Aufrecht Vol.15 「明里」 |
建物に染みついた煙草のにおい。水拭きでふやけた板の間や支柱に、黴のようにも抹香にも思える侘しいにおいが混じっている。屋内は暗い。奥座敷や二階に人の気配はあるけれども、外界とはかけ離れた緩慢さがそこにある。
巳の刻10時頃。置屋の太夫たちが二度寝から覚め、ようやく起きてくるような時間帯だ。
きらめくような陽の光が、暖簾の隙間に分け入って間口を明るく照らしている。
今こそ私の正念場だ。
うまくいけば、新たなる道を模索できるだろう。そして、山南さんを生かすことができるはずだ。もしかしたらすごく浅い考えなのかもしれないけれど、今ここで自分を疑っては新たな道を切り拓くことはできない。
そういう決意を胸に抱き、今日という日を迎えるために万全の心構えで臨むつもりだった。しかし、「お前に交渉なんざ無理だ」と言われ、そんなことはないと食い下がってみたものの、よくよく考えてみると遊里のしきたりもわからない私が、どうやって交渉をまとめるのか、相手がどう切り返してくるのかも分からないというのに、臨機応変に対応するだけの言を持っていないことを悟ってしまった。意気込みだけが立派でも、馴れないことをして墓穴を掘ればすべてが泡になる。不馴れな自分が出て行くよりは、この手のことに熟練している土方さんの方が適任だった。
(緊張するなぁ)
じっとしていられなくて、玄関口の土間を行ったり来たりする。そうして小半刻が過ぎていった。すすっと経木の音がして、振り返ると土方さんが出てくるところだった。
(出てきた!)
楼主との交渉を終えた直後の土方さんは、ゆったりとした歩幅で私の待つ土間へと近づいてくる。小走りで框まで寄っていくと、微笑みながら軽く頷いてくれた。話がまとまったのだ。
(よかった)
ほっと胸をなでおろしていると、階段の踊り場で物音がして、ちょうど誰かが降りてくるところだった。よく見れば、その人こそ明里さん本人である。階下にいる私たちがまるで見えていないかのように、足先を捕らえたまま、しとやかに裾を払いながら、階段下の畳敷に入っていく。衝立で区切られているだけの空間は、時間帯によっては人の動きが激しいところだけれど、今は人の気配もまばらだった。
何もかも勝手がわかっているというように、土方さんは臆面もなく部屋へと入って行き、おろおろする私を捨て置いて早くも着座している。私は所在なげに立ち尽くすしかなかった。
(私も同席した方がいいのだろうか?)
お伺いを立てるべきかと思ったけれど、日頃から悪名高い私たちが雁首揃えて対座するとなると、きっと明里さんだって怯えてしまうことだろう。静かにその場から離れ、自粛することにした。
ここならば二人の声が届くだろうと、尻の冷える上がり框に腰をおろし、ふわりと揺れる暖簾の先に視線を伸ばしていく。ようやくあたたまってきた地面が、陽射しを帯びて明るい色をなしていた。
これから稽古にでも行くのだろうか。若い娘たちの瑞々しい声が、表の方から聞こえてくる。
「怖いか?」
そう尋ねる声の方がよっぽど硬化していることに、私は気づいていた。第一声から怯えさせてどうするのかと思ったけれど、土方さんも切り出すタイミングを計りかねているのかもしれない。彼も緊張しているのだ。
「え? …いえ…うちはなんで呼ばれたんやろ思うて、少し驚いてるだけで…」
「そうだろうな。だが、安心していい。悪い報せではない。」
言ったそばから、「ほっ」という溜息が洩れる。土方さんは花街でちやほやもされるけれど、その反面、端正すぎる顔が近寄りがたく思われ、萎縮する女性も少なくはない。
「先生に、なんぞあったんかと肝が冷えました。」
「断じてそれはない。あの人は相変わらずだ。…山南さんは俺のことをどんなふうに言ってる。」
「へぇ…新選組のためなら鬼になれる男だと…山南先生はそんなふうにおっしゃっていました。」
聞き終える前に、くすりと笑う声が聞こえた。
「お前は正直だな。心置きなく頼める。」
「頼む…とは?」
(いよいよだな)
タイミングを読んで、膝の上で握りこぶしを固くする。
「明里。お前を貰い受ける。山南さんと共に暮らせ。住まいも用意させてある。」
「うちが…山南先生と…?」
「ああ。」
土方さんが頷きの声を深めると、喉の奥にひっかかるような湿った音が洩れた。ためらう暇もなく振り返ると、彼女は袖で顔を隠しながら身を小さくして顫えていた。
「…っ……うぅっ…」
明里さんは嗚咽を隠すように、くぐもった呻きをこぼし泣いていた。袖の下に見えるくしゃくしゃの顔は、幼い少女のようにあどけない。
「…夢…みたいや…嘘みたいな話…」
「嘘じゃない。」
泣きじゃくる彼女を見つめながら、土方さんは微動だにしなかった。彼女の想いを体の表面で受け止めるかのように、髪の毛の先にまで感受性を発し、じっと耐えている。
「うち、死のうか思うたこともありますのんや。先生以外の男はんに身請けされるくらいやったら、いっそ死んでしもうたのがええんちゃうかと思いましたんや。…死なんで良かった。ほんに、死なんで良かった…」
(そんなふうに思いつめていたなんて…)
目頭に熱いものがこみ上げてくる。
この発案がなかったとしたら、身請けの段取りが滞っていたら、明里さんは自らの命を絶っていたかもしれない。山南さんを救おうとする一連の試みは、明里さんの命まで救ったということになる。人の運命は、誰かの運命と絡み合いながら、時として同じ道につながっていくのだなと思った。
「簡単に命を投げ出すな。生きてりゃそのうちいいことがあるさ。現に、いいことがあったじゃねえか。」
「へぇ…おおきに。おおきに土方はん。」
感謝を告げる彼女の言葉には、私が想像もしなかった重みがある。夜にしか咲くことを知らない花が、初めて見る陽の光に涙するような、そんな感動すら覚えるからだ。
「お前の手で、山南を生かしてやってくれ。情けない話だが、こんなことを頼めるのはお前しかいないんだ。頼む。」
手をついて、頭を下げる土方さんを眼下にとらえる。無意識に立ち上がり、二人の様子を見守っている私がいた。
明里さんはこちらへ目もくれず、かと言って土方さんを凝視するわけでもなく、軽く伏せた瞼をそのままに焦点のまるで合わないような眸をしている。
「……」
無情にも沈黙は長い。ゆっくりと顔を上げた土方さんは、自分の考えが拒まれていることと知り、責めるのとは違う問いを重ねていく。諦めるための口実を探すような、そんな憂いが滲んでいた。
「軽蔑するか? あの人の信念を穢さないために、俺を鬼だと憎むか?」
「いいえ。敬助はんのために頭下げはったこと、うちはようよう心に留めておきますさかい。たとえ、あの人がそれを知らんかったとしても、うちが胸に刻んでおきます。」
彼女の言葉は凜然としていた。今度こそ土方さんの目を見据え、承諾したことを示すように両手をついて深く頭を垂れている。それを見届けると同時に、土方さんは立ち上がった。
「三日後。遣いの者を寄越す。それまでに支度を整えておいてほしい。」
「へえ。承知しました。」
返事を聞き終わるより先に、素早く部屋を抜けた土方さんは、草鞋の紐を適当に結んで土間へと降り立った。暖簾をかき分けて、逃げるように進んでいく。あまりの早業について行けなかった私は、土間口で置いてけぼりになっていた。
「ちょっと! そんなに急がなくてもいいでしょうに!」
慌てて追いかけるけれど、追い風に乗る木の葉のように彼は先を急いでいる。大股で歩き、そのうち小走りになり、最後には走らなければならなくなった。
ようやく追いついて肩を並べると、彼は気難しい顔をして前方を睨んでいる。
「なにをそんなに怒っているんです?」
「怒っちゃいねぇ。ただ…」
「ただ?」
「ほんの一瞬だけ、手前が嫌になっただけだ。」
(そうだったのか…)
明里さんに頭を下げた瞬間に、土方さんは京にきて初めて己の愚を認め、そして恥じたのだ。第三者の視点からすると、かなりの譲歩だと言っていい。そうさせたのは、他でもないこの私なのだが――
「山南さんを明里さんに押しつけることを、ですか?」
「ああ。すぐに気づかれるだろうがな。」
頭のいい山南さんのことだから、自分が置かれる境遇をすぐにそれと悟るのだろう。そうなったとき、誰に感情が向くのかが問題だ。真っ先に土方さんへ向かうことだけは、避けたい。
「それなら私も同罪だ。元はと言えば、私が提言したことです。失望されるとしたら、むしろ私の方。」
率先して私がやったことにすればいい。そうすれば、彼の目を少しは逸らせるだろうから。
「いや。それは、俺が利用したにすぎない。いいんだ。俺に矛先が向いてくれれば。結局は俺が悪者さ。」
「なにを言うんです。悪者になるためだけに、ここへ来たんじゃないでしょう?」
私にとっては相手が誰であれ、上洛したことを悔やんでほしくなかった。確かに私たちの仕事は、市中警邏という本懐とは逸れたところにあったのかもしれないけれど、日々こなしてきたことのすべてを否定するのは違う気がするのだ。それに、血腥いことだけが、京の生活のすべてではない。私たちを支えてくれたいろいろな人たちとの交流もまた、短い歴史の中に息づいている。もちろん、仲間との絆もそうだ。喧嘩もしたし、時には裏切りともとれるような思い切った手段をとったりもしただろう。でも、それは相手が自分と同じ土俵にいるからこそであり、知り合いたい、分かち合いたいという思いがあるからだ。
土方さんは、そういう感情を割合一番強く持っている。どんなにいがみ合ったとしても、心の奥底では山南さんを気にかけているのだ。
「総司。これから嵐になる。」
「そうかなぁ? こんなにいい天気なのに…」
唐突にそんなことを言われ、疑う余地のない青天井を見上げた。空はどこまでも澄んでいて、一枚の翼を広げたように雄大な雲が浮かんでいる。どの方角を向いても穏やかであることに変わりはなく、嵐が潜んでいる気配もない。
「阿呆。天気の話をしてるんじゃねえ。まぁ、そんなお前がいてくれるから、俺たちは繋がっていられるのかもな。」
土方さんが何を言おうとしていたのか、私だってなんとなくわかっていた。ついとぼけてみたくなったのは、この空の蒼さに自分の心を溶かし込んでしまいたかったから。
新選組は過渡期を迎えた。これから粛清に次ぐ粛清と、隊の分裂、そして血の謀略が待っている。私や土方さんだけでなく、他の仲間たちも肌でそれを感じていることだろう。
「皆さんのお役に立てているのなら良かった。」
不安なんてまるで感じていないように微笑むと、
「これからもよろしく頼む。」
うっすらと笑みを浮かべながら、土方さんはそんなことを言う。
「嫌だなぁ。頼まれなくたってそうしますってば。今日の土方さんは、気色悪い。」
「何だと?」
「…あ。」
絡もうとする土方さんの腕を逃れると、二つ目の辻に差し掛かったところに見覚えのある姿を見つけた。この時代には珍しい明るい髪の色。白いスニーカー。遠目にもわかるような特徴の数々。
「どうした。怪しい輩でも見つけたか?」
しばらくそれに見入っていると、土方さんも立ち止まって結城くんらしき人物を見た。後ろ姿だけでは、あのときの青年だとは気づかなかったみたいだ。もっとも土方さんの記憶の中から、とうに追い出されているのかもしれないけれど。
「すみません! ちょっと見てきます!」
このチャンスを逃してはいけないと思い、私はすぐさま後を追った。走れば追いつける距離だ。
「待て。急に走ったりするなよ。咳き込んでもしらねえからな。」
「大丈夫ですって!」
結城くんと思しき青年は、藍色の暖簾を手で押しやって足早にその奥へと消えていく。見失う前につかまえなければと必死で、後先も考えずに店の中へ飛び込んだ。
「わっ!」
勢い余って誰かとぶつかり、慌てて身を引くとそこにいたのは花里さんだった。駆け込んだ拍子に彼女の躰は弾け飛び、土間に転がって尻餅をついてしまったらしい。
「すみません! お怪我はありませんか?」
手を差し伸べて起こそうとすると、彼女は口をへの字に曲げてこちらを睨んでいた。手をとるそぶりもなくすくっと立ち上がると、裾の汚れを払いながら露骨に嫌な顔をしている。
「怪我はおへん。うちは丈夫やさかい。せやけど、面倒事は持ち込まんといてほしいわ。今の今までそりゃもう平和やったのに。そやし、ここには身内しかおらへんよって。」
血相を変えて飛び込んできたものだから、過激浪士を追っているものと思ったのか、花里さんはうんざりした顔で言う。
「いえ、違うんです。たった今、知り合いが入って行くのを見かけたもので。」
「…知り合い?」
私の言うことを信用していないのか、訝しげに眉を寄せて彼女は首をかしげている。暖簾をくぐり、この土間を通ってどこかの部屋に入っていったのだとすれば、花里さんだってすれ違っているはずなのだ。
「ええ。結城くんのことです。星さんの幼馴染みの…ゲホッ…」
彼女の警戒を解こうとして事情を打ち明けようとしたら、気道の周囲に違和感を感じ、とうとう咳き込んでしまった。これが始まるとなかなか引かないのだ。面倒なことになったと思った。
「おい。見つかったか?」
もっと厄介だと思ったのは、ちょうどその頃土方さんが着いたからだ。前屈みになりながら懐紙で口を押さえ込むと、喉の入口に痰が引っかかって粘膜に絡みついている。吐いてしまわないと苦しいのだ。
「ケホッ…ゴホゴホッ!」
咳を激しくした私を見ても、土方さんは取り乱したりしなかった。框に着座させ、背中をさすり、咳が病むのを待っている。
「ほら見ろ。走るなと言っただろうが。すまないが、茶を一杯貰えるか? ぬるめで頼む。」
「…へ、へぇ。」
「…ッ…ヒュッ…だ、大丈夫です。」
これはただ事ではないと思ったらしく、彼女は厨へと小走りに駆けて行った。それを見届けようとした自分の視界が揺れている。
「落ち着いたか。ったく、世話の焼ける。」
そう言いながらも土方さんは、背中に当てた手を引っ込めようとはしなかった。隣の視線を強く感じながらも、無造作に丸め込んだ懐紙を恥じ入るよう袂へしまい込む。殴られでもしたように肺がジンと痛むが、時間とともに気にならなくなるのでそれ自体はどうということもない。それよりも、知られたくないことが露見して、自分が注目を浴びることの方が耐えれれなかった。
「すみません土方さん。適当にそこら辺の茶屋で待っていてもらえますか。それか、先に帰ってくれても構いません。」
「いや、いい。待っていてやる。すぐ済むだろう?」
「どうだろう? 先方次第かな。」
幕末に戻って二ヶ月弱。その間、結城くんとは一切話をしていない。もしかしたら私の思い違いになるかもしれないけれど、彼に会って確かめたいことがある。その展開は未知数だ。
「だったら、俺が早く済むように同席してやるよ。」
「やめてくださいよ。余計に話が進まなくなるじゃないですか。」
「冗談に決まっている。いちいち真に受けるなよ。総司が好物にしている餅を出す茶屋があったな。あそこで茶でも啜ってるさ。」
いたずらっぽく笑って土方さんが立ち上がったとき、奥の間から悠然と現れたのは藍屋さんだった。
「おや。男はんらの声がする思うたら、土方はんに沖田はんまで。お勤めご苦労さんどす。」
わざわざ框に膝をついて私たちを見上げる藍屋さんは、置屋の楼主というよりは大店の若旦那のように、所作ひとつにしても風情があり、余裕たっぷりに振舞っている。
はっきり言って、私はこの人と話すのが苦手だ。自分とこの人を較べること自体が間違っているのかもしれないが、男として居並んだときに気後れしてしまうのだ。だから、私は会釈だけをして黙っていた。しかし、これがいけなかった。
「いや、この通り見回りというわけではない。こいつがどうしても吉野太夫の顔が拝みたいと言うもんでね。軽々しく太夫を呼びつけるなんざいかにも無粋だからと窘めたんだが、どうしてもと聞かねえのさ。悪かったな。」
(なぜそんな嘘を!?)
驚きつつ見咎める仕草をすると、土方さんはハッタリも真実になるとでも言いたげに涼しい顔をしている。ここは抗議をしておかないと、後々面倒なことになるのではないかと思った。
「ちょっと! 話を曲げないでくださいよ。私は星さんに会いにきたのではなくて、結城くんと話がしたくて追いかけてきたんです。確かに、星さんに会えたらいいなというのは否定しませんが…」
語尾を濁す私をよそに、土方さんは初めて耳にしたみたいにその人の名を口にする。
「結城?」
「吉野太夫の幼馴染みや。時々訪ねてきはります。長居はせえへんやろし、わてから結城はんに伝えておきまひょか?」
私が説明するよりも早く、結城くんの正体は明るみになった。要領を得たように立ち上がり、藍屋さんは奥座敷に引っ込もうとしていた。花代こそ出せば丁重に迎えられる夜の島原も、昼間の置屋ともなれば必要最小限度にとどまり、その対応はいたって簡素なものになる。
「あの…たいへん図々しいことをお願いするようですが、私もお邪魔させていただくことはできませんか?」
食い下がる私を一瞥し、藍屋さんは目をしばたたかせた。ここで押してくるとは思わなかったのだろう。いったん会話が途切れ、ややあってから彼は唇をしならせた。単に口もとをゆるめただけで品がある。
「本人たちに聞いてみないことには何とも。ちいと待っとっておくれやす。」
そう言い残して、今度こそ彼は奥へ下がっていった。入れ違いに様に、湯気の立つ盆を持って花里さんがやってくる。
「言ってみるもんだな。」
めったに見られないものを見たというように、にやにやと笑いながら土方さんは愉しそうだ。何だか妙な一日になったなと思った。
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艶が〜る二次小説。沖田総司長編です。 | ||
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