、その蝮ですら満面の笑みで摘み上げちまう男なのだ。そういう臆面のなさを知っている俺に言わせれば、総司に怖いものなどあるはずがない。強いて云うなら姉のおミツさんだが、広義の意味では女だろう。

それはさておき、来るものは拒まない性格の総司は、当然そいつらを可愛がる。どこぞから犬だの猫だのを拾ってきては、餌を与え、相棒のように引き連れているところを大勢が目撃しているのだ。この尾形とて、その例外ではない。

 

「沖田先生は、無類の動物好きですから。確かに不可解ではあります。しかし、明らかに猫を嫌がっておいででした。」

 

(大方、引っ掻かれでもして懲りたんだろうよ)

 

二本差しの武士たる者が、猫なんぞ恐れて何になる。総司の目が覚めたら、そんな諌言を吐いてしまいそうだ。

 

「妙な話じゃねえか。ひょっとすると、猫に祟られでもしてんのかもな。で、星もその場に居合わせたのか?」

 

どうも解せないと思いながら、軽い冗談を交えつつ俺は一旦受け流した。本人が目の前にいないのに、考えても詮ないからだ。

 

「はい。今は先生の居室にいらっしゃいます。後の面倒は我々が引き受けるので、どうぞお帰りくださいと申し上げたのですが、目覚めるまで傍にいるとおっしゃって…」

 

(あいつらしいな)

 

そう思うのには理由があった。

総司に洗いざらい吐かせた訳じゃないから、本当のところは分からない。だが、聞くところによれば、前回予約してやった座敷で、星を手酷く振ったらしい。その風聞が確かなら、あいつは総司を恨んでもいいはずだ。そうであるべきなのに、星はそういう素振りを一切見せなかった。

 

(噂ってえのは馬鹿にできねぇよ)

(醜い色恋沙汰なんか起こした日にゃあ、その悪評が妓の値打ちを下げちまう)

(そういう意味じゃあ、評判に傷がついた、と喚きそうなものなんだがな)

 

芹沢の件に関してもそうだ。島原での度重なる不埒な振る舞いは、芹沢が筆頭局長であるが故に配下の者さえ同列と見なされていた。俺たちは皆、同罪だった。

酒気を帯びれば狼藉を働き、妓たちへの態度が悪辣だとわかっていながらも、俺たちは芹沢の所業を見過ごしてきたからだ。そういう「卑怯」を目の当たりにしても、あいつは接し方を変えるなんてことはしなかった。

芹沢を始末してからも、「同士討ち」だという噂が絶えず、俺たちを見る目が一層厳しくなったというのに、星は相変わらずにこにこと笑いながら労う言葉を重ねていく。

俺たちに肩入れするといずれ損をするぞと言ってやりたかったが、そんなことで納得するような女だったら、とうの昔に愛想を尽かしていることだろう。

遊女に限って情が深いとはよく聞くが、星はそれとも違う気がした。

総司に惚れているのは確かだが、その尽くし方が女という生身の性を超えているように思えてならない。

 

(考えすぎだな)

 

何にせよ、邪心なく総司を受け入れてくれるのなら、俺にとってもありがたいことだ。

 

「そうか。わかった。面倒をかけたな。下がっていい。」

 

尾形が下がるのを待たずに、一足先に総司の部屋へと向かう。断りもなく障子を引くと、肩を竦ませた星が怯えた目で俺を見上げていた。

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「帰っていいぞ。」

 

開口一番に出た言葉は、労いでも感謝でもなく、副長としての儼然な科白だ。いかにも事務的に告げて、総司の寝姿を見遣る。

 

(真っ青な顔しやがって)

 

連日の疲労も手伝ってか、無性に胃のあたりがむかつくのは気のせいじゃない。あれほどじっとしていろと念を押したにも関わらず、勝手に出歩いてこの様となっちゃあ、さすがに灸を据える必要があるなと思った。

 

「すみません。もう少しだけいてもいいですか?」

 

縋るように見つめる瞳が、俺の視線を逸れながら手もとへと移っていく。

 

「構わねぇが? いつ目覚めるかも分からないだろう。」

「そうなんですけど…」

 

どこか煮え切らない星を見て、もう一度俺は寝床を覗き見た。

前屈みになった背中越しに、しっかりと繋ぎ合わされた手の指が見える。総司が離さないのか、星が握っているのかは定かではないが、互いが互いを欲するのを主張し合っているかのように、二人の指と指は隙間なく絡み合っていた。

それを見つけた俺の視線が、さぞ冷たいものに映ったのだろうか。

星はその手を守ろうとして、もう一方の手でそれを覆い隠してしまった。

 

「離したらいけないと思って…」

「別に、責めているわけじゃねえよ。そのままの体勢でいるのは疲れただろう?」

 

部屋に運ばれてきて以来、ずっとそうしていたのだろうか。あと一刻ほどで日が落ちるというのに、いくらなんでも忍耐の限界じゃねえのかと思う。

 

「そうしたいところなんですけど、ぎゅっと掴まれていてほどけないんです。」

 

弱ったように眉尻を下げる星は、目の前でそれを証明するために、指を抜こうとして前後に肘を動かし始めた。だがしかし、どういう訳かびくともしないのだ。

 

(寝てる時まで馬鹿力なのかよ)

(随分と気が張ってやがるな)

 

昏倒したとは聞いていたが、尋常ではない手指の強張りに直前の心理状態が表れているような気がした。意識を失った人間のそれとは信じ難い。強い感情の名残りが感じられるのだ。

 

(何があったんだろうな…)

 

尾形の言う馬鹿げた考察が本当なら、猫が総司を追い詰めたということになる。だが、人間よりも遥かに小さい生き物が、意識を失うほど恐怖の対象となりえるだろうか。

 

(どうも分からん)

 

どんなに理屈を捏ね回したところで、これほど珍妙な謎が解き明かせるはずもなかった。奇妙な図式がひとつ、糸の切れた凧のように浮いているだけだ。

ともかく、今は星の指を抜いてやるのが先決だった。

 

「どれ。貸してみろ。」

 

手の甲に絡みついた指を一本ずつ引き剥がそうとするが、どんな角度から挑んでも一向に緩む気配がない。腰を入れて圧力をかける度に、星の手が軋む音の中で小刻みに揺れている。

 

「こんの馬鹿力…」

「起きてくれるまで待ってますよ。」

 

自分でも試みたことを再度確認するように、星はとっくに諦めたという顔で笑い、俺の甲を手で差し止めた。

 

「そうは言うが、このまま目覚めなかったらどうする。泊まってくってんなら一向に構わねぇが、藍屋さんはよく思わないんじゃねぇのか?」

 

理解ある素振りを見せながらも、端から泊める気なんて更々なかった。

にわかな俺の承認よりも、藍屋さんが失望することの方が星にはずっとこたえるからだ。

 

(かの吉野太夫の名跡を継ぐとなりゃ、藍屋さんの力の入れようとやらも知れるってもんだがな)

 

襲名披露を控えていることは、今や市中に知れ渡っていた。

藍屋さんが何を思って甘やかしているのかは知らないが、こんな所で油を売っていると知れたら、いくらなんでも冷や汗ものだろう。その上、こいつときたら世間に滅法疎いときてやがる。本来なら、こんなに危なっかしい奴は、目の届く範囲に囲っておくべきだ。

何かの不都合から責任の所在を問われることになれば、真っ先に槍玉に挙げられるのは俺たちを置いて他にはいない。

そういうところまで頭が回っていねぇもんだから、こっちも悠長に構えていられなくなるのだ。

 

「事情をわかってもらうために、文を書きます。」

 

(こいつ…何を暢気なことを)

 

予想通り、星は自分の立場を分かっていなかった。

烏合の衆ばかりを寄せ集めた新選組は、粗野な連中が雑魚寝をするような体たらく。飢えた獣の溜まり場みてえな場所に、身綺麗にした生娘なんざ置いておけるはずもない。

 

(俺が目を光らせているうちは、さすがにそんなことにはならねぇと思うがな)

 

しかし、鈍感すぎるのも考えものだ。こっちとら、ハラハラさせられてかなわねぇ。まるで、狩場に放たれた兎のごとく、いつの日か鷹の爪に毛皮を剥がされるんじゃねえかと心配になる。

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「阿呆。利き手が塞がってんのに、どうやって文を書くんだよ。」

 

呆れ果てたように言う傍で、星をどうやって帰そうかと思案を巡らせた。少し強引かもしれないが、総司を叩き起こすことくらいしか方法はなさそうだ。何も進展せずに時間だけを潰していくことは、俺がもっとも嫌いとするところで、そういう手っ取り早い対処を荒いと詰られることもあったが、今は四の五の言っている場合じゃない。

ただ、言い出すきっかけが見つからなかった。

 

「あはは。そうでしたね。叱られるのは平気なんですけど、でも、秋斉さんに迷惑をかけるのは、やっぱり気が引けるかなぁ。」

 

星はさも他人事のように笑いながら、呆れるほどのんびりとした口調でそう言った。まったくもって冗長的だ。俺の思考とは反目している。一見無駄とも思える時間の浪費が、こいつにとってはひとつの喜びかもしれないと思うと、神経を尖らせている俺の方こそが無益な真似をしているのではないかという気になってくる。

 

「あのな、そうじゃねえんだ。お前、もうすぐ襲名披露があるんだろう? その前に、良からぬ噂が立ったら、全部台無しになっちまうんだぞ?」

 

思わぬ縁で言葉を交わすようになってからというもの、鬼と呼ばれる俺ですら毒気を抜かるという一幕があった。それも一度きりじゃない。気が抜けるほどの数だ。

「まずは疑ってかかれ」とか、「もっと警戒心を持て」だとか、懇々と説いてやりたいことは山ほどあったが、そんなときほど決まって星は笑っていた。それがどうもはぐらかしているようには見えず、むしろ達観しているからこそのゆとりなのではないかとさえ思えてくるのだ。俺の考えの及ばないところまで、ゆったりと清らかなもので満たされているような眼差し。そういうところが、総司に似ているのかもしれない。

 

「そうは言いますけど、どうやって手をほどくんですか? 手を斬る?」

 

軽い冗談のつもりなのか、星は悠然とした笑みで俺の意見を薙ぎ払った。

 

「手を斬ってどうする。冗談になってねぇよ。総司を叩き起こせば済む話だろうが。」

「駄目ですよそんなの! 急に倒れたんですから、無理に起こしたら体に障ります。」

 

俺の読み通り、星は身を乗り出して総司を庇う姿勢をとった。あまりの必死さに、つい意地の悪い笑みが浮かんでしまう。

 

「そんな柔じゃねえと思うがな。俺はお前のことを心配してるんだ。俺たちに関わると、碌な目に遭わない。白い目で見られるだろう?」

 

意地が悪いのは笑みだけで終わらず、ついつい追い詰めるような言葉が口をついていた。

 

(逃げ道を奪うようなことを言ってるな)

(案じているのか、試したいのか…俺はどっちなんだ?)

 

星と対面していると、たまに自分のことがよく分からなくなる。手前でこうと決めてやっていることが、とてつもなく後ろ暗いことのように思えたり、物事の価値感や善悪の基準が派手に狂い始めたりするのだ。

 

(俺は、一体何を期待してるんだ?)

 

星が否定することなんざ、問うまでもなく知れた話だ。正反対の言葉を期待するのは、性根がひん曲がっているとしか思えない。

完璧を求める俺の主義は、どこか歪で、歪んでいるからこそ頑強でもあった。

それを他人に強いることがどれほど罪深いかを分かっているつもりだったが、本音を言えば、どんな立場の人間であろうと、心のど真ん中に揺るぎない信念が見えなければ、俺は本当の意味で相手を容認することができなかった。

 

「えっと…否定できないことがすごく心苦しいんですけど、でも、私はそんなの気にしませんよ? だって、本当はみんな優しくて楽しい人たちばかりだって知ってるから。」

 

餓鬼ですら考えそうな、心許ない科白だと思った。大人の機嫌をとろうとして、懸命に伝えようとする童のような瞳。それを目の当たりにして唯一判じたことは、そこに小手先だけの細工など一切含まれていないということだった。手前の尺度で計ろうとしたことが、すでに見当違いだったことが分かる。

だからと言って、問題が解決したことにはならないのだが。

 

「お前がそう思ってくれてると分かっただけでも励みになる。ありがとうよ。でもな、総司も俺もお前に良くない風聞が立つのは本意じゃねえのさ。分かるか?」

 

――後ろ指を差されることも厭わない

――もとより危険は承知の上

 

そういう科白を何度耳にしたことか。決然とした覚悟を以ってしても、俺たちに関わって悪夢を見た人間はたくさんいる。俺たちに味方することで蒙る悲劇を、戦を控えるこの時期だからこそ抑止していかなければならない。できれば、星を同じ境遇に貶めたくはなかった。

 

「そうですよね…こんなこと言うと無責任かもしれないし、沖田さんとの約束を破ることになるのかもしれないけど、それでも私は構わないと思ってるんです。どれだけの人に迷惑をかけるかもわかってるし、たくさんの人をがっかりさせちゃうかもしれないけど、それでも私は沖田さんと一緒にいたい。周りから非難されたり、見放されたりしても、私は沖田さんを選ぶことを間違いだとは思わないです。」

 

信念を秘めた瞳というのは、これまでも何度か見てきたつもりだ。目の前にある瞳も、それらに引けはとらないだろう。

 

(ここまで言わせておいて、今更何を怖れるってんだよ)

 

俺がただ勝手に決めつけているだけなのだ。

善良な人間が傷つくくらいなら、味方となってくれた人間が泥をかぶるくらいなら、いっそ俺が悪の体現者となり、総ての憎しみをかぶってやろうと。

だが、とっくに肚を括った相手に、俺がしてやれることなどたかが知れている。

俺が思うよりもずっと、度胸も知恵もある女だ。俺が恐怖しているような最悪の事態は、一片たりとも現実になりはしない。そう思わせる女だった。

 

「そうか。俺が悪かった。」

「そんな…土方さんは正しいことを言ってくれただけです。私の方が身勝手でワガママで、どうしようもないんです。でも、こんな私でも、沖田さんを好きなことだけは譲れないんです。」

 

己を卑しめる言葉を並べておきながら、星は一層晴れやかな顔をして笑っていた。まるで、何年も心に持ち続けてきたことを、ようやく誰かに知ってもらえたというような、すっきりとした表情だ。

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(なんていい顔をしやがる)

 

心に信念を秘めた人間の顔は、断然眩しいものだというのを俺は知っている。そういう人間には自ずと説得力があり、周囲を惹きつけてやまない魅力があるのだ。

 

「卑下するなよ。心底総司に惚れてるってんなら堂々としていてくれ。その方が俺は嬉しい。」

 

目元にほのかな朱を差して、星はもじもじと身じろぎをした。心で思っていることが態度に出やすいのはいつものことだったが、俺の目に映るその仕草がいつもより幼く見える。

照れくさいのをごまかすように、星が顔を逸らした時だった――

 

「うぅ…ん」

 

総司の呻きが苦しげに洩れたかと思うと、もぞもぞと布団を動かす音がした。覚醒がすぐそこまで迫っているのが分かった。

 

「起きたのか。」

 

咄嗟に覗き込んだ星の後頭部に向かい、焦れったさをなるべく抑えながら声をかけた。目覚める兆しのようなものを感じたが、その期待は現実にならなかったようだ。星の気落ちした声が、その答えだった。

 

「魘されてるみたいです。」

 

悪夢に眉を顰める総司を見て、居ても立ってもいられなくなったんだろう。幼子をあやすように頭を撫で始めた星は、そうやって一心不乱に手を動かしていく。黙ってその手つきに見入っていると、不意に腕がぎくりと止むのを俺は見た。

 

(とうとう起きたのか?)

 

どうしたのかと問う前に、星は総司に呼びかけていた。

 

「沖田さん?」

 

物の一瞬で開いた瞼は、ぱちっと音が聞こえてきそうなほどの早技だった。人形のような無機質な動きで、眼球だけがこちら側を向いている。汗は浮いておらず、血の気が引いたように青白い顔だ。

 

「総司。分かるか?」

 

枕元に膝を寄せて、顔の前に手をかざす。掌を左右に動かして見せると、総司は手の動きを追うことをせずに、俺の顔をまじまじと見つめていた。

 

「どうした?」

「ここはどこです? 今は何年ですか?」

 

不自然なことを言い出す総司の目は、不逞浪士から藩名を問い正す時のような険しさがあった。

目覚めて最初に言う科白ではないし、緊張を強いられる理由も見当たらない。嫌な予感だけが、頭の中を埋め尽くしていく。

 

(何を言ってやがる)

 

ただならぬ雰囲気に、俺と星は顔を見合わせた。

 

「頭でも打ったのか?」

 

総司にではなく星に言ったつもりだったが、その問いに答えたのは総司の方だった。

 

「いいえ。これは大真面目な質問です。今は何年ですか?」

 

俺の動揺も小さくはないが、それよりもはるかに星の動揺は大きいものだった。声にならない声が、不安げな音となって外に洩れていく。

しかし、俺たちが動揺を露わにすれば、総司の混乱はますます激しくなるだろう。俺だけでも、泰然と構えていなければならない。

 

「元治元年。この前、禁門の変があったばかりだろう。」

 

表情はそのままに、努めて冷静に言い放つと、総司の顔がぱあっと明るくなった。

 

「なんだ。安心した。失くなってなかった…」

 

昏倒した弾みで、記憶があやふやなのかもしれないと思った。意識を失った後に目覚めれば、誰だって少しは混乱するものだ。

五指を握ったり開いたりしながら、しばらく総司は掌を見つめていた。

 

(一先ず安心していいみてぇだな)

 

たとえ一部でも記憶が欠けていれば大問題だと思ったが、尋ねた本人がケロリとしてやがるのを見ると、それも杞憂となりそうだ。

 

「平気か?」

 

反応を確認するために今一度尋ねると、さっぱりとした表情とは別に前後の辻褄が合わない科白が返ってきた。

 

「ええ。土方さんにまた会えて良かった。」

 

(また会えて、とはどういう了見だ?)

 

何年も久しくしていた上で、まるで再会を果たしたような言い草だ。

茶目っ気と受け取るには、あまりに突拍子もなく理解し難い科白だった。

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「はあ? …お前、やっぱり頭でも打ったんだろう? そうでなけりゃ、気が狂れたとしか思えねえ。」

「嫌だなァ。この通り、なんでもありませんよ。」

 

左の袖を捲り上げた総司が、これ見よがしに力瘤を見せつけて、何事もなかったかのように無邪気に笑っている。見せつけられた方の俺は、釈然としないものを押しつけられた気分になり、ますます訳が分からない。言葉に対しての責任感というものが、総司には今ひとつ欠けているように思うのだが。

 

(気を失ってる間、お前は一体どこに行ってやがったんだよ)

 

ふと思い返してみると、ここ最近の総司には不審な点が多すぎた。

まず怪しいと思ったのが、九条河原での一件だ。

寝ぼけたふりをして妙なことを言ってみたり、務めを放り出して河原に飛び込んでみたり、やることなすことに一貫性がなかった。

当初は暑さにやられちまったのかと思ったが、よくよく観察していると何ら平時と変わりがない。思い過ごしと済ませて疑いを忘れた頃、再び奇妙な言動を引き起こすのだから、どう対処すればいいやら戸惑ってしまう。ややもすると、頭の中の奇病を疑う必要があった。

 

(何か俺に隠してるんじゃあるめぇな…)

 

鼻頭を掻く指の動きから瞬きひとつをとってみても、何となくいかがわしいもののように感じられ、一挙手一投足に至るまでの細かい動きに目が離せなかった。一度疑い出すと、結論に辿り着くまでは際限がない。ありとあらゆることが頭の中を加速していく。総司の挙動をつぶさに観察しながら、無意識に俺は執拗な視線を向けていた。それすら本人にはお見通しだろうが、そんなことはおくびにも出さない総司だ。

 

「星さんもすみませんでした。こんな時間になるまで付き添っていただいて。」

 

障子の外から差し込む明かりが、きれいな茜色に染まっている。日が暮れるのにはまだ時間があるとはいえ、そろそろ星を帰してやらないといけない。さすがの藍屋さんも気を揉んでいる頃だろう。

 

「送っていく。」

 

とりあえず総司のことは傍に置き、星を送っていくことにした。だがしかし、俺が送り届けるのが不満なのか、総司はむっくりと起き出して外出の身支度を整えようとしている。

 

「土方さんはお忙しい方ですからね。私が送っていきますよ。」

 

しっかりとした手つきではあるものの、袴を掴むその手には血色がない。足を入れようとするのを半ば制し、鋭い語気を飛ばしながら総司を睨みつけた。病み上がりの人間に任せるほど、俺は人でなしではない。

 

「庭ですっ転んだ挙句に、さっきまで意識を失っていた奴が、何を惚けたことを吐かしやがる。俺が送っていくと言っているだろうが。」

「平気ですよ。ちょっと島原へ足を伸ばすくらい…」

 

散歩がてら出歩くのとは訳が違う。終いには、互いに意地の張り合いとなっていた。そういう俺たちを見兼ねたのか、交互に視線を走らせて星はおたおたと手を彷徨わせている。

 

「あの! 一人で帰れますから、喧嘩しないでください。沖田さんも無理をしないで。」

「駄目だ。」「駄目です。」

 

俺と総司とが同じような台詞で睨み合っていると、廊下をパタパタ歩いてくる足音が近づいてきた。そこで一時休戦となる。

 

「どなたかいらっしゃったみたいですね。」

 

いち早くそれを察知した総司が、ざまあみろという顔をして内心ほくそ笑んでいるのが見えた。俺が呼び出されるのを期待しているらしい。

打ち負かしたかのような優越顏に閉口していると、部屋の前に立ち止まった人影が、儀礼通りに片膝をつくのが分かった。口上の前に、こほんという咳払いが落ちる。

 

「申し上げます。藍屋の手代だと名乗る者が迎えに参ったようですが、如何致しますか?」

「分かった。帰り支度をさせるから、しばらく待ってもらえ。」

「承知仕りました。」

 

取次の隊士を下がらせた後、総司はあからさまにしょんぼりとしていた。当てが外れたというような顔になっている。碌な話もさせずに引き離すのは気の毒だとは思うが、手代を寄越すくらい念を入れているのだとすれば、これ以上の長居は双方にとっての誤解や不利益になりかねない。

 

「どうやら、送りの必要はなくなったようだな。」

 

話が拗れる前に首尾がまとまったから良かったものの、気落ちした総司を見ていると、なんとなく憐れみを感じてしまう俺は甘いのかもしれない。星もまた、そわそわと落ち着かない様子だ。説教されることを念頭に置き、思考の整理をつけているようにも見える。

 

「きっと秋斉さんがすごく心配してるんだと思います。すぐに帰らないと。私はこれで失礼しますね。」

 

何か力になってやれることはないかと思い立ち、俺は一筆したためることにした。星には何ら非がないということだけでも、先方に伝えるべきだろう。筆を入れている僅かな時間で、総司に猶予を与えてやりたいとも思ったからだ。

 

「少し時間をくれ。詫状を入れた方がいいだろう。すぐに筆を入れるから、ここで待ってろ。」

「あ。はい。わざわざすみません。」

 

俺の行動が意外だったのか、キョトンとした目で瞬いてから、星はとってつけたように頭を垂れた。

 

「謝らなくていい。もとはといえば、総司がいけねえんだ。」

「はいはい。私がすべて悪いんでしたね。」

 

着替えが途中のままでいる総司は、面白くなさそうに嘯いてから、拗ねた餓鬼のように明後日の方向を向いていた。惚れた女の前でくらい、潔くいられねぇのかと思ってしまう。

 

「そう思ってるなら、侘びを入れるべきなのは他にもいるだろう。尾形が自責の念に駆られていた。誤解を解いてやれよ。それから、後で話がある。」

 

そう言い置いて部屋を出ると、背中を追うようにして総司の返事が聞こえた。

 

「ええ。わかりましたよ。」

説明
艶沖長編。副長視点です。
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艶が〜る,沖田総司,尾形俊太郎,土方歳三,幕末,長編

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