真・恋姫†無双〜外史書外伝〜
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 過去と現在、そして未来に医術に触れ、生と死の最前線で戦い続ける、古今東西の全ての医者にこれを捧げるものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『人類と医療の歴史』

 

 

 この世界に医術が生まれたのは一体いつなのか?

 

 この疑問を抱いた人間の数は少なくない。いや、少なくとも、医療の道を志した人間なら、そのほとんどがこの疑問を一度は抱いたことだろう。

 

 医術の起源は明らかにはされていない。

 

 というのも、どこで誰がどのような症状の何をどう対処して治したのか…その始まりを誰も知らないからだ。

 

 そして何より、単一の特定個人から始まったものではないというのが、現在の歴史家たちの統一見解である。

 

 理由は簡単だ。

 

 仮に古代ローマで医術が生まれたとしよう。

 

 ならばアジア圏に医術がやってくるのはシルクロードの完成まで待たなければならない。

 

 逆もまた同様だ。

 

 だがしかしとして、アジア圏にもヨーロッパ圏にもシルクロード完成前に医術の存在は確認されている。

 

 それだけではない。明確な時期を証明できないだけで、遥かな昔から世界中に医術は存在していたのだ。

 

 国交どころか、互いの存在すら知っているはずのない辺境や秘境でも同様にだ。

 

 単一の特定個人が発祥では絶対にありえない。

 

 これは一体何を意味するのか?

 

 それは、人間は根源的に大切な誰かを持ち、失いたくない命を想い、なおかつ、ある程度までなら必ず治せるということを知っているのだ。

 

 つまり人間は生まれながらに医者として最も必要な『治せるという認識』を持っているという一つの証明である。

 

 医術の起源は明らかにはされていない。

 

 しかし、医術が医学に進歩…否、進化した時代だけは明らかにされている。

 

 2世紀初期、中華の三国時代。

 

 人類の歴史の中で、最も大きな転換期とも呼べる時代だ。

 

 医学を知らない人間でも、この人物の名前を知らないということは絶対にないだろう。

 

 『神医』、華佗元化。

 

 医学界では神として崇められている世界最初の外科医である華佗元化こそが、医術を医学に進化させる中心となっていた人物、否、医者だ。

 

 医術の黎明期、古代における医術は効果が不確かであったり、逆に寿命を削ったり、また失敗すれば死に至る…という程度ならまだいい方で、おかしな儀式やお守り、聖水と語る汚水や何かの骨の粉末を振りかけて呪文を唱えるなど、もはやオカルトか詐欺の分野としか認識されていなかった。

 

 人々に医者という存在を『命を託せる存在』と認識させた時代。

 

 官匪の横行、飢饉や疫病、賊の跋扈に絶えない反乱…地獄としか呼べないこの時代に一体何が起き、一体どうやって医術は医学に進化したのか?

 

 本書はそれを紐解くため、この時代の医術の要となった後の医者王・華佗元化と、この時代の…否、人類史の要となった後の大陸王・北郷一刀について著すものである。

 

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 華佗元化。沛国?県出身。

 

 幼くして両親を病で亡くし、以降医術の道を志して、当時後継者不足から衰退の一途を辿っていた五斗米道へ入門する。

 

 若くして類い稀なる医術の才を示した華佗元化だが、その道半ばで師である魯粛子敬が旅先の疫病にかかり死亡したため、後半はほぼ独学で五斗米道を習得した。

 

 黄巾の乱の頃、治療の旅をしていた華佗元化と黄巾党の討伐をしていた北郷一刀は出会ったとされている。

 

 ここで当時としては異例な出来事があった。

 

 北郷一刀は医者という存在を信用していたのだ。

 

 前述したとおり、当時医者というものは権力者が抱え込んでいる一部の典医以外はオカルトか詐欺の分野とされていた。

 

 このような前提条件があるにもかかわらず、北郷一刀は流れの医者を名乗る華佗元化を信用し、兵の傷を見させたという。

 

 当時からしてみれば、なぜそんな選択をしたのかと非難の対象とされてもおかしくはない。

 

 これは後の時代側から見て分かった事実である。当時どれだけの人間が知っていたかは不明だが、北郷一刀はある程度以上の医療知識を持っていたのだ。

 

 もっとも、当時の華佗元化と北郷一刀の関係はあまり良いものではなかったらしい。

 

 当然と言えば当然と言えるだろう。

 

 たとえ何があろうとも何者であろうとも決して目の前の命を諦めない医者と、これまで失われた命とこれから失われる命の為に目の前の命を絶つ英雄…立ち位置が対極過ぎる両者が相容れることなど決してありはしない。

 

 英雄が医者を認めようと、医者は決して英雄を認めない。

 

 そしてその関係を、北郷一刀は認めていた。

 

 医者が英雄を認めないということを認めていたのだ。

 

 この時代から見れば、上に立っている自身を認めないなどと公言する人物をそのままに許すなどということは、絶対にありえないことなのだが、これは確かな歴史的事実として記録されている。

 

 後に晋の皇帝・司馬懿仲達は当時の北郷一刀と華佗元化を指して、眠れる天と未熟な神と評している。

 

 華佗元化の生涯は三国同盟までほとんど明らかにされていない。

 

 時たま歴史の表舞台に出てきては、反董卓連合に従軍して洛陽で簡易診療所を開いたり、曹操孟徳の持病である頭痛を診察したり、関羽雲長の腕の矢傷を治療したり、赤壁の戦いで生死の境を彷徨っていた黄蓋公覆を蘇生したりと各地を転々としながらも、有名無名問わず多くの人々を治療してきたことは確かである。

 

 また、反董卓連合の際に公孫賛伯珪が華佗元化を指して『医者王』と呼んでいた記録があるため、この時点で既に華佗元化の天才的医療技術は多くの人に評価されていたということが読み取れる。

 

 そしてもう一つ、重大なことがわかる。

 

 華佗元化は医者として一定以上の評価を得ている。

 

 しかし、そこまでの評価を得ていてなおも華佗元化は所詮ただの医者である。つまるところ『民間人』なのだ。

 

 反董卓連合に従軍するなどありえない。

 

 華佗元化が民間人という立場で反董卓連合に従軍することはありえないのだ。

 

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 民間人を従軍させるなど、行軍速度や糧食問題、戦闘時の安全確保や内通の可能性などデメリットばかりが目立つのだ。

 

 華佗元化という民間人が反董卓連合に従軍する場合、2通りのパターンが考えられる。

 

 1つは反董卓連合軍、またはその旗下にあるいずれかの軍が華佗元化を連れてくること。

 

 それが強引なものか、あるいは同意を得てのものかは定かでなくともありうる考え方だ。

 

 もう1つは華佗元化自身が反董卓連合に赴き、従軍を申し入れること。

 

 だがこちらはありえない。

 

 民間人である華佗元化が、反董卓連合軍の集結地点や時期を知っているなど冗談にしても笑えない。民間人が知っている情報を董卓軍が知らないなど、どれだけ暗愚な軍であろうともありはしない。そんな組織はもはや軍とは呼べないのだ。

 

 では1つ目の『反董卓連合軍、またはその旗下にあるいずれかの軍が華佗元化を連れてきた』が正解なのか?

 

 しかし、これにも実は落とし穴があるのだ。

 

 下記の事実がそれを証明する。

 

 華佗元化は反董卓連合以降、どこの軍にも属さずに治療の旅を続けている。

 

 お分かりいただけるだろうか?

 

 つまり華佗元化は反董卓連合について行って洛陽でその実力を遺憾なく発揮したというのに、どこの勢力にも所属していないのだ。

 

 反董卓連合には当時大陸にいたほとんどの勢力が参加している。

 

 当然後の歴史に大きな影響を与えた((あの勢力たち|・・・・・・))もだ。

 

 後の大陸最大勢力にしてあらゆる才者を愛した『孤高の覇王』曹操孟徳、客将に甘んじようと反逆の牙を磨き続けた孫家の『戦狂の才』孫策伯符、民草に紛れようとその身に流れる血脈を背に戦い続けた『乱世の仁徳者』劉備玄徳。

 

 仮に反董卓連合参加段階でどこの勢力にも所属していなかったとしてもおかしい。

 

 洛陽で、噂程度にしか知らなかった華佗元化の実力を諸候たちは見たはずだ。

 

 ならば次の行動は決まっている。

 

 既に乱世が確約されたも同然な当時の情勢で、華佗元化程に有能な医者を欲しない勢力などあるわけがない。

 

 どこの勢力に属していたとしても関係なく、確実に華佗元化は各勢力から勧誘を受けていたはずだ。

 

 なぜ華佗元化は洛陽以降も流れの医者として活動できたのか?

 

 この答えと思われる言葉が、後の三国同盟後の有名な書物に記されている。

 

 『大陸王と医者王の対話』

 

 医学界において四大聖書とまで呼ばれるものだが、実際には医学だけでなく多くの分野について書かれている、文字通りの対話文だ。そして、この一文である。

 

『出会ったあの日の誓い、違えず進むその姿勢、誠に見事也。我人々の天となりて治政をし、民を守護する者也。汝人々の神となりて治療をし民を支える者也。我ら永劫の果てまで天下万民の治者たる存在也。』

 

 後の学者が『神天治の誓い』と呼ぶこの誓いは、あれから1800年の時が過ぎた今もなお大陸の人々に語り継がれている。

 

 中華王国で『将来なりたいもの』を子供にアンケートを取った時、1位と2位の入れ替わりは激しいものの、必ず医者と政治家となるのはこれためだ。

 

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 さて、もうお分かりだろうか?

 

 華佗元化は北郷一刀と出会ったのは、まだ黄巾党が活発に動いていた時期である。

 

 当時、華佗元化が北郷一刀を認めていなかったということは前述の通りだが、同時に華佗元化は綺麗事だけで世の中が上手くいくなどという甘い考えは持っていなかったということだ。

 

 華佗元化は北郷一刀の庇護の下に置かれていた。それゆえに他のどの勢力からの勧誘も撥ね退けられたのだ。華佗元化が反董卓連合に従軍できた理由も説明がつく。

 

 そして、ここでもう一つ予てからわかっていたことを再確認できる。

 

 北郷一刀の異常性だ。

 

 華佗元化程の医者を手元に置くどころか、流れの医者としても活動を支援し、あまつさえ見返りを要求した形跡がないのだ。

 

 北郷一刀、その生涯における偉業はもはや語るまでもなく、同時にその生涯があまりに謎に包まれていることなど誰でも知っている。

 

 三国同盟まで彼がどこの勢力に属していたのかすら明確にできる資料がないなど、他のどの国の歴史でも例を見ない。

 

 『天の御使い』と呼ばれた男の生涯の謎については、かつて私が著した『三国歴史考察』を参照していただけるとありがたい。

 

 なぜなら、本書は北郷一刀の生涯に関して著すものではないからだ。

 

 華佗元化の洛陽後の動きについては明らかにされていない。

 

 この後乱世に突入した大陸のあちこちで目撃情報があり、当時「実は華佗元化は複数人いる」などと噂されていたが、華佗元化の名を騙る無名の医者が後を絶たなかったこともその原因の一端だろうし、無名の小さな村で疫病にかかりきりになっていたという言い伝えもあるのでこれも同じくその一端だろう。

 

 華佗元化の足跡は三国同盟以降にまで進めなければ、残念ながら追いかけることができない。

 

 華佗元化は、三国同盟後しばらくは大陸のあちこちに赴き、治療の旅を続けていたが、ある日を境にその頻度が激減し、以降、洛陽に居を構えることになる。

 

 それは、北郷一刀と華佗元化が歴史上もっとも偉大な対話を行った日である。前述した医学界の四大聖書の一つ、『大陸王と医者王の対話』だ。

 

 書記に鳳統士元、郭嘉奉孝、呂蒙子明という三国の名軍師を指名して行われたあの対話だ。

 

 参加者は有名無名問わず各分野の実力者や著名人。有名どころでは諸葛亮孔明と鳳統士元の師にあたる司馬徽徳操、水鏡とも呼ばれる当時の学術界の権威も参加していたらしい。

 

 もっとも、題名からわかる通りほとんど北郷一刀と華佗元化の対話について行けずに、横で聞いているしかできなかったと後に司馬徽徳操は語ったという。

 

 『大陸王と医者王の対話』の内容で私が注目したのは、医療技術の集約と学術化、そして公布である。

 

 当時の大陸の医術というものが、いかに胡散臭く悲惨なものであったかについては前述の通りである。

 

 それを北郷一刀は、『深刻な医者不足』とし、国家を上げて医療技術を体系化して天下万民に医療の恩恵を受けられるようにしようと考えたのだ。

 

 そして、その考えを華佗元化は深く支持していた。一応対話形式をとっているので『生兵法は怪我の元』と反対意見を述べているものの、その後の対話の内容を読み進めれば華佗元化の真意に気付くのはさほど難しいものではない。

 

 北郷一刀は医術の学術化の為に、華佗元化に『国医』という称号を与えている。

 

 医学における国家の最高権威としての称号だ。

 

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 それは、大陸において玉石混合となった医療技術を一度華佗元化に集約し、篩にかけてもらうためだ。

 

 これは非常に困難な大仕事だった。

 

 当然だ。現在の中華王国には17億人の人間が住んでいる。当時の大陸がいかに乱世で人口が減っているとしても、5億人を下回るということはあるまい。そんな大人口の中で地方に伝わる細かな医療技術まで集約しようとすると、文字通り気が遠くなるほどの技術が転がっていることは当然なのだ。

 

 しかも間違いだらけというわけでもなく、一部は正しかったり、華佗元化でも理屈が理解できないものも少なくなかったという。

 

 そうして、華佗元化の生涯を賭して書き上げた医学書、『医学指南書』は現代でもほとんど問題なく教科書に載せることができるという驚異の完成度を誇った。

 

 しかし、『医学指南書』は思わぬところで火種となる。

 

 それは手術を始めとする少なくない技術において儒教の教えに反することだ。後に儒教過激派の反乱、『孔教の乱』の原因ともなるのだが、これは孔子の子孫である孔融文挙と北郷一刀が和解したことで終息した。

 

 華佗元化の国医としての仕事はそれだけではなかった。

 

 洛陽に建てられた世界初の『病院』の医院長も兼任していたのだ。

 

 当時は医者がいて薬草などもある程度はあるが、ある程度のレベルまでしか治せない小さな施設、診療所までしかなかった。

 

 大きな病気や怪我を治療できる最新の医療設備、最適な医療環境、最高の医療技術の揃った施設、過去の数多の医者たちが夢見た理想郷、病院。

 

 病院が建設される頃までに、どれだけの医者が命を助けられずに涙を流したのか。

 

 病院が建った時、華佗元化が涙を流して大喜びし、普段は決して飲まない酒を飲んで騒いでいたという言い伝えからも、それは窺い知れるというものだ。

 

 そもそも、華佗元化は「大陸から一切の病をなくすことが夢」と公言して憚らなかった人物だ。

 

 現代になってなおも実現性のない、果てなき遥かな理想の向こう側だが、華佗元化は決して諦めたことはないという。

 

 そしてそれに魅せられ医療の道を志す者は、1800年の時を経た今も後を絶たない。

 

 余談だが、中華王国のおとぎ話の中で、神医は死神を打ち払う存在とも言われている。

 

 さすがに神話というわけではないが、おとぎ話の中でなおも死神を打倒したり、殺してしまわないのは、いかにも華佗元化らしいと言える。

 

 また、世界初の医学学校の名誉講師も兼任していた。

 

 もっとも、こちらにはそれほど顔を出せていなかったようだが、それでも華佗元化は後に生涯で最も充実した時間だったと語っている。

 

 国医としてこれだけの仕事をしていれば、洛陽に居を構えて旅に出る機会などほとんどなくなるだろう。

 

 華佗元化の死因は過労であると言われている。

 

 当然と言えば当然だろう。

 

 国医に任命した北郷一刀自身から『医者の不養生』を説かれて強引に休暇を押し付けたという逸話があるほどなのだ。

 

 華佗元化の死の時期は明確にされていないが、晋の建国段階では生存が確認されている。

 

 残念ながら華佗元化は、自身が主導となって計画していた『医学研究所』の落成を見ることはできなかった。

 

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 『医学研究所』とは、文字通り医学に関する研究をするための施設なのだが、実質的には新薬や医療器具の開発や量産のための施設であった。

 

 華佗元化の死の数年後、ある世界的に有名な組織が、歴史にその名を刻み始めることになる。

 

 『それ』は、『神医』華佗元化と『天の御使い』北郷一刀の二人が自分達の死んだあと、遥か未来へ希望を残し、自分達の生きているうちには手が届かないであろう遥か地平の果てへいつか医療の光を届かせるために設立された。

 

 世界のあらゆる医術を研究し、あらゆる病気や怪我への治療を日夜研究している世界統合医療機関、『赤十字』。

 

 華佗元化の診療所にいつも掲げられていた診療所を示す『真紅の旗』、戦場でいつも翻っていた北郷一刀の『十字の牙門旗』の二つから『赤十字』という一つの世界的な医療機関が生まれたのだ。

 

 ご存知だろうか?一般の方には馴染みがないかもしれないが、『国境なき医師団』は元々赤十字の旗下にあった『医療派遣団』が独立組織化したものだということを。

 

 ご存知だろうか?赤十字が、当時数多に設立された民間医療組織の数少ない生き残りであることを。

 

 おそらく赤十字を始めとした民間医療組織が、いずれ時代の変遷で消えていくことすら彼らは予期していたため、多目にバックアップとなる組織を設立していたのだろう。

 

 北郷一刀はかつてこんな言葉を残している。

 

『人間の幸せの形はそれぞれだ。しかし、老いたる者から順に死にゆけることは人間が基本的に持っているはずの本当に根本的な権利なのだ。そして本当の死とは、何かを成して老いていった者が友や子孫の紡ぐ明日へ期待しつつ、己がそれを見届けられないことをいささか残念に思いながら後ろ髪を引かれる思いで歩み出すものである。』

 

 この言葉に則ると、華佗元化と北郷一刀は『本当の死』を遂げられたことだろう。

 

 彼らが生きていれば、際限なくその力を発揮して、大陸を発展させ続けたことだろう。

 

 だが彼らは『不死』を認めていなかった。

 

 赤十字の規則にあるのだ。

 

『不死のその背を追うこと禁ず、生の果てを追うこと推奨す』

 

 北郷一刀が歴代の権力者と一線を画していたことの一つには不老不死を求めなかったことが挙げられるが、おそらく華佗元化の影響だったのだろう。

 

 『大陸王と医者王の対話』にも書かれている。

 

『かつて秦の始皇帝は徐福に不死の妙薬という有るとも無いとも知れぬくだらないものを探させたという。実にくだらない。ならば徐福に医学でも修めさせた方がよほど有意義ではないか。己が不死となろうと世は不変にはならぬ。北郷よ、はたしてこの点について異見はあろうか。』

『否、断じて否なり。其は誠の真理なり。人の世は可変であるがゆえに醜くも美しいもの。次善の維持を求める不死など、最悪の加速を求める滅亡にも劣る。不死の世は人の世にあらず、悪鬼羅刹の巣食う暗き魔国なり。幾千、幾万の月日を経ようと、この北郷が認めぬ。そして我が大陸に不死を振り撒く者あらば、我らの血を継ぐ子らが必ずや刃を持って応えるであろう。』

 

 前者は華佗元化、後者は北郷一刀だ。北郷一刀の意見は少々過激だが、二人の意見はもはや問うまでもなく不死の否定へと傾いている。

 

 不治を認めず、不死を唾棄し、老いたるものから順に死んでいける世の確立。

 

 華佗元化の夢は現代でもなお実現の目処が立たずとも、確実に近付こうとしている。

 

 体系化された医学、万民に与えられる医療、医療施設の拡充とこれだけ揃えば、後に中華王国が医療大国と謳われるのも当然の帰結だった。

 

 『神医』華佗元化、彼はこの時代のもう一人の英雄であった。

 

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あとがき

 

ども、心は永遠の中学二年生です。

 

ちょっと脇道に逸れております!

 

あ、別に『乗り越えなければならないもの』は打ち切っていませんよ?

 

単純に今は充電中です。

 

さて、外史書の蛇足はいかがでしたか?

 

ん?恋姫はどこいったのかって?

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

こまけぇこた・・・あ、はい、ごめんなさい、正直自分で書いてて「恋姫関係なくない?」とか思ってました!

 

でも書いたし、投稿だけしてみるか・・・で、投稿してしまいました!

 

「捏造ばっかりじゃねぇか!」とか言わんといてぇ〜〜〜!!

 

本当に申し訳ありません!!!!

 

コメント待ってます!!

 

次は早めに書きたいです・・・!!

 

 

 

追記

 

書き忘れがあったので、書き直しました!! By 2016/07/26

 

説明
二人の男の目の前で、一人の子供が賊に斬られた。
一人は剣で賊を斬り殺し、一人は剣で子供を手術した。
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コメント
>>naoさま コメントありがとうございます!返事が遅くなってしまい大変申し訳ありません!!医者王ならそのくらいなんてことありませんよwwあと、内容を少々更新したのでよろしければご再読いただけると幸いです!(心は永遠の中学二年生)
さすが医者王!1800年前の医学書が現代でも教科書で使えるって凄いな!(nao)
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