あーちゃん だいすき |
あーちゃん だいすき
それと、はじめて会ったのは、いつだっただろう。
まぶしい、日のひかりが、木々の間をぬけて差し込んでくる。
神社の、朱の社殿が、ひかりをうけて、色をます。
飾り金具が、かがやいていた。
その中の、ぽっかりとできた、くらい暗闇に、それは立っていた。
ただ、じっと、敦子を見ていた。
ほのかに、色をましていく朝焼けのそらが、少しだけ、ひかりをくれた。
肌寒い朝の空気に身をさらしながら、敦子は、たたずんでいた。
単身赴任になった敦子の父が、車に乗りこむ。
たたきつつけるようにしめた、車のドアの音が響く。
敦子は、黙ってそれをみていた。
車のドアの閉まるはげしい音に、敦子の体が、ふるえる。
でも、ドア越しにみえる父親の姿を見ていると、敦子はかんじるのだ。
なぜだか、少しだけ、安堵感を。
見送りにでた敦子を、敦子の母が抱きしめてくれた。
敦子の母も、引っ越しの手伝いについていく。
「あーちゃん。ひとりで、大丈夫?」
敦子は、笑顔をつくってうなずいた。
「そっ」
敦子は、そのときの母の笑顔を忘れない。
なんだか、とてもさびしい、笑顔だった。
なにかを、訴えるような、笑顔だった。
大学受験のためという理由で、敦子は、ひとりで留守番をすることになっ
た。
「おい。いくぞ」
敦子の父のこえがした。
車を発進させた。
敦子の母は、敦子をみていた。
手を、ふっていた。
それが、両親をみた最後になった。
敦子は、ひとりになった家を、見まわした。
窓からひかりが差し込んでいるはずなのに、なぜだか薄暗い、家の中。
窓から差し込んだ日の光が、一筋の、ひかりにしかならなかった。
ただ、ひかりだけが、室内に、明と暗の、コントラストをつくっていた。
突然に両親はいなくなった。
交通事故だった。
隣町にすむ、敦子の祖母がきてくれた。
葬式がおわってからの一週間、敦子の祖母は、敦子の家にいてくれた。
敦子の祖母が帰る日。
「あーちゃん。うちに来たら。いっしょに住んだらいいのに」
敦子の祖母は、そう言った。
でも、敦子は、大学受験のためという理由で、それを断った。
敦子の祖母は、自分の家に帰っていった。
そして、敦子は、本当にひとりになった。
さびしいという思いは、なかった。
本当に、落ち着いていた。
体から力がぬけた感じだった。
何かが、抜けおちたようだった。
敦子は、部屋の中を見まわした。
ただ、静かなだけの部屋の中。
日のひかりだけが、部屋の中にあった。
窓から差し込んだ光が、床をてらしている。
舞い上がったほこりが、きらきらと、ひかって見えた。
そこにだけに、ひかりがあるのを教えているようだった。
敦子は、光の当たらない、部屋の入り口で、それをみいてた。
部屋の中にある、日差しを受けて、輝く床と、日の当たらない、暗闇の隅。
暗闇が、やたらと、黒く沈んでいた。
ただ、くらい暗闇だけが、部屋の隅をそめていた。
そして、その暗闇の中に、着物を着た子どもがたっていた。
おかっぱ頭に紺色の麻の着物を着た、小さな子ども。
ただ、無表情で、ただ、じっと、敦子を見つめていた。
敦子は、それに気がついた。
怖くはなかった。
「まだ。いたの」
敦子は、それに声をかけた。
それの返事は、なかった。
はじめて、それをみたのは、敦子がまだ小学3年の頃だった。
家の中に、敦子の父親の怒号が響いた。
ガラスが割れ、倒れたものが、床を打ち鳴らす。
蹴り飛ばされて、敦子の体が、飛ぶ。
床に、ころがる。
つまる、息。
引きつる、体。
でも、倒れていたら。
さらに、足で、蹴られる。
分かっていたから。
敦子は、体を引きずり、自分の部屋に転がり込む。
敦子の母の、悲鳴。
何かの割れる音。
敦子には、どうすることもできない。
敦子の、日常。
敦子の母が、敦子の横に倒れ込む。
必死に、ドアを、閉める。
何かの割れる音。
怒鳴り声。
目の前からいなくなれば、見えなくなれば、なにもされない。
それが、分かっていたから。
敦子も、敦子の母も、真っ暗な敦子の部屋の中で、耳をふさいだ。
ただ、体を震わせるしかなかった。
おそってくる、恐怖。
見えなくなれば、大丈夫…。
そのことだけを、必死に、唱えていた。
敦子の記憶が始まるときから、続いている日常。
逃げ方は、敦子の母が、教えてくれた。
はじめは、小さい敦子を母が抱えて、外に逃げ出した。
敦子の母が、助けてくれていた。
でも、敦子が大きくなるにつれて、おそってくる痛みは、敦子の父は、歯止
めがなくなった。
敦子が、はなすことが、気に入らなかったのかも、しれない。
「にげなさい」
敦子の母の目が、訴える。
敦子は、自分の部屋に、逃げ込んだ。
それから、ずっと、つづいている。
敦子は、これが、せかいなのだと、思っていた。
どこも、そうなのだと。
でも、小学校の同級生の家は、ちがった。
めぐまれた、日常が、あることを知った。
だんだん、家に、帰りたくなくなった。
寄り道をするようになった。
行くのは、近所の小さな神社だった。
そこには、だれも、いないから。
敦子は、くらくなるまで、そこにいた。
日のひかりが、鎮守の森の、木々の間から差しこんでくる。
神社の、朱の社殿が、そのひかりにてらされて、きれいだった。
敦子は、社殿の階段に、いつも、すわっていた。
なぜだか、そこには、日のひかりの指さない、くらい暗闇があった。
敦子は、そのくらい暗闇を、見つめていた。
時間がたつのも忘れて、見つめていた。
そして、そのくらい暗闇に、はなすようになった。
いつの間にか、自分のことを、はなしていた。
痛み。
恐怖。
終わりのない、自問自答。
そして、気がついたときには、それが、そこにたっていた。
おかっぱ頭に紺色の麻の着物を着た、小さな子ども。
無表情な顔で、敦子の顔を見ていた。
だまって、話を聞いてくれた。
いつの頃だろう。
敦子の父親が、敦子の帰りが遅いと文句をいった。
敦子の父親は、自分の気に入らないことがあると…。
痛み。
恐怖。
敦子は、仕方なく、まっすぐ家に帰った。
そして、自分の部屋にこもった。
電気もつけず、真っ黒な部屋の暗闇に、話しかけると。
それは、いてくれた。
おかっぱ頭に紺色の麻の着物を着た、小さな子ども。
無表情で、敦子をみて、だまって話を聞いてくれた。
それが、暗闇の中に、たっていた。
「ずっと、いたの?」
敦子は、またそれに声をかけた。
返事はなかった。
敦子は、いつも、暗闇のそれに、話しかけていた。
でも、大きくなるにつれて、しなくなった。
だんだんと、分かってきた。
はなしても、かわらない。
思いえがくものも、こない。
どうしようも、ない。
だんだんと、それは、見えなくなった。
そして、いつの間にか、それが居るのかも分からなくなった。
今、また、目の前にたっている、それ。
敦子を、それは、じっと見ていた。
窓から差し込む、明るい日差し。
窓の外は、普通の人の日常がすぎているのだろう。
歩いている人の、楽しげな笑い声がひびく。
まるで、差しこむ暖かい光のように、楽しげな笑い声。
しんと静まりかえった、室内に、かすかに差し込むひかりのように、その声
が響いていた。
窓から差しこむ、日のひかり。
部屋全体は、てらしてくれない。
一条のひかりの痕のように、そこに、ある。
日をうけない、部屋の隅。
くらい暗闇から、それが、無表情に敦子をみている。
突然、それが、ささやいた。
「あーちゃん。だいすき」
敦子がはじめて聞く、それの声。
「あーちゃん。だいすき」
再び、それがささやいた。
敦子は、それを、ただ、みていた。
敦子は、ひとりで食事をつくり洗濯をして、高校にいった。
そして、敦子のそばには、いつもそれがいた。
敦子以外の人には、見えない、それ。
昔、いつの間にかいなくなった、それ。
なんで、いなくなったのか。
わからない。
敦子が、話しかけなくなったからなのか。
でも、もう、話しかけても。
分かってしまったから。
どうすることも、できないのだと。
どんなに望んで、話をしても。
どんなに夢見て、話をしても。
敦子の、せかいは、かわらない。
敦子の、せかいに、あるもの。
敦子の、日常。
痛み。
恐怖。
それは、おそってくる。
どうにも、ならない。
考えれば、考えるほど、いきづまる。
くるしくなる。
首の後ろから。肩口から。
その、真っ黒の、鉛色の、濁った、得体の知れない、まとわりついてくるも
のが、しみこみ、胸の中のこころを、押さえつけるように、締め付けるよう
に、にぎりつぶすように。内側を、壊していく。
そのものから、にげたくて。
そのものから、のがれたくて。
ただ、目をつむる。
ちがうと。
なかったことにしたいのに。
いくら、振り払おうとしても、いくら、みないようにしても。
ただ、押さえつけ、締めつける。
くるしさに。ただ、すりつぶされ、たたき込められ。
泣いて、顔をふり、泣いて、うずくまる。
みないように。なくなれと…。
目の前の、それは。でも、そこに。
瞳の奥に、張りつくように。
…イヤダ…。
…タスケテ…。
そのものは、ひたすら、わき上がる。
逃れることが、できないなら。
こんなに、くるしいなら。
キエテ、ナクナリタイ。
キエテ、シマエバイインダ。
自分のこころが、それを。
…ダメだ…。ダメだ、イヤだ!
どこかに、あってほしいものに。
ないのに。そんなものは。ないのに、すがって。
…これさえ、なくなれば…。
こころのどこかに、まだ、そんな声が、小さく、響く。
どんなに、引きむしろうと。
そのものも、自分も、ここの中に。
どうしようも。どうしようも…。
でき…ない。
逃れる先はないのに…。逃れたい。
それではない、なにかを。
それで、埋めてしまえ。
気がつくと、敦子は、自分の腕をつねっていた。
敦子は、自分の腕を、ひたすら、強く、つねっていた。
痛みは、感じるのに、敦子には、痛みとは、ちがういたみ。
ドス黒い、青あざが、敦子の腕にうかぶ。
とまら…ない。
どうするなんて、自分には、ないんだ。
敦子の両腕には、無数の、青あざができていた。
その日から、敦子は、長袖シャツしか着られなくなった。
人に見せられない自分の内側のように、無数にできた青あざを、長袖の下に
隠すしかなかった。
そして、毎日が、過ぎた。
それが、敦子の、日常だった。
敦子が中学生になると、だんだん、痛みも恐怖も、少なくなった。
敦子が、父親と、おなじ背丈になったからかもしれない。
痛み。
恐怖。
それは、なくなってきても。
父親を、みるたび。
敦子のなかに、それは、どうしようもなく、いつづける。
皮膚の下に、内側に、どんどんと。
どうするなんて、ない。
敦子の、両腕の無数の青アザは、数を増していった。
敦子が、ひとりで生活をするようになって、1ヶ月が過ぎた。
あの日以来、それは、いつも、敦子のそばにいた。
おかっぱ頭に紺色の麻の着物を着た、小さな子ども。
じっと、敦子を見つめていた。
そして、ときどき、それはささやいた。
「あーちゃん。だいすき」
敦子の祖母は、ときどき、心配して電話をかけてくれた。
「あーちゃん、無理しないでいいから。いっしょに住んだら」
そのたびに、敦子の祖母は、そういってくれた。
でも、敦子は、なぜだか、その言葉に、うなずくことができなかった。
「だいじょうぶだよ。ありがとう」
いつも、そういってしまう。
人気のない、部屋の中。
いつも、日のひかりが、差し込むだけ。
窓からさす、日のひかりに、てらされた場所だけは、明るかった。
敦子は、学校から帰ると、くらい家の中を見まわした。
暗闇につつまれたような、部屋。
ただ、日のひかりが、あるだけ。
外は、明るいのに。
日のひかりは、窓から、さしているのに。
どうしても、暗闇ができてしまう、室内。
電気をつければ、明るくなる。
電気をつけた部屋だけは、明るくなる。
でも、その明るさは、日のひかりがさす、あの明るさとは、ちがう。
やわらかな、日だまりの、やさしさ。
そこにいると、あたたかい、日だまり。
この家には、それはない。
敦子は、部屋の中を見ていた。
それは、敦子のそばに、たっていた。
それが、ささやいた。
「あーちゃん。だいすき」
ふいに、敦子は、それに目をむけた。
それは、無表情で敦子をみつめている。
「あなたは、だれ」
敦子は、それに、話しかけた。
「あーちゃん。だいすき」
「なんか、みてると、座敷童みたい」
「あーちゃん。だいすき」
「ねぇっ。座敷童って、しあわせをくれるんでしょう」
「あーちゃん。だいすき」
それは、ただ、おなじ言葉を、ささやくだけだった。
「わたし…。わかんないよ!」
敦子の目から、なみだが、こぼれ落ちた。
敦子は、顔をおおった。
しゃがみ込んだ。
それは、敦子のそばに、たっていた。
敦子の、なき声が、誰もいない部屋にひびいていた。
その日は、夕方から、急に雨が降りだした。
敦子は、学校にかさを持ってきてなかった。
高校の玄関で、敦子はどうしようもなく、空を見あげていた。
日のひかりは、あつい雲のむこうに、きえていた。
薄暗い、そらが、あるだけだった。
雨は、どんどん、強くなっていく。
同級生たちの中にも、かさを持ってきてない子はいた。
高校の玄関で、みんな、雨がやむのを待っていた。
道路の向こうから、こちらをてらすように、ひかりが近づいてくる。
車のヘッドライトの光が、近づいてくる。
1台の車が、高校の玄関の前に、とまった。
名前も知らない、誰かが、車に、乗り込む。
車のヘッドライトが、向こう側をてらして、走り去る。
また、もう1台の、車のヘッドライトが、近づいてくる。
ひかりが、一条のみちのように、雨の中をてらしている。
また、だれかが、帰っていく。
ひとり、ひとりと、家の車が迎えにきて帰っていく。
そのたびに、車のヘッドライトが、こちらをてらし、また、去っていく。
敦子にむかってくる、ヘッドライトのひかりは、ない。
太陽が、山の向こうに、きえた。
空が、暗闇にかわっていく。
日のひかりさえ、もう、ここには、ない。
最後は、敦子が、ひとりになった。
敦子の家には、もう誰もいない。
目の前のコンビニにいけば、かさが売ってある。
走れば、たいして、ぬれない。
でも、敦子は、走りだせなかった。
くらい夕闇にうかぶ、コンビニのあかりが、ひどく、遠かった。
敦子は、雨の中を、歩きだした。
ただ、ずぶ濡れになりながら、家に向かっていった。
敦子が家の玄関をあけると、ただ、くらい暗闇の部屋が、まつだけだった。
なぜだか、いつもそばにいた、それの姿もなかった。
ただ、寒かった。
ただ、寒さで体の震えがとまらなかった。
部屋の中は、暗闇が、つづいていた。
もう、日が暮れて、日のひかりは、ない。
ここに、窓からさす、ひかりは、ないんだ。
敦子は、ぬれたまま、玄関をあがった。
そして、その場に、座りこんだ。
ただ、寒かった。
早く着替えないと、カゼをひいてしまう。
そんなことは、分かっていた。
ただ、寒かった。
でも、体が、動かない。
ただ、寒かった。
その場で、震えていた。
そして、その場に、倒れこんだ。
どのくらい、時間がたったのだろう。
敦子は、目をさました。
くらい暗闇のなかに、敦子はいた。
床に倒れているのは、わかった。
でも、ひかりがない、この暗闇では、なにも見えなかった。
頭が、ひどく痛んだ。
額に手をやると、ものすごい熱だった。
もう、動くことも、できなかった。
敦子の視線の先に、それがいた。
くらい暗闇のなかに、それが、たっていた。
おかっぱ頭に紺色の麻の着物を着た、子ども。
細い目で、じっと、敦子を見ていた。
「あーちゃん。だいすき」
それは、敦子の携帯電話を持って、たっていた。
「あーちゃん。だいすき」
それが、敦子を、見つめていた。
「あーちゃん。だいすき」
それは、敦子の携帯電話を、耳にあてた。
「ダメ!」
敦子は、こころの中で、さけんだ。
それを言っては、ダメだ。
それを、言ったら。
それを、知られたら。
ずっと、ずっと、隠していた、どす黒い青あざが。
ずっと、隠して。
ずっと、耐えて。
わたしには、それしかないんだと。
そんな日々が、ずっと、つづくからと。
のぞんでは、いけないのだと。
ないんだと、あきらめないと。
あきらめないと。
わたしは、生きていけないんだと。
そうやって、隠して、耐えて、目をつむり、苦痛を、恐怖を、これが日常だ
と、自分にはこれしかないんだと、こんな、どうしようもない、現実を、受け
入れるしか。わたしには。生きる場所は!ないんだと!
そうやって、生きてきた、わたしの。
わたしの、こころが、きえてしまう。
なくなって、しまう。
ここにいいれば。いつかは。
そう想って、こころの、奥底で、かすかに、輝いていたひかりが。
なくなってしまう。
イヤだ!
敦子は、必死に、こころの中でさけんでいた。
それは、ただ、無表情に敦子を見つめていた。
そして、静かに、うなずいた。
それは、携帯電話を、耳にあてて、ささやいた。
「…タスケテ…」
電話の向こうから、敦子の祖母の声がした。
「どうしたの。あーちゃん、何があったの」
敦子の祖母は、すぐに、助けにきてくれた。
敦子の家にくると、敦子の祖母は救急車をよんだ。
それは、ただ、そばに、たっていた。
救急車が来ると、敦子はストレッチャーにのせられた。
それは、ただ、黙ってみていた。
敦子をのせたストレッチャーが、玄関に向かった。
それは、その場に、たったままだった。
敦子は、それに、さけぼうとした。
…あなたがそばにいてくれたから、わたしは生きて…
…あなたがそばにいてくれたから、わたしは泪の夜を、生きぬけて…
…あなたがそばにいてくれたから、わたしは、朝の光がくることを…
…わたしは。痛みや、恐怖の、なかでも…
…信じることができたんだ!
敦子は、必死に、手をのばそうとした。
でも、体が固定されて動けない。
それは、敦子を見つめていた。
そして、静かにささやいた。
「あーちゃん。だいすき」
そのとき、敦子は、わかった。
言って、ほしかったのだと。
その言葉を、言って、ほしかったのだと。
ずっと、まっていた。
だれでもいい、だれでもいいんだ。
その言葉を、誰かがいっくれたら。
敦子は。
こんなに。こんなに!
自分を責めて。
まわりをうらやんで。
憎んで。
キエテ、シマイタイト。
くるしまずに。
いたみに、くるしみに。
いつも、敦子は、両親をみていた。
どんな、痛みも、恐怖も、それが、そこにあっても。
いつか、かわるんじゃないか。
いつか、自分にも、普通が、やってくるんじゃないか。
いつか、自分も、両親から、言ってもらえるんじゃないかと。
遠い記憶の彼方にかすかにある、両親が笑っていってくれた言葉。
「あーちゃん、だいすき」
その日常が、本当は。
ほしくて、たまらなかったんだ!
敦子は、必死に、玄関をみつめた。
玄関の奥は、くらい暗闇だった。
そこに、それは、立っていた。
じっと、敦子を見つめていた。
それが、すっと、敦子を指さした。
かすかに、微笑みながら…。
玄関が、玄関の扉が、音をたてて閉まっていった。
あの日以来、敦子が、それを見ることはなかった。
敦子は、敦子の祖母の家に引きとられ、そこから高校に通うことになった。
敦子が高校にいくために玄関をでようとすると、敦子の祖母が声をかけてき
た。
「あーちゃん。大好きな、おばあちゃんがいるから、もう大丈夫だよ」
敦子は、うなずいた。
祖母に背をむけて、玄関をでた。
そして、小さな声でささやいた。
「ちがうよ。あの子は、あーちゃん、だいすきって、いってくれたよ」
敦子は、扉をしめて走りだした。
敦子には、なにが幸せなんか、そんなことは、分からない!
でも、あの子は「あーちゃん。だいすき」って、いってくれた。
敦子を、敦子のこころを、いつも助けてくれた。
なぜだか、もう会えないのは分かっていた。
「ありがとう」といえる日は来ないだろう。
でも、あの子は、笑っていた。
敦子を、指さして…。
敦子のむかう未来に、この先が、かならずあると、まるで、それを指さすよ
うに。
しあわせなんて、ない。
でも、明日があるなら。
あの子の指さす、明日があるのなら。
敦子は、そこに、しあわせを、見つけたい。
それが、あの子に。
あの子の思いに答えられる、唯一の方法なんだ。
敦子は、あふれそうになるなみだを、必死にこらえた。
敦子は、前を、見すえた。
だから、敦子は…。
敦子は学校へ続く道を、まっすぐに走っていった。
振りかえらずに。
まっすぐに…。
そこに、むかって…。
日のひかりがつくる、くらい暗闇。
その見つめる先に、あるはずの、ひかりのもとへ…。
説明 | ||
痛み、恐怖、日常。敦子のそばに、それは立っていた。 それは、いった。「あーちゃん、だいすき」と。 |
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