黎明 side可符香
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それはとても穏やかで、安らかな一時だった。

自分の体を優しく包み込む温もりに可符香は身を委ねていた。

夢も見ないほどの深い深い眠りの中、しかし可符香の意識はその温もりだけはしっかりと感じ取っていた。

 

可符香はよく夢を見る。

それ自体は何の不思議も無い事である。

ただ、彼女の場合、問題になるのはその頻度だった。

毎晩欠かさず夢を見る、といった程度の話ではない。

一晩に幾度と無く夢を見るのだ。

良い夢も悪い夢も、そのどちらともつかない意味不明な夢も、繰り返し彼女の意識の中に立ち現れては消えていく。

そして、そのほとんどを可符香は覚えていた。

もちろん、一つ一つの夢が持つ意味など知りようもないし、恐らくは詮索しても仕方のないものだろう。

問題は、先ほども言った通り、その頻度・回数だ。

一般に知られるように、夢は眠りの浅い状態、睡眠下で脳の活動が比較的活発な時に見るものである。

可符香の異常な夢見の多さは、すなわち、可符香がほとんど深い眠りを得られていない事を意味していた。

一体、どうしてそんな事になるのか、可符香自身にもわからない。

しかし、それは可符香にその原因の心当たりがないからではなく、心当たりとなる出来事が多すぎて特定できないためであった。

深い眠りを得られないのは、一日を終えて布団の中に入る時でさえ、可符香が心の底から安心できてはいないためだ。

そして、自分の心から安心や安堵といった言葉を奪い去るような経験には、いくらでも心当たりがあった。

 

だけど、今の可符香は深い眠りの中に居た。

それは心の底から自分の全てを委ねる事ができる、そんな存在が今、彼女の隣にいるからだ。

やがて、彼女の意識は深い深い眠りの底から浮かび上がってくる。

目覚める直前、今夜初めて見る夢ともつかないおぼろげな夢の中で、彼女はその名を愛しげに呼んだ。

「…せんせ……」

その言葉に応えるように、彼女を包み込む温もりが、彼女の担任教師・糸色望の腕が彼女の体をきゅっと抱きしめた。

そのくすぐったさに、可符香は子供のような無邪気な表情で笑う。

やがて、窓の外、カーテンの向こうの景色がほんの少しだけ明るくなり始めた頃、彼女はゆっくりと瞼を開けた。

 

寝ぼけ眼のまま、布団の上に体を起こした可符香は薄暗い部屋の中を見回して首を傾げる。

「あれ?……ここ、どこ?」

壁が、窓が、カーテンが、家具が、広さが、空気が、自分の部屋とは違う。

しばしの間考え込む彼女だったが、ふいに聞こえてきた自分以外の人間の寝息でようやく気付く。

「そっか……先生…」

自分と同じ布団の中で、安らかな寝息を立てる望を見て、可符香は昨夜の事を思い出した。

理由もわからない、得体の知れない不安に捕らわれ、どうして良いかわからなくなってしまった可符香。

そんな彼女が頼ったのが、今はすやすやと眠る担任教師だった。

彼は突然に現れた可符香を受け入れ、同じ布団の中で一緒に眠ってくれた。

望の温もりに包まれただけで、可符香は安心して眠る事ができた。

「先生……寝顔、可愛いな…眼鏡つけてないところ見るのも、よく考えたら久しぶりだし……」

言いながら、可符香は熟睡する望の頬をそっと撫でた。

その可符香の手の平の感触に、望が心地よさそうに反応するのが嬉しくて、可符香は何度かその動作を繰り返す。

思えば、こんなに安らいだ眠りと目覚めはどれくらい振りだろう。

彼女にはすっかりお馴染みとなった、断続的に現れる夢に惑わされ続ける眠り。

これだって、よくよく考えれば昔よりはずいぶんとマシになっているのだ。

数年前、まだ可符香が中学校に通っていた頃は、彼女を取り巻いていた厳しい現実をそのまま映し出したかのような悪夢と、

不安に震えながら過ごす眠れない夜の繰り返しだった。

それが、まがりなりにも眠りを得られるようになったのは、望との出会いから始まった2のへでの日々のおかげであると可符香は確信していた。

担任教師・糸色望と、2のへの友人達と過ごす日々は徐々に可符香を変えていった。

先生が、みんなが自分を受け入れてくれている。

その確信が、可符香の心の底にわだかまっていた過去の暗闇を少しずつ晴らしていった。

まあ、そのおかげで、最近では2のへの面々の前でまで、自分の黒い一面を見せてしまうようになったのだけれど。

でも、彼女の友人達はそれさえも平然と可符香の一部として受け入れてくれているようだった。

少しずつ少しずつ、変わっていく自分に喜び、戸惑う日々。

その傍らにはいつだって、望がいてくれた。

臆病で小心、だけど、可符香がどんな無茶をやっても望は彼女を絶対に拒絶しなかった。

情けない顔で文句を言いながら、それでも笑って可符香の行動に付き合ってくれた。

幼い頃から色んな物を失い続けて、何もかもが信じられなくなって、

何もかもを無理矢理信じたように振舞うしかなくなった可符香に、初めて出来た安心できる場所。

それが、この担任教師の隣だった。

「こんな風に眠れたのも、先生のおかげですしね……」

可符香は思い出す。

かつては彼女も何の不安も感じる事なく、安心して眠る事ができた。

その頃、可符香の傍らには大好きなお母さんがいて、彼女が眠りにつくまで色々な絵本を読んで聞かせてくれた。

そんな母親が、彼女の元からいなくなってしまったのは、一体どれくらい前の事だったろう。

『…神様にお縋りするにはね。現世のしがらみを全て捨てなくちゃいけないの……』

母親が家を出て行く前、何度も何度も言い訳のように繰り返し可符香に聞かせた言葉を思い出す。

今頃、母は一体どこで何をしているのだろう?

と、ここで、記憶の海をさまよっていた可符香は、彼女の日課を思い出す。

「あ、そうだ……お祈りしなくちゃ……」

彼女が信じる神様へのお祈りは、欠かすことの無い習慣となっていた。

 

布団のはしっこにひざまづいて、両手を胸の前で組み合わせる。

そして、だんだんと明るくなっていく窓の向こうの東の空に向かって、彼女は祈る。

「………………」

実のところ、彼女はこの習慣を、神様の実在を信じて始めた訳ではない。

かつて、まだ彼女が母親と一緒に暮らしていた頃、彼女の母はエクソシストによる悪魔祓いを受けた事があった。

その頃の母は突然に不可解な言語を喚き散らし、暴れまわるといった事を繰り返していた。

過剰なストレスによって抑圧された母の精神が悲鳴を上げていたのだ。

母はそれら全てを、悪魔の仕業であると確信していた。

相談を受けた母の知人は、腕の良い精神科の医師を紹介し、さらに母の精神状態を安定させるために悪魔祓いを行う事を決めた。

母の妄想の存在である悪魔を、実際にエクソシストによって祓ってもらう事で、母に悪魔はいなくなったのだと安心してもらう。

それが、母の知人の狙いだったのだが………

「すごい……神様って、本当にいるのね………」

悪魔祓いの劇的な経験は、母に神の存在を確信させた。

精神科での治療によって症状が安定し、ようやく元の生活を取り戻し始めた頃、

可符香の家を男女数人ずつのグループが訪れた。

自分達の所属するボランティアグループで、今度、とても面白い講演を企画しているのだと彼らは言った。

テーマは『神の実在と救済・天上における救いについて』

実際のところ、古今東西のさまざまな思想宗教を切り張りし、自分達の教祖を現世に降り立った神そのものであるとする彼らは、

信者の救済よりも、その救いを受けるために信者がどれだけの物を教祖に対して差し出せるかにしか興味はなかったのだが。

しかし、可符香の母は信じた。

母の知人や担当の精神科医、悪魔祓いを行った当のエクソシストまでもが説得したが、彼女の心は動かなかった。

全てを差し出し、全てを捨てれば救われる。

単純で短絡的な教えは、困窮を極める生活と不安定な精神状態に苦しむ母にはあまりに魅力的だった。

そして、母は消えた。

自分一人が救済されるために、可符香を捨てたのだ。

可符香は泣いた。

泣いて泣いて泣き続けて、母親を求めて泣きじゃくって、そしてそこで初めて両手を組んでどこにいるともしれない神様に向かって祈りを捧げた。

それは、あまりに子供染みた考えだった。

可符香の考えはこうだった。

自分が祈る神様は、お母さんが信じる神様とは全く別の神様だ。

神様は一人だけと決まっているのだから、もし自分の祈りが届けば、お母さんの神様は偽物という事になる。

神様が偽物ならば、きっといつかお母さんは戻ってくるはずだ。

可符香の神様は、ただ母の信じる神を否定するために作られたつくりものの神様だった。

可符香は来る日も来る日も祈り続けた。

ささやかな幸せを、家族との団欒を、もう一度母と過ごしたいという願いを、可符香はつくりものの神様に祈った。

一年、二年と時間が過ぎても、可符香はそれをやめようとはしなかった。

つくりものの神様を心底から信じていたわけではなかったけれど、

母を連れ去った神への挑戦をやめれば、母親と自分の間の最後の絆までが断ち切られるような気がして恐ろしかったのだ。

だけど、何かに追い立てられるように祈り続ける日々の中で、可符香はある疑問を抱いた。

神様って、一体なんだろう?

全知全能にして善なる存在である筈の神様がお作りになったこの世界は、こんなにも理不尽と不幸に塗れている。

なんてのは、まあ、大昔から考えられてきた定番の疑問だ。

先人達が頭を悩ませたのと同じく、可符香も考え続けた。

だけど、結論どころか、答えに近付く足がかりさえ得られなかった。

理不尽なこの世界の意味も、母親を取り戻す方法も何もわからず、それでもがむしゃらに可符香は祈り続けるしかなかった。

だけど………

『死んだらどーするっ!!!!』

満開の桜の下で、あの人と出会った。

あの日から、何かが変わった。

大好きな先生と、気の置けない仲間達、その中で心の底から笑えたとき、ふと思ったのだ。

祈ってみたい、と。

今の自分を成り立たせている全てのものに、祈りたい。

良い事も悪い事もひっくるめた、自分を取り巻く世界の全て、そういうものに対して祈ってみたいと、可符香は思った。

いつかまた、手痛い不幸で可符香を叩きのめすかもしれないこの世界を、それでも今の可符香は好きだと言えるような気がした。

自分がこの世界を好きになっている事に、可符香は気がついた。

可符香は、自分の神様を見つけた。

「………………」

だから、可符香は両手を組み合わせて、ただ無心に祈る。

たぶん、世界に意味なんてなくて、不幸と理不尽もいつまでも消えてなくならない。

だけど、この世界は可符香と絶望教室の面々を、そして最愛の担任教師とをめぐり合わせてくれた。

いい事も悪い事もひっくるめて、今の可符香が可符香でいられる全てを与えてくれた。

今の可符香は、その全てを肯定できるような気がしていた。

それは多分、可符香が自分を好きになれた事と同じ意味なのだろう。

可符香は祈る。

あらゆる出会いと、日々の思い出に最大限の感謝を込めて。

そして、心の真ん中にいつだっている、あの眼鏡のレンズの向こうの優しい眼差しを思いながら、祈る。

そのまま、可符香が祈り続けてどれくらいの時間が経っただろう。

「あ……」

不意に自分を包み込んだ温もりに、可符香は声を上げた。

「先生……?」

組み合わせた可符香の両手を包み込む、見覚えのある細く繊細な指先。

可符香は、望が自分と一緒に祈ってくれているのだと理解した。

手の平から伝わる温かさが、望の心が嬉しくて、可符香はもう一度愛おしげに彼に呼びかける。

それ以上の言葉は無く、ただ伝え合う温もりに最愛の人の存在を感じながら、可符香は祈る。

「先生………」

やがて、お祈りを終えてそのまま望のいる方に体を傾けた可符香を、彼はそっと受け止め、優しく抱きしめてくれた。

可符香も身を捩り、体勢を変えて望の背中に手を伸ばし、きゅっと抱きしめる。

暗闇の中、何をすればいいのかもわからず震えていた自分を受け入れてくれた人。

共に過ごす毎日の喜びを分かち合ってくれる人。

大好きな、本当に大好きな、私の先生。

あなたがいてくれたから、きっと、私の世界は色を変えた。

いつかまた不幸の大波に飲み込まれ、全てを失う時が来たとしても、

今あなたといられるこの瞬間があるから、私はきっと生きていけるんです。

 

窓から差し込む眩しい朝日を背後に感じながら、可符香は望の温もりにその身を委ね続けたのだった。

 

説明
さよなら絶望先生の可符香と先生のとある夜のお話、その2です。
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