秘封倶楽部怪談記 〜リンフォン〜
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喧騒。

それは大別して、自由な自然生物及び不自由なヒト科生物が生む"生活音"と単なる"幻聴"の二つになるのだと何かで聞いた。

前者は生きていく上で流れ行く音として世界に満ち、後者は死にゆく上で留まってゆく音として心に満ちるのだ、と。

どうせ満ちるのなら、お気に入りの音楽の方が良いと願いたい物だが、そうは行かないからこそ喧騒なのだ。

 

――京都のとある大学内にあるそこそこのカフェ。しかも午後の講義もあらかた終了した時刻ともなれば、その喧騒も顕著なものだった。

ある者は本来の目的である飲食を楽しみ、ある者はランドマークとして利用した待ち合わせの時間を楽しみ、ある者は終わらぬレポートの苦痛を紛らわせる為に友人と談笑を楽しむ。

それがもうじき訪れるカフェの営業時間終了までただ続く。

 

そんな、喧騒――。

 

「――ふぬー!」

「ねぇメリー? そろそろギブアップしても良いのよ?」

「ま、だ……もうちょっとぉ。やっと仕組みが分かってきたような分からないような……。うぎぃー!」

「ふふん。"私にはこの箱は開けられません"って素直に言えば早く楽に――ってちょっとティースプーンでこじ開けるのはナシナシ!」

 

――そして、その喧騒の中でも一弾と姦(かしま)しくしているのが我らが秘封倶楽部。私、マエリベリー・ハーンと相棒の宇佐見蓮子の両名である。

 

 

 

 

 

   秘封倶楽部怪談記『リンフォンの怪』

 

 

 

 

 

今回の事の始まりも蓮子の思いつきからだった。

 

「ねぇメリー。これ、何だと思う?」

 

本日予定していた最後の講義が教授都合により中止となり、余った時間を丁度危機的状況にあったレポートの作成時間に充てていた時だ。

唐突に見慣れない形をした"それ"を、貴重な紙媒体の理論書のページの上に蓮子の手から無造作に放られた所から話は始まる。

 

「……小箱……かしら?」

「半分正解って所ね」

 

蓮子がこうして、普通の常識的な人間にならあるだろう何らかの前置きを全て吹き飛ばして、好奇心のまま本題を始めるのは何時もの事。

すっかり慣れきってしまっていた私は、無作為に転がされた話の種をペンで突付きながら観察し始めていた。

 

定規の類が無いので細かい寸法は分からないが、大体10〜15a角ぐらいの多角形木製細工だろうか。あまりに角角としているので、むしろ角ばったボールと表現した方が相応しいかもしれない。

それでもギリギリ箱と認識出来るだけのデザインをしている辺り、これを作った職人さんは高い技術力を持った芸術家なのだろう。

少々古びているようだが、丁寧に施された幾重にも重なり合うように交差する細やかな線と模様は、私を引き込むに充分美しい細工だった。

でも、外見から得られる情報としてはそこまでが限度。

なんせ私は骨董品一筋の偏屈な鑑定師では無いのだ。

 

「……もったいぶらないで、もう半分の情報も教えてよ蓮子」

 

どうせどの道、これに関した話が蓮子の口から遅かれ早かれ語られるのだろう。それならばさっさと結論から聞いて、いち早くレポートの重圧を解消しにかかりたい。

だが、私の反応を観察するように見つめる蓮子が返した言葉は

 

「小箱は小箱でも、からくり木箱よ。秘密を封じた、ね」

「もったいぶらないでって言ったじゃない……」

 

古典的マジシャンの売り文句のように曖昧で神秘的な、更に私の興味を引くに充分な断片情報だった。

――秘密を封じたとされれば暴きたくなる。それが人間と言うものだ。

私も人間の範疇に漏れず、本質的な探究心と好奇心に突き動かされるまま、今一度木箱へと意識を投じさせる。

 

「あら、結構軽いのね」

 

アンティーク独特の、肌に馴染む感触を楽しみつつ手にとってみると、思ったより遥かに重量を感じない。

と、言っても元々大物でも無いから箱自体の重さの事では無く、中身の重さに対する感想だ。

そのまま丹念に木箱を眺めていると、時間もかからずに蓋と本体の境目らしきパーツ構造が見えた。

木箱なら当然かもしれないが、頭の何処かでオブジェかもしれないと疑っても居たので、個人的には少しワクワクする新発見である。

宝石箱に、ビスケット箱。夢の詰まった宝箱の方が期待値は高い。

このままの勢いで開けてしまっても良いのだが――

 

「――開けても良いの?」

 

ここは淑女らしく、一言持ち主に断りを入れておいた。

 

「どうぞ? 開けたければね」

 

許可はあっさりと出た。ならば遠慮は居るまい。

箱の継ぎ目を割り開くように、手をかける。幸いにも掴めそうな所は余ってしまう程ある。

だが、そのまま力を篭めようとした時、ふと蓮子の挑戦的な笑みが視界に入った。

 

何か、というかすごく、怪しかった。

 

確かに秘封倶楽部は怪しい活動をしているサークルだが、こんな怪しい笑みを浮かべるようなサークルではなかった筈だ。多分。

ならば何故蓮子はこうもニヤニヤとしているのだろう。私の反応を楽しそうに待ち望んでいるのだろう。

 

「どうしたの? 開けないの?」

 

蓮子が催促するように声を掛けてくるが、ここはもう少し慎重に箱を観察するべきだ。

とは言うものの、細工が細かいだけで箱の構造は単純だ。蓋も見た目は手が込んでいるが、鍵らしきものも付いていない。開けるのは至極簡単。

開けた挙句「はい、箱の開封代の請求書ね」と来る可能性も考えたが、流石にそれは無いだろう。そんな人ではないし、そもそもされた所で過去の待ち合わせ待機時間の特別延長料金で相殺するまでだ。

 

――開けた後の反応? ああそうか。これは――

 

「ビックリ箱ね?」

 

私の冷静な頭脳は一つの見事な仮説を打ち立てた。

開けると同時にシンプルなスプリングギミックで飛び出してくるだろう何らかの物体。

驚いて悲鳴を上げる私。

それを携帯端末か何かで録画し、未来永劫お酒の肴にする蓮子。

きっとそういう計画なのだろう。

 

「――私を驚かそうたってそうはいかないわ!」

 

残念ながら、ネタにされると分かっていてあえて目論見に乗ってあげる"芸人魂"とやらは持ちあわせて居ないのだ。

早速、私は小箱の蓋部分を蓮子に向けると、カウンター攻撃とばかりにそのまま驚きを封じた蓋を解き放ってみせた。

 

「――あれ?」

 

――つもり、だった。

蓋にかけた指に力を込めた筈なのだが、肝心の蓋がそれに従わなかったのだ。

無論、箱の中からビックリは飛び出さず、蓮子の余裕は揺るがない。

 

「はい残念でしたー。開けられる事が目的のビックリ箱じゃ無いわ。どちらかと言えば開けられない事が目的のトレジャーボックスが正解!」

 

それどころか、この光景の方こそ目的だったとばかりに、蓮子の意地悪な笑みが深みを増した。

比例するように、ストレスが私の胸の内に蓄積されていく。

 

「……何それ。じゃあ開かない宝箱を渡した訳?」

「いいえー? ちゃんと開くようには出来てるわ。からくり箱の鍵は挑戦する者の知恵と閃きよ。……でもメリーに開けられるかしらねぇ?」

 

なんて事だ。相手の一枚上手を行ったと思ったら、それさえも相手の思惑通りだったと言う屈辱。そこへさらに挑発的な態度の追撃。

――このまま引き下がれるだろうか? ――否! 断じて否!

 

「――上等じゃない……。あっという間に開けて、その月の上から見下ろすような笑顔を取り消させてあげるんだから!」

 

こうして私は、進級と卒業に響く単位習得の為のレポート消化任務よりも、個人的なプライドとサークル内における尊厳の為の宝箱開閉を優先させてしまったのだった。

 

 

 

 

「うー……」

「ふっふっふー。負けを認めるかねメリー君」

「ち、違うわよぅ……。休憩、ちょっと休憩するだけなんだから」

 

コロコロと目の前に鎮座する木箱を睨みながら、対面に座る蓮子に反論を返す。

結局木箱の蓋は、叩いてもこじ開けても回してもズラしても話しかけても、ほんの一ミリも開く兆しすら返してくれない頑固さを誇っていた。勿論蓮子はヒントの一つも差し入れてはくれない。……こうなったなら意地でも負けを認めたく無い物である。

 

「そもそもこれ、本当に開くように出来ているの? ……と言うか、貴女こそ開けられるの?」

「前者の返答は"イエス"で、後者の返答は"はい"よ。開けられないからって私を疑わないでよ」

「失礼ね。確認! かーくーにーんーでーすー!」

 

最早知恵も尽きかけ、机に半ば突っ伏してる今の状態で何を言っても、負け惜しみにしか聞こえないだろう。

だが、その事に気がついたのは言ってしまった後だ。もうどうしようもない。

――そういえばあれからどれくらい頑張っていたのだろう。久しぶりにカフェを見回してみると、思い思いに過ごしていた人影も最早まばらになっていた。

 

「皆もそろそろ帰るのね……」

 

何分、学生は忙しい。

暇が出来たとしても、その暇な時間を精一杯楽しまねばならないのだから、忙しい。

私も木箱一つに夢中になっている場合では、無い。

大体ここで華麗に開けてみせたとして、それが一体何になると言うのだろう。欲しいのは謎に対する答え。そして、レポートを作成する事で後々得られる単位だ。

今ここで蓮子に僅かな勝ちの一つを譲る事と、蓮子に対する見栄。どちらを選ぶべきかなんて、わざわざ仰々しく考える事でも無かった。

 

「――分かったわ蓮子。"give up"よ」

 

こちらから、諦めと心の整理のため息一つ。

 

「お疲れ様。頑張った方だわ」

 

あちらから、勝利と心の優越のため息一つ。

 

色の違う音だったが、それらは不思議と奇妙な調和を果たした。

 

「じゃあ早速、中身の秘密について話してよ蓮子。このままじゃ夜も眠れない」

「あら、レポートが進んで良いんじゃない?」

「レポートが進んでも肌の老化まで無駄に進めたくないの」

「オーケー。秘封倶楽部の活動で消費する分の寿命は残しておかないとだものね」

 

物騒な話に返答する代わりに、木箱を押しやって返還すると、出題者は厳かにその小さな難問を掴みあげた。

途端、蓮子の表情はダラダラと講義を受ける"何時もの顔"ではなく、秘封倶楽部として活動する時の"何時もの顔"に変わっていた。

つまり本格的な私の放課後は今から始まったのだ。

 

「――この箱の名前はリンフォン。リンフォンは名を変え、形を変え……複数のパターンが存在するわ」

 

リンフォン。勿論聞き慣れない言葉だった。

すると蓮子は、携帯端末の画面上に何やら打ち込んだ文字を、おもむろに私へと示した。

 

"RINFONE"

 

成る程、これでリンフォンと読むらしい。何処の言葉か分からないから、ネイティヴな発音かどうかも分からないが。

 

「もっと開けやすい親切でシンプルな木箱もあるの?」

「いえむしろ基本系はパズルね。手順に沿って組み替えていくと、鷹とか熊とかの形になるらしいわ」

「へぇー……」

 

蓮子の手に乗っけられたままのそれを、もう一度遠目にじっくりと観察してみる。

他のリンフォンもこれと同じくらい頑固なパズルだとすれば、私にとってそれは見事なオブジェと化す事だろう。

物体の空間把握能力に恩恵があるか分からないが、こんな事なら超統一物理学の方も齧っておくべきだったかもしれないと、少し後悔した。

ともかく木の色の僅かな違いから察するに、この木箱はそういった変形はしてくれなさそうだ。

蓮子には悪いが、どうせなら鷹や熊になるという基本形リンフォンの方を見てみたかった。

 

「"熊""鷹""魚"って順番に変形させていくんだけれど、最終系まで辿り着いたという話は聞かないわね。……いえ、リンフォンを完成させた者はそもそもこの世に居ないのかも」

「何それ。やっぱり難しいパズルなんじゃない!」

 

吹っ切ったつもりだったが、やはり個人的に悔しさが燻っていたらしい。

我ながら子供っぽいとは思いつつも、蓮子に抗議混じりの冷ややかな視線を向けてみた。

当然、いつもの調子の反応が帰ってくると思った。――が、

 

「――語弊があるわね。リンフォンを完成させた者は"この世から居なくなる"のよ」

「――え?」

 

小さく首を振った後、熱の篭った目をした蓮子から静かに語られ始めたのは、リンフォンの中の秘密《やみ》だった。

 

「えっ……? ちょっと待って蓮子。それって一体どういう事? 呪われてるとか、祟りが在るとかまさかそういう――」

 

無論、私は唐突な話に動揺を隠せなかった。

なんせさっきまで弄くり回していた物の正体が、不幸をまき散らすだの、持つと呪われるだのと言った類の物なのかもしれないのだ。

誰だって危険物を知らず知らずに持たされていたら、動揺する。

 

「そんな、だって……まさか……」

 

信じなかっただろう。

蓮子以外の口から語られた事だったなら。

私が得意な眼を持っていなかったなら。

私達が秘封倶楽部で無かったなら。

 

もし、そうだったなら私は――

 

「――"地獄"がこの中に収められている、と行ったら貴女は信じる?」

「地獄――?」

 

――私達の丁度、間に置かれた古臭い木箱と中身の話を、「くだらない」と一笑出来ていたかもしれない。

 

「この中に……地獄が?」

 

どう返せば良いかも分から無くなっていた。

今目の前に在るリンフォンの中身は、それこそ予想を遥かに上回る答えだ。想像すら付かない。

ただ私の体は、国境の存在しない世界共通の恐怖の前に、無意識に強張っていたらしい。遠くで誰かが立てた椅子の音に、自分の肩が小さく跳ねたのを認識した。

蓮子はそんな私の反応を置き去りにしたまま、再び携帯端末を操作し始める。

一通り操作を終えた蓮子が再びこちらに向けた画面上に浮かんでいる"RINFONE"の文字。

 

「アナグラムは勿論知っているわよね」

 

こちらに画面が向いたまま、蓮子によって起動された端末の機能が、プログラムに従って8文字のスペルを徐々に入れ替えていく。

それは僅か3工程で単なる木箱の名を、別の名に変えてしまう。

 

『――"INFERNO"』

 

反射的に蓮子と共に読み上げていたその言葉はイタリア語。地獄・煉獄を指し示す意味を与えられている言葉だった。

 

「地獄。そう、リンフォンとは内包する地獄への門そのもの」

 

――この世からいなくなる。それはつまり、地獄に引きずり込まれるという事なのだろう。

 

お互いの間に次の言葉は続かなかった。

地獄を内包すると言うには、あまりにも平凡で小さ過ぎる木箱。それが今、目の前に存在している。

そしてそれはつい先程まで確かに、私のさほど大きくもない手の内にあったのだ。

本来ならばこんな話、一笑どころか一杯のコーヒーのお茶請けにもならない与太話。

だけど、私達秘封倶楽部は知っている。その妄想《ゆめ》が、幻想《ゆめ》になるような世界を。

唐突に現れた死の世界への手がかりに、無意識に唇に力が篭もっていた。

 

「――私がそのリンフォンを見つけたのは、本当に偶然だったわ」

 

長いようで短い沈黙の後、先に口を開いたのは蓮子だった。

淡々と抑揚の静かな言葉が紡がれていく。

 

「知識としてその存在は知っていた。でも一昔以上前の実在するかどうか分からない噂話だもの。私も本気にしていなかった」

 

――これを見るまではね。と蓮子が懐からおもむろに机の上へと取り出してきたのは、一枚の黄ばんだ紙。

古くうす汚れたその紙には、何やら図形のような物が簡単に書かれているように見える。

どうやらパズルギミックの一環として、カラクリ箱の類になっているらしい。中々複雑で精巧らしく、偶然では開く事は無いだろう。

かなり読みづらいが、英語とラテン語らしき言語もその図形周りに添えられていた。

 

「リンフォンには説明書が添えられているの。地獄の門の開け方を伝える為にね」

 

紙に書かれた品名は"RINFONE"。

説明書まで付属しているという事は、難易度によって"開けられなかった人"は最初から居なかった事になる。……そして、居なくなったのかもしれない。

これなら蓮子が開け方を知っていた事に納得が行った。が、それは別の問いを生む事になる。

 

「――ちょっと待って貴女……まさか開封しようとしてないわよね!?」

 

リンフォンが本物かどうか。そんな事を追求するよりも真っ先に気になった事はそれだった。

好奇心を核に動く蓮子だ。入手したその場で中の地獄とやらを確かめるくらいやりかねない。

好奇心は猫をも殺す。宇佐見蓮子という猫は、好奇心によって死ねる。

この確認は重要で、そして質問はむしろ願いに近かった。

 

「流石にそこまでは確認出来なかったわよ。開ける一歩手前で踏みとどまったわ」

「そりゃそう、よね。……良かった」

 

本当に、心底安心した。

……よく考えれば当然か。開けた者がリンフォンの中の地獄に連れて行かれるのなら、蓮子が今こうして私と話をしている訳がない。

 

「メリー?」

「……ごめんなさい。大丈夫だから」

 

蓮子にまで心配されてしまうとは、我ながらひどく取り乱していたらしい。

椅子に座りなおして一回深呼吸。

問題はここから、なのだ。

 

「それで、蓮子。一体それをどうするつもりなの?」

「……」

 

蓮子は答えなかった。というより、答えあぐねいている、と言った様子だった。

沈黙が続く程に他の雑多な音が意識から外れていく。

 

「……"シュレディンガーの猫"って分かるかしら」

「えっと、量子力学の思考実験だっけ? ……それがどうしたの?」

 

シュレディンガーの猫。それは量子力学系における状態の重なり合いを例える思考実験の名称だったと記憶している。

専門ではないので、聞きかじった程度しか知らないが。

 

「正確には、量子力学に対する反証思考実験ね」

 

そう言って私に訂正を入れる蓮子の眼は一転して輝いていた。

量子力学は超統一物理学を専攻する蓮子の範疇。まさに水を得た魚だ。

 

「簡単にまとめてしまえば、結果を一定時間後に観測するまで"猫が生きている状態"と"猫が死んでいる状態"の二つが重なり合って存在する、と言った具合の実験よ」

「……確か矛盾点を突いた話だったのに、例えが分かり易すぎて一般的には誤解されがちなんだっけ?」

 

負けじと何処かで拾った豆知識で応戦してみると、「言葉や名称なんて有名になった方が定着するものよ」と、蓮子は柔らかくはにかんだ。

講義の内容や、最新の科学的見地を話す今の蓮子はとても活き活きとしていて、見ていて安心出来る。

 

「思考実験だから実際にどうなるかは別として、最後に観測した時点で猫の生死の可能性がどちらかに収束されるって事になっているのだけれど――」

 

出来る事ならばこのままお茶を濁しておきたかったが、蓮子の眼に覚悟の光が宿ったのが分かってしまった。

再び彼女の手に握られる地獄。そして、重く感じる息苦しさ。

 

「――リンフォンも、同じだと思わない? 中にあるのは虚偽の浪漫か、それとも真実の地獄の門か、はたまた双方を満たす異世界への扉か。観測するまで結果は誰にも分からない」

「開けて確かめるつもり……なの?」

 

静かに、蓮子は一度だけゆっくりと頷いて見せた。

途端、私の心臓が大きく跳ねた。

 

「……ダメ! もし……もし本物だったらどうするのよ!」

「その時は、私が異世界か地獄のどちらかに引きずり込まれるでしょうね」

「分かってるならなんで!」

「確かめなければ本物にも偽物にもならないからよ。幻想も現実も、観測する者が居なければ無いのと同じじゃない」

「だからって――」

 

私の言葉は、そこで胸の内に留まってしまった。

蓮子を説得するだけの材料が無くなった訳じゃない。

蓮子が危険な目に会うのを見過ごそうと思った訳でもない。

 

「――ならメリー。貴方が代わりに開ける?」

 

地獄を封じたパンドラの箱が、真っ直ぐ突き付けられていたからだ。

 

「私……が?」

「貴方のその奇異な眼があれば、戻って来れる可能性は大きいわ」

 

確かに、その可能性はあり得る話だった。

これまで幾度も、私は夢と現実の垣根を越えて異世界とも言うべき場へ足を踏み入れている。

流石に無事とは言い切れない事もあったが、結果的に生還して来れていた。

だがそれらは、言うなれば運が良かっただけだ。確固たる実力のお陰なんかじゃ、決して無い。

 

「……わ、私には……」

「……それで良いのよメリー。私だって、好奇心で貴方を危険に晒したくは無い」

 

無言を否定と受け取ったのか、蓮子の手が私から離れて行こうとしている。

今、私の目前に差し出されていた、たった二つきりの選択肢が、一つに収束していこうとしていた。

 

――これで、良いのだろうか。

 

好奇心は猫をも殺す。

 

――本当に、後悔しないだろうか。

 

幻想も現実も、観測する者が居なければ無いのと同じ。

 

――蓮子というシュレディンガーの猫を、確立の支配する生死の箱中に閉まっても、幸せに笑っていられるのだろうか。

 

 

 

――答えは当然決まっていた。

 

 

 

「駄目」

 

持ち去ろうとしていた箱を唐突に力強く掴んだ手に、蓮子は虚を突かれたようだ。

その隙を逃さない内に、箱と説明書の二つをひったくるように奪い取る。

 

「――私が、開けるわ」

「メリー……?」

 

説明書を見ながらならば、開ける行為自体はそう大変な事では無さそうだった。

むしろ、開いてしまった後の事が頭をよぎる性で手が震える事の方が問題だろう。

それでも、なけなしの度胸で固めた決意を燃料に、作業を進めていく。

スライドと回転ギミックを動作させる度に、カタカタと骸骨の鳴らす笑い声のように鳴く木材組みの地獄門。

 

「――待って」

 

私の手を止めたのは、今度は蓮子の方だった。

見上げた先の相棒の顔はこちらが心配になるほど、不安を表面に表していた。

 

「……蓮子?」

「……本当に、開けるつもりなの?」

 

そう、聞かれて私は答えを考えるより先に、思わず内心笑ってしまっていた。

これでは先ほどの逆ではないか、と。

なんだか彼女の心が知れたような気がして、少し楽になったような気がした。

 

「無理に付き合う必要は無いのよ? 貴女に開ける義務なんて無いんだから」

「それは、貴女も一緒じゃない」

「……そうだけれど、私は好奇心という理由があるわ。貴女は何故それを開けようと思えるの?」

 

――理由、そういえば何故だろう。

問いかけられて初めて、この行動が衝動だった事に気がつく。

大事な秘封倶楽部のメンバーを危険から救うため? それなら箱を捨ててしまえば良い。

私が箱の中の地獄を確かめたいから? そこまで危険を上回るような興味は私には無い。

蓮子に負けたく無いから? 冗談。それこそこんな事で張り合う程子供じゃない。

 

何故、なのだろう。

 

「――ねぇメリー。貴女はその箱の中に詰まっているかもしれない数多の災厄と希望を一人で観測しに行ってしまえるの?」

 

何処か寂しそうな蓮子の眼。

奇特な力を持つその眼を視た時、ああそうだったのか、と心の何処かが理解していた。

そして、同時に返すべき自分の答えも見つかっていた。

 

「――心配も問題も無いわ蓮子。だって、貴女は必ず私の手を取ってくれるでしょう?」

 

自然に口から出た言葉はそれだった。

言ってやったと、何だか妙な達成感のような満足感が私の不安定だった器を満たす。

 

――そう、秘封倶楽部とは"境界を視る"マエリベリー・ハーンの事ではなく、"時間と場所"を観る宇佐見蓮子の事でも無い。

両名、二人揃っての秘封倶楽部なのだ。

だから、私の手をいつか必ず握ってくれる誰かが居るならば恐怖と絶望を超えて未知の世界を確かめに行ける。

 

――そう、たったそれだけの理由だった。

 

 

 

 

「――ふふ、ふ……」

 

何やら告白のようにも聞こえるような言葉だった事に気がついたのは、蓮子がこらえ切れない笑みを帽子で隠し始めた後だった。

 

「ふ、ふふふ……ぷふっ」

「ちょ、ちょっと何笑ってるのよ蓮子!」

 

お陰で私にも遅れて自身の内からこみ上げてくる羞恥の熱がまわってきた。

 

「もー今の無し無し!」

 

慌てて取り繕うが、未だ帽子の向こう側からは笑い声が上がり続けている。

悔し紛れに一つ帽子を剥ぎとってその憎たらしい顔でも暴いてやろうと思ったが、やはり止めておいた。

あまり取り乱すのはレディとしてどうかと、と頭の中の冷静さ担当なマエリベリー・ハーンが押しとどめてくれたお陰だ。

気を落ち着かせようと、すっかり存在を忘れていた紅茶を口に含む。既に冷め切っていたがちょうど良い、テンションも飲み物も熱いのは苦手だ。

やがて、蓮子の笑い声も落ち着き始める。

 

「ごめん。メリー。私も告白しなきゃならないことがあるの」

「……ケホッ。……ここは懺悔室でも無いし、私はシスターでも無いわよ」

 

早速蒸し返されて少しだけ動揺したが、なんとか悟られないように冷静に務める。

クールダウン、と自己の中に自己暗示のように言葉を唱えて作り上げた平常心。

だが、次に蓮子が発した言葉は私のそんな繕った冷静さをいとも簡単に吹き飛ばしてしまった。

 

 

「――ごめんねメリー。……実は全部私の作り話なの」

「――はい?」

 

それはあまりにも衝撃的過ぎる告白返し。言葉の意味を理解するまでほんの少しかかってしまう程の。

 

「だからね、デタラメだったの。パズルボックスの中のインフェルノ」

「……説明書も? リンフォンって存在その物も?」

「リンフォンの話は私も聞いただけだし真偽の程は分からないけれど、少なくとも目の前のそれが偽物って事だけは保証出来るわ」

 

呆気に取られる私。

はい、とテーブルの上に出されたショップのレシートらしき薄っぺらな紙一枚。

条件反射で記されている文字列を眼で追う。

 

「過去の遺物の集積所、リサイクルショップ"KORINDO"。そこにたったワンコインで投げ売りされていたカラクリ箱。古紙も一緒に買って頑張って私が描いたのよ? 上出来でしょ?」

「……え? ……えっ!? 本当に?」

「あら、ヒントはあげたのよ? シュレディンガーの猫実験の本質は、結果がどちらに収束したか確かめることじゃなくて、重なりあいの状態そのものを観測する事。それならリンフォンの観測結果をどちらかに収束させようだなんて、私が言う筈無いじゃない」

「……」

 

蓮子の言うかなり分かりにくいヒントを無視したとしても、彼女が一体何をしたかったのか未だに分からなかった。

お陰で私の頭の中では、安心感と屈辱感とが混ぜこぜになり、更に数多の思考が押しかけて渋滞を起こしてしまっていた。。

つまり、なんだかやたらと手間のかかったドッキリ企画のお陰で、かるい混乱状態なのだ。

思考が巡ってきたのはそれから更に数秒。

最終的にともかく私は騙されたのだと言う言葉がふと主張を強めてきた影響で、やっと言葉らしい言葉が喉の詰まりから解消され始めた。

 

「……な、何よそれバカ蓮子! どうしてそんなイタズラ!」

「あはは……だからごめんってー、ね?」

「ごめんじゃないわよ! このウサミミレンコン!」

 

精一杯の怒りを表現をしてみせる。が、対する蓮子は対して動じていない。

それどころかどこか飄々とした態度で

 

「あ、じゃあさ。いつも私が夢診断させられてる仕返し――って所でどうかしら?」

 

などと、悪びれもせずに返して来た。

 

――そう、これが蓮子。宇佐見蓮子なのだ。

無頓着で大雑把で、日本人の癖に時間にルーズ。

場を和ませるにはセンスの無いジョークが特に癪に障る。

 

「もうっ! 本気で悩んだんだからね!? 本当に中身が地獄だったら怖いなって!」

「ま、まぁまぁメリー。落ち着いて? お詫びにほら、何でも奢るから機嫌直してよー」

 

そう言う蓮子の手に握られた学生カードが、私の視界で存在を主張するようにひらついていた。

我らが大学においてこの学生カードは、ただの身分証明証ではない。

学校内の販売物のみに関してならば、支払い機能を持つクレジットカードとして使用出来るのだ。

つまりそれを出していると言う事は、校外に比べて割りと安価なこのカフェの飲食代で誤魔化すつもりなのだろう。

だがそうはさせない。蓮子の目論見などお見通しだ。

 

「――じゃあ甘味処エターナルムーンの、本格厳選とろーり濃厚蓬莱餡蜜月見お団子パフェね!」

「ふぇ!?」

 

私の口から紡がれた魔法の呪文に蓮子が戸惑うのも無理は無い。

甘味処エターナルムーンと言えば、関連会社に大手の医療機関を持つちょっと変わった甘味処なのだが、独自に持つ安心安全な高品質の自社製薬品と高レベルな遺伝子組み換え食品の製造ラインによって安定して高級素材を生産出来る強みを持つ。

そうして生み出された素材を、創業時から居るという超ベテランのシェフの手によって調合・盛りつけられる事で完成する本格厳選とろーり濃厚蓬莱餡蜜月見お団子パフェと言えば、その美味しさの余り寿命が伸びるとまで言われている代物なのだ。

無論、値段もそれに見合うだけの額を要求される。

 

「あ……あの、もっと安いのにしない? ほら、このカフェのDXプリンアラモード辺りとか――」

「駄ー目。何でもって言ったじゃない。そうでなきゃ一生恨んでやるわ!」

「あー……うー……」

 

蓮子の予定していた出費のおおよそ五倍になるだろう私の要求は、どうやら蓮子の貯蓄に死の宣告を告げるに充分だったらしい。

何やら誤魔化そうと頭を抱えていたが、やがて肩を落として諦めた様子を見せる。

 

「……はぁ、分かったわよメリー。荷物まとめるから少し待ってて頂戴……」

 

なんだか少し可哀想だったが、要求を撤回するつもりはない。

それに、その必要も無いだろう。

 

何故なら――

 

 

「――うふふっ」

 

 

とても嬉しそうな蓮子の顔がそこにあるからだ。

勿論想像でしか無いが、きっと蓮子は確かめたかっただけなのだろう。

 

これからこの先、蓮子は私と一緒に秘封倶楽部で居続けるられるかどうか。

私が幻想と現実の境目を意のままに出来てしまえた時、蓮子を置き去りにしてしまうかどうか。

――私が何かに魅入られ、蓮子をシュレーディンガーの箱の猫にしてしまえるのかどうか。

 

そう、蓮子の目論見なんてお見通しなのだ。

 

 

――だから、私が今自然に浮かべているこの笑顔は、きっとその優位さのせいという事にしておこう。

 

 

 

 

 

「さ、メリー。準備出来たから行こう? あ、気が変わったというなら今からでも受け付けるわよ!?」

「残念。気が変わるとしても別のを追加注文するかどうか程度よ」

 

鞄を持って待っている蓮子を待たせないように、恨めしそうな視線を無視しながらテーブル上に並べられた帳面を鞄の中へと手際よく片付けていく。

蓮子はきっとこういう時に大雑把に仕舞ってしまうのだろうが、そんな事をしているから鞄の中がカオス空間になるのだ。

忘れ物の無いように、一つ一つ確認しながら定めている定位置へと戻していく。

――その時だった。

 

「あっ」

 

思わず小さく漏れた声。

置きっぱなしだったリンフォンが、手にぶつかった事で無意識に出た声だった。

転がるのに適した球体に近い多面体は、まるで意思を持つかのようにテーブルの下の死角へと進んでいく。

 

「どうしたのメリー? 行くなら早く行きましょう?」

「えっと、ちょっと待って……」

 

蓮子はその事に気がついていないようだった。

とは言え、このまま見てみぬ振りで放置していくのも蓮子に悪いだろう。例えイタズラに使われただけのただの小道具だとしても。

少々周囲に変に思われるかもしれないが、私は机の下へと潜り込んでリンフォンを探し始めた。

 

「あっ……。あった!」

 

幸いにも、リンフォンは手の届きやすい位置で静止してくれていた。

これならばちょっと手を伸ばせば届く。

 

「……あれ?」

 

ふとその時、箱の変化に気がついた。

記憶の中にあるリンフォンは、球状に近かった筈の多面体。

だが今は、中身をくり抜き始めたりんごのように、箱の一部が開いて居たのだ。

あれだけ頭を捻り様々な手を用いて尚、開けられなかった箱が、ただ転がっただけで中身を晒している。

あまりにもあっさりとした解錠に少し悔しさを感じたが、あれだけ蓮子に箱の中身を説かれたせいだろうか? 次の瞬間には箱の中身を覗いてみたい気持ちに駆られてしまっていた。

迷うこと無く、リンフォンを掴みとる私の手。

 

そして、とうとう目にした箱の中には――

 

「――メリー? 何か落としたの?」

「ひゃうっ!?」

 

背後から聞こえてきた声に驚いて、反射的に上がった私の頭部が鈍い音と共にテーブルを揺らした。

オマケで付いてきたのはしついこい痛みと羞恥。

 

「あーあーメリー。ドジなんだからもう」

「うー……」

 

記憶が飛んでしまいそうな衝撃だったが、耐えられない程ではない。

蓮子から向けられる憐れみと心配の視線を浴びながら、私はリンフォンへと再び視線を戻した。

 

「――え?」

 

箱は、無かった。

まるで最初からそこには何も無かったかのように、私の手の中には無色透明の空気だけがあるだけだ。

 

「ねぇ、蓮子……あの、リンフォンが……」

 

目の当たりにした現象に答えを求めるように、蓮子を見つめる。

だが、蓮子は頬を軽く掻くと

 

「ん? 無くしたの? そんなに小さい物じゃないから見失わないと思うんだけれど……まぁ安物だし、後は掃除の人が処分してくれるでしょ」

 

と、答えどころかその事自体を何とも思っていないようだった。

蓮子はそのまま私の方へ近い方の手を伸ばす。

 

「……本物じゃなかった……のよね?」

 

蓮子の手を借りながら、テーブルの下から照明の下へと戻る。

ほんの少しだけ潜っただけなのに、久しぶりに光を浴びたような感覚を覚えた。

 

「当たり前じゃない。今時ワンコインじゃオカルトも買えやしないわよ。――それに、妙な感じもしなかったんでしょう?」

「――ええ。しなかったわ」

 

そう、"しなかった"。

 

 

――箱の中の闇から覗く沢山の眼を見て、私は全く違和感を感じなかったのだ。

 

 

「ほらほら行くよメリー。この宇佐見蓮子の決断が揺るがない内にね」

「う、うん……」

 

蓮子が手を引くまま無感情に歩み出す。

ふとカフェの外へと意識を踏み出すと、沈みだした日の残滓に混じって星々が煌めき出しているのが視えた。

私はそんな果て無き空を見上げながら、一つの事を考えていた。

 

"深淵を覗く者はまた深淵にも覗かれている"。

そんな言葉を聞いた事がある。

 

なら私は今――

 

「……メリー? 早く行こうってば。このままずっと居て敷地内に閉じ込められたら、私達が箱の中身になってしまうわ」

「……うん、そうね。外に出ましょうか」

 

――深淵を覗く者と、深淵から覗く者の一体どちら側に居るのだろう?

 

 

 

 

 

説明

秘封倶楽部物っぽい東方二次小説第二弾です。
どうぞよしなに。
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