夜摩天料理始末 15 |
羅刹の緊迫した声の方に目を向けて、仙狸もまた同じ物を見た。
「何じゃ……こやつは」
巨獣のしなやかな四肢は、仙狸がまだ唐土に居た時代に、嫌な記憶とと共に見慣れた物。
密林をのし歩く、獣の王。
体は虎。
だが、その大きさと共に、顔も明らかに虎のそれでは無かった。
どこか泣きそうな、それでいて笑い出しそうな。
不思議な表情を、人に似た、皺深い顔に浮かべた。
敢えて言えば、そう。
顔は猿。
仙狸が慌てて走り出す、だが、それより先に、それは羅刹に襲い掛かり、彼女を弾き飛ばした。
「羅刹!」
だが、彼女はその一撃から立ち直り、次の一撃を跳んで躱した。
「流石じゃ」
冷や冷やさせおって、そう呟きながら、仙狸は先ほどみた獣の動きを思い返した。
前脚の一撃を誘いの手とし、彼女を弾き飛ばした鞭のようなそれを、仙狸の山猫の目は確かに見極めた。
「尾のようじゃったが、あれは……間違いない」
ぬめりと光る鱗に覆われた、長い姿。
尾は蛇。
斧を構え、巨獣に対する羅刹の傍らに並び立ち、仙狸は槍を構えた。
「無事かとは問わぬが、戦えるか?」
「言うまでもねぇ、それより姐さん」
「いかがした?」
「今回の件、女狐が黒幕だったみてぇだ、大将の敵の野郎を、この化け物に変えて、揚句に、ウチらの留守を襲うって」
「何じゃと!」
仙狸は歯噛みした。
奴らの最終的な狙いは、あの庭の……もっと言えば、黄龍の封印の破壊。
そんな事は弁えていた筈だというのに、怒りに任せて行動した結果、陽動に引っ掛かったという事か。
留守には鞍馬始め、歴戦の式姫達が居るとはいえ、今ここに居る式姫達を欠く時点で、戦力は著しく落ちている。
童子切、鈴鹿御前、天羽々斬、おつの、おゆき、紅葉御前、自分、そして羅刹。
まして、今のあの館には、守りの要たる主を失っている状態。
そこを、あの女狐、玉藻の前の分身たる大妖怪に襲われては……。
「こやつは足止めか!ええい、わっちとした事が」
「ウチも気持ちは一緒だけどよ、ここで悔やんでもいられねぇ、こいつ片づけて、女狐をさっさと追わねぇと」
「尤もじゃがのう」
こやつ、さっさと片付く代物かの。
その言葉を飲み込み槍を構えた仙狸の尾が、別の方向からの危険を知らせるように逆立つ。
「羅刹、上じゃ!」
「あいつか!」
羅刹が飛びのき、仙狸が慌てて身を伏せながら、槍を大きく振るう。
ひひぃ。
仙狸の槍が空しく煙を払う。
狙い定め、見切ったうえでの一撃でなければ、やはり傷もつけられない。
形勢がひっくり返ったのを悟ったのか、上空から二人を狙った煙煙羅が、距離を取りながらひぃひぃと勝ち誇った笑い声を上げる。
ひ?
だが、その笑い声が不意に止んだ。
後ろに音も無く巨獣が佇んでいる。
ひぃ……
何かを悟った、悲鳴に似た細い声。
それさら吸い込むように、巨獣は口を開き、大きく息を吸い込んだ。
ひーーーーーー。
「……冗談じゃねぇぞ、おい」
「まさか……あの煙を食ろうておるのか?」
薄く広がっていた煙が、渦を巻くように吸い込まれていき、抵抗するように残っていた黒い煙も、嘘みたいに真っ赤な口の中に徐々に吸い込まれていく。
ひぁぁぁぁぁぁ。
最後に煙煙羅の悲鳴さらそれを吸い尽くし、巨獣は猿に似た口を閉ざした。
べろり。
美味だったといわんばかりに、一つ舌なめずりをし目を細める。
「敵が減ってくれんのは有りがたいけど、煙なんぞ食って、腹の足しになんのかね」
羅刹の軽口に、仙狸が案外に真面目な顔を返す。
「仙人は天地自然の気を食ろうて、天地と等しき命を得、蠱毒は蟲同士を喰らい合わせ、その呪力を高める。妖怪が妖怪を喰らうのは、その妖気を取り込み、己の力を高めるためじゃぞ」
「つまり、今ので更に強くなったってか?ぞっとしねぇ話だな」
「全くじゃ、油断するでないぞ」
警戒する二人を嘲るように、それはニマリとゆがめた口を開いた。
その口から、黒い靄が吹き出す。
「あいつの残り滓かよ」
変な物食うからだ、そううそぶく羅刹の眼前で、それは、風を無視して拡がりながら、徐々に巨獣の姿を包み隠していく。
それはまさしく、今奴が食らった……。
「馬鹿な、煙煙羅の術まで取り込み、使えるのか?」
「んな事が出来るのかよ!?」
「初耳じゃ!」
黒き煙を纏い、闇の中を歩む凶兆の獣。
それが、仙狸を襲う。
目を凝らす、だが、仙狸の山猫の眼ですら、見えるのは夜の闇と、それ以上に黒い漆黒の巨大な塊。
「これは!」
間合いを見切るどころでは無い、奴が今、この煙の中のどこにいて、どう攻撃を仕掛けてくるのかすら読めない。
頼りになる尾は、既に全力で彼女に危険を知らせている。
何か重い物が空気を圧し切りながら、彼女を叩き潰そうと唸りを上げるのを、辛うじて感じる。
それは彼女の想像をはるかに超える、速さと力。
仙狸は思い切り身を低くして、水平に飛び、地に転がった。
それに半瞬遅れて、黒煙の中から獣の腕が伸び、最前まで仙狸が居た、その周辺の大地を深く、そして広くえぐる。
槍で防ごう、もしくは身を立てたまま回避などとしていたら、間違いなくやられていた。
慌てて身を起こした仙狸の耳が、不吉な鳥の鳴き声のような音を捉えた。
夜の森の中、細く寂しく、ひょーひょーと鳴り渡る。
この姿、そして鳴き声。
仙狸はキッと漂う黒煙を睨みつけた。
「こやつ、まさか……」
「それは鵺である……ですか」
いくら考えても答えの出ない状況を示す言葉を口の中だけで呟いて、夜摩天は周囲に判らない程度にため息をついた。
普段の会話なら、それで終わらせられもしようが、何らかの結論を下さねばならない彼女の立場では、この言葉は単なる戯言に過ぎはしないが。
領主殿の処遇に関しては、良くも悪くもありふれた事例でしかない。
色々話を聞いていても、絵にかいたような「人間」そのもので、夜摩天に迷いを抱かせる部分は欠片も無い。
だが、この青年は未だに良く判らない。
彼を害した一人である、領主を直接ぶつけた夜摩天の試みは奏功したと言っても良いだろう。
人の剥き出しの生の声を叩き付けさせる事で、彼の別の側面を見る事には成功した。
だが、この青年の根の部分が、まだ見えない。
いや、すでに見えているのかもしれない……。
だが、夜摩天としては、まだこの青年がいままで見せた態度を信じる事が出来ないでいた。
彼のそれが、より上の欲を糊塗するための、見せかけの高潔さや、清貧とは違うのは、何となくだが判る。
では逆に、彼は、何故生きようと、再び人の世に戻って苦しい戦いを続けようと願えるのか。
その魂の奥で燃える、静かな炎は、一体何を原動力に燃え続けているのか。
彼が何を求めて生を望むのか。
それが、どうしても判らない。
あまりに欲求が薄い人物と言うのは、読みづらいだけに、どうしても底知れない不気味な部分がある。
なにより、式姫という強大無比な力を多数従える男を、通例に背いてまで現世に戻す事で、何が生じるのか、夜摩天にしても読み切れない部分が多い。
やはりもうひと押し。
あの陰陽師と、この青年を対決させて、見定めたい。
それもあって、通常は用意しない召喚状まで書いたというのに。
(まだですか、何をやってるんです、羅刹は)
さしもの夜摩天も全知全能の存在ではない。
現在、地上で羅刹が陥っている苦境を知る由も無い身としては、その遅れに対して、文句の一つも言いたくなるのは人情と言う物であろう。
(それはさておき、私の方も焦れていますが『協力者殿』も、中々に粘り強いですね)
夜摩天が、次なる証人の登場を待っているのは事実だが、それとは別の狙いがあって、引き伸ばしている側面もある。
閻魔帳の書き換えを実行した協力者の炙り出し。
本来なら、閻魔帳記載の寿命に対して改竄があっても、中々気が付く物では無い。
死者当人は己の寿命を知る由も無く、閻魔、夜摩天と言えど、亡者個々の寿命を把握できる物でも無く、記録に頼りながら事を処す以外の動きようも無い。
そして、終わってしまえば、その記録は誰も顧みる事は無く、訪れる者も稀な記録庫の中で空しく埃を被るだけとなる。
逆に言えば、そのように常の如き処理がされず、閻魔帳の寿命を書き換えた人の審理が、なぜか長引いている時点で、書き換えを行った協力者は、かなり焦りを感じている筈。
そう思って、閻魔帳に近づける程度の存在は、閻魔を除き、ここにほぼ集めている。
だが、挙動にそういった不審な所が見える人物は、今の所居ない。
ただ、それは逆に、その人物が、安い欲につられて、気楽に手を貸した程度の小悪党ではない事を逆説的に証してはいるのだろう。
頭の中で容疑者を何人か消しながら、残った顔の中に、自分が夜摩天に就任する時に競った顔が幾つかある事を確認して、暗澹たる気分になる。
彼らの中に犯人が居るとしたら、鬼神の長の一人を処罰せねばならない訳だ。
(こちらも中々根が深そうですね……まぁ、一筋縄で行くとも思っていませんでしたが)
くしょん。
どこか可愛らしいくしゃみが、うずたかく積まれた、書と竹簡の間から上がる。
「あーもー、黴臭いし、埃っぽい、どんだけ掃除怠けてるのよ」
後で赤鬼のやろー〆ちゃろか。
自身の勤務態度を天上遥か高くの棚に放り上げ、閻魔は手巾を鼻と口に当てがうように巻きながら毒づいた。
現在用いられている閻魔帳が保管されている場所には、そもそも近寄れる存在が殆どいないが、過去の記録を保管してあるだけの、この場所は話が別。
いつ掃除がされたのかすら怪しいそこは、禁じられなくても誰も立ち入らない空間。
そんな淀んだ空気の中、ぶつくさ言いながらも、彼女は机上から顔を上げずに、閻魔帳の確認作業に没頭していた。
その書を繰り、竹簡を確認していくその速度が尋常な物では無い。
ざっと目を通しているだけだが、必要な情報をその中から的確に見出し、さらさらと何かを傍らの紙に書き付けていく。
彼女が持参した蝋燭の二本目が、そろそろ燃え尽きそうになった頃、次の書を求めて伸ばした右手が空を切って、閻魔はようやく顔を上げた。
不機嫌そうに、処理した書と竹簡の山を睨みつけてから、閻魔は疲れたように伸びをした。
「ま、こんな所かしらね」
そう呟いてから、自身の書き付けた帳面に視線を落とす。
「しっかしまぁ、出るわ出るわ、よくもまぁ、短期間にこんだけやらかしてくれたわね」
獅子身中の虫というが、制度を知悉し、組織深く食い込まれてしまうと、今回のように外部からの警告でも無い限り、やりたい放題となってしまう事はままある。
今回のそれは、その良い実例と言うべきか。
後で夜摩天ちゃんに、監査体制の構築でもお願いしようかしらねー。
とはいえ、それは今回の件が片付いた後の話である、今は取り敢えず、目先の問題を片付けねば。
はぁ、とため息を一つついて、閻魔は抜き書きした手帳に意識を戻した。
「なやましーわね」
(彼の望みは、夜摩天の地位です)
彼女がわざわざお忍びで冥府を訪れ、様々な介入をしたのも、それを察知したが故。
あの人の言葉、そして示された話から見ても、犯人はあいつで間違いは無いだろう……とはいえ、実際に罪に問うには、相応の証拠なりが必要となる。
犯人の名前から逆算して証拠を固めれば良いのだから楽かと思ったが、過去を洗い出すというのは、そう楽な話ではない。
とはいえ、閻魔の中で確信を抱くに足るだけの証拠は揃った。
並の存在なら、これだけの証拠と閻魔の名前で恐れ入らせる事も出来るだろうが、相手があいつでは、それも確実では無い。
もうちょいと周りを固めないと駄目ねぇ。
「あーめんどくさ」
ふぅ。
閻魔は、書庫の扉に手を掛けて、ため息ついでに手燭の明かりを吹き消した。
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