Aufrecht Vol.19 とこしえの花【前】
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太夫となった((星|ひかり))さんを見るのは、これが初めてではない。それなのに、初めて対面するときのように胸がドキドキしていた。

お茶と煙草盆を持った菊矢ちゃんがとりすました表情でそれらを置き、一度も口を開くことなく金屏風の端に座っている。彼女が着座するタイミングで、藍屋の籍ではない二人の芸者が入ってきた。

 

(そろそろかな?)

 

いつ来てもいいようにと背筋を伸ばし、ドキドキと高鳴る胸で待ちかねていると、裾を引きずる音が着々と部屋に近づいてくるのがわかった。

 

「吉野太夫、逢状承りまして、ただいま罷り越しますえ。」

 

いかにも形式張った番頭の声が、太夫の登楼を告げる。

襖が開かれると、豪華絢爛な打掛をまとった彼女が現れた。今回用意された座敷の内装が、海の色のように深い碧をしていたため、その装いが竜宮城の乙姫を彷彿とさせる。

 

(さしずめ、私は浦島というところか)

 

明くる朝になって目覚めたときに、まっしろけのお爺さんになってるなんてことはさすがにないだろうけど、もしかしたらすべてが夢でしたなんていうのはなきにしもあらずだ。

 

(だって、自分がここにいることがまだ信じられない)

 

俗物とははるかにかけ離れた風雅。ここが竜宮城で、彼女が乙姫であったとしたら、私はその美しさの虜になりこのまま溺れてしまうのだろう。

 

(本当にきれいだ)

 

つんと澄ました表情は、普段の星さんからは想像もできないほど気高く、近寄りがたい美しさがあった。紅を引いて綺麗に化粧をしているせいもあるけれど、いつまでもうっとりと見つめていたい気分だ。

 

(たしか、初回は言葉も交わすことができないんだったな)

 

人形のように動かぬ表情のまま、彼女は定石どおり上座についた。顔をやや左へ傾けたまま、目だけが虚ろに下を向いている。正面から微笑んでくれるわけでもなく、生気の感じられない視線が無機質に感じられた。

 

(喋らなくてもいいから、せめて笑っていてくれないかなぁ?)

 

彼女のいいところは、笑顔がとっても可愛らしいこと。そして、その笑顔を引き出すまでに見せる様々な愛くるしい表情もまた魅力のうちのひとつだ。

 

「たしか初見では口を利いてもらえないんでしたよね? こんな私でも、皆さんに頭を下げて勉強してきたんです。だから、これは私のひとりごと。」

 

この場合、どういう言動が好まれるのか、どんな振る舞いが正しいのかなんてまるで分からない。遊び慣れている仲間たちに聞いても、言うことはみんなバラバラで、異口同音に声を揃えて言うのには、「三度までは忍耐だ」ということだった。だから、いくら座の雰囲気が変わろうとも、気負いなく過ごすつもりでいる。

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「……」

「着飾ったあなたを見ているだけで、とてもいい気分です。たとえ、今晩出されるのがお茶一杯だけだとしても。」

 

膝の前に手つかずになっていた湯のみを取り上げて、目線を合わせようとしない彼女に微笑みかける。すると、彼女は目だけを動かして、茶を啜る私のことを盗み見ていた。視線が重なったと思うと、すぐに外されてしまう。そういう埒のあかないやりとりを見せられて、最初は見守るようクスクスと笑っていた芸者たちも、次第に呆れたような溜息に変わっていった。

 

「旦那はん。うちらのことも忘れんといておくれやす。」

「ああ、そうでした。これは失礼。仲間内でも唐変木と呼ばれてましてね。女心のわからない奴だとよく言われます。さて、私は何をしたらいいのかな?」

「なァんも。せやけど、楽しまな損や。そやし、楽しんでいっておくれやす。」

 

透き通るようなしなやかな指が手の甲に絡みつき、持っていた湯のみを置くようなまめかしく誘導していた。手の導きに従って素直にそれを手放すと、地方の奏でる三味線の音色とともに、立方は優雅な身のこなしで舞を始めた。色っぽい流し目が、時折私を舐め回す。上座へ目線をずらすと、星さんが悋気に燃えるような目をして私を凝視していた。さっきとは打って変わって、真正面から見据えているのが気になるのだ。

 

(妬いてるのかな?)

(妬いているのだとしても、なぜ目を合わせようとしないんだろう?)

 

目を合わせようとすると、拒むかのように視線を外されてしまう。それが、なんとなく引っかかるのだ。

ほんの一瞬だけ視線が絡んだときに、拗ねた目をしているように見えたのはなぜだろう。胸がもやもやした。

 

(私の勘違いだろうか?)

 

しきたりで喋ることができないのなら、別の人間を立てるしかないなと思い、ちょいちょいと手をこまねいて菊矢ちゃんを呼び寄せた。

 

「もしかして、君の姐さんは機嫌が悪いのかな?」

「うちはようわからしまへん。けんど、花里姐さんと話さはってから、様子がおかしいんどす。」

 

菊矢ちゃんがそう話すのにつられ、先日の出来事を思い出していた。

 

(花里さんを突き飛ばしてしまったからな)

(私のことで喧嘩になっていなければいいけれど…)

 

星さんにとって一番の友だちと言えば、花里さん以外には考えられない。しかし、花里さんが新選組のことをよく思っていないのは、先日の態度でも明らかだった。だとすれば、必然的に板挟みになっていることも考えなければならない。

 

「喧嘩でもしたのかな?」

 

少し心配になって菊矢ちゃんに尋ねてみるけれど、彼女も詳しいことは分からないと言っていた。会話ができるなら直接聞いているところだけど、初回ではそれも許されないので次回に持ち越すことに決めた私だった。

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もやもやとした日々を過ごし、ようやく二回目の登楼日を迎えた私だったが――

 

「吉野にございます。よろしゅうお頼申します。」

 

形式上外せない挨拶を述べ、星さんは嫋やかな仕草で襖を閉めた。

 

「お待ちしてましたよ。吉野太夫。」

 

先日も顔を合わせてはいたけれど、太夫となった彼女にようやく会えたことが嬉しくて、つい囃し立てるようなことを言ってしまった。

 

「どうも。」

 

しかし、彼女は淡白な反応を返すだけで、いつものように微笑んでくれることはない。

 

(前回もそうだったけど、なんだか機嫌が悪いみたいだ)

(もしかして、失礼なことでもしてしまったのかな?)

 

そんな不安が頭をよぎるが、まったく心当たりがない。

 

「怒ってますか?」

「はい。」

 

彼女は言いよどむこともなく、きっぱりと肯定の言葉を口にした。そういう毅然とした態度を前に、私の焦りはますます強くなっていく。

 

「どうして? 私が何かしましたか?」

「沖田さんは私に隠していましたよね?」

「え? …何をですか? あなたに隠すようなことは何もありませんよ。」

 

(私がいつ隠し事をしたっていうんだろう?)

 

前回彼女に会ったときから今日までの行動を顧みるが、後ろ暗いことなど一向に見えてこない。いくら考えても、彼女を怒らせてしまった原因が突き止められなかった。どうしていいかわからなくなり、自然と縋るような目になってしまう。

 

「どうして明里さんのことを黙っていたんですか? 島原じゃ噂になっています。横恋慕した沖田さんが、明里さんを身請けして山南さんから奪い取ったんだって。それで、山南さんは新選組を追われたって…みんなが噂しています。」

 

(…えっ?)

 

にわかには信じられない話だった。そのように悪質なでたらめが、どうして彼女の耳に入ってしまったんだろう。

 

(そんなのでたらめだ!)

 

釈明するのも腹立たしいとは思うが、ここは無実だと訴えるより他にない。

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「ちょっと待ってくださいよ! どうしてそんな話になるんです? 私はただ、山南さんの代わりに明里さんを迎えに行っただけなんです。奪い取っただなんて、ありえません。」

 

確かに状況だけを見れば、あの日明里さんを引きとったのは他でもない自分だ。だからといって、世話をするのがその人だとは限らない。代理で迎えに行くことだってあるはずだ。加えて言うなら、落籍に合意した楼主こそが、真の引き取り手の名前を知っているはずなのだ。卑しい噂が立っているにもかかわらず、言わせ放置にしているのは一体なぜなのか。

 

「私だって何かの間違いだと思いたかったけど、でも、沖田さんは前もって事情を説明してはくれませんでしたよね? 私、すごく不安だったんですよ? もし、噂のとおりだったらどうしようって…」

 

山南さんを驚かせたかっただけなのに、どうして自分の知らないところで厄介事に巻き込まれなければならないのだろう。

 

(…疎まれているから?)

 

花街は情報の宝庫でもあったけれど、その分ゴシップもまた多く流布されていた。どこそこの大店の若旦那がどうだとか、知っていても大して役に立たないようなネタもあったけれど、私たちのように日夜怨みを買うような仕事をしていると、隊の名に傷をつけるのが目的で醜聞を流されたり、陰口を叩かれたりすることも珍しくはなかった。今回もまた、事情をよく知りもしないで、誰かが意図的に貶めた可能性がある。

 

「すみませんでした。自分たちのことで頭がいっぱいで…星さんへの配慮が足らなかったようです。」

 

彼女を不安にさせたことは、私としても心苦しく本意ではない。だからといって、自分のしたことが間違っているかというと、そうは思わなかった。むしろ、胸を張っていいことだと思っている。もしも、こうなることを前もって予測できていたなら、それこそ完全無欠というものだ。しかし、そんなことよりも、噂ごときに心を乱された彼女が残念に思えてならなかった。

 

(私は信用されていないんだろうか…)

 

そこで、ふとささいな不安が胸を突き上げた。私だって、彼女を思うあまり不安や嫉妬に苛まれることがあるのだ。私だって所詮はただの男だし、とり零す欠点くらい許されるはずだろう。彼女が本気で責めているのではないのだとわかっていたけれども、恋する男にだって心に留め置けない別の言い分があるのだった。

 

「でも、それなら私にも言わせてください。」

「なんでしょうか?」

 

ここへきてなぜ反論されるのかと、彼女は不愉快そうに眉をしかめた。

 

「なぜ、太夫道中の日取りを報せてくれなかったんです?」

 

指摘されて初めて自分の落ち度に気づいたらしく、彼女は目を泳がせて必死に言い訳を考えている様子だ。

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「そ、それは…」

「忘れていた?」

「知ってるかと思って…」

「全然知りませんでしたよ。忘れられてるんだと思って、悲しかったな…。」

 

そうやって寂しそうに言うと、彼女は反省の意を示すように、長いまつげを落としながら目を伏せていた。

 

(ちょっと意地悪だったかも)

 

過ぎたことだから――そう言って励まそうとすると、顔を上げた彼女の目には真剣な色が浮かんでいた。償おうとする彼女の誠意を感じとり、私はそれ以上の言葉をかけることができなかった。かけようとした言葉の必要性は、すでに薄れている。

 

「ごめんなさい…そんなつもりはなかったんです。でも、沖田さんは見に来てくれましたよね? 気づいてましたよ。」

 

機嫌をとるような上目づかいだったけれど、その目に媚びなどはいっさい混じっていなかった。どちらかというと、悪いことをした子どもが一生懸命に反省の心を示すような、そういうひたむきさが表れている。

 

「私も。目が合ったって分かりました。うれしかった。」

「わざわざ見に来てくださって、ありがとうございました。私もうれしかったです。」

 

彼女と思いが通じ合ったみたいにうれしくて、自然と笑みがこぼれていく。

どれだけの群衆にとり巻かれようとも、あの瞬間に心が通じ合ったのだと思うと、過去の出来事ながら感激がよみがえるのだった。

 

「どうやらおあいこですね。」

「ほんとに。つまらないことで、沖田さんとケンカしちゃうところでした。」

 

(たまには喧嘩するのもいいけれど…)

 

やっぱり、彼女には笑っていてほしい。どんな表情もひとつひとつが愛おしいけれど、星さんの笑顔こそが私の原動力なのだ。

 

「私にはあなただけなんです。だから、信じてください。私が好きなのは、星さんだけです。」

「私も。私も沖田さんだけです。沖田さんが大好きです。」

 

濡れたように見える瞳が、私を求めるように切なさを滲ませていた。顔を寄せて、触れ合う程度の口づけを交わすと、彼女の白い首筋がほんのりと色づいていく。

出会った頃と比べてみると、男の本能を掻き立てるような色香漂う女性になったと思う。だけど、自分の欲望を剥き出しにしたいとは思わなかった。指を絡めて見つめ合ったり、唇に軽く触れるだけで心が満たされるからだ。

彼女を性急に求めることはしたくない。自分のことを包み隠さず打ち明けて、私という人間を存分に知ってもらった上で、彼女が望むのなら、男女の睦み事もやぶさかではないと思っている。

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「今夜はどんなことをして過ごしましょうか?」

「そうですね。沖田さんに呼ばれるのが分かってから、いろいろと考えて準備をしてきたんです。でも、今日はお座敷遊びをするよりも、沖田さんとお話がしたいなって…どうですか?」

 

太夫になっても気取ったところがなく、控えめだけど甘えるような仕草が可愛らしいと思った。いずれにせよ、自分のことを知りたがってくれているのはうれしいものだ。

 

「ええ。構いませんよ。では、どんな話にしましょうか?」

「新選組の人たちのことが知りたいです。あとは、江戸にいた頃の話とか…沖田さんのお姉さんのことも。」

「分かりました。では、近藤さんとの馴れ初めから…」

 

こうして私は乞われるままに、大切な人たちとの馴れ初めを語り始めたのだった。

 

 

ひとしきり喋り終えた頃、夜の闇はいっそう濃くなり、人の話し声も鳴り物の音も引け、充足感を湛える余韻に包まれていた。私にもとうとう眠気がやってきたらしく、視界が薄ぼんやりとし、いけないと思いながら瞼をしごく。

 

「そろそろお帰りになりますか?」

 

気遣うそぶりを見せつつも、その顔には名残惜しいという感情がありありと浮かんでいた。そういう健気なところに後ろ髪を引かれてしまうのだ。眠気よりも、愛おしい気持ちの方が勝っていた。

 

「もう少しだけ。鐘が鳴ったら帰ります。それまでは、こうしていたいんです。」

 

了承も得ずに、やわらかそうな彼女の腿に頭を乗せてみた。箱枕よりはずっと寝心地がいい。体を横たえながら窺い見ると、彼女はうろたえながらも寛容に受け入れてくれた。

 

「いろいろあって、お疲れなんですね。」

 

乱れた髪を整える手つきに、彼女の労りが感じられる。何もかもを許し、受け入れ、包み込んでくれるようなやさしさ。すっかり安心しきってしまい、彼女のゆくもりが心地よかった。

 

「あなたといると癒される。疲れなんて吹っ飛びます。」

 

そう言いつつも、手足はぐったりとして重かった。額の奥までが重い。ぎゅうぎゅうと圧搾されているかのようにも感じられ、思考回路がにぶくなっていた。そこへきて、彼女の手の動きが子守唄のように眠りを誘うのだ。

 

(もう少しだけこのままで…)

 

意識の境目で欲張りなことを考え、無抵抗の私はそのまま眠りに落ちていった。

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ふわり、ふわりと微睡みの中を進んでいく。天空を舞う羽根のように、躰の重みはどこかへ消えていた。胸の真ん中に太陽があるみたいに、全体がぽかぽかとしていて気持ちがいい。

 

(ここはどこだろう?)

 

不思議に思って瞼を開くと、視界いっぱいに壁のようなものが広がっていた。ぼんやりと近づいたり離れたりを繰り返している。

 

「…た……ん…」

 

誰かが呼びかける声がした。

絡めた指に力を込める誰かの手が、こわばった感触をリアルに伝えてくる。

 

「沖田さんっ!」

 

切羽詰まったような彼女の声。

揺り起こされるようにして、カッと目を見瞠くと、今にも泣き出しそうな星さんが上から見おろしていた。

 

「どうかしましたか?」

 

ただならぬ雰囲気を感じとり、なんとなく奇妙な印象を持ちながらも彼女の目をまっすぐに捉える。

 

「よかった…」

 

息をゆるめるのと同時に、緊張の糸を解いた彼女が倒れ込むよう覆いかぶさってきた。螺旋を描くなめらかな髪が、するすると頬をなでている。洗練された香りが弾け、その芳香が鼻腔を突き抜けた。

 

(この香りは…)

 

複雑に調合されたフローラルブーケのようなやさしさ。ここまで高度な技術は、どうやってもあの時代で造り出せる代物ではない。

 

(一体どうなってるんだ?)

 

信じられない思いで辺りを見渡すと、大きなガラス窓の向こうに無機質な世界が広がっていた。視界を埋めゆく景色と、頭の中にある理屈が噛み合わない。

 

「このまま目が覚めなかったらどうしようって…怖くて不安でたまらなかったんですよ?」

 

目に涙をためながら言う彼女は、ゆるく巻いた髪を胸の前に垂らし、女性らしい清楚なワンピースを身につけていた。さっき見たときよりも、大人びて見えるのはなぜなんだろう。

 

「あの…星さん? …これは一体…」

 

思考がついていかず茫然としていると、彼女は何を勘違いしたのか、励ますように両手をぎゅっと握りしめてきた。流れ出た涙も構わずに、強い思いを込めるみたいに私の瞳を真剣に見つめている。

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「大丈夫ですよ。ちょっと頭が混乱してるのかも。今、看護師さんを呼びますから…」

「え? …かんごし…?」

 

自分の置かれた状況を知るのには十分すぎるほど完璧な世界だったのに、それでも呼び止めるための言葉が咄嗟には出てこなかった。そんな私をよそに、彼女は迷いなく駆けていく。入口に差しかかったとき、ドアの向こうからにゅっと伸びてくる手が見えた。男の手だ。

 

「そんなに慌ててどこへ行くんだよ?」

「翔太くん!」

 

(…え?)

 

彼女がそう呼び止めるのを、ざわざわとした胸で聞きとめる私。対面しているのは、まぎれもなく結城くんだ。姿は見えなくても、声からして間違いなかった。

 

「沖田さんの目が覚めたの! 看護師さんを呼ぼうかと思って。」

「そっか。よかった。これで安心だな。看護師さんなら俺が呼んでくるから、星はここにいて。」

「わかった。ありがとう翔太くん。」

 

出会い頭に会話を終えて、彼女は元きた道を引き返してきた。さっきまでの張り詰めた緊張が抜けて、とても安心しきった顔をしている。

 

「今のは結城くん?」

「はい。一人では心細くて…つい弱音を吐いてしまったら、心配して駆けつけてくれたみたいなんです。」

「そうですか…」

 

自分一人だけが、知らない世界に落とされたような気持ちだ。

 

(頭がズンとする…)

 

見るからに大人びた星さんと、薬品のにおいが漂う白い病室。ほどよい弾力があるベッドに寝かされた自分が、一体何者で、どういう生き方をしてきたのかも思い出せない。現実か夢なのかという以前に、自分は本当に生きているんだろうかという不安が漠然と胸をざわめかせていた。

 

「もしかして、どこか痛かったりしますか?」

 

焦点の定まらない目をしていると、傾けた彼女の顔が目の前に迫っていた。その瞳の輝きは、生命の躍動感を鮮烈に訴えている。その光の中心に映る自分が、それとは正反対の存在に思えて滑稽だった。

 

「いいえ。そういうのはないんです。ただ、自分が自分じゃないみたいに感じる…」

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もしも人間のからだが器のようなものだとしたら、そこに入っている意識は寸分の狂いもなく一体化していなければならない。だけど、今の私は器からはみ出しているかのように、ふわふわと浮遊していて落ち着かないのだ。

 

「きっと目が覚めたばかりだから、頭がぼんやりしてるんですよ。」

「そうなのかなぁ…実はね、さっきまで島原にいたんですよ。」

「島原?」

「あなたが吉野太夫になったばかりで。二回目のお座敷でした。」

「そういえば、そんなこともありましたね。いい思い出です。」

 

昏睡している状態で夢でも見ていたんだろうと、彼女はさして気にも留めていない様子だった。一見何の変哲もない会話だったけれど、不自然すぎるほどの違和感があるのに私は気づいていた。その根拠を問われると答えに困ってしまうのだけど、言葉では説明できない何かがすべての存在から発せられている。つまり、感覚的なことだ。

彼女は私の話にきちんと耳を傾けてはいるし、真剣に頷いてはくれているのだろうけど、どうしてだか受け入れられていないような気がするのだ。それは彼女だけに限ったことではなく、言ってしまえば、この世界全体が私を弾き飛ばそうと排他的になっている感じだった。

 

「覚えているんですか?」

「もちろんですよ。あの頃のことは全部覚えています。宝物みたいなものだから。」

 

懐古する彼女の瞳が、やさしげに細められていく。宝物を胸の中であたためるような、そんな愛しさに似た思いに溢れていた。過ぎ去りし日の幸福を語り合えるほど、私たちは試練を難なく越えてきただろうか。困ったことに、私にはそういった記憶が一切なかったのだ。

 

(…やっぱり、何かがおかしい)

 

直感がそう訴えていた。この病室も、彼女の台詞も、何もかもができすぎていると思ったのだ。

 

「あっ…来たみたいですね。」

 

川の流れもなくぽつねんと浮かぶ舟のように、意識がぼんやりとしかかって、すぐさま彼女の声に呼び戻された。

つかつかと病室にやってきたのは、堅物そうな医師と年配の看護師だ。今も昔も医者には慣れない。そばに寄られて体をいじられたりするのが、どうにも好きではなかった。

今回も例にもれず、検体にされたマウスのようにおろおろと手足を泳がせてしまった。眼鏡の奥にある医者特有の目つきが、生体をくまなく捉え、観察する動きに変わっていく。

居心地の悪さを感じながらも、自分の置かれた立場を考えてみると、じっとしているのが得策なんだろうと観念せざるをえなかった。

本当は、自分が何者かなんて考えないほうがいい。

諦めた目で彼らを受け入れていると、医者はいくつかの簡単な質問をし始めた。

 

「今日は何日だか分かりますか?」

「えっと…日付は、ど忘れしてしまいまして…」

「では、年号は?」

「平成。」

 

次々に質問を浴びせられて、眼球がライトにさらされていく。定点になったり、左右に揺らされたりして反応の速度を試されているのだ。

 

「あなたのお名前は?」

「沖田総司です。」

「では、あなたの婚約者の名前は?」

「…こんやくしゃ?」

 

訳もわからず星さんを見ると、彼女は祈るような面持ちで組んだ手を握りしめていた。当然のことながら返答はなく、自力で答えを出さなければならないのは明白だった。何食わぬ顔で彼女の右手を盗み見ていくと、エンゲージリングのようなものが光っている。ようやくそれを悟った私は、「婚約者」とは星さんのことを指すのだなと、後づけのように理解したのだった。

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(プロポーズなんてした憶えはないんだけど…)

(でも、結婚するとしたら星さん以外には考えられない)

(というより、いずれ結婚しようと思っていたのは間違いないのだけれど…)

 

一体、いつそのようなことになったんだろう。そんな大事なこと、なぜ自分の記憶から抜け落ちているのか。

 

「こちらの女性。あなたの婚約者ですよね?」

「は、はい…。」

 

それは誘導尋問のような迫り方で、肯定以外の選択肢なんてはじめから用意されていないかのようだった。けれども、私の記憶の中にはそのような事実がいっさい残されていないのだから、否定できない胸の内は罪悪感でいっぱいだ。

 

「名前を言ってください。」

「なまえ?」

「そう。彼女の名前です。」

 

婚約の事実に身に覚えがないのなら、もしかしたら彼女の名前だって違うのかもしれないと思った。もし、目醒めたばかりのこの世界が、私の知っている場所ではないとしたら――そんな恐ろしい考えに支配されてしまうと、これから告げる答えは一か八かの賭けになってしまう。

 

「青天目星さんです…。」

「問題ないようですね。」

 

医者は淡白に告げ、そそくさと立ち去ろうとしていた。診察があまりにも簡単で事務的だったから、かえって不安にさせられてしまったのは言うまでもない。

 

(どうしてもっと大事なことを調べようとしないんだろう?)

(第一、運ばれてきた理由もわからないというのに)

 

私の苛立ちはとうとう表面化し、事実をはっきりさせなければ気が済まなくなっていた。

 

「記憶がないんです。だいたい、なぜここにいるのかも分からない。さっきまでどこにいたと思います? 幕末動乱期の京都です。」

「それは、記憶がないのとは違います。単に夢を見ていただけでしょう。昏睡から目醒めると同時に夢が寸断された訳ですから、混乱するのも当然かと。しばらくすれば、その混乱も収まるでしょうし、はっきりと現実を認識できるようになるでしょう。」

 

(夢…? それじゃあ、今までのことすべてが夢なのか?)

 

論理的に説明されてもなお、私の心は納得に達しなかった。二度目のどんどん焼けも、土方さんと争ったことも、全部が夢だったというのなら、それはあまりにも残酷じゃないか。

 

「…じゃあ、先生のおっしゃるとおり夢だったとしましょう。ですが、昏睡状態になる以前の自分が思い出せないのはなぜです? なにがあったのかまるで分からない。」

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自分の身に降りかかった混沌を、医師に訴えたところで何になるというのだろう。彼は医学を生業にしているのであって、記憶のこととなると話は別だ。たとえ取り合ってくれたとしても、脳機能の範疇でしか答えられないはずなのだ。

ところが、私の質問に答えたのは星さんだった。

 

「火災の現場で倒れたんですよ? 憶えていないんですか?」

 

記憶とは、パズルのようなものなのかもしれない。本人は失くしてしまったと思っていても、本当は失くしてなんかいないのだ。ところどころが欠けているだけで、その分のピースは必ずどこかに落ちている。

 

「…そうか…あのときの…」

 

(私は救命士じゃないか)

(鎮火後の現場付近で、意識を失ったんだ…)

 

全体像の見えてこないパズルだったのに、彼女の一言がより強力なピースとなって、思考の混乱を鎮めてくれたのだった。

そのおかげか、頭の中で一本の筋道が立ち、霧がかった情景が鮮明になってくる。

 

「思い出したようですね。これで納得していただけましたか?」

 

緊張を漲らせていた医師の目が、わずかながらに緩んでいった。これで面倒ごとは片付いたという顔になっている。それはそれで気に食わなかったけれど、病院に収容されるまでの経緯と結果が明らかになった以上は、記憶の喪失を一時的なものだと認めざるをえない。私は大人しく引き下がることにした。

 

「記憶に関して不安が残るようでしたら、引き続き診察を受けてください。」

 

目は口ほどに物を言うとは、今の自分を指すのだろう。医師は最後にそんなことを付け足すと、白衣を翻して去っていった。置いて行かれた看護師の方は、彼女に一言二言だけ付け加え、「お大事に」という決まり文句を残して出ていった。

ドアに向かい深々と頭を下げる彼女は、どういうわけかどんよりと沈んでいる。

 

「星さん…」

 

彼女が落ち込んでいるのは、きっと私のせいなんだろう。罪深い思いに駆られながらも、声をかけずにはいられなかった。名前を呼ばれて振り返った彼女の顔に、ぱっと明るい笑顔が乗っかっている。無理をしているのは一目瞭然だった。

 

「退院の手続きがあるみたいなので、もう少しゆっくりしていてくださいね。私は飲み物を買ってきます。」

 

他に何か言わなければと口を開いた途端、彼女はむりやり会話を終わらせて出て行ってしまった。自分の発言の一体なにが彼女をそうさせたのか。フローラルブーケのやさしさだけが、残された私とともにいつまでも寄り添っていた。

 

(本当に、ここは現実なんだろうか?)

 

箱の中に閉じ込めたように感じる平成の世。混乱から今ひとつ目覚めぬまま、私は再び眠りに落ちていくのだった。

 

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ゴーン…ゴーン

 

その音に引き寄せられて瞼を開くと、閉門を告げる鐘の音が辺りにこだましている。まるで、目覚ましのようだと思った。

 

「絶妙なタイミングですね。」

 

額を撫でるやさしい手つき。薄明かりの中で、ぼんやりと浮かび上がる輪郭。丸みのある可愛らしい唇と、覗き込む瞳がおかしそうに笑っていた。

 

「…星さん?」

 

ぱちくりと眼を押し開くと、視野の中の風景が先刻とまるで違って見えた。碧いとばかり思っていた壁の内装が、今は紅色に見えるのはどうしてなんだろう。

 

「寝ぼけてますか? 早く支度をしないと、大門が閉まっちゃいますよ?」

 

彼女の顔をじっくりと眺めているうちに、本当に実在しているのかどうかを試さずにはいられなかった。手を伸ばし、頬のやわらかい感触を飽きるほどに確かめる。ぷにぷにと程よい弾力だ。思っていたよりも柔らかい。

 

「っ!…沖田さん!? なんで頬っぺたをつまんでるの!? そういうときは、自分のをつまむんですよ?」

「…なんででしょう? 大福みたいに美味しそうだったから。」

 

冗談を言いながら戯れ合っていると、耳の奥が急にこそばゆくなり、なんだろうと思ったときには岩清水のようにつうっとした何かが垂れていた。

 

「あ…」

 

手で探っていくと、耳の洞に濡れた跡がついていた。指ですくいとって確かめて見ると、以前と同じように鮮血がまとわりついている。

 

(あのときと同じ症状だ)

 

尾形さんが黒猫に手を焼いていたあの日。土方さんと話をしているさなかにそれは起きた。私としてはそれほど気にも留めていなかったけれど、一応専門家の意見を聞いておくべきだとき思い、医者の診察を受けることにしたのだ。土方さんが都合をつけてくれたおかげで、守護職お抱えの藩医に診てもらえる機会を得たのだけど、なんとも判断しづらいと言って様子を見ようと言われたのは記憶に新しい。

 

「大変! 耳から血が出てます!」

 

飛びついて指をとる彼女は、胸元に詰めていた絹手ぬぐいをとり出して耳から出る血を止めようとしていた。

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「…誰かっ!」

 

とっくに血は止まっていたというのに、彼女は蒼白い顔で人を呼ぼうとしていた。半ば腰を浮かせた彼女の手をとり、とにかく落ち着いてもらいたくて優しく封じ込めることにした。大袈裟にしたくなかったし、彼女とのこの時間を誰にも邪魔されたくなかったから、人を呼ぶのは避けたかったのだ。

 

「慌てなくても大丈夫です。初めてではないから。」

「でも、お医者様に診てもらったほうが…」

 

強張る彼女の肩先が、かわいそうに震えていた。こんなことくらいで怯えてしまうのだから、この先ももっと彼女を怖がらせてしまうのだろう。そう思うと、体力を温存してもすり減っていくこの体が疎ましくて嫌だった。

 

「ただでさえ貴重な血液を無駄にしてしまいました。」

 

耳の血程度で深刻になることはない。そんな考え方をストレートに告げれば、彼女はありったけの思いを込めて反抗するのだろう。だから、いつもの冗談をやってしまったのだ。

 

「そんな冗談笑えません!」

「いやだな。そんなに怒らなくても…」

「怒ります! …だって、沖田さんの体のことが心配なんですもん。」

 

目をつり上げて諌めたかと思うえば、傷ついた少女のように憐憫を誘うような表情になる。どんなにささいなことであっても、彼女は我が身同然のように私の体を心配し、いたわりをもって接してくれる。そのひたむきな気持ちが愛おしくて、この先どんなことがあっても彼女だけは自分の手で守り抜きたいという気にさせられるのだ。彼女を守るということは、自分の身も守り通さなければならない。自分を粗末に扱うことは許されないのだ。だから、耳の血もバカにはできない。どうにか原因を突き止めて、その正体を解明しなければならないと思った。

 

「ありがとう。でも、本当に大丈夫ですから。それより、早く帰らないと門限に遅れてしまいます。」

「新選組にも門限なんてあるんですね。」

「そうなんですよ。まるで男子寮だ。」

「門限に遅れたりしたら、罰を受けるんですか? 朝帰りもダメ?」

「門限を破ったら謹慎処分になりますね。朝帰りのときは、事前に許可をとらなければなりません。前もって知らせずに流連した場合は…まぁ、極端な話、切腹ですね。」

 

当たり前のようにそう告げると、彼女は驚愕の顔色で甲高い声をあげた。

 

「そんなに厳しいの!?」

「そういった例は一度もないですけど、土方さんなら言いかねないかな。」

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これは伊東さんが加入した後の話になるけれど、永倉さんと斎藤さんが誘われるまま流連し、屯所を開けっ放しということがあった。事実上の職務放棄だ。そのときの近藤さんの激昂ぶりは言うまでもない。あわや切腹というところまで行きかけて、それを阻止したのが土方さんだった。永倉さんと私の立場が入れ替わっていたとすれば、土方さんは処断を重いものにしたかもしれない。だから、申告は個人の意思を明確にする義務なのだ。義務を怠れば、罰則は厳しくなる。

 

「……」

「どうかしましたか?」

「…その…沖田さんは、三度目も会いに来てくれるのかなって…」

 

心細さを映すように、見上げる彼女の目はとても寂しげだった。おねだりをしようとして上手く表現できない子どものように、その声は徐々に力を失って、か細く消えていく。どんな望みも叶えてあげたくなるような、楚々として慎み深い彼女に私はとことん弱いのだ。

 

「もちろんです。金子もその分だけちゃんと残してありますよ。」

 

期待を閉じ込めた彼女の瞳が、羞恥を隠しながら揺れている。求めてやまない熱情が、手足の先から滲み出ている気がした。こんなにも幼稚な自分が、ちゃんと男として見られていることをうれしく思う。男として求められていることを、私は今はっきりと自覚しているのだ。

 

「実は、三度目のことなんですけど…」

 

指先をもじもじとさせながら、それでも自分の意思表示をしようと頑張る彼女を見て、血の騒ぎを抑えられない自分がここにいる。

 

「ええ。わかってます。ちゃんと申告してくるつもりですから、安心してください。」

 

彼女を欲しがるあまり、壊してしまわないか――以前はそう思っていたけれど、今は違う。私は一晩かけて、この娘を愛すると決意を固めたのだ。

 

「――――ッ!」

 

彼女の顔は、朱を刷いたように色づいていく。真意を問うような瞳が、熱で溶かされてように潤んでいた。今すぐにでも抱きたいと激しく体が疼いたけれど、その欲望を握り潰すかのようにして私は立ち上がった。

 

「今夜はこの辺で失礼しますね。」

 

行燈の薄明かりが、火照った顔をうまく隠してくれるといい。「おやすみなさい」とだけ言ってその場を後にする私だった。

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艶が二次小説です。
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