System.out.println(“音速乃りぼん”); /*第1話*/ |
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public class first{
クスクス。
登校中、往来の女たちの笑いが聞こえる。
嘲笑のつもりなのだろうが、わざと聞こえるように、「アレって三バカトリオじゃない?」「マジで、ウケるんだけど」とか言っちゃっている女はいただけない。拓斗もわざと聞こえるように「ビッチめ。うぜぇんだよ」と誰に向かってというわけでもなく言葉を吐き捨てた。
「あんまり気にするなよ」
タロウがせわしなく鞄を背負いなおしながら、携帯プレーヤーをいじっている。どうやら、こいつには聞こえていないらしい。
「こまけぇことはどうでもいいんだよ」
イチロウはまさしく馬面で、その下にはドヤ顔が隠れているに違いない。
「おまえのせいだろうが。その馬のかぶり物、どうにかならんのか」
「俺の目を見ると石になるぞ」
「なるか!」
「そんなに苛つくなよ拓斗。それより今日の小テスト大丈夫なのか」
「そんなのあったっけ?」
「一昨日、連絡網のメールが来てただろう」
「見てない」
「まったく、メールぐらいチェックしろよ」
「拓斗、人生は厳しいな」
馬のかぶり物が虚ろな目で何か言っている。
「うるせぇ、もうテストなんか意味ないだろ」
「そうだな、意味ないな」
片方、イヤホンの外れた横顔でタロウはどこか遠い目をした。三年生。最後の冬。タロウもイチロウも、そして拓斗も今年卒業する。しかし、三人ともエスカレーターで上の学校へ行けると決まっている。だから、三バカトリオも今年が最後じゃない。会う頻度は減るかもしれないが、まだ続いていくものだ。その事実が、三人をどこか安心させていた。
昼休み、拓斗はしょんぼりしていた。
「ん、どうした拓斗。腹でもいたいのか」
タロウが後ろの席に座ったので、拓斗も後ろ向きに座り直した。
「いや、弁当を忘れた」
「少し分けてやろうか?」
タロウは自分の弁当のおかずを蓋に乗せ始めた。
「俺、この戦争が終わったら、結婚するんだ」
イチロウが傷だらけで現れた。
「自分で勝手に死亡フラグ立てて自滅するなよ」
「今日もか。お疲れさん」
タロウがイチロウにねぎらいの握手を求めた。
「友情だな」
「ああ」
二人は笑い合っている。
「それで、拓斗の腹腹時計がどうしたって?」
爆弾やゲリラ戦のことなんて誰も話題にしていないのに、イチロウは焼きそばパンのラップを剥がしながら、草食動物の虚ろな目で拓斗を見た。
「拓斗が弁当忘れたって」
「そうか、じゃあ俺の焼きそばパンをやろう。安心しろ十個買った戦利品のうちの一つだ」
「悪いな。これも友情だな」
「百二十円也。昼休みの購買戦争はタダじゃないんだぜ」
「卑怯な。あの誓いを忘れたのか」
「昔のことは忘れたな」
イチロウは二つ目の焼きそばパンを剥いて固まっている。誰か突っ込んでやらねばならないだろう。
「おい、食うときぐらい脱げよ」
「おまえは昼食を食べるのにパンツを脱ぐのか」
「パンツと馬のかぶり物は違う気がするけどな」
「おや、タロウ君、クールだね」
「脱ぐけどあんまり見るなよ。恥ずかしい」
二人ともイチロウの顔なんか興味ない。だが、意外にもイケメンなのが気にくわない。そのことで、友情に亀裂が入らないとも限らない。卒業したら、隣町の繁華街でナンパを成功させようというのが、拓斗たちの誓いだ。そしてあわよくば……。あわよくば何だろう。とにかく、イチロウの顔だけで女を引きつける、そしてタロウの話術でゲット。拓斗は漁夫の利という作戦だったはずだ。
「なあ、一人だけ漁夫の利って酷くないか」
「ああ、俺もそう思ってた」
「昔のことは忘れたって言ってたじゃないか」
「そういうの、東洋じゃ仏陀に教えを説くって言うんだぜ」
『言わねーよ』
拓斗とタロウがハモった。
「それよりさあ、昨日のワクワク動画の生放送見た?」
「……」
イチロウはリスみたいにほっぺたに焼きそばパンを詰め込んで固まっている。
「いや、見てないけど。だいたい俺、ワクワク動画とか見ないし」
「おまえは、世間話もできないのかよ。ワク動ぐらい見ろよ」
拓斗はタロウの分けてくれたおかずをつまんで口に運んだ。旨いと思った。冷凍食品なのかもしれないが、いいものを食ってやがるぜと思った。タロウが自分のタブレットを操って動画を見せてくれた。
「何、コレ」
「どうやらボカロ動画のようだな」
イチロウはペットボトルの月のマテ茶で焼きそばパンを流し込んで言った。
「そうそう、『源氏と紫の上』っていう曲」
拓斗にとっては「ふーん」としか言いようがなかったが、それを言ったらおしまいだなというブレーキが働いた。
「で、それだけじゃないんだろう」
「よくぞ言ってくれたね、拓斗君」
タロウはタブレットに地図を表示した。拓斗にとっては見覚えのあるような、ないようなところだった。
「LIVEボカロ。三人で行こうぜ」
タロウはやる気だ。俺はどうだろうと拓斗は思った。
「そこは、馬のかぶり物をして行ってもいいのか」
「大丈夫だろう。学校じゃないし」
「そういえばおまえ、授業中もずっと馬だったじゃないか」
「だから、何度も言うが、おまえは授業中にパンツを脱ぐのか?」
「OK、分かった、好きにしろよ。授業終わったら駅前に集合な」
「タロウは一緒に行かないのか」
「どこの馬の骨ともつかない馬と一緒に下校する勇気が欲しいよ」
「分かった、仕方ない。俺がパンツを脱げばいいんだな」
「いいよ、どうせ制服で行っても面白くないし、一度家に帰って着替えてこようぜ」
タロウの提案にイチロウも拓斗も首肯した。
LIVEボカロ、最近できたライブハウスだ。それでもたいした人気で、すでに若者の溜まり場と化している。ステージの独特の存在感と、誰かの落としたバレッタが床に落ちている。拓斗はバレッタを拾ってポケットにしまった。なんだか、旧知の友人と久しぶりに会ったような感覚があった。大きなスピーカーとスクリーンも今は何も主張していない。次第に人が集まりつつあった。ステージの前には小さな人だかりができていた。
十九時、開演の時間だ。静かなBGMがフェードアウトして、照明が落とされた。ステージだけが存在を主張し始める。軽快なポップスのイントロが始まって、にわかにステージ前に陣取ったコアなファンから歓声が上がり始める。スクリーンには、蒼く透き通ったツインテールのキャラクターが映し出された。加速するビートに空気が揺れる。それは、聞くものの心臓を鷲づかみにして揺らすようであった。それは、まるで生きているようにも見えたが、明らかに何か大切なものが欠落している、重大な欠点を持つものの美しさがそこにあった。例えばそれは、腕のないミロのビーナスが美しく見えるのと同じようなものだ。欠けているが故に完成した完璧さが人の心を動かすのかもしれない。
「な?、生で見ると結構いいもんだろ」
途中、十五分の休憩時間に興奮気味にタロウが話しかけてきた。
「ああ、すごいな」
拓斗は若干うわの空だった。
「ねえ、お兄さん」
拓斗はずいぶん下の方から話しかけられて、視線を向けた。そこには女の子が立っていた。
「ねえ、お兄さん、ナンパしていいですか」
「はっ?」
拓斗は突然話しかけられて困惑していた。これは、世に言う逆ナンというやつなのではないかということに思い至った。
「モテるねぇ、このロリコンが」
イチロウが茶々を入れてきた。
「うるせぇよ」
「おー、こわいこわい」
女の子は携帯を取り出して、こちらに向けた。
「連絡先、交換してくれませんか?」
「あ、ああ」
拓斗もポケットから携帯を取り出して、落としてしまった。
「大丈夫?」
「ああ、ごめん」
でも、なんで突然、女の子にナンパされたんだろうか。これは新しい宗教の勧誘か何かなのかもしれないと拓斗は考えていた。
「あ、やっぱり、無理だったら、べつにかまいませんから」
「うん、いや、そういう意味じゃないんだけど」
「私、怪しいものじゃないですよ。東小の四年生でキョウコっていいます」
「ああ、あの付属の学校ね」
「はい、今日は四月朔日さんの連絡先が知りたくて」
「据え膳だな」
イチロウがかなり冷ややかな目で見ているのを無視しつつ。
「わかった、じゃあ」
四月朔日拓斗のプロフィールから女の子の携帯に連絡先を送信してあげた。
「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで。あとで連絡しますね」
「ああ、バイバイ」
女の子は去って行った。おかしいな、どこかで会ったことがあったっけという疑念が消えなかった。
「どうだ、拓斗。世の中の不公平について語り合おうじゃないか」
タロウが首に腕を回してきた。
「そうだな、なぜおまえだけなのか、詳しく聞かせてもらおうか」
イチロウがかなりきつく拓斗の首に腕を回した。く、苦しい。そんなこと言っても、拓斗にも何のことやら分からないことが多すぎた。
「知らん、俺にも何のことやら分からない」
「隠し立てすると、ためにならんぞ。俺たちそんなに浅い仲じゃないだろう」
「馬の耳に念仏なんて誰が言ったんだ」
「言ってねぇ。馬面で迫るな! 気持ち悪い」
「ふむ、どうやら、何も知らないようだな」
タロウは拓斗を解放した。そんなことをしているうちに、休憩時間が終わって、また曲が始まった。この曲は知っている。水曜ドラマシアターの主題歌のカバーらしい。観客もそれを知っているのだろう。一緒に歌っている人が多い。
と、突然、ステージの照明が消えた。騒然とする中、警察官が駆け込んできた。どうやらすでに包囲されているらしい。誰かがJA○RACに通報したようだ。拓斗たちは団体で捕まってしまった。
数時間後、拓斗は警察署にいた。
「卒業も進路も決まって、今の時期にこういうのはまずいんじゃないかな」
刑事が拓斗に諭すように言っている。
「ボカロを聞くのが悪いって言っているわけじゃないんだ。だがな、世の中には逆らわない方がいいものがあるってことだ。そこの紙袋を見てみな」
拓斗がデスクの横に置いてある紙袋を見るとそこには、ディスクがいっぱい詰まっていた。
「これな、みんな、違法なんだ。まあ、やっている奴らには違法だっていう意識が薄いっていう問題もあるが、中には確信犯もいてな。それが世の中ってやつだよ。君はまだ若い。躓くこともあるだろう。しかし、注意してしすぎることはないんだ。今日はもう遅いから送ってやるけどね」
「……」
拓斗は何度目かの沈黙を刑事に向けた。
「君が悪いって言っているわけじゃないけど、そんなに何もしゃべらないんじゃ何かとまずいだろう。まあ、今日はもういい。家に帰って休みなさい」
刑事の取り調べが終わって、拓斗はパトカーで家に帰った。静寂だけが拓斗を迎えた。まだ、家には誰もいなかった。
すっかり物置になった机の上を片付けて、マシンを起動させた。
『拓斗宛の一通のメールがあります』
メールのアイコンをクリックして、内容を確認してみる。
『真実を知る者よ、歌姫を解放せよ』
何のことだ? いたずらメールか。拓斗はメールをごみ箱に放り込もうとした。突然、携帯が鳴った。
「何だ? こっちもいたずらか?」
億劫そうに携帯を取り出して、画面を見るとキョウコからメールが来ていた。
『友達から聞いたんだけど、今日、LIVEボカロで大変なことがあったんだって? 大丈夫?』
キョウコは先に帰ったから、取り締まりに巻き込まれなかったようだ。一応心配してくれているみたいだしと拓斗は思った。
『大丈夫。もう家に帰った。心配してくれてありがとう』
送信。携帯をしばらく眺めていた。メールの着信音が鳴った。
『メールを返してくれないかと思っていたから安心しました。また連絡するね』
拓斗はキョウコのメールをいつまでも繰り返し読んでいた。いまいち真意が分からない。どうして俺なんかと? と思っていた。そういえば、自分の名前を彼女は知っていた。自分はそんなに有名人なのか? 拓斗はいたずらメールを消すのも忘れて、その夜は考え込んでいた。
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翌日、学校に行く途中、タロウと合流した。隣にはイチロウもいる。いつものことだ。だが、いつもと違うのは、タロウが拓斗に謝っていることだった。イチロウにも謝っている。どうやら、タロウは昨日の一件は自分に責任があると感じているようだった。
「タロウよ、いいんだ。気にするな。それにしても、俺だけ刑事に絞られたのは何でだ」
そんなかぶり物をしていれば目立つに決まっているだろうという言葉を拓斗もタロウも飲み込んだ。イチロウにそんなことを言っても仕方ないだろうと思ったからだ。
「分かったよ、皐月賞は諦めればいいんだろ」
「……」
「とにかくすまなかったな二人とも」
「いや、おまえがそんなに殊勝になる必要はないんじゃないのか」
「拓斗ぉ。おまえいいやつだな」
「やめろよ、そんなんじゃねぇよ。だいたいアレは俺たちのせいで起こったことじゃないだろう」
「拓斗はいいやつだと俺は認識している。俺の心は馬並みだ」
馬が何か言っているが、いつものことなので、二人とも無視して会話を続けた。
「とにかくだ、俺はボカロの良さを二人に分かってもらいたくて、LIVEボカロに連れて行ったんだ。それは分かってくれよな」
「ああ、俺たち」
グッと三人で親指を立て合った。
――親友だからな
テストにも受験にも役に立たない授業はもやは形骸化している。確かに、クラスには受験組もいるが、そいつらはたいてい予備校の課題とか、授業中に内職をしている。拓斗はタブレットに映し出された教科書を無意味にめくっていた。それは、これからの短いこの学校での生活を見せてくれたし、これまで積み上げてきた思い出と時間を思い起こさせてくれた。昨日、LIVEボカロで聞いたボカロ曲。正直、何がいいんだか全然分からない。ただ、何がいいんだか分からないものを批判する気にもなれない。そんなことはしてはいけないんだという思いが拓斗の中にあった。
今日の授業が全部終わって、三バカトリオは教室を出た。
「今度、またLIVEボカロに行こうぜ」
タロウが懲りずに誘ってくる。
「おまえ、また捕まりたいのか」
「いや、あの一件でライブの基準が厳しくなって、もうLIVEボカロじゃオリジナル曲しかやらないって噂だし」
「俺が捕まったのは馬だからじゃないのか」
それもあるかもしれないが、一度あんなことがあったところへまた行くのは験が悪すぎると拓斗は思った。
「お? 拓斗。なんだそれは」
拓斗は自分の下駄箱を開けて固まっていた。靴の上に手紙が乗っている。
「おまえ、もしかしてラブレターか? 昨日に引き続いておまえって奴は」
「なあ、読んで俺たちに聞かせてくれないか?」
イチロウがかぶり物の隙間から荒い息を吹き出している。
「なんで、俺が」
「分かった、俺が読んでやろう」
タロウは拓斗から手紙をひったくると、中身を開けて読み始めた。
「? なんだこれ」
タロウはあきれたように、手紙を拓斗に返した。そこには『体育館裏の丘で待ってます。キョウコ』と書かれていた。
「コレは、アレだな。告別式だな」
「それを言うなら告白だろ」
ベタなイチロウにタロウが、これもまたコテコテの突っ込みを入れている。拓斗は手紙を読み返した。達筆とはほど遠い女の子の文字がそこに躍っていた。
「悪かったな、茶化すつもりはないんだ。真面目な話、おまえが真剣につきあうなら応援するよ」
「そうだぞ、ロリコン」
おいっ! とタロウはイチロウを制して背中を向けた。
「俺たち、先に帰るから。頑張れよ」
何を頑張るんだよと拓斗は少しあきれていた。二人の背中を見送って、拓斗は靴を履き昇降口をあとにして、何となく違和感を覚えた。何だろうこの感じは。
五分後、拓斗は体育館裏の丘に立っていた。周囲には誰もいない。運動部の喧噪もここまでは聞こえてこない。
「俺って案外、人がいいのな」
拓斗には小学生相手にマジになる気はない。拓斗にも小学生の頃、初恋の人がいた。でもそれは決して叶わないものだった。それって、そういうものだし、それでいいんだと思う。告白されたらちゃんと断ろうと思っていた。しかし、全く傷つけないで断るなんてやっぱりできないと思った。しかし、しかしながらだ。ここで断らねばロリコン野郎のそしりを受けてしまう。こう見えて、ハードボイルドを目指すヤングアダルトとしてはこの危機を何とか回避しなければならないと思うし、おまえだってそう思うだろう? と誰かを説得したい自分がいた。いや、一番説得しなければいけないのは自分だってことは分かっているんだという不毛な思考を拓斗は巡らせていた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
いつの間にかキョウコは拓斗の後ろに立っていた。体育館裏から林を通って、少し開けた丘に、夕日が射し込んでいる。その赤い光がキョウコの頬を赤く染め上げている。拓斗も少し赤くなっていたかもしれない。でも、それはこれから予想されることに照れているからではない。少し頭に血が上っただけだと拓斗は自分をごまかしていた。
「あ、あのぅ。私」
ちゃんと断れるのか俺? と拓斗は思っていた。二人の間を夕凪が吹いて、沈黙が訪れた。
「体育館裏って、ここで良かったのか」
キョウコはちょっとびっくりしたように顔を上げた。
「は、はい。いいです」
キョウコが全部言い終わるのを待って、拓斗は話し始めた。
「俺、いい加減な気持ちじゃいけないと思うんだ。いけないと思うし、君はまだ若すぎるよね」
「あ、あの、だから、そうじゃなくて」
キョウコが泣きそうな顔をしている。そんな目で俺を見るなよ。拓斗は思わず決心に挫けそうになった。
「まず、と、友達になろうよ」
「えっ? あ、それは、嬉しいです」
それだけ言うと拓斗もキョウコも黙ってしまった。この場面で沈黙は辛すぎる。それとも、この沈黙が二人の暗黙の了解を形成するものなのだろうか。
「じゃあ、俺、もう行くから」
「待って。これを持って行ってください」
キョウコから受け取ったものは、ディスクか? 拓斗は首をかしげながら受け取ったディスクを眺めた。夕日が反射して黄金色に輝くディスク、この中に何が入っているのかと拓斗は思った。その答えはすぐにキョウコから語られた。
「これ、ボカロ動画です。この前、LIVEボカロにいたから興味あるのかなと思って焼いてきました」
「あ、ああ。そうなの」
なんだか少し拍子抜けしたように拓斗はディスクを制服のポケットに押し込んだ。告白、じゃなかったのか。拓斗は自分一人で先走っていたのを少し恥じた。しかし、今更恥じたところでキョウコに奇妙なことを言ってしまったのは取り返せない。
「帰ろうか。送るよ」
とりあえず、男としてというか、年上としてできることをしようと拓斗は思ってキョウコを促した。帰り道、二人とも何も言わなかった。それもそのはずで、昨日の今日じゃ、お互いに緊張したっておかしくはないのだ。しかし、キョウコの顔は穏やかだった。
「私、ここで」
そう言ってキョウコは別れを告げた。
「そうか、じゃあな」
「あ、あの、それから」
「なんだ?」
「これも受け取ってください」
キョウコからファンシーで小さな紙袋を渡された。
「クッキー焼いてきました。お口に合うかどうか分かりませんけど」
「うん、ありがとう」
何となく、拓斗の口からも素直な言葉が出るようになっていた。これも、一緒に沈黙の時を過ごしたからなのかもしれない。拓斗はキョウコが見えなくなるまで見送った。
拓斗が玄関を開けるとちょうど廊下に妹が通りかかった。
「ああ、帰ってきたの? おかえり」
「ただいま」
「ねえ、それ。何」
「いや、何でもない」
「ふーん、別にいいけど」
妹にキョウコからもらった、かわいい紙袋を見られてしまった。どこにも居場所がないような妙な居心地の悪さを感じて、自室へと急いだ。キョウコが焼いてくれたディスクとクッキーを見比べて拓斗は深くため息をついた。ディスクをマシンにセットして、ボカロ動画を鑑賞した。そして、クッキーも賞味した。クッキーのおいしさはよく分かったが、ボカロはあんまりよく分からなかった。何だろう、周波数のあっていないラジオみたいな、そんな風に聞こえた。せっかく焼いてくれたディスクだし、よく聞けば良さが分かるのかもと思って、拓斗はクッキーを食べながら、その晩遅くまで聞いていた。最後のクッキーに妙な歯ごたえを感じてティッシュの中に吐き出した。何か入っている。作るときに紛れ込んだとしても妙だと思った。吐き出したものを洗面所で洗ってみた。クッキーの残骸の中から出てきたのは、何かの部品だった。何だろうこれは。キョウコのいたずらだろうか。拓斗の中でまた疑念が鎌首をもたげた。自分の周りで何かが起こっているような気がして落ち着かない。
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「……ちゃん」
「お兄ちゃん」
「起きて!」
妹の声が聞こえる。体を覆っていた毛布が剥がされる。冬の朝の冷気に体が晒されて一気に鳥肌が立った。
「うーん、何だよ。いきなり」
「お兄ちゃん、いつまでも起きないんだから。遅刻するよ」
「分かったよ」
「早く顔洗いなよ」
妹は去って行った。昨晩は遅くまでボカロを聞いていた。ねみぃ。拓斗はあくびをかみ殺した。
嵐のように登校準備を済ませて、拓斗は通学路を走る。家の前に見慣れない黒塗りの車が駐まっていた。何だよ、こんなところにヤクザか? と思いながらも、拓斗は急いでいたので無視して走った。車の中の視線が拓斗を追っていることも知らずに。学生の列の中に馬の頭がひょっこり出ている。タロウとイチロウに追いついたようだ。
「よう」
拓斗は二人の間に割って入った。
「やあ、ハローです。拓斗君」
「グーテンモルゲン、拓斗」
クスクスという笑い声が聞こえる。元々笑われていたのか、それとも拓斗が来たから笑われているのか分からない。あまり気持ちのいいものじゃないが、拓斗は気にしないように努めた。
「それで、どうだったんだ」
「何が」
「告白だろ」
タロウが興味津々で聞いてきた。
「いや、それが……」
「ふーん、そうか。OKしたのか」
「拓斗、ついに淫行条例違反だな」
「違うんだって。告白じゃなかった」
「違うのか」
「じゃあ、プロポーズだな。そうなんだろ」
「いや、違うって。ディスクとクッキーを渡された」
『なにぃ! ディスクとクッキー?』
タロウとイチロウはぶるぶると驚愕した。
「そんなに驚くところじゃないだろ」
「何言ってるんだ、少女のディスクだろ」
「何言ってるんだ、美処女のクッキーだろ」
「いや、そんなこと言われても」
「見たのか、おまえ。少女の恥ずかしいところを」
「食ったのか、美処女の甘いところを」
「いやいや、おまえら絶対おかしな妄想してるから」
「拓斗君、俺は悲しいよ、君がそんなに変態だったなんて」
「拓斗、酷いぞ、俺というものがありながら、少女をドキュンと貫くなんて」
「だから、話が脱線してるだろ。だいたい、いたずらでクッキーにこんなものを入れられたんだぞ」
拓斗はポケットから何かの部品を取り出して見せてやった。
「おい、コレって、マシンの部品だぞ」
「だから、いたずらでこんなものクッキーに入れるような、ただの子供だったんだって」
「違うぞ拓斗。これはeプロセッサだ」
イチロウの真面目な声が馬のかぶり物から聞こえる。珍しくイチロウが真面目だ。
「eプロセッサって何だ?」
「俺も詳しいことは分からないけど、ボカロ部の奴に聞けば何か分かるかもしれないな。今日、聞きに行ってみようぜ」
何かあったときのタロウの顔の広さには助けられることが多い。こう見えてタロウは人望が厚いのだ。
授業中、ぼんやりと外を眺めていた。空が青い。そんな当たり前のことにも何か感慨深いものを拓斗は感じていた。そんなことより、何よりも、LIVEボカロで聴いた曲やキョウコにもらったボカロ曲がさっきから頭の中でなんだか全然鳴り止まない。どういうことなんだ? と拓斗は思った。ボカロなんて興味ないはずだったのに。体の方はそうじゃないと言っているようだった。ジグソーパズルの最後の一ピースがはまったときのようなそんな感覚だった。
放課後、三人でボカロ部の部室に行ってみた。
「こんちは、タロウだけど、部長いる?」
「やあ、タロウ君。よく来たね」
一番奥の方からメガネの男がこちらに歩いてきた。
「今日はちょっと相談があってね」
「ああ、タロウ君なら大歓迎だよ」
「ありがとう。それで、こっちが拓斗、で、こっちがイチロウ」
「宜しく、タロウ君のお友達だね」
タロウが目で促すので、拓斗はeプロセッサを部長に見せた。部長はメガネの奥の目を丸くして驚いた。
「これ、eプロセッサじゃないのか」
「それは分かってるんだ。でも、使い方が分からなくて」
「でもな、拓斗君だっけ? このeプロセッサは使い方を知らない人が持つようなものじゃないんだ」
「俺もよくわかんないんだ。ある人からもらってさ」
部長はメガネを曇らせながら、しばし思案していた。
「マザーボードの基本的なレイアウトは情報Vの教科書に載っているだろ」
拓斗は記憶をたどりながら頷いた。
「これは、マザーボードのノースブリッジにコネクトするんだ。今、マシン何使ってるの?」
「えっ、ああ、あのさ、なんて言うんだか知らないんだけど、あのニホンザルが温泉入ってるCMの……」
「ああ、あの入門者用の。でも、アレじゃダメだよ。古すぎて、規格が合わない。eプロセッサを使うならできれば最新のマシンが欲しいところだ」
「そうなんだ、ありがとう。何とかやってみるよ」
部長はメガネを中指でズリあげて値踏みするように拓斗を見た。
「良かったら、それ売ってくれない?」
「……」
「いや、それはやめてやってくれ。それに、俺たちみたいな小遣いで買えるような代物じゃないだろう」
タロウが割って入ってきた。部長はやや憮然として肩を落としたように見えたが、すぐに回復したようだ。
「とにかく、それを持っているということは、それだけで価値のあることなんだ。ステータスなんだよ。それを理解してくれよな」
「忙しいところ悪かったな、今度おごるからさ」
タロウがフォローに回ってくれた。
「当たり前だ、情報はタダじゃないんだからな。ネットでもリアルでも」
部長は笑って、そして真剣な目でこうも言った。
「それを使って起きたことは、自己責任だからな。それだけは覚悟しておいてくれよ」
「ああ、分かった、サンキューな」
部長は部屋の奥に戻っていった。部室のドアを閉めタロウがこちらを向き直った。
「というわけだ。拓斗、どうだった?」
「悪かったな、手間を取らせて。とりあえず、キョウコに連絡してみるわ」
「そうだな、おまえ、ロリコンだもんな」
「ああ、草食動物のおまえに言われたくないがな」
「二人ともケンカするなよ。帰りにマクドでも寄っていこうぜ」
「そういうおまえは何で似非関西人なんだ? 普通にマックって言えよ」
「いいだろ、今、俺の中で流行ってるんだ」
「そうか、だからおまえはマイ・エネマグラを……」
――ガッ
タロウはチンを、拓斗は後頭部を、それぞれ馬のかぶり物の上から思い切り殴った。
「ぐう、なぜ俺がこんな」
「下ネタ発言禁止」
「しかし、ゲームとかでは普通に言うぞ」
「おまえのゲームはどうせ十八禁だろうが」
「今度、貸してやる。これで、貸しイチな」
「借りない。借りる必要ないし」
「臆したか、勇者よ」
「いつから、おまえは魔王になったんだ」
「笑止、俺のマーラに戦いを挑むとは」
「頼むから、粗末なもの出さないでくれよ。ここは天下の往来だぞ」
「ポロリもあるよ(笑)」
『ねえよ』
三人ともそんな時間が好きだった。三バカと言われようともバカやって、好きな時間を過ごしていたかったのだった。三人で学校から帰る時間は楽しかったし、三人で食べるハンバーガーは旨かった。そんな、些細なことの積み重ねが青春の八割だと思っていた。拓斗はキョウコにもらったディスクをタロウに貸してやった。タロウもボカロが好きだから喜んでくれた。
家に帰ると妹が玄関先で立ち尽くしていた。
「どうした?」
「鍵、忘れて」
「ああ、そう」
鍵を開けて中に入ると確かに誰もいないようだった。拓斗は自室で着替えるとキョウコにメールした。
『クッキーごちそうさま。ところで、eプロセッサはどうすればいいんだ』
いまいち、キョウコの真意が分からない。なぜ、俺なんかに近づいて、こんなものをあんな手段で渡すのか理解できない。でも、ボカロ好きなのは少し理解できたかもしれない。確かにアレは中毒性があるかもしれない。自分にも作れるだろうか。拓斗はそんなことをぼんやりと考えていた。
メールの着信があった。キョウコからの返信だろう。
『今から、会えませんか。会ってちゃんと話したいです』
まあ、そうだろうなと拓斗は思った。面と向かって話したいこともあるだろう。
『分かった、今から駅前の公園で』
送信。
拓斗は携帯と財布とeプロセッサを持って家を出た。どうせこれも返さなきゃいけないものだろうと思っていた。
夕暮れの街を歩いた。キョウコもたぶん家を出た頃だろう。どちらが待っても恨みっこ無しだ。だから、そんなに急ぐことはないだろう。ゆっくりと影が長くなっていく。夕日が歩き出す拓斗の背中を押している。何となく行くことがためらわれるのはなぜだろう。どこにもやましいところなんてないのに、不思議な感情が拓斗を支配していた。
キョウコの姿は、月明かりの下にあった。もちろん、その体は年齢相応のものなのだろうが、今の拓斗には酷く小さなものに見えた。朧気な小さな影が拓斗に気付いた。拓斗は黙って近くのベンチに腰掛けた。長い話になりそうなそんな予感がした。
「ねえ、座ろうよ」
拓斗が声をかけると、キョウコはしずしずと寄ってきて、隣に腰掛けた。
「ありがとう」
「別に、何で?」
「来てくれないと思っていたから。良かった」
「ああ、別に嫌いになったわけじゃないからな」
「あの、eプロセッサはお兄ちゃんが持っていてください」
お兄ちゃん? 確か今、キョウコはお兄ちゃんって言ったよな。拓斗は少し戸惑っていた。
「でも、高価なものなんだろ。元々、キョウコちゃんのものじゃないんじゃないの」
「違います。eプロセッサは私のものです」
「じゃあ、なおさらキョウコちゃんに返すよ。こういうのは持ち主がちゃんと持っているべきだし」
「ディスク、見てくれましたか」
「うん、ああ、見たよ」
「どうでした?」
「どうって、まあ、すごいなと思ったよ。実際、聴いたら頭の中で鳴り止まないんだ」
「そうですか、じゃあ、やっぱりお兄ちゃんに持っていてもらいたいです」
「なあ、さっきから、気安くお兄ちゃんって言ってるけど、誰のことなんだ? 俺はキミのことなんてまだ何にも知らないし、そんな関係でもないだろう」
ちょっと言い過ぎたかな、やっぱり言い過ぎたよな、という後悔があった。キョウコの周りの空気も少し変わったような気がしていた。泣いちゃうかな、泣いちゃうよなという予感があった。だって相手は女の子だもんなと拓斗は思った。
「私は知っています」
毅然とした声。
「何を?」
恐る恐る問うてみる。
「八月二十四日の夕立の日にずぶ濡れの捨て犬を拾っていったこととか、十月十八日に妹さんが変な彼氏作って困っていたときに、俺の妹に手を出すなって出張っていったこととか、ずっと三人で一緒につるんでいるのに時々寂しそうな横顔を見せるときとか、それから、それから……四月朔日さんのことを調べました。必死で……」
キョウコは歪んだ顔をしていた。目からあふれる涙が頬を伝う。どうしようもなく不安で混乱しているように見えた。そして、キョウコをそんな風にしているのは拓斗だと拓斗自身が気付いていた。何か宵闇にべったりと張り付いたようなそんな雰囲気だった。
「そんな人だから、例えボカロであっても大事にしてくれるんじゃないかと思って、私はeプロセッサを託したんです」
そんな風にキョウコは話を締めくくった。
そこまで考えてくれていたとは正直思わなかった。でも、そんなに詳しく自分のことを見ていたなんて、微妙だ。プチストーカーされてたんじゃないかと思うとちょっと病的なものを感じるが。でも、この子の場合、不思議と嫌悪感はない。何かまっすぐなものを感じる。不快にならないストーカーっていうのもアリなのかなと拓斗は思った。
長い、沈黙があった。キョウコが泣き止むまで待った。月明かりと街灯の白い明かりが二人を照らしていた。
「分かった」
拓斗はそう言ってキョウコの手を取って立たせた。少し驚いたような顔をしてキョウコはうつむいた。
「これは俺が預かっているよ。でも、必要になったらいつでも言ってくれ。それでいいだろう?」
「ありがとう」
キョウコはホッとしたように顔を上げた。
「もう、暗くなったから家まで送るよ」
拓斗とキョウコは、ゆっくりと歩いて行った。キョウコは拓斗の半歩先を歩いている。拓斗は黙ってキョウコについていった。知っている道も通った、いつもここを通ってキョウコは生活しているのだなと拓斗は思った。
「私の家、ここだから」
何の変哲もない住宅街の一角にキョウコの家はあった。
「ああ、じゃあ、またな」
「あの、よかったら、お茶でも」
「いや、悪いから、いいよ」
踵を返して帰ろうとする拓斗の袖を引っ張る手があった。キョウコの細い指が恥ずかしそうに拓斗の袖をつまんでいる。
「おねがい」
キョウコはうつむきがちに言った。仕方ないなと拓斗は思った。同じ日に二度もキョウコを泣かせるのは忍びないという心が拓斗にもあった。
「……」
「じゃあ、お茶だけ」
二人は家の門から中に入っていった。
「お、おじゃまします」
「誰もいないから遠慮しなくていいよ」
「じゃあ、遠慮なく」
こぢんまりとした玄関で靴を脱ぎ、細い廊下を通って、急な階段の下まで来た。
「先に二階に上がってて。私の部屋、右だから。入って待ってて。お茶持ってくるね」
「ああ」
拓斗は二階に上がっていった。階段の突き当たりで立ち止まる。右側のドアをゆっくりと開けた。暗い部屋の中に、くっきりと六面のマルチディスプレイが輝いていた。その明かりで部屋の中の様子も少しは分かる。照明のスイッチの位置も分からないので、そのまま部屋の中に立ち尽くした。ベッドの枕元にクマのぬいぐるみが置いてあった。布団も女の子らしい。しかし、このマシンだけは異質な光を放っていた。ディスプレイを覗いてみる。様々なアプリケーションが映し出されていた。その中にワクワク動画の画面もあった。コメント欄を見てみる。
『黒猫新作キター』
『ワクテカ』
『神曲期待』
『黒猫最高!』
「黒猫、私のもう一つの名前」
いつの間にか、キョウコが後ろに立っていた。全然気配がなかった。何かの達人か。いや、違うだろう、自分が画面に集中していただけだと拓斗は思った。
「黒猫って、キョウコちゃんなの?」
「そう、聞いたでしょ。私の曲」
「あっ、あのディスクって」
「全部、私の曲」
「すごいね」
「電気つけるね」
キョウコの部屋に明かりが灯された。それまで異様な存在感を放っていたマシンが、少し優しく見えた。
「お茶、飲んで」
「ああ」
女の子の部屋でお茶なんて、何という落ち着かないことをしているんだ俺はと拓斗は思った。部屋に呼ばれるっていうことは、少なくとも嫌われてはいないわけで。拓斗は注がれるままにお茶を飲んだ。
「ボカロはね」
キョウコがぽつりと話し始めた。
「ボカロは悲しいの」
「悲しい? どうして?」
「人間じゃないのに、人間らしさを求められるから」
「調教ってこと?」
「それもあるけど、ボカロは人間にならなくっても、人間に近づかなくてもいいんじゃないかって私は思うの。でも、それは人間の一方的な考え方かもしれないし」
「うん?」
「もし、このままね。時代が進んで、ボカロが本当の人間みたいになったら、選択する権利ってあるんじゃないかなって。例えば、何が好きで、何が嫌いかみたいな」
「ボカロの人権ってこと?」
「ねえ、やっぱり機械に人のまねをさせるのって切ないよね」
「でも、そのおかげで今の僕らの生活が支えられているんだし」
「それじゃあ、愛がないよ。私がもっとボカロを上手く歌わせられれば、もっともっとボカロを好きになってくれる人が多くなるんじゃないかなって。そしたら、マシンと人間がもっと仲良くできるんじゃないかって」
「キョウコちゃんは十分すごいよ。だって、曲作るのあんなに上手いじゃないか」
「ううん。違うの。私はただリアルとバーチャルを繋いでいるだけ。私たちもっと繋がり合いたいの」
キョウコは拓斗の隣に座ると、そっと顔を拓斗の胸に埋めてきた。思わず広げて彷徨う両手の置き所に困って頭をかいた。そして、そっと、両手をキョウコの肩に置いた。
「大丈夫だよ。僕はキョウコちゃんのお兄さんなんだし」
キョウコちゃんなんてやめて。キョウコって呼んで。お兄ちゃんじゃ足りないよ。拓斗は私の恋人であって欲しいもん。キョウコは秘めたる思いをぶつけるつもりで拓斗に体を密着させる。キョウコの愛情と拓斗の困惑が部屋に満ちていた。
キョウコが顔を上げる。その瞳は潤んでいた。見つめ合う二人。しかし、この二人は決定的にすれ違っているようでもあった。拓斗が目をそらすとキョウコも体を離した。
「ねえ」
キョウコが目の前でかすれた声を出した。
「せめて、キョウコって呼んでよ」
「……分かったよ、キョウコ」
キョウコは艶然として、瞳を閉じた。拓斗は逡巡しながらもキョウコのおでこにこっそりキスをした。
「バカ」
キョウコが嬉しそうに怒っていた。
「ただいま」
「あ、兄貴帰ってきた」
妹はバニラバーを咥えながら台所から出てきた。
「よお」
「お兄ちゃんなんか顔赤くない?」
「いや、ちょっと走ってきたから」
拓斗は嘘をついた。
「ふーん、別にいいけど、汗臭いのはやめてよね」
妹はそのまま自室の方に消えていった。拓斗も自室に行ってベッドにうつぶせに倒れ込んだ。顔が赤いのは走ってきたからじゃない。キョウコのせいだ。なにやってんだ、相手は小学生だぞ。それはマズイという気持ちと、だからなんだという気持ちがあった。今はだからなんだという気持ちが勝ちつつある。今まで分からなかったけど、人に好意を持たれるということは決して不快なことではないと思った。そしてそれは希有なことなのだと。拓斗はポケットからeプロセッサを取り出して仰向けになって天井にそれをかざした。ここに、キョウコの想いが詰まっているような気がした。俺が使ってやらずに誰が使ってやるんだよと思った。いや、そんなことよりも、これを、キョウコの想いが詰まったこれを誰かに使わせるなんてできそうになかった。それならもう答えは出ているような気がした。
リビングで野球中継を見ている背中に話しかけた。
「なあ、俺のマシン。新しいのに」
「なんだ、やっと興味が出たのか」
拓斗の父は孫の手で背中をボリボリかきながら言った。
「ボカロを使いたくて」
「うん、人はね、みんな繋がって生きているんだ。ボカロもその道具だ。使えばきっとすぐに友達ができるぞ。すぐ発注しておくから安心しなさい」
「それと、これ。分かる?」
拓斗は父にeプロセッサを見せた。
「知らないな」
父親の無表情な反応を拓斗は受け止めた。やっぱりこれは自分たちの仲間内での問題にしておいた方がいいのかもしれないと拓斗は思った。自分たちだけの秘密にしておけば良かったのかもしれない。父にeプロセッサを見せたことを少し後悔した。せっかくこっそりeプロセッサを渡してくれたキョウコの気持ちを考えると、もったいないことをしたなと思った。このことを共有しているのは少数でいいはずだ。
.。.:*・゚☆.。.:*・゚"£(。・v・)-†.。.:*・゚☆.。.:*・゚
学校帰り、自宅の前に宅配便の車が駐まっているのが見えた。
「ああ、キミ、ここの家の人?」
「そうですけど」
「よかった、お届け物です。えーと、なんて読むのかな、ナントカ拓斗さんにお届け物です」
「ワタヌキ」
「えっ?」
「四月朔日です」
「ああ、そうですか、じゃあワタヌキさん、玄関の中まで運びますんで」
拓斗が玄関を開けると、せわしなく荷物を運んできた。
「すごいなぁ、最新型じゃないですか」
「えっ?」
「マシンですよ、榊原の最新型でしょ」
「はあ」
「僕も自作マシンやっているけど、これには到底かなわないなぁ。サインお願いします」
「……」
「じゃあ、どうもありがとうございました」
玄関には段ボールが三つ積み上がっていた。拓斗はしばらくそれを眺めていた。
拓斗は自分の部屋で若干脱力していた。
電話が鳴った。誰だろう。拓斗は瞬時にゲル状生物から復帰した。
「もしもし」
『あ、おれ、おれ』
「なんだ、オレオレ詐欺か」
『ちょっ、まっ、俺だよ。タロウだよ。親友だろ』
「ああ、どうした」
『あのさ、キョウコちゃんのディスク借りただろ』
「ああ」
『一応、全部曲を聴いたんだ、そこまでは良かったんだけど』
「何だよ、歯にものが挟まったような言い方して」
『今日、ワク動見たんだよ。そしたら有名ボカロPで黒猫っているだろ? おまえは知らないか』
「で、何がどうしたって」
『ディスクに入ってた曲がさ、新しくアップされてたんだよ、ワク動に』
「それで?」
『それで、って。もしかしてキョウコちゃんが黒猫なんじゃないかと思ってさ』
「確かにそうかもしれないが、俺には関係ねぇよ」
『馬鹿、おまえすごいことだぞ。百万PV超えのボカロPが彼女なんて普通ないぞ』
「だとしても、俺にとってキョウコはそういうのじゃないよ」
『もしかして、おまえら上手くいってないのか』
「小学生とはいえ、女心はわからんよ」
『告白、されたんじゃないのか』
「いや、それがよく分からないんだ。困ってる」
『そうか、まあ、俺のカンだけどさ、彼女、待ってるんじゃないのか』
「でも、俺はどうしたらいいか分からなくて」
『だからさ、おまえの決心がつくまで待ってるんじゃないか?』
「そうか? そういえばキョウコって呼び捨てにしてくれって」
『それって、拓斗のものにして欲しいってことだと思うけどな』
「うーん、倫理的にとかそういうことを抜きにしたとしても、もしキョウコと付き合うことになっていいと思うか」
『馬鹿だな、それを決めていいのはおまえだよ。どっちに転んでも、俺はおまえを応援してるぜ』
「そっか、分かったよ」
『ところで、マシンはもう届いたのか?』
「ああ、さっき届いた」
『そうか、楽しみだな。おまえ、楽しめよ』
「なんで、そんなこと言うんだ?」
『おまえ、変なところで真面目だからな。キョウコちゃんのことだってそうだろ』
「俺はロリコンじゃないぞ」
『あははっ、分かってるって、じゃあな』
ツー、ツー、ツー。
そうか、俺のこと待っているのかな。拓斗は自分の唇に指を当てた。キョウコの紅潮した熱さがまだ感触として残っている。俺はキョウコのこと好きなんだろうか。というより、責任持って好きになれるのだろうか。拓斗はしばらく、ボーッとしていた。
車が駐車場に入ってくる音が聞こえる。父親が帰ってきたのを察して、玄関に出迎えに行った。
「ただいま。よお、拓斗。届いたみたいだな」
「親父、これ、すぐに使いたいんだけど」
「どうした? 急に」
「……」
拓斗は父の目をじっと見つめた。メガネの向こう側、顔の輪郭が狭く歪んでいる。
「そうしよう。運ぶのを手伝ってくれ」
拓斗の父はネクタイを緩めると、箱を一つ運んでいった。
「どうだい、新しいマシンはいいものだろう。さあ、ログインしなさい」
―― Enter Password ****
―― ようこそ!
「これで、このマシンは拓斗のものだ。あとは自分でできるだろ」
「ありがとう親父」
拓斗の父は満足そうな顔をして、部屋を出て行った。
「かあさーん、めしー」
階下へ下りる音が聞こえる。拓斗はボカロのパッケージをしげしげと見つめた。これが人々を魅了して止まないボカロかと思うのと同時に、それを今手に入れたのだという感動があった。
.。.:*・゚☆.。.:*・゚"£(。・v・)-†.。.:*・゚☆.。.:*・゚
イチロウが固まって一歩も動かなくなってしまった。
「なにやってんだ? 早く来いよ」
「あれは何だ」
「何だって、車が路駐してるだけだろうが」
「ふっ、一般人の思考だな」
「おまえだって一般人違うの」
タロウがあきれて言った。
「イチロウは知っている。ダバダー」
ぽかっ
「おい、何をする」
「何をするじゃねぇよ。キリキリ歩けよ」
「あの車、おかしいと思わないか」
「おかしいのはおまえの頭だ」
「あの車、最近ずっとあの場所に駐まっているんじゃないのか」
「そうかもしれないが、じゃあ、持ち主探して早くどけって言うのか? 違うだろ」
「拓斗は誰かにあとをつけられていないか?」
「知らん」
「気をつけろ、死ぬぞ」
「死ぬなんて言うなよ。イチロウだって言われたら嫌だろう」
「まあな」
「さあ、気が進まないのは分かるが行こうぜ」
「俺は正当な報酬を要求する」
「分かった、いまい棒買ってやるから」
「ふっ、俺を駄菓子で釣るとは、笑止」
「じゃあ、いまい棒二本買ってやる」
「四本で手を打とう」
「なぜ、四本なんだ?」
「倍を要求せよと神が」
「生臭坊主の間違いじゃないのか」
「いいから、早く行こうぜ。こんなことで時間食ってていいのか」
タロウが少しマジになった。この辺が潮時か
「わかった、四本でいいから行こうぜ」
「いいだろう、命を賭けるのにふさわしい」
「安い命だなぁ」
「なあ、いまい棒の正しい食べ方って知ってるか。横向きに置いて上からまっすぐ押しつけるとな、縦に四分割されるんだぜ」
ようやく三人は歩き始めて、拓斗の家の門をくぐった。
「おじゃまします」
「邪魔するぞ」
「今、誰もいないから、遠慮しなくていいぞ」
「じゃあ、遠慮なく」
拓斗は二人を自分の部屋に招き入れた。
「おお、これかすごいな。さすが新型。カッコイイじゃん」
「で、早速なんだけど」
「ああ、ベッドの下のエロ本を探すんだな」
「あ、こら、勝手に覗くな」
「イチロウはベッドの下に顔を突っ込んだまま動かなくなった」
「どうした?」
「いや、顔が挟まって動けない」
「そうか、良かったな」
「で、早速なんだろう」
「ああ」
「でも、改造なんかしていいのか。せっかく新しく買ったんだろ」
「eプロセッサを使えば、キョウコの気持ちも少しは分かるのかなと思ってさ」
「なんだかんだ言って気になってるんじゃないか」
「ま、まあな。で、どうなんだ」
「ああ、簡単だよ。プラスドライバーあるだろ」
タロウは手際よくマシンのケースを外した。むき出しのマザーボードが見える。
「ちょっとeプロセッサ貸してみな」
タロウにeプロセッサを渡してやった。すると、eプロセッサはマザーボードのノースブリッジにピタリとはまった。
「たぶん、これでいいんじゃないのか。よく分からんが、とりあえず電源入れてみろよ」
「……」
電源を入れて起動させる。普段と何ら変わりはない。
「ほら、システムのプロパティを見てみろよ」
拓斗は言われたとおりにしてみる。
「プロセッサのところが変わっているだろ、だから、これでいいんだよ」
「それで、何が変わったんだ?」
「それは、俺にも分からん。とりあえず、ボカロ歌わせてみたら?」
「ああ」
拓斗はボカロに曲を歌わせてみた。
「なんだ、最近始めたにしては、レベル高いじゃん。ていうかすごくね」
「そうか?」
「ワク動デビューしてみろよ。面白いことになるかもしれないぜ」
「なあ、そろそろいいだろ」
イチロウがベッドの下に頭を挟まれている。忘れてた。
イチロウを助けてやった。
「悪いな、助かった」
「それで、何かあったのか」
「いや、拓斗、悪かったな疑って。おまえは潔白だ」
「当たり前だろ」
「ていうか、今時ベッドの下に隠している奴なんていないだけなんじゃないの?」
「ふっ、しかし、基本は忘れてはいけないだろう?」
「どうする、このままここにいて、メシでも食って帰るか?」
「いや、俺は帰る。エロ本の収穫もなかったしな」
「ああ、俺も帰るよ。作曲の邪魔しちゃ悪いしな」
「そうか、じゃあ、送るよ」
「いいって、俺、寄りたいところあるし、勝手に帰るからさ」
タロウとイチロウが帰って行ったあと、拓斗は作りかけのボカロ曲を作った。ピアノロールにポチポチと音を置いていく地味な作業だ。こういう作業が必要なことを知ると、ボカロに上手く歌わせることがどれだけ難しいかよく分かる。苦労の末に作ったものを誰かに聴いて欲しいと思うのは自然なことなのかもしれない。最近はワク動も見るようになったし、自分も曲を公開してもいいかなと拓斗は思っていた。正直、ここ最近で、こんなに自分が変わるとは思わなかった。最初、試しにボカロに国家を歌わせてみたときは、ちょっと感動した。自分の打ち込んだものが歌声になるっていうのは、面白いものなのだなと思った。
ん? なんだか、誰かに見られているような気がした。拓斗の心はざわついていた。窓の外を見ると、イチロウが言っていた車が駐まっていた。またあの車か。しばらく見ていると、黒塗りのドアが開いて、中から妙にひょろっとしているノッポと手足の短いデブが降りてこちらを見た。サングラスの向こう側の表情はうかがい知れないが、二人とも確かに拓斗を見ているようだった。
「なんだよ、あっちへ行けよ」
そうは言っても、窓ガラスを挟んでいるし、距離もあるので聞こえてはいないだろう。男二人は何事か話し合うと、そのまま車に乗って去って行った。特に何かをされたわけではないが、気持ちのいいものではない。
.。.:*・゚☆.。.:*・゚"£(。・v・)-†.。.:*・゚☆.。.:*・゚
――――。
「ああ、それはもっとブレシネスをあげればさぁ」
――――。
「うん、そうだね」
――――。
「あはは」
――――。
「どうしてみんなそんなに親切にしてくれるの?」
拓斗はネットの住人と話すことが多くなっていた。そこが、すっかり拓斗の居場所になっていた。
「どうだい、新しいマシンには慣れたようだね」
拓斗の父が部屋を訪れた。
「うん」
「一つ、いいかな」
「何?」
「ボカロはあくまで現実の下位階層であって、実際の歌手の代替となるものではない。この意味、分かるかな」
父は何かの台本を読み上げるように言った。そして、拓斗は微笑んで。
「違うよ、そんなに境界ってはっきりしたものじゃないよ。今なら、きっと、フルエモーション、フルアクセスで具現化できるよ」
「eプロセッサかね」
「うん」
「それは色んなものを敵に回すかもしれないな」
「分かってる、でもいいんだ。僕はボカロとともにありたい」
「……」
父は何も言わずに去って行った。
.。.:*・゚☆.。.:*・゚"£(。・v・)-†.。.:*・゚☆.。.:*・゚
「どうした? 折り入って話って」
タロウはイチロウに紙パックのコーヒー牛乳を投げてよこした。タロウは肩がいい。紙パックはほぼまっすぐにイチロウの顔に向かって飛んでいった。イチロウはこともなげにそれを受け取ると、ストローを取り出した。
「溺れる者は藁をもつかむ、か?」
「そうかもしれん」
二人は破顔した。何もかもがそれで通じ合うような笑顔だった。
「最近さ」
「ああ、そうだな」
イチロウはどこか得心した様子で言った。
「拓斗変わったなと思ってさ」
「ボカロか?」
「いや、キョウコちゃんかもしれないし」
「両方なんじゃないのか」
「たぶんな」
「俺たち」
「拓斗のために何ができるんだろうな」
「難しいな人生は」
「放ってはおけないよな」
「親友だからな」
イチロウはコーヒー牛乳をジュルジュルと啜り上げた。それはまだ足りないと言っているようでもあった。友情も誼みも友誼も。この屋上は空に少し近いなとタロウは思った。果たして俺たちの望む真実へたどり着くことができるだろうか、そんな風にタロウは思案した。
「よお、どうした? こんなところに呼び出したりして」
屋上塔屋の扉から顔を見せた拓斗が近づいてくる。タロウはイチゴ牛乳のパックを拓斗に投げてやった。
ベシッ。
パックは拓斗の顔にぶち当たって屋上の防水ゴムの上に落ちた。
「ってーな。何しやがる」
拓斗はパックを拾って、歩き出す。
「ああ、わりぃな」
「飲んでいいのか?」
「飲んでくれ」
「そうか、で?」
拓斗はパックの背からストローを押し出し、慎重にパックの上面に刺した。
「今度さ、またLIVEボカロ行かないかと思ってさ」
「LIVEボカロ」
無意味に同じ単語を繰り返すことによって同意する拓斗。
「じゃあ、決まりだな。なあ、イチロウ」
「拓斗は俺たちよりもボカロが大切なのか?」
「えっ?」
「キョウコちゃんよりもボカロが愛しいのか」
「そ、そんなこと、ないよ」
イチロウの質問。いや、それはもう詰問だったかもしれない。
「悪いな、俺もこんな質問したくないんだ。だけど、最近の拓斗、何か変だろ」
「拓斗、イチロウを許してやってくれ、こいつこれでも色々考えてるんだよ」
「俺は、ボカロもおまえたちもないがしろにした覚えはないぞ」
「ああ、分かってる、でもおまえ最近変だろ。授業中にもボカロ曲作ってないか」
「俺の曲を待っている人がいるんだよ」
「何かに打ち込むことが悪いとは言わないけどさ、でもなんか何かに追い詰められているっていうかさ」
「分かってるさ、そんなこと」
「じゃあ、何か困ったら相談してくれよ。俺たち親友だけど、言葉にしなきゃ分からないことだってあるだろ」
「……」
空気が大気圧よりも重く感じる。確かに拓斗がボカロに傾倒し始めてから、何かがギクシャクとした音を立て始めた気がする。このままでいいとは思わないけれど、どうしたらいいのかは、自分たちで考えなくちゃならない。考えることをやめたらこの三人の関係は崩壊してしまう。三人ともそう思っていた。
「じゃあ、LIVEボカロに行くときに、また正式に誘うからさ。じゃあな」
タロウとイチロウは去って行った。拓斗は飲んでいた紙パックを握りしめた。ジュルっとイチゴ牛乳があふれてこぼれた。
うなりを上げて通り過ぎる車の流れ、靴音に満たされるスクランブル。拓斗は交差点の真ん中に立っていた。
「なに、あれ。お兄ちゃん?」
それを通りかかった妹が見ていた。
「バッカじゃないの」
鼻を鳴らして妹は背を向けて行った。
どこかに行かなくちゃならないはずなのに、それがどこだか分からない。拓斗は街を彷徨った。雑然とした商店の一角に小さなジャンク屋を見つけた。導かれるようにしてジャンク屋に入っていった。バルクのマザーボードとメモリの入ったショーケースがカウンター代わりだった。
「いらっしゃいませ。って、あれ? おにいちゃ……、四月朔日さん」
聞き覚えのある声が聞こえる。レジの影にキョウコが座っていた。
「よお、ここ、おまえの店なのか?」
「うん、うちの副業なの」
「そうか、じゃましたな」
「待って、四月朔日さん」
拓斗は立ち止まり、しばし思案した。
「お兄ちゃんでもいいぞ」
「えっ?」
「もうそんな風に呼びたくなければ別にいいんだが」
「ありがとう、嬉しい。お兄ちゃん」
今はただ、お兄ちゃんでもいい。少しでも距離が近ければとキョウコは思うのだった。
「で、何だ?」
「あ、そうだ。私のお願い聞いてくれないかなと思って」
「お願い?」
「そう、お願い」
「一応、聞くだけは聞いてやってもいいぞ」
「一緒に店番してくれないかなと思って」
「却下」
「わーん、なぜにー」
「店番はキョウコの仕事だろ」
「そうかもしれないけど、じゃあ、いいことを教えるから。ねっ」
「いいこと? 何だ」
「それは店番してからっていうことで、どうか!」
「分かったよ、そんな目で人を見るな」
カウンターの奥からパイプ椅子を出してキョウコの隣に座る。まあ、こんな土曜日も悪くないかと思った。店番といっても暇なもので、時々冷やかしの客が訪れる程度のものだった。時間をもてあましていたので、キョウコと雑談をした。やはりボカロという共通点があると話も膨らむ。最初はLIVEボカロで突然話しかけられて変な子だと思っていたけど、どうやら悪い子じゃないということは分かった。そして、本当に自分に好意を向けてくれているということも今では不快じゃない。時間はあっという間に経った。
「そろそろ、店閉めるね」
「……」
キョウコが店のシャッターを閉めて戻ってきた。
「……」
「で、いいことって何だ?」
「その前に、お疲れ様のキスして」
やっぱりキョウコはませてるなと思った。それとも今時の小学生はこんなものなのかと拓斗は思った。
「俺はお兄ちゃんなんだろ。お兄ちゃんは妹とキスはしない」
「じゃあ、恋人になって」
「なにを馬鹿な」
「本気で告白してるんだけどな」
キョウコが拓斗の腕に絡みついてくる。拓斗の腕はしんなりと胸に抱き寄せられる。肩を寄せキョウコの顔が隣に来る。蠱惑的な態度と背徳的な感情が交錯する。こんな時どうすればいいんだろうか。タロウとイチロウは相談しろって言ってたな。でも、これは相談して解決することじゃないと思う。自分で決めなきゃいけない。自分も三バカトリオの一員だし、どんなにいい加減な奴か、一度付き合ってみたらキョウコも分かるかもしれない。そうしたら、きっと愛想尽かしてくれるさきっと。そんな風に拓斗はネガティブな感情から言葉を吐き出した。
「分かった、付き合おうか」
「ホント?」
「嘘じゃない」
「嬉しい」
「その代わり、お姫様扱いはしないからな」
「それでもいいよ。ありがとう」
「じゃあ、決まりだな」
キョウコは拓斗の手を取ると、指を絡めた。
「じゃあ、そろそろオーバークロックしようか」
「えっ?」
拓斗はキョウコが何を言っているのかよく分からなかった。
「eプロセッサはね、オーバークロックして初めてその性能を発揮するの」
「……」
「6.4ギガヘルツまでオーバークロックしてみて」
「6.4ギガって、定格が3.2ギガだろ。二倍もクロックアップするなんて無茶だろ」
「できるの、eプロセッサなら。それが、eプロセッサだから」
キョウコが耳元で優しく囁いた。
「オーバークロックで何が起こるんだ?」
「素敵なこと」
そう言ってキョウコは笑った。
振り返ると店先でキョウコが手を振っている。何歩か歩き始めて振り返ってこちらからも手を振った。キョウコの店から遠ざかる。いいことってオーバークロックのことだったのかと拓斗は思った。確かに人から聞かないと思いつかないことだったかもしれない。
家に帰って、マシンの前に座る。電源ボタンを押してデリートキーを連打する。BIOSの画面に入ってCPUの設定を変えてみる。6.4ギガヘルツ、確かそう言っていた。設定を保存して再起動した。しばらく観察したが特に不安定になることもなく動いているようだ。ボカロを使ってみることにした。アプリケーションの起動画面のあと画面が黒いまま止まってしまった。フリーズかと思ったら、画面上にボカロが現れた。おかしいなこんな動作したことがないのにと拓斗は思った。ボカロはだんだんこっちに近づいてきて、そして画面からのっそりと頭をこちらに出した。それは某ホラー映画のようで気味が悪かった。強制終了させようと思ったが遅かった。もう上半身が出てしまっている。拓斗はのけぞりながら、立ち上がった。マシンの画面からボカロが、まさに生まれたのだ。
それは、パッケージに書いてあるボカロの姿そのままだった。目の前に佇立しているボカロに聞かずにはいられなかった。おまえは誰だと。
「ワタシは音速の、りぼん。あなた、のために、歌います」
パッケージにはVL6601と書いてあるが、どうやら個別の名前があるらしい。それにしても、とんでもないことが起きた。ボカロが目の前にいる。どういうことだ? これがeプロセッサの力なのか。しかし、同時に安堵している自分もいる。出てきたのが、どうやら最低限のコミュニケーションは取れそうなモノだったからだ。エイリアンとかじゃなくて、本当に良かったと思った。だが、俺にどうしろというのだ、と拓斗は思った。
「あなたが、タクトさん、ですね。不束者ですが、よろしく、お願いします」
「ああ、よろしく。おまえの名前は『りぼん』でいいのか」
「はい」
「じゃあ、とりあえず、何か歌って見せてくれ」
「では、いきます」
りぼんは大きく息を吸った。
「ぼえぇぇっ〜〜〜〜〜〜〜」
「ちょっ、ストップ、ストップ。おまえボカロだろ、真面目に歌えよ」
「ごめんなさい、上手く、歌えません」
歌えない? 歌えないボカロはただの……。ただの何だろう。とにかくこのままの状態で置いておくわけにもいかない。色々と誤解を招きそうだし。
「よし、分かった。もう戻れ」
りぼんはどこに? という顔をした。
「マシンに戻れ。歌えないんじゃしょうがないだろ」
「分かり、ました」
ガガガガガガガガガガッ――
りぼんは拓斗の顔をじっと見つめている。初めて拓斗の顔に焦点が合ったようだった。りぼんは急に顔が真っ赤に、耳まで真っ赤になってしまった。
「どうした?」
「深刻なエラーが発生しました」
「えっ?」
りぼんは拓斗に向かって、ばったりと倒れてきた。拓斗は必死で支えたが、完全に気を失ってぐったりとしている。
「おーい」
りぼんのほっぺたをペチペチとひっぱたくが反応がない。これは困ったことになったと思った。仕方なくベッドに寝かせてやった。仕方ないだろう、緊急事態だ。明日、キョウコに戻し方を聞いてこよう。
}
/*ToBeContinued*/
説明 | ||
拓人は苛ついていた。 それは、周囲からの視線だったかもしれないし、自分自身に対してかもしれなかった。 そんなとき、友人の誘いで、LIVEボカロに行ったのだった。 そこで見た、ボカロ。 拓人は日常の中にある、非日常を見たのだった。 小学生のキョウコからの手紙を受け取り、気持ちが揺れる拓人。 その後、eプロセッサを手に入れる。 拓人とeプロセッサの運命や如何に?! |
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