ネアトリア王国記一〇話「古城の主」 |
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ヴェスティン=フスにいるとクラウディオの心は安らぐと同時に高ぶる。フェーエンベルガー家が元々、かつてのラリヴァールハイム領内で興ったというのも理由の一つかもしれないが、クラウディオに影響を与えているのはヴェスティン=フスの空気そのものであった。
傭兵組合の一室にて四丁のホイールロック式銃を分解・清掃しながらも、耳と鼻はヴェスティン=フスに満ちている音とにおいに集中している。鉄と鉄のぶつかり合う音、様々な化合物が入り混じったような刺激臭にも似た独特のにおい。
それらは決して心地よいものではなかったが、クラウディオの中にある科学者としての一面を強く刺激する。ここにいると童心に帰ったような気がするのだ、いつの間にか作業も捗っており気付けば鼻歌まで歌っている始末だ。
清掃を終えた部品を組み込んでいき四丁の銃を元通りの形に直した。どのぐらいの時間が掛かったのかは分からないが、体感時間では今までで最速である。時計を見ながら作業をすれば良かったと今になって思ったが、もう遅い。
分解と清掃を終えた四丁の銃を壁に立てかけながら窓の外を覗き、空を仰ぎ見た。雲はかなりの速度で流れており、その合間から日が僅かに差し込んでいる。変な話ではあるが、工業都市であるヴェスティン=フスに晴れは似合わないとクラウディオは思っていた。この街に似合う天気は曇り、あるいは雨だろう。
腰に刷いている剣の位置を調整してから椅子に座り、雇った傭兵二人が来るのを待つ。正午ごろに来るように伝えてあるのだが、果たして今は何時ぐらいなのだろう。もしかしたら正午を過ぎているかもしれない。
クラウディオ自身が自覚していることなのだが、どうも銃の手入れも含めた機械いじりに熱中していると時間を忘れてしまいやすいところがある。正午の鐘の音を聞き逃したのかもしれない。
時間を確認するため、一度部屋のそとに出ようと思ったとき扉が叩かれた。慌てて椅子に座りなおし「どうぞ」と応えると二人の女性が入ってくる。二人とも身長は低く、一人は棍を手にしておりもう一人は何も持っていなかった。小型の刃物でも武器にしているのだろうか。
「とりあえず座ってください、挨拶はそれからでもよろしいでしょう」
二人とも無言でクラウディオの向かい側に座る。二人ともどこか緊張しているようだが、ネアトリアの正騎士を前にしているのだから当然のことかもしれない。二人とも座ると必然的に視線はクラウディオに向けられる、そこで棍を手にしていた方の少女が何かに気付いたようだ。
急に緊張し始めたのか、落ち着かなさそうにしきりに姿勢を変え始めた。
「どうかしましたか?」
もし、彼女の体調などが悪かったりしたら任務の遂行に支障を来たす。彼女がなぜそのような態度をとるのか、理由を明確にしておきたかった。
「い、いえ。その……直属のそれも御三家のお方とお仕事を一緒にさせていただくとは思いもしていませんでしたから」
緊張によるものか、彼女の声は僅かながらに震えている。
「あぁ、なるほど。そうでしたか」
苦笑しながらクラウディオは応えた。
そういえば依頼文には同行する人間は、博識ある人間としか書かれていなかったことを今更ながら思い出す。普通に考えれば各都市に配備されている騎士団の分隊長と同等以上の権限を持っている国王直属騎士が出てくるとは思いもよらないことだろう。
いるのは普通の騎士、とでも彼女は思っていたのかもしれない。ところがどっこい、蓋を開けてみればそこにいたのは直属の制服を着た騎士。しかも肩章には御三家の人間であることが示されている。緊張してしまってもおかしくはない。
「緊張なんてしなくて良いですよ、直属ですが騎士は騎士ですから。そんなことよりも自己紹介をお願いします」
相手の緊張を和らげるように微笑みながら言ってみたのだが、却ってそれが相手に気を使わせる結果となってしまったのか、棍を持った少女の震えが激しくなる。
「わ、私はや、ヤーデと申します!」
先ほどよりも声の震えがひどい。このまま緊張で倒れてしまわないだろうかと心配になってしまう。
「ヤーデさんですね、ではそちらの方は」
「リアと申します」
ヤーデと打って変わってリアと名乗る少女は非常に落ち着いている。ヤーデがあまりにも動揺しているのでより落ち着いて見えるのかもしれない。しかし、そうでなくとも彼女の瞳は揺らぎが無く、非常に澄んでいる。
こういう傭兵が仲間として協力してくれるのは非常にありがたい。もっとも、その揺ぎ無さの根拠にもよるのだが。傭兵の中には騎士団に対して憎悪を抱いている人間もいる、そういった人間が騎士団の依頼を受けて騎士を襲撃したという事例も過去には存在しているのだ。
リアがそんな稀有な人種であるとは思えないのだが、警戒しておくに越したことはない。そういえばリアという名の傭兵が騎士団にレッドラム侯爵を経由して報告書を提出したという話を聞いたことがあるのだが、そのリアとこのリアは同一人物なのだろうか。
それは自己紹介が終わったあとにでも聞けば良いだろう。
「では最後に私が自己紹介をさせていただきましょう。私の名はクラウディオ・フェーエンベルガー。服を見ていただければお分かりかと思いますが、ネアトリアハイム国王直属騎士の一人で、いわゆる御三家の人間でもあります。ですが緊張などなさる必要はありませんよ、というわけでヤーデさん。もうすこしくつろいでくださいな」
「は、はい」
そういうヤーデの声は上ずっている。こうなると人選が間違っているのではないのだろうかとクラウディオは思い始めた。旧ラリヴァールハイム領の歴史に詳しい人間はクラウディオの他に何人もいるのだ。
上の人間、といっても国王になるのだが彼は何を思ってクラウディオにこの任務に就かせることにしたのか今ひとつ理解ができない。国王とは幼い頃からの付き合いだが、立場の違いからか考えが理解できないことが今までにもたびたびあった。
「フェーエンベルガー卿、今回の仕事についての説明をさっそく聞きたいと思うのですが」
「それもそうですね、では早速説明に入りましょうか」
卿と呼ばれることに若干のむず痒さを感じながらも、持参していた鞄からヴェスティン=フス近辺の地図を取り出して机の上に広げた。その地図はかなり古びており、ところどころに虫食いの穴が開き色も大分と変色している。
「ずいぶんと古い地図ですね」
リアの言葉にクラウディオは頷いた。この地図は今のヴェスティン=フスの地図ではなく、まだここがラリヴァール=ハイムの首都ヴェスティン=プトゥスだった時の地図である。つまりは三〇〇年以上前の地図なのだ。
希少価値のある地図だけに持ち出すのには苦労したが、図書館の人間に自身が御三家の人間であることと、今回の仕事をこなすのに必要なことを説明すれば何とか持ち出す許可が得られた。とはいっても、この地図が本当に今回の任務に必要となるかはわからないというのが正直なところである。
思いつきで持ち出しはしたが、おそらく役に立たないだろうとクラウディオは考えていた。とはいえ、無いよりかは良いだろうし、ここから何かが思いつくこともあろう。それに三〇〇年前の地図をクラウディオ自身が見てみたかったのだ。
「これはヴェスティン=フス近辺の地図ですね。とはいえ三〇〇年前のものですから、今のものと比べると多少の差異はありますが大きな違いはありません。ここで、私たちが調査に赴く古城というのはですね――」
クラウディオがさらに言葉を続けようとした時、部屋の扉が叩かれた。雇った傭兵は全部で二人であり、その二人は既に来ている。よってこの部屋を訪れる人間はいないはずなのだが、もしかすると借用時間を過ぎてしまったのだろうか。
「ヤーデさん。扉を開けてもらっても良いですか?」
「か、かしこまりました!」
ヤーデは相変わらず緊張がほぐれていないのかまだ声が震えていた。それでも動作はしっかりとしており、しゃっきりと立ち上がると扉を開ける。途端に赤いネアトリア騎士団の制服に似た意匠の服を着た男が無言で中に入ってきた。
彼は室内に入ると凄みの聞いた視線で室内をずらりとね目回すと、クラウディオのところで視線を止める。
「貴公がクラウディオ・フェーエンベルガーだろうか?」
「えぇ、そうですよ」
相手が誰かまったくわからないが、とりあえず笑顔で答えておきながらざっと相手の身なりを確認する。髪も整えられており、腰には剣を刷いていた。着ている服もしみ一つ無い綺麗なものだ。
上流階級の人間だなと思うと同時に、クラウディオはそれとなく剣の柄に手を伸ばした。彼の着ている服はエトルナイト騎士団のそれである。リアはそのクラウディオの動きに気付き、服の中に手をやる。空いた服の隙間から刃物の輝きが見えた。
「私の名はシャーセル・エトルナイト二世という。おそらくこの場にいるものならば誰もが私の名を知っているだろう」
クラウディオは迷うことなく剣を抜くと同時に椅子から立ち上がり、切っ先をシャーセルの喉元へと突きつけた。ヤーデは棍を、リアは短剣をシャーセルへと突きつけている。彼に逃げ場は無い。だというのにシャーセルは非常に落ち着いていた。
「実によく出来た騎士、そして傭兵だな。特に最近の傭兵の質は高いような気がする、だがその剣を下ろしてもらえないだろうか?」
シャーセルの言葉をクラウディオは聞き入れない。シャーセル・エトルナイト二世といえばエトルナイト騎士団の最高権力者であり、彼がいなくなればエトルナイト騎士団が瓦解するのは確実なのだ。
彼がどれほどの力を持っているのかは知らないが、捉えるには今が好機である。数の上でも勝っているのだし、既にシャーセルは包囲されているのだ。
「私を殺すのも捕らえるのも良いが、貴公らに果たしてそれができるのか私は疑問に思う。それと同時に、ここで私を捕らえるなり殺すなりすれば君らにとって不利益になることは確実なのだがね。それでも私を捕らえるかね?」
「私にとってあなたを捕らえるほうが利益になるんですがね」
クラウディオの言葉に「そうとは限らんだろう」とシャーセルは返す。
「我々エトルナイト騎士団はかつてのエトルハイムを取り戻そうと考えている。私はその限りではないんだがね。でだ、我々と君たちの目的が一致することも有り得るわけだ。我々エトルナイト騎士団はネアトリアハイムがあってこそ始めて存続することができる一面もある、よってネアトリアハイムの危機は我々にとっての危機でもあるわけだ」
なるほど、と胸中でシャーセルの言葉にクラウディオは頷いた。彼の言うところには一理のは確かだが、かといって油断はまったくできない。彼が一人で来ているという保証はどこにもないのだし、何かを仕掛けている可能性もある。
警戒しながらも剣をさらに前へと突き出し、切っ先をシャーセルの喉元に僅かに触れさせた。それでもシャーセルは動揺することなく不動の姿勢を崩さない。
「ミラーカ・カルグスタイン、四〇〇年前に鬼女と呼ばれた女性だ。歴史に詳しいのならば知っているだろう?」
「えぇ。ミラーカの名前は知っていますとも、己の美貌を維持するために毎夜一人ずつ女性の生き血で満たした浴槽に使っていた逸話は有名ですからね。そのせいで吸血鬼の名で呼ばれたとか」
血で満たされた浴槽と、そこに嬉々として浸る女性の姿でも思い浮かべたのだろうか。ヤーデとリアの顔色が少しだけ悪くなる。クラウディオ自身、話していて気分の悪い話だ。ミラーカ・カルグスタイン、彼女は旧ラリヴァールハイム領、特にこのヴェスティン=フスにおいては闇に葬り去りたい歴史の一つであるがそうもいかない。
彼女の悪名はしっかりと根付いており今では母が子に「良い子にしてないとミラーカがやってくるよ」というほどになっている。クラウディオ自身、幼い頃に母からそう言われた記憶があった。
「で、なぜここでそのミラーカの名前を出すんですか? 彼女は四〇〇年も前に大量殺人と、罪無き拷問の罪により絞首刑に処せられたはずですが」
そうでなくとも四〇〇年という長い時間を人間が生きていられるはずが無い。
「そのミラーカが蘇ったとしたら? それも正真正銘の吸血鬼として」
シャーセルの言葉をクラウディオは鼻で笑った。四〇〇年前に彼女が血を浴びて吸血鬼になったというのならばともかく、今頃になって吸血鬼となって蘇るとは到底信じることができない。
「信じないのか? 吸血鬼ではないが死んだといわれていたのについ最近になって蘇った人間がいるではないか? 四〇〇年前に死んで、今になって吸血鬼として蘇った人間がいたとしてもおかしくはないだろう。前例がある」
「前例というのはオラウス・ウォルミスのことですか?」
シャーセルは頷いた。さて、どうすべきなのだろうか。人間が人外の化生となりて蘇ることは確かに前例がある。オラウスがそれに該当するであろうし、真実かどうかはわからないが死んだマールクリスの司祭が天使となったという話も世界には存在しているのだ。
彼の言っていることが完全に間違いというわけでもないのかもしれない。ネアトリアハイムの危難がエトルナイト騎士団に対しても不利益になる、というのも理解できる部分がある。
こういう時に自分の権限の大きさが恨めしい。もしクラウディオが一介の騎士に過ぎなければここで悩むことなく、シャーセルを殺すか捕らえるかの二つしか選択肢が無かったわけだ。だがあまりにも大きい権限が彼を生かすという選択肢も与えてしまっている。
どうするのが正しいことなのかわからない。だがここでシャーセルを捕らえてしまうのは不利益になってしまうのではないのかという気持ちが強かった。彼は何らかの情報を持ってここにやって来ているようであり、それを得ずして捕らえるというのは非合理的なように思える。せめて話を聞くだけでもしてもよいのではないだろうか。
悩みながら突きつけていた剣を逆手に持ち直して鞘に収める。ヤーデとリアの二人はこのクラウディオの行動に目を丸くした。ネアトリア騎士団、それも国王直属の騎士がエトルナイト騎士団の最重要人物を見逃すとは考えられないのだろう。実際、クラウディオはシャーセルを逃がすつもりはない。
しかし、今この場で彼を捕らえてしまうのは惜しいのではないかという気分がある。シャーセルの口車に乗せられているだけなのかもしれないが、既に剣は鞘に収めてしまった。再び抜くことはできない。
「お二人とも、得物を下げて座ってください」
クラウディオの指示に二人の傭兵は従った、リアは素直にヤーデはしぶしぶと。
「シャーセルさんもお座りになられてください、話だけは聞くことに致します」
「誠にありがたい」
シャーセルも椅子へと腰を落ち着ける。場所はクラウディオの真向かい、シャーセルの両隣をヤーデとリアの二人が挟む形になっていた。これならばシャーセルが何か行動を起そうとしてもすぐに食い止めることができるだろう。
ヤーデの武器は棍のため難しいだろうが、リアは短剣だ。シャーセルが変な行動を起せばすぐにズブリと刺すことができる。それとなく目で合図を送ると、彼女は中々機転の利く人物らしくリアは素直に頷いた。
「では、そのミラーカ・カルグスタインが吸血鬼として蘇った。それで?」
「月に一度夜会を開いている。それも盛大にな、何でもヴェスティン=フスの女性を身分も問わずに招待しているそうだ。そして、もうお分かりだと思うが帰ってこない者も中にはいる」
「おかしいですね。行方不明になっているのならば、そういった話は必ず騎士団の耳に入ります。そうなれば直属騎士である私の耳に入ってこなければおかしい」
「三〇年以内にヴェスティン=フスで起こった大きな事件はなにかあるかな?」
「特にこれといって無いですね、些細な事件はあっても大きなものはありません」
クラウディオが言うとシャーセルは深く頷いてみせる。リアが短剣の刃をクラウディオに覗かせて、視線で指示を求めてくるが手振りで彼女にまだ動くなと指示した。まだシャーセルが敵対行動に出る様子は無い。
「それが理由だよ。悲しいことに、平和だったからこそこの都市の騎士団は麻痺してしまったのだろう」
「なるほど、ご忠告痛み入ります。まさか敵対者であるあなたからそのような言葉がいただけるとは思いもよりませんでしたよ」
「そういうことだ、フェーエンベルガー卿。貴公が話のわかる人間でいてくれて私はうれしく思う。我々にとってもミラーカは邪魔な存在、貴公らが直接カルグスタイン城を調べてみるのも良かろう。何かあればエトルナイト騎士団も支援する、それではこれにて退出させてもらおうか」
シャーセルが立ち上がる。同時にヤーデとリアの二人が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がり、彼が来た時と同様にそれぞれの得物を彼に突きつけた。だというのにシャーセルは微動だにせず、二人の傭兵を見下すような視線で見つめるのみ。
「おやめなさいお二人とも、その方に手出しは無用です」
「ですがフェーエンベルガー卿、この男はあなた方の敵ではないのですか?」
リアの言葉にクラウディオは首を横に振る。
「今は敵ではありません、ですので二人とも彼を解放しなさい。でなければ二人とも相応の罪状を与えて牢に閉じ込めますよ? 私にはそれだけの権限がありますから」
この言葉に二人の傭兵はそれぞれの武器を収めた。彼女らにしてみれば、有利に事が運ぶようにとしてくれているのだろうが、今はシャーセルを逃がした方が良さそうだ。事前に入っている情報からも、エトルナイト騎士団がミラーカを敵対視しているのは確実である。
その理由が何か知らないが、今のところエトルナイト騎士団とネアトリア騎士団の利益は合致している。下手に動いて三つ巴の自体となることは避けたい。もしここでシャーセルに手を出そうものなら、ヴェスティン=フスに潜伏しているであろう多くのエトルナイト騎士団の人間が蜂起するのは確実だ。
そうなればヴェスティン=フスの騎士団はその対処に追われる。そこで起こった混乱の中でミラーカが何か新たな行動を起す可能性も考えられた。よって、ここは出来るだけ穏便に事を済ませた方が良い。
「すまないな」
それだけ言い残してシャーセルは部屋を後にした。彼が部屋を出て行くと、ヤーデとリアは倒した椅子を元に戻してそこに座る。
「これからどうするんです?」
ヤーデからの問いにクラウディオはどうしたものかと、腕を組んで頭を悩ます。現時点ではまだ下手に事を大きくすべきではないだろう。となると、動けるのはこの場にいる三人だけということになりそうだ。
二人の傭兵はじっとクラウディオへと視線を注いでくる。頭が痛くなりそうだ。相手が吸血鬼だとわかっていたのならばそれ相応の準備をもってやってきていたのだが、生憎と通常の装備しか持ってきていない。
魔術研究所の協力によって完成した魔術符に、ストラスとエルザの魔術を封じ込めたものを数枚持ってきているが実戦でどれだけ役に立つものかはわからないのだ。
「とりあえず、夜になるのを待ちましょうか。それからでも遅くはありません」
クラウディオの言葉に二人の傭兵は反対せず、静かに承諾の返事をしてくれた。
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月の明かりに照らされながらヤーデとリアの二人はカルグスタイン城を目指して歩いていた。依頼主である騎士クラウディオ・フェーエンベルガーの姿はない。ヤーデは後ろを振り向いて付いてきているはずのクラウディオの姿を探してみたが、見つけることは出来なかった。
「不安なんですか?」
リアの問いにヤーデは素直に「はい」と返す。傭兵組合で夜になるまでの間に話し合った結果、ヤーデとリアの二人がまずカルグスタイン城に迷った旅人を装って潜入することに決まったのだ。
幸いなことにヤーデの武器は棍であり、リアの武器は短剣である。女性が護身用の武器として持っていてもおかしくないものであり、それらしい荷物さえ持てば旅人に見えることは間違いないだろう、というフェーエンベルガーの考えによるものだ。
直属の騎士がどう考えたのかはわからないが、ヤーデは不安で仕方ない。リアは毅然とした様子で真っ直ぐと前を見ているが、彼女もまた不安なのか歩く速度は当初よりも遅くなっていた。
向かう先に強力な人間がいる、というのならばまた違っただろうが今から赴く先は吸血鬼が住むという城なのである。吸血鬼に関する逸話は幾つか聞いたことはあるが、どれも恐ろしいものばかりだ。その中には血を吸った人間を僕にすることが出来る、というものまである。
もし血を吸われてしまったら、そんな想像をしてしまうと思わず背筋が冷えた。加えて夜に向かうのだ。吸血鬼は夜の一族、とも呼ばれる場合があるらしく夜になると自分の持つ全ての力を発揮することが出来るという。また昼間であればその力は衰え、並みの人間になってしまうとも聞いたことがある。
どうせなら朝になるのを待つか、昼間に向かえば良かったのにとヤーデは思うのだが依頼主の考えには逆らえなかった。しかもそれが国王直属の騎士となれば尚更である。その時、リアは不服に感じた様子をまったく見せなかったが本心は一体どうなのだろうか。聞いてみたい気もするが、その切っ掛けが無い。
「本当に付いてきているのでしょうか」
リアが小さな声で呟いた。ヤーデのように振り向くことはしなかったが、このようなことを言うぐらいなのだから彼女もやはり不安なのだろう。既に見え始めているカルグスタイン城の窓からは煌々とした明かりが漏れており、人が住んでいることを示していた。
「何が、待っているのでしょうね」
知らずのうちにヤーデはそんなことを言っていた。シャーセルの言葉を信じるのなら、吸血鬼ミカーラがいることに間違いは無いのだがミカーラが一人だけでいるとは思えない。一人だけなら窓から明かりが漏れるようなことも無いだろう。
自然と棍を握る手に力が篭った。吸血鬼が己の仲間を増やすことができるという伝承が真実ならば、あの城の中は人外の化生どもで満ち溢れているはずなのだ。果たしてヤーデの魔術で彼らを倒せるのだろうかと不安に思う。
ヤーデの魔術は生命力の操作するものである、既に一度死んでいる人間に対して果たしてそのような魔術が有効なのかまったく持ってわからない。傭兵組合で話してくれたところによれば、リアの魔術は基本的に他者の魔術を強化するものらしいのだ。
つまり、この二人だと戦闘には向かないことになる。武器もヤーデは木製の棍であるし、リアも短剣だ。殺傷力は低いといわざるを得ない。
カルグスタイン城に近づいていくに連れて、城から名状しがたい圧迫感を感じる。そんなものは気のせいであると思いたかったのだが、隣を歩くリアの額に僅かながらも汗が流れているのを見るとどうも気のせいでは無さそうだ。
「やっぱり、リアさんも不安ですか?」
「吸血鬼の居城に忍び込め、と言われて不安を抱かない人間はいないと思います」
「そうですよね」
とヤーデは笑ってみせたが、結局のところ苦笑いでしかない。この人数と装備で吸血鬼を倒せるなどとはフェーエンベルガー卿も思っていなかった。今回の目的はミラーカがどのような人物なのか確かめることと、内部がどのようになっているか調べることにある。
どうやらカルグスタイン城は使われなくなってかなりの年月を経ているらしく、加えてエトルハイムとラリヴァールハイムとの戦争で間取り図が失われているらしいのだ。戦わなくてよいとはいえ、ヤーデとリアに課せられた任務は過酷なものである。
もしこちらの目論見がばれたらその場で殺されるか、同じ吸血鬼にされてしまうかもしれない。ばれなくともその可能性はついてまわってくるのだ。人間ならば誰もが恐れを抱こう。
二人の間から会話が消え、沈黙のままカルグスタイン城の玄関へと辿り着いた。玄関に明かりは灯されていないようだが、奥にある部屋にはまだ明かりが灯されているようだった。ヤーデが先に立ち、重厚そうな扉を叩く。
重い木の音が静かな夜にこだまする。しばらくすると扉の向こうから微かではあるが足音が近づいてきた。扉が開き、執事らしい人間が燭台片手に姿を現す。夜だからであろうか、彼の顔色はひどく悪いように見えた。
ごくり、と唾を飲み込んでから事前に用意していた台詞をヤーデは思い出す。
「夜中に訪れて申し訳ありません、私たちは旅の者なのですが道に迷ってしまいまして……その、宜しければ一晩泊めていただけないかと」
「あぁ、旅の方ですか。このような夜更けまで歩かれていたとは、さぞお疲れでしょう。ささ、どうぞ中へ」
「よろしいのですか?」
リアが尋ねると執事らしき男は青白い顔を大きく縦に振る。
「もちろんですとも、主人から旅の方が訪れた時は丁重におもてなしするよう仰せつかっておりますので。まずは応接間までご案内いたしましょう、私の後に付いてきてください」
ここまでは一応計画通りだ、そう思いながら執事の後に続いて二人はカルグスタイン城の中へと足を踏み入れた。中は黴臭く、どこからともなく生臭い臭いが漂っているような気がする。
廊下はところどころに設置された燭台の蝋燭で照らされているだけであり、明るくはあったが足元はおぼろげに見える程度だった。頭の中で間取り図を作りながら執事の後ろを歩く、廊下のところどころには武器を持った甲冑が飾り物として置かれておりそれが非常に不気味な印象を与える。
全てが石造りなのか歩くたびに足音が反響して聞こえた。廊下を幾つか曲がり、木目がはっきりと浮き出ている扉の前で執事は足を止めてその扉を開けた。そこが応接室らしい。
彼に礼を言いながら部屋の中に入ると、既に暖炉には火がついており机の上の燭台には蝋燭が灯されていた。最初から誰か来るのを待っていたかのようである。その不気味さになんともいえない気分にされたが、たまたま運がよかったと考えておくのが精神的には良さそうだ。
「ところで、そちらの護身用の武器をお預かりしておきましょうか?」
「え!?」
ヤーデは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。だが考えてもみれば当然だろう。泊めてもらおうとしているのに、武器を持ったまま城の主人と顔を合わせるわけには行かない。止むを得ず執事に棍を手渡した。
幸いなことにリアが短剣を隠し持っていることに彼は気付かず、フェーエンベルガー卿に切り札として渡された魔術符という名の厚紙は二枚手元にある。それに武器が無くとも魔術は使えるのだから、どうとでもできるだろうとできるだけ楽観的に物事を考えることにした。
そうでもしないと重圧に押しつぶされそうだ。
執事はヤーデから丁重に棍を受け取ると「主人を呼んできます」との言葉を残して去っていった。どうしてよいものかわからず、応接室中央に置かれている椅子に二人は座る。お互いに話すことは何も無い。というよりも何を話していいものかがわからなかった。
リアがこの状況をどう考えているのかヤーデは知りたかったが、どう切り出していいものか分からない。重たい沈黙の中、暖炉から薪のはぜる音が聞こえる。静かな中、自然と耳は鋭敏になり廊下を歩く軽やかな足音が耳に入った。先ほどの執事のものではない。
先ほどリアとヤーデの二人が入ってきた扉が再び開き、黒いドレスを身に纏った女性が姿を現す。身長は女性にしては高く、線が細い。長く伸びた金色の髪は腰上まで伸ばされており、血のように赤い瞳と赤く艶やかな唇が印象的だった。
その美しさは生きている人間のものとは思われず、絵の中から出てきたのではないかと思うほどであり彼女の美しさに同じ女性であるヤーデも思わず目を奪われてしまい立ち上がることを忘れてしまう。
そのことに気付き慌てて立ち上がる。リアも彼女の姿に見惚れていたのか、音を立てながらヤーデと共に立ち上がった。彼女の姿を見ていると自然とその赤い唇に目を奪われてしまう。それがなぜかはわからないが、彼女がこの空間にいるだけで夢を見ているかのような気分になりはじめた。
その女性はヤーデとリアの向かい側に回ると静かに腰を下ろす。
「旅のお方、まずはお座りくださいな。今、召使いたちに命じて部屋の準備をさせているところです。それまでは私がお話のお相手を努めさせていただきますわ」
身なりに違わず女性の声は非常に美しく、普通に喋っているというのにまるで歌声のように聞こえる。彼女が吸血鬼ミラーカなのだろうか、これが人外の美しさなのか、と思いながらもなぜか彼女から目が離せない。
「まず自己紹介をさせていただきますと、わたくしの名はミラーカ・カルグスタインと申しましてこの城の主でございます。ヴェスティン=フスからそれほど遠くは離れてはいないのですが、ここは現在の街道からは離れていることもありまして中々訪れる人がいませんの。ですので旅の方が参られるとつい嬉しくなってしまいますわ、それにわたくし……あっと、いけない。あなた方のお名前を尋ねるのをお忘れしてしまいましたわ、本当にごめんなさい。わたくしったらつい嬉しくなってしまって」
口元に手を添えて微笑を浮かべるミカーラの姿は一枚の絵画と言っても良いほどの美しさである。彼女の体を構成している全ての部品は均整が取れており、見事なまでの調和を成していた。
ヤーデはミラーカの美しさに見とれてしまい、口を動かすことができない。リアがどうなのかわからなかったが、彼女も言葉を発しようとはしなかった。ミラーカは二人のうちのどちらが先に自己紹介を始めるのか、楽しそうな表情をしながら二人の顔を交互に見ている。
「どちらから先に自己紹介して良いのか悩んでいらっしゃるの? それじゃあ、そちらの青い瞳の方から名乗っていただいてよいかしら?」
「はい、私の名はリア・ヴィントと申します。そしてこちらが姉のヤーデででして、二人して諸国漫遊の旅をしておりましてヴェスティン=フスに向かう途中で迷ってしまったのです」
ヤーデはリアが自分の姓を名乗ったことに驚きを感じたが、そちらの方が都合の良いことにすぐ気付きそのままリアが喋るに任せることにした。そのほうがぼろが出なくて良いだろう。
「まぁ、姉妹二人だけで旅をされていたの? 今までどのようなところを見て回られたのかしら?」
「ハーヴェン=フスやネアトル=プトゥス、それにクラナ=ヴァドといった都市を見て回っておりました」
すらすらとリアは答えてみせたがミラーカは何を不思議に思ったのか首を傾げた。
「ハーヴェン=フスもネアトル=プトゥスもよく耳にする都市ですけれども、クラナ=ヴァドという場所については聞いたことがありませんわね。もし宜しければクラナ=ヴァドがどのようなところかお話していただいても良くって?」
「はい、構いません。クラナ=ヴァドは最近になって出来た村でして、クラティス・レッドラム侯爵というお方が治められております」
「クラティス・レッドラム?」
ミラーカが一瞬ではあるが眉を潜めた。ヤーデはレッドラム侯爵という人物については何も知らないが、ミラーカとレッドラム侯爵の間に何か面識でもあるのだろうか。
「どうされましたか?」
リアが尋ねるとミラーカは即座に「なんでもありませんのよ、ささ続けて」と笑顔で言ってみせたが、なぜ眉を潜めたのかがヤーデの心に引っかかった。
「なんでも怨霊の湿地と呼ばれていたところをレッドラム侯爵が自ら開墾なされ、つい最近になって出来た村だそうです」
「あぁ、それでわたくしがクラナ=ヴァドについて何も知らなかったのね。わたくしはわけあってこの城から離れられませんの、ですから旅の方や配達の方からさまざまなお話を聞くようにしているのですが、最近になってできた村だというのでしたら聞いたことがなくて当然ですわね。けれど怨霊の湿地についてなら知っておりますわ。あそこを開墾するだなんて、そのレッドラム侯爵というお方は大層素晴らしいお方なのでしょうね。機会があればぜひお会いしてみたいですわ、っといけないけない。またわたくしがお話してしまっていますわね、ささリアさん続けてください」
ミラーカに促されてリアはおそらく自身が見てきたであろう土地の話を色々としてくれた。その中にはヤーデの知らない場所も含まれており、時折姉ということになっていることを忘れて思わずうなずいてしまいそうになる。
どのぐらい喋った頃だろうか、リアが五つの土地の話をし終えるとミラーカは満足そうに両手を机の上に置いた。
「先ほども申しましたが私はこのカルグスタイン城からは出られない身ですので、リアさんのお話は非常に面白かったですわ。そろそろ寝室の準備ができていると思うので、呼んでみますわ」
そう言ってミラーカは机の上に置かれていた鈴を手に取り、軽く二度鳴らした。すぐに彼女の背後にある扉から、例の青白い顔をした執事が姿を現し慇懃に頭を垂れる。
「お客人のお部屋の用意はできておりますか?」
「はい、つい先ほど用意は終わりました。いつでもご案内することができます」
「そう。それならお二人ともお疲れでしょうから、今から寝室にご案内しますわ」
ミラーカは立ち上がると二人に向けて手招きをしてみせる。立ち上がらないわけにはいかず、ヤーデとリアの二人は立ち上がると執事から蜀台を受け取ったミラーカの後に続いて歩き始めた。
寝室はどうやら二階に用意してくれたらしい、一度だけ階段を上りずらりとならんだ扉の二つを指差す。どうやら別々の部屋を用意してくれたようだ。普通ならば好意として受け取るべきところだが、ミラーカが吸血鬼だということを考えるとこれが一種の策略のような気がしてならない。
「のんびりと出来たほうが良いだろうと思いましたので別々のお部屋を用意させていただきましたわ。内装などに違いはございませんので、お好きな方をお使いください」
「ありがとうございますカルグスタイン様」
頭を下げてからヤーデは階段に近いほうの部屋に入ることにした。階段に近いといっても、部屋の扉から階段までは優に一〇メートル以上はある。この階段からの距離にしてもミラーカの悪意のようなものを感じてしまう。
ヤーデが部屋の扉を開けると、リアもミラーカに礼を述べながら取っ手に手を掛けていた。部屋の中は大層豪華なものであり、本当に客室かと疑ってしまうほどである。寝台には天蓋が付いており、東向きの窓には絹で織られたらしいカーテンが掛かっていた。
後ろを振り返り「本当にこのような贅沢なお部屋を使わせていただいてもよろしいのでしょうか?」とミラーカに問うと、彼女は口元を三日月形にして微笑を浮かべて頷いた。
この時、彼女の唇から鋭い犬歯がのぞいて見えたような気がしたのは果たして気のせいなのだろうか。ヤーデにはとても気のせいだとは思えない。ミラーカに再び礼を述べてから扉を閉めて、鍵が付いていないか確認したが残念なことに鍵は付いていなかった。
これもミラーカの策略なのだろうか。ヤーデは武器を奪われてしまっており、持っている武器はといえばフェーエンベルガー卿が魔術を封じ込めたと言っていた二枚の魔術符と呼ばれる厚紙だけであり。
それ以外に武器はない。自身の使う魔術が吸血鬼に有効とも思えなかった。不安と恐怖がヤーデの心を支配し始める。長い夜はまだ始まったばかりだった。
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ミラーカが用意してくれた部屋はどこの馬の骨とも知れない旅人二人に対しては豪華すぎるものだった。寝台には天蓋が付けられており、窓のカーテンは絹でできている。その他、部屋に置かれている調度品はどれも職人が丁寧に作ったものだと一目で知れた。
この古城の主はいったい何を思ってリアとヤーデのためにこんな部屋を用意したのだろう。自分でも気付かぬうちにリアは懐に隠している短剣を鞘ごとぎゅっと握り締めていた。不安と、そして恐怖とが胸中に渦巻いている。
幸いなことにリアの短剣は持っていることがばれなかったため、奪われることは無かったが隣室のヤーデは得物である棍を奪われてしまっていた。彼女と離れ離れになりたくないというのがリアの本心であったが、客人として扱ってもらっている以上、同じ部屋にしてくれというわけにもいかない。
とりあえず寝台に腰を落ち着けてみたが、気分はとても落ち着けるようなものではなかった。ミラーカが時折見せる笑み、その度に鋭い犬歯が覗くのだ。彼女が吸血鬼であることに間違いはないとリアは確信している。吸血鬼は幾つもの伝承で伝えられているが、鋭い犬歯を持っていることが共通点なのだ。彼女が吸血鬼なのは間違いない。
敵の手中にいるということが何よりもリアを焦らせる。焦ったところで何もできないことは分かっているのだが、何か取れる手立てはないだろうかと思考を巡らせるが何も思いつきはしなかった。
せめて、隣の部屋にいるヤーデと連絡が取り合えればよいのだがそれも叶わない。部屋の扉に鍵は付いておらず、この部屋を出てヤーデの部屋に行くという手もある。だがそれをしようとは思わないし、出来ると思えなかった。
何故か、部屋を出てすぐのところにミラーカが、人智を超えた怪物がいるような気がしてならないのだ。この部屋を出れば即座に襲われてしまう、そんな気がしてならない。気のせいだ、気のせいだと何度も言い聞かせるが部屋の前の気配は去ってくれそうに無かった。
こうなってくると本当に気のせいなのだろうかと疑いたくなってくる。恐怖に支配された心を回復させるため、鞘から短剣を抜き放つ。研ぎ澄まされた刃は蝋燭の明かりに煌いた。その輝きが少しだけではあるがリアを安心させてくれる。
深呼吸をして気持ちを落ち着けて短剣を鞘へと収めた。ここは一つ状況をもう一度整理しておく必要があるだろう。リアとヤーデがフェーエンベルガー卿から指示されたのは、古城内部に潜入し間取り図を作成することにあった。戦う必要はどこにもない。
それにフェーエンベルガー卿は外からこの城を監視しており、動きがあれば突入してくれると言っていた。これが他の騎士ならいざ知らず、国王直属の騎士それも御三家の人間が言ったのだから間違いは無い。
加えてミラーカはこちらの狙いをいまだ知ってはいないだろう。ここは無難に旅人として一夜を過ごす方が良いかもしれない。とはいえ、ミラーカが何もしないという保証はどこにも無く眠ることはできなかった。
だが疲労は回復させなければならない。とりあえず横になろうと、短剣を胸に抱いたまま寝台に入った。布団は柔らかで疲れた体にはとても魅力的なものがあったが、目を閉じるわけにはいかない。
とはいえ体は正直なものでリアに睡魔が襲ってくる。短剣の柄をじっと握り、極力瞬きすることさえも抑えてただ時間が過ぎて、朝になるのを待つ。いつになれば朝になるのだろうか、そんなことだけを考えながら。
様々なことを考えるようにして睡魔と闘い、時間が過ぎるのを待つ。そしてどれだけ時間が過ぎたのだろう。リアの感覚ではもうかなりの時間が経過しているはずだったが、部屋に時間を計るものは何もなくあてにはならない。
ふと、物音が聞こえたような気がしてリアは寝台から飛び起きた。短剣を鞘から抜き放ち、何事でも対応できるように順手で構える。耳を澄まして物音の正体を探る、どうやら壁越しに隣の部屋。つまりはヤーデの部屋で何事か起きているようだ。
もしかするとミラーカがヤーデの血を吸おうとしているのかもしれない。となれば仲間として助けねばならないと思い、リアは短剣を片手に部屋を飛び出した。それと同時にヤーデの部屋の扉が爆音と共に吹き飛び、炎に包まれた何かが床に転がる。
何が起こったかリアが理解するよりも早くヤーデは部屋から飛び出してきた。その手にはフェーエンベルガー卿が二人に渡した魔術符と呼ばれる厚紙の切れ端を手にしている。ヤーデはリアの姿に気付くとその手を取って階段へ向けて走り出す。
途中で燃えている何かの姿を見たが、それはこの白の女主人であるミラーカ・カルグスタインその人であった。既に彼女の体を包んでいる火は収まりかけており、服こそ燃えていたがその皮膚は燃えていない。彼女の瞳がぐるりと動き、リアをにらみつけた。名状しがたい恐怖の手がリアの心をがっしりと鷲掴みにする。
早く逃げなければ殺される、もしかするとそれ以上のことをされるかもしれない。もつれそうになる足を必死で動かしながら階段へと向かう。
「淑女の肌を傷つけるだなんて酷いお人。痕が残りでもしたらどうしてくれるのでしょう? この責任はとってもらわねばなりませんわ、ですのであなた方を逃がすおつもりはありません。本当はちょっとだけ味見させていただくだけにしておこうと思っていましたのに……あぁ、この結果は本当に残念です」
背後から聞こえる歌声のような響きに振り返ってみれば、服が燃え落ちたために上半身が裸になっているミラーカの姿である。業火に包まれていたというのに火傷の痕は一つもない。彼女の背後にある窓からは月が覗いており、ミラーカの姿は舞台に立つ女優のようにも見えた。
その美しさが恐ろしい。その気高さがおぞましい。彼女は吸血鬼ミラーカ・カルグスタイン、人の血を啜る鬼。人間が太刀打ちできる存在では無いと思い知らされた。早く逃げなければと階段へと向かうが、そこから上ってくる人影がある。
人影の正体はミラーカの執事だった。相変わらず青白い肌をしており、目は土気色に染まっている。彼の手にはどす黒い血がこびり付いた肉きり包丁が納まっていた。慌ててヤーデを後ろへと下がらせ、短剣を構えながらリアは執事の前に立つ。
だがこの執事も人間ではないのだろう。もしかするとミラーカと同じ吸血鬼かもしれない。伝承によれば吸血鬼は死人を操る場合もあるという、となるとこの執事は屍食鬼であるという可能性もあった。なんにせよ、今のリアとヤーデでは太刀打ちできそうにない。
「お二人とも肌は艶やかでとても綺麗。それに若い若い少女の香りがいたします。あなた達の生き血を啜り、その血を肌に浴びればどのような気持ちになるでしょう。きっときっと、それはとても素晴らしくてとても心地のよいことなのでしょう。あぁ、想像しただけで身悶えしてしまいますわ! 早く、早くあなた達の血を味わいたい!」
背後から聞こえてくるミラーカの愉悦の混じった声。足が震える、短剣を握る手も震えていた。前には肉切り包丁を手にした死人が、背後には吸血鬼が。どこにも逃げ場はない。ヤーデの口から嗚咽が漏れる、もしかしたらリアの口からも漏れていたかもしれなかった。
徐々に近づいてくる青白い肌の執事、リアは恐怖で動けない。彼を殺せることが出来るとは思えなかった。すでに執事は間合いの中に入っていたがリアは動けない。執事がリアの頭上に肉切り包丁を振りかざした。
リアはそれをじっと見ていることしかできない。背後からはミラーカの愉快そうな笑い声が聞こえてくる。死を目前とした瞬間に、今までの送ってきた人生の中で思いで深い様々な事柄が思い出された。死んでしまう、ここで自分の人生は終わるのだ。
諦めの境地に達したリアは執事が手にする肉切り包丁が振り下ろされるのをじっと見ていた。だが、いつまで経っても振り下ろされない。視界の隅に鋼の輝きが見えた。視線をそちらに移すと執事の胸から長剣が突き出ている。
次の瞬間に長剣は引っ込み、執事の首を跳ね飛ばした。彼の首からは血が出ず、そのまま執事の体は床に倒れる。すると執事を倒した人間が見えた、クラウディオ・フェーエンベルガー。国王直属の騎士が長剣を片手にしてそこに悠然と立っていた。
傭兵組合の一室にいる時の彼は常に柔和な表情を浮かべていたが、今の彼は違う。リアは彼の事をどこか女々しいと思っていたが、その印象は消し飛ばされた。フェーエンベルガー卿の目は殺人者のそれである。
「お二人とも逃げてください、吸血鬼は私がお相手します。あなた達の仕事は戦うことではありません、この城の間取り図を作ること。そして今ここで何が起こっているのかを伝えることにあります。その任を、全うしなさい」
フェーエンベルガー卿は剣を手にしながら二人とすれ違い、リアの背中を軽く叩いた。振り向くともう彼は剣を構えて臨戦態勢に入っている、フェーエンベルガー卿の背中越しに髪を逆立て憤怒の表情を浮かべるミラーカが目に入る。その顔はとても人間のものとは思えなかった。
「早く逃げましょう!」
そのヤーデの言葉にリアは慌てて走り出して階段を下りた、そこから一直線に走り抜ければ外に通じる扉がある。途中でまた執事のような怪物が現れるかもしれなかったが、そのような化け物は現れることなく扉へとたどり着く。
外へ出ようとしたところで城全体が轟音と共に大きく揺れ、天井からぱらぱらと埃が舞い落ちてきた。上で戦いが開始されたに違いない。フェーエンベルガー卿は御三家ではあるが人間だ、果たしてあの吸血鬼に勝てるのだろうか。
何か策があるのかもしれないが、リアには想像できぬものだろう。フェーエンベルガー卿の武運を祈りながら二人は外へと飛び出し、夜の闇の中をヴェスティン=フス目指して走り出した。
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