秒速5センチメートル(後編)
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 それからの毎日、俺は悩みに悩んだ。

 澄田と別れて明里と付き合うのか、それとも明里と付き合わずに澄田とそのまま付き合い続けるのかを。

 今俺は澄田に惹かれている。それは絶対に間違いないことだし、嘘なんかじゃない。はきりと彼女が好きだと断言できる。それに自分自身だって良い方向に進めているのだ。

 じゃあ明里に対しては?

 運命的に彼女に再開できたあの日、俺ははっきりと気付いたのだ。今でもずっと心の底から明里が好きなのだと。

 それなら明里と付き合えばいいだろう。……いや、それでも……

 毎日寝ても覚めてもそのことで頭が一杯だった。毎年恒例のお花見まで、俺は澄田に会わなかった。仕事が忙しいという嘘をついてまで。

 そして前日にメールで、「大事な話があるんだ」と一言だけ送った。

 

 

 四月の第一日曜日、いつもの公園に来ていた。

 澄田と初めてお花見をした日と同じように、空は晴れ渡り、日差しが心地よく、風が爽やかに吹き抜けている。桜も美しく咲き誇っていた。

 いつも彼女のお手製の弁当を食べる。よく噛み締め、味わい、完食した。いつもより何倍もおいしかった。

 いつものように取り留めのない会話をする。自分自身のことはあまり話さずに、うんうんと相槌を打った。澄田の幸せに満ちた顔を見るのが辛くて、下を向いたままだった。

 そのまま日が傾き、全てがオレンジ色の世界に包まれた。昼が終わり夜が来る。

 そして俺は意を決して、澄田に「大事な話」をした――

 

「あのさ、澄田……」

「うん……」

 彼女は穏やかな表情をしていた。

「大事な話のことなんだけど……」

 なかなか次の言葉が出てこない。ただひたすらに苦しかった、だが伝えなくてはならないのだ、だから――

 

「……実は忘れられない人がいるんだ……だからごめん。澄田とはもう付き合えない」

 

 そう、これが自分の出した結論。俺は澄田と別れて、明里と付き合うことを選択したのだ。それはごく単純なただ一つの理由。この遠野貴樹にとって初恋に勝るものはなかった。俺は明里と澄田を天秤に掛けたのだ。

 

 俺の言葉を聞いた瞬間、澄田の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

「うん……分かってた……」

「え……」

 彼女の言葉は俺の心を激しく揺さぶった。

 澄田と付き合う前もその後も、『篠原明里』という存在を彼女に話したことは一度もなかった。話したくなかった。でも澄田はそれにはっきりと気付いていたのだ。

「あたしはね、遠野くんの側で、遠野くんのことだけをずっと見てきたから……だから気付いていたんだ……」

 澄田は次の言葉を振り絞るように続けた。

「でもね、それはあたしの勘違いなんだ、本当はそんな子なんていないんだって信じてた……だけど今日、それがやっぱり勘違いなんかじゃなかったってことが、はっきり分かっちゃったんだ。だからね……すごく……すごく悲しいよ……」

 俺は目を背けた。

「それに大事な話があるっていうから、期待しちゃってたんだ……バカだよね、そんな訳ないのに……」

 澄田の目から涙がとめどなく溢れ続ける。

「あたしは遠野くんにとって、ただの埋め合わせに過ぎなかったんだね……」

「それは……」

 それは違うとはっきり伝えたかった。でもなぜだろう、何も言えなかった。口から出てこなかった。

「でもね、これだけはあたしから伝えておきたいの……」

 そして澄田は、涙を流したまま笑顔になってこう言ったのだ――

 

「今までずっとありがとう……本当に……本当にあたし……すごく幸せだったよ。だからね、遠野くんも幸せになってね……」

 

 これが最後の言葉だった。

 これでいいんだ。そう強く自分に言い聞かせた。

 

 

 

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 その後しばらくして、俺は明里に今の自分の思いを伝え、交際を申し込んだ。彼女からの好意をはっきりと感じていたから、断られるということは考えていなかった。

 結果、明里はその告白を快く受け入れてくれ、今でも俺のことが好きだと言ってくれた。

 こうして二人は再び一緒になった。これから人生の再スタートなのだ。もう二度と明里を離さないと強く誓った。

 

 明里は今も変わらず岩舟に住んでいて、仕事も栃木の方で就いていた。だから当然、俺達は遠距離恋愛をすることになった。もちろんお互い側で生活できれば、もっと言えば同棲できれば一番よかったのだが、都合故仕方のないことだった。

 でもそんなことは全く問題なかった。大人になった自分にとって、東京と栃木の距離なんてもはや遠距離ではなかったからだ。幼くて弱い、そして無力で流されて生きることしかできなかったあの頃の自分はもういないのだ。

 さあ、今週末は彼女とデートだ! これからは明里で満たしていく、何かを振り払うように、冷えたビールを一気に流し込んだ。

 

 明里とのデートは、ほとんどの場合俺が栃木まで会いに行った。彼女の住んでいる岩舟には特にこれといって何もない場所なので、いつも小山駅周辺でデートをすることが多く、買い物やもっと色々な所を見て回りたい時などは大宮駅まで来てもらったりしていた。それでも自分としては明里に会えるならどこにだって行くつもりだったし、休日の全てを使ったってかまわないのだ。種子島で彼女からの手紙を待っていた時のように、休日がひたすらに待ち遠しかった。

 さらには、仕事中でもメールが来ないかとケータイばかり気にしてしまう自分がいた。まぁお互い仕事をしているので、メールが来ることなんてほとんどないのだけれど。

 明里のメールはその内容こそ日々の日常を綴った短いものだったが、いつもどこか詩的で美しく感じられた。文通をしていた頃、同じように彼女の手紙から感じたものよりもずっと洗練されていた。まるで心の一番敏感な部分に囁き、語りかけてくるようだった。淀みない文体で書き下ろされた小説を読むような、あるいは感情移入できる歌を聴くような。それに世界の新たな発見や秘密に胸ときめかせた少年時代に戻してくれる気さえした。そんなメールを俺は何度も何度も読み返し、心に刻み、想像する。明里の姿を。

 とにかく彼女とメールができている、この状態だけで幸せだった。俺は完全に浮かれていたし、明里で心が満たされていくのをはっきりと感じることができた。これからもこれを途切れさせてはならない、彼女と繋がっていることを噛み締めながら、俺は今日もメールのやり取りをするのだった。

 

 休日、栃木に向かう電車の中で、明里に会いに行ったあの日のことをいつも鮮明に思い出す。あの頃の自分にとって、それは大きな大きな冒険だった。ただ明里に会いたいという一心で、まれで囚われの姫を救い出す勇者のように、たった一人で行動を起こしたのだった。平日の夜に会おうだなんて、今考えればちょっと無謀なことをしたものだと思う。でも平日だろうが休日だろうが、そんなことは関係ない。俺は明里に直接会って、彼女の姿をこの目に焼き付け、その温もりを直に感じたかったのだ。きっと明里だって同じように思っていたはずだ。

 あの日、彼女に会うまで俺はひどい不安を感じていた。今思えば、雪で電車が遅れるなんて容易に想像できたはずだ。それでもできなかったのは、無知で浅はかだったからに違いない。とにかく子供だった。それにいつ到着するかも分からない自分のために、明里をあの寒い中でいつまでも待たせてしまっていたことが非常に心苦しかった。まぁ明里の連絡先を知らない自分にはどうすることもできなかったのも事実だけれど、それが余計にもどかしかった。あの時の自分には、どんなに遅れようとも岩舟駅に辿り着くことだけが唯一できる行動だった。それだけしかできなかったけれど、俺は必死に行動したのだ。

 ボックス席にゆったりと腰を下ろし、窓の外の景色を眺める。陽光に照らされた田んぼの水面がキラキラと光り輝く。のどかで美しい田園風景が広がっていた。心穏やかに、日々の疲れを癒してくれるようだ。早く明里に会いたい、もうすぐ会える、そんな思いでいつも心がワクワクした。

 

 

「ねぇ、あの頃をやり直してるみたいだね」

 俺は明里にそう言った。

 その言葉通り、俺達二人は今までの空白を埋めるように過ごしていった。小学生の時のように、お互い気に入った本や雑誌を貸し合い、夢中で読んだ。部屋でも、電車内でも、平日の昼食時でも。元々本を読むのが好きだったから、色々なジャンルのものを読んできた。それでも明里の貸してくれるものは、いつも新鮮に感じ、新たな世界の扉を開いてくれるようだった。次のデートで、お互い感想を言い合うのが本当に楽しかったし、彼女の口から直接聞けることが嬉しかった。

 連休になると、明里は東京にある俺の部屋まで来てくれて、泊っていった。彼女が来ても恥ずかしくないように、どんなに忙しくても常に部屋はきれいに保つようにしていた。

 それに明里はいつも手料理を振る舞ってくれた。彼女は驚くくらいどんな料理も上手で、ちょっとしたレストランに出てきそうなくらいだった。それを褒めると明里はいつもにこやかに笑い、毎回違う料理を作ってくれた。「貴樹くんには同じものだけじゃなくて、もっと色々な味を知って欲しいんだよ」なんてことを、食事しながらよく言っていた。

 また部屋で明里と一緒にいても、それぞれが読書を楽しむことも多かった。お互い言葉を発さない無言の空間。それでもただ同じ空間にいるだけで、心が安らぐのを感じることができた。俺は明里の放つこの雰囲気が大好きなんだと改めて思う。こうしていると、この先の未来のことをつい想像してしまう。そんなことをしている自分が少し恥ずかしくもあり、明里も同じ想像をしてくれていることを願うのだった。

 いつも連休最終日に、明里は栃木へ帰る。彼女が帰った後も、まだその温もりが部屋に残っているような気がした。そうか、これが明里の匂いなんだ。彼女の匂いで部屋が満たされていくことが、心を温かくしてくれた。

 明里と出会ってから、二人で色々な場所に行き、色々な経験をし、色々な感情を共有し、たくさん語り合った。そうして俺達はより深く、より濃く関係を築いていった。そこには決して薄まることのない濃密な時間が流れていたと思う。

 

 

 そしてあっという間に一年が過ぎ、また春が来た。

「ねぇ、貴樹くん。今度お花見しようよ」

 明里はいつもと同じ穏やかな表情で、俺を誘ってきた。

 場所は二人で話し合い、すぐに決まった。岩舟にあるあの桜の下でやろうということに。やっぱりあそこがいい、だって二人の思い出の場所なのだから。明里もそう言ってくれた。

 

 週末、俺はあの日以来岩舟に降り立った。季節は春、暖かな陽光が体を包んでくれた。東京とは違い、耳障りな音など全くない。そよぐ風や小鳥のさえずりが響き渡っていた。

 今日は約束の時間通りに到着。陸橋を渡り、駅舎に入った。中はひんやりとした空気で薄暗く、それが一瞬視界を奪う。――視界が鮮明になり、そこには慎ましやかに椅子に座る明里の姿があった。

 彼女を見た瞬間、あの日に見た十三歳の少女と重なって見えた。あの感覚が甦る。でもそこには、あの少女はもういない。少女は大人になったのだ。

 明里は俺と目が合うと、優しく微笑み返してくれた。安心したような、そんな表情。

「ごめん、また待たせちゃったね」

「ううん、今来たところ」

 ありがちな会話をする。

「じゃあ、行こうか」

 彼女の手を取り、駅舎を出た。

 

 二人は寄り添い、並んで歩く。

 桜の樹は、昔と同じようにそこに立っていた。満開の桜の花びらが美しく咲き誇る。生命の息吹を感じさせるほどに、立派に力強く大地に根を下ろしていた。

 その樹の下に座り、桜を眺めた。俺達の他には誰もいなかった。二人だけの世界。桜舞い散る中に佇む明里は、ただひたすらに美しかった。まるで空想の世界の人のように。

「ねぇ、貴樹くん。また一緒に桜を見ることができたね」

 明里は語りかける。

「そうだね」

 やっとこの瞬間に辿り着くことができたのだ、長い長い旅だった。

「ねぇ、まるで雪みたいだね」

 俺は語りかける。

「覚えてたんだ」

「もちろん」

 二人は笑い合う。

「忘れるわけないよ。秒速五センチだってことも……全てを覚えてる」

「そっか……私も覚えてる」

 明里は遠くを見ていた。

 降り注ぐ桜の花びらは、俺達を祝福してくれているかのようだった。ゆったりとした時間が、そこには流れている。

 その後も、のんびりと会話を楽しんだ。

 

「ねぇ、私お弁当作ってきたから一緒に食べよう」

 明里はにこやかに言うと、お弁当を取り出し、包みを開いた。

「ありがとう。実は楽しみにしてたんだ」

 そのお弁当は、料理上手な彼女だからか一般的なものよりも幾分豪華なものに見えた。おにぎりや色々なおかず一つ一つに工夫が凝らされ、どれをとってもおいしそうだった。

 俺はおにぎりを手に取り、頬張った。

「……うん、やっぱりおいしいよ」

 素直にそう言う。

「よかった。貴樹くんの期待に応えられたみたいで嬉しいよ」

 そう言って明里もおにぎりに手を伸ばし、一緒に食べた。

「ねぇ、こうやって明里の作ってくれたお弁当食べるの、あの日以来だね」

 俺はあのお弁当を思い出す。

「うん、そうだね」

「あれ、本当においしかったよ。嘘じゃなくて、今まで食べた中で一番おいしかったんだ」

「やっぱり貴樹くんは大げさなんだから」

 明里は笑う。

「本当に忘れられない味なんだ。もちろん今日のだっておいしいし大好きだけど、あれは特別だって感じてる」

 あの日から変わらない正直な感想。

「そうなんだ……きっとお腹がすいてたからよ」

「そんなことないよ。明里が一生懸命作ってきてくれたからだよ」

「そうかもね」

 どこか疑問を持ちつつも、明里は少し笑いながらそう言った。

「また今度作って欲しいな」

「うん、いいよ」

 そんな会話をしながら、俺も明里もお弁当を完食した。

 

 お腹が満たされ一息ついた後、俺達はまた会話を続けた。

 明里が東京の小学校に転校してきた日のこと、いつも二人で下校したこと、明里との仲をクラスメイトにからかわれたりしたこと、他にも色々、そんな昔話に花を咲かせた。一つ話題が上れば、次から次へと記憶が自然に思い出され、止まることはなかった。

 明里はそんな俺を見て、「もう貴樹くんは昔のことばっかりなんだから」と少し呆れたように笑ってた。だけどその言葉に俺は、「大切な思い出だから」と真剣に答えた。

「それからさ、ずっと明里に謝りたかったことがあるんだ」

「うん?」

「小六の時、明里が『一緒の中学には行けなくなった』って電話してきてくれたことがあったでしょ?」

「うん」

「あの時、あんなに酷いことしか言えなくて本当にごめんね……明里は辛かったはずなのに」

「うん……でも貴樹くんも辛いって、私にも分かってたから……」

「いや、それでも……それに卒業式の日だって……」

 あの日の無力だった自分が思い起こされる。

「ううん、昔のことは気にしてないよ。私にとってあの頃は、楽しい思い出で一杯なんだよ。もちろん貴樹くんがいてくれたから」

 そう言われて、少し救われた気がした。

 雲が流れ、太陽を隠し、日陰になった。そして明里は俺の瞳の奥をまっすぐに見詰めてこう言った。

 

「それに今、大人になった貴樹くんと一緒にいられることが本当に幸せだから」

 

 

 日が傾き、夕方になった。

 そして俺は明里とキスをした。あの夜と同じように。

 その瞬間、俺の心は強く締め付けられ、それと同時に熱くなった。またここに帰って来れたのだ。今目の前に明里がいて、彼女の温もりを直に肌で感じられているのだ。彼女の全てを抱きしめる。それが大人になった自分にできること、あの夜分からなかったことの答えが分かったような気がした。やっぱり自分の心は常に明里に向けられていたのだ、自分が辿り着きたかった場所はここなのだ。今それがはっきり分かった。

 明里と途切れていたことなど、もはやどうでもいい。もう不安なんてどこにもない、全て消え去った。そして俺達はこの先離れることなど決してないのだ。今までの人生全てが明里のためにあったのだ。これからだってずっとずっと。

 ただただ幸せだった――

 

 この頃覚え始めた、心の内に見え隠れするある一つの違和感を除いて……

 

 

 

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 ある違和感。それが一体なんなのか、どこから来るものなのかは今の自分には全く分からなかった。それをどこに持っていけばいいのか、どう扱えばいいのかでさえも……。一度その違和感の蓋を開けてしまうと、それを閉じることはできなかった。

 

 明里と再会した年に、仕事が転機を迎えていた。その仕事は、ただ辛いことしかなかったが、最初の頃はそんなことはほとんど気にならなかった。それは彼女が側にいてくれたからだ。明里と過ごせる時間が自分にとっての生き甲斐だった。

――それが今ではどうだ。

 違和感を覚え始めると同時に、仕事の辛さが身にしみて感じ始め、やりがいまでも低下していった。プログラムによって指定された動作をするだけのコンピュータのように、ただ淡々と思考を停止させたまま働き続けた。皮肉なものだ、プログラミングしている自分がプログラミングされているようだった。俺は一体何のために働いているのだろう、そんな疑問すら頭に浮かんだ。

 だけど、ただとにかく今は自分のできることをやるだけなのだ。今までだっていつもやってきたことなのだから。

 違和感を抱えつつも、ひたすら仕事を続け、そして明里と過ごした。もう明里だけが生きる希望だった。

 

 出会った頃と同じように、明里とデートを重ねた。場所も同じ。でもなぜだろう、栃木までの移動時間が、今までより急激に短く感じられた。車窓から見える景色だって、ただ見慣れてしまっただけなのかもしれないが、単なる風景に見えた。これでは社内の自分の席から見える景色と何ら変わりないじゃないかと思った。そんな風にしか感じられなくなってしまったことが悲しかった。

 

 そういえばこんなことがあった。

 明里と付き合い始めたある日のデートで、俺達は休憩のために喫茶店に入った。楽しく会話しながら、俺は何気なくポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

「貴樹くん、煙草吸うんだ……」

 明里はどこかぎこちないような顔で言った。

「あぁ、うん」

「そっか……貴樹くん、まさか煙草吸うようになってるなんて思わなかったな。子供の頃からは全然想像できないよ。……それに、なんか似合ってないよ」

「そうかな?」

 自分からしてみれば意外だった。

「うん……なんとなくだけどね」

「まぁ……大人になったんだ」

「そう……」

 明里は伏し目がちに小さくつぶやいた。その顔には、ほんのわずかに寂しげな表情が隠されているように思えた。そんな表情を見てしまったからなのかは分からないが、俺はその日から煙草を吸わなくなった。……初めて煙草を吸ったのは、いつの日だっただろう? どうして吸い始めたのかさえもよく覚えていなかった。

 

 

 明里とお花見をしてから数カ月が経ち、夏になった。

 オフィスや電車内の冷え切った空気と全てを焼き払うかのような太陽光線や、不快なまでの熱帯夜との差にうんざりする毎日。仕事も相変わらずの状態で、ますます忙しくなった。

 そんな中での休日を明里と過ごす。貴重な彼女との楽しい時間に、仕事の愚痴を言うべきではないと分かっていながら、つい口からこぼれてしまう。ただ慰めて欲しかっただけなのだろうか、そんな自分に嫌気が差した。

「子供の頃の自分が、今の自分を見たら驚くだろうね」

 明里が通い慣れた東京の部屋で、食後のほうじ茶を飲みながら俺は彼女に話しかける。

「そう? どうして?」

 対面に座った明里が訊く。

「うん……何ていうか、やっぱり今仕事にちょっと疲れてきてるんだ。SEになるなんてことも想像してなかったし……まぁ、なりたいものは何もなかった気がするけど、それでも子供の頃は、世界ってものは、もっと広くて深くて謎めいていたような気がするんだ。冒険心を掻き立てられるような。それに今よりずっとずっと輝いていたと思う。明里と一緒に過ごせたことも、きっとすごく関係あるはずだよ」

 湯呑の底を見詰めながら答えた。

「うん……そっか。私も子供の頃一緒に過ごせて本当に楽しかったよ。でも私は、仕事をしている今の貴樹くんも好きだけどな」

「そう?」

 意外な言葉に少し戸惑った。明里がそう言ってくれた『遠野貴樹』は、今の自分にとってはどうしても好きにはなれないのだ。彼女の言葉が救いになってくれればいいのだが……。だからといって好きになれるとも思えなかった。

「私にとっては子供の頃と変わってないよ。今も昔も貴樹くんは、貴樹くんだよ」

 明里は俺の瞳を見詰めて穏やかに笑い、そう言った。彼女の表情、その瞳の奥には、何かを訴えかけるような真剣さが見て取れた。それにその言葉には、もっと色々な意味が含まれているような、そんな気がしてならなかった。

 

 改めて思い返してみると、いつもの明里との会話は、全てが楽しく感じたというわけでもなかった。だからこそすごくはっきりと心に引っ掛かった。

 明里の口から、現在においても過去においても自分の知らない彼女と親しい人物の話が出ると、今まで感じたことがないくらいに心の奥底が寒くなるのだ。彼女がそんな話をすると、いつもその気持ちになった。明里は明里だけど、なんとなく出会ったことのない人のように自分の目には映るのだった。

 なぜこんな気持ちになるのだろう? 考えても分からなかった。でも自分が同じようなことを話したとしても、明里はそんな気持ちにはならないということだけは、はっきりと分かるのだ。これが何を意味しているのか? 正解が分からない問いに、答えを出すことはできなかった。

 

 

 十二月末、今年ももうすぐ終わりだ。空気は日に日に冷え込み、太陽を見る時間も短くなった。

 仕事を終え、会社を出た。コートのポケットに手を突っ込み、疲れ切った体を引きずるように駅まで運ぶ。ここ最近のいつもと同じ動作。冷えた外気が体の芯まで凍えさせ、身を丸くした。

 今日は金曜日だったが、街はいつもよりにぎやかに煌めいていた。光り輝くイルミネーションにBGM、街を行き交うカップル達。そう、明日からは三連休で、しかも月曜日はクリスマスイヴなのだ。人々はこの空気に包まれ、皆誰もが笑顔で幸せに満ちていた。そんな人々の中をすり抜け、売り出されたばかりのケーキを横目に電車に乗り込んだ。

 席に深く腰掛け、無意味に床を見詰める。全身から疲れが湧き上がり、笑顔の一つも出なかった。苦しいだけの疲労感。心地よい充実感に満ちた疲労など、とうの昔に消え去った。やっぱり疲れているんだな……、そう思った。

 月曜日は、世間一般でいえば恋人たちにとって、とても大事な日だ。でも俺は、月曜はおろか土日も明里に会えない。単純に会う予定がないからだ。お互いがこの日について話すことがなかった。それは今考えれば普通じゃない。そうだろう? でもどうして? 明里がどうしても会いたいと思わなかったのだろうか? それとも俺が? いや、まさか。

 

 ふと顔を上げると、向かいに座った中年のサラリーマンが目に入った。手には子供へのプレゼントが入っているであろうおもちゃ屋の袋が握られていた。

――子供の頃欲しかった物。十三歳の少年だった自分が甦る。あの日、心から欲したのは『明里を守れるだけの力』。――そうだ、これが自分にとって大人になること、生きる目的だった。

 そして今、二十六歳の大人になった自分は何を望むのだろう? 俺は確かに大人になったはずだ。目的は達成できたはずなのだ。

 でも、かつて深淵にあると信じた世界は、今の世界なのだろうか? ……いや、違うだろう。自分が今欲しいものは、大人になった先にあるはずの『答え』なのだ。それが切実に欲しかった。いつだって自分の欲しい物は、お金で買える物ではなかったのだ。そう、今だって。

 その『答え』を手に入れるために、具体的に何をすればいいのかは分からない。だけど今のままではダメだ、そう強く思う。

 最近は明里に会える日も減り続け、毎日のようにしていたメールのやり取りも少なくなった。俺はただただ悲しかった。彼女と繋がり合っているはずなのに、通じ合っているはずなのに、この状態は何なのだろう? もっと明里といたい、もっと明里のことだけをまっすぐに見ていたい。そうすれば、今感じている違和感の正体が突き止められると、この状態を抜け出せると、明里を幸せにできると、そう思ったんだ。

 

 新宿駅に降り立ち、空を見上げた。そこは何かに覆い隠されたように、何もないただの黒い空間だった。

 

 俺はこの日、会社を辞めると決めた。

 

 

 正月、長野の実家に帰った。

 久々の母の手料理は、心癒されるほどにおいしく安心感に包まれた。こうやって人の手料理を食べること自体久しぶりのことだった。

 そんな食卓で、俺は両親に会社を辞めることを伝えた。両親は俺がそう伝える前に自分のことを見てそう察してしたからなのか、あまり驚かなかったが、非常に心配してくれた。なんならこっちで働いてもいいんだと父は言ったが、俺はきっぱりと断った。長野は自分が暮らしたい場所ではなかったし、東京で生きていくのだと自分で選択したからだ。それに確かに出身地であり七歳まで暮らしていたが、もう二十年近く前のことで、すでに知らない街だったし、故郷と呼べる場所ではなかった。

――ふと頭に過る。自分の故郷ってどこなんだろう? ……いや、そういう場所はないのかもしれない。どこに居たって、いつだって、そう感じてきたのだから。

 何気なく見た窓の外は、雪でどこまでも真っ白だった。全ての色を奪い去るかのように。

 俺は「まぁ、なんとかなるさ」と強がるように笑いながら言った。そんな確証なんてどこにもなかったが、今はそう答えることしかできなかった。そうやって自分自身に言い聞かせ、励ましていたのかもしれない。

 

 休みが明けて会社が始まり、事業部長に辞職を申し出た。プロジェクトは既に去年終了していた。彼は「プロジェクト御苦労だったな」と今までの仕事を労いつつ、俺の意思が固いのを知ると辞職を受け入れてくれた。自分がすべき仕事を完遂し、もうこの会社でやり残したことも何もない、ここに留まる理由も何もないのだ。

 会社を辞めることを社内の友人達が知ると、皆一様に同情してくれた。自分は社内で一人ではなかったのだと、今頃になって気付いた。しかしながら、なにか哀れみの目で見られているような気がした。自分の状況に気付いていたのなら、少しでもいいから力を貸して欲しかったと、そう思った。だが結局は自分自身の問題であり、人がどうこうしてくれる訳ではないのだ。後になった時にこの選択は絶対に間違いではなかったと、そう思いたかった。

 そうして二月末、俺は会社を辞めた。

 これでやっと明里のことだけを考えられるんだ、そう思った。

 

 三月に入り、数週間が経った。

 その間毎日、俺はひたすら考える、明里のことだけを。会社を辞めたことで、肉体的、ひいては精神的にも楽になった。そう、確かに楽になったはずだ。だけど明里に対する心の違和感だけは何も変わっていないことに愕然とした。なぜだろう? 分からない、何も。

 でも時間はこれからたくさんあるのだ。時と共に解決していってくれればいい。ケータイに映った明里の姿を見詰めながら、そう思った。

 外では桜のつぼみが、今か今かと春の到来を待ちわびるかのように風に揺れていた。

 

 

 

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 四月、第二土曜日。俺と明里は、去年と同じように岩舟の桜の下に来ていた。

 今日は一段と日差しが暖かく、空は雲一つなく澄み渡り、そよ風が心地よかった。こんなにも穏やかで心温まる日は久しぶりだった。

 それに明里に会うこと自体も本当に久しぶりのことだった。それも去年の十二月の頭以来で、年明けからは退職のことで忙しかったために合うことができずにいた。明里には「今忙しいから、どうしても会えないんだ」としか伝えておらず、会社を辞めたことは言っていなかった。ただ言うタイミングがなかっただけだと、そう思う。

 お互い連絡を取り合いながら、直接会うことができないこの状態。文通をしていた頃と重なって見えた。明里は「仕方ないね。お仕事頑張ってね」とだけ言っていたが、俺は決してそれだけではないとはっきり感じた。彼女は直接会いたいのだと、そう感じたのだ。あの頃も同じだった。自分だって明里に会いたい、そしてずっと側にいて欲しい、ただただそう思う。彼女にそんな思いをさせてしまっていることが、ひたすら心苦しかった。

 でもこれからは違う。いつだって明里に会えるのだ、ずっと明里の側にいてあげられるはずなのだ、そう思った。

 

 一年ぶりに同じ場所に座り、桜を眺める。桜の花びらが美しく舞い降りていた。いつかは全てが散り終えてしまうものだと知っていながら、なぜかそれは永遠に降り続くかのように見えた。いや、そう見たかっただけなのかもしれない。

 一年ぶりに明里の作ってきてくれたお弁当を食べる。その味は身に染みるほどにおいしかった。去年よりもっと。こうして明里と顔を見合わせながら会話し、彼女の手料理を食べる。恋人同士であれば、至って普通のことかもしれない。でも最近はそれができていなかった、いつだってそうしたかった。そうだよ、これが幸せなんだ。今この瞬間、改めて感じた。この幸せが永遠に続いて欲しいと強く思った。

 

 ゆっくりとゆっくりと時が過ぎ、日が傾き始めた。暖色を帯び始めた陽光が、桜の花びらをまた別世界のように輝かせている。キラキラと光の粒が舞い踊っていた。自分達もその光に包み込まれ、目の前は影一つなく眩しかった。明里は太陽の方をただずっと見詰めていた。いつの間にか二人のいる場所一面は花びらで埋め尽くされ、それは本当に雪原のようだった。音は何も聞こえない。それでも明里の息遣いだけは、手に取るように感じることができた。とても落ち着いた穏やかな呼吸だった。未来への不安など全く感じさせないほどに。

 一瞬風が強く吹き、桜の花びらが巻き上げられて空の彼方まで飛んで行った。

 そう、それは突然のことだった――

 

「あのね……私は貴樹くんに、大事な話があるの」

 

 明里はそう言って、静かに語り始めた。

 

 

 貴樹くんは私と一緒に過ごしてきて、何かを感じてるんじゃない?

 私にはね、貴樹くんが今感じていることが分かるんだ。何か心の中に引っ掛かっているものがあると思う。それはね、私が感じていることとは違うんだ……

 私は貴樹くんのことが、本当に心から好きだよ。それは子供だった時も、大人になった今も、その時に目の前にいる貴樹くんだけを見てきたんだ。……それで貴樹くんもね、私を見てくれている。でもそれは同時に私を見ていないんだ。貴樹くんは私と同じじゃないんだよ……

 

 それはね、きっと大人になった今の私じゃなくて、十三歳までの私を見ているからなんだよ……貴樹くんはそれに気付いていなかったでしょう? これが心の中に引っ掛かっているものの正体だよ……

 

 私はね、二人で過ごした子供時代、本当に幸せに包まれていた。離れ離れになってからも、その感情はずっと変わることはなかったよ。だけどそれと同時に、もう二度と会えることはないんだ、一人で生きていかなきゃいけないんだ、そう思ってきた。でもまた出会えた。ただただ嬉しかったよ。奇跡みたいだって思った。また好きな人と一緒にいられるんだ、またあの幸せな日々を過ごすことができるんだ、そう思った。そしてまた付き合い始めて、私はいつも貴樹くんのことを考えてた。早く週末にならないかな、次会えるのはいつなのかな、何が食べたいのかな、どんな本が好きなのかな、他にも色々。メールが来るだけでドキドキして、それを読んで返信してまた繰り返す。それが楽しかった。……あぁ、やっぱり私は貴樹くんのことが好きなんだって改めて気付いたよ。こんな幸せな日々が永遠に続いて欲しいって思った。私は心の底から貴樹くんに恋してたんだ。

 でもね、一緒に過ごしていく内に私はだんだんと、そしてはっきりと気付いてしまったんだよ……私たちはそれぞれ求めているものが違うんだって。そう……貴樹くんが辿り着きたい場所は、大人になった今目の前にいる私じゃなくて、子供の頃の『篠原明里』なんだって……

 それはね、私にとってはすごくすごく悲しいことなんだよ……。どうしたら貴樹くんは今の私を見てくれるんだろう、ずっとそう考えてきた。でも私には分からなかった、どうすることもできなかった。私が近づこうとしても、貴樹くんの心が離れていくのをはっきりと感じていたから……。私はそこに辿り着くことができなかった。きっとこれからもそうだと思う。

 私は私だけど、あの頃の私はもういないんだよ。

……ごめんね、もう子供の頃の私には戻れないんだ……

 

 ねぇ、見て。

 桜の花びらが落ちるスピードは秒速五センチメートル。だけどね、たとえ二つの花びらが同じ位置、同じ時間に落下が始まったとしても、どちらか一方が地面に辿り着くまでの間に風に吹かれたり、何かに引っ掛かったりしてしまうことだってあるよね。もしそういうことがあったとしたら、当然地面に辿り着く時間も、そしてさらに辿り着く場所だって違ってきてしまうと思うんだ。……だからね、きっと多分、私と貴樹くんもそうなってしまったんじゃないかな……私は今、そんな風に感じているよ……

 もしかしたら……もしかしたらだけどね、離れ離れにならずに側で二人一緒に大人になることができていたら、こうはなっていなかったかもしれないね……ううん、きっとなっていなかった。ずっとそう願ってきたから……

 

 

――明里の告白。彼女は心の全てを語った。俺の心の奥底に問い掛けるように。

 涙で濡れて光り輝いた明里の瞳。溢れ出た涙は頬を伝い、こぼれ落ち続けていた。光に照らされ、ただキラキラと。明里は俺と再会してからいつも笑顔でいた。だからその時から彼女の涙を見るのは初めてだった。そう、あの日以来だ。でもその涙の意味はまるで違う。今は悲しみに満ちた涙だ。

 それでも明里の声は震えず、彼女の強く、そして偽りのない意思でどこまでも透明で澄み切っていた。

 

 明里のその告白が何を望むのか、次の言葉を聞くまで正確に導き出すことはできなかった。

 明里の望むことはただ一つ。

 

――遠野貴樹と篠原明里は、別々の道を歩んでいくべきだということ。

 

 俺に拒否権はなかった。明里の望みを受け入れる。それだけが、今の自分が最後にしてあげられる唯一のことだった。他には何もない。何も望まれていない。

 太陽が雲に隠れ、世界の全てが影に支配された。音も光るものも何もなく。

 

 

 夕闇に沈んだ岩舟駅。俺達二人以外誰もいない静かなホーム。電灯の白い光に照らされ浮かび上がる明里の姿。無言でうつむくだけの自分の姿。

「あのね、貴樹くん……これ」

 沈黙を破る明里の言葉。その差し出された手には、一通の古びた封筒が握られていた。

「この手紙はね、中学の時、貴樹くんが会いに来てくれた日に渡そうと思っていた手紙なんだ。そう、私の初めてのラブレター。これは私にとって、とても大事な大事なもの……それはね、私の気持ちが詰まっているから。あの時渡すことはできなかったけど、いつか必ず貴樹くんに渡さなきゃいけないんだって、ずっと思ってた。だから今日、受け取ってね」

 俺は無言のまま受け取り、大事にしまい込んだ。後で必ず読まなければならない、そう思った。

――その瞬間、警笛が鳴り響いた。世界の終わりを告げる音だ。そして電車がゆっくりとホームに入ってくる。お迎えが来たようだ。俺はこれからこの電車に乗らなければならない。俺と明里は別々の道を歩んでいく。この電車は、自分を彼女のいない異世界へ連れて行く棺なのだ。一分たりとも遅れていない。残酷なまでに正確だ。今ほど遅れて欲しいと思ったことはない。

 電車が停止し、ドアが開く。一歩踏み出せば、これが明里との永遠の別れになることは容易に想像できた。……それでも、それでも踏み出さなければならない。目に見えない何かによって促されるように俺は一歩踏み出し、乗り込んだ。

 最後に明里の姿を目に焼き付けようと俺は振り向き、彼女を見詰めた。その瞬間、俺の心は痛いほどに締め付けられ、自然に溢れ出た涙で視界が滲んだ。明里は、まるで子供をあやす母親のような穏やかで優しい顔をしていた。涙を拭い、彼女を見続ける。

 ドアが閉まるまで、もう時間はない。でも何をすればいいのか分からないんだ。ただ立ち止ったまま。そんな時何かをしてくれるのはいつも明里だった。ほら、今だってそう。彼女の声が聞こえる――

 

「あのね、貴樹くん。貴樹くんに出会えて本当に幸せでした。私に幸せをくれてありがとう」

 嬉しいよ。僕も幸せでした、心の底から。口ではなく心の中で答える。

 でもダメだよ、結局幸せにできなかった。ごめんね……

「だからね、これからは今目の前にいる人だけを愛してあげて」

 うん、必ずそうするよ。約束する。

「最後に……これだけは覚えていてね」

 

「貴樹くんは、きっと大丈夫だから」

 

 

 明里の最後の言葉。それを聞いた瞬間、心に滞っていた全てが一気に解き放たれた。ずっと聞きたかった、やっと聞けたその言葉。涙が止まらなかった。止めることなど不可能だった。今までの全てが報われた気がした。明里は幸せを感じてくれていたのだから。

 明里の言葉は、いつも自分に不思議な力をくれる。でもこれからはもう永遠に聞くことはできない。この言葉を心に留めて、この先の未来を生きていきたいと強く思った。きっとこれが、この先もずっと大切な力でいてくれるはずなのだから。

 だから最後に、最後に何か伝えなければ――

 

「ありがとう……」

 

 心の底から絞り出した最後の一言。これ以上何も出ない。今の自分の正直でまっすぐな気持ち。明里の心に届いてくれただろうか? いや、きっと届いたはずだ。明里はその一言を聞いて、小さく頷いてくれたのだから。

――その直後、発車のベルが鳴り響き、ドアが閉まった。俺と明里は完全に隔てられたのだ。もう彼女の息遣いすら感じることはできない。この差し出した右手が重なることは、もう二度とないのだ。

 電車が静かに動き出す。両毛線の最後尾、乗務員室の窓から明里を見続ける。彼女も俺を見続ける。その姿がどんどん小さくなり、やがて見えなくなった。それでも俺は、この場所から動くことはできなかった。窓の外を見続けずにはいられなかった。まだ明里がそこに居てくれているのではないかと思わずにはいられなかったから。でもそこには、もう何も見えない。無限の暗闇だけだ。

 その瞬間、明里と初めて出会ったあの時から始まった人生が、今日この瞬間、この場所で終わってしまったのだとはっきり分かった。

 自分は今何をしたらいいのか、何をすべきなのか、何も分からなかった。分かろうとすることさえできなかった。ただそこに立ちすくみ、声を押し殺して泣き続けるだけだった。まるで心の中身が流れ出しているようなこの涙を止めてくれるものは、何もなかった。

 窓の外は、いつまで経っても人家の明り一つさえ見えずにいた。

 

 

 

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10

 

 

 五月、新緑の季節。木々は若葉で生い茂り、小鳥たちは暖かな陽気に歌いさえずる。爽やかな風が、街を行き交う人々の髪を穏やかになびかせる。楽しげな会話、賑やかな人波、心躍る色彩。世界はそういったもので溢れていた。

 でも自分の世界はまるで違う。カーテンで閉め切ったこの部屋には、何も届かない。ゴミや荷物で散らかった部屋に、時計の針の音だけが正確に虚しく響き渡る。気付けば明里の匂いもいつの間にか消えていた。

 早いもので明里と別れてから一カ月近くが経った。何も考えられない日々が続いたものの、ここ最近は過去の反省を繰り返す毎日。……それでも気持ちの整理は今でもついていない。そこには明里への思いを断ち切れない自分がいた。無理もない、初恋だったのだから。

 十六年に及ぶ初恋の記憶――

 その結末は残酷だ。今こうして部屋に一人何もせずに、ただ佇んでいるとそれを痛感させられる。この部屋の空気に自分が支配されているようだ。いや、自分の出す空気がこの部屋を支配しているのだろうか? まぁ、どちらでもいい。

 強く重い喪失感に包まれた自分の心。今まで生きてきた人生で、これほどにまで心が支配されてしまったことはなかった。液体で満たされたコップのように、内側からも外側からも他の感情が入り込む余地はどこにもない。もうあの幸せな日々は永遠に帰ってくることはないのだ。何かをすることもできず、何かをしたいとも思わなかった。生きるための食事でさえも……。ただただ虚しかった。

 決して寿命が尽きたわけではない。でも人生が終わったようなものだ。そう、終わったのだ、明里との人生が。……それでも……それでも、何かを得なければならないのだ。この先は自分一人だけで生きていかなければならないのだから。

 

 

 明里と別れた最後の日。彼女は、お互いどうしても訊くことができずにいた手紙のやり取りについて話してくれた。

 

 えっとね、ずっと言えなかった手紙のこと……

 貴樹くんと離れてから、私は一人で生きていかなきゃいけないんだってずっと思ってきた。それと同時に、貴樹くんは私を求めているんだってことも感じてたんだ。それでね、私はそんな二つの想いで心の中が一杯になって、何をどうすればいいのか、手紙に何を書けばいいのかも分からなくなってしまったの……。でも、やっぱり私もちゃんと心の内を書くべきだったんだって今思う。だけどそれがどうしてもできなかった……。そうしている内にね、どんどんと手紙を出す機会を見失ってしまって、いつしか出せなくなってしまったんだ……。

 貴樹くんは辛かったよね……。だから、ごめんね……ずっと言いたかった。

 

 俺は明里を縛り付けていた。知らなかった。そんなこと考えたこともなかった。

 手紙が途絶えたその時から、ずっとその理由を探してきた。怒らせてしまったのか、嫌われてしまったのか、俺の事を忘れていってしまったのか、そんな否定的なことばかり。明里の心の内なんて考えることもできていなかった。彼女は俺を必要としてくれている、それしか頭になかったからだ。

 確かに俺はあの時辛かった。でも明里はそれ以上に辛かったはずだ。自分自身と俺の想いに挟まれ、ずっと一人で悩み、手紙を出せなくなってしまうという最後を迎えざるを得なかったからだ。

 俺は結局その答えに辿り着くことはできなかった。もしあの頃、それに気付くことができていたら、何かを変えることができただろうか? 結末は変わっただろうか? ……いや、きっと変わっていなかっただろう。このような結末の直接的な原因は、これではないのだから。

 

 明里は言った。『大人になった今の私じゃなくて、十三歳までの私を見ている』と。

 明里は全てを分かっていた。でも俺は何も分かっていなかった。彼女に言われて初めて理解した、あの違和感の正体を。

 ずっと心を支配してきたもの。この正体を知りたくて、解決したくて考えを巡らせてきた。それが明里の幸せに繋がると信じてきたのだから。だけど結局間に合わなかった。

 今思えば、昔話ばかりしていたような気もするし、明里もそんなことを言っていたように思う。俺は子供時代の幸せな日々を、もう一度繰り返したかったのかもしれない……。俺が明里を、明里が俺を必要としていたあの日々を。

 だからきっと、大人になった明里と過ごした日々の中で、彼女が出会ったことのない人のように映ったのはそのせいだろう。俺の明里像は、十三歳で止まったままだった。全ては自分で作り出したのだ。それだけじゃない。俺は『篠原明里』という憧れ、期待、願望を一方的に明里本人に押し付け、そして求めていたのだと今気付いた。そうであって欲しいと無意識に望んできたのだ。

 そう、明里の言う通りだ。確かに俺は彼女を見ていた……でも明里自身ではなく、彼女の幻影を見ていたのだから。そんなこと分からなかった。明里だけを思い続けてきたはずなのに……そうだろう?

 

――なぜ、そうなってしまったのだろう?

 自分の生きる目的。俺はずっと明里を守れる力を欲し、それを手に入れようと生きてきた。それが自分にとって大人になることだった。その決意を誓ったあの日から明里と別れたあの日まで、呪いのようにずっと心が囚われてきた。ただ明里を幸せにしたいと、その純粋なたった一つの想いがそうさせてきた。自らそれを望み、それに固執し、行動し続けてきたのだ。自分の求める未来に辿り着けると信じてきたのだから。

 それと同時に、ただただ自分だけが大人になることを考え、明里が大人になっていくということは考えていなかった。ずっと十三歳までの明里だけを見続けてしまったのは、きっとそのせいだ。彼女は俺を必要とし続けるか弱い子供だと思い込んでいたのだ。

 しかしそれは間違いだった。

 明里は大人になったのだ。一人で生きていけるほどの力強い大人に。

 俺は何も見れていなかった。今全ての答えを理解した。だが何もかも遅すぎたのだ。体だけは大人になって、精神的には幼稚で未熟な子供のままだ。そんな自分のせいで幸せを感じてくれた明里に、最後はそれ以上の深い深い悲しみを残したのだ。

 自分自身に失望した。そして後悔――。滲み出た涙を拭い、そして心の中で静かにつぶやく――

 俺はさ、一体何をしているんだろうね……ただ純粋に明里と一緒にいたかっただけなのに……俺にはもう何にもないんだ、空っぽだ。

 『自業自得だろ』、心の中の自分が言った。

 その通りだ。これが現実、これがそうやって生きてきた俺の人生の末路なのだ。

 何でもいい。どんな小さなものでもいい。ただただ救いが欲しかった。

 

 

 六月。ここ連日降り続く雨で、部屋は湿気に満ちていた。薄暗い空と優しくしとしとと降りしきる雨の音が、今の自分には丁度よかった。まだ完全に心が立ち直ったわけではないが、少しずつ気持ちも落ち着き始めたおかげで、身の回りの整理ができるようになった。

 散らかったゴミを片付け、一息つくためのコーヒーを飲みながら春物の上着を整理していた時にある物を見つけた。

 一通の古びた封筒。そうそれは、明里と別れた最後の日に彼女が渡してくれた手紙だった。

 手紙を手に取ると、明里が渡してくれたあの瞬間のことが甦った。

 改めてこの手紙を読まなければならないと思う。何が書いてあるかは開けてみなければ分からない。でもこれがきっと明里の言葉と共に、この先の人生において大切な力を与えてくれる、そんな気がするのだ。

 全てを片付け終え、椅子に深く腰掛け、宝物のように大事に封を開ける。

 懐かしい、よく見慣れた明里の文字。あの頃と同じリズムで綴られた文章。目の前に浮かび上がる少女の明里。一言一句心に刻み付け、読み進める。彼女の声を聞くように。

――そして全てを読み終えた。

 明里が渡したかったラブレター。今しっかりと心で受け取った。

 

 その日の夜、夢を見た。

 そこは明里と別れた日の岩舟駅だった。状況も全て同じ。電車に乗り込み、泣き続ける自分と優しく微笑む明里。二人は向き合い最期の会話をする。

「貴樹くんは、きっと大丈夫だから」

「ありがとう……」

 あの時は、これが最後の言葉だった。でも今は違った。

 俺は涙を止め、何かを決心したように笑顔になった。そして最後に明里に伝えることができたのだ。たった一言の最後の気持ちを。

 

「――さようなら」

 

 目が覚めた朝には雨は上がり、陽が差していた。

 

 

 

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11

 

 

 七月のとある晴れた日の夜、また夢を見た。

 星が瞬く夏の夜。涼しい風が心地よく、生い茂る夏草の放つ音と匂いに包まれた。ここは小高い丘の上だ。目の前を遮る物は何もなく、ずっと遠くの景色まで見渡せた。のどかな自然と高いビルのない町並み。この場所は自分がよく知っている場所だ。そう、ここは種子島だ。

 そこに佇む自分。そしてその隣には、一人の女の子がいた。

 自分と同い年。短い髪が風に揺れ、懐かしい匂いがした。彼女は言葉を発することはせず、ただ優しく微笑みかけてくる。いつも見てきた表情。

――今彼女の全てを思い出した。

 そう、その女の子は自分がよく知っているかつて付き合っていた人、澄田花苗だった。

 目が覚めると、胸が高鳴るのを覚えた。

 

 反省すべきことはまだあった。澄田のこと。

 中学二年で出会い、高校三年で付き合い始め、大学、社会人といつも一緒にいた女の子。俺達は恋人同士だった。そう、今思い返せば明里と過ごした時間よりも、澄田と過ごした時間の方がずっと長かったのだ。

 忘れていた澄田との思い出――

 高校三年生の十月、ロケットが打ち上がったあの日の夕暮。告白を促した自分と告白してくれた澄田。『好き』と言ったあの瞬間の声と表情。

 大学生、東京での生活。澄田は俺を色々な場所に連れてった。様々なことを経験し、様々なことを感じた。彼女と生きていく、そう決意した。

 社会人、仕事に追われる日々。それでも毎年、澄田とお花見をした。俺はそこでする彼女との会話が、彼女の作る弁当が、彼女と見る桜が大好きだった。澄田との仲がより深まり、きっと自分にとって大切な人になる、そう感じた。

 澄田は俺に色々なものをくれた。受け取って欲しかったのだ。

 そして今になって気付いた。俺と一緒にいた時の彼女の全ての行為は、いつか俺と別れる時が必ず来るということが分かっていたからなのだと。『また来年も、一緒に桜見ようね』という言葉でさえも。

 

――俺は今まで澄田を見ることができていただろうか?

……それはできていたはずだ。今でも澄田の全てを鮮明に思い出すことができるのだから。彼女の声や表情、匂いまでも全て。

 

――だが一つ問題があった。

 今までの俺の心の中には、いつも明里がいた。いつも明里を中心に物事を考えていた。それは無意識だったが、それが明里に対する思いの強さの現れなのだ、そうどこかで思っていた。彼女だってそうすることを望んでくれているはずなのだと、勝手に決め付けていたのだ。

 だから俺は澄田を“直接”見ることができなかった。そう、俺は目の前にある全てを『篠原明里』というフィルターを通してしか見ることができなかったのだ。もちろんそれは澄田に対しても同じだった。

 澄田はそれが辛かっただろう、悲しかっただろう。彼女が別れた時に言った言葉からも分かるように、明里の存在に気付いていたのだから。それでも澄田は俺と付き合い続けてくれたのだ。

 そして今、自分自身に問い掛けたい――

 ずっとそうやって世界を見続けてきた訳だが、澄田と一緒にいた時に感じた安らぎや楽しさ、そして彼女を心から愛おしいと思った気持ちも全て嘘だったのだろうか?

 いや、それは絶対に違う。澄田と過ごした日々や、あの頃の心が嘘であるはずがない。偽りのない本物の気持ちだ。

 よく覚えていることがある。明里とまた付き合い始めたばかりでいつもより長く残業をして疲れ切った体で部屋に帰ったある日のこと、俺はある異変に気付いた。

 それは、いつもここに来ていた澄田の匂いがしないのだ。俺はそれを正直寂しく感じた。そう感じてしまった自分に対しての驚きはなかったし、理由も分かっていたはずだった。

 だからこそ分かる。当時を思い出せば今でも心が灯で照らされ、温められ、そして心の底から幸せだったとはっきり感じるのだ。そこに否定的な感情など一切ない。もう失ってしまったと思っていたけれど、ずっと消えることなくそこに在り続けていてくれたのだ。

 そしてはっきりと気付いた――

 それを与え続けてくれた恋人を自ら手放してしまった愚かで哀れな自分がいることに。

 俺はなんて奴なんだろう。もっとずっとずっと酷いことをしてきた。自分と係わった全ての人間を傷つけ、それに気付くこともなく不幸にしてきたのだ。ずっと側にいてくれた澄田でさえも、捨てるようなことをしたのだから。

 もしあの頃、澄田の気持ちを考えてあげることができていたのなら、このような結末にはなっていなかったのだろうか?

……いや、俺はどっちにしろ明里を選んでいたに違いない。俺は弱い奴なのだから。

 そうして俺はたった一人ぼっちになった。

 そして今知った――

 心から好きな人と別れなければならないということが、どういうことかを。

 それでも澄田の悲しみを量ることなどできない。自分に非があった俺とは違って、彼女は何も悪くないのだから。俺と係わることさえなければ、そんな思いをすることはなかったはずだ。全て俺の責任だ。

 だから今自分がしたいことはただ一つ――

 澄田に謝りたい。たった一言でもいい。直接会って、自分の口から伝えたいと、そう強く思う。それがせめてもの罪滅ぼしになって欲しかった。

 

 そうとなれば、すぐにでも澄田と連絡を取りたい。でも彼女と別れてからもう二年以上が経っているのだ。今更会ってくれと頼むのか、どんな顔をして会おうというのか、俺はどうしたらよいのだろうか? それだけじゃない、あんなに酷い別れ方をさせてしまって会いたいなんて言ってもよいのだろうか? それを言われて澄田はなんて思うだろう? 喜ぶのか、悲しむのか、それは本人しか分からない。それに過去を掘り返すようなことだ。彼女だって、もう前に進んでいるはずなのだ。憶測の域を出ない澄田の気持ちと自分の気持ちが交錯する。いいのか? いいのだろうか? そこには自分なりの葛藤もあった。

……それでも……やはりそれでも、あのようになってしまったからこそ、顔を合わせて自分の正直な気持ちを伝えたい。そうすることで、やっと自分も澄田も救われる、そんな気がするのだ。

 そう、悩んでいる暇なんてないのだ。

 

 まずどうやって連絡を取るか? 色々迷った挙句、ここは一番自分らしいやり方をしたいと思った。それは電話でも、ケータイのメールでもなく、一通の葉書を出すことだ。だが別れた時と同じ部屋に住んでいるかも分からないのだから、そもそもそれが澄田の元に届くかどうかは分からない。傍から見れば馬鹿なやり方かもしれないけど、今はこうしたかった。電話したって何を話し出せばいいのか分からない、メールだって画面に出たただの文字では気持ちが伝わりにくい。だから葉書にしっかりと自分の字で書きたいと思ったんだ。

――そうと決まれば、すぐにペンを手に取り言葉を綴る。長い文章は必要ない。日時と場所とただ一言、『伝えたいことがあるんだ。だから澄田に会いたい』と。

 彼女の心に届きますように。そう願って、祈るように投函した。

 

 

 八月、第三土曜日。約束の時間は午後一時。場所は二人の思い出の地であるいつもの公園だ。

 今日は朝からそわそわして落ち着かなかった。当然だ、澄田に会えるかもしれないのだから。

 あの葉書を出した後、それが戻ってくることはなかったから、彼女の元に届いたことは間違いないはずだ。だけど返信は、電話にもメールにも葉書にもなかった。だから今日澄田が来てくれるかどうかは全く分からない。だけど俺は約束の場所に行く。行きたいし、行かなければならないのだ。かつての自分がそうしたように。

――身だしなみを整え、外に出る。公園はすぐそこだ。

 暑い暑い真夏の日。どこまでも深い紺碧の空に、湧き上がるような積乱雲。熱風に揺り動かされた木々のざわめきに、溢れ出すような蝉の声。陽炎で歪んだ地面に、爽やかな白いシャツ。世界は眩しかった。

 公園に入り、ベンチに腰掛ける。ここは日陰の中で、身を焦がすような強い日差しも幾分和らいだ。見上げれば木漏れ日が、まるで星のようにキラキラと瞬いていた。

――懐かしかった。澄田と一緒にいた時は、春だけでなくどの季節もでもここに来ていたから。またこの場所で彼女を待つ日が来ようとは思わなかった。澄田も俺から連絡が来るなんて、きっと思っていなかっただろう。

 今日は居ても立ってもいられず、一時間も前に到着してしまった。流石に澄田はまだ来ていない。もし約束の時間になって彼女が来てくれなかったとしても、俺は待ち続ける。たとえ雨が降っても、日が暮れても、ずっとずっと。そうしたいのだ。

 

 そんなことを考え、ふと目を閉じ深く息をついた瞬間、突然肩を叩かれた。

 驚き振り返る――

 

 そこには澄田がいた。

 

 赤らめた頬、伏せた目、言葉を発することはなくそこに立っていた。俺は思わず立ち上がり、彼女を見詰める。呼吸するのも忘れていた。懐かしいその姿。二年ぶりに会った澄田は、別れたあの頃と変わっていなかった。髪型、服装の趣味、彼女が放つ雰囲気まで。

 だが一つ違うことがあった。それは印象的ないつもの笑顔が抜け落ちていたということ。その笑顔を奪い去ったのは、他の誰でもない俺だ。

 無言のまま向かい合う俺と澄田。本当に今目の前に彼女がいるのだ。必ず来てくれると、心の中では信じていた。それが自分自身の願望から来るものなのか、それとも澄田の気持ちの憶測から来るものなのかは分からないが、とにかくそう信じていたのだ。高鳴る鼓動と共に胸が熱くなり、俺は自然と泣きそうになった。それは彼女の表情を見てしまったからではなく、今日この場所に来てくれたということが現実になったからだ。こんな自分にまた会ってくれたということが、ただただ嬉しかった。

 何も言わぬ澄田に、俺は恐る恐る声を掛ける――

「久しぶりだね……」

 こういう場合にまず何を言えばいいのかよく分からなかった。

「うん……」

 澄田は小さくつぶやく。

 それから二人並んでベンチに座った。

 

「えっと、今日は来てくれてありがとう……その……元気、だった?」

「……うん……」

 久しぶりの澄田との会話。緊張感で一杯だ、言葉に詰まってしまう。でも早く本題に入って、自分の正直な気持ちを伝えたいのだ。

「あの、葉書にも書いたけど……澄田に伝えたいことがあるんだ」

「……うん」

「その……最初になんだけど……実は付き合ってた子と別れたんだ」

 澄田の顔を見れずに、下を向いたまま話した。

「……ずるいよ、遠野くん」

「え?」

「……ずるいよ。あたしはね、振られたんだよ……だから帰りたくても帰れる場所なんて無いんだよ。遠野くんとは違うんだよ……」

 澄田の言葉が胸に突き刺さる。

 帰りたい場所――。澄田にとって、それは俺だった。当然だ。俺と付き合ってくれていたのは、彼女が俺を好きでいてくれたからだ。そう、あの頃からすでにそうだった。そんな澄田に自分自身も惹かれ、それと同時に彼女の好意をはっきりと感じていたのだ。それなのに俺は彼女の居場所を踏みにじるように奪い去り、ただ一方的に捨てるように振ったのだ。改めて思う、残酷なことをした。

 今、澄田の心には深い深い悲しみだけだろう。だから伝えたいのだ、自分のこころの内を。それが今の自分にできる唯一のことなのだ。いつだってそうやってきた。そのためにここへ来たのだ。落ち着いてゆっくりでいい、彼女の心に届くように。

「ごめん、その通りだよね……でも本当に聞いて欲しいのは、これから話すことなんだ」

「……」

 澄田は口を閉じたままだ。それでも俺は言葉に気持ちを込めるように話し始める。

 

「一か月くらい前、夢を見たんだ。そこは種子島にある丘の上で、星がきれいな夜だった。それでね、隣には澄田が座っていたんだ、高校の時みたいに。それからずっと、俺は澄田のことを考えてきた。そうしてやっと自分のしてきたことに気が付くことができたんだ。それはね……俺は澄田のことをまっすぐに見れていなかったんだっていうこと。出会ってから別れた日まで、一度もできていなかった。澄田はさ、それに気付いてたんだよね? 悲しかったよね、辛かったよね。それだけじゃない。こんな俺とずっと付き合い続けてくれていたのに、あんなに酷い振り方してしまった。澄田の心の内なんて考えることもできなかった。だからそれを謝りたくて、伝えたくて、今日来てもらったんだ。……許してくれなんて言わない。本当に本当にごめん。これが今の正直な気持ちなんだ」

 

 全てを伝えた。澄田の心に届いてくれただろうか? 声が震えていたかもしれない、上手く話せなかったかもしれない、それでも今できることを精一杯やったのだ。それだけで満足だ。

 俺は澄田に目を向け、顔を見た。その瞬間、俺ははっとした。――彼女は泣いていたのだ。ポロポロとその涙が途切れることはなかった。

「遠野くん、やっとあたしのこと見てくれたんだね……」

 澄田は何かを噛み締めるように、そう答えた。

 彼女のその涙とその言葉が、俺の心のつかえを取り去ってくれたような気がした。あぁ、やっぱり澄田の心にしっかりと届いてくれたんだね。それが何より嬉しかったし、安堵することもできた。自分が考え、導き出した答えは正しかったのだ。そしてこれでやっと自分と澄田が救われたんじゃないか、そう思えた。

「あのね、遠野くん。今度はあたしの番だよ。だから言わせてね」

 涙を拭いながらそう言うと、澄田はまたゆっくりと訴え掛けるように話し始めた。

 

「あたしはね、遠野くんと別れた後ずっと悩んでた。すごく辛かったし、毎日毎日泣いてばかりでどうしようもなかった……でもあたしには、もう遠野くんはいないんだから一人でちゃんと前を向いて生きていかなきゃいけないんだって言い聞かせたよ。あたし頑張ったんだ。それでね、遠野くんのことを何度も何度も忘れようとした。でもそうする度に思い出して考えて、また泣いて、心の中にあるものがどんどん大きくなっていった。忘れようだなんて……そんなの無理だよ……だって好きなんだもん……ずっとずっと変わってなかったあたしの気持ち。それに気付いたの……」

 

 澄田の告白。彼女は俺を怨むことなく、ただただ好きでいてくれたのだ。胸が締め付けられ、言葉にならなかった。それは自分の予想と逆だったからだ。……そうだよ、やっぱり嫌われたくなんかないんだよ。それが場所だろうが、人だろうが、いつだってどこにいたってそうだった。今も変わっていない。好かれるというこの気持ちを、再び感じることができたのだ。ありがとう、感謝で一杯だ。それだけでこの先生きていける、そんな気がした。もうこれ以上望むものは何もないよ。

「ねぇ、遠野くん。あたしのね、最後のお願い聞いて欲しい」

 澄田は真剣な顔をしていた。

「うん、もちろん」

 俺もそれにしっかりと応えたいと思う。彼女の顔を見詰め、そして聞き入る――

「遠野くんは、これからどうしたいの? 何を望むの? あたしにはね、遠野くんの望まないものは求められない……だからね、遠野くんの口からはっきりと言って欲しい」

 澄田の力強い瞳が、俺の瞳を見詰めたまま離さない。彼女が見ているのは、もっと奥の深い深い場所だ。心が震えた。

 

……どうしたい……どうしたい? ……そんなの決まってるだろ。

 

 俺は無意識に立ち上がり、澄田の正面に立つ。彼女も立ち上がり、再び見詰め合う。

 そして心の声を音にする――

 

「澄田花苗さん。もう一度やり直したい。だからまた僕と付き合ってください」

 

 これが俺の答えだ。嘘、偽りのない純粋な答え。自分でも驚くほど自然に口から出ていた。なんだろう……すごく不思議な気持ちになった。きっと俺が本当に言いたかったことはこれだったのだと思えるほどに、澄田は俺の全てを分かっているかのようだった。彼女の言葉がなかったら言うことなどできなかった、そう思う。

 全身が熱かった。これは夏の暑さのせいじゃない、高まる鼓動と早まる呼吸、心が燃え上がるようだ。

 俺は澄田を見詰める。答えを聞いた彼女の表情が静かに変化する。その瞳は一層輝きを増し、どこまでも透明で吸い込まれそうだ。そこから、全てを物語る大粒の涙が一気に溢れ出し、こぼれて頬を伝った。そしてその涙がそこに留まれず、ついには落ちた。

 俺は思わず息を呑んだ。それはほんの短い間だったはずだが、まるで永遠に時が止まったかのように感じられた。全てがくっきり見えたのだ。きっと俺の心が、澄田のその表情に直接語りかけられたからだ。

……そうだ、俺は澄田を、澄田は俺をまっすぐに見ている。二人が望むことは同じなのだ。お互いが今一つになった、そう感じた。言葉は何もいらない。彼女の答えは、もう俺の心にしっかりと届いたのだ。

 そして澄田は何も言わず俺に抱きつき、今までの想い、感情が爆発したように声を上げて泣いた。俺は彼女を強く強く抱きしめ返す。

 震える声で澄田はつぶやく。

「お願い遠野くん……あたしをもう、離さないで……」

 俺も同じように泣いていた。止めることなどできない、止めようとも思わなかった。

「うん。もう離さないよ、花苗……ずっとずっと離さない……」

 澄田の温もりが肌を通して伝わる。心がさらに熱くなった。もう二度と彼女を悲しませたりはしない、そう強く誓う。そして同時に、この先の人生は澄田の隣でずっと一緒に歩んで行けるのだ、彼女もまた同じように思ってくれているのだ、そう強く確信した。

 そして次の瞬間、俺は思わず澄田にキスをしていた。体が勝手にそうしていた。高校三年生のあの日の澄田と同じだ。あの瞬間の彼女の気持ちが、今になって分かった気がした。自分の全てが彼女に伝わり、彼女の全てが自分に伝わった。そこには純粋なスキという気持ちだけが存在していたのだ。当時の自分とは完全に別人になった『遠野貴樹』が、今ここにはいるのだ。まるで本当に生まれ変わったように感じ、そして再び世界の何もかもが変わってしまったような気がした。

 澄田はそんな俺の行為を拒むことはなく、ただ静かに受け入れてくれた。「ありがとう」、そう心の中で何度もつぶやく。俺は澄田に救われたのだ。そしてこの先は、自分が彼女を支えていく、そう決めた。

――こうして二人は、また一緒に歩み出した。今まで生きてきた人生で最も暑く、最も熱い、そして永遠に忘れることのない真夏の一日だった。

 

 

 

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12

 

 

 花苗と再会したあの日から二年が経った。もちろん今でも付き合い続けているし、お互いが好きでいる。俺はあの後新しい仕事を始め、彼女の励ましもあり、今ではなんとか軌道に乗せることができている。正直この先どうなっていくかは分からないが、SE時代のようには戻りたくはないし、何よりもっと人間らしく働きたいと思う。まぁ、自分ができることなんて限られてはいるけど、精一杯やるだけだ。

 一年ほど前から同棲を始め、少し広めの部屋に引っ越した。「こんな部屋がいいね」なんて相談し合うだけでワクワクしたし、長年の付き合いのおかげで初めての共同生活にもすぐ慣れた。朝は澄田の作る朝食の匂いで目覚め、夜は二人で一緒に食事をしながら世間話に花を咲かせた。まぁ、時にはケンカすることもあるけど、それもささいなものだ。二人の歩調は同じなのだから。

 昔とは違って、今はゆったりとした時間が流れている。色々な物事や感情、その日の気温や湿度までもが深く体に伝わってくるのだ。そして思う、一人ではないというのは、こんなにも心強いものなのだろうか。この先の不安なんてほとんど感じないのだ。毎日が充実していて、とにかく楽しい。本当に嬉しい限りだ、そう強く思った。

 

 

 長引く夏の暑さもようやく収まり、これから本格的な秋が始まる十月。俺は花苗を里帰りと称して、種子島旅行に誘った。彼女は「急にどうしたの?」なんて驚いていたけど、「なんだかまた行きたくなったんだ」とか適当なことを言ってごまかした。――本当の目的は別にある。わざわざこの月と種子島を選んだのには、どうしてもやりたいことがあるからで、それは彼女には秘密なのだ。別に何か派手なことをやってやろうって訳じゃないけど、同棲を始めてからずっと温めてきた計画だ。きっと上手く成功してくれるはずだ、そう願っている。

 

 第二土曜日、三連休の初日。ここは種子島だ。時刻は昼過ぎ。まだ夏がかすかに残る、今日はそんな陽気だ。

 この連休中は花苗の実家にお世話になることになっており、彼女のご両親も快く受け入れてくれた。ちゃんと挨拶するのはこれが初めてなので、俺はいささか緊張ぎみだ。

――空港から出ると、すぐに一人の女性が駆け寄ってきた。花苗のお姉さんだ。この連休は俺達に合わせて帰省していて、迎えに来てくれたという訳だ。花苗によると、お姉さんは今鹿児島県内の別の学校で働いており、結婚してすでに子供もいるそうだ。それにしても相変わらず美人な人だ。顔や体形もほとんど変わっていない。まぁ、当時の男子生徒から絶大な人気があったのは言うまでもない、みんなの憧れだったのだ。

「久しぶりね、花苗」

「うん。お姉ちゃんも元気だった?」

 実は花苗が帰省するのは、三年ぶりだった。

「もちろん元気よ。……あら、何かしばらく見ないうちに、私に似てきたんじゃない?」

「え〜、そうかなぁ?」

 そんなことを言いつつも、なんだか嬉しそうだ。花苗は今髪が少し伸びてセミロングで、焼けていた肌もすっかり白くなった。確かに昔のようないかにも島育ちって感じはしなくなっているかもしれないけど、彼女の子供っぽい無邪気な笑顔は今もそのままだ。いつまでも変わって欲しくないって思う。

「そっちの彼は、遠野くんね? すっかり大人になっちゃって、いい男じゃない」

「いえ、そんな。お久しぶりです」

 そんな冗談を交わしつつ、お姉さんの車に乗り込んだ。

 

 種子島の田舎道をひた走る――。カーステレオから流れるラジオ番組内で、ちょうど懐メロソング特集がやっていた。当然のように、何度も繰り返し聞いていた自分が好きだった曲がかかると、当時の様々な光景や記憶が急に脳裏に浮かび上がった。思わず口ずさむと、当時に思いを馳せずにはいられなかった。

――俺は今、種子島にいるのだ。最後にここにいたのは、もう十年半ほども前の高校を卒業したばかりの頃で、それから一度も来ることはなかった。単純に行く用事がなかったというよりは、行きたくなかった、それに尽きる。自分から拒絶してきたのだ。だから同窓会にも顔を出したことはなく、その頃から今まで当時親しかった友人ですら特に連絡を取ることなく年月が経ってしまった。俺のことを覚えてくれていた人はいるのだろうか?

 車窓からは、遮るものがなにもない気持ちよいくらいに晴れ渡った青空と、どこまでも広がる畑や草原が続いていた。この景色を初めて見たのはもっと昔のことだ。それにもかかわらず、ここは何も変わっていない同じ景色だ。そう、確かに同じなのだが、不思議なくらいに感じるものは昔とまるで違っているのだ。中学二年の春、あの時の複雑な心境は今でもよく覚えている。不安と拒絶しかない心苦しい感覚だけだった。それが今では全く感じず、ここにある全てが自分を迎え入れてくれているような気がするのだ。全てが懐かしく、全てが美しかった。そう感じるのは、自分自身が変われたからだ、ということで良いのだろうか? あの頃の自分はいなくなってくれたのだろうか? ……まぁ、ゆっくり考えればいい。

 

 そんなことを考えているうちに花苗の実家に到着し車を降りると、その瞬間あるものが目に飛び込んできた。それは高校の頃と同じように、嬉しそうに駆け出してくるカブの姿だった。

「あれ、カブまだ元気だったんだ」

 俺は驚いて目を丸くする。

「うん、長生きなんだよ〜。帰ってきたよ、カブ!」

 花苗は愛情たっぷりにカブの頭を撫で回す。

「天国に行く前に、また遠野くんに会えてよかったねぇ」

「俺のこと覚えてるのかな?」

「もちろん覚えてるよ! だってこんなにも嬉しそうに尻尾振ってるもん。そうだよねぇ? カブ」

 俺もカブを撫でる。こうやって見ると変わってないな、こいつは。また会えてよかったよ。なんだかちょっと心がほっこりした。

 

 挨拶を済ませ、夕食の時間になり、花苗の家族と一緒に食事をすることに。食卓には種子島の郷土料理がたくさん並んだ。俺はここの出身ではないし当然母も同様なので、こうして口にすることはあまりなかったのだ。食べてみると本当においしく、彼女のご両親に「どんどん食べて」と促されたことも相まって、箸が止まらず何度もおかわりしてしまった。こんな風に故郷の味があるというのは羨ましく、楽しい会話をしながらの賑やかな食卓はとても幸せなことだと思った。

 

 夕食後、花苗が入浴したため俺は一人になり、彼女の部屋から縁側に出てぼーっと夜空を眺めていた。

「遠野くん」

 そう呼ばれ振り向くと、花苗のお姉さんだった。ちょっといいかなと俺の隣に座り込んだ。

「今日ここに着いたばかりで、色々一日疲れたでしょ」

「ええ、そうですね。でも食事もおいしかったので元気出ました」

「そう、それはよかった」

 優しく笑う。

「……本当に大人になったわね」

 お姉さんは、俺の顔を見ながら感慨深げにそう言った。

「そりゃあ僕もいつまでも子供じゃないですよ」

 そう、子供じゃないのだ。

「でも先生は、昔と全然変わってないですね。あの頃のままです」

「まぁ! それは嬉しいわ。本当に冗談まで言えるようになったのね」

「いえいえ、そんな。本心ですよ」

 二人で笑い合う。

「そういえば君、確か中二の時に引っ越してきたのよね? あの頃のことは今でもよく覚えてるわ。実際に高校入学前に会ったことはなかったけれど、君のことは知ってたのよ。なんでかって言うと花苗がね、いっつも君のこと話してたからなの。転校してきた男の子がかっこいいとか、彼がこんな話をしてたとか、もう聞き飽きるくらい何度もね」

「そうだったんですか。なんだかちょっと照れますね」

「それでね、一体どんな奴かと思って高校で初めて見た時、あぁなるほどなって思ったわ。完全に都会の人間だったから。花苗が夢中になる理由は、きっとこういう所なのかなって分かったのよ。島から出たことのないあの子にとって、結構衝撃的だったと思う。要するに一目で恋に落ちたのよ。それから今までずっと花苗の瞳に君しか映ってないのには、もちろんそれだけじゃない色んな理由があると思うけどね」

「先生は、花苗のことよく分かってるんですね」

「もちろん。私はあの子の姉で、生まれた時からずっと一緒に育ってきたんだから、色んなこと分かっちゃうものよ」

 自分には兄弟がいないからよく分からないけど、そういうものなのかな。花苗がお姉さんをすごく慕うのも頷けた。

「あとそうそう、君高校の時周りの女子生徒から結構人気あったわよ。気付いてた?」

「えっ、そうですか?」

 正直あまり意識したことはなかったし、当時はそんなことには興味がなかった。

「そりゃあこんな田舎に超都会の東京から来たら珍しいってもんじゃない。噂にもなるものよ。まぁ、花苗が一番してたかもしれないけどね。そんな都会っ子の君は五年もここに住んでたけど、結局最後までここには染まらずに島の男にはならなかったわね」

「そうですね……そうかもしれないです」

……今なら違うのだろうか?

「まぁでもあの頃の君は、やっぱりこの島は似合ってなかったかもね、花苗と違って。……そう、だからあの子が卒業後に東京に行くなんて言い出したから、家族全員驚いたのよ。まさか島から出るなんてね。あの子はそういう子じゃないって思ってたから。色々悩んでいた花苗がそういう進路に決めたのは、心に強い意思が芽生えたからじゃないかしら。それはもちろん君の影響のはずよ」

「そうだとしたら、僕も嬉しいです」

「東京に行ってからもずっと君が側にいてくれたことで、花苗は心強かったと思うわ。帰省した時も電話してきた時も、いつも楽しそうに君のこと話してたから。まぁ色々あったみたいだけど」

「ははは……」

 思わず苦笑い。

「でもね、きっとあの子は今とっても幸せよ。だって自分が心から好きな人と一緒にいることができているんだから。それでね、姉の私から君に伝えたいのは、花苗に幸せをくれてありがとうっていうこと、それに尽きるわ。そしてこれからも花苗を愛してあげてね」

 お姉さんは優しく話した。

「もちろんです」

 俺は、すぐにはっきりと答えた。

 見上げた夜空には、見たことのないくらいに満天の星が輝いていた。

 

 

 翌日、午前中は海を見に行って、ぼーっと過ごした。久しぶりに故郷の海に来た花苗は、「またサーフィン始めてみようかな」なんて言って昔を思い出すようにサーファー達を眺めていた。今日は日曜なので高校生達も多かった。

 午後は家に戻ってゆっくりし、そのまま夕方になった。

「ちょっと散歩にでも行こう」、俺はそう言って、花苗をそれとなく誘った。

 

 ゆっくりと二人は足並みを揃えて歩く。向かう方向は前から決めてあるのだ。

 太陽が地平線の近くに沈み、透き通るような青い空が暖色を帯び始め、そこに浮かぶうろこ雲が赤く燃え出した。俺達二人は夕暮れのオレンジ色の光に包み込まれ、その光は今まで感じてきたものよりもずっと暖かかった。昼間息を潜めていた秋の虫たちが一斉に鳴き出し、草木のざわめきと自分達の足音とが入り混じる。そこにもう一つ、自分達の話声――

「ねぇ、こうやって外を歩くと、夏が終わって秋になってきてるってすごく分かるね」

 辺りを見回しながら花苗は話す。

「うん、そうだね。なんだか東京よりも季節の変化が分かりやすい気がするよ。ここは自然との距離が近いんだ。久しぶりにこの島に来て、改めて気付いたよ」

「あぁ、だからなんだね。遠野くんはそういうことに敏感だよね」

「そうかもね」

 和やかに笑う。

「それにしてもさ、昨日到着して明日帰っちゃうなんて、あっという間だね」

 少し寂しげに花苗はつぶやく。

「そうだね。でも食事もおいしかったし、先生やカブとも久しぶりに会えたし、本当に楽しかったよ。すごく癒された。花苗はどう?」

「うん、あたしも同じ。やっぱり自分の故郷ってすごくいい。なんていうか落ち着くんだよね。食べ物も人も、この自然も全部」

「そっか……俺もこの島好きだよ。好きになった」

 しみじみそう思う。

「ふふ、本当に? ありがとう、なんだか嬉しい」

 花苗ははにかみ、そしてふと考え込んだように少し沈黙――

「ねぇ、昔のことなんだけどさ……」

「うん?」

「遠野くんは中学二年の時に、東京からこっちに引っ越してきたでしょ? でね、その時の始業式の日は、本当に大げさじゃなくて、あたしにとって人生で一番衝撃的な日だったの。だってね、あたし遠野くんに一目ぼれしちゃったんだから!」

「はは、やっぱりそうなんだ」

「やっぱり?」

「お姉さんが言ってたんだ」

「え〜!? もう、あの人何でも言っちゃうんだから!」

 顔を真っ赤にしてむくれる花苗。

「ははは、でもすごくいいお姉さんだね」

「うん、本当にそう。自慢のお姉ちゃんなんだ。あたしが初めて東京に行く日、すごく心配してくれたのを今でもよく思い出すよ。あの時のお姉ちゃん、なんだかちょっと泣きそうな顔してたの。それ見て、本当にあたしは愛されているんだってはっきり感じたし、この人があたしのお姉ちゃんでよかったなぁって思ったんだ。それからも毎月のように連絡して、色んなことを相談に乗ってもらったの。優しかったり厳しかったり、その度にあたしを励ましてくれてすごく心強かったんだ。やっぱり姉妹だからなのかな、お母さんには言えないけど、お姉ちゃんには何でも言えちゃうの」

「そうなんだ、いい人だね」

「うん。だからね、あたしはお姉ちゃんみたいになりたかったの。だけど今でも全然追いつけてないんだー、どうにもならないくらいに。でもね、今はそれでもいいかなって思ってるの。やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんで、あたしはあたしだから。お姉ちゃんには、ずっとあたしの理想の人でいて欲しいんだ」

 悲観的ではなく、嬉しそうに花苗は話す。

「うん、それもいいね」

 自分も誰かのそういう存在でありたいと思った。

「ねぇ、他には何か言ってた?」

「うーん……俺の高校の頃の話とかかな」

「高校の頃かぁ……あのね、あたしはあの頃の遠野くんは、月みたいだって感じていたんだよ」

「月?」

「うん。月ってさ、暗い夜空でもあんなにも綺麗に光り輝いているでしょ? それに手を伸ばしたら今にも掴めそうな気がするけど、それは絶対にできないよね。あたしにとってあの頃の遠野くんは、そういう存在だったの」

「そっか……」

 花苗の口から過去の自分の話を聞くのは、これが初めてだ。

「でもね、あたしはそんな遠野くんを眺めてるだけでもなんだか楽しかった。あたしにとって遠野くんは他の男子とは違って、本当に別世界の人みたいに特別な人だったから。もちろんもどかしい思いもたくさんしたけどね」

「そうだよね」

「でもそれがまさか付き合えて、それから東京で生活していくなんて本当に予想できないことの連続だったよ。遠野くんは相変わらずだったけど、毎日が楽しくって、いっつも遠野くんのこと考えてた。なんだか夢を見てたような、そんな気がしたよ。だからあたしはね、こんな日々がずっと途切れることなく続いて欲しいって心から願ってた。だけど……」

「……」

「だけど現実は違ってた。分かってたけど、やっぱりフラれちゃった……。こんなこと今になってまた言うのかよー、なんて言われちゃうかもしれないけど、あの時は人生で一番悲しかったよ。すごく傷ついてもう立ち直れないと思ったし、島に帰ることも考えた。だけど、それでも何とか前向きに頑張ることができたのは、理由があると思うの。それはいつか遠野くんがあたしをちゃんと見てくれて、迎えに来てくれる日が来るんじゃないかって、心のどこかでは信じていたからかもしれないね。そしたら本当に叶っちゃった。遠野くんを待ち続ける日々はすごく長かったなぁ……何をしたって心に空いた穴を埋めることはできなかったから。それでついにポストに入った葉書を見た瞬間、あたし本気で泣いちゃったよ。あたしの願いが、やっと届いたんだって」

 俺の想いはしっかりと伝わっていたのだ。

「本当に嬉しかったんだけど、でも何でだろう、返事が出せなかった。多分自分のことが信じられなかったのかな……。何て書いたらいいのかも全然分からなくって、正直最初は行っていいのかも迷ったの。でも答えはすぐに出た。迷ってる場合じゃない、絶対に行かなきゃってはっきり決めたの。だって初恋の人が待ってるんだから。……そうそう、約束の前の日は全然寝られなかったっけ。それなのに何時間も早く行っちゃって、待ち切れなかったんだー」

「そうだったんだね」

「うん。でも遠野くんも結構早かったよね」

「ははは、そうだね」

 二人して思わず笑う。

「でもさ、本当に今思うのは、ちゃんと行ってよかったなってことだよ。そうじゃなかったら今ここにいないもん」

 遠くを見ながら花苗は言う。

「うん、俺も同じだよ。来てくれてよかった。そうじゃなかったら俺もここにいないから」

 そうじゃなかったら今どうしているのだろうか? 今となっては想像できないことだ。

「あのさ、それでね、あたしはまた遠野くんと付き合い始めて気付いたことがあるの」

「うん」

「遠野くん、昔とすごく変わったよね。あたしはっきり分かるの」

「そう?」

「うん。昔はね、何ていうか、ずっとずっと遠くのあたしの知らない何かだけを見ている、そんな感じがしたの」

 確かにその通りだった。

「でもね、今の遠野くんはそうじゃなくて、今目の前にあるものだけをしっかりと見詰めているんだって、そんな風にあたしは感じているんだよ」

「そっか……」

 

「だからね……うん、大人になったよ遠野くん」

 

 大人になること――。自分が追い求め続けたその目的は、今はかつてのものだ。だけど誰かを守れる力が欲しいという想いは今も同じだ。俺は誰かを守っていきたい。それが今は花苗なのだ。実際に今、俺はその力を手に入れ、本当に大人になることができたのだろうか? ずっと一人で考えてきたけど分からなかった。そう、自分の想いを花苗に話したことはない。だから彼女は知らない、でもきっと気付いてる。そんな花苗の言葉で、やっと確信できた。そう、俺は大人になれたのだと。

 俺は歩みを止め、花苗に向き直る。

「ねぇ、花苗。この場所覚えてる?」

「ここ?」

 花苗は辺りを見回す――。そしてすぐに気付く。

「もちろん。あたしが告白した場所だよね」

「そう。……あのさ、今度は俺の番だよ。だから言わせてね」

 かつて花苗がしてくれたように、今日この時間、この場所で言いたい言葉。もう誰の力も借りることなく、自分の力だけで口にするのだ。

 深呼吸をし、彼女の瞳をまっすぐに見詰める。そして想いを口にする――

 

「澄田花苗さん。ずっと側にいて欲しい。だから僕と結婚して下さい」

 

 自分の心を言葉に込めた。これが今の自分の全てなのだ。滞ることなくはっきりと口に出ていた。

 その言葉を聞いた花苗は顔を赤らめ、その瞳にはうっすら涙が浮かび、何かを噛み締めたような表情になった。でも次の瞬間にはやわらかい笑顔になり、俺の瞳をまっすぐに見詰め返した。そして答える――

 

「はい。喜んで」

 

 花苗がその言葉を口にした次の瞬間、俺達はまたいつしかのように強く強く抱き締め合った。心からの喜びを全身で感じる。そこに驚きは一切ない。この言葉が聞けると分かっていたのだから。

「ありがとう、嬉しいよ……これが現実だなんて、これ以上の幸せもうどこにもないよ。人を好きになることって、本当に素敵なことだね……」

 花苗は耳元で優しくささやく。

「こんな俺を受け入れてくれてありがとう」

「うん、こちらこそ。ずっと側にいるよ。ずっとずっと」

 自分の熱が花苗に伝わり、そして彼女の体も熱かった。

 二人だけの世界には、高校三年生のあの日と同じ景色がどこまでも広がっていた。

 

 

 太陽が完全に沈み、すっかり夜になった。俺達はそのまま歩いてアイショップまで来ていた。当時と変わらぬ外観やおばちゃんに、なんだか少しほっとした。

「今でもお店やってて安心したよ」

「うん、昔よく一緒に買い物したよね。懐かしいなぁ」

 会話をしながら店内を見回し、飲み物でも買うことに。

「ねぇねぇ、遠野くんいっつもこれ飲んでたよね。今日もこれにするの?」

 そう言って花苗はデーリィコーヒーを指差す。

「いや、今日はこれが飲みたいんだ」

 そう言って俺はヨーグルッペを迷わず手に取った。

 過去に囚われ続けたあの頃の自分はもういない。新しい自分で今これからの人生を生きていく。そしてその隣には花苗がいるのだ。

 最初は全く別の所から始まった俺と花苗だった。なにせ最初に付き合い始めた頃は、どうして別れずにいたのかよく分からなかったくらいだ。でもそれから何年もゆっくりと一緒に過ごしていく中で、二人はだんだんと近づき、お互いの歩調を合わせるようになった。そうして今では寄り添い離れず、互いを必要し合える存在になることができたのだ。

 そして今になってやっと気付いた。

 自分が辿り着く場所なんてものは、どこかにあるんじゃない。自分の手で作り出し、引き寄せていかなければならないのだ。

 目的地は定まったかい?

 もちろんだ。視界良好、遮るものは何もない。これからは花苗のために生きていく。そう、簡単なことだ。

 

 俺も花苗もヨーグルッペを買って、外のベンチに座って一息つく。

「ねぇ、遠野くん。おいしい?」

「うん、おいしいよ」

「でしょ!」

 花苗は自慢げだ。

「……えーっと、あのさ……」

 俺は花苗の顔を見ずに言う。

「うん?」

「……その『遠野くん』って呼ぶの、そろそろ止めて欲しいな」

 思わず手に力が入る。

「え、どうして?」

 一呼吸置いて答える――

「だってこれから花苗も『遠野くん』になるんだから」

 自分で言っておいて流石に照れた。今度はちゃんと花苗を見て答えを待つ。

 そしてすぐに――

「うん! ……貴樹くん」

 花苗は幸せに満ちた最高の笑顔でそう答えてくれた。

 

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