真恋姫無双〜年老いて萌将伝〜 五 |
進軍開始から接触があるまで、そう長い時間はかからなかった。
ジリジリと、しかし確かに進んでくる旧董卓軍の進撃は瞬く間に呉の枢軸に伝わる。
前線で早々に恋に当てられた思春と明命は不利であると悟るやいなや踵を返し距離を取る。
この部隊戦は決して多くの兵が与えられているわけではない。
限られた兵を消耗する前にと引き返すも、接敵から転進までの僅かな時間で、恋の部隊によって、いや、恋一人によってその兵数を半分にまで減らしていた。
「申し上げます。このままでは押し切られるのは時間の問題かと。」
戻ってくるなりそう告げる思春の表情はかつての戦を思い出したかのようにこわばっている。
「同じく申し上げます。ここで立て直さねば敗戦は必至です。」
その圧倒的な武の圧力を受けての明命の言葉は、緊張からか微かに震えている。
実際に対峙したことはなかった呂布という豪傑の武。
今回、たちの悪いことに、その呂布が普段滅多に見せぬ感情をのせている。
「張り切っている」のだ。
さながら「大はしゃぎ」の呂布に対しては、孫呉の筆頭武官ですら何らの策なしに切り結ぶことなどできなかった。
その呂布が、遊撃の張遼と猛将華雄、そして何を仕掛けてくるか全くわからない北郷を後ろ盾として「好き勝手に」攻め上がってくる。
かつてのあの戦いで、ほかならぬ虎牢関でのあの印象が呼び起こされる。
関羽、張飛、趙雲が三人がかりで押し戻されたあの場面が。
「いやなものを思い出させてくれるわ、全く。」
その当時には雪蓮が率いた孫呉にとっても、決していい思い出ではない。
あとで聞いた話では、そのときにはもうすでに天の使いが抜け駆けしていたというその事実も含めて、すべて、苦い経験として孫呉の旗に刻まれている。
「よく考えて見れば、あれ以来、恋とまともにぶつかったことはなかったわね…」
「幸か不幸か、ね。あ〜あ、これじゃあの面白そうな男の力なんて見れたもんじゃないじゃない。
も〜!冥琳、なんかないの?こう、恋とかをバーっとやってガガッとやったらズババーンってなるような策とか。」
「ふざけてる場合ではないぞ雪蓮。そもそもこの部隊戦は雪蓮が言い出したことだと聞く。それで負けていては世話がないではないか。」
「それはそうだけど…」
牙門旗のもとに広がる沈滞した空気。
じわりじわりと弱気が皆の心を蝕んていく、かのように思えた。
(あの姉様が弱気になるなんて…)
一人、蓮華だけはそんな雪蓮の姿に、場違いにも安心を覚えた。
…
……
………
「流れが変わる気がする。」
順調な進軍に水を差すのはいつもこの男だ。
「なによ、今日は仕事しないんじゃなかったの?」
いつものことだと受け流すつもりだった詠も、北郷の言葉に何か感じるものがあったのか、その軽口を受け流さなかった。
「そのつもりだったけど、負けるのも癪だし…
で、どうする?嫌な予感がするんだ。相手の動きが変わった気がする。
俺じゃ読めないけど、何か思い当たることはあるかな?」
それを受けて、詠は北郷と月を交互に見る。
「…わかったわ。話だけでも聞こうじゃない。」
悩んではいるが、その声色に喜怒哀楽でいうところの楽の音が混じっていることに気がつかないものはいなかったであろう。
北郷はにっこりと満面の笑みを浮かべて、それに応える。
「なんとなくだ、が。陣構えがかわったって報告みて思ったんだ。
いままでの孫呉の力強さ、圧力を感じなくなった。
俺は最初、それはきっと陣を動かし、恋から牙門旗を守りにかかったからだと思った。
でも、どうもそうじゃないっぽい。
いや、なんていうかな。そうなんだけど、それだけじゃないっていったらいいのか?
今までに感じたことのない、堅牢な印象だ。
こちらに合わせて即座に対応する類のものじゃない。
もっと、どんな攻撃も想定して、微動だにしない、そんな風に感じる。」
当て推量といえば、それまでだった。
しかし、詠も少なからず似たような印象を受けていた。
大方冥琳が本格的に動き出したのだろう、位にしか考えていなかったが、それにしては、少しだけ『何か』が違う。
言われなければわからないその差異も、気がついてしまえば大きなものとなる。
「雪蓮、冥琳が本腰を入れた…ってわけでもなさそうね。」
「俺に用兵の違いなんてのはわからないよ。
ただ、そうだな…知識…っちゃぁなんだが、これも当てずっぽうだが?
おそらくは…孫権だ。
彼女が指揮をとってる気がする。」
なんせ、守城の名君だからな、とは言わなかった。
後世にその名を残す孫呉三代、その一番下の君主、孫仲謀。
上二代に比べて武勇に優れるわけではないが、策を尊び、綿密に計略を練る智将であったと言われている。
「…そうなると、少し厄介ね。
蓮華だとすると、下手に動かすとこっちが痛い目見ることになる…
霞を当てて恋を少しさげて…」
北郷の指摘に思い当たるところがあったのが、それを否定せず詠は考えこむ。
ブツブツとひとりごとを繰り返し、配置した机上の陣とにらめっこを始めた。
そんなやりとりをただじっと見て、聞いていた月。
考えこむ詠の背中と、ただそれをじっと見つめる北郷の姿を見た。
彼は先ほどいった。
私達のかっこいい姿がみたいのだと。
みなが戦っているというのに、私はここへ来て何かしただろうか。
彼に、誇れることを何かできただろうか。
思えば、ずっと守られてきた。
親しい友は言う。それがあなたの仕事だと。
優秀な部下は言った。一言言えば働いたる。それこそが役目なんやから、と。
だったら。今私がすべきはなんだろう。
彼に誇るために何をすべきだろうと。
私の仕事はなんだろう、と。
その思いが、彼女を動かす。
「詠ちゃんから聞いていますよ。
そして私も知っています。
いっつも詠ちゃんが話してました。
いつも見ていました。
隊長さんがそんな風に子供みたいに笑ったときは何かの合図だって。」
「…バレちゃった?」
それはいつも友人から聞かされていたあの話。
そして、もっと前に何度も見ていたその表情。
あの日の話。
彼が消えた日。なにもできないまま、別れも告げられず彼を失ったあの日の話。
慕った人の命運を共に託すしかなかったあの時の話だ。
普段はまるで朴念仁だが、困ったときに、どうしようもなくなったその時に、最後の手段を飛び越えておかしなことを言い出す時。
いつものふざけたような表情が、明るく、楽しそうで、頼もしく見えると友は言った。
そんな話を聞いて、彼女はいつも思い出していた。
同じ人間を5人用意しようといったあの時の顔を。
そして想像した。
自分をさらってくるといったというその時の顔を。
そして、理解した。
その顔は、きっと今、彼が目の前で浮かべているそれなのだと。
そう思ったら、こちらも楽しさがこみ上げてきた。
詠ちゃんは、こんなかっこいい彼のことをわたしに隠していたのかしら、なんて。
ずるいんだから。
こんな顔をされてしまったら。
彼のいう、かっこいいところを、もっとみたくなってしまうではないか。
そんな思いがたった一言、彼女にこういわしめる。
「…私に、あなたの考えを聞かせてください。」
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