蒼い空 白い花 |
一面黒い。みんながうつむいて、泣いている。
母さんは立っているのがやっとと言う感じで、
父さんに支えられながら、やっぱり泣いている。
当然だ。
僕も自分の母親、つまり母さんを失ったらやっぱりこんなふうに…
なんて、考えるのさえ嫌だ。
僕が見上げると、赤い目の母さんは困ったように微笑んで、僕の頭を一度だけ撫でた。
何だか逆に慰められているみたいで、僕は自分が情けなくなった。
僕が元気の出るような言葉を、かけてあげなきゃいけないのに…
「みなさん。本日はどうもありがとう。エマも空の上できっと喜んでいるでしょう」
おじいちゃんがゆっくりと言った。その表情は静かで、優しかった。
おじいちゃんのその声に、母さんが隣でまた悲観に満ちたため息をついた。
父さんはそんな母さんの肩を優しく撫で、おじいちゃんを見つめた。
おじいちゃんは緩やかに微笑んで、リズ、と母さんの名前を呼んだ。
「母さんが前に言っていたことがあった、と言ったね。今からそれをしよう」
母さんははっと顔を上げると、静かにうなずいてそうっと父さんの腕から抜けた。
母さんのお姉さんのシェラ叔母さんが、母さんに桐で出来たかごをゆっくりと渡した。
僕は慌ててその中身を覗き込もうとしたけれど、兄さんのフォルがそれを制した。
「ウィル。見てれば分かるから大人しくしとけ」
僕は仕方なしに、持ち上げていたかかとをまた芝の上に下ろした。
おじいちゃんはみんなを見回すと、
「エマとひと時のお別れを」
と言い、微笑んだ。
そしていつの間にかおじいちゃんの手に渡っていたかごから、何かが蒼空へと投げられた。
僕を始め、その場にいたみんながほとんど同時に息を呑んだ。
それは、花。真っ白い花びらだった。
蒼く高い空へ、それらは舞う。
その蒼に吸い込まれてゆく白い花の欠片たちは、
見上げる僕らの顔を意に介することなく、楽しそうにふわふわと踊って。
おじいちゃんはそこで初めて、一筋の涙をこぼした。
「おじいちゃん。ホットココアを持ってきたよ」
ここはあっという間に冬が来る。夏なんてまるで風のように去ってゆくだけで。
おばあちゃんのお葬式は本当にいい天気だった。
あの次の日から晴れることのなかった雲は、寒々しいばかりの風を連れてきただけで、
更にはそれと引き換えに夏と蒼空を持っていってしまった。
「ありがとう、ウィル」
ゆり椅子から上半身をゆっくりと起こして、おじいちゃんは微笑んだ。
少し離れた場所にあるつるつるの大きな机の上には、
羽ペンのほかにやたら分厚い本が数冊置いてあって、
そのうちの一冊はちょうど半分くらいのところで開いたままになっている。
「もう夜はこんなにも冷えるな。ココアが美味しいよ」
おじいちゃんの言葉に僕はうなずいた。
「朝もそうだよ。学校に行くときなんてマフラーが欲しいくらい。
母さんはまだ早すぎると言って笑うんだけどね」
おじいちゃんは微笑むと、ココアのカップをそうっとひざ掛けの上に下ろして、
両手で包み込むようにした。
しわしわの手。いつも暖かな、手。
それはおばあちゃんも一緒で、おばあちゃんはその手で僕を毎日抱きしめてくれた。
おばあちゃんはとても細かったけど、僕を抱きしめたり
手を握ったりするときはとても力が強くて、
僕は一体おばあちゃんのこの身体のどこから、こんな力が出てくるのだろうと思っていた。
おばあちゃんがいなくなったこの部屋は静かだ。
おばあちゃんは歌が大好きで、いつもどんなときでも何かの歌を歌っていたから。
それは童謡のときもあればおばあちゃんが若いときに流行った歌のときもあった。
おじいちゃんは今、どんな気持ちなんだろう。
今まで共に毎日を過ごしてきた大切なひとがいなくなってしまって。
今、僕の背中からおばあちゃんがひょいと現われて、
「あら、二人とも何の話をしているの?男同士の話なの?
それじゃあ私は退散した方がいいかしら」
なんて言いながら、僕とおじいちゃんを交互に見つめて微笑んでいても、
ちっともおかしくない気がする。
むしろ、僕にとってはおばあちゃんがもういないことのほうがずっとおかしいんだ。
どうして、いないのさ。どうして…
「なあ、ウィル。この部屋はいつまでも私とおばあちゃんの部屋だ。
だからずっとこのままだ」
おじいちゃんの言葉に僕は顔を上げた。
おじいちゃんはカップを膝の上でゆっくりと回しながら呟くように続けた。
「おばちゃんの生きていた証を、此処にいた証を、私は消したくないんだ」
そう言われて初めて気が付いた。
大きな鏡のついたドレッサー。
ブドウのつるが鏡を囲んでいるデザインはおばあちゃんのお気に入りだった。
窓辺においてあるポプリも、おばあちゃんとおじいちゃんが
いつしか旅行に行った先で積んだ花から作ったものだ。
おばあちゃんがいたときと同じ、何も変わらない部屋。
違うのはおばあちゃんがいないことだけ。
「いいと思うよ。僕はそれでいいと思う」
おじいちゃんが顔を上げて僕をじっと見つめた。
「だって此処は二人の部屋だもの。ずっとずっと、そうでしょう?」
僕がそう言うと、おじいちゃんは静かに微笑んだ。
「エマのものを片付けようとしたときもあったんだ。
でも、どうしても出来なかった。
そして思った。それはきっと今じゃないんだと」
どこか遠くから、ふくろうの声が聴こえてくる。風はほとんどないようだ。
「なあ、ウィル。私が死んだらこの部屋はお前にやろう。
だからそのときまで私たちの証を此処に残しておくよ」
僕は何と言っていいか分からなかった。
この部屋は日当たりもよくて、
家の中では最高の部屋だということは誰もが知っていることだった。
「僕なんかにくれてもいいの、おじいちゃん。
それに死んだら、とかそんな悲しいこと言わないでよ」
僕が少しむくれると、おじいちゃんはふふ、と笑った。
「私がこの部屋を貰ったのも、お前の年くらいだったんだぞ。
やっぱり祖父から貰ってね」
初耳だった。
代々この家に住んでいる僕らだったけれど、
部屋はおじいちゃんとおばあちゃんの部屋、父さんと母さんの部屋、
子どもの部屋、と言うように
単純に分けられているものだとばかり思っていたからだ。
「年齢とかそういうもので部屋は分けるものじゃない。
その部屋には誰が一番いいのか、自ずと決まってくるものなんだよ」
「でも…フォルが怒りそう」
僕が困ったように呟くとおじいちゃんはさっきより大きな声で笑った。
「フォルはお前より早くこの家を出て行くから、
そんなことは心配しなくてもよろしい」
僕はそれを聞いて少しだけ安心した。
カップからそうっと唇を離して、おじいちゃんは続けた。
「時は流れて、色々なことが起るよ。誰かが生まれたり、誰かが死んでいったり。
それでも毎日この家で笑って、生きて。そういう時間をこの家は永遠に続けている。
この家に住む、私たちもそうさ。限られた時間の中を、精一杯生きるだけ」
僕はうなずいた。
「エマの葬式のときに白い花をまいたね」
おじいちゃんが言って、僕は続けた。
「うん、あの蒼い空にまいたね。でもどうしてなの。
ずっと聞きたかったんだ」
おじいちゃんは遠くを見るような目で少しだけ黙ったけれど、
僕をじっと見て静かに口を開いた。
「エマが私に残した手紙に書いてあったんだ。
エマはきっと、自分がいつ天に召されるか自身で分かっていたのだろうね。
それでも気丈に、床の上ではあったけれど、振舞っていたよ」
おじいちゃんはそこまで言うとゆっくりと立ち上がって、
机の一番目の引き出しから少しぼろぼろになっている封筒を取り出した。
「あれで意地っ張りなところがあったから、
弱いことは最後まで決して口には出さなかったな。
だからこの手紙を書いた」
おじいちゃんは苦笑しながら僕にその手紙を差し出した。
「お前はエマのお気に入りだったからね。お前なら見せても構わないと言うさ」
僕は一瞬躊躇したけれど、おじいちゃんがあごで催促したので、そうっとそれを開いた。
そこにはこう書いてあった。
『 愛するマイズへ
いつか私が死んだら
蒼空に白い花を投げてね
それらはきっと白い鳥のように
あの空を優雅に舞うでしょう
私の心も
舞うでしょう
エマ 』
「うん、あの花びらは綺麗だったよ、とても」
僕は頬の涙を拭って、笑った。
「上手に出来ていたかな。エマは笑っていたかな」
おじいちゃんが少しだけ心配そうに言った。
「もちろん!」
僕は手紙をおじいちゃんにそっと手渡しながらも大きな声で言った。
おじいちゃんは安心したように微笑むと、便箋の文字を指でなぞった。
机の上に置かれた便箋の表面は、雨に濡れたかのように微かにでこぼこしていた。
僕はおじいちゃんに頬の涙を拭ってもらいながらそれに気づいて
また、泣いてしまったのだった。
あれから三年。おじいちゃんもあの空へ行ってしまった。
でも、僕も母さんも、みんな微笑んだ。
涙が出たけど、それ以上に微笑んでしまったのは、きっとあの朝が特別だったからだと思う。
あの朝、僕はおじいちゃんを起こしに行った。
最近のおじいちゃんは朝になっても身体がだるくて何度も寝直してしまうのだと言っていた。
だからみんなが起きる時間にちゃんと起こしてくれるかな、と
僕はおじいちゃんに頼まれていたのだった。
「おはよう。おじいちゃん、朝だよ」
僕はいつものようにそうっとドアを開いた。
そしてゆっくりと窓辺のダブルベッドに近づいた。
昨日は遅くまで読書をしていたのか、開きっぱなしの本の間に丸眼鏡が斜めに置かれている。
そこに目をやって僕はふと気づいた。
本の下からあのおばあちゃんからの手紙が半分ほど姿を覗かせている。
これを見るのはあの日以来だった。
僕はおじいちゃんを起こすことも忘れて静かにそれを本の下から抜いた。
そして便箋を広げてから、僕は目を見開いた。
そこには文字など並んではいなかった。
だいぶ年月が経っていたから、消えてしまったのだろうか。
便箋は相変わらずぼこぼこだったけれど、
その上にあった青色の文字は綺麗に見えなくなっていた。
僕は黙っていたけれど、
唐突に心が急いてそれを本の横に大雑把に置くとベッドに走った。
「おじいちゃん!」
そこには微笑んだように眠っているおじいちゃんの姿があった。
ふわり、窓から差し込む日差しに照らされて、しわしわの顔に綺麗に陰影がついている。
そして僕はそれに気づいた。
優しい風がカーテンを揺らして、僕の足元までにそれが落ちてくる。
おじいちゃんの周りには白い花びらが一面置かれていたのだ。
それらは触れるとしっとりとしていて、微かに甘い香りがした。
そう、おばあちゃんのあの香水の残り香のような。
風はなおもそよいで、香りがより甘く強くなった気がした。
僕は窓から空を見上げた。
ああ、蒼空だ。
雲はひとつなく、光が煌く、蒼い空。
きっとあの手紙はもう、二人に必要なくなったのだろう。僕はそう思った。
「元気でね」
僕は静かに微笑んだ。
二人は、ずっと、一緒だよ。
その声に応えるかのようにまた風が吹いて、花びらが数枚ひらりと宙に舞った。
新しい部屋で、僕は考えている。
毎日のこと、生と死、時間、人生。
と言っても、考えたって分かること、分からないことがあって。
そしてやっぱり、まだ分からないことの方がずっと多い。
でも、僕は考えることはやめないと思う。
だって僕は此処に生きているのだもの。
僕が此処にいた証は、どんなものになってゆくんだろう。
おじいちゃんが遺した本は面白くて、僕はしばらく、
このおじいちゃんとおばあちゃんの部屋、で暮らそうと思っている。
あのドレッサーだって、使い慣れれば髪形のチェックもまんべんなく出来るしね。
「ウィル!行くぞ」
今日は家族でドライブに行く。
どこに行くかはまだ決まっていないらしい。大抵いつもそうだ。
父さんは行き当たりばったり精神が旺盛だから。
なんて、僕もきっと人のことは言えないのだけど。
階下からのその声に僕は返事をして、立ち上がった。
部屋の入り口まで来たところで振り返る。
「行ってきます」
誰に言うわけでもなく。でも、誰も聞いていないわけでもなく。
僕は微笑んで、ドアを閉める。
蒼空に舞う、白い花を。
僕はずっと忘れないだろう。
END
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あの空に、白い花が舞う。 | ||
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