雨と記憶と優しさ半分
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昨日からの雨は夜が明けても降り続いている。予報によれば少なくとも夕方までは雨らしく、土砂降りというほどではないが、外に出るのが少しだけ億劫な程度には降り続けていた。

とはいえニートの六つ子にもそれぞれ予定はあるようで、おそ松とトド松は駅前で新台入替があるとかでパチンコに、十四松は昨日珍しくパチンコで勝ったらしく、バッティングセンターに。一松は十四松に付いていったようだった。カラ松は朝食のときは見かけたのだが、その後見ていない。昨日も家にいたようだが、兄弟の動向をいちいち把握してはいない。

昨日はにゃーちゃんのラジオ公開収録に行っていたチョロ松は、今日こそはハローワークに赴こうと思っていた。確かに思っていたのだが、昨日からのこの雨である。道は水溜まりばかりで、一張羅が汚れてしまうかもしれない。汚れたスーツでは相手の印象も悪くなってしまうだろう。だから今日ハローワークに行けないのは仕方ないことなのだ。自分にそう言い聞かせ、納得したチョロ松は、今日は家でライブDVDの鑑賞でもしようと考えていた。幸い母親も出かけており、パソコンの小さい画面ではなく、茶の間のテレビの大画面でにゃーちゃんを堪能することができる。

DVDを取りに二階の自室に向かうと、ソファでカラ松がタオルケットにくるまっていた。今日は暖かい日ではないが、そこまで寒いわけでもない、と思う。それに、朝食は普通に食べていたはずだ。一応起こさないようにと少しだけ足音を殺して押し入れに向かうと、カラ松がもぞもぞと身動いだ。

「あ、悪い。起こした?」

「…いや、寝てない…」

カラ松が薄目を開けて、ぼそぼそと喋る。その声は小さく、いつもほどの覇気はない。

「風邪?」

「フ…雨は時にセピア色の記憶を思い起こす。俺はその痛みを甘んじて受ける男」

「ああそう」

意外に元気そうだったので、チョロ松はそれ以上の会話はしなかった。部屋を出るときに、またカラ松が身動ぎするのが視界の端に映った。

雨、記憶、痛み。

その単語がなぜかチョロ松の脳裏に引っかかっている。何かを思い出しそうな気がするが思い出せない。もやもやとした気持ちを抱えたまま、チョロ松は階段を下りていった。

二階でカラ松が寝ているなら、一応遠慮して今日はオタ芸練習はせず、静かににゃーちゃんの一挙一動を心ゆくまで堪能しようと思い、チョロ松は台所に向かった。戸棚の奥の方にあるティーバッグの袋を取り出す。緑茶に柚子の香りだけ付けたもので、確かトド松が女友達から貰ってきたものだ。トド松は僕このフレーバーあんまり好きじゃない、と言って最初の一杯以降は手を付けていない。袋の口はクリップで閉じてあるので、湿気ってはいない。やかんに少なめにお湯を沸かして、ティーバッグを入れた湯飲みにお湯を注いでいく。

湯飲みの中のお湯が少しずつ緑に染まっていく。緑茶がゆらめくのをぼんやりと眺めていて、不意に記憶がよみがえった。

雨の日と、記憶と、痛みと、暖かいお茶の記憶だ。

 

中学の頃、チョロ松は陸上部に所属していた。中学は必ず部活に入る必要があったし、子供の頃からチョロチョロとすばしっこいことだけが取り柄だったチョロ松にとっては、走ることは苦ではなかったからだ。今まで何も考えずに走っていたチョロ松は、腕の振り方、足の上げ方といった"走る方法"を知ることでめきめきと実力を付けていった。地区大会でもたびたび上位に入賞し、次の大会ではもっと上に行くのも夢ではないよと言われていたし、チョロ松自身も自分にここまで走る力があることに驚きつつも自信を持っていた。

中3の6月、地区大会の目前。チョロ松は階段で足を滑らせ、右足首を捻挫した。それと同時に、チョロ松の陸上部生活は終わりを告げた。梅雨入り前で、雨だったわけではない。誰かがバケツの水を零したのを拭き忘れていただけだった。

地区大会の応援席で、チョロ松は、努力が実らない、努力しても報われないことだってあるのだと悟った。こんな風にダメになるなら、最初から何もしなければよかった。そうすればこんな惨めな思いをすることだってなかったはずなのに。部活の仲間も家族も慰めてくれたが、チョロ松の心にはずっとそんな思いが渦巻いていた。

夏が終わっても、受験勉強にもあまり身が入らなかった。他の兄弟よりは学業も成績が良く、もう少し上のランクの高校を受験することも可能なはずだったが、それもやめた。6人全員で同じ高校に受かればまた同じ制服が6着買える。その方が家計は助かるはずですから。そんな風に担任に言ったのを覚えている。

高校生活は中学よりもずっと自由で、部活に入る必要もなかった。陸上はもうやる気がなかったし、今更他のスポーツを始める気にもなれなかった。文化系の部活にもチョロ松の興味を引くものはなかったので、チョロ松は帰宅部としての高校生活を送ることにした。高校なんて人生の通過点にすぎないのだから、その通過点の間で何かをがんばる必要なんてない。あるとすれば学業ぐらいだ。

高1の秋、自由な高校生活にも慣れきって、退屈さえ覚えてきた頃。家に一番早く帰ってきたチョロ松は、着替えもせずに自室で畳に横になっていた。

外は雨で、部屋には少しひんやりとした空気が漂っている。

右の足首が痛む。無論、捻挫は中3の夏休みの間にすっかり治っている。ただ治った後も、こんな雨の日には時折痛むことがあった。気圧や本人の気分が影響する、と前にテレビで言っていた気がする。せめて着替えないと、制服に変な皺が残ってしまう。そう判っているはずなのだが、動くことがとても億劫だった。痛みは大したものではない。けれど、右の足首が痛むという事実が脳裏に渦巻き、いたたまれない、惨めな記憶をどうしても呼び起こす。時計の針の音と、雨の音だけが部屋に響いている。どうしようもなくて、チョロ松がせめて耳をふさごうとしたとき、

「ただいま」

カラ松がふすまを開けた。

「…今日、部活じゃないの」

二番目に帰ってくるのはおそ松か一松だと思っていたチョロ松は、思わず少し頭を上げた。

「屋外練習の予定だったんだが、こんな天気でな。部活ごと中止だ。文化祭も終わったしな」

カラ松は中学から続けて演劇部に所属している。中学では主役を務めたこともあり、どうもその経験がカラ松を格好付けたがりの性格にしてしまった節があるとチョロ松は踏んでいる。高校の演劇部は中学よりも少人数だが、カラ松はやりがいを感じているようだった。先月の文化祭でも、脇役を演じきっていた。

「そっか」

それ以上話すことは特にない。いい加減着替えよう、と思ってのろのろと起き上がる。チョロ松が学ランのボタンを外している間に、素早く私服に着替えたカラ松は部屋から出て行った。チョロ松がゆっくりと私服に着替え終わったころ、ふたたびカラ松が、今度は足で部屋のふすまを開けた。なぜか手にはお盆を持っている。お盆の上には、湯飲みとコップと何か小さな箱。

「チョロ松、お茶飲むか?」

「え、うん」

「あと、薬も持ってきたけど」

「は?」

「痛いんじゃないのか?足」

お盆を見上げると、小さな箱の正体は半分優しさの痛み止めだった。

「…もらう」

「おう」

カラ松がお盆を床に下ろす。湯飲みの中身は緑茶だった。

錠剤を水で流し込んでから、緑茶を少しずつ口にする。喉が温まっていく感覚が心地よい。

「てか、なんでわかったの。足が痛いって」

「お前、雨の日はよく具合悪そうにしてるだろ」

「…そんなに?見てわかるレベルで?」

「フ…このカラ松、兄弟のことはいつだって手に取るようにわかっているぜ」

「あー、はいはい。いいからそういうの」

とはいえ、カラ松が兄弟のことによく気付く方なのは事実だ。兄弟の誰かが風邪を引いたり、体調が悪かったりするとき、初期段階で気付くのは大抵おそ松かカラ松だ。昔──六つ子が今よりもっと同じ顔で、個性なんてなかった頃は、全員が全員のことをテレパシーのようによくわかっていた気がするのだが、少しずつ個性が芽生えていくうちに、だんだんとわからなくなってしまった。それでもこんな風に、ふとした瞬間に誰かが気付いてくれたり、誰かに気付けたりする日があると、なんだか安心するような照れくさいような気持ちになる。

痛み止めが効いてくるにはまだ早いが、温かいお茶が気分をずいぶんと和らげてくれた。窓の外にちらりと目をやると、相変わらず雨が降り続いている。とはいえ西の空はもう雲が晴れてきていいて、灰色の空に茜色が少しだけ混ざった、どこか幻想的な風景だった。

「…明日は、晴れかな」

「確か、晴れだな」

カラ松もチョロ松も、こういうときに何か気の利いたことを言えるほど語彙が豊かではなかった。お茶をすすりながら、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。ただそれだけの記憶が、やけに鮮明によみがえった。

 

あれから何年も経っていくうちに、雨の日でも右足首が痛むことはなくなった。どうしても報われない努力だって時にはあるし、それでもやるしかないときだってあるんだと考えるようになった。時が解決してくれたともいえるし、夢に向かって努力する女の子たちを見ていて、それを応援したいという気持ちが芽生えたのも大きい。就職への努力は今のところ報われていないが。

チョロ松は湯飲みとティーバッグをもう1つずつ取り出し、湯飲みにお湯を注いだ。

今日のカラ松のそれは、おそらく前にチビ太に誘拐されたときのものだ。誘拐されたとき、というか、誘拐された末に自分たち兄弟にやられた傷だが。誘拐されたカラ松は、梨に負けて放置され、夜うるさいからという理由で物理的に黙らされ、普通なら死ぬ程度の怪我を負った。頭部裂傷、骨折、打撲等々。怪我の直後こそ少し拗ねていたが、いつもカラっと忘れてしまうのがカラ松だ。実際、理不尽についてそれ以上言及することはなかった。今回はたまたま誘拐されたのがカラ松だっただけで、他の兄弟が誘拐されたとしても、きっと残った5人は同じ反応をするだろう、と6人全員がわかっていたから。

茶の間の救急箱を開けると、常備薬の他に見慣れない紙袋が入っていた。松野カラ松様、と書かれたそれは、カラ松が病院で処方されてきたものだ。痛みを抑える薬、抗生物質、炎症を抑える薬。何種類かの薬が飲みかけのまま残っている。そもそも通院していたのももう何ヶ月も前の話だ。

袋の中の薬は自分にはよくわからないので、袋の外にある痛み止めの錠剤──半分が優しさでできているやつ──を小箱ごと手に取った。

あの頃、雨で古傷が痛む頃。自分はいつも"努力が報われない思い出"と共にあった。カラ松は今、どんな気持ちの思い出と共にあるのだろう。

これは別に、誘拐されたのを助けなかったことを詫びたいわけではない。高校時代のあの日の礼がしたいわけでもないと思う。ただ、テレパシーでもないのに兄弟の様子がわかってしまったから。わかってしまった様子に対して、こういうときはこうすればいい、という心の底の誰かの声に応えてもいいと思ったから。

お盆にお茶とコップと小箱を乗せ、階段を上る。ふすまを開けると、カラ松は先ほどとあまり変わらない体制だった。

「カラ松、お茶」

「…え」

「あと痛み止め、飲んだら」

カラ松はしばらくぽかんとしてから何かに気付いたようで、少し照れたような顔で「ああ」と言いながら起き上がった。

高校の頃は部屋になかったソファを背もたれにして、チョロ松は床に座り込む。ソファに腰掛けて錠剤を飲み込むカラ松をちらりと見上げる。見た目は五体満足で、どこかに傷が残ったりもしなかったようだ。視線に気付かれたようで、カラ松がチョロ松の方を見る。

「悪いな」

「…まぁ、雨だからね」

「…そうだな」

部屋の外は相変わらず雨で、予報の通り、しばらく止む気配はなさそうだ。

お茶のおかげか、部屋は少しだけ暖かい。

 

説明
水陸松がお茶を飲んだり、昔を思い出したりする話。中学〜高校時代の捏造多めです。ご注意ください。
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