春の唄 |
「アイオロス、起きて。」
優しく揺すられて、アイオロスはうっすらと瞼を開いた。白いレースのカーテンに射し込む朝の光が眩しい。肩に置かれた手はやがて頬を滑り、時折、指でつついてくる。見開いた瞳には、この世で最も愛しい人が映っていた。ベッドの端に腰掛け、アイオロスを覗き込んでいる。
「おはよう、アイオロス。起きられる?」
「ああ……おはよう、サガ。早いな。」
「朝食の用意ができてるよ。支度して。」
頬を離れていく手のひらを追いかけるようにして口づけ、アイオロスは日焼けした逞しい上半身を起こした。
聖戦終結後すぐに、アイオロスはサガにプロポーズした。運命に引き裂かれてから再会するまでの13年間、二人は一度たりとも相手への想いを忘れた事がなかった。現在は女神と教皇の許しも得て、人馬宮で幸せな婚約生活を送っている。
サガは、カップにアッサムティーを注ぎ、ミルクをたっぷり入れてアイオロスに渡した。二人は昔からコーヒーよりも紅茶を好み、そんな些細な事まで気が合うのがお互い嬉しかった。食事中たまに視線が合うと、二人はそろって笑顔を浮かべた。
幼い頃から弟カノンの面倒を見ていただけあって、サガの料理の腕前にはアイオロスも大満足だ。チーズ入りのポテトサラダのボールを何度も手に取って自分の皿へよそい、フワフワのスクランブルエッグや厚いベーコンと野菜のソテー、イタリア風の豆のスープなど次々と平らげていく。
「今朝はあまり食べないんだな。これ、もらっていいか?」
サガが返事をする前に、アイオロスはトーストスタンドから最後の一枚をとり、そのままかじった。
「さすがに軽くしておこうと思って……」
「アハハ、気持ちはわかるけど全然大丈夫だろう。今日は何時に行くんだっけ?」
「10時に教皇の間。少し早く行こうと思う。」
「みんな知ってるんだろう? ギャラリーが多そうだな。」
アイオロスの言葉に、サガは少し赤くなって、カップに口をつけた。
教皇の間でシオンに挨拶し、ドレスルームに着くと、数名の黄金メンバーがすでにソファに座って待っていた。カノンがニヤリとした笑顔でサガを振り返った。
「カノン、お前も来てたのか。」
「当たり前だろう?お前の好みは、弟のオレが一番よく知ってるんだ。」
今日は、婚礼の時に着る衣装の生地とデザイン、それに合わせてアクセサリーを選ぶことになっている。当初は二人とも黄金聖衣で式をあげるつもりだった。しかし、これを知った仲間たちから、
「それじゃ次期教皇を選ぶのと変わらない。」
「そんなクソつまらない結婚式があるか。」
「絶対反対!!!」
と、猛反発を食らった。もはや「聖衣こそ正装」という規則を皆忘れていた。意外にも、華やかな結婚式を一番勧めたのはシオン教皇であり、「聖域始まって以来の神聖な婚礼」ということで全面的に協力を申し出た。
予定時間ぴったりに、年かさの侍女を先頭にして、式にふさわしい様々な生地、純金や天然石のアクセサリーを抱えた侍女たちが次々と部屋に入ってくる。質素・倹約がモットーの聖域に、これほど高価な宝飾品がある事に皆驚いた。すべて古代から伝わる貴重な品々である。
生地も、沙織がグラード財団の力で世界中から集めさせた高級品ばかりだ。現在、沙織は財団の若き総帥として一時的に日本に帰国しているが、二人の結婚式までには星矢たちとギリシャに戻ってくる予定である。
相手が長身のアイオロスとサガでは、女たちだけで彼らに生地やアクセサリーを当てるのはなかなかスムーズにいかない。そこで、仲間たちが手伝ってやろうと集まったのだったが、半ば遊び気分の状況で生地選びが始まった。
「カノン様、そんなに強く引っ張ったら布が痛んでしまいます。」
「おっとすまない…サガ、この生地はどうだ?」
カノンは、繊細な花の刺繍が施されたシースルーの布を、ベールのようにサガの頭にかぶせた。
「似合うじゃないか。サガ、これで寝間着でも作れよ。」
横でアイオリアに緋色の布を合わせてもらっていたアイオロスは、透けた淡いコスモス色の向こうに見える恋人の姿に釘付けになった。美しい…美しすぎる…できれば本当に夜の衣装を作ってほしい。アイオロスの熱い視線に、サガは慌てた。
「私ならもっと流行のデザインでドレスを作るんだがな。イタリアとかフランスの有名なデザイナーに依頼してさ。やっぱりキトンみたいなやつでないとダメなのかな。」
「聖域での婚礼だから、古代ギリシャ風でないといけないだろう。第一、女神アテナが正装で出席されるのだから。」
そうか…と残念そうに言いながら、アフロディーテは衣装デザインの本を真剣にめくっていた。デスマスクにぴったりとくっついて座り、気に入ったページを彼に見せては嬉しそうにしている。
「それにしても、聖域のアイドルがついに結婚とはね。」
感心した口調でデスマスクはサガを見た。
「アイドルって?」
クリスタルのティアラをいじっていたカミュは、振り返ってデスマスクを見た。
「お前はロシア生活が長いからよく知らんだろうが、サガは子供の時から人気者でな。こいつがコロッセオに練習試合に来ると、観客席が満杯になるんだ。普段あまりいない女もすごくいるんだ。」
「おかげでオレはよく間違われて迷惑だったよ。」
そう言いながら、カノンはターコイズブルーの布を自分に当てて鏡を見ていた。
「しかし、それじゃアイオロスも気が気じゃなかっただろう?」
「そうだよ。だからいつも横にくっついて見張ってたんだ。」
「も、もうやめないか。昔の話だから…」
侍女たちがクスクス笑い出したので、サガは恥ずかしくなって顔を伏せた。その顔が真っ赤だったので、部屋が笑いで満ちた。
周りに散々口出しされながらあれこれ迷って、二人は同じ純白のシルクを選んだ。アイオロスは、裾の長さが足首あたりまでの長衣で、マントを巻きつけて片方の肩を出すスタイル。アクセサリーには、瞳の色と同じグリーントパーズが埋め込まれた純金の分厚い首飾りと、ブレスレット、バックル、サンダルを選んだ。サガは、両腕がほとんど隠れる長衣のキトンタイプである。誕生石のエメラルドが使われた耳飾りに、長さの違うネックレスを数種類、純金で細目のブレスレット、サンダルを選んび、髪飾りには白百合をつける事になった。アイオロスは、金細工の月桂樹の冠を考えていたが、サガが生花をつけることになったので、それに合わせて本物の月桂樹を使って作ることになった。布地を留める金の丸ピンには、二人の守護星座がそれぞれ入っている。
最後に、どうしても着けろと騒ぐアフロディーテの強い薦めで、サガは、サムシングブルーのガーターベルトを選ばされた。淡いブルーのフリルがなんとも可愛らしい。
結婚式の衣装選びだけで午後2時を過ぎてしまったので、披露宴用の衣装はまた後日選ぶ事となった。二人きりになると、アイオロスは小声で言った。
「選ぶ日を知らせない方がいいんじゃないのか? 来るのはいいが、意見が多すぎる。」
「無理だ。先に彼らが日程を決めて教皇に言ってしまった。来週の月曜だそうだ。」
「ああ、そう……今度は披露宴用だから、もっとかかるだろうな……」
街で遅い昼食をとった後、アイオロスとサガは、最近完成した新居を見に行った。
新居は、エーゲ海に面した崖の中腹あたりに建っている。普通の人では近づき難い地形のために、崖下の海岸はプライベートビーチになっている。もともとは朽ちた神殿だったが、買い取った後は大幅に改築し、外も内装も白を基調としたデザインになっている。海に面している側はすべてガラス張りで、人目を気にする事なく素晴らしいギリシャの碧を楽しめるようになっていた。
「もうライフラインも通ってる。いつでも住めるぞ。」
キッチンの蛇口からお湯が出るのを確認したアイオロスは、楽しそうにあちこち扉を開けて中を覗いた。
「このスリッパ履きの生活に憧れてたんだ。汚れにくいし掃除も楽でいい。」
サガも床のツルツルした感触を楽しんでいる。
「大量のスリッパが必要だな。みんな絶対遊びにくるだろうからな。」
二人は寝室のドアを開けて中に入った。海を背景にして中央に大きなベッドが置かれ、調度品と一緒に白い布がかけられている。アイオロスはスリッパを飛ばして構わずベッドに寝転がった。
「ああ!素晴らしい寝心地だ…!サガ、お前も来いよ。フカフカだぞ。」
「駄目だアイオロス、それはシーツじゃないんだから。」
サガは、子供のようにベッドでゴロゴロするアイオロスに笑いながら言った。
「大丈夫だって。ほら、早く来いよ。」
手を差し出すアイオロスに、サガは恥ずかしげに目を伏せた。アイオロスはむくりと身体を起こすと、サガの手を引っ張って一緒に寝転がった。アイオロスはいとおしげにその身体を抱きしめる。豊かなシルバーブルーの髪が芳しい。サガもまた、アイオロスの背中に手をまわし、しばらく二人は無言のままお互いの温もりと、かけがえのない幸福を感じていた。
「聖闘士は寿命が長いからな。思いっっっきり結婚生活を楽しもう。次の聖戦は夫婦で参加だな。」
サガはクスクス笑った。
「見た目このままで、中身がすごい年寄りだ。ちゃんと走れるかな?」
「私が手を引いてってやるよ。ずっと一緒にいよう。」
アイオロスは笑って話していたが、急に真剣な眼差しになってサガを見下ろした。その真っ直ぐな緑色をサガは潤んだ瞳で受け止める。
「サガ……この時をずっと夢見ていた……」
「アイオロス………」
「いつまでも一緒だ。気の遠くなるような年月の間、ずっと……。サガ、お前は私の宝物だ。」
「アイオロス……愛している……」
二人は視線を交わすと、深く深く口づけた。
「アイオロス…ダメだ……まだカーテンをつけてない…」
「誰も見てないよ。」
柔らかな布の上を、二人は抱きしめ合い、キスをしながらコロコロ転がった。長く思い焦がれてきたこの幸福、この優しさ、この温もり。二人を隔てるものはもう何もない。やがてサガを下に組み敷き、アイオロスは深くその身を重ねた。
夜の青に染められた部屋の中、月の光が静かに恋人たちを照らしている。お互いの熱を交換し、アイオロスがどこからか引っ張ってきたもう一枚の布に包まれ、サガは穏やかな眠りについていた。長い睫毛の端にたまった小さな涙を、アイオロスはそっと指で拭った。白い月の光を浴び、波打つ青銀の髪をまとって横たわるサガ。この世にも美しく神々しい姿を見る事ができるのは私だけだ。そしてもうすぐ本当に、サガは私の妻となるのだ……そう思っただけではじけそうな喜びが胸いっぱいに広がり、アイオロスは身を起こして、サガが目を覚ましても構わないくらい、力一杯キスをした。
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