別離 14.戦雲 |
「こうめ、それは違う」
「違わぬ!」
男の声を遮るように、こうめが声を荒げる。
感情が溢れる。彼に嫌われたいわけでは無いのに、いや、寧ろ好きだからこそ、己が許せないのかもしれない。
「……何で自分を責める?」
何故?
それが明確に言えるなら、こんなに苦しくなる事も無いだろう。
「そうじゃな……」
ほろ苦い笑みを浮かべて、こうめは手にした酒を呷った。
美味しいと思った事の無い飲み物だが、今日のそれは、一際苦く。
ただ、かすかに喉を焼く感じと熱だけが、妙に今の気分に合っては居た。
「わしが、ここに来てからの事……その全て」
「……」
無言の男を寂しげに見て、こうめは言葉を継いだ。
「お主を不幸せにしただけの、わしの十年」
「本気で言ってるのか?」
「本気じゃとも」
言い募る内に、こうめには何となく判った。
これは必要な事。
自分に、そして何より彼に。
「逆に聞きたい……お主は幸せじゃったか?」
闘いに明け暮れた。
何度も死にかけた。
人の嫌な部分を見せつけられた。
辛い別れを何度もした。
そして今。
「式姫の一人として居らぬ、この広い庭に一人残らねばならぬ……お主は幸せなのか?」
今度こそ、本当に静寂の訪れた庭に、澄んだ月の銀光を背に、建御雷が上空からふわりと舞い降りる。
「ありがとよ、助かった」
「別に……君の式姫として当たり前の事をしたまでさ」
建御雷が大した事でも無いように、肩を竦める。
「建御雷殿、だが、わしからの礼は言わせてくれ」
こうめの目に涙が浮かぶ。
おじいちゃんの敵を。
声にならない、その口の動きと表情を見た建御雷の表情が、僅かに曇った。
「君は……そうだったのか」
頭を振るこうめの目から、涙が零れる。
「ありがとう」
こうめの後ろで、狛犬に肩を貸した小烏丸が。
顔を背けあいながらも、互いに肩を貸して立つ悪鬼と天狗が。
天女に支えられて白兎が。
各々が、らしい表情を浮かべながら深々と頭を下げた。
そんな彼らを見る建御雷の瞳が、一瞬だけ悲しそうに細められる。
「礼は良い……まだ終わって無いからね」
その言葉その物より、建御雷の言葉に篭められた不吉な響きに、式姫達は顔を上げた。
「どういう……事ですの?」
天狗の声が緊張を孕む。
「寧ろ、これが始まりなんだ、君たちの戦いの」
建御雷の淡々とした言葉。
煌々たる明月を背に、その表情は良く判らない。
「私たちの、戦い?」
私たちの旧主を含む、討伐隊が、中央から命じられた戦いは、この地に現れ、殺戮の限りを尽くしていたあの妖狐を倒す事。
あの大妖が倒れた今、自分たちの戦いは終わった……その筈なのに。
「悪い……全部俺のせいだ」
混乱する式姫達に、それまで静かに傍らに立っていた男が口を開いた。
「ししょーのせい?」
「どーいう事ッス?」
「違う、それはわしの……」
「君らのせいじゃ無いさ」
建御雷の言葉が、男とこうめが何か言う前にそれを遮る。
「不幸な巡り合わせだっただけ、いや……いつかは必要な事が、今訪れたのかも知れない」
皮肉な物だ……本当に。
「説明して頂けますか?」
事情を知っていると思しき建御雷と主、そして旧主の孫娘を順番に見てから、真っ直ぐに、澄んだ瞳をこちらに向けた、刀の付喪神の少女に、建御雷は頷いた。
「勿論さ、ただ、あまり時が……」
その時、大地が大きく揺らいだ。
「きゃ……」
「こうめ!」
よろけたこうめを支えながら、あまりに強い鳴動に男も立っていられず膝を突く。
傷は天女に治癒して貰ったとは言え、消耗の極みに達している為か、式姫達も大地に手を突き、それ以上動けない。
「何ですの、この地震は!」
おかしい……こんなに唐突で激甚なそれは、自然な大地の活動ではあり得ない。
「やはり千載一遇の好機を逃してくれるほど、あいつは甘くないか……」
一人、巍然として揺らぐ大地に立っていた建御雷が低く唸った。
「建御雷」
何か言いかけた男に、彼女は皮肉っぽい笑みを返した。
「面倒な説明は君に頼むよ……ボクは行かなきゃ」
軽く地を蹴った建御雷の体が、雷光のそれのように夜空を切り裂き舞い上がる。
「……ここまで力を取り戻して居たか」
空からは、広い範囲に渡り、大地が不気味な瘤のように盛り上がり、うねる様がはっきり見えた。
「姉様達や思兼は気が付いて無いのか」
いや、気が付いていない訳が無い、ただ神々というのは、そう気楽に動ける物で無いのもまた事実。
「ええ、腰の重い……結局またボクの貧乏クジか」
忌々しげな呟きを、だが、それ以上は口中に封じて、建御雷は手にした十握剣に力を込めた。
目映い雷光が、夜の空を真昼のように照らす。
先ほどの妖狐を引き裂いた光とは比較にならないほどの力……だが。
(やっぱり、足りないか)
長きにわたり封印の要となっていた消耗、そして。
「あの男、大した力だけど……まだ未熟」
かっての神霊たる我が身ならば……。
「泣き言を言うな……お前は軍神、建御雷だろ」
自身を叱咤しながら、建御雷は更なる力をその剣に篭めだした。
「まさか、地龍が目覚めた?」
天女の声が震えを帯びる。
手を突いた大地から、あの大樹と繋がった時に感じた、大地の底深くに押さえ込まれていた、強大でどす黒い力が溢れ出すのを感じる。
「天女ちゃん、大丈夫?」
我知らず震えていたのだろう、その手を白兎が優しく包み込んでくれていた。
「え……ええ」
カチカチと鳴りそうになる歯を無理に押さえ込んで、天女はいつものように穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「私は大丈夫」
大丈夫……。
「ちりゅー? 何だそりゃ」
「地龍も知りませんの!」
「しらねーからそう言ってんだ、判ってるなら説明しやがれアホ烏!」
「馬鹿に理解出来るまで、知識をかみ砕く苦労も考えなさいな、バカ悪鬼!」
「人に説明できねーなら、んな物は知ってるとはいわねーんだよ!」
「こ……んのバカのくせに減らず口だけは……」
「地龍とは地脈を通る、眠れる力の顕現、故に目覚める時に起こすその身じろぎが地震を起こす……で正しいですか?」
自信なさげにそう口にした小烏丸の言葉を、天女が首肯する。
「ええ……ですが本来はこんなに凶暴な筈は無いのです」
「コイツは建御雷が封じてた悪しき気に染まった龍……だそうだ」
男がこうめを庇いながら式姫達に目を向けた。
「俺の祖父が、あの大樹を通じて、人の悪しき気をせっせと注ぎ込んで育て、覚醒させた……」
「お兄ちゃんの、おじいちゃん?」
「ああ……俺の」
やつれきった両親の顔が鮮明に浮かぶ。
……その罪を子孫に残して、野心に飲まれ、その果てにくたばった、ツラも知らない。
だが、紛れもない、俺の。
「祖父のした事」
……だからあの時この男は自分の責任などと言ったのか。
だが、それは違うだろう。
「でも、それは、貴方の祖父殿のした事でしょう? ならば貴方の責任では」
天狗の言葉に篭められた、僅かだが気遣う響きに、男はほろ苦い笑みを浮かべた。
「育てたのは爺さん」
上空で目映い光を放つ建御雷に目を向けたまま。
「だが、今までそいつを押さえ込んでた建御雷を、俺が式姫としてしまった故に、今、その封印が解けた」
「……あ」
天女や天狗、そして小烏丸の表情に理解の色が浮かぶ。
式姫の術は、依り代に力と神霊を集めて、この世界に実体を結ばせる術。
人から見れば、如何に式姫の力が強大無比な物ではあっても、それは自然の神霊とは異なり、主の扱える力の範囲の存在でしか無い。
神霊、建御雷の強大な力故に、地龍という大いなる自然の力を押さえ込めていた……だが、人にそんな力が有るはずも無く。
「これは……俺含めて一族の責任だ」
「お主では無い、建御雷様を式姫にしようなどと思いついた、全てわしの短慮が!」
言い募ろうとするこうめの顔を静かに見て、男はキッパリと首を横に振った。
「俺が背負うべき話だ」
祖父は憎い……有る意味で言えば、俺だって被害者かもしれん。
だが、それを免罪に、俺が逃げるのは間違っている。
まして、こうめは俺の祖父のせいで祖父を失ったような物。
俺が今逃げたら、この子はどうなる……。
そんな真似、出来るか
男は空を見上げた。
空には月。
そして、それより尚、目映く輝く雷光の化身。
「……すまん」
(もっと……もっと力を)
手にした十握剣から、溢れ出す力が紫電となって周囲の空気を焦がす。
だが建御雷の焦る気持ちと裏腹に、もうこれ以上の力は、式姫としての彼女の内には残っていなかった。
足りるのか。
この力で奴を貫けるのか。
よし、貫けたとして……後事を託したあの男は、本当にやり遂げてくれるのだろうか。
ボクは……。
産まれて初めて感じた不安という感情の行き場を探すように、眼下に視線を彷徨わせる。
「あ……」
こちらを見上げる彼の目と、彷徨う視線が触れた。
「あの目」
あの時と同じ、静かだが、強く、弛まない意思を秘めた。
(俺は、俺の出来る事をやってみようと思います)
あの男の曾祖父が、気負い無く口にした言葉が聞こえた……そんな気がした。
「そうだよな」
今やるべき事を知り、今、己にできる事を知るならば。
「あいつは、やり遂げたものな」
手にした十握剣を握りしめる。
「なら、ボクは……ボクのやるべき事を」
迷いは退く。
大きく息を吸い、そして吐く。
世界を巡る気を体に入れ、そして世界に戻す。
あいつや、こうめという少女、式姫達と同じ世界の気。
世界に屹立するのでは無く、巡る大いなる力の、その一部である事を、素直に感じる。
「……弱いのも、時には悪く無いな」
不気味に蠢く大地の一点に狙いを定める。
瘴気に染まり、狂い果てし龍王。
建御雷の気を感じたのか、それは大きく首をもたげた。
黄泉の黄龍。
「後は頼むよ」
次の言葉をどう言おうか僅かに逡巡してから、建御雷は僅かに頬を染めて呟いた。
「……ボクの主殿」
爛々と輝く赤い目が、かって己を封じた存在の一人を認め、怒りに燃えた。
黄金に輝く鱗が、蠢く度に剥がれる泥土の間から煌めく。
「お目覚めの所悪いが……もう少し寝てろ!」
大きく開いた、溶岩の如き赤い口。
彼女を咬み裂こうとこちらに迫るそれに、だが建御雷は逃げようともせずに、手にした十握剣を構えた。
全身全霊を篭めて貫け……我が雷光。
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