ネアトリア王国記一一話「友のために 前編」 |
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ミラーカはカルグスタイン城の食堂に一人座り、机の上に一つだけ置かれている金の杯に視線を落とした。そこには並々と鮮血が注がれており、甘い香りを漂わせている。杯を手に取り、顔に近づけて香りを嗅ぐ。
実に良い香りだ。新鮮でありいまだ若々しい蕾の匂いが杯からあふれ出している、食欲がそそられミラーカの喉はごくりとなった。杯をそっと口につけて一口だけ鮮血を口に含む。そして飲み干した。
味は実にまろやかで飲みやすく、風の吹く大草原を連想させるほどの爽やかさである。これほどの良い血液は中々手に入らない。一体、どこから仕入れてきたのだろうかと思いミラーカは鈴を鳴らした。すぐに執事が現れる。
新しい執事はクラウディオに倒されてしまった前の執事よりもほんの少しだけ要領が悪く、ミラーカが呼んでも現れるのが少し遅い。普段なら怒鳴りつけるところだが、血の美味さに今日は許してやろうと思う。
「お呼びでしょうかミラーカ様」
前の執事よりも少しだけ小柄なその執事は恭しく頭を下げる。以前の執事は貴族から作り上げたものだったのだが、この執事は上流階級とはいえ一般人から作り上げたものだった。そのせいか動作がどこかぎこちない。
「料理人を呼んできなさい、尋ねたいことがあるの」
「かしこまりました」
そう言って執事は食堂から厨房へと向かうのだが、その足取りがどこかぎこちないもののように見えるのはミラーカの気のせいだろうか。
執事としての基本的な仕草は全て仕込んだはずなのだが、彼の体はまだその動きについていけていないのかもしれない。彼の背中をみながら物憂げにミラーカは溜息を吐いた。人間であった頃なら彼を執事から下ろしていたかもしれないが、永劫にも近い時間を手に入れた今のミラーカにそんな気分は起こらない。永遠に近い寿命を手に入れたことによって気も長くなったのだろうか。
そんなことはどうでも良いかと思いながらまた杯に口を付ける。ミラーカにとって大事なのは永遠の寿命等ではなく、自分の持つ美が損なわれることが無くなったということの方が遥かに重要なのだ。
芳醇でありながらも爽やかな血液を味わっていると、重い足音を鳴らしながら恰幅の良い男が食堂に入ってくる。この男もまた執事と同様に青白い肌をしており、土気色の目を持っていた。彼もまたミラーカによって作り出された屍食鬼なのである。
彼は執事とは違い質素な服に身を包んでおり、前掛けには今しがた付いたばかりと思われる真っ赤な血が付いていた。鮮度が良さそうな血ではあったが、上質の血液ではなさそうだなとミラーカは思う。
「おはよう料理長。一つ尋ねたいことがあるのだけどよろしいかしら?」
「おはようございますミラーカ様。私のような下っ端の使用人にどのような御用でしょうか?」
「いえね、この杯の血が気になってね。どのような娘からこの血を絞り取ったのかしら?」
残り半分ほどになった杯を掲げて見せると料理長は嬉しそうに微笑んだ。この血は彼にとっても自信のある一品らしい。
「この近くに住む農家の娘の血でございます。二〇前のまだ生娘でして、栄養状態も非常に良好でございました。ミラーカ様に満足していただけるだろうと思いまして、私自身が直接仕入れてまいりました」
「そう、あなたの心遣い大変嬉しく思いますわ。わたくし、あなたのような召使いを持ててとても光栄よ」
ミラーカが微笑んで見せると料理長は照れたように顔を隠しながら、後頭部に手をやっている。彼は既に人間ではなく美に対する意識は薄れているのだが、ミラーカを前にしては美を意識せざるを得ないのだ。そのことをミラーカは実によく心得ていた、だからこそ彼に対して微笑んでみせたのである。
「ありがとうございます、ミラーカ様にそのような言葉をいただけると私めのような者からは返す言葉もございません。後ほどお伝えしようと思っていたのですが、今お伝えしてもよろしいでしょうか?」
「なぁに料理長?」
「実はその血の娘なのですが、ミラーカ様が必ずやお気に召すだろうからと思いましたので実はまだ生かしてあるのです」
料理長のこの言葉に思わず心臓が高鳴った。いつもは血を取った後の人間はすぐさま解体して、使用人たちの食料にしてしまう。だが彼はあえてそれをせずに、わざわざ生かしておいてくれたというのである。ミラーカにとってこのような芳醇な血液をまた味わえるというのはとても嬉しいことだった。
「それは感激ですわ、料理長のそのお心遣いに大変感謝いたします。ぜひ後で私の部屋にその娘を運んでおいてくださいな、その時にまたご賞味させていただくことにしますわ」
「ではそのように手配しておきます。せっかくお呼びいただいたのに大変申し訳ないのですが、兵士どもの食事を作っている途中でございまして戻ってもよろしいでしょうか?」
「えぇ、構いませんことよ。いつ何時、ネアトリアの騎士たちが杭を片手にやってくるともしれません。そのためには兵士達には滋養をつけてもらわねば困りますからね、よろしく頼みましてよ料理長」
「仰せのままに」
深く頭を下げてから、ミラーカに背を見せぬようにして料理長は部屋を出て扉を閉めた。また食堂にはミラーカ一人になるのだが、どうにも一人でいるという気分にはなれない。はて、これはどうしたことだろうか。
杯の血を啜りながら周囲の気配を探ってみる。食堂の外には執事を待機させているのだが、その気配ではない。食堂の外ではなく食堂の中に気配があった。ミラーカの神経は吸血鬼となったことにより人間のものを遥かに凌駕する鋭敏さを誇っている。その神経を集中させたとしても気配の正体を察知することが出来なかった。
これはもしや賊が入り込んでいるのかもしれない。ネアトリアの騎士どもが姿を隠す魔術を使える人間を送り込んだとも考えられるのだ。ミラーカは両手の爪を短剣ほどの長さにまで伸ばす。その爪の鋭さは肉食獣の牙とほぼ同等であり、頑強さは鋼ほどもある。
その爪をかちかちと鳴らしながらミラーカは席を立ち、床から天井までぐるりと根目回した。いつも見ている食堂の風景ではあるが、どこか違う。何かが忍び込んでいることは間違いないのだが、何かが分からない。苛立ちを覚え歯噛みすると、頭の中に声が響いてくる。
「おやおや、そこまでお怒りにならないでくださいよミラーカ殿。私でございます、ナイアールですよ」
その言葉と同時に、食堂内に風が吹いた。風は食堂中から黒い塵を一点に集める。塵は徐々に人の形を成して行き、風が収まった頃には黒い司祭服を身に纏った黒人の姿がそこにあった。ただし、彼の顔には白人の特徴が強く出ている。
「あぁ、あなたでしたの」
気配の正体が明らかになったことに安堵すると同時に、ミラーカは爪を元の長さに戻してから椅子に座りまだ飲みかけの杯に手を伸ばした。
「お食事中でございましたか。それではまた後ほどお邪魔しましょうか?」
ナイアールの申し出をミラーカは断った。彼の腹黒そうな笑みを見ていると、今の食事は邪魔されなかったとしても、この後のお楽しみの時間にやって来そうな気がする。それなら今の食事を邪魔された方がまだ良い。
スカートの裾から下着を覗かせないように足を組み、直立しているナイアールを見上げる。彼には恩が有るとはいえ、ナイアールの独特な笑顔を見ているとあまり良い気持ちになることは無いし、彼が恩人だと思いたくない気持ちすら湧いてくるのだ。
「して、此度はなに用でございましょうかナイアール殿?」
「いや、なに。あなたがネアトリア直属の騎士を捕らえた、というのでぜひ拝見させていただきたてくてお伺いに参ったのですよ」
「あぁ、あのクラウディオとかいう男のことですか。彼ならば地下牢に監禁してありますわ、興味があるならどうぞご勝手に」
「おや、興味が無さそうですね。彼は直属、あなたならば血を吸い尽くして木乃伊にして殺してしまうか、死食鬼して使役してしまうものかと思っていたのですが」
彼の言葉に腹が立ち睨み付けるが、ナイアールはミラーカの睨みなどどこ吹く風であり軽く首を傾げるだけだった。それが余計にミラーカを苛立たせる。ミラーカとしてはクラウディオのことなど思い出したくないのだ。
彼は国王直属の騎士で、それなりに強くはあったがミラーカの敵ではなかった。最初は普通の騎士よりも技量があるものだから死食鬼として使役してやろう、そう考えていたのだがことはそう上手く運ばなかったのである。
あのクラウディオという男はなかなかに頭の回る男らしく、服の下には吸血鬼除けの呪文をびっしりと書いていたのだ。おかげでミラーカは彼の血を吸うことが出来ず、手下の死食鬼も誰一人として彼に直接手を触れることが出来なかった。
殺してしまおうかとも思ったが、彼は直属である。何か使い道があるかもしれないと考えて地下牢に監禁したは良いものの、扱いに困っていたのだ。殺すには勿体無さ過ぎるような気がするし、かといって操ることは出来ない。
いっそのこと殺してしまおうかと考えないでもなかったが、全身に吸血鬼避けの呪文を事前に肌に書いているような男だ。もしかすると切り札と呼べるようなものがあるかもしれない。ミラーカの時代はそうでもなかったが、この時代の多くの戦士階級は魔術を習得している。
だというのに、クラウディオはミラーカと戦った時に魔術を使わなかった。剣技のみでミラーカと戦ったのである。もしかすると切り札となるような魔術を持っているのかもしれない、そう考えると下手に手をだすわけにも行かず監禁しておくしか方法が浮かばなかったのだ。
クラウディオは今のミラーカにとっては足かせに過ぎない。かといって殺すのには計り知れない危険が伴うし、逃がすことなどできるはずがなかった。
「ひどくお困りのようですな。あなたさえ良ければ彼の身柄は我々真実の教団にてお預かりいたしましょうか?」
「お断りします」
即答してすぐに、しまったと思ったが時は既に遅い。発言を撤回してナイアールに頼めば彼はすぐに引き受けてくれるだろう。だがミラーカの矜持がそれを許さない。
「おやおや、そうですか。私としてはどちらでも構いはしないのですがね。彼があなたのところにあろうと、私のところにあろうと。私としては似たようなものですから」
くぐもった笑い声をナイアールは発する。彼は事あるごとに笑ってみせるのだが、いったい何が可笑しいのだろう。良く笑顔を見せる人間は嫌いではないが、理由の分からない笑みは不気味であり、なにより神経を逆撫でされているように感じるのだ。
「ご用はそれだけでしょうか?」
「それだけですよ。あなたが彼をどう扱うのか気になっていただけですから」
「それでは早くお帰りになられてはどうですか? あなたは教祖なのでしょう? 信者達がお待ちでなくて?」
ミラーカのこの言葉に気分を害したのか、ナイアールの顔から笑みが消えた。怒らせてしまったかもしれない、とは思いつつもそれがどうしたと思う。彼に対しては恩義があるが、それは彼が勝手にしたことであってその恩を返す義務があるのかといえば無い。
ミラーカの持つ美はこの世にまたとないものであり、遥か太古の昔にもさらなる未来にも決して現れることはないだろう。それを蘇らせたナイアールの功績は大きい、とはいえミラーカ自身が彼に恩を感じる必要は無い。
ナイアールに対して恩義を感じるべきは、ヴェスティン=フスを治めている侯爵の方であろう。彼はすっかりミラーカの美しさに捕らわれてしまっており、仕事の合間を縫うようにして足しげくこのカルグスタイン城へと足を運んでくるのだ。
彼はミラーカに対してかなり熱を上げており、ミラーカ自身もそのことを良く理解している。だからこそヴェスティン=フス周辺で人を狩っていたとしても、ミラーカが咎められることはなくヴェスティン=フスの騎士団が動くことはなかったのだ。
「まぁ良いでしょう。あなたはそういう人間だ、ですけどね、これだけははっきりと言わせてもらいますよ。あなたを吸血鬼にしたのはこの私です、それを努々お忘れなきよう。その気になればあなたのその生無き生を奪うことなど簡単なんですからね。それでは、あなたの言うとおり信者たちが私の導きを待っていますのでこれで失礼します」
ナイアールが振り向くと同時に室内に風が吹いた。今度の風はナイアールの体を塵へと変えてゆき、どこへともなくナイアールの塵を運び去っていく。それと同時に室内にあった不気味な気配は消えた。
やれやれこれで一安心、と思いながらミラーカは杯に口を付けたのだが彼との話の間ですっかりと鮮度が落ちてしまったらしい。
/2
カルグスタイン城を見下ろすことの出来る山中で、シャーセルは狩人のような格好をしながら手にしている投擲用の短剣を木製の人形目掛けて打ち込んでいた。今のところ投げた短剣は全て人形の左胸に集中している。
この分なら実戦でも申し分なくこの短剣を使えるだろう。そう思いながら手にした銀で出来た短剣をじっと見ていると、近くの茂みから音が鳴った。即座に短剣の狙いを茂みに定め、猛獣の類が出てきたらすぐに投げてやろうと構えたが茂みから姿を現したのはエトルナイト騎士団の制服に身を包んだ青年である。
彼の名はデュマといい、年齢はまだ二〇代ではあるがシャーセルが信頼できる数少ない部下の一人だった。茂みから出てきたデュマの服には至る所に木の枝や葉っぱが付いており、枝にでも引っ掛けたのかところどころ服が破れている。
「デュマか、傭兵の案内でもしてきてくれたのか?」
「いいえ」と言いながらデュマは首を横に振った。そしてデュマは続ける。「傭兵組合の待合室にはここに至るまでの道順を書いた紙を残してきました、あれでやって来れないのならば今回の依頼を任せるに値する傭兵ではないでしょう」
この言葉で勝手なことをするやつだと思いはしたが、彼は彼なりにシャーセルのことを思ってしているのだ。部下の心遣いはありがたく受け取ることにしたい。それにシャーセルもデュマと同じことを少なからず考えていたのだ。
今回の依頼は吸血鬼ミラーカと真正面から相対するかもしれない。非常に危険な仕事を傭兵に任せなければいけないのだ。並大抵の傭兵では困る。
「陛下、以前にも進言いたしましたがどうしても陛下自らが行かなくてはならないのですか?」
デュマの言葉にシャーセルはゆっくりと頷いた。
「何故? 直属を助ける義理など我々にはありません」
「確かに、エトルナイト騎士団にネアトリアの騎士団を助ける義理はどこにもない」
「では何故?」
デュマが一歩詰め寄ってくる。彼としては組織の長であるシャーセル本人が吸血鬼の居城へ乗り込むことをよほど危惧しているのだろう。シャーセルがデュマと同じ立場にあったのならば、彼と同じことを言っていたはずだ。
「答えは非常に簡単だ。我が友があそこにいる、私は友を助けなければならない」
「友ですって!?」
大きな声を上げると同時に、デュマは両手で顔を覆った。彼としては余程信じたくないことらしい。だがシャーセルからしてみればクラウディオと属している組織は違い、そして敵対しているとはいえど友と呼べる存在なのだ。
彼は傭兵組合の一室にシャーセルが乗り込み、ミラーカの情報を提供した時にそれを信じてくれた。そればかりでなく、彼はネアトリアの騎士であるというのにシャーセルを逃がしてくれたのである。クラウディオが実際にどう思っていたのかは知らないが、シャーセルが思うに彼は義を感じたからこそシャーセルを捕らえることをしなかったのだろうと思う。
それにカルグスタイン城を見張っているクラウディオに対してエトルナイト騎士団の人間が度々彼に接触したのだが、彼はエトルナイト騎士団の人間を疑うことなく素直にその忠告を聞き入れていた。
彼は間違いなくエトルナイト騎士団を、シャーセルを信用してくれていたのだ。そんなクラウディオが今カルグスタイン城に捕らわれているらしい。だからこそシャーセルとしては敵であるにも関わらず自分を信じてくれたクラウディオを救いたいと切に望むのだ。
「デュマ、君は確かクラウディオに会っていたよな? カルグスタイン城を見張っている彼に情報を伝えるために?」
「はい。私は確かに彼に会って、彼の全身に吸血鬼避けの呪文を施したのも私です」
「彼についてどう思った?」
デュマはしばらく返答に困っていたようだが、やがて小さな声で「誠実な方だと思いましたよ」と言った。
「彼はネアトリアの騎士でありながら敵であるはずの私の言葉を素直に信用してくれました。さらには労いの言葉まで掛けてくれました……あれほど真摯な、というよりも実直というべきでしょうか。そういった人間を見たことはありません、もし彼がネアトリアの記しでなければきっと人間として好きになっていたと思います」
「そうだろう、デュマよ。彼は非常に誠実な人間だ。敵であるはずの私に対して非常に誠実に接してくれたのだ。あのような良き人間を私は一人の人間としてみすみす殺したくない」
「だからエトルナイト騎士団としてではなく、シャーセル・エトルナイトという個人で依頼をお出しになられたのですか?」
「そうだ」といってシャーセルは頷いた。エトルナイト騎士団として動きたいところもあったが、これはシャーセルの個人的な感情が強い。エトルナイト騎士団はあくまでも組織である、その長であるシャーセルとはいえ個人的な想いで動かすわけにはいかないのだ。
加えて、組織である以上はエトルナイト騎士団も一枚岩ではない。今側にいるデュマはシャーセルに忠誠を誓ってくれているが、中にはそうでない人間もいる。真実の教団との交流を深めることによってエトルナイト騎士団は力を増した。
だがそれと同時に真実の教団からの介入も許すことになってしまったのだ。その結果として組織内では大きく分けて二つの派閥が出来上がってしまっている。そのことがシャーセルにとっては非常に残念なのだが、大きな組織である以上はあるていどそれは仕方がないことなのかもしれないと諦めている部分が多少なりともあった。
しかし、その二つの派閥の諍いが問題ではある。一つは反真実の教団派であり、一つは真実の教団と積極的に交流を持っているのだ。反真実の教団派は少数であり、彼らは皆シャーセルに忠誠を誓っているのだが、教団との親交が深い人間にはどこか信じきれない部分がある。このことがシャーセルにとってもっとも気がかりな点なのだが、組織の長であるシャーセルにとってどうすることの出来ない問題でもあった。
溜息を吐いてしまいそうになったが、今は部下の目の前である。そんなことは出来ず、代わりにまた短剣を人形へと打ち出した。今度もまた心臓の部分に命中する。この分なら実戦で投擲用の短剣を使ったとしても問題ないだろう。
仰ぎ見ると木々の隙間から天頂へと登った太陽が見えた。そろそろ傭兵が来てくれなければ困るのだが、何かあったのだろうか。本来ならデュマがここまで案内してくる予定だったのだが、彼の考えにより地図だけを手がかりとしてここまで来てもらうことになったため来るのが遅れているのかもしれない。
「いつになったら来るのでしょうね?」
周囲をぐるりと見渡しながらデュマが言った。彼と同じようにシャーセルも辺りを見渡したが、小動物の気配以外は何も無い。デュマの残した地図――シャーセルはそう思っている――でここまで来れる様な傭兵でなければ依頼を任せるに値しないのは確かなのだから二人とも失格になったという可能性もある。
そうなったらデュマとシャーセルの二人だけでカルグスタイン城に乗り込むことになるのだろう。ミラーカは異性に対して魅了の術を使うという、精神力さえあればそれを撥ね退けることも可能なのだが、それにもまた非常な力を要するのだ。
シャーセルは魅了の術に掛からないことは既にミラーカと一度相対しているため実証されており、デュマも魅了されないだけの精神力を持っていると信じている。とはいえ、魅了の術に対抗するのは骨が折れることであるし出来るだけミラーカと相対したくはない。彼女と戦う必要はないとはいえ、雇った傭兵には彼女の目をひきつけて置いてほしいのだった。
もしかすると、このまま傭兵は来ずに本当にデュマとシャーセルの二人だけでカルグスタイン城に乗り込むことになるかもしれない。そうシャーセルが覚悟していると、デュマの出てきた茂みからまた音が鳴り始める。音の大きさからして人ぐらいの大きさを持った動物か何かが蠢いているのは確実だ。
傭兵がやってきたという可能性が非常に高いのだが、万が一のためデュマもシャーセルも腰に佩いた剣に手を掛ける。茂みの中にいる何かは確実に二人の下へと近づいてきており、敵意は感じられなかったが緊張が高まっていく。
だが緊張する必要はどこにもなかった。出てきたのは二人の女性であり、一人は棍を片手に持っておりもう一人の方は棍を持っている女性よりも背が高く背中には両手剣を背負っている。
二人から敵意はまったく感じられず、依頼を受けてくれた傭兵だろうと推察したシャーセルは剣の柄から手を離した。それはデュマも同様であり、彼も柄から手を離している。
「二人とも私の依頼を受けてくれた傭兵かな?」
尋ねると棍を手にした女性は静かに頷き、両手剣を背負っている方は「そうです」と柔らかな声音で言った。二人ともここまで来ることができたということは、それなりの資質を持っているということであり任務を託すのに値すべき人間なのだろう。
デュマの視線がシャーセルに向き「では私はこれで失礼させていただきます」と言ってから傭兵二人に一礼すると彼は茂みの中へと姿を消していった。
「あの〜、あの方ってエトルナイト騎士団の方なんですか?」
両手剣を背負っている方の女性が尋ねる。別段、隠すに値するべきことではないのです自分の素性も後々明らかにするつもりなので、「そうだ」と言って頷くと彼女は目を丸くした。
「え? ということはエトルナイト騎士団からの依頼なんですか?」
「いや違う」
シャーセルは即答する。シャーセルはエトルナイト騎士団の長ではあるが、かといってシャーセルの出す依頼が全てエトルナイト騎士団のものというわけではない。特に今回はシャーセルの個人的なものであり、デュマを初めとした側近達からは止めるように進言までされている。
「ということはあなた個人からの依頼ということでしょうか?」
もう一人の棍を片手にしている女性からの質問にもシャーセルは頷いた。
「改めて名乗っておくと私の名はシャーセル・エトルナイト二世。エトルナイト騎士団の長であり、旧エトルハイム王族の末裔だ。とはいえそんなことに価値があるとは思えないがね。さておき、今回の依頼は至って個人的なものでありエトルナイト騎士団とはなんの関わりもない。このことはしっかり覚えて欲しい。であるから、君たちは私に畏まる必要もどこにもない。エトルナイト騎士団が依頼を出して私が出ると傭兵達は皆畏まってしまうのだが、これは私個人でのこと。血筋や組織のことなど関係が無い、あくまでシャーセル・エトルナイトという一個人からの依頼なのだ」
「ということは、エトルナイト騎士団とはまったく関係ないと?」
「私がエトルナイト騎士団の長である以上、まったく関係が無いとは言い切れない部分があるにはあるが、関係は無いな」
「それを聞いて安心しましたわ」
一安心したかのように彼女は胸を撫で下ろして見せたが、シャーセルにはどこか演技が混じっているように見えた。一見しただけではわからないだろうが、動作が大仰なような気がしたのである。
何か裏がある人物なのかもしれないが、傭兵などそんな人種の集まりなのだろうしちゃんと与えた仕事さえしてくれるのならば問題はない。もっとも、今回彼らにしてもらう仕事の難易度ははっきりいって高いものではあるが。
後で詳細を説明してそこで改めて依頼を受けるかどうか考えさせるのも良いかも知れない。そんなことを考えながら木製の人形に近づいて、そこに刺さっている短剣を全て抜いた。
抜いた短剣は二人の傭兵に渡す。二人とも不思議そうに短剣を見つめていた。どの短剣にも吸血鬼に効果があると伝えられている呪文を刻んである。それが不思議で仕方がないのだろう。
「自己紹介してからあそこに設置してある人形目掛けてそいつを投げてみてくれ。狙うのは赤で印してある、ちょうど心臓の位置にあたる部分だ。そこを狙ってくれ。距離はそうだな、大体……」
言いながら歩いて人形との距離を取る。ミラーカと彼女らが戦うことになった場合、場内になるだろうことは確実だ。あまり遠い距離から投げさせたところで意味が無い、廊下などで戦うことになったとしてもせいぜい一〇メートル程度だろうと考え、そのぐらいの距離を開けてシャーセルは立った。
「ここから投げて見せてくれ」
足で軽く地面を掘って印を付けて横に退くと、「それでは私から」と言って棍を持った方の女が印を付けた場所に立った。彼女は短剣を手の中でくるりと一回転させてみせてから、構える。その姿勢は実に様になっており、手馴れているという印象をシャーセルに与えた。
そして彼女は腕を振り上げたと思ったら次の瞬間には振っている。打ち出された短剣は綺麗な軌跡を描いて人形の心臓部分へと命中した。明らかに短剣を扱いなれている。見る限りでは棍しか持っていないようだが、暗器も使うのかもしれない。
「実に見事な腕前だな、どこかで経験を?」
「似たような遊戯を以前に嗜んでおりまして。最近はさっぱりだったのですけれども、一度身につけたものというのは中々役に立つものですね」
「ほぅ、遊戯でか」
言いながらシャーセルはこの女の素性を既に察していた。短剣に似た玩具を使って的に当てる遊戯は上流階級で人気が有るが、専用の玩具の値段は高く中流階級以下の人間は中々経験できるものではない。
もし経験できたとしても、彼女のような腕前になるほど遊べることは出来ないだろう。では彼女は何者かといえば、答えは一つしかない。高級娼婦である。上流階級の人間ならば傭兵になる必要もないだろうし、かといって落ちぶれたようにも見えない。
高級娼婦ならば必然的に上流階級の人間とも付き合いが生まれ、彼らの遊戯に付き合わされることも多々あるわけだから彼らの遊戯に精通していたとしてもおかしくないわけだ。とはいえ高級娼婦ならばかなり稼げるだろうに、何故傭兵のような危険なことをしているのか気になったが、それを詮索してはならない。
「して、名前を聞こうか」
「クロエ・ヴァレリーと申します」
「クロエか、わかった。ではそちらの両手剣を持っている女人にお願いするとしようか、ここに来て投げてみてくれ」
「は〜い」
気楽な口調で言いながら彼女は小走りで駆け寄ってくる。一歩踏み出すたびに背中の両手剣が音を立てた。緊張していないというは良いことではあるが、彼女はいささか気楽過ぎるような気もする。
とはいえ緊張しすぎるよりか遥かにましだろう。彼女はシャーセルが印を付けた位置に立つと、腕を大きく振り上げる。動作が大きすぎるな、と思いながらも彼女の一挙一動を仔細に眺めていた。
狙いを定めているのか、小さくなにやら呟きながら僅かに姿勢をあれこれと変えている。楽な姿勢を探しているのだろうか。えらく時間を掛けるな、と思っていると彼女は腕を振り下ろして短剣を投げた。
クロエとは違い、短剣は放物線を描きながら人形へと向かう。速度もクロエと比べれば遅く、軌道も安定していない。この手の武器は使い慣れていないのだろうか。だが、短剣は僅かにずれてはいるものの人形の心臓部分にきちんと刺さった。
彼女はそれが嬉しいのか拳を握り締める。若くそして元気のある女性だとシャーセルは思い、一つの危惧を感じた。ミラーカはもしかすると彼女のような人間を好むのかもしれない。
文献によれば生前の彼女は血の風呂を作る際、好んで若くて溌剌とした女性を選んでいたという。その趣味は吸血鬼となった今でもおそらく変わってはいないだろう。だとすると、ミラーカ好みの女性をわざわざ彼女に近づけることになる。
もしかするとそこにミラーカの隙が生まれるかもしれないが、危険が生まれてしまう確立の方が圧倒的に高い。彼女をカルグスタイン城へ向かわせるべきか、いや、彼女を帰してしまうほうが良いのだろうか。
そんなことを考えているとシャーセルを呼ぶ声に気付いた。どうも深く考えしすぎていたらしく、両手剣の女性に呼ばれていたというのに気付いていなかったらしい。謝罪をすると「ちゃんと見ててくれたんですか〜?」などという言葉が返ってきた。
シャーセルとしてはエトルナイト騎士団の長ではなく、個人として依頼を出している以上、尊称などを使って欲しくはない。とはいえ軽々しく口を利かれるのも困ったものではあるが、おそらくこれは彼女の性なのだろう。一朝一夕で直るものではないはずだ。
「あぁ、ちゃんと見ていた。君の投擲に関する意見は名前を聞いてから述べるとしよう」
「はい。マニシュ・リジアムといいます、女だからって馬鹿にしないでくださいね。ちゃんと背中の両手剣だって扱えるんですから」
「君が女性だからといって馬鹿にする気はないよマニシュ。さて、君の投擲に関する意見を言わせて貰うがまるでなってはいないな。練習の必要性がある、本来なら今夜にカルグスタイン城へと潜入する予定だったが変更だ。一日延ばす」
「え!?」
と、彼女は声を上げる。早々に仕事を終わらせたかったのだろうが、彼女のことを思えばこれも止むを得ないことであった。クロエの棍は金属製で、なにやら呪文めいた文字が書かれているため何らかの魔術が付与されているのだろうが、マニシュの両手剣は見たところ普通の両手剣である。
彼女たち二人が吸血鬼に対して有効な武器を持っているとは思えない。シャーセルのようにマール・クリスの加護を受けた聖剣ならばともかく、普通の魔術を付与しただけの武器で吸血鬼に致命傷を与えることは出来ないのだ。
となれば、シャーセルの剣と同じく加護を施した短剣が彼女たちの切り札となる。それを上手く扱いこなせるようにしてやらなければ彼女たちが死ぬ危険性はより高くなることは間違いない。シャーセルとは何の関係もない彼女たちでは有るが、できることならば五体満足で帰してやりたいものだ。
「あのぅ、一日伸びるとなると報酬の方はどうなるのでしょうか?」
背後から掛けられたクロエの声に振り向くと、彼女は困ったような笑顔を浮かべていた。報酬のことについてはシャーセルも考えていたことであり、一日延ばすとなればそれだけ報酬も増やしてやらねばなるまい。
「なに心配する必要はない。五〇追加だ、文句は無いだろう?」
言った瞬間に「はい」と、歯切れの良い返事がクロエから返ってくる。出が出なだけか、作法に問題はないとはいえ金銭面で少しばかりがめついてくるのは傭兵という明日が分からぬ職をしているせいか。
「五〇ですかぁ?」
と言ってきたのはマニシュの方である。表情を見る限りでは金額に不足があるわけではないことは見て取れた。一日で五〇セールといえば、決して多いとはいえないが割りと標準的な稼ぎではないだろうかとシャーセルは思っている。
「何か不満でもあるのかなマニシュ・リジアム?」
「いえ、決して不満があるとかそういうわけじゃないんですけれど。そのぉ、今日は行かないんですか? 私としてはちゃっちゃと手早く終わらしたいんですけど」
両手の指を合わせて上目遣いのマニシュを見ると怒りが湧き上がってくるのを感じた。早く古城へと突入したのはシャーセルも同じである、いや、彼女ら以上に一刻も早くカルグスタイン城へと行きたいと願っているのはシャーセルなのだ。
彼女はシャーセルがどのような状況に置かれているかを知らない、どのような気持ちでいるのか知らない。だから彼女のこの行動に対して怒りを覚えるのは不当な行為である、そのことを頭で理解できていたとしても感情は抑制できなかった。
知らずのうちに彼女の許まで歩み寄り、上から睨み付けてしまっている。流石の眼光に恐れを抱いたのかマニシュは身をちぢ込ませるが、相変わらず両手の指は付けたままで気の抜けた瞳を上目遣いにしていた。
「もう一度言ってみろ」
「え、ですから……今日中に終わらせたいな、と」
上目遣いのマニシュの瞳を見据えてシャーセルは腕を振り上げる。恐怖を感じたのか彼女はさらに縮こまると目を瞑った。続いて辺りに乾いた音が響く。マニシュの左の頬が赤くなっていたが、この程度の痛みなど傭兵ならものともしないだろう。
そんなことよりも、たかが傭兵。一時の間仕事を手伝ってもらうとはいえ彼らはあくまでシャーセルの指揮下にある以上は部下であると考えている。その部下に手を上げてしまったことが憎らしい。
だが、どうしてもそうせずにはいられなかったのだ。彼女は決して悪くない、悪くないのだ。追加の報酬があったとしても彼女にだって色々な都合があるかもしれない。一日で終わる予定だった仕事をいきなり引き伸ばすというのはこちらに非がある。追加の報酬があったとしてもだ。
マニシュの言い分は至極真っ当で頭で理解できるものであるが、シャーセルの怒りは理不尽なものである。
「すまない、クロエ。マニシュに短剣の投擲法を教えてやってくれ」
振り向きながら足元を見た。マニシュやクロエがどのような表情をしているか見たくなかったのだ。きっと失望していることだろう。簡単に手を上げるような雇い主の下では、彼女たちも仕事なぞしたくないに決まっているはずだ。
「えぇ構いませんが、シャーセル様はどちらへ?」
「少し離れたところに天幕を張ってある、目立たぬようにはしているがなに探せばすぐに見つかるよ。私は休む、後は頼んだぞクロエ」
それだけ言ってシャーセルは逃げるようにその場を後にした。
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去っていくシャーセルの後姿を見つめながらクロエは何か裏があるのではないだろうかと感じていた。最初に出会ったときの印象からして、彼は清廉潔白と言って良さそうな人物であるし人柄も良さそうに感じる。
マニシュの態度に落ち度があったのは確かだが、それで手を上げるような人物には到底思えない。となると、どういった理由があるのだろうかと、勘ぐってはいけないのだが思わず勘ぐってしまう。
クロエの手にした情報によるとカルグスタイン城は前に一度襲撃されているらしい。信頼できる筋からの情報なのだがらしい、というのはどうもそれにはネアトリア直属騎士が動いたかららしいのである。そのせいで情報の機密性は必然的に高くなり、流れてくる情報も少ないものとなっているようだ。
よって入ってくる情報はどれも千差万別であるのだが、妙な共通点がある。それはどれもカルグスタイン城へと行った直属騎士が帰ってこなかったということだ。帰ってこなかったというだけで、死んだのかそれとも吸血鬼の手により人外のものへと変えられてしまったのかまでは定かではない。
しかし、十数もの情報源から仕入れた情報がいくら違うものだったとしても、騎士が帰ってこなかったという点は共通しているのだからこれは確定だと見てよいだろう。勘としか言えぬものではあるが、今回の依頼と帰ってこなかった騎士の間には何か関係があるような気がしてならない。
もしかするとシャーセルとその騎士の間に一種の共生関係が気付かれていたのではないだろうか。各都市の騎士団の一部が情報を得るためにあえて盗賊集団と繋がったりするのは良くある話だ。直属が同じことをしていたとしても不思議ではない。
ただ気になるのは、なぜそこでエトルナイト騎士団の長であるシャーセルが出てくるのかというところである。普通に考えれば直属のことは直属騎士だけで始末するだろうし、そうでなくともネアトリアハイムの正式な騎士団が動くはずだ。
エトルナイト騎士団が動く理由はどこにもない。直属とエトルナイト騎士団に繋がりがあったとしても、シャーセルと直属騎士が直接繋がっているとは考えにくいところがある。では、彼は何のためにカルグスタイン城へと赴こうとしているのか。
相応の理由があるのだろうが、聴いたところで決して語ってはくれないだろうし、そういうことをするのは依頼主に対して失礼でもある。
とりあえず今のクロエがやることはといえば、天幕へと閉じこもってしまったシャーセルに代わってマニシュに短剣の投擲術を教えてやることだ。といっても、クロエも短剣を投げて命中させることは出来るのだが、元々は遊戯で覚えたことなので正しい方法を教えてやれるかはわからない。
だがやるしかないだろう。シャーセルが一日延期したのは考え無しのことではない、与えられた短剣を見るとそれが理解できた。魔術文様に関して詳しくはないが、短剣の剣身には何らかの魔術を付与するための文様が掘り込まれており、神の加護でも受けさせたのか神々しい印象を与えてくる。
間違いなくこれはシャーセルが依頼を受けた傭兵が吸血鬼と対抗するために用意したものだ。吸血鬼に関する伝承はよく聞くが、彼らは圧倒的な力を持つという。だからこそ接近戦では不利と考えたのか、遠くから使えるよう彼はこの短剣を用意したのかもしれない。
これはあくまでクロエの推測に過ぎないのだが、シャーセルはマニシュの投擲技術を向上させるために一日延ばしたのではないだろうか。たった一日練習した程度では付け焼刃の技術に過ぎないだろうが、それでもやらないよりかはマシなはずだ。
後ろを振り返ると叩かれたことがよほど衝撃だったのか、俯き溜息を付いていた。クロエは彼女の側に歩み寄り、そっと肩を抱く。
「叩かれたのはびっくりされたことだと思いますわ、けれどあなたにも落ち度がありました。けれど、様子を見る限りではあのお方も今頃は後悔なさっていることでしょうから」
慰めの言葉をかけたのだが、よくよく考えてみれば慰めているのかそうでないのかいかんとも判別しがたいことに言ってから気付いた。下手をすればより彼女を傷つけただけなのではないかと心配したが、その様子は無くマニシュは二本の短剣が突き刺さっている人形へと視線を向ける。
「はい、引っ叩かれたのは仕方がないと思います。それに何となくあの方が何故延期したのか理由も分かっているつもりです、ですけれど……」
「ですけど? なにか心配事でもおありなんですか?」
「見てくださいよあれ」
そう言ってマニシュが指差したのは短剣の的となっている人形である。正確にはその心臓部分に付けられている印だ。今そこにはクロエが投げたばかりの短剣が突き刺さっている。
「あそこだけずたぼろですよ。余程あの方は練習されたんだと思うんです、私もあの方やクロエさんみたいにできるようにならないと、と思うと……」
マニシュの言うとおり、印が付けられている部分は幾つもの短剣が刺さった跡がありそのせいで印はほとんど見えない状態になっている。二人が到着するまでの間、シャーセルは己の投擲技術の向上を図るためにずっと練習し続けていたのかもしれない。
とはいえ、それほど上手くなる必要はどこにもないだろうとクロエは思った。カルグスタイン城内に潜入するということは、戦いになったとしてもそれは屋内でのことであろう。屋外で戦わざるを得ないとなれば、それは撤退戦になっているはずで短剣を投げるよりも速く足を動かすことが必要な状況になっているとクロエは考えている。
「う〜ん、私が思うにそこまで上手になる必要なんて無いんじゃないですか? この短剣はきっと吸血鬼に対しての切り札として私たちに用意されたんだと思うんです。吸血鬼に近づくのは危険だから投擲用のものになっているだけで、無理に投げて使う必要はないかと思いますよ」
「そうですか?」
「えぇ」
クロエは努めて笑顔を作って言って見せたのだが、マニシュはあまり信じていなさそうである。投擲用の短剣は通常の短剣と違って薄く作られており、鍔が無い長方形の金属板の片方を尖らせて刃を付けただけ、投擲用の短剣というのは数を多くもてるようにするためそのような作りになっているのだ。
頑張れば手にして普通の短剣として使うことも不可能ではないが、不可能でないというだけであって難しいに違いない。なにせ元々が投げることを前提にして設計されているのである、通常の短剣と同じように使うことなど考慮されていないのだ。
「でもこんなもの私にはいらないと思うんですよねぇ、だってこれがあるもの」
言いながらマニシュは背中の両手剣を留め金から外して両手で構えてみせる。流石にこちらは扱いなれている得物ということもあって、短剣の時のようなぎこちない構えではない。
「両手剣だったら吸血鬼だってぶった切れると思うんだけどなぁ……心臓さえ潰せば塵に還る、っていう話聞いたことあるんですよね」
そう言うやいなやマニシュは両手剣を振るってみせる。クロエの方を全く見ていなかったが、視界の中には捉えているのか剣はクロエにかすりもしなかった。剣を振るう時の踏み込みは力強く、両手剣であるため大振りになってしまってはいるが太刀筋は良い。
かなりの鍛錬とそれなりの場数を経験しているのが一目で見て取れた。彼女は円を描くようにしながら剣を振るっていく、演武でもしているのだろうか。辺りを一周するようにして剣を振るいながら彼女は元の立ち位置に戻ると、両手の剣を背中の留め具に固定させた。
「結構なお手前で」
小さく拍手して見せるとマニシュは少し嬉しそうに微笑む。重量のある両手剣ということもあって、彼女の得物が吸血鬼に当たれば真っ二つにすることも不可能ではない、とクロエは思う。
とはいえ吸血鬼と実際に戦った経験など無く、伝承などでしかその存在を知らない。どんな言い伝えであったとしても吸血鬼は人間では手に負えないほどの強靭な力を持っている、という点は共通しておりこれは確かなことなのだろうと思う。ただ、問題は強力とはいえそれがどの程度なのかというところにあった。
クロエが集めたところによれば、テオドラス式魔術が完成されてからは吸血鬼らしき怪物が現れたという話は無い。テオドラス式以前の魔術といえば非常に複雑なものであり、その行使には多大な労力と時間を必要とした。しかしテオドラス式ではそのような面倒は無い、故にテオドラス式魔術が現れる前と後では人間の戦闘力というものは違っているのだ。
案外、吸血鬼という存在は今では弱くなってしまっているのかもしれない。それこそ、そこらへんをうろついている凶暴な肉食獣と同程度に。希望的観測ではあるが、そうならばかなり楽だろう。だがカルグスタイン城から直属騎士が帰ってこなかったというのはほぼ確実に近い情報であり、やはり吸血鬼という存在は一筋縄ではいかないということを証明していた。
マニシュは己の剣技と得物に自信を持っているようだが、それが吸血鬼相手に通用するとは限らない。そしてシャーセルは傭兵が所持しているような武器、つまりは一般に流通しているような武器では吸血鬼に太刀打ちできないと考えている。だからこそ、この特別な短剣を用意したに違いない。
「そのマニシュさんの技を信用していないわけじゃないんですけれども、やっぱり投擲の練習はするべきじゃないかしら?」
「でも一日じゃとても無理ですよ」
マニシュの言っていることは最もだが、一日でもある程度の習得は可能だとクロエは思っている。屋内での戦闘ならば遠くから当てる必要は無く、どれだけ深く突き刺すことが出来るかだと考えているからだ。
正確に当てるのならば技量は必要になろうが、近距離になれば技量はそれほど必要ではない。如何にして力の篭った一撃を打ち出せるか否か、それが問題になってくる。無論、何の経験も無い人間がそれを習得しようと思えば時間が掛かるだろう。しかし、両手剣を振り回すことの出来るマニシュならばそれが可能なはずだ。
「ねぇマニシュさん。どうせ遠くから当てる必要は無いんですもの、それなら深く突き刺すことのできる投げ方を習得しません? それならすぐできますよ」
彼女を信用させるために笑顔で言って見せたのだが、マニシュはといえば半信半疑といったところでどこか疑い深げである。彼女自身、先ほどの一投で己の力量を自覚しているのだろう。
先ほどのものは当たりはした、しかし深くはささっていなかった。近距離ならばマニシュでも充分当てられるという証明にはなっていることであり、要はそこにどのようにして力をいや体重を乗せてやるかというだけなのである。
「マニシュさんは剣を振るう時の力、どこから出してます?」
「どこからって言われてもあんまり意識したことなかったなぁ、けれどやっぱり踏み込みかな」
「正解ですよ、大事なのは足の踏み込みなんです。そこで発生させた力を上半身に伝えてやればいいだけのことですもの、両手剣を使いこなすあなたならそんなことぐらい朝飯前でしょう?」
「両手剣と短剣じゃ違いますよ〜」
首を振って否定する。人間の力のほとんどは足腰から発生する、それを如何にして上体に伝えるかなのだ。マニシュは足の踏み込みによって力が得られることを既に理解している、ならばそこから先は早い。
「まぁ試しに私がやってみますからよく見て置いてください」
シャーセルから渡された短剣を右手に持ち、左足を前に出して右腕を振りかぶる。狙うは的になっている人形、それも印の付いている心臓の部分だがそこに当てるつもりはあれど、正確に打ち込もうとは思わない。
前に出している左足に体重を乗せ、腰を捻って力を上体に伝えると同時に右腕を振り下ろし力の流れを右腕に集中させる。そして適切な時期を見計らって短剣を手放した。
たったそれだけであるが、放たれた短剣は真っ直ぐな軌道で人形に直撃する。印の部分には当たらなかったが、人形の中心に短剣は重たい音を響かせ根元まで深々と刺さった。「ね?」と言いながらマニシュの顔を見ると彼女は目を丸くしている。
「今の私の動き見てました?」
「見てましたけれど、どうやったらあんなに突き刺すことが出来るんですか?」
「何も難しいことはしていませんよ。あなたが知らずの内にしていることを私は意識的に行っただけですから。言葉にするとこうです、踏み込みによって得た力を腰を捻ることによって上体に伝えて、その時に右腕を振り下ろすことで下半身から伝わってきた力が右腕に乗っかるんですよ。その状態で短剣を投げたら、足から得た力は短剣に乗っかって飛んでいく。あなたが剣を振り下ろす時にしているのと動作としてはほぼ変わらないと思いますよ」
「ぜんぜんわかんないです……」
「やってみれば簡単ですよ、さぁさぁ」
無理やりマニシュに短剣を持たせて的の前に立たせる。彼女は疑わしそうにクロエを見ていたが、すぐにやって見るほかは無いと考えを切り替えたのか先ほどのクロエと同じ姿勢を取った。
そして足を踏み込み、剣を振り下ろすのと良く似た動きで彼女は短剣を打ち出す。するとどうだろうか、先ほどのような放物線を描くようなことはなく、真っ直ぐと的へと向かい重たい音を響かせながら短剣は深く人形へと突き刺さった。
この突然の変化にはクロエも流石に驚いたが、何よりも当の本人が一番驚いているらしい。短剣を投げ終えた姿勢のまま固まっている。とりあえずは賞賛しておこうと思い、拍手しようとしたのだが、クロエが手を叩くよりも早く後ろからパチパチと手を鳴らす音がした。
振り返るとそこにシャーセルが立っている。相変わらず狩人にしか見えない服装をしていたが、先ほどまでとは違い腰帯の右側に短剣を幾本も収納している入れ物を留め金を使って付けていた。
「やれやれこんなところに素晴らしい教師がいるとは思わなかったな、私が目を離していたのは僅かな間だというのに当たるかどうかはともかくとして、威力が格段に向上している。クロエ、マニシュに何を教えた?」
「何も特別なことは教えていませんわ、力の流れ、というものを教えただけです。だって彼女、元々出来るんですから。そのことを気付かせてあげただけですわ、でなければこんな短時間であれだけ技量が向上するはずありませんもの」
「それもそうか」
シャーセルはそう返答しながらマニシュへと近づく。彼女は先ほど引っ叩かれたのが利いているのか少しばかり怯えているようであり、目が泳ぎ時々助けを求めるようにクロエへと視線を送ってきた。
もちろんクロエにはマニシュに助け舟を出してやろうなんていうつもりはさらさら無い。そもそも、そんなことをする必要がないのだ。シャーセルがマニシュに近づいてまずしたことといえば、案の定頭を下げることだった。
「すまないなマニシュ、一時の感情に任せて君が女性であるにも関わらず頬を叩いてしまった。全ては私の未熟ゆえ、誠に申し訳ない」
シャーセルの行動を予期していたクロエにとっては驚くに値しない出来事ではあるが、マニシュにとってはそうではないらしい。言葉が出てこないのか、魚のように口をぱくぱくと動かすだけである。その仕草がどことなく微笑ましい。
またもや彼女は視線で助けを求めてくるが、やはりクロエに助ける気は無かった。こんなところで助けるというのもおかしな話である。
「い、いえ……その、あれについては私があまりにも非礼を働いたからであり、ですから、その……シャーセル様がわざわざ謝罪されるようなことではないと思います」
ようやくそれだけ言うとシャーセルは顔を上げた。クロエのいる位置からシャーセルの表情は見えないが、いったい彼はどんな表情をしていたのか。なぜかマニシュは後ろへ一歩下がった。怒る、ということは状況から考えて有り得ないだろうからマニシュが勝手に怖がっているだけなのだろう。
「ならば私を許してくれるというのかねマニシュ・リジアム?」
「で、ですから許すも何も……シャーセル様が怒るのは当然のことだったと思いますし、非は、私にありますから……」
「そうか、ありがたい。実は先ほどの君の投擲を見て、君の意見を受け付けようと思ったのだ」
「私の意見ですか?」
マニシュの言葉にシャーセルは頷いた。
「カルグスタイン城への奇襲は明日にしようと思っていたが、今晩にしよう。実を言うと、私も早く城へと行き友を助けたくて仕方ないのだ」
「そのお気持ちはわかりますが、明日にした方が良いのでは?」
進言したのはクロエである。追加報酬が欲しいから出た言葉ではない、吸血鬼は基本的に夜活動し、昼間は自らの棺桶の中で眠るという。吸血鬼を倒すにしても、その居城から捕らわれ人を助け出すにしても、吸血鬼の本拠に忍び込むのならば活動が衰えている昼間の方が良いと考えてのことだ。
だがシャーセルはクロエの意見を否定する。
「君の意見はもっともだがな、考えてもみたまえクロエ。敵は吸血鬼、そしてそのことを自覚している相手だ。私はミラーカと一度だけではあるが剣を交えた、その時に感じたことは彼女が非常に傲慢な性格をしているということだ。根拠があるのか無いのかそこまで知る由は無いが、とにかく彼女は自信に溢れている」
「そのような英気の満ちた相手に対し、わざわざ敵の舞台の上に立たなくとも良いのでは?」
「だからこそ夜に向かうのだよ。ミラーカは自身の強さを知っている、それに適う者が無いと思い込んでいる。実際、直属それも御三家の人間を一人倒している。今の彼女はまさに意気揚々として自信はたっぷりとあるだろう、だからこそ吸血鬼の本領が発揮できる夜を狙うのだ。彼女からしてみれば我々人間が、あえて不利な夜間に行動を起そうとは考えまい」
「証拠は? 出きるだけ確証が欲しいのですが」
「そんなものは無い。というよりも提示できるものが無い、それだけだ。状況証拠ならいくらでもあるのだがね」シャーセルはそういうと左の腰に刷いている剣の位置を調整した。彼は突入する意思を既に固めているらしい。彼は依頼主でもあるし、吸血鬼からしてみれば人間がわざわざ不利な状況下で攻めてくるとは考えないだろう。
彼の考え方は理に叶っているところがあり、証拠が無いとはいえ筋が通っていた。反論の余地は無い。クロエは彼の考えに納得し「わかりました」と言って頷いてみせたのだが、早く行きたがっていた当の本人であるマニシュはどこか尻込みしてしまっているようだ。
そんな彼女の様子に気付いたシャーセルがマニシュを気にして声を掛けて見せるが、彼女は「大丈夫です」と小さく答えただけでそれ以上は何も言わなかった。不安なところがあるのならば素直に言えば良いのに、とクロエは思うのだが彼女も彼女なりに思うところがあるのだろう。
それに不安といえばクロエも不安を感じている。イロウ=キーグという名の超人的、という言葉を超越するほどの人外の存在と遭遇した経験はあるが、かといって人外に慣れているというわけではない。イロウ=キーグの時は向こうに敵意や悪意といったものが無かったから良かったものの、今回は以前のようになってくれるわけでないのは火を見るよりも明らかだ。
「では、今からどうやって城に侵入するか計画を話そうとしよう」
そうやって前置きしてからシャーセルは二人に彼の計画を話し始めた。
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