Aufrecht Vol.6 「手がかり」 |
土方さんが部屋から出て行くと同時に、私たちは息を揃えたように顔を見合わせていた。どうやら、彼女も同じことを思ったみたいだ。
(気を回してくれたんだろうな)
詫状を書くといったのは口実で、彼女と話す時間をつくってくれたのに違いないと思った。その好意を無駄にしないためにも、土方さんが戻ってくるまでに黒猫の誤解をとく必要がある。
「ご迷惑をおかけしました。」
「本当に。心臓が止まるかと思いました。」
胸もとに置かれた彼女の手は、そのときの恐怖を思い出したように、押し詰まった緊張を表していた。私を見つめる眼差しは真剣そのもので、怖い思いをさせてしまったことを申し訳なく思う。
「実は、私もそう思いました。」
「沖田さんも?」
「ええ。だって、いきなり黒猫が現れるんですもん。」
「黒猫? …それは、アズキのことですよね?」
心理的に余裕がなかったとはいえ、事情を知らない彼女はさぞ困惑したことだろう。
しかも、「黒猫」に限定された恐怖というのは、他者からすると取るに足らないことのように思えるだろうし、笑い話で済まされそうなくらいその深刻さは軽い。
「あなたにはまだ話していませんでしたね。…とは言え、私も直前まで意識してなかったことなんですが…」
千駄ヶ谷の屋敷に棲み着いていた黒猫と、火災現場で遭遇した黒猫のことを、順を追って説明することにした。
同じ猫とはいいがたいけれども、それらが時間移動に際して何らかの因果関係にあるのではないかということも含めて、自分の身に起こったことの概ねを伝えることができた。
「きっと、黒猫には特殊な力があるんじゃないかと思うんです。」
黒猫が時間を操っているのではないかという推論が、仮説を打ち立てる上で今や大きな柱となっていた。その仮説も、確信まであと一歩のところまで来ていると思う。未だ仮説の域を出ないのは、決定的な証拠が足りないと思うからだ。
(それにしても、今回はどういう訳か飛ばされなかったな)
火災現場の状況と照らし合わせてみても、時間移動の現実化を除くすべての条件が整っていたというのに、移動が起こらなかったのは謎めいているとしか言いようがない。
(条件の中で何かが欠けていたんだろうか?)
(それとも、黒猫は無関係で、私の被害妄想なのかな?)
現段階では不確定要素であっても、黒猫を除外することは正しい判断だとは思えなかった。この先も警戒するに越したことはない。
「そうだったんですね。そうとは知らず…」
話を聞き終えた彼女は、そのまま考え込むようなポーズをとった。利き手で耳たぶをつまんでいるときは、彼女が何かを考えているときだ。考えているというよりは、むしろ、考え込んでストレスを溜めていると言ってもいいのかもしれない。そういう無意識の癖が、見えにくい心の内側を表している。
「あなたには、なんの落ち度もないんだ。悩ませるために言ったつもりはないんですよ。星さんに知っておいてほしいことだったから。」
他人のために悩むのを嫌がらない彼女は、そのことに没入しすぎて自分を疎かにしてしまうことがあった。こうして私がフォローを入れなければ、彼女はいつものように延々と考え込んでしまうだろう。
「でも、なんで今回は飛ばされなかったんでしょうか? 沖田さんを違う場所へ連れて行った黒猫は、アズキじゃなかったってことですか?」
私が気になっていることも、まさしくその一点のみだった。この時代にどれだけの頭数がいるのかは分からないけれど、黒猫という特徴だけなら凡庸すぎて特段珍しいとは言えないはずだ。黒猫というだけで特別な力を持っているのだとしたら、既に前例があるだろうし、迷信を好むこの時代の人々が放って置くはずがないと思うのだ。だとすれば、彼女が示唆するように、超常的な力を持つ一匹が私に関与しているということだろうか。
(確かに、彼女の推察は妥当かもしれない)
だけど、彼女の考えを100%支持できない理由があった。気を失う直前に見た白い光と、回転するような眩暈。それらがこの推論を邪魔しているのだ。二つの因果を説明できなければ、アズキだけじゃなく、京中にいる黒猫が被疑者となってしまう。
「そうなりますかねぇ…まだ確信は持てないんだけど…」
「何か引っかかることがあったんですか?」
「ええ。猫を見た瞬間に、回転するような眩暈がして。前回移動するときも、同じような体感をしたものですから。」
一応眩暈というふうに表現してはいるけれど、自分では医学の定義を超えた体験だと思っている。要するに、貧血などに付随する立ち眩みなどの症状とは一線を画するもので、全身が捻れながらどこかに吸い込まれていくような感覚は、現実界では起こりえないものだと断言できるからだ。眩暈を身体症状とするのには、自分の感覚からいって抵抗があった。
「めまいの後に、時間移動が起こるんですか?」
「はい。でも、今回は移動しませんでした。なんでかなぁ?」
「アズキは関係ないのかもしれないですよ? たまたま黒猫だったかもしれないけど、沖田さんが疑ってる黒猫とは違うのかも…」
アズキを庇うため健気に訴えるけれども、途中で自信をなくしたのかその語尾は弱々しかった。黒猫だからという理由だけで、犯人にされるのが嫌なのかもしれない。私だって、彼女のお気に入りを責めることはしたくない。だから、この話はそろそろ終わりにしようと思った。
「そうかもしれませんね。いやはや、危ないところでした。」
後手でうなじを撫でながらへらっと笑うけれども、彼女はまったく意識の外にあるのか、依然として深刻な表情を崩さない。
「もし飛ばされていたら、どうなっていたんでしょうか?」
「う〜ん…。それは私にも見当がつかない。何せ、移動の原理自体があいまいとしていますからね。私がいなくなった後も、世界はずっと回っているのかとか、いなくなったことで騒ぎになりはしないかとか、いろいろ考えてしまいますよね。」
もし、あの場で私がいなくなってしまったら、この世界の彼女はいなくなってしまうかもしれない。
専門家ではないから根拠を問われると答えようがないんだけど、私が移動した瞬間、元いた世界は消滅するような気がするのだ。そうでなければ、時間を超えても存在しつづける自分をどうやって立証すればいいのか。
(その推論を真と見るなら、移動するたびに星さんを失っていくということだ)
理論物理学で展開するフィクションを見ていても、時間移動をやんわりと否定しているものが多い。倫理学的に支持できないのだろうと思っていたけれど、実はそれだけじゃないのかもしれない。
(おそらく、干渉するたびに可能性が失われていくからだ)
そう思うと、このまま時間移動を繰り返すことが、いかに危険なことであるかを悟った。
「もし、沖田さんがいなくなってしまったらと思うと、ゾッとします…」
たまらなくなって膝を詰めた彼女は、潤んだ瞳を向けながら私の腕にしがみついてきた。そばにいて守ってあげたいと思う華奢な躰が、手の導きに応じて居場所を得たようにしっかりと収まっている。彼女が抱く不安のすべてを溶かすように、抱きしめる腕に力を込めてぬくもりを与え続けた。
「私もです。これっぽっちも望んじゃいないのに、あなたの目の前から去るなんて考えられない。できることなら、ずっとつかまえていたいけれど、太夫になる人を独占する訳にはいかないでしょう。藍屋さんにも怒られてしまう。」
「太夫になるのはともかくとして、秋斉さんは、ずっと前から沖田さんとのことを認めてくれてますよ。」
すでに同意を得たとでもいうような顔で、彼女は歯切れよくそう断言した。
「そうかなぁ。そうだといいけれど…」
常照寺で出会ったときの藍屋さんは、とてもそんなふうには見えなかった。彼に政治思想があるのかは分からないけれど、東国のならず者と呼ばれる私たちに好感を持っているとは思えない。それに、星さんを将来的に任せてもらえるとも思えなかった。
太夫というのを抜きにしても、藍屋さんにとっての彼女は特別な存在なんじゃないだろうか。
それが、恋心でないことを願うばかりなのだが。
「沖田さん。こんなこと言うとむちゃくちゃに感じるかもしれないんですけど、勝手にいなくなったりしないでくださいね?」
見上げる瞳が懸命に私をとらえていた。「私を置いてどこかに行ったりしないで」とまっすぐ訴えるような真剣さで。
「もちろんです。何も告げずに、あなたを置き去りになんてしない。約束します。」
自分の声と共鳴するかのように、胸の奥がズンとした重さを伴って疼き出す。彼女の切実な言葉は、千駄ヶ谷にいたときの私に重なっていた。
洗濯をしに井戸汲みに行くときも、夕飯の材料を買い出しに行くときも、「どこへ行くんですか?」としきりに尋ね、部屋を出て行く背中を見送りながら、「どうかいなくならないでほしい」と願ってしまう自分を思い出したのだ。
(ひとり時代に取り残された私には、彼女の存在だけが頼りだった)
(彼女だけが心の支えだったんだ)
彼女がいなくなった後は、想像を絶するほどの孤独が待ち受けていた。自分の体じゃないみたいに宙にふわふわ浮いていて、生きているのかさえも疑わしい日々が続く。気の遠くなるような時間が、手を拡げながら延々と横たわっているような毎日。
生きている意味がわからなかった。
(彼女に同じ思いをさせたくはない)
果たして、彼女はそれほど柔な人間だろうか。
もともと芯の強い女性だから、私を喪っても時間が経てば立ち直るかもしれない。たとえそうだとしても、きれいさっぱり忘れられるものだろうか。
心に負った深い傷は、時間に関係なくいつまでも残るはずだ。
(傷を残すだけの男にはなりたくない)
ともに幸福を分かち合い、喜びで満たしてあげたい。それが、今の私の目標でもあり、願いでもあった。
「あなたを悲しませるようなことはしないと約束します。」
私がそう断言すると、彼女はまぶたを閉じて躰のこわばりを解いていく。
「よかった…。」
怖い夢を見た後に、それは夢なんだよと教えられたような穏やかさで、彼女はうっすらと微笑みを浮かべていた。
(このまま体がくっついてしまえばいいのに…)
彼女を抱いている自分の体温が心地いい。このまま体温が溶け合ってひとつになれたらいいのにと思う。
(そうすれば、ずっと一緒にいられるじゃないか)
(でも、そうなってしまうと彼女を抱きしめることができなくなる)
(そいつは困るな…)
そうしてしばらく寄り添っていると、かすかな気配とともに障子の奥で濃い影が落ちた。
「帰りのお支度は整いましたでしょうか? 副長が表でお待ちです。」
(もう時間切れか…)
どっしりと落ち着いた声が、廊下に留まったまま這うように響いてくる。慌てたように身だしなみを整える彼女を見ていて、私はふと違和感を持ち始めていた。何か大事なことを忘れているように思う。
(そういや、なんで星さんが訪ねてきたんだっけ?)
わざわざ足を運んでくれた彼女に対して、そもそもの用件を聞いていないことに気づく。
「そういえば、用件を聞いていませんでしたね。」
今さらとってつけたように尋ねると、彼女は目を丸くしながらきょとんとしてしまった。「何のことだろう?」という不思議な顔をしている。本人もすっかり忘れていたらしい。
「あっ…そうでした! 翔太くんから手紙が届いたんです。いろいろ動き回っているみたいで、しばらくは会いに来られないって書いてありました。」
(残念だ)
「そうですか。結城くんが落ち着くまでは、例のやつを探してみることにします。」
近くに第三者がいることもあってか、何だかそっけない返事となってしまった。カメラと言えば怪しまれるかもしれないと思い、意図してキーワールドを伏せることにしたからだ。それでも彼女は自然に相槌を打ち、暗に含んだ意味まで理解してくれたみたいだ。
「沖田さんまで巻き込んでしまってすみません。なるべく私の方でも、お客さんに尋ねたりしてみますね。島原は、地方からのお客さんも多いから。」
自信ありげに笑う彼女は、たおやかな手つきで障子を開け、隊士の待つ廊下へと出た。
隊士へ一礼した後にもう一度振り返ると、手のひらをこちらに翳しながら、「バイバイ」という仕草をする。
つられて私も手を振ろうとしたら、奥にいる隊士がじっとこちらを窺っていたので、なんとなく中途半端なポーズで送り出すはめになってしまった。
「ええ。それじゃあ気をつけて。送っていけなくてすみません。」
気にしなくていいですよ、と微笑みながら、星さんは隊士の誘導で部屋を出て行った。
説明 | ||
艶沖長編。ここへきてようやく主人公に打ち明ける感じです。 | ||
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艶が〜る,沖田総司,幕末,長編 | ||
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