Aufrecht Vol.10 「水鏡」
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時計がないから正確な時刻はわからない。

日付が変わってから、たぶん一刻ほど経った頃だ。寝言やいびきが飛び交う中、ミシミシと廊下を踏みしめる音が聞こえる。その足音に殺気はない。

 

(目が醒めてしまった…)

 

起床するのにはまだ早かった。

この暑さだから、寝る前に水分を欲する者もいることだろう。そうじゃなくとも、年がら年中寝酒の習慣が染みついている隊士たちだ。

どうせ厠にでも行くんだろうと決め込み、私はふたたび眠ることにした。

それにしても、今夜は一段と蒸し暑い気がする。皮膚に浮き上がる汗はしとどなく全身を濡らし、浴衣をはだけても枕を右にしても寝苦しいことこの上ない。

 

ふいに足音が止んだ。

ぼんやりと浮かぶ人影が、部屋の前で立ち止まっている。頭の血がさぁっと引いていくのがわかった。

 

「どなたです?」

 

問う傍らで、腹這いの態勢をとった。ゆっくりと体を浮き上がらせつつ、しなやかな猫のように四つ這いの姿勢を保つ。気取られぬよう慎重に手を伸ばし、刀架の愛刀を引き寄せた。清光を取り上げるときにカタンという物音がしたけれど、人影は棒立ちのまま構えるようなそぶりもない。

 

(殺気は感じないけど誰だろう?)

 

いつでも抜き放てるように、親指を鍔元に添え中腰の姿勢を保つ。手の内に握られた久々の感覚に、寸鉄を打たれたような衝撃が走った。しっくり馴染む柄巻きの手触りは、愉悦と拒絶の狭間で激しく揺れる。

 

「…俺だよ。」

 

淀みある声でボソリと言って、明かりのない部屋の中を土方さんが覗いていた。目だけは炯々としていて、仄暗い光を帯びている。その眼球が私の手元をとらえ、清光がしかと握られているのを見るにつけ、ふっと皮肉めいた笑いが洩れた。「最後に頼るのはやっぱりそれだろう?」そんな貌をしている。

悔しいけれど、いざというときに体が覚えているのは、ともに死線を越えてきた愛刀の存在だ。防衛本能とともに刷り込まれているのだろう。

自分の行動を否定するかのように、後手に伏せて私はそれを隠してしまった。土方さんに気取られたことが、何よりも後ろめたいのだ。

 

(もしかして、こうなることを見越して…?)

 

これは単なる邪推にすぎないけれど、ひょっとすると、彼はこの状況を仕組んだのではないかとさえ思う。だとすれば、これはほんの手始めにすぎないということだろうか。

 

「こんな刻限にどうしたっていうんです? まさか寝酒に付き合えってんじゃないでしょうね?」

 

土方さんの眠りが浅いことも、二刻ほどしか眠れないことも私はよく知っていた。

しかし、眠れないからといって、夜明かしの共に付き合わせるような人でないこともよく知っている。こうして部屋を訪れてくることは、はっきりとした別の目的があるのだ。

 

「ちょっと付き合えよ。」

 

「嫌ですよ。眠い。」

 

「俺は眠かァない。目が冴えちまって仕方がねぇんだ。」

 

「それは…」

 

私のせいですか?――と聞こうとして、聞くまでもないと思い、すぐに思い留まった。土方さんは今宵、何かを断行しようとしている。それが何かはわからない。しかし、わからないからといって、いつもみたいに訊くのが恐ろしかった。

 

「しょうがないなぁ。付き合ってあげます。」

 

震える心とは裏腹に、気のいい返事と見せかけて一も二もなく両刀を掴んだ。自分の身に何かがある。はっきりとそう悟ってしまったのだが、土方さんを前にして脱走するわけにもいかない。そんなことをすれば、確実に殺されるからだ。かつて隊に紛れ込んでいた長州の間者たちは、巻藁を断つがごとく身体中をめった刺しにされて絶命している。

 

(私には後ろめたいことなんてあるもんか)

 

腰に差した大小を認め、土方さんは満足そうに微笑んでいた。私が帯刀することで彼の悦点を満たしたのかと思うと、計算づくで操られていく自分を浅はかだと思わずにはいられない。逆に、その計算の裏をかいて丸腰のまま夜歩きともなれば、何かあったときに文句がつけられないというのもまた事実なのだ。

 

(どっちに転んでも、私が損をするようになってるのか)

 

土方さんは何も言わずに廊下へ出て、私がついてくるのかどうかも確認せずに暗がりの中へと消えていく。その背についていくかを今一度逡巡し、悩んでいても埒があかないからと腹をくくることにした。

 

一足先の気配をたどっていくと、式台のところに大きな影がひとつ落ちていた。周到に用意された両脇の燭台は、薄暮れに似た茜色を灯し、人の形をぼうっと浮き上がらせている。横続きの小座敷は経木が開け放たれ、燭台から洩れた明かりを拾い、室内の様子が見渡せる状態だった。今夜の当直が仮眠をとっているらしく、刀を抱き込んで舟をこく様子が見える。

そこから視線を戻し、濃い闇の向こうに目をとめると、松の木の根もとに土方さんは佇んでいた。顔がこちらを向いていないからわからないけれど、背中が早く来いと急かしているように感じられる。

 

(外に出るのか)

 

夜の警護を除けば、深夜の外出というのは初めてだった。

日の明るいうちにぶらっと外を歩くときは、決まって高下駄を履くようにしている。カランコロンという小気味良い音が鳴るたびに、京の路地を歩きながらも、慣れ親しんだ江戸の街並みが共歩きしてくれているような気がして心が落ち着くのだった。

しかし、今回ばかりはそうもいかないだろう。何しろ、土方さんは何かの思惑があって私を外へ連れ出すのだから。

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(夜の散歩だったら、喜んでついていくのにな)

 

下駄でも雪駄でもなく瞬発力に富んだ草鞋を選び、その縒紐を入念に結んでいく。手を動かしながら、闇討ちを決行したあの夜のことが脳裡をよぎっていた。

こんなときに自分を不安にさせるようなことを想像して、一体何と結びつけようとしているのかと思わず苦笑が洩れた。何もわからないうちから、悪いことを先読みしすぎている。

 

遅れて表門までやってくると、見張りの隊士が篝火の下で何やらつつき合って笑っているのが見えた。禁門の変で過激派浪士を一掃したため、気持ちにゆるみが生じているのかもしれない。

 

(場所に似合わず和やかだなぁ)

 

たまたま目撃してしまったというだけで、彼らの勤務態度を注意しようなどという気は微塵もなかった。私ひとりが通りがかったというだけなら、見て見ぬふりをしたって構わない。しかし、副長としてはそういうわけにもいかないのだ。

 

「気が緩んでやがるな。」

 

誰にともなくそう言うと、門の中央には仁王像のごとく濃い影が落ちた。土方さんは、存在を誇示するかのように立ちはだかっている。彼らは一瞬なにが起きたのかわからずに呆然としていたけれど、やがて、目の前に副長が現れたことを知り、表情が凍りついたように白く蒼くなっていった。

 

「俺たちは少し出かける。」

 

「はっ! ご苦労様です。誰か共の者を…」

 

「いらん。余計な気を回すな。お前らは見張りだけしていればいい。」

 

尊大に言い放ち、土方さんは間を抜けていった。そのうしろを私がついていく。気になって背後を振り返ってみると、ガチガチに固まった隊士が焦りを思い出したみたいに見送りの言葉を叫んでいる。

 

「はっ! 承知いたしました! 行ってらっしゃいませ!」

 

素人が鳴らす尺八のような声だった。

 

何気なく空を見上げれば、鱗のような雲が、月を囲むようにしてひしめき合っているのが見えた。月明かりは思ったより弱い。闇に削りとられたかのように鋭い弧を描いている。あと何日かで新月だ。

 

わずかな月の光が物の輪郭を浮き上がらせてはいるけれど、それらに色はなく、墨を塗り潰したように闇の合間に佇んでいる。唯一耳に飛び込んでくるのは夏虫の頼りない声で、時折カラスの羽ばたきが荒々しく梢を揺らしていた。

 

大刀一振り分ほど先を土方さんは歩いていた。その歩行に迷いはない。

四条通りを突き抜けて、脇目もふらずに進んでいく。灯の消えた祇園の街並みは、無人の闇を湛えながらひっそりと静まり返っている。どんなに雅やかな地区であっても、人が眠ってしまえばこんなにも侘しいのかと思ってしまう。

東大路通りに沿って下っていくと、左手に八坂へ入る道が現れるのだが、そこを道なりに進んでくと産寧坂につながっていく。このまま南を目指していけば、行き着く先は決まったようなものだ。目の前にあるゆるやかな傾斜をたどりながら、しきりに私は違和感を感じていた。

 

(なんだってこんなところに…?)

 

不平ひとつ洩らさずについてきたのはいいけれど、気づけばもうこんな距離を歩いていた。彼の向かっている先には、かの有名な音羽山が夜に抱き込まれて眠っている。

 

(一体どこまで連れ出されるんだろう?)

 

あるとき、誰かがこんな話を持ち出したのを思い出す。

「目的地を決めないで、心の赴くままに散歩するのもいいもんだ。」

誰か一人くらいは同意してくれるだろうと思い、ぽろっと口にしたのにすぎないが、土方さんは口さがなく「時間の浪費だ。」と言って真顔だった。

彼は思考と行動が常に伴っていて、過程から結果までに無駄がない。きっと、目的地にたどり着くまでは、この足が止まることはないだろう。

屯所を出てからの私たちに会話らしい会話は一切なく、話しかけるタイミングすら見つからないままひたすら歩いていく。

 

(気軽に声をかけられる雰囲気でもないし)

 

ひと気のない時間帯に、こんな場所まで足を伸ばしたことは一度もなかった。夜の見回りというのがあるけれども、私たちの管轄は範囲が限定されているし、必ずまとまって行動するために誰かが傍にいるという安心感があった。しかし、今夜は土方さんと私のふたりきりだ。目的のわからない夜歩きなんて、普通に考えたら物騒だと思うんだけれど。

 

(身内に知れちゃまずいってことか…)

 

昼間の続きがあるんだとすれば、道場か離れかを使えば済む話なのだ。それなのに、わざわざ外に連れ出すというのは、身内に聞かれたくない話をするという意味を持つ。

 

(もしくは…)

 

それ以上は恐ろしくて考えたくはなかった。今はただ無心に歩くことで、最悪の考えを追い払いたい。

 

(それにしても、湿気の多い夜だな…)

 

町家も花街も灯りはとうに消え、風もなく、じめじめとする湿気だけが汗ばむ肌にまとわりついてくる。心地よいとは言えない夜だった。

 

産寧坂にさしかかったとき、二間先を歩いていた土方さんが突然立ち止まり振り返った。幽鬼のような顔をしている。それも単に一瞥しただけで、何かを言いたかったわけではないようだ。

ふたたび背を向けた彼は、ついてこいと言わんばかりに坂を登り始めた。それに続く私も、夢遊病者のように意思とは関わりなく足が進んでいく。そういう不可抗力とは別に、なぜついてきてしまったんだろう、と今さら心細くなるのを感じていた。

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(もう限界だ)

 

不安は人を饒舌にさせたり、沈黙させたりもする。今まで口を閉ざしていた分だけ、私の言葉は性急に答えを望んでいた。

 

「土方さん。一体どこに行くんです?」

 

「……」

 

「夜の散歩なら、初めからそうと言ってくれればいいんです。」

 

「……」

 

「ねえったら!」

 

理由を必死に問い続けなければ、目の前の背中から逃げ出してしまいそうだった。わからないことが、こんなにも恐ろしい。

 

「ごちゃごちゃうるせえな。お前は黙ってついてくりゃいいんだよ。」

 

いつもの土方さんなら、こんなふうにはぐらかしたりしないはずだ。自分でも説明できないことなのかもしれないし、目的を伏せているだけなのかもしれない。粛清される隊士はそれとなく呼び出され、目的を告げられないまま斬り斃されることも珍しくはない。罪状によって、対応の度合いが異なるのだ。

間者の場合は、問答無用で斬り殺されてしまう。相手が柄に手をかけていようがいまいが関係ないのだ。士道不覚悟――要するに、敵前逃亡の場合は、どこか適当な場所に連れ出され、ただちに抜刀するよう命令される。自分より腕の立つ幹部と殺し合うか、自ら腹を屠るかを選択させられるのだ。

今の自分の状況から考えれば、後者の段取りによく似ていることがわかる。

もし、何らかの事情で私が始末されるならば、手をかけるのは土方さんを置いて他にはいないだろう。

 

(私が何をしたっていうんだ?)

(ただ、休職を申し出ただけなのに…)

(それすら許されないことなんだろうか?)

 

掟の烈しさに、心が圧し潰されるような感覚になる。法度は私たちの結束を強めただろうか。

 

(いや、むしろ隊は分離しかかっている)

 

なにも山南さんに限ったことではなく、そう思うのには別の理由があった。

今度の東下をきっかけに、永倉さんは内輪揉めを起こすことになっている。会津のお殿様へ建白書を提出し、近藤さんを名指しで糾弾するのだ。殿様の裁量によって穏便に済ませることができたからよかったものの、もし何かの手違いで誤解が生じていたら隊の存続は危ぶまれていたに違いない。

 

この件がきっかけで、近藤さんは自粛するような姿勢を見せ始めるのだけれど、土方さんはまったく別の印象を持ったらしい。後日他人を介して聞いた話によると、永倉さんの処分を軽くするよう説得したという。土方さんの心中としては、つまりこういうことなんじゃないだろうか。最終的にもっとも頼りになるのは、試衛館の連中だけなのだと。

その試衛館メンバーが、何かの事情でひとりふたりと外れていくと、土方さんにとって信頼の置ける人間がいなくなってしまうということだ。

 

(私は任務から外してもらいたいだけで、新選組を辞めるつもりはない…)

(土方さんのそばから離れるわけじゃない)

 

だとしても、そのように勝手な言い分が、果たして土方さんに通用するだろうか。

 

――斬り合いはしたくないけど、新選組に入りたい

 

そういう人間が徴募にわんさか押し寄せたことがある。私たちが壬生を拠点にして、活動を始めようとする頃の話だ。食い詰め浪人やら商家の次男三男といった己の将来を憂う者たちばかりが続々と詰めかけ、切り紙すらまともに所持していないのに無理やり留まろうとしていた。是が非でも新選組に入りたいという彼らの肚の内を探るうちに、いかに楽してお金がほしいかという魂胆を垣間見るに至ったのだった。

 

(仕事もせずにタダ飯にありつきたいだなんて、真面目に取り組んでいる人を侮辱するようなものだ)

 

仲間が白刃をくぐり抜けるなかで、私だけが悠々自適に療養生活というのもいかがなものかとは思う。しかし、労咳は事実だ。仮病でもなければ、隊務を怠けたいわけでもない。療養はしたいけれど、病人を匿えるほど設備の整った場所ではないし、何より戦闘不能の人間への差別意識や風当たりが強いというのが現状だった。たとえ正当性を持っていたとしても、たやすく思考の分断に追いやるのが、新選組のもっとも罪深いところだと思っている。これは、当事者になって初めて知る葛藤だ。

 

(いっそのこと、屯所を出て休息所を設けようか…)

(お金なら少しは蓄えがあるし)

 

生ぬるいことを考えつつ歩を進めていき、ふと顔を上げた瞬間に明保野亭が見えた。

ここは、池田屋の後始末の際、会津藩士である柴司さんが踏み込んだ料亭だ。長州兵が潜伏しているとの情報を得ていたが、いざ御用改めをしてみると、なんとそこにいたのは土佐藩士だった。土佐藩といえば山内家であり、西国でも数少ない親幕派の外様大名だ。幕政に度々意見を述べていることからもわかるように、土佐藩を軽んじることは徳川勢を弱体化させることと同義だった。いざこざにでもなれば、お互いの関係が悪くなるのは目に見えていたため、柴さんは詰め腹を斬ることになってしまったのだ。

もし、相手方が素直に藩名を告げさえすれば、このような悲劇はまぬがれたろう。それをしなかったのは、藩主の意に逆らって討幕の意思が固められていた証拠なのだ。

 

この顛末に、ことのほか衝撃を受けたのは土方さんだった。「金輪際、土佐との関わりを一切禁ずる。」噛みつくように吐き捨て、敵味方の区別をはっきりさせるよう隊士たちに徹底させた。土方さんが情報の裏ごしを繰り返し、伝達を緊密化するのにはこうした悲劇が元になっている。

柴さんの葬儀にかけつけた際、彼は押し殺した声で無念だと言い、歯を食いしばって悲痛をあらわにしていた。特に親しくしていたわけではないから、その泪がとても心に残っている。

葬儀の後は過去の出来事として流れ去ってしまったけれど、土方さんは何かの折に触れて柴さんのもとを訪れているらしい。亡き人の墓前には、瑞々しい季節の花が供えられているとか。

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(この道順には絶対に意味がある)

 

清水への道順は何通りかあるけれど、八坂の塔から産寧坂への道順がこの時代の主たる参道と言われている。このルートを使ってこその清水なんだろうけど、土方さんにとっては別段の意味があるのだった。

彼は暗に訴えようとしているのかもしれない。平穏を乱す者を許してはならないのだと。

 

清河八郎のあざとさに騙され京にたどり着き、浪士組として再出発を図るとき、彼はすでに集団を動かしていく術を身につけていた。はじめは武士としての身分を手に入れるために汗や血を流し、時には泥水すら啜ってみせたけど、芹沢さんを討つことを果断した頃には武士たる美徳を知りながらも姑息な手段でのし上がることを野心の糧とするようになった。そうして池田屋まで漕ぎ着け、天子より労の言葉と報奨金を賜り、ここからさらに上へとのし上がって行こうというとき、明保野亭の事件が起こったのだ。この件が土方さんに与えた影響は大きい。彼はいっそう頑迷になってしまったように思う。

 

(目に見えないだけで、一番傷を負っているのは土方さんなんだ…きっと…)

 

近藤さんは心の機微がいまいちわからない人で、土方さんのサポートが当たり前になっているし、完全無欠なのは生まれ持った素質なのだと勘違いしている節があった。いくら器用に振舞おうが、土方さんだって人の子だ。たまには弱音を吐きたくもなるだろうし、他人に縋りたくもなるだろう。

 

(ならば、少しでも私が支えてあげなければいけないな)

 

土方さんを目で追っているうちに、そんな心構えが自然と根づいていた。たまに、「江戸の頃はどういった関係だったのですか?」と訊かれるけれど、周りが思うほど思い出があるわけじゃない。でも、土方さんは私にとって間違いなく特別な人だった。うまく言えないんだけど、仮に仲間たちから見放されることがあったとしても、私だけが土方さんを孤高の乱から救うことができるのだと信じている。

 

(戦うことで土方さんの役に立てるのは事実だ)

(ならば、戦うのを辞めてしまうと、土方さんのサポートを放棄することになるのだろうか?)

 

そんなしがらみに足をとられ、苦渋の決断を迫られたときに、ひねり出した答えは自分の思い上がりでしかないということだった。なぜなら、土方さんについていきたい人間は、自分が考えているよりずっと多い気がするからだ。山崎さんや尾形さん、それに斎藤さんも。表立って忠義の心を示さない人にかぎって、土方さんを支持するものが多いのだ。私ごときがいなくなったとしても、土方さんはその程度で潰れるようなやわじゃない。

 

(責任転嫁になるかもしれないけれど、それでも、私は土方さんだけに必要とされているわけじゃない)

(星さんにも必要とされてるんだ)

(私もまた、彼女を必要としている…)

 

他人に乞われることで生じる葛藤が、こんなにも複雑な感情を生むものとは思いもしなかった。自分に関わりのあるすべての人に幸せであってほしいだなんて、そんなことが本気で実現するとでも思っているのだろうか。私はただ、自分勝手に描いた理想に酔っているだけなのだ。終わりのない現実の激しさから目を背けたくて。そうして、同じ時間を二度繰り返すことの意味を、夢の世界に重ね合わせていただけなんじゃないだろうか。

 

(私ひとりでは、やれることが限られてしまう)

 

すべてをうまく転がしていこうとしても、どこかで必ずほころびが生じていく。歴史を知っているからといって、有頂天になったのがそもそもの落とし穴だった。必ずしも、一巡目と同様の反応を示すとはかぎらないのだ。

 

(土方さんに、どんな顔していいのか分からなくなってしまった…)

 

沈痛な面持ちでトボトボと歩いていると、やがて松原へと交差する道に挟まれていた。

石段の上には粛々と佇む仁王門が見える。土方さんは、吸い込まれるようにして闇の中へと消えていった。

ここをくぐれば後戻りはできない。決死の覚悟がなければ通れないのだ。本能が熱り立つように警鐘を鳴らし、胸打つ鼓動が激しくなっていく。

足がすくんで動けないでいると、頭上より高みから「上がってこい」という声が聞こえた。

 

(ここまでついてきて、今さら逃げるのも具合が悪いしな…)

 

私は覚悟を決め、石段を一歩ずつ踏みしめていった。西門をくぐり、回廊へとつながる道へと抜けていく。自分の体感速度よりも、それらの道のりは遠く長く感じられた。

 

連々とした欅の柱を過ぎていくと、庇の届かない見晴らしの良い場所へとたどり着く。昼間であれば、さぞ眺めが良いだろうに、墨汁を零したように果てのない風景が拡がっていた。

檜の板を400枚以上も連ねたという大舞台の中央に、土方さんは遠くを見つめながら佇んでいた。その視線は、京と空の境をさまよっている。私の目から見ても、その境界は曖昧だ。

 

「そろそろ種明かしをしてくれてもいいんじゃないですか?」

 

近づいていってそう尋ねるけれど、土方さんは視線を彼方に投じたまま動かない。私の質問には耳を貸さず、ただ心に浮かんだことを呟くように、まるで生気の感じられない単調さで詠い出す。

 

「差し向かう 心は清き 水鏡…」

 

それは、後年になって私に宛てたものだと推察されている有名な俳句だった。でも、私はそうは思わない。詠う土方さんの表情が、誰かを偲ぶように哀しげだったから。

 

(もしかすると、柴さんのことを言いたいのかも…)

 

別に私なんかを詠んでくれなくてもいい。わざわざ俳句に遺してくれなくても、私と彼とが歩み寄れば、本音を伝え合うことのできる時間がまだ残されているからだ。

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「…いい句ですね。」

 

発句の瞬間に立ち会えた喜びを、素直な心で受け止めたつもりだったけど、彼はいっそう哀しげな貌で私を見つめるばかりだった。その心中を推し量ることは難しい。曖昧な笑みを浮かべて反応を窺っていると、土方さんはなんの前触れもなく後退し、闇の隙間に兼定を仕込んでいた。

 

「――――ッ?」

 

暗がりに光るものを認めたとき、私の動作は続かなかった。体が鈍くて動かないのだ。左肩に刀尖が走り、一閃を浴びたかと錯覚しながら大きく身をよじった。慌てて飛び下がったまではいいけれど、着地に失敗してたたらを踏んでしまう。

 

「冗談でしょう?」

 

驚愕の中に責めの気持ちを叩き込み、私の反論は勢いづいて谷底を駆けていった。ふと心配になって体中を確認してみるが、斬られたのは浴衣の袖くらいで、体の方はなんとか無傷で済んだみたいだ。

 

(死ぬかと思った…)

 

袖の切り口と土方さんの顔とを交互に見て、責めようにもなんと言えばいいのか弱り果てて溜息を洩らす。そんな私が無様すぎて面白かったのか、土方さんはさっきとは別人みたいに不敵な笑みを浮かべていた。その豹変ぶりが怖い。ギラギラした双眸に、獣のような酷薄さを感じる。

 

「久々に野試合と行こうじゃねえか。」

 

「こんな夜更けに? しかも他所様の土地ですよ? ここは。」

 

「俺とお前の舞台にしちゃ、ちと洒落てるか。まあ、来ちまったもんは仕方あるめぇ。やろうぜ。」

 

土方さんは棟をひとなでしてから、果たし状を叩きつけるがごとく好戦的な眼差しを向けてくる。その視線に捕らえられた私は、縫いとめられた翅虫のように情けなくも恐ろしさで硬直していた。

 

(むちゃくちゃだ!)

 

そもそもこんな時間に間借りするのは非常識だと思うし、もっと常識的に考えるなら本堂は閉鎖しているのが普通だろう。剣戟をするのにも不適切極まりない。おまけに、土方さんがこの舞台を選んだ理由がわからないし、わざわざ手の込んだことをする意図もわからなかった。野試合というロケーションでもないし、洒落にしては悪趣味なのだ。

ついでに、この場所を利用することに関して言えば、銭を握らせてどうにかしたのかもしれないし、こっそり忍び込んだ手の者がどこかでひたと窺っているのかもしれないとも思った。

 

「私を…斬るんですか?」

 

気軽な誘い方で土方さんは笑っているけれど、彼が本気で挑もうとしているのは柄の握り方に表れていた。片手でいったん中段に据えたのを、手首の返しで足元へと振り落とすのは、本気で喧嘩を仕掛けるときの威嚇なのだ。

 

「構えろ。」

 

「嫌だ?」

 

「お前は何かをはぐらかしている。白状しねえって言うんなら、こいつに問うまでだ。」

 

威圧的に言い放つと、土方さんは重心を低くして臨戦態勢をとった。じりじりと前足を詰めながら、私を誘い出そうとしているのがわかる。

 

「清光は、私の考えを代弁したりはしません。抜かないのは、私が労咳だからです。」

 

「御託はよせ。なんだかんだ理由をつけて、人を騙そうとする奴が、俺は一番気にくわねえんだ。」

 

「誓って言います。嘘じゃありません。労咳だから、真剣が重いんです。揮えないんです。」

 

「労咳のせいにするんじゃねえ!!」

 

怒号は渓谷をも震えがらせて、暗闇の中から鳥たちが羽音をばたつかせて逃げていった。

 

「お前は、労咳なんぞになったからと言って、簡単に刀を手放すような奴じゃない。それは、俺もよく知ってる。近藤さんもな。」

 

(やっぱり、土方さんだけは侮れないや…)

 

彼はとっくに気づいていたのだ。労咳になったからといって、簡単に諦めたりしないのが本来の沖田総司というもの。子どもの頃からの負けん気の強さを土方さんが知らないはずもない。労咳という病を盾にとり、計算づくで何かを達成しようと目論むのは、もはやあの頃の私とはかけ離れていた。

 

(見抜いていたというのなら、なぜあのとき押さえつけるようなことをしたんです?)

(私の魂を殺すようなことを…)

 

私の病態を誰よりも気遣ってくれたのは、他ならぬ土方さんだった。口うるさく世話を焼いてくれたからこそ、私はあそこまで生きていられたんだと思う。

でも、生命が長引くにつれ、心まで病み衰えていったのを彼は知らないだろう。

本当は戦いたかったのだ。戦ってこその沖田総司だから。日々衰弱していく自分を受け止めることなんて、悔しくてみっともなくてできなかったのだ。

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――命が擦りきれるまで戦わせてください

 

土方さんなら、私の気持ちを理解してくれると信じてたのに。

 

――早まるなよ。総司のための戦場は、ちゃんと考えて用意してやるさ。

 

そんなふうに言って、土方さんは微笑んでいた。叶わぬことと知りながらも、そうしなければ私が納得しないからと、本当の兄になったつもりで嘘をついたのだ。これほど優しい目をした土方さんを私は知らなかったから、最後の望みを握り潰してまで騙されてあげたというのに。

 

(どうしてあの頃とは正反対のことを言うんです?)

(どんなに惨めな姿になっても、最期まで必要としてほしかったのに…)

 

語ることのなかったあの頃の願いが、悲しみの渦となって心を埋め尽くしていく。今度こそ間違いを正そうとして、なぜ待ち構えていたように立ち塞がるのだろう。どうして障害がなくならないんだろう。どうしたら何もかもうまく行くんだろう。

 

「なあ、教えてくれよ。お前にとって剣術ってえのは、その程度のもんだったのか? 女と引き換えに捨てちまえるほど、軽いもんだったのか? 新選組は? 誠は? 俺たちは? どうなんだよ。言ってみろ。」

 

隠し事をあぶり出すような口調で、土方さんはジリジリと間合いをつめてくる。次々と責めを浴びせる口調は、悲しみと怒りの両方をはらんでいた。それを知ってしまった私の方が、数倍も悲しくて胸が軋む。

 

「星さんは関係ありませんよ。単に私が臆病風に吹かれただけのこと。死病の前では、この私もただの意気地なしです。」

 

土方さんなりにいろいろと考えて、そして結論づけたことが「女の影」というのはあまりにも凡庸だった。でも、半分くらいは当たっている。外れた方の半分は、この時代の人間にとって途方もない話だから洞察のしようがない。

 

「そんな簡単に割り切るなよ。何を隠してやがる。なぜ言えない。俺では不足だからか? なら、山南ならどうだ? 奴になら話せるだろう?」

 

畳みかける言葉の裏側に、怒りとは違う何かが潜んでいるような気がした。

 

(土方さんが必死になるのって…)

 

もし言葉通りの意味を持つのだとしたら、こちらが考えているよりも根源的にはずっとシンプルであるのかもしれない。

 

「土方さんは誤解している。たとえ山南さんだろうと、答えは変わりありませんよ。」

 

山南さんはもとより私に対しても、土方さんは何らかの負い目を感じているらしい。おそらくは、責任感から生まれた過失なんだと思うけど、当人のみぞ知る激しい呵責ゆえに、私たちがその感情を窺い知ることはできない。たぶん、この話を複雑にしているのは、土方さんの側にあるんじゃないだろうか。

 

「答えになってない! お前は明らかに自分を騙していやがる。まだ、女のためだとのたまってくれた方がいくらかマシだった。お前から剣も女も取り上げたら、何も残らねぇだろうが。違うか?」

 

「いくらなんでもそれはひどい。まるで、私が木偶みたいじゃないですか。」

 

「木偶だと言われたくなければ、そいつを抜いてみろ。」

 

刀尖はついに喉もとを捕らえていた。

ごくりと喉を鳴らすと、喉仏がかすってしまいそうな距離。

またか…と思った。

どんどん焼けの苦悩が、再びよみがえるかのように目の前の光景と重なっていく。

もっとも剣を愛した者には、愛の裏返しとしての憎しみが降りかかる仕組みになっているのかもしれない。

 

(自業自得か…)

 

それが、よりにもよって敬愛する土方さんを通してだというのだから、今の私は瀬戸際に立たされているといっていい。

 

「どうしても抜けとおっしゃるんですね?」

 

「話し合いの余地はない。」

 

相変わらずこうと決めた後の土方さんは、信じられないほど残酷で情け容赦のない顔をしている。本当は胸の内にたくさんの感情が渦巻いているはずなのに、いともたやすく封殺して見えなくしてしまうから、土方さんは絶対に損な人だと思う。

 

「私か…土方さんのどちらかが死ぬのに?」

 

この状況にして、この言葉。

まるで、現実感が伴わない。

死を決定づける言葉を口にしても、私たちには緊張感というものが今ひとつ足りなかった。それは、とても危険な兆候だ。

何より、これから始まろうとしている喧嘩を周りは承知しているのかという疑問がある。法度の発案者が「私的闘争」を仕掛けるのだから、この条項によって処罰された隊士は一体なんだったのかということになるだろう。誰の目にも明らかな違反行為である。

 

「ああ。そんなわかりきったこと言わせるなよ。そういう覚悟で来てるんだからな。」

 

彼は自ら法を曲げるつもりなのかもしれないが、別の言い方をすれば、彼がやろうとしていることは隊の骨格を破壊する行為を意味していた。どれほど過酷な試練を突きつけられたとしても、土方さんは正義の象徴と忠義の証としてこれを破棄することはなかったというのに。

 

(私と引き換えに差し出すというんですね?)

 

土方さんにとって、法度と私は同じだけの重さがあると言いたいのだろう。どちらか片方を失えば、彼は失墜し悪鬼となる。

刀が私に復讐するように、土方さんもまた自らが発案した法度によって喰われるのかもしれないと思った。

 

(だからと言って、共倒れなんて御免です)

 

心の中で、何かが振り切れるような音がした。今までと変わらぬ態度で従順なふりをしてしまったら、きっとこの夜のことを後悔するだろう。願いに応えてあげるのは難しいけれど、彼を救うのは今しかないのだと思った。ならば、結末がどうなろうと、心が映す真実を訴えなければならない。

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「なぜです? なぜ私の願いを聞いてくれないんですか! あのときもそうだった! 私は最期まで戦うつもりでした。命が擦りきれるそのときまで、近藤さんや土方さんとともにありたかった! それなのに、あなたは私を置き去りにしたでしょう? 畳の上で独り寂しく死ぬのなんて嫌だったのに…」

 

いつか自戒したことがある。

言葉を閉じ込めたままでいると、それはいずれ後悔となって死後も己を呪い続けるだろう、と。

 

「何を言っている。休養したいと言ったのはお前の方だろう?」

 

「そうですよ。でも、それは今回の話。以前の私はそうは思ってなかった。」

 

死が目の前に迫っていても、持てる力のすべてを振り絞って戦いたかった。戦地を奪われ、自分の居場所さえ失った私に、一体何が残ったというのだろう。

 

「お前の言ってることはめちゃくちゃだ。何が言いてぇのか俺にはよく分からん。」

 

やむにやまれず鋒を下げ、土方さんは困惑気味に眉宇を寄せる。ひとまず戦意を削ぐことに成功し、私はちょっとだけ安堵していた。笑うだけの余裕もある。

 

「ははっ…そうですよね。なら、教えてあげます。私はね、一度死んだんですよ。土方さん。」

 

ちょっとだけ嫌味っぽく言いながら、その実とんでもないことをしでかしたと思った。そういう自覚がありながらも、思考とは裏腹に心が訴えたくてたまらない。頭の片隅で「それだけは言うな」と禁則の文字が浮かんだけれど、最後の切り札になるのはこれくらいしかなかった。もしも、歴史を変えるきっかけを生むとしたら、それは今しかないんじゃないかと思うのだ。他人を巻き込むことは、結果として責任逃れになるのかもしれない。でも、人ひとりがどうやって歴史に抗えばいいのか。

 

(死んでやるもんか!)

 

絶対に切り抜けてみせる。心の中で堅固に誓い、土方さんの目を強く見据えた。

 

(土方さんだって、仲間だって死なせたりしない)

(そのためだったら、なりふりなんぞに構ってられるもんか)

 

当事者以外に洩らすことで、時間の流れにどんな影響があるのかもわからなかった。普通に考えれば禁じ手だ。でも、運命が変わるんだったら、使わない手はないと思う。安直かもしれないけれど、これ以上多くの仲間が傷ついて死んでいくのは見ていられなかったのだ。

 

「…死んだってえのは、一体どういう意味だ。」

 

硬くなった声音とともに、土方さんの眸は動揺で揺らぎ始める。私の告白は、戦う気力をも奪ってしまったのだ。真剣で向かってこいと言った彼の科白は、これで説得力がなくなってしまったように思う。脅せば何かがでてくるだろうと、そんな腹積りだったのかと今頃になってわかったのだ。

 

「言葉の通りですよ。労咳だと認めたくなくて、必死に足掻いてみせたけど、結局は戦場に立つこともできなくなり畳の上で死んだんです。辛かったな…これほど惨めなことがあるもんかって、ね。」

 

あの頃の自分がシンクロするみたいに、悔しさが胸を圧迫し、苦しげな呻きとともに熱い吐息が洩れた。目頭に熱いものがこみ上げ、頭痛をこらえるみたいに指でそれを堰きとめる。憮然と立ち尽くしていた土方さんは、何かを思い出したように口を開き、一体どんな科白が飛び出すのかと思いきや冷たく私をあしらったのだ。

 

「お前…何かがおかしいとは思っていたが、とうとう虚言まで吐くようになりやがったか。俺は戯言を聞きてぇわけじゃない。分かったら、とっととそいつを抜きやがれ。」

 

(やっぱり信じてもらえないか…)

 

土方さんになら通用するかもしれない。そんなふうに期待してしまった自分が甘かった。鼻で笑うくらいはしてほしかったけど、信じられないような話だから、一度に信じてもらおうとしたのがそもそもの誤りなのだ。

 

(こうなったら、とことん足掻いてみせるしかない)

 

追い詰められてはいたけれど、不思議と心は落ち着いていた。人間は危機的状況に陥ったとき、眠っている底力を発揮したり、普段は思いつかないようなひらめきが降りてくるという。

 

「やれやれ。わかりましたよ。もしかしたら、これが見納めになるかもしれませんが…」

 

促されるまま柄に手をかけ、何年ぶりかに清光との再会を果たすことになった。それはとことん皮肉なもので、柄巻きの感触と蝋鞘の質感に、眠っていた剣士の本能が煽られていく。神経の隅々まで理性で固め、あくまで態を装うことだけを思い、スラリと愛刀を抜き放った。

月光に翳した刀身が、六芒の光を背にこちらをジロリと睨んでいる。それだけで身も心も震えてしまいそうだった。手に余る慄きではない。感慨による震えだった。

 

(わがままに付き合ってくれてありがとう)

 

心の中でそんなことをつぶやき、自然な動作で平青眼に構えると、呼応するかのように研ぎ澄まされたエネルギーに満ちていく。

躰に染みついた動作とともに土方さんに向き合うと、上等だと言わんばかりに彼は口もとを歪めていた。

向こうもまた、平青眼の構え。刺し違えるつもりでいるのだとすれば、それは自殺行為といってよかった。土方さんは、そんなこと百も承知のはずなのに、自信ありげに笑っているからタチが悪い。なぜなら、真っ向から対峙して生き延びた人間はいないのだから。

 

「見せかけだけの脅しなら、もう十分ですよ。」

 

わざと面倒くさそうに言うと、多摩時代のバラガキを髣髴とさせるみたいに、土方さんは無頼漢を気取りつつ嘲笑を浮かべている。

 

「言うじゃねえか。おもしれぇ。」

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間合いの外で、互いの出方を窺った。飛び出せば、刃は一瞬のうちに得物を喰い合うだろう。その一瞬へと飛び込むには、相応の睨み合いが必要だ。

 

(今だ!!)

 

平青眼の構えから手首を内側に押し込み、最加速をつけて鋒を振り下ろす。動作に気づいた土方さんは、飛びついて阻止しようとするけど、私の方が一寸だけ早かった。

 

「なにっ?」

 

鋒は宙を裂きながら垂直に下降し、板のつなぎ目に芒子ごと食い込んでいた。ビーンという鈍い音が手もとで鳴ったかと思うと、指の骨にまでその余波が伝播していく。

 

「どうです? これで斬れなくなりました。」

 

片膝をついて誇らしげに見上げると、目の前に迫っていた土方さんは唇をわななかせて憤怒の形相をしている。

 

「ふざけるなよ…」

 

きっと、これで手も出せない。でも、そう落着するのにはまだ早かった。土方さんは、しっかりと柄を握りしめている。

 

「どっちがです!」

 

怒号の前に生ぬるい風が立った。刃が月輪にかかってキラリと光る。避けようと思えば避けられたかもしれない。でも、それは脇差を抜いていればの話だけど。

 

(冗談ですよね?)

 

兼定は、私の首を狙っていた。横合いから斜めに入れるつもりなのかもしれないけど、太刀筋に癖のある土方さんではうまく首を落とせないだろう。勢いまかせに薙ぎ払おうとすれば、頚椎が粉砕されて斬り口がみっともなく汚れてしまうのだ。首は加速をつけて飛んでいき、顔中が血と泥にまみれ、楓に覆われた渓谷へと転げ落ちていくだろう。

 

(そんな無様な死に方は嫌だ!)

 

脳は勝手にシュミレーションを始め、無残な死に様を鮮烈な赤とともに描き出していく。転がっていく自分の首が延々と月を凝視しているのは、胸が悪くなるばかりか見るに耐えないものがある。

 

(できっこない…どうせできっこないんだから)

 

目を伏せると、いつしか過去の情景へと舞い戻っていた。懐かしい江戸の風景に記憶を重ね、少年時代へと遡っていく。

私は、試衛館の内弟子に戻っていた。

説明
清水周辺の地理がまったくわからないので、もし間違っていたらすみません。
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艶が〜る,沖田総司,土方歳三,新撰組,幕末,長編

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