アルとナリア第三話 |
8
モルデンは交易の街である。
村を発し、徒歩と馬車とを織り交ぜながら三日の旅程の後、三人は目的の地へと辿りついた。
背負子で荷をえっちらおっちらと運ぶ者や、護衛を連れて荷馬車で品物を運び込む者。あるいは何頭もの馬を伴った隊商で、堂々と門をくぐる者。その様な者達が頻繁に行き交い、街の入り口は人の活気で陽炎が立ち上がるほどの熱さだった。
そんな中に、人の良さそうな老人男性が操る馬車からアレックス、ソノ、そしてナリアの三人が降り立つ。
ナリアが心ばかりの運賃を御者に渡して、一先ず落ち着ける場所を探して彼らは街の中へと入っていった。
「うわ、うわぁー!」
モルデンは、ステイシオという大都市から伸びる直通道の南端の街ではあるものの、故郷の村から出た事のないソノにとっては十分に興味深い光景であった。村の祭りよりもずっと人出の多い人ごみの間で、キョロキョロとしながら兄とナリアに挟まれる形で歩いている。
「あまりキョロキョロするなよ」
アレックスが小さく妹に注意する。病気から回復した反動なのか、この旅の途中も大分活発だった……というよりも、単純に声が大きい。
そして、その注意は、恥ずかしいと言う理由だけでなく防犯上の理由もある。田舎者丸出しでいれば、それだけで持ち物を掠め取ろうと近づいてくる輩が増えるのも事実だ。
「まあいいじゃないか」
しかし、逆にナリアはそう鷹揚に言った。彼女が先頭に立って進むと人が退いて道が出来るのは、にじみ出る威圧感か美しさか。
そう、彼らは人ごみの“間”を歩いていた。
そうこうしているうちにテーブルとベンチを外に並べただけの質素な休憩所が彼らの目に飛び込んできた。
三人は勝手に席に着くと、すぐに寄って来たウェイトレスにエール二つとミルクを一つ頼み、彼女が去ったことを見計らってこれから先のことを話し合い始める。
「とりあえず、私の目星はこの街だ」
兄妹の対面にナリアは座り、講義する様な具合で二人に口を開いた。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか、その人物ってのを」
「ああ、だが、先に話しておきたいことがある」
旅に出てから何度か聞いてはみたものの、未だにその人物についての詳しい事を聞かされていない。その事を問うアレックスを制して、ナリアは一つの話をし始めた。
「まず、君達の認識を確かめておきたい。あまり魔法に詳しくないならば、恐らく君達は闇の魔法について良い印象を持っていないのではないだろうか」
「それは……」
突然のその話に、少し面食らった形でアレックスは答える。
「それはそうですよ。光の逆は闇。邪悪な力の源である闇の力を主に使う魔術師なんて、ロクな魔術師じゃない」
だが、半分冒険者のような事をさせられる彼は、普通の人よりその手の話に通じているらしい。すぐに立ち直ると、自分の心中に思う事を打ち明けた。
「そもそも……彼らはその力を使って何をしようというんです? 申し訳ないですが、怪しい推測しか浮かびませんよ」
アレックスは軽く肩をすくめて見せる。
「確かに、闇は悪へと続きやすい」
ナリアはそれを肯定するように軽く頷き、そして、それを否定する言葉を力強く紡いだ。
「じゃあ、夜は悪か?」
え? とアレックスは虚を突かれて聞き返す。
「簡潔に言おう、闇は悪と同義ではない。昼の逆が夜であり、生と死は同様に尊い様に、闇の力は無くてはならないものだ」
優しく畳み掛けるようなその言葉にたじろぎながら、死は尊いといっても避けられならばそれに越したことは無いじゃないか。となんとか反論してみる。
「それこそ邪悪な闇の力の行使だよ。巡る命の車輪に逆らって生を歪める事は、何にも増して邪悪だ」
が、最後は諭されたようになり、アレックスが言葉に詰まって終わってしまった。
「じゃあ、もしかして……」
自分の間違い……いや、自分の不明さに気付かされ、アレックスは恥ずかしくなりながら推測を口にする。
「そうだ、私の目的とする相手は、闇の魔術の探究を行う人物だ。
会った事は無いが、彼は高齢らしくてね。加えてさっきまでの君の様に良く思わない者が多い所為で、この街から連れまわす事が出来ない。という訳だ」
ナリアがそう説明すると、当事者であるソノが口を開く。
「なにそれ……怖い……。そうは言っても、やっぱり私は……」
闇の力の信徒とは関わりたくないと言う事だろうか。鈍い沈黙が垂れ込める。
やがて注文していた飲み物が届き、変わらぬ沈黙の中で静かに杯を打ち合わせて、到着をささやかに祝った。
9
軽い食事を済ませた後、三人は街の外縁部から内部へと入り込み、比較的交易に関係のない施設や民家の立ち並ぶ居住区まで来ていた。
ソノはなにか考えるところがあるのか、口数が減っている。
しまったな。とナリアは内語するが、伝えるべきことであったので、話をした事になんら後悔はしていなかった。ただ、ソノを怖がらせてしまった事で申し訳なく思っていたのだ。
一方のアレックスは、さっきとは打って変わってソノを元気付けようと、名物の(と宣伝していた)チップス……薄切りのジャガイモを揚げて塩をまぶした菓子を買い与えたりして奮闘していた。
出来立てでホクホクと熱いそれを食べながら暫く歩くと、やがて街の人々向けの商店街を通り抜ける。
すると、集会所らしい大きな建物の前の小広場に足を踏み入れた瞬間に怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「悪魔が! 爺さんが死んで出て行くと思ったらまだ居座って……あろうことかうちの娘に手を出しやがったな!」
叫ぶ中年の男性一人と、それに追随する数人の男性。遠巻きに見ているのは様子からして中年男性の妻と娘らしい。
「最近の流行り病だってお前らが……娘にも伝染すつもりだったんだろうがぁ!」
そう男性らから怒声を浴びせられ、真ん中で小さく丸まって一方的に暴行を受けている黒い塊は、黒衣を纏った魔術師らしい風貌の青年である。
「あなたたち、何をしているんですか」
いち早くナリアがそれに駆け寄りつつ、男性らに話しかける。
「大の男が何人もで一人を取り囲んで……恥ずかしくないのですか」
叱責するような口調で彼女がそう言うと、ようやく気付いたらしい男達が剣呑な視線でもって向き直った。
「ヨソ者が口を出すんじゃないよ……俺達住民の問題だ」
体格がよく、何か肉体を使う仕事でもしているのだろうか、そう言うなり彼らはまた青年の脇腹に蹴りを入れる。
……いくら彼女の実力を知らないとは言え、迂闊な者たちであった。一方的な暴力を見かねたナリアは背の長柄槌を抜き、流れるような動きで男達を全員引き倒してしまう。
「ヨソ者も何もあるか! 無抵抗の人をなぶり者にする事を黙って見ていろと言う方がおかしいだろう!」
一瞬何が起こったのか分からない男らに、ナリアはそう啖呵を切った。
「あなたも、何か言う事があれば言いなさい」
気迫だけで男達を地面に縫いつけ、暴行を受けていた青年に向かって彼女は質問する。
その様子は、まるで火の様な変わりぶりだった。
「……そこのお嬢さんが髪留めを落としたので、渡そうと肩を叩いたら……その……」
それだけ言って口を噤む。いや、むしろ、それだけの事だったのだ。
髪留めがない事に気付いた中年男性の娘が、慌てた様子で顔を伏せた。母親がその様子を見て「そうなの?」と尋ねると、コクリと頷いて更に顔を背ける。
つまり、純粋な善意を手前勝手な差別意識で蔑ろにする。そう言う事だった。
だと言うのに、彼は男達からの暴行で壊れないように、髪留めを守っていたらしい。それをアレックスに渡して、娘に手渡してくれるよう促す。
――存在が忌避されているから、間接的にという配慮だった。
「……紛らわしいんだよ!」
尚も男性は悪態をつく。ナリアはいつも通りに戻り、いや、いつも見せたことの無いような軽蔑の表情で男性を見返した。
先ほどの怒気が炎ならば今の目つきは氷だ。追随していた者達はいつの間にか退散し、家族も髪留めを受け取るなり帰っていった。
「大丈夫ですか」
先ほどの男達と同様にナリアの気迫に固まっていたアレックスが、ようやく口を開いて青年に手を貸した。
「ありがとうございます……まあ、最近は慣れっこですので……」
そう言いつつ立ち上がった青年は、ペコリとお辞儀をするとすぐに立ち去ろうとする。が、それをとどめるようにナリアが質問する。
「この辺りに闇の魔術師が居るらしいんですが……知りませんか?」
彼の服装から推測したらしい。この辺りの過剰建築で単価の安い住居は、彼のような魔術師にとっては格好の住処である。
案の定その言葉に反応した青年は、ピタリと足を止め、「もしかして先生に御用ですか?」と、恐る恐るといった様子で彼は尋ね返す。
「他に闇の魔術師がいないならば、恐らくそうでしょう」
ナリアはそう言い、青年の反応を見た。が、続けて吐き出された予想外の言葉に、三人は驚きの声を上げることとなる。
「申し訳ありませんが、先生は死にました」
「え?」とそれぞれに驚きの声が飛び出し、とりあえず私のところへ。と青年に案内されるまま、三人は歩き始めた。
10
流行り病……つまり熱病の責任を押し付けられる形で、彼と彼の師匠――先生と呼ばれていた人物は突然に迫害を受け始めたらしい。
先ほどの広場から路地に入り込み、四人はその様な事を話ながら足を動かしていた。
改めて見ると、青年はアレックスよりは年上で、ナリアよりは年下に見える。
ナリアが年齢不祥な感はあるものの、大体間違ってはいないだろう。とアレックスは考えた。
「もちろん、先生は直接殺されたわけではないですが……」
少し言いよどんだ後に、熱病の研究の無理がたたり、高齢も祟って亡くなってしまった事を説明した。しかし、口には出さないものの、彼らに殺されたようなものだと目が語っている。
それを聞いたナリアは、悲痛な面持ちで今までの経緯を話す。すると、合点がいったと言う具合に青年……ジニーが頷いた。
「なるほど、ようやく今分かりました。薬学ではなく、魔術の研究をしていました理由が。なるほど」
恐らく、彼の師匠が亡くなった後、いつ来るとも知れない被験者を一人で待っていたのだろう。報われたと感じているのか、彼は一人でうんうんと納得していた。
通常、魔法で怪我は治せても自然に罹った病を治すことは出来ない。例えば、村の皆が罹っていた熱病はある種の薬草でしか癒せない。
しかし、その熱病の第二段階……ステージ2になると、逆に魔術でしか治せないらしい。その意地悪な事実にアレックスは驚いた。
「やり方は、治療の方法は僕が受け継ぎました。さあ、早く治療してしまいましょう」
その力強い言葉に、アレックスはちらりと妹の首筋を確認して、僅かに大きくなった痣を見た。妹を助けられる確かな光明に、涙が出そうなほどである。
「行きましょう」と心持ち足早になり、自然と四人は密集した状態となった。
そのときだった。後ろからばたばたとけたたましい足音と、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「悪魔とその仲間がぁ!」
さっきの中年男性だ。異変に気付き四人が振り返ったときには、彼は何かの瓶を大きく振りかぶり、一瞬の後に投げた。青年に向けられたそれは、中に何が入っているにしろ、大きさからして当たればただではすまない。
「危ない!!」
いち早く動いたのはソノだった。ジニーの言葉に気を取られていたからか、他の二人の反応が遅れたのだろう。
「くっ……」すんでのところでナリアが打ち払う。グローブに包まれた手が閃き、瓶は軌道を逸らされてソノとジニーを飛び越えた。路辺に墜落して砕け、中身の透明な液体が飛び散った頃には、投げた当人である中年男性は逃げ去っていた。
「あの野郎……!」
妹が危険に晒されたからか、アレックスは激昂して追いかけようとする。しかし、ナリアに制止されて踏みとどまった。
追いかけて行って叩きのめす事も可能だろうが、それではこちらが悪者になってしまう。粛々とかわすしか途は無い。
「人心が乱れているな……怪しみこそすれ、この位の街であれば誰かを明確に排斥しようとするなんて……とても考えられないが……」
ナリアがそう呟く。モルデンは、曲がりなりにも、いや、十二分に交易都市である。異質なもの、見たことの無いものは、例え従来の常識に反していても受け入れると言うのが特性であり長所であるはずだ。
「二人とも、大丈夫か?」腕を振ってグローブに付いたガラス片を払うと、ナリアは振り返った。
同時に、踏み止まる代わりに眼で射殺す様な具合で逃げていった方を睨んでいたアレックスも振り返る。
そこには、ぐったりと倒れこんだソノを抱き抱えるジニーの姿があった。
「……ソノ……ソノ!?」慌ててアレックスが駆け寄る。何があったのかと訊く前に、ジニーは瓶をよけた途端に突然倒れて。と説明した。
「とりあえず、僕のところに急ぎましょう。もうすぐそこですから」
アレックスにソノの身体を預けると、案内する彼は足早に歩き始める。
小さくうめき声を上げる少女の首筋には、つい先ほどアレックスが確認した痣が一気に広がっていた。
11
「治療しながら説明します」
雑然としてはいるものの、特に真っ暗闇ちいうわけでもなく怪しいわけでもない彼の居室に、アレックスは魔術師自体の認識を改めさせられた。
大鍋や怪しい薬品が堂々と置かれていると思ったが……それは部屋の隅に整理されていた。
「こちらへ」とジニーが促すままに、ソノを抱えたアレックスは部屋の奥へと進む。
今や、ジニーへの疑念は信頼へと変わっていた。
そして部屋の真ん中にぽつりと置かれた寝台が現れる。真新しいシーツが掛けられているそれは、セットされてから暫く経っているようで、僅かな埃と多くの書物に覆われていた。
ジニーは手早くそれらを退かし、アレックスがソノを横たえる。彼女の息が荒い。手の平を押し当てると、熱もあるようだ。
「暴走しているのか……」
ナリアが発したその言葉にアレックスが反応する間もなく、「開始します」と宣言したジニーにより治療が始まった。
予め用意していたらしい、ベッドを囲む様に描かれた魔法円陣に白墨で何事かを書き足し、魔法らしい言葉を短く詠唱するとぼんやりと光り始める。
「下がってください」その陣の外へとナリアとアレックスの二人は追い出され、これから先はただ見ていることしか出来ないと確信した。
ジニーは香油で満たされた小皿を円に沿って置き、慎重に位置調整をしてから布芯に火をつける。ソノの頭の方向を北として、東西南北に四個の炎がゆらゆらと揺れる。
「この術は、魔力自体を扱う魔術……だそうです」
魔術……魔法は通常魔法と儀式魔法とに大別される。数日前にモントラススネークを屠ったのが通常魔法であり、そして今ジニーが行っているものが儀式魔法である。
「体内にある魔力素を凝縮し、取り除く……つまり彼女を害する呪を取り除くわけです」
儀式魔法はその名の通り、戦闘中には到底出来ない複雑な術式と大掛かりな設備を使った儀式を行う魔法だ。その手間に見合って、強力かつ正確な魔術が使える。
ジニーが何かの粉末をつまみ、ソノの額に振りかける。その粉は肌に触れる前に光になって彼女の中に吸い込まれていった。
集中している所為か、彼の額には既に大粒の汗が浮かんでいる。手拭で素早くふき取り、気持ちを集中させるように目を瞑ってからソノの額に手をかざして呪文の詠唱を始めた。
力を強められた言葉一つ一つは、もはやアレックスには理解不能なもので、なんと発音しているかすら分からない。
精神に直接入り込むような音が薄暗い部屋にこだまする。幻惑されるような心持ちでそれを受け流す外なかった。
――すると、突然そよ風の様なものを感じた。
なんだろうと思ってアレックスは周りを見回すが、どこにも隙間風の入るような隙間は無い。それに加えて、自分の髪の毛や円陣の炎すらぴくりとも動いていないことに気付く。
「なんだ……?」堪えかねてアレックスが呟く。が、誰も答えてはくれなかった。
――その風は、次第に肌が粟立つ感覚へと変化する。
違和感が強くなることで明確にその流れの方向が分かり始める。ソノを中心として渦の様に何かが流れていた。
「魔力の渦……か」
確信は無いものの、といった具合でナリアは呟く。ソノの内に込められた濃く強い魔力を操作するだけで、周囲の空間に散在する魔法元素が釣られて大きく流動するのであった。
――そして、更にそのうねりが大きくなると、次第にアレックスの意識が遠く遠くなっていった。
精神を直接攻撃する魔法……マインドクラックを緩やかに掛け続けられるようなものだ。特別な訓練を受けていない限り、堪えることは不可能に等しい。
もう限界だ。そう薄れゆく意識の中で呟くと、柔らかく折れるように彼は床に倒れてしまった。
――そして、最後に霞む視界の中見えたものは、ゆったりとジニーに歩み寄るナリアの姿――。
12
夢を見ていた。
それは彼がおぼろ気に覚えている、最古の記憶。
ソノが“かぞく”になり、自分が“おにいちゃん”となった初めての日。
――小さな村に、捨て子が二人。恐らくソノはアレックスを本当の兄だと思っているだろう。しかし、アレックスはソノを本当の妹だと思おうとしている。
今より若いキザキや、今と余り変わらないギィ婆さんが、彼の手にソノの小さな掌を握らせてこれからはお兄さんになることを告げる。
――出会った頃が幼いが故に、家族であって家族で無いという認識はこびりついて離れようとしなかった。
親が居ない事を悲しむ前に、新たな家族が出来た喜びを、彼は知ることとなった。
――異性として意識しているとかそういう話ではなく、どう扱えばよいのか分からない。家族でも他人でも友達でも恋人でもない、置きようの無い彼女を"どうすれば"いいのか。
それを計画したのは、既に村の代表に近い立場にいたキザキの配慮である。
孤児同士でまとめて、管理しやすくする……というわけでは決してない。互いが互いに家族同様……いや、本物の家族として、共に苦難を乗り越えて欲しいと願ったからであった。
事実、その通り二人は二人きりの家族として今まで上手くやってきた。
――しかし――
アレックスの感じた最初の違和感は拭えず、その端緒となった光景を少し高いところから眺めるその夢は、急激に不快感に似た、これまた形容しがたい情動を引き起こして覚醒へと促す。
「ソノ……!」
小さく叫びつつアレックスが瞼を開いた時には、全ての儀式が終わっていた。呼ばれたかの様に、ソノも目を覚ます。アレックスが気を失ってからさほど時間は経っていないらしい。何事かを話していたジニーとナリアが、二人の様子に気が付いてこちらを振り返った。
「ソノは、治ったんですか?」
夢の水底から這い上がり、ふらつく足取りで立ち上がってソノの傍による。彼女も彼女で身を起こし、確かめるように首筋を撫でた。
ぼやける視界を無理矢理晴らし、アレックスが見たそこには、例のアザの無い白く滑らかな肌が覗いていた。
「……やった……!」
アレックスが搾り出すように言葉を紡いだ。
それを裏付けるように、ナリアが頷いて応える。それを見て、改めて、アレックスは全身で喜びを表すように天へと腕を突き上げ、自然と目には涙が浮かんでいた。
遂に、遂に病が治ったのだ。厄介な展開にもなったが、これで全てが終わる。
「そうだ、ナリアさんも……ナリアさんも早く治してもらいましょう!」
思い出したようにそう言い、もう一人の患者であるナリアも先の治療を受けるように促す。
……が、彼女は曖昧に頷いただけで一向にそれ以上何も言わない。
「あ……準備がまた要るんですか? なにか、手伝えることがあれば。買い出しでも運搬でも何でもします……させて下さい」
その前に何か治療のお礼を……? 常識的に考えて俺が払うべきだよな。
その様な事を浮かれたアレックスは次々と口にする。
「いや、ナリアさんは……」ジニーが言いかけるが、当の彼女に止められて口を噤む。
「騙すつもりは無かったんだが」改めてナリアが口を開いて、アレックスに何事かを説明しようとした。
その時である。
「ほほう、そんな魔術を扱える者が居たとはな」
誰も気付かぬうちに、出入り口の方の細い空間に真っ黒な人影が佇んでいた。
その空間を見ていた筈のソノが、声を聞いてようやく気付いた程である。煙が晴れる様に黒色が薄まると、裾がぼろぼろに朽ち果てた外套を着込み、だらりとしわがれた腕を左右に垂らした老人の姿が現れた。
「しかし遅い。待ちくたびれたほどだ。こちらの準備は出来たぞ」
ただ、顔がよく見えない。彼は糾弾する様に、そしてそれを愉しむ様に、右腕がぬるりと持ち上がってナリアを指差した。
その動きは、どこに関節が有るのか分からぬ動きで、浮かれていたアレックスの気分を一気に覚めさせた。
(これは“悪いモノ”だ)
そう確信した瞬間、「なァ……」と、老人が掠れて不明瞭な発音で呟く。
不快に脳へと染み込む……先ほどの詠唱のようなその声は、一瞬アレックスの動きを止め、調子を狂わされてたたらを踏んでしまった。
そして、その不可思議な老人は言葉を続ける「もう私の思い描く世界はそこまで来ているぞ、神よ」と。
「……は?」
意味不明な言葉に疑問の声を上げると、その瞬間老人の手が分解されるように霧消し、千の粒となってナリアを襲った。
「くあ……離れろ……!」
手から変化したらしい蟲は彼女に纏わり付き、皮膚を食い破ろうと牙を立てる。それを払い落とそうとアレックスが彼女へと近付くが、あまりに密着しているため剣を使えばその下のナリアまで斬ってしまう事だろう。
その無力を笑うように、老人がふらふらと近付いて来る。ようやく光の下に現れ明らかになった彼の顔の眼窩に目玉は無く、どす黒く変色した唇は糸で吊った様な奇怪な曲線を描いていた。
その顔がニタリと歪み、虚ろな黒色が奇妙に形を変える。
「ひぃ!?」そのおぞましい光景に、ソノが短く悲鳴を上げる。
それに気を良くしたのか、ますます奇怪に顔を歪めると、押し出されるようにぼとぼと顔の穴と言う穴から蟲がこぼれ出た。その余りにグロテスクな光景を目にしたソノは、程なく失神して再びベッドへと沈んでしまう。
「っく、化け物め……!」まごついてしまった自分を叱咤するように、アレックスは老人に切りかかる。
しかし、眼の無い顔で一瞥しただけで、特に避けようとも受けようともせず微動だにしない。
「はは、兵は一人か。良い兵は見つからなかったようだな」
そしてアレックスの剣は外套を切り裂き……そのまま素通りして持ち手であるアレックスを振り回して、彼を転ばせる。
外套の下には、身体が有った。しかしその身体は、蟲が寄り集まって出来た肉団子の如き代物だったのだ。
そしてその中の一匹が、胡桃ほどの大きさの袋をナリアから奪い、老人のもとへ運んだ。
「それでは失礼しようか。目当ての物も手に入った」
老人がそう言うと、顔全体がぼろりと崩れ去ってそのまま全身に崩壊が波及し、先ほどの腕宜しく全てが霧となってゆく。
「一番の特等席で待つ。止めてみたまえ」
それはごく小さな蟲であった。ナリアにたかっていたものも含め、蟲が更に小さな蟲へと変化し、次第に何処かへと消え去ってゆく。
「止められるならばなァ。ナルガ。腐った火の神よ」
そして、嘲るような言葉と羽音を最後に、彼は姿を消し去った。
「くそ……持ってかれた……!」
蟲に齧られた場所が火の様に痛むのも気にせず、ナリアはそう咆哮して、後に残ったのは不気味なほどの静寂さだった。
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